ハンナ講座 やさしい社会問題 

第22回(2021年9月25日)まとめ

 

「格差の問題から今の社会や人間のあり方について考える」

 

8月のお休みをはさんで、久し振りの講座でした。コロナ感染者は少し減ってきたものの、なお予断を許さない中で、マスクなどの感染対策をして開催しました。今回は、Sさんによる、地域での子育て支援の本の紹介とUさん、Mさんの新聞記事の紹介が主でした。

 

●Sさん

 今回紹介する本は、大阪大学人間科学研究科の村上靖彦さんの「子どもたちがつくる町〜大阪・西成の子育て支援」という本です。西成の地域で、子育て支援に取り組んでいる方たちからのインタビュー(語り)をもとに、地域での子育て支援の意味やあり方を問う内容です。以下、章ごとの語りの内容と本文の簡単な要約です。

<はじめに>

西成の子育て支援について紹介すると、「すばらしいけど、うちの地域ではできない」という反応が返ってくる。しかし、大事なことはとてもシンプルだ。「一人ひとりの子どもの最善の利益は何か考え」、「子どもの声を聴く」ことだということを、私は西成の人たちから学んだ。一人ひとりの子どもの声を大事にし、一人ひとりの支援者が自分の顔と声で実践すると、自ずと自発的で変化に富んだ支援になる。

 

<序章 生活困難地域での子ども支援>

◆西成の多職種連携

西成の支援者はそれぞれが強烈な個性を放っているが、同時に、多くの職種の人たちが連携していることも大きな特徴だ。「要保護児童対策地域協議会(要対協)」では、毎月の連携会議の中で、心配な家庭や子どもの様子が交流がされ、それが直接の支援につながる場合が多い。ある移民の家庭の子どもの身なりや食事の様子に不安があると小学校の先生が言って、その家庭には下に小さな幼児がいて心配なので、保育士が家庭訪問しようということになった。念のため病院にベッドを空けといてほしいと連絡してから訪問したら、母親は幼児に米のとぎ汁を飲ませていて、母子ともに衰弱していた。即入院して命はとりとめた。会議の中でちょっとした教師のひと言が子どもの命を守ることになった一例だ。こうした、子どもを守るたの連携が西成では日常的に行われている。

◆西成北部の子育て支援

西成には生活困難な家庭が多いが、子どもの虐待件数は過去10年間変化していない。それは、地域の熱心な支援者の働きがあって、10年前から虐待が可視化していることが大きな理由だ。熱心な支援者の存在によって西成は理想的な子育て環境となっており、住みやすいコミュニティが成立していることが背景としてある。本書の目的は、逆境を反転して自分の人生をつくることを可能にするコミュニティがどのように生まれるかを西成の子育て支援の具体的な姿を描きながら考えていくことである。

この地域の支援者が共有している明瞭な方針がいくつかある。「誰も取り残されない社会」「自己責任論を拒否すること」「地域での子育てにこだわること」。貧困は自己責任ではないというのは本書の前提だ。

 

<第1章 子どもたちがつくる場所 「こどもの里」の荘保共子さん>

「こどもの里」は、こどもたちが遊ぶ場所であり、親元で暮らすことが難しい子どもたちが一時的あるいは長期にわたって暮らす場所である。荘保さんは、最初、学童保育の制度を使って「こどもの広場」という遊び場を作り、ゲームセンターなどにいる子どもたちに来るように呼びかけていった。すると、小・中・高校の子たちが小さい子をおぶってやってきた。西成には兄弟が多い家庭が多い。上の年令の子が赤ちゃんのおしめを変えたりミルクを飲ませて、寝かせつけて、そのあとで遊ぶ。その子たちの様子を見て、荘保さんは、学童は1年から3年までだと言えなかった。それで子どもの里は誰が来てもいいことになった。

こどもの里の活動の一つに「こども夜回り」がある。路上生活者や困難な状況にある大人を気遣う子どもたちの力が発揮される場面がいくつもあった。荘保さん自身も、近くで倒れていた女性を見過ごしてしまったのに、こどもの里に来ている子どもが助けようとしたことがきっかけで、こども夜回りを始めたという。また、荘保さんは、父親の性的虐待によって家出を繰り返す子を家に帰し続けた。家出の原因が性的虐待とは知らなかった。その子は自分で児相に行ったが、帰ってきた時に家族はおらず、子どもの里に来て、住むようになった。こどもの里が家の替わりとなり、里親としての役割を果たすようになった。

