テーマ抽出

 子供はなぜそんなに早くから,個人として振る舞うことを強いられねばならないのか。きちんとした子供とはなにか。何故きちんとしなくては成らぬのか。親の意向を生きねばならぬのか。
そこには子供に押し付けているあり方が、過剰であることが、個室を早期に与えると言う在り方に表れていまいか。
<始めから個室ではなく、生長段階に寄り添った子供の場を>
また成人してからいつまでも居心地の良い親の家に居られることは問題がないのだろうか。
 夫婦はそんなにも一体であるのか?
子供に個室を与える前に、親の個室を必要としているのではないか。
そこには夫婦の愛情の一体性を規範とする常識があり、寝室の規範となって縛りつけてしまっていると思う。愛情があるのだから同居しており、だから個別に振る舞っていいことが、間取りに表わされていないのではないか。実際個別に振る舞おうとすることへの住宅事情が付いていっていないと思うのだ。例えばインターネットをやるのに、それぞれのスペースが欲しいではないか。




 家族意識と住居の型 


 建築家達は言っています。住宅の一般的な間取りというのは、一般の人の家族の規範(在るべき家族)の表れであって、決して現在の家族の実情を表わしていないと。
このことを芹沢俊介は、核家族と言う言い方をやめて、工業社会に対する単世代同居型家族から、情報化社会の個別同居型家族と分類しています。
 この次なる家族型の解答を黒沢隆と言う建築家が、個室群住居と言う考え方として1968年と言う画期的に早い時期に発想している。これは夫婦の為の個室群住居として発想された。そこから既に31年が過ぎているのに、このタイプの住宅型は一般的になっていない。この後に取り上げる近代住居としての夫婦一体家族像が余りに大きな家族規範となってのしかかっているからだと思う。実際の夫婦像、親子像から乖離してしまっていると捕らえられ始めている。あるいはまたこのことは家族が間取りから影響されないで、自在に振る舞えることを物語っている。

 黒沢隆は近代住居として、現在も一般的なnLDKタイプの住宅の構成を論理とした。(1971)一体夫婦の像を表わすのが同室同(異)床の寝室にあること。寝室と居間は一体の関係にあること。夫婦のhな空間の補完物として、親しい友人の接客にも使われる居間という風に。また和室が予備室として確保されること。ここでは友人が泊るかもしれないし、麻雀の部屋であるし、洗濯物のとりこまれる部屋である。たまにくる親も泊るかも知れない。黒沢は言っていないが、同居の親の部屋になるというのは一般的なことだろう。そして個室と言う子供室が、子供の数だけ確保される。これが住宅の規範間取りとなっている。


 この事は言い方を変えれば、一般の人の家族観というのは家族の規範を表わしていて、決して実情を表わしているものではないと言って見たくなる。

 私は「相手をそのまま受け入れる」と言うのが家族意識の本質と思っていますが、このことを書くのに、現在を題材にすることでより「リアライズ」できると考えました。ここでは不登校を題材の出発として、家族の本質を抽出して見たい。
 現在の家族は過干渉教育家族と言える。例えば不登校になって、不登校を受け入れて始めて自分達家族の現在に思い至り、ここまできてやっと家族の関係仕方を変えていっている筈だ。子供と親との関係もそうだが、夫婦の関係も、またその夫婦の親との関係も変えている筈だと。

 ではそこはどう変わるのかを、取りだして見る。
子供に社会的な規範を押し付けないで、あるが儘に受け入れること、子の興味の内に行動していっていいこと、その中で社会に生きられる道を探してゆくことと言うことになりますか。子供は言われなければ解らない存在ではないこと、いつでも自分で考えながらやらせてあげて、待ってあげること。親が先回りして何か言わないこと、原理的には何があっても子の在り方を受け入れると言うあり方だと思う。心的な他者性。個体性として受け入れる。
<自分なりの行動をするようになったら、個室が与えられるでしょう。>

