2)子供の自立から 


  ソニーの発売したロボット犬について面白い説明がありました。
手を下方に上げると従属のお手をあらわし、中程に上げるとちょっとじゃれていているように感じ、高く上げるとすごく喜んでじゃれつく感じになると言うようなものでした。
それは勿論ながらロボットには感情はないのですが、それを眺めている人間の方が感情移入をして、ロボット犬の動きに合わせて感情を意味付けるものなのだと言うことでした。

 このことはあらゆる表現に共通していると思う。
それこそ文字の表現にしても、文字そのものに意味があるのではなく、その文字に意味を与えているのは、読んでいる読者の方なのだと言うこと。
  これは一体どういうことを言っているのかと言うと、勿論書いている作者もその文字に意味を込めて書きますが、その作者の込めた意味がそのまま読者に伝わるわけはないと言うことに着目しているのです。まさに読者の読み込みしだいで同じ作品が意味を変えるでしょう。此れは作家がどんな意味を込めたとして書いたものでも、その書かれた文字と言う「物」に、読者が与えられる意味によって決定的に限界づけられるものだから。そう一般的には読者が自分勝手に意味づけして読んでいると言うことをここでは取り上げたい。勿論読書はそれでいいのですが。

  そのことを親や子供やと家族関係の中で、それぞれの勝手な意味づけを住宅の間取りや、子供の個室へと差し向けていると言うことに、気付いて欲しいのです。この事は各自が勝手に自分なりの意味づけで物の意味を思っていても、相手はその意味では受け取っていないと言う事態を招いています。この事は言い方を変えると親子関係自体が双方の思い込みの中で推移していること意味していると言うことです。そして汲み取ってあげたいのはやはり子供の気持ちだと思うのです。子供には思い込む余地は本当はないのではないのでしょうか。与えられた自分の状況=すなわち親の思い込みをそのまま受け入れてやっていくしかない、またはやれないと言う風にやるしかないと言うことだと思うのです。

  子供に個室を与えれば自立するというのも現在から見ると、本当に突飛な発想だと思う。
  勿論子供に個室を与えてできる自立なんて大したことであるはずがない。せいぜい自分の部屋を持てたのだから、掃除くらい自分でやって行けるようになるぐらいのことでしょう。それも満足にはできないものとしか見なされないものなのでしょうが。
  ところが自立に込められた意味はそんなことではなくって、自分の将来を自分で考えるようになって=大人になって、自立してどんどん勉強に励んでくれると言うことだったりする。この進んで自分で勉強に励むことが今の時点で視えて来ていることは、アダルトチルドレンを意味していることがわかってきたのではないか。それは自分の楽しみは二の次で、親の言うことだからと、けなげに自分を押し殺してやってきてしまったことが、現在になって自分はなんだったのか?親の繰り人形だったのではないかと言う、自立とは反対にいたと言う悩みが、あるいは家庭内暴力として噴出していると、解釈できるのではないでしょうか。
  本当は逆になっている。
子供の自然な興味を肯定してあげるところに自分の世界を密実に創っていけると言う、自立が用意されているのではないのでしょうか。実際に子供と接する時、止める時には悩みますよね。
  
  ところで自立というのは大変に繊細なことで、何者にも寄らないで自分自身で物事を判断できる自己意識のことを言うわけですよね。
  この何者とは、まずは自分の両親、兄弟姉妹関係から育ってしまった関係性からの発想=身体で反応してしまうことから逃れている、自己意識の世界を持っているのかと言うことですよね。一般的に言っても、親子関係の規定を逃れるのはなかなか大変なもので、簡単ではありません。そこに過干渉教育家族の負荷が掛ったら大変なことになるのが予想できる時代になってきていると思う。

  一応ここまでが「子の自立」のことになります。けれども子の親子関係に付いての自立が達成されれば、これ以降の自立も実は達成されていると言う構造になっていと考えられるのです。それは親子関係の不整理がそれ以外の世界に付いての不整理を呼び込んでしまうと言うことらしい。

  フェミニズムがそうですが、親子関係の不整理=男女の関係性の不整理として、此れを社会問題に反映してしまって男女の関係を無性の世界としようというのがその問題意識だからです。ここで一般的なそしてフェミニズムの躓きの石は、社会の共同性がつくる男女の平等思想と、家族の男女のこととは別の次元として捕らえないと、家族の意識は霧散してしまうと言うことになっているのですが。
  実際の家族的な関係と言うのは、具体的男女のエロス的な関係意識のことで、この関係意識の中では互いに従属しあう関係と子の自立して行く在り方とのアンビバレントな在り方を慰安として形成して行く、独特の世界と言うことになるとおもうのです。ここのところを自己意識だけに裁断してしまうのがフェミニズムの考え方です。
自己意識とは別の具体的な男女の関係の世界としてあると受け入れるだけでいいのだとおもうのですが。

  ところで子供は家族からかろうじて自立を目指して行く過程で、次なる乗り越えの対象として、友達とか先生、いろんな著作、そして最後には社会や国家の言うことに対象的な視点を持つことになるはずなのです。それが自己意識と言うことの仕上げでしょう。ここまで行って自立ということな訳で、おまけにこの自立は観念としての自立以外にない、と言う在り方を取ると思うのです。すごい曖昧で、すごい難しいことですね。
  自立とはあくまで観念としての自立=自己意識と言うもので、それはフェミニズムの称える経済的な自立や、職業を持つことが自己実現と考えるのは軽率だとおもう。
  なぜならそれでは男性達は職業を持ち経済力があるゆえに自立していることになりますよね。多くの男達が会社に従属しており、言いたいことも言えないまま、また会社も自由な発想を求めていなかったのだからどうしようもないですよね。男性達はこのように会社に経済的にまた職業を得ることに、従属する。そうしなければ生きて行けない。こいう社会や国家と言うしくみに従属しながらも、観念として此れを対象化して行く自己意識と言うものを育てて行くことはできるとおもうのです。こうして観念として自分の中に蓄積されていってしまうものを、自立と言うのではないでしょうか。




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