また、父親が亡くなって、心身ともに疲れた母親が心配で学校を休むようになった子どもを見て、学校がネグレクトとして通報し、子どもは施設に入った。母親が会いに行っても会えず、絶望して自死してしまった。そのことがあって、地域のなかで子どもと親が一緒に生活することの大切さを実感した荘保さんは、地域にあるこどもの里で週の3回を預かり、あとは家で親と生活するという取り組みを始めた。子どもが安全に生活し教育を受ける権利と親と安心して暮らす権利との両立を図るのがこどもの里の一環した動きだ。子どもと親のニーズ、SOSに合わせて子どもの里のかたちが自然に作られていった。こどもの里は、アメーバのように、ニーズを持った子どもを見つけたら招き入れ、子どもの声にしたがって組織のかたちを変化させていっている。

 

<第2章 すき間を見つける視線 「わかくさ保育園」の西野伸一さん>

保育士の西野さんは、勤務していた児童館の先生から、「あなたが見ている子どもの姿はほんの一部であって、こどもたちの背景に目を向けないと子どものことは理解できない。だから、町を歩きなさい」と言われ、西成の町を歩きはじめた。しかし、最初は、町の状況と子どもに関わる仕事が結びつかないジレンマがあって、課題が発見できなかった。それで、わかくさ保育園の園長さんに相談に行くと、「ちゃんとアンテナを張って意識をもって歩いてるか?ただの通行人として歩いてないか?」と言われた。そこで少し意識を持って歩くようになると、路上生活者が目に入ってきた。西野さんは、自分から近づいていかないと出会いもないと思い、公園のブルーテントをノックしてあいさつをして回った。出てきたおじさんと会話になって、それまで路上生活者と距離をとっていた児童館の子どもたちがそれを見ていて、「おじさんと知り合い?」と聞くので「そんなもんや」と答えると、子どもたちは納得する表情になった。

西野さんが子どもと路上生活者の媒介になりはじめて、やがて子どもたちとおっちゃんたちが野球したりとか日常的な交流の関係も生まれてきた。公園にプレハブが建つ計画が出て、テントが撤去されるかもしれないという話に子どもたちが心配の声をあげたが、テント居住が認められたと聞いて、子どもたちの喜ぶ姿があった。西野さんの町歩きが、子どもと地域をつなげるきっかけになった。

同じように、児童施設と地域にも壁があり、その壁を地域との「なぎさ」にする取り組みもはじめた。学童保育に来ている子どもと児童館の子どもが公園で一緒に遊ぶとか、町でひとりぼっちでいる子どもを児童館に呼び入れて共に遊ぶ活動も行う。昼間ひとりでいる子どもを保育園へと呼び込む活動はわかくさ保育園など地域全体で取り組まれている。西野さんが公園で子どもと遊んでいる様子を見ていた親が「先生の声おっきいから有名や。あそこの児童館に行ったらああして遊んでもらえる」と言って児童館に来る。地域の人にとって西野さんが、通行人でなく、子どもを支援している存在として見えてきた結果だ。こうした中で、西野さんは「自分の仕事の範囲は?」と問い、ニーズの範囲が自分の仕事の範囲であり、施設に登録している子としてない子の区別はないと考える。例えば、町の人が路上で寝ている17歳くらいの子どものことで西野さんに電話してきて、西野さんがその子の生活支援をおこなったり、家庭訪問を繰り返して、家でばらばらになりかけた家族をつなぎとめる活動をおこなったり、親の相談を丁寧に聴いたり、西野さんの、地域の中で取り残されている子どもたちのSOSを感じ取る視線は、地域全体で、地域の中のすき間を見つめる視線につながっている。

 

 

<第3章 見守りの同心円「にしなり☆こども食堂」の川辺康子さん>

あそびの広場を運営していた川辺さんは、あるとき料理教室を開いたところ、ふだんは乱暴ですぐキレる子どもたちが大人しく遊ぶことに気づく。子どもたちがイライラしているのはおなかを空かしているからだと気づいた川辺さんは、ある少年との出会いもきっかけとなって、「にしなり☆こども食堂」を開いた。こども食堂を開いてから、子どもたちや親がどんどん変化していく姿をみて、支援者も変わらないといけないと川辺さんは思う。「あの親はどんでもない親や」と言われているお母さんたちから、人を見るものさしのようなものを教えてもらっていると川辺さんは言う。誰ともうまくいかなかったお母さんが、子どもの変化を見て、子どもに目をむけるようになったケースもある。子ども食堂は、来てる子どもたちや親と一緒に作る場所だと川辺さんは言う。そして、来る子は一人でも、その子とつながりたいと思える子がいたら、その一人にこだわりたいと思う。乱暴な子どもより、静かな子どものほうが困難を抱えている場合もあり、関係性ができにくい。そういう子が気持ちを言えるような場所をつくる必要がある。問題行動だけ見ていてもその子のことはわからない。

