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    建築を開くこと。
 全く閉じた壁に囲まれているよりは、ガラスの箱の方が開放感があるから好まれる。もうちょっと建築コンセプトらしく言うと、例えば公共建築の内部に入ることは、そこの運営の内部に入ることだから、できれば外部を歩いているような開放感でいられれば、内部の運営圧力を感じないで済むかもしれないと言うことか。ここまで言ってしまうと、建築環境としての「開放」的であることと、公共性とは「開放」的であることが最良なのだと言うことを、混同しようとしているのだ。同じ開放的と言う言葉でも、違う次元のことなのだから。

    共同性を開くこと。
これは勿論情報開示や、公共体が内部だけで通用するやり方をしないで、誰にとってもオープンに分け隔てない運営をやる事と言える。
 それは観念として巻き込まれてしまっているのであり、共同性自体を開いていくこと。公共性や、福祉、高齢化社会、寝たきり老人、不登校、家庭内暴力、etc。

    住宅を開くこと。
 住宅街を歩く人にとっても、また住む人にとっても、住宅が全く閉じた壁に囲まれているよりは、ガラスの箱の方が開放感があって良い。(内部気候は考慮しなくてはならぬが。)
 逆に内部からは私性の場として、公共性からは隔離していたいと言う意識がある。外から家人はできるだけ見えないようにしたい(プライバシー)し、通行人からもあまり内部は見たくないと言うことだ。が、少しは道行く人と交流があったほうがいいのだと言う考え方もある。こういう建築の開放感論議の水準に留まるなら、ここの趣味をどうするのか個々に決めて行けばいいのだと思う。

 ところが、家族を社会に開くことが良いことなのだから、住宅も開くことが良いと考える混同には異議がある。それは勿論次元の違うことなのだから、それぞれ次元の違うこととして吟味するべきなのだ。

    家族を開くこと
 家族を開くこととは、社会が家庭に入り込むことを言っているのだ。パチンコをする為に子供を置いていってしまうのは、社会性がないからではなく、消費社会意識に開いている(巻き込まれている)からだ。




      家族は開いてゆくのか? 

 透明建築。ガラスの建築。埴栽で埋めて建物を消す建築。パソコンのスケルトンデザイン。ファッションの透け透け。キャミソール(これって男性のテンションが下がってると言うことなんだろうか。社会の管理が行き届く時に、女性のファッションが性的に解放される気がする)。ランジェリーファッションか。バックの透け透け。文学を開く。国家を開く。家族を開く。家族の社会性。透明な私。次元を越えた直感的で映像的な言葉の羅列。

 情報開示ということでは、どんどん開くべきだと思う。
国家、各省庁、警察庁、行政、学校、病院、企業、権力である社会的な共同性は開いてゆくことが、普通の人々に力を与え、特権を無化しえるとおもう。

 開くとか透明性と言うことが時代の風潮となっているが、公共性に向かって風通しをよくすることが、伸び伸びとした人々の社会への参加を促すと考えられる。これらは共同性としての社会システムを開いてゆくことが目指されている。

 
   では家族はどうなのか

 かつて家族は農業共同体に対して全面的に開いているのでなければ生きていけない関係にあった。共同体観念との家族の一体性。家族全員が一体となって生産に関った。個体性は相続する家長にのみあってなんの不思議も無かったと考えられる。創意工夫は求められないと言うことか。食を主要な必要限度の消費。
 多世代家族。

 次に産業資本主義社会がある。工業化のやり易い物を必要に応じて作る。土木(道路、港湾、基幹産業)建物(基幹施設、文化施設、住宅団地)建設。物の行き渡る豊かさを求めていた。技術者にも創意工夫が求められた。
 夫婦を単位とする核家族の理念。

 現在の消費(超)資本主義は、家族の全員を残らず一人一人=子供も個体として「余剰」消費に参加させる。第3次産業従事者60%越える。余剰消費分が経済の活況を握っている。なにが消費を喚起するのか、本当に誰もが創意工夫し、アイデアを実現できる社会。
 また夫婦を単位とせず、個人として生産社会に参画。こういう経済的な生活の条件が既に家族が開かれてしまっていることを示している。これに対抗しえるのは清貧ではなく、十二分に遊び込んだか?と言うことだけが家族内の過消費を安定させると考えるが。
 夫婦の個体性を大切とする家族。

 無差別な殺人事件や、無差別な通り魔殺人は、このシステム社会の出口のなさが、もう個人対個人でなんともやり過ごせない=システム社会にがんじがらめになってしまっていることが、無意識に前提されているからだと思う。


    家族は開いていた

 家族の社会性が失われたと言われるが、逆だと思う。もう開いていたのだし、開いていなければ家族はやってゆけないものだった。
かつて共同性は自然と同じように、無意識に済ませられるものだった。それは生活共同体に向かって開いていたと言うことなのだから。そこでは子供も大人も同じ自然に浸かっていた。生活共同体、政治共同体、生産共同体、家族共同体、これらが一体となっていたと言うことか。

 過教育家族。もう一部のことになったかもしれないが。過剰社会適応の家族の在り方だと思う。家庭内暴力の家族は子供を社会に過適応させようとする家族(親の)意識。親も過適応しているからなのだろう。教育を受けてゆくことを、いつか花開くからじっと(今楽しくなくとも)耐えてゆくのだと、農業生産にたとえられていた。この過教育家族意識は農業生産の時代の家族意識のリバイバル(生き残り)だったのか。

