home
風の路
水の路
祈りの路
古の路
誇りの路
about

フンザ(パキスタン)

パキスタン北部の山岳地帯、インダス河沿いに広がる少数民族の谷。ヒトは世界で最も長寿の桃源郷、そして「風の谷」と呼ぶ。スケールの大きな山々に囲まれた緑豊かな理想郷。フンザの住人は、谷に残されたアレキサンダー東方遠征軍の末裔とされ、パキスタン他地域の人と顔が違い、青い目をしていて、宗教も違うため女性も顔を出している。庭先のリンゴの木は取り放題、春にはあんずの花が咲き乱れるという。中国・北京を出発後、シルクロードを経由し、ヒマラヤ先端部のクンジュラブ峠(4733m)の国境を越え、土砂崩れの危険路カラコルムハイウェイをひた走り、ようやくフンザへたどり着く。(フンザの地図)
(2001.09)

ウルムチバスターミナル
フンザへの旅は、中国から陸路で向かうことにした。北京から列車に乗り、西安、敦煌経由でウルムチへ。ウルムチは高層ビルも林立する大都会だった。漢民族からイスラム教であるウイグル族の世界に入り、どこか心穏やかにもなる。人も優しい。羊肉、カバブ、モモも登場する。

カシュガル・日曜バザール1
ウルムチからフンザ方面への起点となるカシュガルへは、タクラマカン砂漠の北を通る35時間にもおよぶ寝台バスの旅だった。今は鉄道も開通した。カシュガルまで来るとほとんどウイグル人だけの街だった。シルクロードの要衝。ちょうど日曜バザールの日であり、街中が賑やかだった。

カシュガル・日曜バザール2
パキスタン国境を越えたフンザの北にあるスストまでのバスのチケットを買い(場所は忘れた...)、日曜バザールをブラブラする。お土産にウイグル人の男達がみんな腰に下げているウイグルナイフを購入。カシュガルで美味しかった食事は、夜の屋台で食べた「砂鍋」と呼ばれるもの。あっさりしていて、野菜たっぷりで満足。

パミール高原の湖
いよいよ、カラコルムハイウェイをクンジュラブ峠を越える旅が始まった。カシュガルを12時に出発し、スストまでは途中タシュクルガンで泊まる1泊2日の旅。高山病も気にしなければいけない旅でもある。ゆっくりとバスは登っていき、車窓に写真のような風景が広がった。富士山と同じくらいの標高にカラクリ湖という湖があり、タジク族とパオがいくつかあった。

タシュクルガン
夜20時ごろタシュクルガンに到着。20時といっても、中国標準時の北京時間であり、中国最西部にあるこの街は時差の関係でまだまだ明るい(新疆時間18時)。バス会社にこの宿に泊まりなさいと、古い建物の交通賓館に宿泊。早速、タジク族の街を散歩してみた。丸い帽子をかぶり、女性は派手な色の民族衣装をまとっていた。タジキスタン、アフガニスタン、そしてフンザがあるパキスタンの入口となる重要な街。


クンジュラブ峠
翌日、タシュクルガンを出発し、カラコルムハイウェイに入る。バスは徐々に高度を稼いでいく。中国の出国審査場を無事通過し、いよいよクンジュラブ峠。国境線のところで休憩があり、記念写真を撮る。そしてパキスタンに入るが、面白い標識を発見。通行車線も右(中国)から左(パキスタン)に変わるというマークである。車窓は高原地帯から次第にインダス河の谷沿いを走るようになり、上も下も崩れそうな崖を通過するスリルを味わいながら、無事スストに到着。

パスーの朝
カラコルムハイウェイの旅で、フンザ地域に入り、はじめにたどり着いた村、上部フンザ・パスー。スストには泊まらず、暗闇の中をパスー村へ。翌朝、目を覚まし宿の庭に出るとお花畑が一面に広がっていた。初めて見たフンザの風景。遠くに雪をかぶった鋭く尖った山々もかっこいい。庭に椅子とスピーカを庭に持ち出し「風の谷のナウシカ」の音楽を流してみる。ちょうどサビに入ったとき、心地よい風が吹いてきた。ナウシカがやって来たのだろうか。

鶴田真由を見たやさしい目の子供たち
パスーは小さな村。小さな道では子供たちが遊んでいた。世界中どこでも見られる風景だが、フンザでは平和なゆっくりとした時間が流れる。自分がパスーを訪ねた数ヶ月前に、鶴田真由がここパスーからアフガニスタンのワハーン回廊を旅するというテレビのネイチャリング番組の取材・収録で、賑わっていたそうだ。その時取材陣から手渡されたビデオをある家で見せてもらった。「家にも来たんだよ」という子供の家で食事をご馳走になった。精一杯の歓迎に感激した。

リンゴの木
フンザはリンゴの木が本当に多い。標高は2500m〜3000mの高原地帯のためその気候に最も適した果樹なのだ。道を歩いていると、リンゴをあげるよとすぐに声がかかる。

カラコルムハイウェイのトラック
パキスタンのトラックは超個性的。飾らなければ気がすまない。ひとつのアートである。ちなみにこの国は、日本車が多く、インドや中国から来ると車のスピードについていけないかもしれない。       

パスー氷河トレッキング1
パスーはすぐそこまで氷河が迫っている。村の裏にある山をしばし登ると、目の前に氷河が広がる。夏の終わり頃だったため、相当溶けてはいたが、なかなか絶景。ひんやりと涼しい。

パスー氷河トレッキング2
氷河の反対側を見るとインダス河によって削られたフンザの谷が見渡せる。パスー村やカラコルムハイウェイを走るトラックを真上から見下ろせる。圧倒的なスケール!       

