2世帯住宅とはなにか? 

 建築雑誌としては、画期的な内容がでました。
すでにお持ちの方もいますね。建築知識8月号特集「建築」に何が可能か!? 新「2世帯住宅」の提案  です。
相変わらずの「建築に何が可能か?」と言う見出し、編集者好きですね。建築に可能なのは建築だけです。建築に家族は可能ではないのです。皆さんはこの私の主張=すでに耳タコですよね。

 ですから2世帯住宅を問うことは、建築を問うことではなく、家族の在り方に何が起きているかを問うことですから、家族論をやっている者の範疇になります。建築家は多くの2世帯住宅を建ててきていますが、相変わらず「自立に影響する建築」を平気で言ってしまっています。そう言う人はほっといて本論に入ります。

 野田正彰(注1)が建築家と対談している。
そこで開口一番「実を言うと、私は2世帯住宅と言うのは基本的に反対なんです。」とはじまる。ここでは精神医学と言う視点から、家族の現在を直裁に取り出していると言うことだ。その発言を聞こう。

野田‥実をいうと、私は2世帯住宅というのは基本的に反対なん
です。2世帯住宅は'80年代に盛んに広まって、「仲良く2世代が暮
らす」ということを前提にしているわけですが、家族の関係が悪
くなったらどうするんだろう。2世帯住宅をつくつて、本当にう
まくいっているんでしょうか。逆に「2世帯住宅」に拘束されて
分離もできず、内面の対立の方がすごく強いのに、表面的にはそ
れをやりくりしなければならず、しんどいという話はないのでし
ょうか。

野田‥血縁とか親族が許されるという話が出ましたが、個人とし
て認知して、人間として深い親しみをもつてつきあう。そういう
視点から出てくるのは血縁ではなくて夫婦の関係の方ではないか
と思います。男と女の親しさの方が重視されるべきであると。親
子という関係は育児の期間はいいけれど、それからはどこかで切
って、夫婦の単位で家族をつくっていくということにならないで
しょうか。それが2世帯住宅というと、どうしても親子の関係が
強調されることになっでしまう。私は、家族というのを血縁で考
えるのは、そろそろ止めないといけないと思っていますが。

野田‥憎しみのあり方としては、他人より親子の場合の方が強い
んです。だから役人事件でも、他人の関係より親子や家族間での
方が多い。あまり報道には出ませんが、事実からいうとそうなん
です。                

野田‥結局、家族というもののなかにみんな押し込めようとする
から、そのなかでにっちもさっちもいかなくなる。近代的な個の
確立というものを押し込める、そういった力を何とか緩めていか
ないと駄目ではないか、と私は思うんですが。       

野田‥でもお金や土地がないから自分たちの家を建てられない、
それで2世帯住宅を建てるんだということがはっきりいわれてい
れば、また別の動きが起こったでしょう。だけど、それはあまり
いわれずに、表向きの主張は「仲良し」だった。それはイデオロ
ギー的な面もあって、解体する日本の家族に対して、美風として
2世帯住宅がいわれた面があると思います。実際はそうじやなく
て、土地が高騰してとか、親のポケットに若い夫婦が依存する傾
向が強くなってきたとか、そういうかたちでの'80年代の豊かさが
あるのに、表に出てきたのは日本の家族のよさも活かそうとか、
そういうイデオロギー的な面が非常に強調された。

野田‥日本の家を見ていると、戦後急速に核家族にシフトしたん
だけれど、でもやっばり日本的な家族関係を引きずっていて、子
供中心家庭ですよね。だから、育児期間の子供中心の設計をされ
てきた。夫婦は結婚を出発点として、育児という共通の体験をし
ながら、違う性がそれぞれ違う感じ方をして、それを伝え合い理
解していくという夫婦の単位が先にあり、そうした夫婦の人間関
係が深まるような設計がされていて、そこに子供の会話も入って
くる、というような発想ではなかったと思うんです。あくまでも
子供中心です。
 端的な例としてアドレスターム(呼称)の問題でいうと、子供
が生まれると、すぐパパとママになるわけです。孫が生まれると
おじいちやんおばあちやんになる。常に一番下の世代を中心にし
ながら変わっていくのが、日本的なアドレスタームのあり方です。
それは家の設計にあたっても否定されなかったと思うんです。夫
婦の人間関係を深める、そのなかで育児も行われる、という建物
になってない。
                       (引用 了)


 日本では子供世代夫婦と親との関係を仲良し家族としか考えないところがあり、実際にそぐわないし、子世代夫婦の自立と言うことを中心に家族を営むと言う考えがなく、親子の同居に美風を求めたイデオロギーからの歪みを感じると述べられている。家族問題に新たな指摘がなされたと思う。それが建築家の安穏とした世俗的な2世帯同居家族を指摘する形で始まるとは。

 この事は日本の高度消費社会=第3次産業にシフトして行く中で、日本の農業の衰退に対する引け目を、農業家族形態の美風によって埋め合せようとする行為ではなかったか、と言って見たくなる。

