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石崎川の橋


1.はじめに

まず、多分全く知られていない石崎川とその周囲について説明します。

*帷子川:
横浜市旭区に発し、保土ケ谷区を流れ、西区のみなとみらい21地区と神奈川区のポートサイド地区間で横浜港に注ぎます。

*西区:
横浜で一番面積が小さく人口も少ない区。しかし、横浜駅や「みなとみらい」は西区にあり、繁華街とオフィス街をかかえているので昼間人口は多い(夜も飲み食い中の人を含めたら多いかも、・・・)。そして、わたしが住んでいる区です。

*横浜の海の近くの地形:
海まで丘がのび、丘の間の川によって狭い平地(三角州)が作られ、そして、埋め立てが進んでいます。

※全く知られていない石崎川と書いたんですが、橋を拾っているブログ(kunlun☆blog@fc2)を発見しました。石崎川の橋も2008〜2009年にレポートされていて、現状はその内容で十分わかります。わたしは、過去からの変遷に興味があるので、そちらを探ります。


横浜のどのあたりかを下の略図で示します。見ていただくとわかるように、石崎川は帷子川から分流して合流する変な形態です(バイパスか!多分、水路の意味が大きかったんだと思いますが − いろいろな経緯があってこうなったことが後でわかりました)。細かく言うと、西区の浜松町交差点(国道16号の国道1号への合流点)近くで分流し、横浜駅の東口近くで合流しています(帷子川の左岸にも同じバイパス形態の新田間川があります)。


横浜市西区あたりの地形図−川を主に

概略地形図−川を主に

石崎川にかかる橋(現在)

石崎川に架かる橋

2.石崎川の橋

石崎川にかかる橋をよく使いますが、あっちの橋を渡り、こっちの橋を渡りしていて、どの橋にも似た特徴があることに気付きました。具体的には次の事柄です。

  1. 「なになにはし」の「は」の字に濁点がない(呼ぶときには、「なになにばし」と濁る方が断然多いんですが)。
  2. 大半が昭和3年と4年の竣工である。

理由はある程度想像できました。「は」の部分に濁点がないのはゲン担ぎで、竣工年が昭和3年、4年に集中しているのは、関東大震災の復興事業で一緒に作られたからと考えられます(横浜は関東大震災の被害が大きかった)。ともかく全ての橋の親柱の記載内容を調べることにしました。

*石崎川には9本の橋と1本の人道橋がかかっており、橋の間隔は平均すると100mくらいです。

*関東大震災は、大正12年(1923年)9月1日に発生しました。暦年の補足をすると、大正は15年の12月25日までで、12月26日から昭和元年となります(昭和元年って貴重ですね。なお、昭和は64年の1月7日までですから、昭和64年も貴重です)。

2.1 親柱の記載内容

例
一覧表

*竣工年月が洋数字の場合は横書きです(漢数字は基本的には縦書きですが、まれに横書きもあります−石崎川の橋には例外なし)。

*「竣功」は昔多く使われ、今は「竣工」が多いとのことです。また「竣成」は大規模な建築物に使うとのこと。

*敷島橋は親柱がありません(橋のどこかには情報があると思いますが、確認できませんでした)。

*浜松橋は人道橋で、欄干の中央部に、「昭和45年3月竣工」、「浜松橋」の表示があります。


以下、この表を見て気付いたこと、感じたことを列記します。

上記項目について確認を行い、今後どうするか考えてみました。

○「は」が濁らない点

同様な疑問を持った方がいて、国交省に確認し、川が濁るのはよろしくないからと回答をもらっていました。

→個人的にはこれで納得です、というかこれ以外の理由はないでしょう(ただし、「おおぎだばし」はなぜ濁る?)。

○「竣工時期」

関東大震災後の復興事業で昭和3年、昭和4年に集中的に完成しているのはあきらかですが、それ以前がどうだったかは気になります。

○「橋の名前」

単純に、崎とか島が多くて海っぽいって思ったんです。地域名や人名由来の名前も多いと思いますが、調べてみないとね。

⇒確認のため、いろいろな時点の地図を見てみることにしました(少なくとも、次の大きな変化の時点はみたい)。

*横浜道は、横浜港開港時に当時の海岸線に沿って、横浜港から旧東海道を結んだ道です。概略地形図では描いていませんが、横浜道は、国道16号の内側を石崎川、帷子川、新田間川を横切って、新田間川の北の丘のふもとで旧東海道にぶつかります(下の石崎川の橋の図に、今の横浜道が少し描いてあります)。