パスー吊り橋トレッキング1
パスーでは、氷河のほかに吊り橋のトレッキングも出来る。この2つがセットである。インダス河の対岸は畑もあって、村人の姿も見られる。

パスー吊り橋トレッキング2
パスーの吊り橋は、とてもとてもアドベンチャーである。高所恐怖症の人はムリ。足の間隔が1m近く空いている箇所もあり、落ちたらインダス河に流される。対岸の畑に来ていた住人と共に渡る。彼女たちも慣れているとはいえ、やはり慎重に渡っていた。       

フンザの女性
ヨーロッパ系の顔立ち。たまたま居たカナダ人旅行者と感動するほど顔が同じ。アレキサンダー十字軍の末裔と言われるのもうなずける。パキスタンはシーア派ムスリムの国であり、普通は女性は顔を見せないしそもそも見かけなかった。フンザだけは違うようだ。


ワヒ族の家
パスー村の住人の多くは、山脈をひとつ隔てたアフガニスタンのワハーン地方を源とするワヒ族。ワヒ族伝統の住居は、かまどを囲んで四方に絨毯がひかれ、かまどの上方に明かり取りが設けられた建物。パスーで泊まった宿、ドリームランドゲストハウスもこのような造りで温かさもあり居心地最高。名前の通り、夢の場所であった。       

姉妹
標高5000mを越えるカラコルム山脈の山々をバックに、パスーで出会った姉妹。照れて純粋でうれしい。個人的に旅で子供を撮ることが楽しくなったきっかけとなった写真。忙しい時、パッとしない時、ふと忘れた頃にこの絵を見ると、たちまち幸福に満たされる。

グルミットのポロの試合
パスーのお隣、グルミット村でポロの試合があった。ポロとは?とりあえず馬に乗ってホッケーをする競技のようだ。警察VS消防らしく、消防が勝利した。決まり手は、警察チームの馬が暴走し会場から逃げてしまったため。勝ったほうも負けたほうも試合の後、幸せそうに踊り歌っていた。       

フンザの中心カリマバード
フンザは最近まで藩王国だったそうだ。その元藩主が住んでいたバルチット・フォートをバックにそびえ立つディラン峰(7257m)。カリマバードは、四方を7000m級の山々に囲まれ、谷を見渡せる素敵なビューポイント。

小道
静かな午後の小道は、散歩しつつボケ〜としているのが良い。4月にフンザを訪ねたら、杏の花で谷じゅうがピンク色に染まるという。いつか、その風景を見てみたい。静寂の夜、遠くでゴゴッゴゴッという音が聞こえる。何かと思えば、それは雪崩の音だった。       

目覚めの景色1
朝、目を覚ましてカーテンを開けるとこんな絶景が飛び込んでくる!なんて贅沢なことか。カリマバードで泊まったコショーサン・ゲストハウスからは、ラカポシ峰(7788m)と遠くまで広がる谷が見渡せる。夜明けに赤く峰が染まるラカポシは素晴らしい。


目覚めの景色2
こちらは、ウルタル峰(7323m)。ところで、フンザでヒットだったお菓子は、DailyMilkのチョコレート。すっかりその後の旅のお供となった。フンザの食事はジャガイモ料理が中心。基本的に泊まっている宿で食べていた。チキンのような肉料理はたまに出てくる程度。カリマバードでは、ナン屋さんもあった。       

ラカポシBCトレッキング中に出会ったロバ
滞在中、ラカポシベースキャンプまでトレッキングに行ってきた。ベースキャンプでは天気が悪く御来光は望めず、雪がテントの周りに降り積もっていた。麓へ戻る道、ロバをひいた老人とすれ違った。




スズキの乗り合いトラック
カリマバードにて。兄弟姉妹だろうか、カメラを向けた旅人に笑顔を振りまいてくれた。そして、桃源郷フンザを後にした。カラコルムハイウェイをギルギットへ。そして、さらにバスに乗り、旅の終点、都会ラワールピンディーへと急いだ。
(2007.03作成)
(2008.01更新)       

※フンザメモ
旅行 2001年8月〜9月/北京→西安→敦煌→ウルムチ→カシュガル→タシュクルガン→(国境)→パスー→グルミット→カリマバード→ギルギット→ラワールピンディ→ラホール

テロ 旅の終盤、遠くアメリカでテロが発生し世界が震えた。しかし、インターネットどころか、電話もなぜか午前中のみという環境であった当時のフンザではそのニュースは遅く、噂のように耳に入る程度。この時は、まるで隣のアフガニスタンが標的になっているとは思いもしなかった。しかし、パキスタンの危険度が4になったという日本政府のニュースに駆り立てられるように、フンザをパキスタンをあとにしなければならなかった。フンザの幸福さに浸りきった1週間後、都会ラワールピンディで見たテロのテレビ映像で理想郷から現実に戻された。結局パキスタンを出国したのはテロから2週間後であった。ちなみに、外務省からこの件について実家に電話があったそうで、外務省内部の組織のメロメロさが話題となっていた頃だっただけに、仕事はちゃんとしているのだなと感心。また、この時フンザに集まっていた日本人はおもしろかった。国境が閉鎖されるという噂でなりふり構わず中国やイランへ向かおうとする者、戦争が終わるまでフンザに居ようとする者...危機状態を共に楽しんだ仲間に感謝。

地震 記憶に新しいパキスタン北部地震。フンザ地域でも大きな被害が出たと思うが、他の地域でもっとひどい状態になっているのかあまり情報は入ってこなかった。しかし、最近ツアー旅行も催されているようで、とりあえず安心...

※フンザの地図

大きな地図で見る

TOP       
CopyRight koki kumagai 2007