山車人形「日本武尊」は、頭に鏡を戴き、首から勾玉(まがたま)をかけ、腰には草薙剣(くさなぎのつるぎ)を身に付けていて「古事記」や「日本書紀」にでてくる「日本武尊」が東国平定に向かった時の姿を表しています

 人形頭内部には、「戊(つちのえ)嘉永(かえい)三年戌(いぬ)九月」「法橋仲秀英 藤原光信」と木札があり、2代目 仲 秀英によって嘉永3年(1850)に制作されたことがわかり、天下祭で徳川将軍の上覧を許されていた山王祭廿七番 万町・元四日市町・青物町(現在の東京都中央区日本橋一丁目)が所有していたものと言われています。


 しかし、上町に残されている山車は三層せり出し構造の山車で、この構造の山車は安政4(1857)頃より出現することから、山車人形と山車は同時期の物ではないと考えられます。

 佐倉市が所有している上町の帳簿資料「明治八年 祭礼並び臨時入費決算帳」明治13年記載部分に「東京馬食町四丁目 関岡長右衛門 日本武尊出し壱本」との購入記録がのこされていることより明治13年に購入したと思われます。

依代空間内部の人形台をせり出す「おだまき」

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新調した山車 構造材
中段欄間「龍」 囃子台欄間「蒔絵」
 平成26年(2014)に文化庁及び佐倉市補助金、上町自己資金でこれらの失われた山車構造材や車輪を新調しました。
 
山車の三層せり出し構造は、中段幕板をささえる平桁が残っていて下段幕を吊す金物があることより、上段をせり出す構造は、横町の山車と同じで、親柱の外側を櫓行灯(やぐらあんどん)が上下する構造だと思われます。
 人形をせり出す構造も横町と同じで、上段をせり出す時に利用した四隅の親柱とは別に、内向きに溝が入った「コ」の字型の親柱が依代空間の前後2箇所に立ち、親柱の内側をH型の枠が上下する構造だと推定されます。
 中段幕板には岩絵の具で彩色した龍の彫刻が施されており、囃子台欄間には蒔絵(まきえ)が描かれています。

 下段幕は定式幕が付けられていて、囃子台の後幕は緋羅紗地に巴紋の刺繍が施されています。下段勾欄は一文字欄干です。

 三味線胴には白鳥(しらとり)の彫刻があり、「日本武尊」が、東国遠征で、故郷に帰りたいと思い続けて帰ることなく病に倒れ、息を引き取った死後に魂が白鳥(しらとり)になって飛んでいった場面を題材にしているのではないかと考えています。

 上段四方幕は、緋羅紗地(ひらしゃじ・赤い生地)に絵師「狩野探水齋」が下絵を描き、雲龍の刺繍が施されていて、水引幕にも同じく雲龍の刺繍が施されています。
山車    三層せり出し構造の江戸型山車
山車制作年 不明
山車購入年 明治13年(1880)



山車人形  日本武尊
人形制作年 嘉永3年(1850)
人形作者  2代目 仲 秀英(なか しゅうえい)
人形購入年 明治13年(1880

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人形台を動かす「おだまき」は依代空間に設置されていたと推定されます。
 山車人形
  山 車

 上町の山車は、山車下段勾欄、腰幕板、囃子台より上部の漆化粧部材、幕類、山車人形が一式残っていましたが、それ以外の構造材や車輪は昭和40年代に失われてしまいました。
 
山車人形をせり出すH型の人形台
上町(かみちょう) 日本武尊(やまとたける)人形山車
井桁台後方の櫓行灯をせり出す「おだまき」
三味線胴「白鳥」 上段四方幕「雲龍」
上町「日本武尊人形山車」


山車人形 二代目 仲 秀英作「日本武尊」
 いずれも滑車と縄を利用したせり出し構造と思われますが、櫓行灯を動かす「おだまき」は井桁台後部に、
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残っていた上町山車 漆化粧部材及び下段幕類