2.2 変遷

以下、確認した地図の橋の状況を示し(全19種)、各時点についてコメントします。

「橋の変遷」その1(安政六年〜明治十年)

橋の変遷その1

*1:川の名前が違っている(詳細はコメント参照)。

*2:石崎川がなく地図の間違いか。

「橋の変遷」その2(明治十五年〜明治四十二年)

橋の変遷その2

*3:石崎橋の上流に、石崎川と帷子川を結ぶ水路がある(流路は平戸橋を通る道路のあたり?)。これを信じると、一度そういう流れができて埋め立てられたことになるが、どうだったんだろう?

*4:富士見橋は、石崎川が直接海に注いでいた流れが埋め立てられてなくなった。その正確な時期はわからなかったが、二代目横浜駅が開業した大正4年には、富士見橋を含む周囲も開発されてなくなっていたと思われる。

*5:材木橋とは異なると思われるが、石崎川と櫻川の交差部の櫻川上に道路の記載あり。

「橋の変遷」その3(関東大震災直前)

橋の変遷その3

*6:このあたりの川筋の描写がなく、湿地のように水たまりが連続する描き方となっている。

*7:大正十三年訂正となっているが、震災後1年で大きな訂正ができたとは考えにくく、震災前の情報が中心と思われる(初版は大正二年)。

*8:この2枚の地図は、この位置に橋がある(帷子川側にも別の橋があり−検討内容についてはコメント参照)。

*9:この地図に付記されている橋名は間違っていると思われる。

※大正十二年の関東大震災では多くの情報が失われていますが、特に大正4年の二代目横浜駅完成に向けた(あわせた)明治末ごろからの同駅周辺の変化や、同駅完成後の発展にともなう変化の情報は少なくなっています(関東大震災に近いので発信された情報そのものが少なく、ダメージが大きいのではと推測します)。

「橋の変遷」その4(関東大震災以降)

橋の変遷その4

*10:石崎川の塩田橋はなくなるが、浜松町交差点から線路を渡る陸橋の名前となった(今は帷子川を渡る橋と一体になり全て尾張屋橋)。

*11:最近なくなった(詳細はコメント参照)。この橋を除くと昭和20年代と今が変わっていないことが驚き!

○開港以前/開港直後

□開港以前

□開港直後

とんでもないことになったので、もう少し新しい地図で川の名前を確認してみました。

⇒小さな川は名前がはっきりしてなかったが、明治のある時期には今の名前で確定していたということでしょうか?ウーン、帷子川の河口部は帷子川じゃないのかなあ(広重の東海道五十三次保土ヶ谷宿は帷子川にかかる帷子橋でした → 帷子橋は今井川の合流部の上流だから帷子川なのは当たり前なんですが、帷子川の方が断然メジャーですよね。まあ参照した絵地図の間違いも考えられます)。

○新橋−横浜(現桜木町)間開通後

○明治末ごろ

※警察署ってローカルな名前が多いですね。戸部警察署の戸部だって、「横浜駅相鉄口交番」(横浜駅西口)、「横浜駅東口交番」、「みなとみらい交番」等をかかえているわりには地味です(担当は西区全域)。また中華街に加賀町警察署がありますが、wikiには、「庁舎は横浜中華街の中心に建つ。管内は県警本部を含む多くの官公庁や企業ビルが建ち並ぶオフィス街である一方、横浜スタジアムや中華街、元町商店街などの賑やかな地区、・・・」と説明があります。その加賀町は加賀藩にちなむ名前というんですから、・・・、渋いです。
古い地域名にちなんだ警察署名が継続しているということは、言いかえれば警察署や地域の歴史を尊重していることであり、個人的には好みです(日本全国の石をければあたる共通地名や、新しい地名に比べたら断然いい)。

○「大正(関東大震災直前)」

まず当時の略図を示します。

「大正(関東大震災前)」の略図

大正の略図

※本図は、「横濱市全圖 : 大正調査番地入」の内容を参考にしています。地図の履歴は、「大正2年10月1日印刷、大正2年10月5日發行、大正13年12月1日訂正28版」となっていて、大正13年だと関東大震災後です。しかし、大正13年までにきちんと調査ができたとは思えないので、他の地図も参考にしながら関東大震災前の略図の元として使っています。

