内容要約
  1)非行というのは全人格の問題として起こってきているのであって、決して住宅という住み方の問題ではない。
  2)住み手と言う=生活者としての在り方には、便利快適、機能的と言う、部分に答えている問題と言うこと。まさにここに答えているのが、メーカーハウスの主要なテーマとなっている。そして最大公約数的間取り。
  3)そして、その上に住宅は間取りを「表現」とする次元を獲得する。


 3)住宅が人を変えるか? 


  朝日新聞990625 18面  メーカーハウスの広告ページとして、住まいに付いての研究者と俳優との対談が載っている。そこに「家が家族のふれあいをつくる」と題され,こういう発言が載せられている。
「親子のコミュニケーションの不足が非行につながると言われますが、家族の触れ合いや会話が乏しくなるのは、住居のあり方が密接に結び付いています」と。

  ここには一応深化した論理が見えてはいる。
この手の「非行に走らない間取り」や「親密な家族関係をつくる間取り」やと繰り返し再現されるとしても、そのまま繰り返される訳ではなく、それなりに深化しているのが読み取れる。家族の触れ合いに住居のあり方が密接に結び付いており、このことによって非行につながらないコミュニケーションを計っていこうと言われている。単純に住居のあり方が家族に影響しているとは言わなくなったと言うことか。

 私の子育て時代(80年代)には、住宅のあり方が家族のあり方を変えると言われていました。完備された住宅でないとちゃんとした家族は営めないと。
これは社会的なステイタスとしての住宅観や、社会階層差別観をあらわにした世間知と言うことです。実際にはどんな住宅でも家族は営まれており、ちゃんとした家族かどうかは、その家族意識の格の問題だと思うのです。
  また躾と言うのもが、完備した住宅がないとできないと言うことが言われていました。同じことです。家族意識の格の問題だと思うのです。
そして躾では子供に口うるさく言って聞かせるのが躾と思っている人が余りに多くて、あきれます。親のやっていることが、即、躾の全てじゃないですか。人が作られると言うこともそうなのですが、躾と言う=子の格づくりは母親の体内から始まっており、子供が言葉を話すようになった時には、もう決まっていると言ってよいと思うのです。人間のあり方は、意識しえる部分だけでは捕らえられない、というのは常識であるはずです。子供ならなおさら自分で意識していることさえ言えないのですから。
家族の自然性(無意識)の回復と言うテーマがクローズアップされる時だと思うのです。

  躾を対症療法でやろうとすることも、家族の在り方を住宅で何とかしようとすることも、余りにやっつけの論理で、それはあまりにも人間の無意識の領域(自然性)を無視していると言うことだと思う。あるいは余りに意識している部分だけで人間的な在り方を捕らえられる、としている考え方です。
そこには自分の思い込みだけで世界を構成してしまっている。実際はどうなっているのか?と、世界のほうに問いかけることで世界をわかっていこうとしていないのです。これだけ不登校や家庭内暴力とか非行とかマスコミによって伝えられています。どうして起こっているのか?を捕まえなければ!と言う時に、簡単な思い付きの答えで済ましていると言うことです。そこには教育産業関係者や、住宅産業関係者としての意向が露骨に見えていると思う。



  ところで住宅の人への影響と言う論議も、「非行に走らない間取りがある」と言う=人の全人格を支配してしまうほどの力が住宅にはあると言うものから、今回の「家族の触れ合いや会話が乏しくなるのは、住居のあり方が密接に結び付いています。」と言う風に、住宅の人への影響力が、部分化=縮小してきています。
  そこをわたくしはもっと縮小して、住宅建築は全く人を変えないが、住み手や作家が大切と思う家族の在り方を表現することはできる、と言いなおしたい。それは住宅建築の在り方を、家族の個々が鑑賞者として、自分達家族の大切なものとして意識したり意志したりすることができ、自分達家族の在り方を対象化して行くシンボルや契機となる、と言うものです。

  このことの対極の意識として、メーカーハウスを購入する人々は、住宅の社会的なシェア=メーカーと言うブランドに代表される力を(みんなと同じ)ステイタスとして意識している。

  本当は住宅建築とは社会的なステイタスではなく、社会的なステイタスに対してそうではなくこうなんだと言う=個人の精一杯の主張を表現する。この個人を表わすことと、社会のみんなと言う最大公約数の中にいると主張することとは、180度違っていることになる。個人の力になれるのだと言う観点こそが、住宅建築の影響力なのだと思う。
  こういう個体の表現意識に答えると言うところで、初めて影響力を発揮しえるのが建築であり、作品としての住宅建築と言うことなのだ。




  わたくしは建築作品の人への影響力とはどんなことか?と言うところから、建築が人を変えるか?と言うことを考えてきました。その結論は、建築作品と言う時には、建築自体の密度を持った蓄積がありますから、それを踏まえたところで、この作家はこの系列のところから、表現をここまで引っ張ってきたとか言う評価になります。ですから一般の人がその作品だけ見ても、作家がなにをやっているのかはわかりずらいもので、鑑賞にも蓄積が必要だと言うことです。
  その上で一般の人にも建築を意識して見詰めて行ければ、直感的に何か!と言う感覚はあるでしょうが、その何かを対象的に取り出すにはやはり建築的な言葉一つにしても、建築造形の歴史にしても、一応の蓄積が必要で、そこからしか喋れないし、捕らえられないと思う。
  こんなことを今までに、建築作品とは?と考えてきたことです。