川辺さんが子ども食堂やりはじめたきっかけになったA君は、コンビニでおにぎりとか食べてて、川辺さんが声かけても「なんで行かなあかんねん、食事恵んでもらうほど困ってない」と言った。A君は「俺なんかほっといてくれ」という感じで、最初はつながることは困難だった。誰にも優しくされたことがないA君の孤独な思いを受け止めたいと関わりを続けた川辺さんは、A君を家まで送って行ったとき、一人になるのが寂しくて、見送っている川辺さんの姿を確認する様子に彼の孤独を実感した。A君の姿と子ども食堂は、逆境の反転としての居場所という運動を純粋なかたちで示すように思える。A君が繰り返す切断の身振りを粘り強くくつがえそうとする川辺さんの姿勢が、厳しい状況の子どもや親を見守り、関わり、支援者自身も変えていく子ども食堂の見守りの同心円をかたち作っている。

 

<第4 はざまに入って一緒に行動する アウトリーチと居場所をつなぐスッチさん>

子育て支援員のスッチさんは、父親が借金を抱えて一家が離散する中で、父親のヤングケアラーとしての生活を送った経験を持つ。同じような境遇の家庭への支援を目指すピアサポーターとして、困難な状況にある家庭への支援に入るが、制度の壁(送迎支援はできないなど)がある中で、そのはざまを埋めるボランティア活動を行う。ニーズは、制度で決められた支援の側ではなく、「支援のはざま」の側にある。だから、見つけたニーズに対して、制度の外で自発的に、フレキシブルにボトムアップでサポートをつくっていく。その後、簡易宿泊所にいる母子へのアウトリーチなどを通じて、行政の支援が届いていない家庭の困難が見えてくる。表面的にはわからないが、背景で抱えている困難を可視化することが訪問の役割となっていく。家庭訪問をする中で、スッチさんという、支援者であり、かつ、困難な環境を経験してきたピアでもあるという立場の人がつながり、「一緒に」する経験を積み重ねていく。保育所に行く準備を一緒にしたり、一緒に家を片づけたり、行政の窓口に一緒に行ったり、はざまに入って一緒に行動するアウトリーチの支援のなかで、状況が少しずつだが変化していく。

スッチさんはその後、荘保さんのこどもの里で働き、困難な家庭へのアウトリーチとこどもの居場所をつなぐ活動を行うようになる。困難な状況にある家庭への支援とこどもが安心してすごせる居場所づくりの取り組みはつながっているとスッチさんは言う。そこで大切なのは、親やこどもが、自分の状況に気づき、失敗してもやり直しながら、自分の人生を選択していける主体性を育むことだ。スッチさんの語りからは、地域でのアウトリーチ活動と居場所との連続性がみえてくる。アウトリーチでは親の生活が親自身の気づきに伴って変化し、こどもの里では子どもが自分の人生の選択と設計について自覚し変化する。親や子どもが、自分で自分の人生をつくっていく、自分の人生の主人公になることを支援することが、子育て支援の役割だとスッチさんは考えている。

 

<第5章 SOSのケイパビリティ 助産師ひろえさんの母子訪問>

ひろえさんは、西成で母子の訪問事業に携わる助産師で、10代での妊娠出産や、精神疾患を抱えていたり貧困状態で子育てが困難であると判断された「特定妊婦」とよばれる人たちへの見守り訪問をおこなっている。ヤンキーの子が妊娠して、ひろえさんにSOSを発しに来たり、他地域から来た若い夫婦家庭への訪問では、その夫婦が、出産のお祝いをくれる親族もおらず、家族から顧みられない孤独な状態に置かれ続けているという潜在的なSOSの状況を聞き出す。困難な状況からSOSを発し、それを受け止めることができるという、被支援者・支援者双方の、いわばSOSのケイパビリティ(能力・対応力)というものが、訪問支援では重要な鍵となる。このSOSのケイパビリティは、実はその手前に家族の中でのケイパビリティがある。子どもが甘え、それを受け止める養育者がいるという愛着の安定が子どもの成長にとっては必要であり、それを甘えのケイパビリティということができる。こうしたケイパビリティが不足しがちな環境で、助産師ひろえさんは世代をまたいでサポートする。

例えば、15才で妊娠した子のところに行ったら、その子の母親が以前ひろえさんがサポートした人で、ひろえさんのサポートの結果、その母親自身が、子どもをサポートできる人へと成長していた。「宇宙から見たら、赤い糸じゃないか知らんけど、つながっている」とひろえさんは言う。偶然出会った誰かに甘えることで私たちはみな支えられている。しかし、親や子どもとの出会いに赤い糸という必然性を見いだし、生は絶対に肯定されるべきものであり、絶対に子どもを救うことができるという強い意志と努力に裏打ちされた実践によって、それぞれの人の強さが発揮され、反復されていく。地域の中で甘えが不足している家族もなお多く、さまざまな逆境は解決されないまま反復されているが、それに絶望することなく、生を肯定し、SOSのケイパビリティを培う、ひろえさんの母子訪問は続く。

