作札には「奥州奈古曽關之圖 八幡太郎義家公」とあり、義家が陸奥守・鎮守府将軍として後三年の役で奥州平定に向かう際、勿来関(なこそせき・現在のいわき市)付近に差し掛かった時に遠望する様を表しています。

 脇楯(わきだて)を着け小具足(こぐそく、軽武装)姿の出で立ちですが、装飾品に至るまで精巧に作られていて、平安時代後期の上級武士の特徴がよく表現されています。

 作人札には「都梁齋(とりょうさい)仲秀英作」とあり、人形頭収納箱にも「明治七戌八月 義家人形頭 仲 秀英作」と書かれてあることから、三代目 仲 秀英によって制作されたことがわかります。

 また、この頭収納箱裏には「明治七甲戌(きのえいぬ)八月・第三大區(く)五小區・市谷田町壱丁目」とあることから、明治7年に市谷田町1丁目に納められたと思われます。

 上段四方幕三面には、緋羅紗地(ひらしゃじ・赤い下地)に「雲鶴」の刺繍が施され、後面には「彌勒町」の刺繍が施されていることから弥勒町が山車を購入した時に制作されたのではないかと考えられます。
山車    不明
山車制作年 不明
山車購入年 不明


山車人形  八幡太郎義家
人形制作年 明治7年(1874
人形作者  三代目 仲 秀英(なかしゅうえい)
人形購入年 不明
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 現在、弥勒町山車に関する記録は「明治二十八年十月二十四日佐倉練兵場ニ於ケル歩兵第二聯隊招魂祭」の写真だけです。
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 ここには明治28年の新町六町と弥勒町の山車が写っていますが、この写真を拡大してみると弥勒町の山車には、「八幡太朗義家」とは違った山車人形が写っていて、構造も三層せり出し構造の江戸型山車ではないようです。
明治28年 弥勒町山車 拡大図
 山車人形
  山 車

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三味線胴「龍」 上段四方幕「飛龍」
弥勒町(みろくまち) 八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)人形山車
 平安時代後期の武将「源 義家」は、清和源氏(せいわげんじ)の武将「源頼義」の嫡男として生まれ京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と称し、和歌は千載和歌集に撰ばれるほどの歌人であり、又武術では、特に騎射(馬上で矢を射る武術)に優れているなど文武に秀でた理想の武士として崇拝されていました。
 この事から、弥勒町は明治28年10月以降、新たに3層せり出し構造の江戸型山車を購入、もしくは新調したと思われます。

 購入時期については、上段四方幕の幕箱に「明治三十年丁酉拾月新調 幕箱 弥勒町中」と墨書きがあることから「八幡太朗義家」人形も、明治30年に購入したのではないかと推測されます。
「明治二十八年十月二十四日
佐倉練兵場ニ於ケル歩兵第二聯隊招魂祭」
山車人形 三代目 仲 秀英作「八幡太郎義家」