意思の躾と無意識な躾 



    概要
 躾というのを以下のように分類して考えました。

    A 無意識な躾
 親子の身体性を通した一緒に生活することで自然に伝わってしまうもの。親がそうしていれば子供もそうなるという無意識な次元での躾。本当はこれしか躾というのはないと思う。これ以外では意思の躾であり、やさしく語りかけたと言えども権力として暴力的に作用するしかない。
 躾の根本は子供自身がそうなりたいと思っているから成るのだと言うこと。すなわち乳幼児でも親のように自立して排泄でもなんでも自分で出来るようになりたいと思っていると言うことが根本にあって、それに親の実際の手助けを受けてなっていくと言うことを押さえておきたい。個体の内発欲求無くしては何事もならないと言うこと。

 ここで無意識な躾と意識の躾の境界線について書いておこう。
思わず怒鳴ってしまったとか、思わず手を上げてしまって、直ぐ後悔の思いに駆られたが、もう取り返しは付かない。もちろん子供がまずいことをしているのだから訂正はしない。怒り過ぎたことは回復しなくっちゃと言うところだと思う。もう少し言ってしまえばこれは年に一回あるかないかだと、私は思うのですが。
 ここまでは無意識な躾として許されると思う。
こう言うぎりぎりのところでやられるもの、やらざるおえなかった躾、思いあまってしてしまうことは、子供に伝わると思う。
 勿論いつも叱責していたりするのは論外と思う。反感以外生まない。
 
     B 意思の躾 
1)親が口で言って子供を躾けようとすること。
一般的にはこれが躾けと言われている。子供は乳幼児期までは親の意思を察して、何とかおとなしくしているが、一般的には小学校くらいからは通用しなくなり、それでもこれを続けると反発を生み、親の言うことを聞かなくなる。当たり前のこと。親はこれで自分のフラストレーションを晴らしているだけで、半端にしか子供にそうなって欲しいと思っていないことが、子供にばれているのだから。反抗する子供というのは健全だと思う。

2)社会の恣意(意思)の躾
 躾というのは家族内だけで躾があるわけではない。前記までが親子という家族関係のことだったが、社会という共同性の場で始まる躾と言う領域がある。学校での教育と言う範囲には、学習だけではなく、学校生活の態度を躾けることをやっているはずだ。今学校での躾が成立しないことを家庭のせいにしているが、学校という共同性では学校自身でするしかない。それは家庭とは次元の違うことだから、それは学校での態度のことなのだから、学校でこのように振る舞いなさいと躾けるしかないでしょう。それで駄目なら、学校価値そのものが子供達に信じられなくなったから仕方がないと諦めるか、学校価値そのものの変革を、子供達が本当に必要と思うものに変えることしかないでしょう。こう言う抜き差しならない論理があるんだと言うことを認めないで、他のせいにしていては駄目だと言うことだと思う。現在学校価値の不信から、不登校という子供達を生み出しているのだから。

 また大人になると会社でも行われる教育と言う躾もある。70年代猛烈社員を生み、慰安旅行まで会社ぐるみであった。近年このことに出社拒否という形で答える大人達を生んでいる。また身なりとか、出勤時間を自由にしようとか、就業中にウォークマンを聴いていたり、ノーネクタイなどの価値観があらわれてきている。これは会社での躾の自由化でしょう。

 かつては共同性を大衆が内発化させ得ていたと言うことが出来ると思う。
そして現在、共同性を大衆の自主的な受入の体制が揺らいできていると言うよりも、高度資本主義が生み出した、個体的な自由さを貫徹して行く個体商品化の達成から躾られた意識が、新たな共同意識となると言うことだと思う。若い世代から内発欲求の時代的な転換期を迎えていると見ることが出来ると思う。それは電車内での携帯電話の使用や、化粧をする若い世代に、今までの共同性の場が、個人化空間になっていることを読み取れると思う。


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   A 本当の躾=無意識な躾

 躾と言う概念が、食事や排泄の型(習慣)を習得すると言う意味であり、ならば何よりも強力に子供達を躾ているのは、人間の自然な器官への制御=成長発達と言う、身体の無意識の領域に大きくかかわっていることが理解されるはずだと思うのです。各器官の成長と言う段階と、親からのこれに対する励ましや叱責やがこれらの無意識な躾(身体)の達成に影響していると考えられます。この自然に達成されることに親が意思して介入して早期達成を目指したりすることが、「意思の躾」と言う領域になります。ここを一般に普通=躾と言っている早期教育の一環と言うことになります。それは子供の固有な自然成長時間を奪うことになります。それは母親と幼児との自然な受容の関係を親の方から早期に切り上げることを意味します。子供の方から十分な時間を生きて満足して次の課題に当たると言う自立した時間を奪うことになります。幼児期のことではありますが、成人したときの自己同一性の十分な受容段階を欠損することになると言うことだと思う。

