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横浜道が横切る川
1.はじめに
古い横浜の地図を見ていると「横浜道」が横切る川の名前が今と違うので、そこを調べてみました。
*「横浜道」は1859年の横浜開港時に造られた道で、横浜港と旧東海道を結びます{旧東海道の旧芝生村で接続(今の西区浅間町の浅間神社の下あたり)=横浜駅の西1Km位の丘のふもと)。その「横浜道」が横切る川は、旧東海道の方から順に新田間川(新田間橋)/帷子川(平沼橋)/石崎川(石崎橋)・・・と続きます。
2.まずは今の地図を
まずは今の地図です。
−今の地図−
<ポイント>
- 石崎川と新田間川は、帷子川から分かれてまた帷子川にもどります(人工的ですね)。
- 保土ヶ谷駅の少し下流の天王町付近で今井川が帷子川に合流しています。
*名前をあげた三つの川は全て帷子川系で、港に近い大岡川系にも「派大岡川」を渡る吉田橋と大岡川を渡る野毛橋(現都橋)が1859年に架けられています。しかし、川名が気になっているのは帷子川系の三つの川です。なお、「派大岡川」は今はなく高速道路になっています(高速道路の上には吉田橋が復元されています)。
*横浜開港時は、紅葉が丘(桜木町駅の北西の丘で、青少年センターのある丘です=神奈川の方なら学生時代にたいてい行く機会があるようです)は海に突き出す岬で、下を通る陸路はありません。したがって、「横浜道」は港から内陸側に少し戻って、野毛坂を登って野毛山を越えていきます(紅葉が丘も迂回して裏を行くことになります)。
3.「横浜市史稿」を確認しておくと
「横浜市史稿」(昭和7年発行)で各河川を確認してみました(書かれている内容を箇条書きします)。
□石崎川の項
- 天保十年(1839年頃)、平沼新田の開発の際できた川筋(埋め立ての際は、水はけの改良のために適宜水路−川など−が設けられます)。
- 以前は水源がなかった。
- 大正十二年帷子川へ接続させた。
□帷子川の項
- 『都筑郡から発して・・・岩間町で今井川を合し・・・高島町から海に入る川である。埋立の成らなかった以前は、・・・、今の浅間町で海に注いだ・・・』とあります。
- また、その後に以下の「新編武蔵風土記稿」(1828年完)の内容を引用しています。
−『帷子町芝生に至りて海に沃げり』
−『又別に今井川と呼もの一筋あり、・・・、帷子町にて帷子川となれり、』
□新田間川の項
- 明和年間(明和元年は1764年頃)の「藤江新田」開墾時に生じた堀。
- 大正二年に川名が名付けられた。
- 大正二年の時点ではまだ川の水源はなかったが、大正十二年帷子川へ水流を接続させた。
新田開発のことが出てきたので、この地域の新田名を示します。
−新田地図−
- 「横浜西区史」にあった新田名の書き込みのある地図(わかりやすいように今の川筋を青く塗った)。
4.江戸/明治/大正の古地図をあたってみました
古地図ではどうなっているのか確認してみました(江戸、明治、大正の三時代の状況を一括して並べています)。細かいのでコメントは別表で示します。
<江戸(調査した地図−3枚)>
□石崎川
- 2枚の川名は「稚布(わかめ)川」。
*残る1枚(「江戸3」)は川名そのものがない。
- 「江戸1」には上流部が描かれていて、中部丘陵に向かい途中で消えている。
*横浜の中心部には三つの丘があり、北の北部丘陵(横浜駅の少し北位と思っていただければ。東海道線と平行ですね)、平沼辺りの埋立地(帷子川が流れる)、野毛山付近からの中部丘陵、関内辺りの埋立地(北に大岡川が、南に中村川が流れる)、山手の南部丘陵と並びます(東京もそうですが海沿いのところはこういう台地と入り海の繰り返しの形が多いですね)。
□帷子川
- 2枚の川名は今井川。
*残る1枚(「江戸3」)は川名そのものがない。
- 「江戸1/2」では、「程ヶ谷」の手前(横浜より)で二本の川が合流しており、合流前の帷子川に橋(帷子橋)が見える。
*ところで、「程ヶ谷」が保土ヶ谷の古い形かと思ったのですが、保土ヶ谷も古いようです。ここでは、広重の「五十三次」が「程ヶ谷」だったのでこうしておきます。
□新田間川
