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復興45橋


1.はじめに

近所の石崎川の橋を調べていたら、「はまれぽ」のサイトに「復興45橋」の一覧がアップされた。「復興45橋」とは、関東大震災の復興事業で架設されて今も残っている橋のことで、石崎川の橋に引き続き「復興45橋」について親柱の照明の意匠を調べてみることにしました(石崎川の橋もいくつかは「復興45橋」)。

*アップされた内容は紙のリストを撮影した画像で、・・・、内容が鮮明でない。解読が大変だったのですが、関東大震災の被害状況や復興事業について横浜市がまとめた「横浜復興誌」で復興橋の一覧を入手できたので(「横浜復興誌」には178の復興橋があがっています)、それと突き合わせて「復興45橋」全てをあきらかにしました(と思います)。なお、石崎川の橋は7橋が「復興45橋」に含まれています。川の規模から考えるとあきらかに多く、・・・、つまりあまり変化がない町ということで、・・・、なんだかなあ。(空は曇っています)

*「横浜復興誌」は、横浜市が関東大震災の復興事業の記録として昭和7年3月に発行したものです。ただし、中には大正16年とか17年というような記載もあって、計画段階の資料をそのままのせたとわかるところもあります(記録の集成という意味では、それでいいんでしょうね)。


2.「復興45橋」一覧

以下は、復興45橋の一覧です。

復興45橋一覧1

復興45橋一覧1

復興45橋一覧2

復興45橋一覧2

*「横浜復興誌」には、一部の橋の分しか親柱のデザイン画がのっていないので(抜粋)、全ての橋の比較確認はできません(元々ないのか、抜粋時に抜けたのかの区別ができない)。

個々の橋の説明は次の3項に書きますが、以下に「復興45橋」に関係する川の概略図(「河川図A」)を示し、その下に表と図を眺めての全体的なコメントをつけます。


「復興45橋」に関係する川の概略図

河川図A

拙い図ですが、位置の特定の参考になる鉄道(JR、京急)および道路(国道1号、15号、16号)を描きこんでみました(高速道路は川や国道とかぶるので省略。相鉄も16号やJRとかぶるので省略)。



<大まかな感想>

※旧千代崎川およびその橋について

3.それぞれの橋

以下、今も親柱に照明の意匠が残っている橋について説明します。

<石崎川系>

※「帷子川」の支流です。「石崎川の橋」の項にいろいろ書きましたのでそちらを参照してください。以下、書き足りなかったことをちょっと追加します。

□高島橋

現在の親柱の意匠はオリジナルのデザイン画とは細かい点で違い、改修されたものと考えます(状態もオリジナルのままとすると良すぎるようです)。

□平戸橋

オリジナルのデザイン画はないのですが、荒れはてた照明の意匠の名残が残っており、オリジナルが傷んだまま放置されたと考えます(どの橋もそうですが、手が全く加わっていないことは考えられず、平戸橋も照明意匠のフレームのペンキは塗りなおされています)。

□西平沼橋

親柱の外観が非常に古く、またオリジナルのデザイン画との相違もなく、親柱の照明の意匠はオリジナルのままと感じさせる橋です。

<入江川系>

■入江川について

横浜市河川管理課の「入江川」の説明文をひきます。

「鶴見区東寺尾付近を源として西に流れ、神奈川区西寺尾付近でJR横浜線と平行して南に流れを変え、大口商店街横を通って神奈川区子安通りで6派川の運河に分かれ、横浜港に注いでいます。」

*横浜港に注いでいる流路には、たとえば神奈川区子安通り(新子安駅の近く)から海岸線に沿って北東→南西方向に続いている流路があります(「東神奈川駅」の先あたりで海と一体化する)。海岸線に沿っている流路なんでもう川ではなく運河ですね。

*「帷子川」や「大岡川」という旧横浜の大きな川とは関係ない独立した川です(横浜市で最も大きな川は「鶴見川」ですが、「鶴見川」が流れる「鶴見区」は関東大震災後の昭和2年に横浜市に編入されていて、「横浜復興誌」には登場しません)。


□宮前橋

○今の橋と「横浜復興誌」の親柱イメージ図

宮前橋全景
宮前橋照明 宮前橋旧親柱

○親柱はオリジナルか?