 これら内臓器官以外に、挨拶だの、立ち居振る舞い、食事の仕方、家庭の生活習慣に係わることだったら、実は親の無意識な在り方を子供は全て映してしまっていると言うことが躾の本質だと思うのです。こう言う身体を通した毎日の接触こそが、本当に子供達を大きく躾ているのだし、問題の所在をあやまたず捕らえたいなら、この無意識な躾と言うものを最大限のものと考えねば、問題のもっとも重要な部分を落として、実は全く枝葉末節な「意思の躾」と言うことに雲泥してばかりいることになってしまうと言うことです。
 親は生活習慣を子供に躾たいと思ったら、自らが日常的にちゃんとやって見せることです。これ以上の躾は考えられないと思う。


   B1 意思の躾

 言葉が解るようになると、意思の躾が問題になってきます。皆さん教育だとか、家庭でちゃんと躾けるという、意思してする躾のことばかり言っていますが、実はこの手の躾ってそれ程のことができるわけではないのです。要するに口で言ってする躾って、結局上辺(うわべ)のことですから、そのことの価値判断と言うのは子供自身の計算の中で、それをするのかしないのかが決まることでしょう。この意思の躾は子供と言う個体のその場その場の情勢判断の問題になります。もっと言ってしまえば、親の意思による躾と見えながら、実は子供自身が自らの意識によって選択しているのであり、もし子がそうするなら親の意志を汲んで自らを躾けると言うことになります。ここで親の意思から来ることは、子供にとっては、そとからくる意思を自らも意思によって、自らを躾けるという、自主的な課題とすることが出きるかどうか、と言う課題になっています。内面化と言うことが意思の躾では大きな眼目になっていると思うのです。これ無くしては意思の躾は不能だと思うのです。この課題が自らの自立を妨げるものであることが解った時、大きなお返しの在り方が家庭内暴力と言うことになるのだと思うのです。

 反対に、いくら言っても子がしないことは、もう諦めるしかないと思うのです。いくら言ってもしないと言うのは、言い過ぎだからかもしれません。もう、わかりきっていることを、やいのやいのと言われるのは、いらだってとんでもない方向に行くしかないように仕向けていることだと思うのです。それはもう出来ないのではなく、いやだと言っていると言うことなのですから。


    家族の中での親からの社会的な躾意識

 親が子供をみんなの前で叱責していることがありますが、辱めを受けさせることが躾だと勘違いしているのではないでしょうか。以外にも親が周りの目を気にし過ぎて、自虐的になっているんですが。でも今はこういう親子は滅多に見ないけど、たまにいるんだよな。

 躾をしなければならないというのは、共同体への服従の強迫観念と同じものでしょう。共同体の共同観念とは、皆でやることを最優先に考えて、皆と同じようにやってゆかないと取り残されると言う強迫観念のこと。皆と同じことをするように躾をしなければ恥ずかしくてしょうがないと言うことでしょうか。
 それは皆と同じことをしない子供を産んでしまうことに対する恐れがあるのでしょう。今やこういう時代ではありませんが。共同体を乱すことに対する漠然とした恐れの意識と言ってもいいでしょう。

 この躾の負のお返しが酒鬼薔薇のように思います。
親が子供に権力として過剰に押さえこんでゆくところに、酒鬼薔薇の像を感じます。過剰に良いことを押し付けて言った親の在り方を感じます。だからこの良いことをひっくり返してやったと言う感じがするんです。家族内部で社会に対する良いことの押し付けを子供にやってしまっていたように思います。親の上辺の社会意識に対する強烈なお返しと思えるのです。それは親のやっていることを子供が見つめているのが、生活習慣のことだけである筈が無いと言うことの表れでもあります。
 それは社会に対する家族の意識(格)というようなものの伝達があると思うのです。言い方を変えれば、家族は共同性に対してどう自己を振る舞うのかと言う課題を持っていると言えましょう。どんなに社会意識が無い家族と思えても、その在り方そのものが社会への表現であるほか無いと思うのです。
 例えば池袋餓死家族の事件など、共同体からの一切の援助を無視すると言う「格」を持って生きていきたいと言う意識を見ました。それは共同性の在り方、援助仕方に対する再考を迫る表現と見えました。この事件以外にも家族が自分達自身の意識の内部で完結していこうとするものに見えて、実は大きく社会からの影響を読み取ることができる筈なのです。共同体の援助と見えない家族の支援の仕方、守り方と言うことではないでしょうか。


    B2 共同体の躾

 共同体に対する生な違反感情が、暴力やあからさまな拒否(粗暴)から、穏やかな拒否=不登校、電車や公共空間で床に座ると言うふうに反抗の裾野が広がっていると言うことです。暴力で押さえることではなく、躾しなきゃいかんと言う形でうるさいくらいにマスコミなんかでも、でてきていますよね。日本の共同体を見直そうと言うところからきているのでしょうか。
 けれども強制するところでは前向きなものを何も生まないと思う。反抗か、抑鬱や従順と言う反抗の先送りを生むだけでしょう。