※地図ではないが、「五雲亭貞秀(橋本玉蘭斎)」の名所絵「加奈川横浜二十八景の内」(1860年)に三つの橋が取り上げられていて、その絵の説明書きには、
- 新田間橋
『此橋下川芝生川ト云』とあります。
*芝生はこのあたりの地名
- 本沼橋(平沼橋の誤りと思われる)
『此橋の下流今井川と云』とあります。
- 石崎橋
『此石崎橋の川を稚布川ト云』とあります。
<明治(調査した地図−6枚)>
□石崎川
- 川の名前がある地図は1枚だけで「石崎川筋」という名前がある(地図明治6=明治41年。なお、地図明治1には石崎川そのものが描かれていない−ミスか?)。
□帷子川
- 2枚に川の名前があり(地図明治4=明治16年。地図明5=明治38年)、いずれも帷子川。
- 地図明治3は以下に示す明治15年の陸地測量部の地形図(1:20000迅速図)を流用した地図で、帷子川と今井川の合流点は今と近い(ピンクの丸)。
*石崎川が帷子川につながっているようにも見えるんですが(青丸)、確認内容は後で。
−陸地測量部の地形図−
□新田間川
- 川に名前がある地図は1枚だけで(地図明明治=明治38年)、「入掘」となっている。
<大正(調査した地図−2枚)>
現在に近い状態と推測され、確認のために2枚にあたった。
- 地図大正1(大正八年)に川の名前がのっていて、石嵜川、帷子川、新田間川と今と同じ名前となっている。
*石嵜川は正確には「石嵜」のみで、川の文字が他の名前と重なって書かれなかったと見える。
なお、手には取れなかったが大正二年の「横浜市全図」という地図を中央図書館の展示会で見る機会があり、その地図では以下のようになっていました(後述するように、特に石崎川の流路でわからない点が出てきたので、情報を補足するためケースの中の地図を穴のあくほど眺めました)。
- 新田間川は今に似た流路で上流の西に向かい、今よりも手前で南西方向に曲がってしばらくして流路が切れている(帷子川につながっていない)。
- 石崎川は今と似た流路で西に向かい、接続部近くで90度北に曲がって接続部の近くまで流路がきているが、帷子川につながっていない。
上記のように大正二年の地図が手に取れなかったのですが、ちょっと気になった情報があったので、大正十一年の地図(地図大正2)をもとに、大正二年の地図の情報を加えた略図を描いてみました(よそで作ったものをベースにしているので、図中の略号は無視してください)。
−大正二年の略図−
- 石崎川の最上流部に(塩田橋の上流に)橋があります。この橋は、大正二年の地図にはあって大正十一年の地図にはないもので、地図には「がいせん橋」(「凱旋橋」)とあります(本項には関係ないんですけど)。
- 大正十一年の地図では、「凱旋橋」のあたりは工場地帯や多分それに関係する空き地のような描き方で、現浜松町交差点付近が工場として整備されるのに伴って石崎川の上流部が埋め立てられて(水がなくなっって)後退し、「凱旋橋」がなくなってしまったように見えます。
- 逆に新田間川の上流部は、大正二年よりも大正十一年の方が少し延びて帷子川に近づいているようにみえます。こちらも岡野町が工場地帯として整備されているように見えるので、こちらは逆に整地に伴って上流に延びたのかもしれません。
5.確認結果のまとめ
橋の名前の方が古そうなので、まずは橋からです。
<橋について>
- 橋が架設された1859年から、石崎橋、平沼橋、新田間橋の名前は固定していて揺らぎはない。
*二代目横浜駅の開設時に石崎橋の位置は少し上流にずれて今もその位置にあり、かって石崎橋があった場所には二代目横浜駅廃止後に敷島橋が架設されている。
*現在の平沼橋は帷子川だけでなくJRや相鉄をまたぐ大きな橋だが、開港時に架設された橋は当然帷子川をまたぐだけの橋で今の元平沼橋に相当する(位置は少し違うようです)。
※新田間橋/新田間川の新田間の由来ですが、このあたりにこういう地名はなく、岡野新田とか弘化新田があるので新田にちなむのかという気もします、・・・、新田と新田の間だから新田間っていうのはひねりすぎですかね。
⇒最初にこの部分を書いた時にはこうだったんですが、その後「ものがたり 西区の今昔」という西区の思い出話をまとめた本で回答をみつけました。