 また私の言うことは直感でしかないのですが、酒鬼薔薇しかり、M君しかり、自殺する子供達然り、老親との同居殺人然りと、子世代夫婦の親との同居は、子世代夫婦の自立感を大きく疎外する軋轢だろうと思われてなりません。問題を孕みやすいのではないかと言う考えを持っています。

 私自身親との同居と言う問題には悩んできましたから、できればしないほうがいいのだと言う見解を、このホームページでもいつかすることになると思ってはじめていました。

 ところで私の知る狭い範囲ながら、広く思想界と言う広がりでも、子世代夫婦の親との同居に警告をした人はいなかったと思う。
 私が若い頃から読んで信頼している思想家や批評家も、論理として解すれば明らかにそう言っていると感じられても、言葉として明快にこの事を否定した人はいなかった。
 私自身、親のことを考えると心的な軋轢が起こってしまうことが明らかなので、気持ちの平安と言うことを大切に考えてきました。これがある為に私には親との同居というのは、実の親も、義理の親も、とても無理だと考えていましたし、そう通してきました。其の根拠を求めて、思想や批評というのを読んだつもりでもあります。それでも子供問題を扱って、親と子の軋轢と言うことに警告を発するものは多くありますが、明快に子世代夫婦の親との同居を否定したものはありませんでした。


  実際、建築知識の特集ですから、2世帯住宅の建築間取りのバリエーションに終始しています。施主の要請があってできる建築ですのでしかたがないのですが、野田正彰の発言が浮いていると言ってもいいくらいです。それでも単なるバリエーションでなく、野田の思考を受け取った上で、スープの冷めぬ距離への理想を持って同居しないほうがいいのだが、それでも施主のたっての願いならば、2世代住宅をやらざるおえぬ、と言う理想と現実の狭間には行きたいものだと思う。方や現実の理想として「麗しい」2世帯同居があるのですから。
  それでも「2世代住宅の生れた日」を扱ったものには、ハウスメーカーの息子夫婦同居型や娘夫婦同居型やの微細なタイプ分けを知ると、ここでも同居家族に付いての一般的な思考の推移を反映していて、確実に動いているものを感じる。
 また「公団のペア住宅の隣居型(3DKと1DKの一体型)より近居優遇措置などを利用して、同じ団地内の3DKと1DKを別々に借りるほうが実状にあっている」ことを伝えている。



最後に、このHPのもう一つのテーマ「住宅は人を変えるか?」についても、建築家は問われている。やはりここでも私は思う。解る人は解ってしまっているのだと。建築家たちが自立を促す住宅や、仲良く暮らせる住宅を思ってしまっていることを。建築家達よ早く気付いて論理の精緻化を図らないと、他領域から責められてくる。

野田‥おうかがいしたいのですが、建物を設計する場合、「建物を
通して、人の意識がある程度変えられるんじやないか」という発
想と、逆に「建物というのは住んでいる人の意識に合わせてつく
るもので、あるいはそれと無関係につくるものであって、そんな
ことを考えてもしかたがない」という2つの考え方があるでしょ
う。2世帯住宅でいえば「自分たちの設計した家に住んでいると
仲良く暮せるはずだ」という考え方まで極端にいえばあるように
私には思える。こういった、住む人の将来の意識形成について、
どのようにお考えですか。
                       (引用 了)
 ここで言われている「建物を通して、人の意識がある程度変えられるんじやないか」と言う発想を建築設計界の人々はしている。それは家族関係であったり、個体としての確立であったりだ。けれどちょっと考えて見れば良く解る筈なのだ。家族関係のことは親子関係自体として関係し影響されるものであり、そこから個体として悩む中で獲得してゆく個の確立ということな筈だ。これらのことに建築と言う美に関する造形芸術の次元は関係しているわけがない。
 また影響を間取りと言うことに見ても、(前にも取り上げてますが)家族の関係を表わす親密・疎遠と言う言葉が、間取りの型の相対的な表れると読めるだけで、実際の家族を親密にしたり疎遠にしたりするわけではない。家族(住み手)も、設計者も家族を「間取りの型としてどう表現するか?」と言うことで疎遠か親密かを読み込んでいると言うことなのだ。だから間取り表現というのは、家族(住み手)と設計者の解りあえる接点ではある。けれどそれは建築によって「仲良く暮らせるはずだ」とか「個の確立を」促すと言う次元ではない。
 建築設計界はこの事=家族関係自体の関係の世界(影響)と、建築表現(間取り表現も)と言うことをごちゃごちゃに、建築の影響だと言ってしまっている。あまりに物事をおあつらえ向きに単純化してしまっているのだ。

 ところがよくよく注視すると建築家は、「個の確立を予測するものでありたい」とか「個の確立を意識化できる空間」と言う微妙な言い回しをしている。これこそ表現の次元を言おうとしているとも読めるのだ。
 もともと設計者から住み手への一方的な影響なんてあるわけがない。文学もそうだが、作家がそう表現しても鑑賞者はいかにでも自由に読んでしまう、と言う次元のことなのだ。作家も鑑賞者も研鑚を要求されている。かつて個室を与えることが子供の自立が得られると親が考えたのが勝手な想いであったように、設計者の個の確立の思いは住み手にそのまま届くはずもない。でもそれは双方思い込みではあるが、表現の世界に一歩を踏み込んだことは確かだと言える。