  このことを住宅建築に当てはめることができます。
  それは間取り表現と言うところに集中して表れると思う。
一般の人が住宅建築に思い入れできる部分も、間取りがどうなっているのか?と言うところに集中すると思うのです。それは間取りが家族の「関係」を表わすからなのです。
  ここを短絡して間取りが家族に影響すると言っては間違えます。勿論その影響は非行に走らない間取りが有るのではありません。あるいは家族を親密にする間取りが有るのでもありません。たとえば玄関から接続する
(A)廊下から個室に接続している間取りと、
(B)居間に入ってから個室に入れる間取りとは、
その間取りの各部屋の相対的な関係仕方が、居間を通って各個室に至る(B)が親密な関係と見え、廊下から個室に行ける(A)が疎遠な家族の関係を意味するように視えると言うことです。
  この時の言葉は家族の関係を情緒的に表わしますが、そのように家族の関係を変えたり影響するものでは有りません。あくまで間取りが表わす各部屋の関係仕方の相対的な親密疎遠の善し悪しでの軸で違いを示そうとしただけで、他の言葉でもいいからです。
 たとえば(A)は家族の自立した関係を表わし中学高校生や成人した子供との関係を表わしており、(B)では家族の依存的な関係を表わしており、小学生以下の子供との関係にふさわしい間取りを表わしていると。こちらは疎遠を自立と言う善し悪しで表わしたと言うことになります。

  こう言う言い換えが可能であることは、家族のライフサイクルを読み込んで行けば、家族の成長に合わせて間取りを作り替えて行けることが理想ではあります。実際に経済的な理由で、そう何回も建直す訳にも行かないですから、私達は固定された一つの間取りでありながらも、家族の関係仕方でもって間取りの不足を補っていっているのです。
 実際のところ子供の自立は家族の関係のなかでしか達成されることはないでしょう。間取りがこれを達成するわけは無いのですから。

  ところで間取りからいろんな家族の在り方が読み取ってこれることはなにを意味しているのでしょうか。疎遠、自立、親密、依存、子供の年齢、家族構成、夫婦の関係など。このことは間取りが自分達家族の関係の在り方の「表現」になりうると言うことを意味します。どういう関係の家族でいたいか?を間取りを持って「表わす」ことができると言うことを言っています。新築時には家族の意志している在り方を間取りで表わすことを選んでいることになります。

  賃貸ではこれができないので、家具の配置や、ドアの開け閉め、家族の部屋の使い方や部屋の割り当てや、時間差使用などで表現して行来ます。これを文章で表わすとなると、無茶苦茶大変な作業です。そして勿論、家族の関係し方で間取りを補うことをしていますね。


  次にここで夫婦寝室について考えて見ます。
同室同床か、同室異床か、異室異床かに分類したとき、この意味するものは夫婦の在り方の表現と見なせると言うことです。異室異床だから仲が悪いと考えるのは、一体夫婦の関係だけが夫婦の在り方と見なしている偏見です。異室異床の考え方はもっとも新しい考え方と看做せます。それぞれの個体性を大切と考える自立した夫婦の像を表わしていると考えられるでしょう。
  今なかなか夫婦達は踏み出せない異室異床の夫婦寝室の表現を取ろうとする時、作家からの後押しが、必要になっている時(時代)だと思っているのですが。

  このように間取りを住み手へ影響を与えるものと言うことではなく、表現と看做す、と言うところまで高次になった時、設計者と住み手との関係が、作家と鑑賞者の関係に転化していると考えられます。
そう住み手が鑑賞者となったところでなら、作家という位相が、鑑賞者からの受容と言う、決定的な影響が有るのではないでしょうか。それは今、生活者が本当に欲しいと思っているものだからでしょう。そこには生活者としても高度に自己対象化しえている鑑賞者であることが、不可欠になっていると思えるのです。建築の歴史が、住宅の歴史が、そして家族の歴史が、この関係を求めているはずだとおもうのです。




     補足
  住まいの人への影響と言ったら、快適さとか、機能性とか、便利さとか言う限定された部分と言うことになる。それは絨毯か畳かフローリングかと言うことであり、断熱性能の快適さであり、床暖房かクーラーかの問題だ。台所の使い勝手と言うことであり、給湯システムの快適さであり、部屋がいくつあったら快適かと言うことも含まれよう。人体の表層の感覚に属することや、心理的作用のことに属すると思う。メーカーハウスの最も主要なテーマだ。
  それに用途としての快適さというのがもう一つあって、此れが部屋数とか部屋の規模とか言うことになる。これを与えられた敷地や床面積の規模の中で、間取りに割り当てることになる。単純に人数割り当てになるのではなく、子供に何処まで個室化割り当てをするのか?、夫婦にはどう割り当てるのか?と言うことになる。ここをメーカーハウスは最大公約数で切り抜けようとし、一般のユーザーも一体夫婦の像の中にいて同室異床を選択している。ここのところは精神的内容と言うことになるのか。




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