□鉄道/道路等の橋以外の変化について

□橋の変化について

ここまでが「橋の変遷」(その2)に該当しますが、「橋の変遷」(その2)の最後の2枚には「浅山橋」の上流にさらに橋が描いてあり、確認のため調べてみました(略図で?をつけた二つの橋です)。

→「横浜復興誌」に震災時に被害を受けた橋がのっており、その中にある商進橋(所在地:裏高島町及平沼町)と高島橋(所在地:高島町及裏高島町)が、住所が該当するので気になりました。

→商進橋なんて、この住所は「浅山橋」の上流の橋の位置ドンピシャです(該当する可能性が強いんじゃないですかね)。

→高島橋も、住所は帷子川の?をつけた橋に該当します(描かれている橋の記号が他の橋と異なる点がちょっと気になります − 今は石崎川の橋の名前ですが)。

○昭和1桁

関東大震災のやや後(「昭和1桁」)の略図です。

「昭和一桁」の略図

昭和一桁の略図

この略図は、以下の4枚の「横浜市三千分一地形図」の内容を参考にしています。

*略図上の青線はその境界に該当します(各図の名称を四隅に記載)。
→ウーン、重要な場所が地図の境界にまたがって、・・・、やりにくい。

*「横浜市三千分一地形図」は、昭和1桁、20年代、30年代と公開されていますが、「三ツ沢」は昭和1桁がないので、昭和20年代の公開内容をもってきました(ただし、内容は昭和1桁である可能性の方が高いと考えています−事情後記)。

以下、個人的な思いのある「高島町の交差点」の状況変化や平沼橋の変化、さらには鉄道の変化についても補足します。

 

□鉄道

私鉄では、復興事業の後に横浜駅付近でかなり変化がありました。私鉄の延伸/整備計画も復興事業と同期をとって検討されたということでしょう。以下JRから順に変化の経緯を補足します。

▽JR(「大正(震災前)」の略図も参照してください)

バイパス線が東海道線になったわけですが、なくなった東海道線の部分がどうなったかというと、

▽私鉄

※「昭和1桁」は、この位の時点の鉄道状況を盛り込んでます。

□道路

まず全体像です。「大正(震災前)」と比較してください(「大正(震災前)」の道路にふった記号を使って説明しています。

▽「大正(震災前)」の道路A部分

▽「大正(震災前)」の道路B部分

▽「大正(震災前)」の道路C部分および神社(平沼水天宮)

▽「大正(震災前)」の道路D部分(横浜道)

「大正(震災前)」道路E部分

□「高島町の交差点」の状況変化

「高島町の交差点」は、横浜駅から南下する国道1号がJR(根岸線)をくぐったところにあり、国道16号の分岐点でもあって、高島橋からの新横浜通りも国道1号と交差しています。以下、今の「高島町の交差点付近」の拡大図(以下「拡大図」)を示して違いを見てみます(この交差点は雑然としていてかつすきま的な空間もあり、一言でいえばまとまりがありません)。

「高島町交差点」の拡大図

高島町交差点の略図

前述の「新横浜通りと国道1号間の微妙にカーブした2本の道」は、旧櫻川の両岸の道路の名残りと見えます(旧左岸らしき方には、さらに石崎川にさかのぼるように見えるゆるやかにカーブした小道−黄色の細い線−もあります。そうなんですかね)。

*「拡大図」の上部に黄色の「旧材木橋につながる道路?」がわずかに見えます(見えるようにしたので、メインの新横浜通りが下に寄りすぎてしまいましたが)。これが、「大正(関東大震災前)」の材木橋につながる道ですかね。

□平沼橋の変化

□石崎川の橋の変化

石崎川の橋も関東大震災で壊滅的な被害を受け、塩田橋よりも下流の全ての橋が被害を受けました(「横浜復興誌」による。前述の塩田橋の上流のもう一つの橋については後記)。復興事業では、町の再生計画の一環として道路の配置が見直され、それにともなって、橋の配置も変わりました。なお復興事業後は、石崎川の橋には塩田橋の名前は残りませんでしたが、浜松町交差点の国道16号が線路をまたぐ陸橋の名前になりました。しかし、今は国道16号が帷子川や線路をまたいで浜松町の交差点につながる全ての橋梁部分が尾張屋橋です)。

