平和資料館 草の家だより
 
No.80 発行 2003.9.10



2003年 夏

T 青年の問い「戦争はなぜ悪いか」

ある青年グループから「戦争はなぜ悪いか」というテーマで話をしてくれる講師を紹介してほしいという依頼があった。「戦争はなぜおこるのか」ではないのかと聞き直したがそうではないらしい。イラク戦争の最中のことであり、すでに米英軍はバグダットを占領、フセインさがしに懸命になっていた。

世界各地でアメリカの国際法を無視した単独行動主義、力で相手をねじふせるやり方への抗議の声が空前の高まりをみせ、草の家も連日街頭に出て反戦を訴えていた。

こんな情況だったから「戦争は悪」を前提に行動している私たちには意外な問いかけであったのである。しかしよく周りを見れば反戦の声はびっくりするほど広がっているわけではなかったし、国会では有事法制が圧倒的多数で決まってしまった。数年前までは国会に出すことさえ憚れた重要法案である。アメリカの戦争に日本を加担させる法であり、いざという時は住民の権利を制限し、戦争できる国家にする法律だから明らかに憲法違反の法律である。こんな戦争法が小泉首相の「備えあれば憂いなし」の言葉にころっとだまされて成立してしまった。青年が学習したいというテーマもこういう状況を反映しているのであろう。そこでなぜこうなったかを私なりに考えてみた。

(1)報道のあり方の問題

NHKを初めとするマスコミは連日イラク情勢を報道していたが、それは基本的に戦局報道であり、テレビに映る画面は無味無臭で遠くでおきている花火のようにしか感じられないのではないか。戦争の本質に迫る解説もなければ、米英軍のぼう大な砲爆弾の下で、イラク民衆がどんなに悲惨な目にあっているかを想像できない。

(2)北朝鮮パッシングを利用したナショナリズムの潮流が強まり国家と国民の距離がせばまり、国家のもつ暴力性をみえなくしているのではないか。日本国憲法は「国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する」と明言し、国の交戦権を否定している。かつて国家には強力な軍隊があり、戦争する権利ありとされていたが、人類はこの百年間に幾度か悲惨な戦争を体験し、戦争を縛る国際法を発展させ、国連のような機関をつくり上げてきた。その最高の法が日本国憲法であり、二十一世紀の日本をはみだす世界的な精神である。また国際司法裁判所、国際刑事裁判所の成立は戦争犯罪人を裁く役割をもち、一国をこえた法の支配する社会の到来を予測している。

にもかかわらず戦争を否定する力が弱いのは、過去の戦争の事実を学校教育できちんと教えず、戦争責任もあいまいにし経済優先で「平和ボケ」したことにある。私たち戦後世代に直接的な戦争責任はないとしても、戦争責任を明確にし、戦後補償をきちんとさせる責任がある。このように考えれば日本の平和運動は過去の清算を含め、学校の歴史教育の改善に努めなければならないことになる。

(3)日本人としての誇りをもつために、歴史を改ざんして「愛国心」を強調する風潮が強まっている。「日の丸」「君が代」の押しつけ、教育基本法改訂の策動、「心の教育」の上からの押しつけなど、学校現場での自由で創造的とりくみが窒息しかかっている。

私たちの誇りといえば日本国憲法第九条こそ誇りである。しかし、憲法は基本的に国家の行為を規制するものであり、憲法の主体である私たちを規制するものではないということがよく理解されてないようだ。国民主権の立場で憲法学習を大々的におこす必要があると思う。

 ある青年の問い「戦争はなぜ悪いか」はこのような私の考察を導いた。問うことはいいことである。チャップリンが大戦中「殺人狂時代」という映画をつくった。その中で「一人の人間が人を殺せば罪になるが、戦争で多くの人を殺せば英雄になる」というセリフをいわしめている。私たちはこのセリフの疑問に答えなければならない。


