仲町の山車は、同じく明治12年に購入していますが、購入先の資料が残っていないためわかりません。

 では、なぜ「源氏車」ではなかったのか、については、
・経済的な理由
・大八車は作れても源氏車を作れる職人がいなかった
・御神酒所の形に合わせた
 等が考えられます。
佐倉型の車輪について

 平成251月、肴町の山車推定復元図を製作するため(株)宮本卯之助商店のスタッフと共に、残っている肴町の山車構造部材を組み立ててみました。

 最初に車軸、土台を組み、その上に井桁台が載る構造になっていますが、残っている構造材のうち、土台と車軸の構造材だけが太く、材質も違っており、これらは同時期に作られた物ではないと当時考えていました。

 その後、平成283月、佐倉市が所有している上町の帳簿資料を調査した際「明治八年 祭礼並び臨時入費決算帳」の明治13年記載部分で、「関岡長右衞門」より山車購入にあたり「川名部 喜三郎(佐倉の宮大工と思われる)」氏に払った支払い明細が載っており、

その「内譯」に
「出し車真棒但し樫二本」
「力槻車四ツ但し手間金物除く」
と記載された文がありました。

 この記載より、上町が関岡能装束店より購入した山車とは、井桁台より上の部分で、山車の車軸、車輪は佐倉の職人に製作させたことがわかります。

 話が戻りますが、肴町山車調査の際、土台、車軸の構造材だけが太く、材質が違っていたこと、肴町は、上町より1年前に、同じ関岡能装束店より山車を購入していることから、肴町の山車も購入したのは井桁台より上の部分で、土台、車軸と車輪は佐倉で製作されたのではないかと推定されます。

 また、横町の山車も、町名額の形や裏書きより肴町と同時期に同じ関岡能装束店より購入している経緯から、横町の山車も土台、車軸と車輪は佐倉で製作されたのではないかと考えられます。
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仲町「関羽人形山車」車輪部分
横町「石橋人形山車」車輪部分

肴町「竹生島龍神山車」土台部分 上下で太さ、材質が違っている