『当初は岡野新田にかかる橋ということで「岡野橋」と予定されていたが、歌心のあった岡野勘四郎はこれを断って、新田と新田の間の橋として・・・』
やっぱりそうなんだ!それから、ここで採用されなかった岡野ですが、岡野(人名)→岡野新田(地名)という人名→地名パターンで、平沼も同じです(石崎は最初から地名かな)。
<川について>
□石崎川
@流路について
- 前述のように、「横浜市史稿」には『以前は水源がなく、大正十二年に帷子川へ水流を接続させた』とあるのだが、明治期の地図には帷子川とつながっているように見えるものがある(地図明治6。前掲の地図明治3もこれはつながっていると見るんでしょうね−青の丸)。一方地図江戸1や地図大正2はつながっていない。
情報を総合すると、以下のように想像をたくましくすることもできます。
◇江戸期の新田開発によって誕生(地図江戸1を信用すれば水源なしですが、絵地図だからね。ただ、つなぐ積極的な理由もないと思います)。
↓
◇以後、明治の前半には帷子川に(洪水等の自然要因で?)つながることもあった(前述のように地図明治3がつながっていると見えます)。
↓
◇明治末ごろに接続地点あたりに大きな工場ができて、帷子川との接続は確実に切れた。
↓
◇大正十二年、関東大震災の復興事業で帷子川の分流として整備された。
A名前について
- 今回調べた中で石崎川の初出は地図明治6(明治41年)で、その少し前位に石崎川という名前が成立した可能性がある。
- 石崎は地域の名前である(同川にかかる橋は「横浜道」開通時から石崎橋)。
- 江戸期の地図(地図江戸1/2)には「稚布(わかめ)川」とある(同じく江戸期の貞秀の名所絵の「加奈川横浜二十八景之内」もそう)。
情報は以上で、妄想は以下です(後者案は妄想^2ですね)。
◇新田開発時に堀が設けられ(地盤の湿気抜き等に必須)、江戸時代にはローカルに「稚布川」と呼ばれていた。
◇中部丘陵から北斜面を流れる「稚布川」という小川があり、その名前が間違って(?)使われたのかもしれない。
※それにしても江戸の物は全て「稚布川」なので、名前に関して何か資料があってもよさそうなものなんだが、・・・、見つからなかったんですよね。
□帷子川
@流路について
- 江戸期の地図でも、「程ヶ谷」の手前(横浜より)で帷子川と今井川が合流していて、また合流地点よりも上流に橋も見えるので、このあたりの川の接続形態等は明治以降と大差ない。
- ただし「横浜市史稿」に、(今井川は)『古くは神戸町と帷子町の間で往還を横切って帷子橋の上流で帷子川に合していた』とあります。今回見た地図は江戸期末なのでそれ以前ということでしょうが、・・・、いつごろか?
A名前について
- 江戸期の地図(および前述の名所絵の説明)では今井川と合流後の河口部が今井川となっており、今回調べた地図の中で最初に河口部が帷子川となっていたのは地図明4(明治16年)でした(以後は全て帷子川)。
- しかし、前述のように「新編武蔵風土記稿」(1828年)では、(帷子川は)『帷子町芝生に至りて海に沃げり』とあり、さらに(今井川は)『帷子町にて帷子川となれり』とあるので、江戸期から河口部も帷子川だったと考えた方がよさそうです。
何故かは分からないんですが、わたしの妄想はこうです。
◇江戸期の地図や名所絵の情報は港に近い人から入手していて、その人々の中に中部丘陵の南を流れる今井川の方が身近で今井川と呼ぶ人がいた(最初にあげた地図で位置関係をみてください。中部丘陵側の人なら今井川の方が多分身近です)。
*明治になってからはキチンと「新編武蔵風土記稿」などを当たって名前を入れたので、帷子川にもどった。
□新田間川
@流路について
- 大正十二年以前の地図では帷子川と接続しておらず、「横浜市史稿」の記載とあっている。
A名前について
- 命名される大正二年まで、一点の例外を除いて川に名前はない。
*貞秀の名所絵の「加奈川横浜二十八景之内」には「芝生川」とあるのですが、他の地図等には一切出てきておらず間違いと思われる(芝生はこの地域の村の名前で、仮に別の川の名前としたら大きな川の名前になりそうだが、・・・、他の資料に出てきてないんですよね)。
- 地図明治5(明治38年)には「入掘」の文字があり、堀の認識だったと推測される。