U 青年へのメッセージ 感受性と想像力
 
一寸待てよ

と疑うことはいいことだ

恥しい事でもない

間違いでもない

国家は最高権力

マスコミ・軍隊をあやつり

ナショナリズムを煽り

戦争を正当化して平然と殺人をおかす

戦争の道具が軍隊であり

軍隊はその悪魔的本質をカモフラージュするために、

金ぴかの軍服と勲章で飾りたてる

自衛隊といおうが軍隊であることは

首相も認めるところ

要するに戦力なき自衛の組織といって長い間

国民を騙してきたのである

そのヴェールをはぎとらねば

真実はつかめない

私たちが国家という縛りにあるとき

疑うことは正しいこと

ブッシュは演説した

我々はテロを許さない

道は二つに一つといって

強引にアフガニスタンを攻撃した

タリバン政府は崩壊したが荒廃と混乱が残った

次は「イラクの自由」作戦だという

中東の利権を手中にしたいという意図は隠して

「フセインの大量破壊兵器」の破壊のために

武力を使うと宣言し、国連の決議や世界の反戦の声を無視して戦端を切った

「米軍の謙虚な精神が世界に理解される」

「わが国とわが国を守る者に神の祝福を」と白々しく演説をした

開戦と同時に

巡航ミサイル・トマホーク数百基を

市街地・市場・放送局に打ち込んだ

テレビは砂嵐の中を進軍する米英軍を

四六時中放映した

人々の関心はいつバグダットが陥落するか

フセインがいつ降伏するかに集中した

無味無臭の戦場が茶の間を占領する

人々は何事もなかったかのように出勤する

誰が

何人が想像できただろう

巨大クレーターの中で散乱する死骸や

肉体の痕跡さえとどめず

消え去った生命のことを

腕をもぎとられ阿鼻叫換する瞳

黒こげの丸太のようになった母の姿

マスコミはコントロールされ

これら国家的テロの残虐の事実を報じなかったが

しかし権力は一時的には国民を騙すことができても

いつまでも騙すことはできないのである

勇気あるジャーナリストの報道で私は知った

疑問をもつこと

問うことを学べ

イマジン

地下貫通弾バンカーバスターの行方を

イラク全土を死の海と化す劣化ウラン弾

強力な電磁波を放つE爆弾

数百の子爆弾をまき散らす

無差別兵器クラスター爆弾の行方を

一発でアメリカンフットボール五面ほどの

クレーターをつくるデイジーカッター

3千メートルのキノコ雲が立ち上るという

「モアブ」(Massive Ordnance Air Blast)

この巨大な空中爆弾兵器が

なんと爆弾の母(Mother of All Bombs)と

呼ばれているのだ

まるで命をもてあそぶ兵器の実験場

ほくそ笑む軍産複合体の野獣ども

死の商人たち

テレビを見るときあなたはこれら爆弾の下で

何がおこったかを想像しただろうか

為政者はいつも戦争を正当化する

満州事変然り(1931年9月18日の柳条湖事件)

共産ゲリラの破壊工作だと

アメリカのベトナム侵略の発端となった

トンキン湾事件(1964年)然り

北ベトナムの魚雷艇によって米駆逐艦が攻撃を受けたと事件を捏造して報道

今回のイラク攻撃もしかり

「大量破壊兵器の脅威」を口実に

番犬小泉号を従え俺の行くところ

敵はないのだとばかりに蛮勇をふるった

曰く

イラクは炭疽菌やボツリヌス菌の生物兵器を

所持している

マスタードガスやVXガスを保有している

五つの異なる核爆弾用のウラン濃縮法に

とりくんでいる

確かな証拠もあるといって先制攻撃の正当性を世界に向かって言明した

だが占領後米兵がしらみつぶしに探しても

痕跡さえみつからないどころか

英国政府発の情報は全くの作り話しであった

ことが暴露された

アメリカは独裁者フセインを倒して民主国家をつくるというが

これもまっかな嘘である

本当の民主国家ができたら戦争犯罪人として

ブッシュが裁かれるだろう

国土を蹂躙されたイラク民衆は黙ってはいない

今も占領軍に対するゲリラが続けられている

大量の兵器の消費はイラク民衆の命の破壊と

復讐心の生産を伴わずには終らない

強者による武力行使は弱者の恨みを蓄積する

 

疑うこと

問うこと

歴史を学ぶこと

そのための考える時を待とう

私たちは知っている

信頼こそが平和を築くということを

 

ここで私たちは

私たちの誇り日本国憲法の原点に立ち返る

「日本国民は、恒久の平和を念願し、

人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く

自覚するのであつて、

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、

われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を

地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、

名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、

ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、

平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(憲法前文)

「日本国民は、正義と秩序を基調とする

国際平和を誠実に希求し、

国権の発動たる戦争と、武力による

威嚇又は武力の行使は、

国際紛争を解決する手段としては、

永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、

陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。

国の交戦権は、これを認めない。」(憲法9条)

 