<大岡川系>

■大岡川について

ウィキペディアの説明文をひきます。

「神奈川県横浜市磯子区氷取沢町に源を発し北へ流れる。港南区港南中央通付近で港南区南部を流れる日野川を合わせ、名称を笹下川から大岡川へと変える。南区を北東に流れ、中区桜木町と中区本町の境界から横浜港に注ぐ。流路延長:約12kmのうち、河川法に基づく二級河川指定部分は約8.5kmである。」

*「大岡川」が出てきたので横浜の中心部の地形を説明すると、北部丘陵地帯(横浜駅の北の丘で、おおざっぱに言えばそのまま多摩丘陵につながります)、中部の丘(桜木町の裏の紅葉が丘あたりから野毛山や久保山へと続く丘)、南部丘陵地帯(山手から西へ続く丘)によって分かれていて、北部と中部の間を「帷子川」(の水系)が、南部と中部の間を「大岡川」(の水系)が流れています。


□都橋

○今の橋

都橋全景 都橋照明

○親柱はオリジナルか?


□宮川橋

○今の橋と「横浜復興誌」の親柱イメージ図

宮川橋全景
宮川橋照明 宮川橋旧親柱

○親柱はオリジナルか?


□長者橋

○今の橋

長者橋全景 長者橋照明

○親柱はオリジナルか?


□太田橋

○今の橋

太田橋全景 太田橋照明

○親柱はオリジナルか?

○その他

*ウィキペディアには「復興局は、関東大震災の復興事業を推進した内務省の外局。帝都復興院廃止後にその事業を継承した。」とあります。またその歴史として、「関東大震災後、9月27日に政府機関である帝都復興院が設置された。1924年(大正13年)2月25日に帝都復興院は廃止され、その後継組織として内務省の外局である復興局が設置された。担当事業は、東京と横浜における都市計画と都市計画事業の執行、市街地建築物法の施行、都市計画上の建築改善に関する事務であった。復興局は1930年(昭和5年)4月1日に廃止され、その後継として同日付で復興事務局が設置された。復興事務局は1932年(昭和7年)4月1日に廃止された。」とあります。

□蒔田橋

○今の橋と「横浜復興誌」の親柱イメージ図

蒔田橋全景
蒔田橋照明 蒔田橋旧親柱

○親柱はオリジナルか?

○その他


<帷子川系>

■帷子川について

ウィキペディアの説明文をひきます。

「神奈川県横浜市旭区若葉台近辺の湧水に源を発し、横浜市保土ケ谷区を南東に流れ、横浜市西区のみなとみらい21地区と横浜市神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ。」


□万里橋

○今の橋と「横浜復興誌」の親柱イメージ図

万里橋全景
万里橋照明 万里橋旧親柱

○親柱はオリジナルか?

○その他


<中村川系>

■中村川について

ウィキペディアの説明文をひきます。

「神奈川県横浜市を流れる大岡川水系の河川。二級河川。」とあります。

*「中村川」は、かって横浜の中部の丘と南部丘陵地帯の間に入り込んでいた海を埋め立てたときに、「大岡川」から分流させて南部丘陵の北に設けられた流路です(今の分流地点あたりで海に注いでいた「大岡川」も、埋立地の北側を延伸されて今の流路になりました−「大岡川」の項で書いた横浜中心部の地形の説明を参照いただきたく)。


□吉野橋

○今の橋

吉野橋全景 吉野橋照明

○親柱はオリジナルか?


<堀川系>

■堀川について

ちょっとややこしいのですが、かって中村川と大岡川を結んでいた「派大岡川」という川があり、中村川の「派大岡川」との接続点(分流、合流?)よりも下流の部分が「堀川」です。前掲の図では、概略根岸線の部分がかって「派大岡川」があった場所に該当し(正しくは、図にはない根岸線の横の高速道路が該当)、石川町の駅のやや下流にその接続点があります。


□谷戸橋

○今の橋と「横浜復興誌」の親柱イメージ図

谷戸橋全景
谷戸橋照明 谷戸橋旧親柱

○親柱はオリジナルか?

□西ノ橋

○今の橋

西ノ橋全景 西ノ橋照明

○親柱はオリジナルか?

<掘割川系>

■掘割川について

ウィキペディアの説明文をひきます。

「堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市を流れ根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川。大岡川の分流である。明治時代に作られた人工河川」、「1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、・・・、1874年に完成した。」


□八幡橋

○今の橋と「横浜復興誌」の親柱イメージ図

八幡橋全景
八幡橋照明 八幡橋旧親柱

○親柱はオリジナルか?

□天神橋

今の橋には照明の意匠がないのですが、ちょっと不思議な点があるので書いておきます。

○コメント

<陸橋>

□打越橋

○今の橋

打越橋全景 打越照明

○親柱はオリジナルか?

○その他