*前述のように、現在の浜松橋の位置付近に橋があった可能性があり、あったとしたらこの橋は被害を受けなかったと考えられます(「横浜復興誌」にはこのあたりの橋の被害記録がのっていない)。なお浜松町という地名ができたのは関東大震災後の区画整理の時であり、名前は浜松橋ではないと考えられる。

○今(2013年)

「今」の略図です。石崎川には、冒頭にあげた橋がかかっています。

「今」の略図

今の略図

*主な道路に首都高を書いていないことに気付きました(ということで略します)。


□石崎川の橋の変化

最後にポイントをまとめると、

★関東大震災の復興事業でかけられた昭和1桁の橋は古く、物理的疲労が気になります。
→今、トンネルや水道管などで言われているインフラの疲労の症状が一斉にでてこないでしょうか(ケアはされているんでしょうが、躯体は継続されているんでしょうから)。

★これ以上の調査は手にあまりますが、大きく気になるのは以下の点ですかね。

  1. 横浜道開通時の川の名前(これは衝撃です)
    ・石崎川は稚布川だったんだろうか?
    ・帷子川の海に注ぐ部分は今井川?(帷子川じゃないのかなあ)
  2. 関東大震災直前の石崎川の橋の名前
    ・塩田橋の上流の橋はどういう名前だったのか?(浜松橋ではないと思う。なかった可能性は?)
    ・帷子川合流部の橋の名前 − 商進橋でいいのか?(情報が少ない)
  3. 親柱の表記のきまり(慣習)は?
    *ないのかなあ?感覚的には、何を書くかはある程度決まっているが、配置は自由な感じです。
    *土木関係者には、当然詳しい方がいるんでしょうが。
  4. 関東大震災直前の石崎川の流路(無理やりかなあ?)
    ・帷子川につながる櫻川以外の流路はあったのか?)
    *表高島橋はどんな感じだったんだろうか。

2.3 それぞれの橋

個々の橋について、確認した点を列記します(既に、2.2項で触れた点も含みます)。なお、親柱の照明の意匠が気になったので、意匠(の名残)がある橋については写真もそえます。以下、下流から上流に順に説明していきます(前記した商進橋は書くネタがないのであげていませんが、いの一番に来る橋だった可能性があります)。

*橋の名前の由来等については、横浜市の刊行物である「横浜復興誌」を参考にしました。そのほかに、西区の刊行物である「ヨコハマ西区ふるさと白書」、「ものがたり西区の今昔」も参考にしています。

*「横浜復興誌」は、横浜市が関東大震災の復興事業の記録として発行したものです。ただし、中には大正16年とか17年というような記載もあり、計画段階の内容で記載していると思われるところがあります(前述のように、地図なんかでもいくぶん?の地図もあったりするのですが、現在との比較対象である昔の状況については、「横浜復興誌」をマスター資料にしています)。

○浅山橋

<位置、歴史、名前>

石崎川は横浜駅の東口の少し手前で帷子川に合流しており、浅山橋はその合流地点の手前にかかる橋です。その歴史に関しては、明治五年の新橋−横浜間の線路開通時は浅山橋のあたりは海で、その後の「横浜明細新図」(明治三十八年)では、埋め立てが進み今の浅山橋のあたりに橋ができています。地図に名前は書いてありませんが多分これが浅山橋で、明治の後半には誕生していたと思われます(その後、関東大震災後の復興事業で橋の角度=道路の進入角度が大きく変更されたのは前述のとおり)。なお名前の由来は不明です(関東大震災以前からあった名前なので、「横浜復興誌」には由来はのっていません)。あっともう一点、前にも書いていますが、浅山橋は厳密には櫻川の橋です(商進橋もそうですね)。

<親柱の意匠>

照明の意匠はありません。「横浜復興誌」の「親柱意匠抜粋」には下の親柱の図がのっており、・・・、なくなっています。横浜は、太平洋戦争時の空襲でも大きなダメージを受けており、そういう時に被害を受けている可能性もあります(ひょっとして意匠部分が鉄材だったりしたら供出なんてこともあったんでしょうか)。

浅山橋旧親柱

○(材木橋)