 いま住宅の表現は、建築が家族の何をどう表現できるのか、家族が今時代の変容の何処にいるのか?住み手は今何を希求しているのか?と言う接点に向かってゆくことなのだが。
                    了



  (注1)インターネットにて検索収拾。
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http://www.php.co.jp/VOICE/people/noda.html
野田正彰(のだ・まさあき)
●京都造形芸術大学教授
 一九四四年高知県生れ。北海道大学医学部卒。神戸市外国語大学教授を経て現職。

 精神医学、文化人類学、ノンフィクションとなんでもこなす。精神病医療に疑問をもち改革運動に参加、パプアニューギニアで百人の精神病患者を観察したこともあった。登校拒否、いじめ、家庭内暴力……現代社会の抱えるひずみを精神科医の目からリポート、告発してきた。そんな野田氏の目には阪神大震災がもたらした被災者の心の傷跡も重要なテーマ。『潮』(96年3月号)「阪神大震災から一年、心の傷は重い」で震災一年後の二つの深刻な問題について言及。遺族の心の傷と外傷性ストレスの問題。この二つの心の後遺症に対するケアが不十分だというのだ。つねに時代状況を、精神面から深く分析する力量は並外れている。

 著書は『漂白されるこども達』(情報センター出版局、88年)、『喪の途上にて』(岩波書店、92年)、『戦争と罪責』(岩波書店 1998)

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http://www1.sphere.ne.jp/tamako/Nihonbashi/980927Senso.html
野田正彰 
『戦争と罪責』岩波書店 1998
第二次大戦から50年以上たったにもかかわらず、戦争時代の事が、内外問わずますます問題となっているのはどうしてであろうか。
東西対立の冷戦構造によってそれまで棚上げされていた物がここへ来て噴出しだしたということがよくいわれる。しかしそれだけではない。先の世代だけで水に流すことは決してできない、次世代へ脈々と引き継がれてしまう「歪み」のようなものがあるのだと、50年という長い歳月を経てようやく人々に気付かれ始めたからではないだろうか。そしてそれを冷静に議論するのにも50年という歳月がかかったということではないか。


被害者側でいえば、アウシュビッツを生き延びた人々が、年をとるにつれて不眠、フラッシュバックなどに悩まされる「ホロコースト症候群」というのがある。そしてそれだけでなく、その次の世代である二世、三世まで情緒障害や抑鬱状態になる者が多い。


加害者である日本の戦後世代もまた「精神的に強張っている」。確かに戦後世代は親の世代の文化を摂取して育ったとはいえ、批判や反抗をしてきた。しかし、戦後世代は親の本当の姿を知っているのだろうか? 戦前軍人だった親の世代のほとんどが、戦争で何をしたか、戦争でいかに精神的に歪んだか、振り返って子供に伝えようとはしなかったのである。そのために戦後世代の精神はどこか表面的な浅薄さが付きまとっている。そして現在にいたってそこに悩む人が増えている。


精神医学が専門である著者は、戦争は今も続いているということを「こころ」という見地から見事に分析した。ちなみに、「戦争」のさらなる理解のために、これと逆の立場で書かれた小林よしのりの『戦争論』とあわせて読めばその認識はさらに深まることであろう。

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http://www.dodirect.com/kiroku/tsuushin/08/08-5.html
−震災関連書籍の紹介−
野田 正彰 「災害救援」 岩波新書 \650
 現在、京都造形美術大学教授で、精神病理学者である著者が、奥尻・島原・阪神大震災と被災地に何度も足を運び、調査して真の救援とはどういうことかを追求した本です。
 まず、著者は危機への対応のあり方にその社会の本質が現れると書いています。阪神大震災では“心のケア”という言葉が流行し、マスコミも学者もこぞって傷ついた心を癒すことが大切と報道しましたが、実際には精神医学的支援が充分に行われたとは言えないのが現状です。地震によって建物・人体・心の順に傷つき、復興とは地震によって破壊された逆の順に進んでゆくべきものなのに、いかに被災者の側に立った救援が難しいものか、現代日本を映し出す経済至上主義が災害救援にも貫かれているかを様々な例をあげながら鋭く批判しています。
 まとめとして、救援者は災害時の急性ストレス体験をできるだけ表出できるように災害精神医学的援助を行うこと、外部から援助に加わりたいと思う人は被災者の顔の見える交流と援助を創意工夫すること、救援の文化は個々人が創ってゆくもの、そして援助の最終目標は、被災者の人間社会への信頼の回復、被災者による新しい地域社会のイメージ形成であることを忘れてはならないと書いています。大震災に遭遇し、ボランティアに関わった者の一人として、深く心にしみる言葉です。(季村 範江)
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