1)はじまりはじまり 


  建築に関ってはや、四半世紀。
  
  わたくしが子育て真っ最中の頃(80年代)には、子供の躾にとって完備した住宅が欠かせないとか、個室が子供の自立を作るとか、勝手なことが言われていました。
親は親の良いように個室で子供を操ろうとし、子供は子供で勿論個室を親からの隠れ家と考えたでしょう。

  又建築ジャーナルの世界からは犯罪に走らない間取りとか、家族が仲良くなる住宅のプランというのが言われました。
  そして犯罪者の住まいはそれを表わしているものだという本もでました。
  建築家は自分の作品が、誰にでも見られる社会的な存在となってあるのだから、人々に社会的な影響を及ぼしているものなのだと言っていました。

  借家と言っても持ち家と言っても多くの間取りがあり、はたまたおおくの設計者がいろんな考えで、それこそいろんな敷地条件であらゆる間取りを提供しており、その間取りが家族に影響しているなんてとても言えません。影響しているとしたらどういうことのどの程度の影響でしょう。

  そんななかで、自分は不良な借家住まいをしながら、良好な持ち家を造っているのか?と言う思いもありました。持ち家派はものに思いを込めすぎて、自分の思いどうりになると考えがちだ。与えられた住居を住みこなすと言う借家からの視点をも含んで、よりトータルな住まいの言葉の場所を見つけたいと思う。こんな錯綜とした中で、「建築」や「住い」についてのこもごもに決着を付けたいと思ってきました。

  「住まい再考」はどんなものになるのか、なかなかイメージがうまく掴めないのですが、やっとおおよそ目指すものはこんなことかと考え始めました。
  家族にとって力になる。
  家族が軽くなれる。
今もいかにも重い家族観が蔓延しているから。




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