 

<終章 社会を小さなすき間からつくる>

これまで見てきたように、西成の子育て支援は、それぞれの場所や人がもつ独特の実践のスタイルが重層的に重なり合って成り立っており、子ども中心に生成し変化していく動的な居場所とすき間を取り残さないアウトリーチが組み合わさっている。それは、小さな場所やすき間からはじまっている実践だ。

本書の隠れたテーマは、「小さな場所」からはじめる共同体論、或いは政治哲学だった。つまり、権力による上からの統治を論じる大文字の政治哲学ではなく、状況に翻弄されている一人一人が連帯し、自分の人生を自らつくることができるような交流をどのようにつくることができるのか、誰もが取り残されずに参加する共同体をどのようにかたちづくるか、そのようなボトムアップでつくるつながりを論じる「小さな政治哲学」だ。西成は、私をそのような視点へと導いた。

 

●SIさん

子育て環境や子どもの養育の困難さは、親の責任ではない。子育て支援や児童福祉は「公助」が前提で、基本的に国・行政が責任を持って取り組むべきで、その前提の上で、いわゆる「共助」や「自助」が、そのすき間を縫う形で存在すると思うが、自助や共助のほうが強調される今の状況は、要するに公助が十分できてないことの証明で、おかしいと思う。

 

●Uさん

西成は労働者の町と思っていたが、子どもの状況がこういうようになっているとは思っていなかった。子どもの状況や支援の在り方など教えてもらったように思う。仕事の枠をはるかに越えた支援をおこなっているのは頭が下がる思いがする。子どもの実態に合わせて、柔軟に粘り強くフォローしていく姿勢もすばらしいと思う。

 

●Fさん

荘保さんの話で、子どもの里の前におばさんが倒れていて、荘保さんは声かけなかったのに、子どもが声をかけて、通りかかった警官に何とかしたってと言ったのにほっとけと言われて「死んだらあんたらのせいや」と子どもが言った。そのあんたらは自分のことやったと荘保さんが思って、子ども夜回りをはじめたという話が印象に残った。子どもの力は大きいと思った。

 

●Uさん

パラリンピックに関する新聞記事を3点紹介。

①「分けられること全てに怒り〜心にバリアーつくるばかり 三井絹子さん」の記事。

「しょうがいしゃと健常者はすべての面で分けられており、オリンピックとパラリンピックもそうで、健常者としょうがいしゃを分け、さらに『できるしょうがいしゃ』だけを讃えて、『できないしょうがいしゃ』に見習えと押し付ける。菅首相が言う心のバリアフリーどころか心にバリアーをつくる一方だと思う」

②「パラと『頑張る』と自己責任論〜機会奪われた障がい者の苛酷な現実  渡辺一史さん」の記事

「パラリンピックロンドン大会で車いすバスケットの選手と対談した時、障害という側面から質問して相手が不機嫌になるという経験をしてパラリンピック報道の難しさを実感した。また、JR東京駅構内に掲示された『障がいは言い訳に過ぎない。負けたら自分が弱いだけ』というパラスポーツの応援ポスターに批判が殺到した。障がいを克服し頑張る人だけ応援するという押し付けがましさは、頑張らない人は応援しないとなる。短絡的な能力主義や自己責任論が幅をきかせ、生産性が低いと見なされる障がい者は生きる機会さえ奪われる。パラリンピックの意味が問われている」

③進化する車いす・義足 人類の可能性を広げる大会に 石黒浩さん」の記事

ロボット工学者の石黒さんは、技術の進歩によって、健常者と障がい者、男女がともに参加する、人類の可能性を広げるような大会が実現すればと考える。また、もともと五輪は、参加することに意義があったはずなのに、今の五輪は競争にとらわれ過ぎており、真の五輪の精神はパラリンピックにあるのではという。

あと、アスリートの政治利用を問う上野千鶴子さんの記事、オリンピック開催の是非や将来の在り方を問う養老孟司さんの記事なども紹介していただいた。

 

●Mさん

部落問題に関する3つの新聞記事を紹介。「被差別部落地名リストの削除や全国部落調査復刻出版禁止を求める訴訟について」「差別・貧困・暴力 かば先生の情熱 〜西成の生徒と歩んだ教師 映画に」「大阪人権博物館再開のめど立たず 〜コロナ禍影響 移転先・構想も未定」

 

 

 

今回、Sさんが紹介してくれた「子どもたちがつくる町〜大阪・西成の子育て支援」という本は、児童福祉や子育て支援ということにとどまらない、共に生きる社会や地域共同体の在り方を問い、今の格差社会の中で自己を見つめ主体性を持って生きている人たちの生き方に深く共感できる、今読むべき本の一つだと思います。今後、関連した資料の紹介や議論などができればと思います。

次回は、10月23日(土)の予定です。