 戦後60年代から、子供が共同性からと、そして親からも社会に開くことを要求された。過剰に教育に向かって開いていった家族。親も勿論共同性に開いていたが、生活共同体に向かっているだけでなく、観念としての共同性に向かっても開いていたと言うことか。なぜならこの頃、国家と市民意識は乖離することが解ってきた時代だった。今また市民意識と個体意識が乖離することが解ってきている。
 個体意識もまた外部に対して開くことをよしとする風潮があるが、個体意識が社会や国家の共同性と直通してしまったら崩壊するしかないと思う。国家に対し個人の解体とは、ウルトラ戦争参加の意識だし、社会では現在の消費意識に乗って開き切ってしまうことは破産を意味しよう。
 また個体意識には家族の中の自己を見詰めてゆくことで、個体としての自立した意識を掴んで行ける契機があると思う。この意識が上昇してゆけば国家を越えた世界性としての価値観をつかむこともできると考える。実際経済も国家を越えて、世界が協調して安定化せざるおえない課題が既に有るのだから。

 また過教育家族を目指すことも、職業への自己実現を称えることも、個体意識を社会性に同致しようとする意識のことなのだが。
それは個体意識もまた同じように社会に開くことだけではない筈だ。個体意識とは、社会と同義ではないはずであり、家族からの個体意識も、社会からの個体意識も、自立の場所を探している筈だ。
 どうしても開かなくてはならぬのは、生活共同性のことで、開くのは此処に限定しえる視点を現在の段階が(後述餓死家族)獲得しえてきていると思うのだ。

 
 また不登校を受け入れてゆく家族というのは、家族内部としては十分に開いていると言える。
過剰に開くことを要求する学校に対して、一般社会の価値観から言ったらもっと自在な在り方が認められているのに、なぜ学校だけが過剰な共同規律を押し付けてくるのか、と言うことだとおもう。子供の内的な了解を無視しており、自分なりにしかやってゆけないよと言う、子供からの自分の取り戻しだと思う。子供達の不登校と言う意識は、共同性に対する先進の在り方と言う思いがする。このことを家族としても、守ってあげたいと言うことになっている筈だ。
 家族は外部(共同性)に対してできるだけ閉じることで個体を守ってあげること、内部に対してはできるだけ開いていくことで、個体を了解してあげられることを示していると思う。そして勿論ここでの個体とは、子供に限ったことではないはずなのだ。夫婦しかり。


 現代の餓死家族とは、社会に対して閉じすぎた家族であるのだろうか。
おそらくそうなのだ。それは一切の共同的な援助をいらないものとして退けえているのだと思う。もっとも自立しえた家族として見事というほかない。ここが家族の閉じることの極限か。それは共同体的な援助と言う福祉=生きる為の最後の共同性の一切を退けてしまえることを示しえたことが、表現となっていることを重要と考える。
 現代の一般的な家族は共同性に対して閉じると=完全に閉じる時には死が待っていることになっているのか。それは食料を家族自身で自給しえる可能性が国民の1割以下だからだが。逆にたどってゆくなら、食料自給=農業家族は共同体意識から自立して生きられることを示すことになる。では一般的な9割の家族は、生活の最低限には=共同体には開いていないと生きていけないことになっているのか。その共同体は厳密には生活共同体と言うことになるのだが。
 この生活共同体の意味は、向こう3軒両隣と言う、近隣生活共同体とは違った内容になった。それは米穀帖を持って近隣の米屋に行くのではなく、スーパーに行けば良いのだから。また生活資材を得るためには終身雇用の企業に就職するのではなく、バイトをしていればいいのだから。現代の生活共同体への参加とは、これらの軽くなった働く場でよいこと、そして買い物(消費と言う生産)をすることなのだ。生活共同体はとても軽くなっている。
 穿って言ってしまえば、家族はこの軽くなった生活共同体に対してさえ開いていればいいのであり、それ以外は全て閉じることも可能なことを餓死家族は伝えていまいか。

 もっと言えばこの事は何を意味するのか。
そうこの家族の餓死事件は、家族が社会に対して閉じることも(自立すること)が可能になった時代と言うことを意味していると思う。
 共同観念に対してさえ、すでに自立した家族が登場しえることを意味していると思う。共同体観念を退けられるということは、観念としてなら何等かの形で社会に対して越えている部分を持つことができていると言うことではないか。。それは家族が共同性に対して、再生してゆく回路を確保しえていると言うことでもあるとおもうのだが。

 本当は家族の内的な意識とは、共同性とも、個体意識とも独立した意識の次元を持っている筈だ。


 年金とか、高齢者介護施設とかは、それは福祉としての援助と言われるもの。余生は安楽に何もしないで、なんでも面倒見てもらうと言う意識に対応した政策と言うことなのか。それは寝たきりと言う理想を生んでいないか。この意識に対応した福祉政策と言うことか。それは農業家族からの幻想か。何もしないでいることを理想とする共同観念(世代)。こういった援助の共同性から自由になりえないものだろうか。

 そう言う援助の在り方ではなく、誰でも、その在り方なりに、いつまでも好きなだけ、職に着ける(収入をえられる)ような援助の在り方にならないものだろうか。
                      了


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