<位置、歴史、名前>

今はない橋です。石崎川は高島橋を過ぎると北に流路を変えますが(櫻川の部分)、2.2項の略図に示したように、その流路を変えた右岸はTEPCOの敷地で、その中を突っ切り石崎川(櫻川)に突き当る道があり、多分そのあたりにあったと思います(まだ高島橋はない)。明治四十二年の「市区改正横浜実測新図」にはなく、大正十一年の陸地測量部の10000分の1の地図にはあることから、二代目横浜駅を現高島町付近に建設する時期に架設された可能性が高いと思います。しかし、その後の関東大震災の復興事業では、この位置に橋は計画されませんでした。名前の由来はこの地域が材木町と呼ばれたことにちなむと思います。材木町の地名は、明治十年の「改正横浜分見地図全」に見ることができます。その材木がどこから来たかというと、木場みたいなそういう町だったとか、素直に材木からなんでしょうね。

*地名の起源に関しては、漢字に引っ張られるなといわれます。それは、大和言葉の名前が最初にあってそれに当て字で漢字があてられた場合、漢字の意味で地名の起源を考えても意味がないということと認識していますが、横浜は新しいので、漢字の意味を認識して地名に使っている場合が多いと思います。

○高島橋

<位置、歴史、名前>

三ツ沢からの新横浜通りの国道1号への合流点の手前にある橋で、「横浜市三千分一」の地図の「西戸部」(昭和8年)にはのってきています。名前はもちろん高島町に由来し、高島町はあのあたりを埋め立てて開発した高島嘉右衛門にちなみます。

<親柱の意匠>

照明の意匠があります。

高島橋全景
高島橋照明

「横浜復興誌」の「親柱意匠抜粋」には次の親柱のイメージ図がのっていました。比較すると途中で変更されたように見えます。

高島橋旧親柱

○(富士見橋)

<位置、歴史、名前>

今はない橋です。石崎川の河口部では、明治5年の鉄道開通時には線路が海岸線の横に敷設され、石崎川もまっすぐに東に延伸されて線路をくぐって海に注ぐようになりました。その時に、石崎川河口部にかけられた橋です。鉄道開通と橋の架設の時間的な前後関係はわかりませんが、明治十年の「改正横浜分見地図全」ではすでに橋を見ることができます。大正十一年の陸地測量部の10000分の1の地図では、石崎川は高島町の交差点付近で北に曲がって帷子川に注ぎ、東に向かい海に注ぐ部分はなくなっていますので、二代目横浜駅建設時の地域の整備過程で川が埋め立てられて橋がなくなった可能性が高いと思われます。名前の由来は、文字通り富士山がよく見えるでしょうね。この位置なら石崎川の上流方向によく見えたと思います(なおこれ以上南にいくと、御所山や掃部山や野毛山等の横浜中部の丘が視線にかかってきそうです)。

○(表高島橋)

<位置、歴史、名前>

今はない橋です。面白かったので、疑問を感じながらもラインアップに入れてみました。関東大震災の直前の状況を示す、大正十二年の「最近調査番地入横浜新地図」や大正十三年の「大正調査番地入横浜市全図」では、帷子川の万里橋と築地橋の間に南へ伸びる水路が見え、その水路にかかっています。その水路はかっての富士見橋の方向に向かって細くなって途中で切れており(鉄道の引き込み線のような感じ)、したがって地図を信じるなら石崎川の橋ではないんですが(一部の地図にはのってすらいない)、石崎川とつながっていないかなと思わせる切れ方なんですね。名前は、表高島町という地名からきていると思います。

○敷島橋

<位置、歴史、名前>

この橋は、今の「横浜道」にかかる橋です。開港当初は、「横浜道」にかかる橋の名前は「石崎橋」だったんですが、「石崎橋」は今は「敷島橋」の上流にあります(この事情は2.2項で書きましたが、次の「石崎橋」の説明にも再度書きました)。「横浜市三千分一」の地図の「西戸部」(昭和8年)にのってきていますので、関東大震災後の復興事業でうまれた橋です。名前の由来は、櫻川にかかるので桜にちなみ本居宣長の和歌から採用されたとなっています(ウーン、この場所は石崎川じゃないのかな。まあすぐ近くではありますが)。