 夫婦の関係もまた同じ過干渉になっているのではないか。
夫婦の役割分担と言う規範で脅かさないこと。分担があるなら、それぞれの自分なりのやり方でやれることを受け入れること。夫の仕事がどうとかやり方がどうとか、収入がどうとか言わないで、そのまま受け入れて、その範囲でやれることをやってゆければいいのだと言うこと。
これはそのまま妻にあてはまることになる。妻の家事のやり方がどうとか、味付けがどうとか、遅いとか、倹約して貯金を増やせとか言わないで、妻のやり方をそのまま受け入れて運命共同体として納得して、そのままでやれることをやっていこうとすることと言えよう。
 すなわちこうあるべきだと要求することは、子供に口で言って躾るのと同じなのだ。言われるとやれなくなってしまう、自分で気付いていればなんとかしたいと思っているから、待つしかない。これって大人でも同じことなのだと言える。
その上で起こってくることもそれぞれの在り方そのものとして受け入れて、相手を犯さず、慰安である関係を目指してゆくことと言える。相手を受け入れると言うことが、個体として対等の関係と言うことだと思う。
<この事の表現が夫婦別寝室となるか?>
もう少しあると思う。夫婦である部分を越えて、それぞれが個体である部分が継続していることが意識されている事と言えるように思う。夫婦が永続的な関係であることを第一義の価値におくことは、永続の形式に囚われて、充実した実質の関係が疎かになることを気付いているはずだ。この情報とは、テレビ(ドラマ・ワイドショウ・)、新聞(コラム、統計、批評)、小説、ムービー、友人関係と言うことになるのか。恋愛の現実経験以上の経験を重ね、離婚経験者が近くに何人もいるだろうし、自らもそうだとしたらなおさら、夫婦の関係は今在る相手との関係としてなり立っており、うまく行くのもまた行かないのも、相手との関係そのものに依存していることになる。この事に気付いている事は、この事を自己が見詰めていることを伝えている筈だ。このことは自己の個体的意識の永続性を見詰めてしまっていることになっていると思う。このことが、夫婦別寝室の根拠と思える。(個体として就業していること、個体として消費に赴くこともいれていい。)


 夫婦とその親との関係も同じことが言えるだろうか。
ここでも親をありのままに受け入れ、子夫婦をありのままに受け入れるのか。ここでは事情が違ってきていると思える。空間距離を取ればいいのだが、同じ空間での受け入れは難しいと思う。それはこうじゃないか。
 夫婦の子供は成人して自宅に居ることの軋轢から出発しよう。ここにあった慰安が軋轢に変わるのは、子にパートナー(異性)が現われたからだ。子はこの事によって親家族以外の自分達の世界を持つようになった。そのことで子の意識は子のパートナーに移ってしまい、子のパートナーとの事情を優先するようになる。子達は新たに自分達それぞれのやり方を、相互に受け入れることで自分達の新しい世界(家族意識)を造っていくのだ。そこに親夫婦と、子とパートナーのそれぞれの事情の優先度の違いが起こってしまうことは避けられないし、この違いが軋轢となってしまう。親は子とパートナーの自立を認めてあげ、干渉しない在り方を求めることだと思う。この事は避けられないことで、それぞれ自分達を優先するしかないのだから、軋轢の解消は干渉しないそれぞれの自立した場(家族)を営むことしかないと言える。心的な軋轢を抱えない、解放された在り方を求めるなら、それしかないと思える。
<子は家を出て単身アパート住まいとなる。>

 子とパートナーが結婚しても、新婚時代から親と同居と言うのは一般的にも考えられないと思うが、以外に2世帯住宅で経済的な余裕を作ろうとする子世代夫婦が多いのかもしれない。それでも自分達で意識しえている内は自業自得で良いかもしれない。解放されない自分達夫婦の関係が何処からきているのか、気付けるだろうか。
 でも子世代夫婦に子供が産まれたら、その子供にも世代間軋轢が感染してしまうはずだ。子供の虐待が取り上げ始めている。虐待を暴力行為だけでなく、教育過干渉や、子の自然な興味に干渉してゆくことも虐待と捕らえることが提案されている。前にも言ったが、それは家庭内暴力になるかも知れないし、そこまで行かなかったら、子が親の為に生きてきたことを悩み、解放されない自分を持て余す時がくるからということになる。
<こららの住宅表現は、スープの冷めない距離での独立住宅と言うことになる。>
                     了



望星 19999 9 東海教育研究所 580円
特集 なぜ「我が子」を虐待するのか?!
芹沢俊介 子どもたちが「いまを生きられない」のが虐待だ。
保坂 渉 虐待があぶり出す現代社会の家族病理
野村一枝 グループ活動を通して回復への出口を

虐待 保坂渉 岩波書店 1700円




 back to home