祭礼の歴史
江戸城の城門をくぐる時の状態
依代と上段四方幕が下段部分にしまわれている
依代(人形)をせり出した状態
 新町六町は、明治12年から13年にかけて日本橋方面より山車を買い換えたと言われていますが、現在佐倉に残っている山車はすべて「三層せり出し構造の江戸型山車」です。この三層せり出し構造の江戸型山車とはどんなものなのでしょうか。

 江戸時代、江戸には多くの祭りがありましたが、江戸の総鎮守・神田明神の神田祭と、徳川の産土神・山王権現日枝神社の山王祭は、徳川幕府公認の特別な祭礼として1年おきに交代でおこなわれていました。
それぞれの各氏子町会は江戸城に入城することを許され、時の将軍による上覧を受けたことから「天下祭」「御用祭」と呼ばれていました。
各町会で所有していた山車や屋台は立派なもので、それが何十台も連なって「ねり祭り」をおこないました。

ただし、将軍の上覧を受けるには、江戸城の城門をくぐらなければなりません。
城門扉の高さは約4.4メートルで、ここを通過するには約4メートル以下の高さにする必要がありました。

 はじめは一人で持ち歩ける小さい「柱」と
その頂きに「依代」を付けた山車だったのが時代とともに背が高くなり、そのままでは江戸城の城門をくぐれなくなってしまいました。
そこで、城門をくぐるための「からくり」が必要になってきました。
この「からくり」をもつ山車を江戸型山車と呼びます。
 最初のころは高くそびえる1本の柱の頂きに依代を付け、城門をくぐる時は柱を後ろに倒してくぐりましたが、時代がすすむと柱を二重構造にして伸び縮みするように「からくり」がほどこされました。

 そして幕末の安政四年(1857)に、三層せり出し構造の江戸型山車が考案されました。
 この山車は、最上部の一層目には依代である人形が飾られます。
二層目には豪華な上段四方幕が飾られ、三層目にはお囃子台と下段幕、そして井桁台(せいごだい)という構成でできています。
そして、依代(人形)と上段四方幕がお囃子台裏下段幕部分から「せり出す」ように「からくり」がほどこされています。


三層せり出し構造の江戸型山車
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依代(人形)と上段四方幕をせり出した状態