*本居宣長の和歌:「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」

○石崎橋

<位置、歴史、名前>

橋の名前は、「横浜道」が開通したときからずっと引き継がれています。しかし前掲のガイドによると、二代目の横浜駅ができたときに「横浜道」を若干上流に移したので「石崎橋」も若干上流にずれ、その後横浜駅が現在の位置に移って「横浜道」を当初の位置に戻した時は、「石崎橋」の名はそのままの位置に残したということです(そして戻した横浜道に架設した橋の名前は敷島橋とした)。したがって、今の位置の「石崎橋」は、関東大震災の少し前からということになります。名前の由来は、地域名の石崎でしょうね。その石崎がどこからきたかですが、すでに安政六年の「御開港横浜之全図」に「戸部石サキ」とあり、しかも岩場の海岸が描いてあるので、そんなところからじゃないでしょうか。

<親柱の意匠>

照明の意匠はありません。「横浜復興誌」の「親柱意匠抜粋」には、次の親柱のイメージ図がのっており、なくなったようです。

石崎橋旧親柱

○梅香崎橋

<位置、歴史、名前>

戸部警察署の横の橋です。「横浜市三千分一」の地図の「西戸部」(昭和8年)にはのってきていますので、関東大震災後の復興事業で新たに計画された橋ということになります。また名前の由来は、紅梅町と石崎町につながる街路にかかる橋ということで一文字ずつをとって命名されたとのことです(紅梅町は、石崎町の隣にあった町名です)。なお、照明の意匠はありません(最初の時点であったかは不明です)。

○平戸橋

<位置、歴史、名前>

京急の鉄橋のすぐ上流にある橋です。すでに明治四十二年の「市区改正横浜実測新図」にはのってきてますから、このあたりが開けてくるのに伴い架設されたと思われます。名前の由来は、平沼と戸部を結ぶのでとなっています。

<親柱の意匠>

照明の意匠がありますが、かなり荒れ果てています。

平戸橋橋全景
平戸橋照明

○西平沼橋

<位置、歴史、名前>

この橋は、横浜駅からの根岸道路や、旧東海道からの基幹道路の陸橋(平沼一之橋)に通じています。関東大震災後の復興事業で計画された橋で、「横浜市三千分一」の地図の「西戸部」(昭和8年)からのってきています。名前の由来は西平沼町の橋からです。なお、平沼の由来は、この地域を平沼さんが埋め立てて開発したからです。

<親柱の意匠>


照明の意匠があります。

西平沼橋全景
西平沼橋照明

下は、「横浜復興誌」の「親柱意匠抜粋」にのっている親柱のイメージ図です。

西平沼橋親柱

○(旧扇田橋)

<位置、歴史、名前>

まず、なぜ旧扇田橋として現扇田橋と別項を立てたかというと、今の扇田橋とかなり位置が違うんです。旧扇田橋は関東大震災の直前に西平沼橋と今の扇田橋の真ん中位に架設されました(大正十一年の陸地測量部の10000分の一の地図から出てきています)。関東大震災後は、西平沼橋ができたことと、大きく横に広がる企業の敷地が設けられて北に向かう道路がなくなったことから、この位置には橋が架設されずなくなったと思われます(「横浜三千分一」の「西戸部」(昭和8年)にはない)。名前の由来は、地域名である扇田でしょうね。扇田という地名の由来はわかりませんが、文字通り田んぼの形状なんていうこともあるかもしれません。

○扇田橋

<位置、歴史、名前>

この橋の位置は、次にでてくる塩田橋の位置とかなりかぶるように見えます。つまり、従来の塩田橋の位置に新しい橋が計画され、名前は扇田橋の方が採用されたようです。関東大震災後の復興事業で計画された橋で、「横浜市三千分一」の地図の「西戸部」(昭和8年)からのってきています。照明の意匠はなく、最初の時点であったかも不明です。

<その他>

この橋にはいくつかプチ疑問点があります。


扇田橋全景

○(塩田橋)

<位置、歴史、名前>

今はない橋です。位置に関しては、「扇田橋」の項に書いたように今の「扇田橋」のあたりだったと思われます。旧扇田橋同様に関東大震災の直前に誕生し(大正十一年の陸地測量部の10000分の一の地図では出てきています)、関東大震災後になくなりました(「横浜三千分一」の「西戸部」(昭和8年)にはない)。名前は、地域名である塩田にちなんでだと思います。その塩田の起源となると、文字通り塩田(えんでん)でしょうか。絵地図等には塩を作る塩田も描いてありました。

