子供の自立 2 

朝日新聞990710土曜
巨大な迷路 「しつけ」って何? 下

「いい親にならなくていい」     脚本家・山田太一さんに聞く

 −最近、家庭のしつけ力が落ちているという指摘があります。
 基本的には、昔も今も、親の器量以上のもの、人格以上のものは子どもに伝えられない。親が「正しい」と確信が持てず、ただ世間に迎合して言っているようなことは、子どもには伝わらない。反発を感じさせるだけです。
 −では親は何もしつけをしないでいいのでしょうか。
 どんな親でも「それだけはイヤだな、子どもにして欲しくないな」と思っていることが一つや二つあるでしょう。
それは言葉にしてしからなくても伝わると思う。みんなが厳しい、いい親にならなくてもいい。いい加減な親の元で育った子は早く恋愛して、早く自立する。逆に、親が非常にきちんとしていると、子どもがいつまでも自立できない。最近は後者の方が目立つ気がします。
 −今の若い親が善悪の判断がつかなくなっている、と指摘する人も多いです。
 物事の善しあしなんて、くっきりと分けられない。不完全であいまいで当たり前。まして未熟な二、三十代の時に、はっきりした善悪の基準を持って子どもをしつけろ、なんてねえ。子どものためにって割り切ろうとすると、無理が出る。ある時には後ろめたさを感じつつ親の都合を優先し、ある時はその罪滅ぼしに子どもを甘やかす。そういう揺れをもっと許す社会にならないと息苦しいですよね。
 −親から受けたしつけが原因で、生きにくさを訴える人もいます。
 それは、厳しいようだけど、ちょつと人間として弱い。人間って理屈を体現して生きているわけじゃない。なんて理不尽な親なんだ、と思う気持ちも、子ども自身を育てている、と僕は思います。
長い目で見ないで、すぐにいい子になったかどうかを判定するような社会で教育するって、大変ですよね。

 やまだ・たいち 一九三四年東京生まれ。二女一男の父。ドラマの代表作に「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎(りんご)たち」など。育児を扱った著書に『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』がある。
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 親と子の関係の自立のことが、正確に語られていると思う。
親子関係の問題というのは、親が子を自分の分身だと思って干渉を止めないでいること=子になんでも自分でやらせてあげないことから、もうほとんどが起こっているんだと思えてしまう。そしてここでは子が親から自立して生活することが、第一の自立と捕らえられている。そう本当は子供はどんどん親と生活を別にしていければ、それがいいんだと思う。親が離さないと言うことなんじゃないだろうか。
 そして子の生活が親から自立してからも、親からの無意識な影響になかなか精神が自立しえないで、悩まされることにも、考えを述べている。親が実際にはいなくなっても、自分の行動仕方の中に大きく決定的に影響してしまっているものなのだから、その影響をも気付いて行くことでも、子供自身を育てるのだから、そこまではやり切らなきゃ、と言われている。この事は言い方を変えれば、いやなだめな性格として出来上がってしまっている自分を、意識として「仕方がなかったんだ」とばかりに引き受けられること、と言うこともできると思う。
 その内容をどう捕らえてゆけるのか?
自分(子供であった)が親になっての日常的な子との関係や、会社での人間関係やと、うっかりきつくなってしまうことは沢山ありますが、そんな問題も本当のところはどういう問題なのか?自分の親との関係の中で引きずっていることなのではないのか?と言う視点が必要とおもう。正確に「余裕」を持った捕らえ方ができるには、自分の親子関係・兄弟姉妹関係の整理と対象化が必要なんだと思うのです。この事は以外に難しいことだと思うのです。子供は=自分は=問題なく親に育ててもらったとみんな思っているものですから、親からの影響として受けているところのことは何なのか、なかなか捕まえられないものです。他人との人間関係でさえ知らぬ間に、無意識な親子関係の中にいつの間にかはまっているものだと思うのですが?皆さんいかがお考えでしょうか。
 ここまでは親子関係の内部での整理と言うことになります。


 そして親と子の無意識な権力関係の影響は、社会(組織として自分に立ち現われるもの)や国家と自分との権力関係として、もう一度引きずって行くことになっていると思う。
 フェミニズムしかり。それは自己が親との関係のなかで強要されたと感じる男女の差別観から、人々の男と女の関係、家族の関係をも平等(無性)にしようとしてしまった。そして社会的な関係の中の男女の平等をも訴えたが、それは社会の成熟がこれを達成するのは時間の問題になってしまっていた。(男女雇用機会均等法、セクハラ防止法)
 あるいはまた左翼右翼や体制反体制と言うことしかり。権力として現れる親対子と言う対立関係を、社会関係として受け入れて当たり前と思ってしまっていると言うことがあろう。社会関係(たとえば会社の上下関係)は権力との対立と解釈していることでは問題解決の道を開かない。社会関係の本当の関係仕方とはどういうことか?とか、本当の問題とは何なのか?とか、現実そのものを本当に動かしていることはなにか?に気付いて行くと言う課題が最後に待っていると思うのだ。
 新新宗教に向かう子供達は、来世やはたまた前世を話題にして盛り上がると言う。自己の出生や育てられ方も無意識な解き明かしとして、親との関係や、体内での関係や、はたまた親のまたその親との心的軋轢を抱えている家族物語と考えられる。それを越えた時間軸の設定として、来世や前世へと飛翔して行くと言うことらしい。子のことはもう親にこだわっても越えて行かなければならぬのは同じことなのだから、もっと軽い話題性で越えて行こうと言うことだろうか。
 いずれにせよこれらのことは、親子の自立の問題が社会関係にまで、幻想として拡散してしまっていると考えられることを示していよう。僕等の世代は学生時代には社会革命を称える世代だったが、本当の変化というのはそんな目鼻立ちパッチリのオーバーアクションではないんのだと気付いてくることだった。家族の日常の慰安であるような関係のなかに、世界の深い理解の前提があるのだと思える。


(住まいの話から離れすぎてしまったので、次回テーマは軌道修正をしなくては。)


と言いつつ、メールマガジンで紹介された下記の新書本は、大変に優れた解り安い読み物だったので紹介します。
「家庭の教育力」は低下した?と、今とても一般的な話題を取り上げ、決してそうではないことを、明治大正昭和と解き明かして行きます。
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■ 私の書斎 ■ 1999年6月29日
http://gendai.net/books/
▼新書アラカルト
日本人のしつけは衰退したか/広田照幸著 講談社現代新書 640円
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