人々が農耕を始めた頃、神さまは天空にいて高く尖った所(山)を目標に降り立ち、そこに宿ると考えていました。そこに「柱」を立てて目印(依代よりしろ)を付け、天空にいる神さまがここに降り立ち、そこに宿ると思い、祭場を作りました。
 人々は、神さまにお供え物を献上し、そのお供え物をみんなで分け合うことで神さまから「力」をいただきました。
これがお祭りの始まりとされています。

 時代が進み、人々は平地に住むようになるとそこには集落ができました。人々は山ではなく平地にも天空より神さまが降り立ち、そこに宿っていただくために天高くそびえる大木や大石の脇に祭場を作りました。やがてそこに社(やしろ・神殿)を建てて「神のお宿」を作りました

 人々は、春には土地の恵み(豊作祈願)を神々に願い、夏には疫病がはやらないこと(疫病退散)を神々に願い、秋にはその年の実り(五穀豊穣)を神々に感謝するようにお祭りをおこなうようになりました。

 そして、人々が天空にいる神さまが降り立つときの目標としていた「柱」をみんなで引き廻すようになりました。その柱には、必ず先端に「目印」を付けました。この目印を「出し(だし)」と言います。

 初めは小さかった「柱」と「出し(だし)」は天空に近づけば御利益があると考えられるようになり、時代とともに背が高くなっていきます。背が高くなると柱を支えきれなくなり、下に井桁(いげた)を組むようになりました。井桁を組むと今度は担ぐようになり、更に高くなると人間では担げなくなり井桁に車輪を付けて引き廻すように変化していきました。

 また、目印も変化していきまました。はじめは吹抜だったものが万灯に変化します。柱が高くなって人間では支えられなくなってきてからは勾欄に変わり、その後、人形とかわってゆきます。それが現在「山車」と言われるものです。
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