*地名の塩田ですが、鹽田と書いてあります。ウーン、こんな字なんですね、元は。

○要橋

<位置、歴史、名前>

「扇田橋」のすぐ上流にあります。ウーン、線路の北側にかっては古河電工(の入口)があったので物流量が多かったんだろうか。関東大震災後の復興事業で計画された橋で、「横浜市三千分一」の地図の「西戸部」(昭和8年)からのってきています。名前の由来は、橋がある扇田の扇からきた、となっています(確かに扇の要と言いますが、・・・、今の感覚から行くと少しなんだかなーですね)。照明の意匠はなく、最初の時点であったかも不明です。

<その他>

この橋の親柱には「昭和36年9月竣成」とあり、昭和36年にかけなおされていることになります(つまり、今見ている橋は関東大震災後の復興事業で計画された橋ではない)。その理由は、前に書いたように復興事業の時は木橋だったので、早めにかけなおされたということでしょう。

要橋全景

○浜松橋

<位置、歴史、名前>

今かかっている最も上流の橋です(人道橋)。大正十二年の「最近調査番地入横浜新地図」から同じ場所に橋は見えますが名前がなく、「浜松橋」の名前が最初に見えるのは「横浜市三千分一」の地図の「西戸部」(昭和8年)です。橋の名前は浜松町にちなみますが、その浜松という地域名が震災後にあらたに作られたものなので、関東大震災前は「浜松橋」ではないと思われます(なお、浜松町という名前は磯馴松*からとなっています)。渡ってすぐに線路で、その向こうは古川電工の敷地なので踏切もなく、最初から人道橋的だった可能性もあります。

<その他>

この橋の欄干には「昭和45年3月竣工」と貼ってあるので、要橋同様にかけなおされていることになります。その理由も、要橋と同じ理由だと思われます。

*磯馴松(そなれまつ):「潮風のために傾いて生えている松」って、知りませんって!はじめて聞いた言葉です。敷島橋もそうですが、今となるとなじみが少ない文学的素養って感じです。

○(藻汐橋)

<位置、歴史、名前>

今はない橋で、帷子川からの分流部にかかっていました。関東大震災後の復興事業で計画された橋で、「横浜市三千分一」の地図の「西戸部」(昭和8年)からのってきており、つい最近なくなりました。名前の由来は「藻塩」です(後記)。塩田(えんでん)もあるし、塩系ということで納得はできます(「藻汐」と「藻塩」ではまったのでその経緯も下に書きます)。

*「藻汐」っていったら、海草に海水をひたして焼くと塩ができるというあれでしょとネットの辞書で引いたら、該当なしとでました。ガーン!焦ってググルと今度は椿の花が出てきます。なんだ、なんだ、「ツバキ 藻汐」って、・・・、椿の種類ということなのか!種類なら種類と書いてくれ、そうすりゃすぐに違うと判断できたのに、・・・、わかるまで時間がかかったぞ!
泡を食ってさらに見ていくと、今度は「蝦夷方言藻汐草」と出てきてどうも本のようです。その下には単なる「藻汐草」もでてくるし、もう分けがわからんというようにはまってしまいました。
心を入れ替えて、図書館で調べて見えてきました(まあ、わたしも「藻塩」で引いてみたらと気づきだしてはいたのですが、・・・)。「藻塩」が普通で「藻汐」もあるということですか。となると、該当なしはねーんじゃねーの、「藻塩」にとびますとか「藻塩」でいーかとか、・・・、それではまっちゃったぞ、ネットの辞書くん。

*「藻汐橋」の藻汐は、藤原定家の「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ」の藻塩からとった、ということのようです(引っ張ってきたネットの和歌は藻塩ですね。まあ、それくらいどっちでもいい、ということのようです)。前にも書きましたが、こういうところから名前をとってくる感覚というのは、今はないですね。わたしも、藤原定家の名前くらいは知ってますが、和歌となると降参です。

*藻塩は海草から採る塩で、海草に海水をかけて干し、焼いて水に溶かし、煮詰めて塩を精製するとなってます。ただ、そう言われているけど、かなり古い時期から焼くのはなしで海草にかけた海水を直接煮詰める、という説もあるようです。

*藻塩草:もちろん塩をとる海草でもあるんですが、転じて随筆やそういったものを集めた本をさし、引いては辞書的なもので藻塩草という名のものもある、という状況のようです。


この一連の注に書いたことは、うろ覚えの「藻塩」を除くと全く知識がなく、思いっきりはまりました。特に椿の花の写真攻撃にはまいった。