「折々の横浜観察録」トップページへ

復興橋


1.はじめに

「復興橋」は関東大震災の復興事業で架設された橋で、横浜市が昭和7年に発行した「横浜復興誌」には178の復興橋がのっています。既にない橋や架けかえられた橋も多く(別項で書いた「復興45橋」が今も当初に近い形で残っている橋ということになります)、ここでは、「石崎川の橋」や「復興45橋」を除く橋について、その状況を確認してみます。なお、以下のように話を進めていきます。

※以下の確認では、横浜市がネットで公開している「三千分一地形図」(本文中では、「1:3000地形図」とも書いてます)を大いに参考にしています。ちょっとその地図の説明を(民間の略図も含め使えるものは何でも使ってますが、中心はこれです)。

「横浜市三千分一地形図」

横浜市が、旧都市計画法の成立を契機に都市計画策定の基礎資料として作成したもので、1921(大正10)年から詳細地形図測量に着手。ただその作業は1923(大正12)年の関東大震災や太平洋戦争の影響を受けており、基本的に昭和1桁、昭和20年代、昭和30年代の3世代の情報が残っていますが、抜けがあって2世代分しかない場所もあります。

2.川の歴史

まず次の図を見てください。

「河川図」

河川図

この図では見にくい部分もあるので、拡大図も併用しながら個々の川についてコメントしていきます。ということで、まず説明をはじめる「派新田間川」に関係する「北側拡大図」も示します。


「北側拡大図」

北側拡大図

*「派xx川」の「派」について
最初の「派新田間川」がそうですが、「派xx川」という川があります。「派生」の派とかある程度想像はできますが、ネットで意味を確認してみました。
「水の支流、分流する、分かれた集団、一部を分けて遣わす」とあります。そーか、「さんずい」ですもんね、本家本元の使い方なんですね(なお、中国の古い辞書の〔説文解字〕の巻十一には、「別れたる水なり」とあるそうです)。


□「派新田間川」(「横浜復興誌」では「新田間川派川」)

○流路

○補足説明

表にまとめると次のようになる。

<流路の変遷>
変化時期「新田間川」「派新田間川」「帷子川分水路」

明治末/大正 *1
「新田間橋」付近まで
明治末/大正 *1現「新田間川」
+C+B *2
@+A *3
昭和30年過ぎ *4現「新田間川」@+A+B *5
平成9年 *6現「新田間川」A(+α)+B

*1:横浜開港時に横浜港から旧東海道をつないだ「横浜道」は3本の川を横切っており、それぞれに「石崎橋」(「石崎川」)、「平沼橋」(「帷子川」)、「新田間橋」(「新田間川」)がかけられた。「派新田間川」の成立は、以下にあげる内容から、明治41年を下限、大正11年を上限とする時期と考えられる。

*2:内海の埋め立てで、CとBが成立したと考えられる。なお東海道線の神奈川駅−程ヶ谷駅間の短絡線が明治31年に完成しており、内海の埋め立ては短絡線がある南側の地域で先行したと考えられる。
また短絡線は今の東海道線とほぼ同じルートのまっすぐな線で、その後東海道線は旧東横線高島町駅付近に設置された2代目横浜駅を通る南下して西行するルートに変わり、関東大震災後に今の位置に3代目横浜駅が設置されて今の東海道線のルートになる−ややこしや!

*3:埋め立ての進行につれて、@、Aと逐次成立していった可能性があるが、時間関係の詳細はわからず。

*4:「横浜経済地図」では、昭和31年度版にはCがあるが、昭和35年版ではCはなくなっている。

*5:Cがなくなったことにより、Bも「派新田間川」ということになった。

*6:平成9年は「帷子川分水路」の開通年で、工事完了はもっと早い。@部の埋め立ては、「帷子川分水路建設工事記念誌」によると昭和58年に工事が始まっている(工事完了年は確認できなかったが、工事内容から期間は短いと思われる)。なお、横浜市の小河川は暗渠化されることが多いが、「横浜経済地図」の昭和49年度版(多分製作された同地図のlatest)ではまだ開渠である。

※それにしても、2代目横浜駅の成立前後の状況がわかりにくい。初代横浜駅が1915年に移転して開業し、1928年に現在の場所に再移転して廃止と所在期間が短かいんで、最初からデータ量が少ないんですね。


□「埋立地掘割川」

○流路

○補足説明

□「派大岡川」(「横浜復興誌」では「大岡川」)

○流路

○補足説明

「大岡川」関連では、「横浜復興誌」にのっている「復興橋」で川の名前が「大岡川支流」となっている橋がありますので、それらの川と橋を確認しておきます。

旧千保橋?

