躾と言う悪習(2) 



 いくら言っても携帯電話するのを止めないので、怒った祖父が、孫娘に軽油をかけたらストーブから引火してしまったという、祖父の躾について。


 これは明らかに躾をすることが圧倒的な良いことで、これを聞かないのが悪いのだ。躾をするには何処までやられても仕方がないのだと考えられていることが解る。けれど引火して初めて祖父の躾と言う=自分の思いが、何処に行ってしまうのか解ったのではないだろうか。いや解ったかなー。だから世の中に蔓延している口で言ってする躾はもういい加減に止めにすべきなのだ。躾しなければと言う意識がこのような悲劇を生むのだから。

 躾が自然にできるのは、普段の親の無意識な在り方がそのまま伝わると言うことしかないと思う。その上で、我慢に我慢、許しに許した上でどうしても何か言いたくなったら、こう考えるけどどうかと言うことだけ言って、後は本人に任せるしかないし、その在り方が親の在り方そのものだったら、初めから諦めるしかないものな筈だ。親が口うるさく言っている内は子供は反抗するだけなのだから。

 だから孫娘は何故携帯電話を止めなかったかと言ったら、親や祖父が口うるさく言ったからなのだ。口うるさく叱責したとき、ことは躾の問題ではなく、子供の自然な、自分自身で物事を判断して生きていきたいという自立意識を、絶対正義の良いこととしての躾という権力をかざすことになるから、孫娘は反発するしかなくなると言うことだ。ここで躾する側は、社会的な正義をかざしていないだろうか。社会は保護者達に躾を求めている。いや躾できなきゃ親じゃないと言っている。青少年事件が起こるたびに報道コメントになっているところのことだ。社会は躾を強要している。だから躾を進めることは正義以外ではないのだと。こう言うことが躾をする親子間に起こっているのだと言うことを肝に銘じて欲しい。

 だからいつでも、のべつ幕なしに注意(躾)していては、いけないのだ。いつも注意していれば、親としての躾責任を果たしているなどという考えは、余りに浅はかなものなのだ。それこそが社会が親に強要している躾意識なのだ。世の躾意識はこんな程度で蔓延しているとしか思えない。

 子供は自分自身でいろんな判断をできるようになりたいと思っている。
それを親がいつでも注意(指示)を出していると、どんなに良い指示であろうと、子供の自立意識を暴力的に押さえつけることになっていることを知るべきだ。携帯電話を止めないのはその暴力に対する対抗暴力と言うことになっている。


 これらのことは自分の娘や息子に、早く風呂に入れと何故怒鳴ってしまうのだろう?と言う内省から見つけられた。

                    010203




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