 また学校空間でも強烈な叱責をみんなの前ですることによって、懲りて、命令どうりやるようになると考えているのかも知れない。強烈は叱責は反抗しか生まない。学校空間(共同性の場)では特にそうなっているのではないか。教師によるできない子をみんなの前で辱めてしまうことは、日常的に行われているでしょう。そしてまたこのことが子供達同士のイジメ=みんなという共同の秩序に合わせられない子を、みんなで辱めてしまうことを正当化してしまう土壌になっているはずだ。

 子供達に教育を施すと言うことだったのですが、この施しが子供達にとっても目標と捕らえられていたから今までは、学校や教育が成り立っていたと思うのです。現在不登校が問題になっているように、子供達は意識して学校の場を去りはじめています。そして本当に自分に必要と思ったところで自主学習が始まっているようです。ことほどさように学ぶと言うことが、学校で施すなり与えるなり、強制することによってなるものだと思っていた価値観が、大きく現在変わってこようとしていると思うのです。それは子供自身が欲しいと思っていないものは与えることが出来ないと言うことです。

 国家国旗についても同様のことが言えるでしょう。国家と言うことを内面化するには強制したら反発しか生まないし、内面化が遅れるだけだと思う。為政者は強制と言ういじめをやって自己のフラストレーションをはらしているように思える。
 また三里塚国際空港の問題も同じことを提起しているはずなのです。国家も教育関係者も、懲りない面々と言うことでしょうか。彼らは子供達や大人達にほんとうに解って欲しかったり、子供達が本当に国家や学ぶことを好きになって欲しいのではなく、嫌うように仕向けているとしか思えませんね。権力を行使したら反発か上辺の服従か、復讐しか生まない。戦後という時代が50年をかけて躓き、気付きはじめていることが、この権力や強制が反発(非行)や無気力(不登校)しか生まないことを証明してきたと言うことではないでしょうか。

 こんな簡単なことが彼らには本当に解っていないのでしょうか。それは自己の権力であることの行使の喜びや、フラストレーション解消のためにやっていると言うことに思えますね。イジメを生んでいる構造がそのままここにもあると思うのです。ことを強制して置いて、何でみんなと同じように出来ないのかと。この良いことを強制していること、例え良いことであっても、強制したら権力として存在しているということです。教師や親が権力として存在していると言うことです。どんなに良いことであっても、強制されたら、その良いことの問題ではなく、強制と服従と反発の問題に転化してしまうと言うことです。当初の問題の次元が変わってしまうのです。このことがなかなか了解されてこないと言うことです。現在も。たとえどんなに良いことであっても、本当にこのことを子供達にやって欲しいと思うなら、知らん顔して自分はやっていると言うことしかないと言うことです。人間の関係とはそう言うものだと言うことです。この前提を無視することが、誤解し強制という権力の問題にすり替えてきてしまったと言うことだったのです。
 間違いなくこれは良いことで価値だと思ったときに、その人は、権力として振る舞ってしまうことになっていると言うことです。


     社会の躾の内面化

 そしてこの社会からの躾は、内面化がはかれる時には身に付いたものとなる筈だと言うことはあると思うのです。この場合あくまでも自己の自由な意識によってでなくてはならないのですから、外から与えられた課題の内面化と言う困難な課題となると言うことです。外から与えられた課題の内面化と言うのは、社会からの躾と言うことです。社会からの躾は、強制と言う姿をとらずに、個々の内部からのじっくりした納得という、社会の要請に自己課題を合わせて行くということでしょう。

 またこのことが社会的なコンセンサスを作って行くことならば、社会的な躾と言うのは、普及を待つと言う在り方になると思うのです。この課題の一つに、国歌・国旗の国民個々の内面化ということがあります。法制化することや、文部省通達によって校長からも強制で学校行事で強制することで、達成されるものではあり得ないでしょう。強制が行われれば行われるほど、国歌・国旗への国民の内面化は遅れる、あるいは離れていってしまうと言うことになっている筈です。強制しようというのは、強制する者のフラストレーション解消を目標にしているとしか思えません。

 また教育そのものも、決して国家や学校が教育を強制しえたから普及したわけではないのでしょう。時代の動きや大衆の目標と一致するから普及していったのであって、そこが、あたかも強制で教育が成り立ったが如くに見ようとするもの達がいて、それは思い違いと言うことでしょう。大衆の内面化無しには有りえないことですよね。

                                 了



 これらの躾の考え方は、子供観の改変を迫るものです。子供は知らない存在ですが、親をまっすぐ見つめています。これを口で教えようとすると反発か服従しか招かないもんだと言うことです。そして子供自身は自分自身で親のようになんでも自分で出来るようになりたいと研鑽している存在だと言うことです。この研鑽に水を差さないように、黙ってただ見つめていてあげればいいのだと言うことなのです。そうでないととんでもない反応がやってくると言うことであったと言う、時代の証明を得たと言うことだと思うのです。


                   001029


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