□「櫻川」

○流路

○補足説明


※余談です。
下の写真は、「石崎川」と「帷子川」の合流点です。つまり、旧「櫻川」と「帷子川」の合流点ということになりますが、こんな場所が「横浜駅」のすぐ近くに何箇所もあります(向こうのビルが「高島屋」と「ジョイナス」です)。・・・、町づくりはやりにくいだろうなあ。

合流点

□「新富士見川」

○流路

「南側拡大図」

南側拡大図

○補足説明

※「迅速図」とは
「日本において明治時代初期から中期にかけて作成された簡易地図」となってます。戦前は旧「陸軍」が地図を管理していたんですが、その管理体制が立ち上がる前に、緊急で作成した地図ということですね。


□「新吉田川」

○流路

○補足説明

□「吉田川」

○流路

○補足説明

□「禅馬川」

○流路

□「滝の川」

○流路

○補足説明

滝の川の合流点

□「千代崎川」

○流路

○補足説明

蓋の文様
道路の段差

□「日之出川」

○流路

3.橋について

まず一覧表を示し、次に個々の橋の説明に移ります。橋の量が多いので、一覧表ではコメントを付けた橋だけを単独の行とし(若干例外あり)、その他の橋は名前だけを横に並べています。なお、並べる順番は河口側からです。

<復興橋の表>

復興橋の表

*名前の後ろに*のついた橋は、「現存しない橋」あるいは「外からは現存するとわからない橋」です。したがって、暗渠化された「千代崎川」の「復興45橋」(関東大震災の復興計画で架設され現在も残っている橋)は外からはわからないので*をつけ、一方「派大岡川」の「港橋」は橋の躯体が残っているようにみえるので*をつけないというような恣意的なマーキングになっています(また、記念保存等で橋の一部が別の場所に残っている場合は*付き)。



それでは、個々の橋のコメントです(橋の後ろのカッコ書きの川名は「横浜復興誌」の内容を基本としていますが、同誌があまり「派」をつけていないのでそこは補っています)。


□金港橋(新田間川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現金港橋親柱 旧金港橋親柱イメージ図

□月見橋(新田間川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現月見橋親柱 旧月見橋親柱イメージ図

□内海橋(新田間川)

○コメント

□星野橋(入江川)

○コメント

□入江橋(入江川)

○コメント

□萬代橋(埋立地掘割川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現万代橋親柱 旧萬代橋親柱イメージ図

□清水橋(大岡川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現清水橋親柱 旧清水橋親柱イメージ図

□港橋(派大岡川)

○欄干部の紋章

港橋に残る紋章

○コメント

□亀ノ橋(中村川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現亀の橋親柱 旧龜之橋親柱イメージ図

□翁橋(中村川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現翁橋親柱 旧翁橋親柱イメージ図

□車橋(中村川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現車橋親柱 旧車橋親柱イメージ図

□三吉橋(中村川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現三吉橋親柱 旧三吉橋親柱イメージ図

□道場橋(中村川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現道場橋親柱 旧道場橋親柱イメージ図

□久良岐橋(中村川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現久良岐橋親柱 旧久良岐橋親柱イメージ図

□睦橋(中村川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現睦橋親柱 旧睦橋親柱イメージ図

□共進橋(中村川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現共進橋親柱 旧共進橋親柱イメージ図

□前田橋(堀川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現前田橋親柱 旧前田橋親柱イメージ図

□根岸橋(掘割川)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現根岸橋親柱 旧根岸橋親柱イメージ図

最後に、川の説明ができなかった橋等です。



□島口橋(今はない橋)

○コメント

□安藤橋(今はない橋)

○コメント

□芦名橋(今はない橋)

○コメント

□霞橋(陸橋)

○現親柱と「横浜復興誌」内の親柱イメージ図

現霞橋親柱 旧霞橋親柱イメージ図

□鹽田陸橋&鹽田橋(橋の名前が残っていない)

○コメント