首相の「備えあれば憂いなし」などの

安易な言葉にだまされてはならない

備えとは日本が憲法の立場に立ち

活きいきした教育・文化を育くみ

世界中に平和の友をもつこと

軍隊は国民を守らない

敵をつくり紛争を生むだけ

憲法九条こそ21世紀の現実主義

私たちはこの立場を堅持する

私たちに国境なんかいらない

白い肌の人も黄色い肌の人も黒い肌の人も

みな兄弟

おはようと笑顔であいさつし

困ったときには助けあう

「ふげん」とか「もんじゅ」とかまやかしの

危険なエネルギーより

風や太陽のエネルギーを利用する社会をめざす

そしてすべての武器を楽器に

軍事費は教育と文化、環境保存にまわす

畑を耕し 漁をし 森に遊び

私たちは未来の光輝く社会を夢みる

イマジン

イマジン

あなたのイマジンが世界を変える


V 病床詠 我にまだ怒る力あり

七月七日、肝性脳症のため意識が低下

眠ったまま救急車で生協病院に運ばれる

数日して本も読めるようになり詠んだ歌十七首

肝臓の泪あふれて太鼓腹

地球の悲鳴聞くような感じ

死の渕をさまい歩いて甦る

命は深し朝鳥の声聴く

ブッシュは言う正義か悪かどちらか一つと

うぬぼれた者の近視眼の罠

独裁者の恐喝に伏して銃をとるや

九条の民今目覚める時ぞ

気力をふりしぼり書す“抗”の一字

平和美術展の壁に花一輪

群がりて憲法を生き埋めんとする輩

歴史のどんでん返し暁の時を待つ

憲法をふみにじり忘国に到るを

知らざれば之即ち亡国

沖縄のマンゴーの甘さ喉を通れば

阿波根晶鴻さんまぶたに浮ぶ

殺人を是とする軍隊ある限り

我は眠らず芥子粒ほどの抵抗なれど

灼熱のサトウキビ畑に吹く国よ

エイサーの声ジュゴンの海よ

苦いゴーヤ鰹のタタキ辛いキムチ

文化が結ぶ反基地満月まつり

玄米を百回はかんでと友はいう

歯のない悲しみ知るや知らずや

アガリスク、ビワの発酵酒、メシマコブ

ガンに効ありと友おくり来る

神さまのくれしひととき枕辺の

金子みすゞの詩心安らぐ

聖と俗不平等を温存す

天皇制に我肯ぜす(党綱領改定案を読む)

梅雨の合間に月皎々と

マツヨイ草も笑うだろう

ウソのように快くなって帰る日は

風にふうらりお船にゆらり

七月二十六日退院、この日未明イラク支援法強行採決、早朝宮城県で大地震、余震続く。

国会を包む民衆のうねりはみられなかった。

西森茂夫


 寄贈誌 
 

l         柏書房より「続しらべる戦争遺跡の辞典」

l         金英丸より「2002年夏東アジア共同ワークショップ報告集」

l         高知県退職婦人教職員連絡会「退婦教35年のあゆみ」

l         児玉房子さんより「カレンさんコスタリカを語る」、「ガラス絵に魅せられて」

l         笹川紀勝監訳「共生と人民主権」(オットー・フォン・ギールケ著)

l         森岡和子さんより「高知県幼児保育史」、「高知県幼児保育の特色」、「高知県幼児保育史年表T・U」、「資料目録」

l         一瀬敬一郎「反核・反戦と戦争責任を問い直すーヒロシマ・中慶・細菌戦・国際反戦闘争」

l         川崎理恵さんより「金子みすゞのこころ」

l         劣化ウラン禁止(NO DU)ヒロシマ・プロジェクト発行「劣化ウラン弾禁止を求めるヒロシマ・アピール」                                                   どうもありがとうございました。


初心にかえってー憲法制定時の国会論戦をみる 

 小泉首相が自民党の山崎幹事長に、結党50年あたる2005年11月に向けて「改憲」案をまとめることを指示しました。これを受け自民党は、「改憲」の手続きとなる「国民投票」法案について早ければ来年の通常国会に提出することを決めました。

  明文「改憲」、その狙いは憲法第九条をかえることにありますが、自民党は結党以来、現憲法を「押しつけ憲法」だといい、「自主憲法」制定を主張してきました。

  私たちはこの反動的動きを食いとめるため一大市民運動をおこす必要があり「改憲反対、第九条を守る市民連合」(仮称)の組織化を呼びかけます。今回は憲法制定時の初心にかえって当時の国会論戦をみてみましょう。

日本国憲法制定時の国会での論戦

 帝国憲法改正案、つまり新憲法を起草した当時の内閣総理大臣、幣原喜重郎氏や金森徳次郎法制局長官らは、広島、長崎に原爆が投下され、東京など各都市で米軍の大空襲により多数の人間が黒焦げになり、美しい街や村が焼け野原になるなど無残な結末を迎えた大戦を厳しくかつ謙虚に反省し、この次に戦争となれば「原爆による戦争」「核戦争」になる。つまり『WAR』とは核戦争を意味し、最早古典的な大砲や戦艦が活躍するような『BATTLE』のような半端なものではない、との危機感を持つに至った。

 憲法制定国会では吉田内閣の国務大臣(無任相)として入閣した幣原喜重郎国務大臣は一九四六年八月二十八日の貴族院本会議で、南原繁氏が「他国の公正と信義に委ねる」憲法九条について「東洋的なあきらめ、諦念主義に陥ることはないのか」と批判したことに対して、マッカーサー元帥が同年四月五日の対日理事会で語ったことを引き合いに出しながら次のように述べた。

「日本は全く夢のような理想に子供らしい信頼をおいているなどと冷笑するものがありますが、今少しく思慮のあるものは、近代科学の進歩の勢いに着目して、『破壊的武器の発明、発見』が、この勢いを持って進むならば、次回の世界戦争は一挙にして『人類を木っ端みじんに粉砕するに至る』ことを予想せざるを得ないであろう。

 これを予想しながら我々はなお躊躇、逡巡致している、わが足下には千仭の谷底を見下ろしながら、なお既往の行き掛かりに囚われて、『思い切った方向転換』を決行することができない。今後さらに大戦争の勃発するようなことがあっても、過去と同様人類は生き残ることができそうなものであると言うごとき、虫の良いことを考えている。これこそ全く夢のような理想に子供らしい信頼おくものでなくて何であろうか。おおよそ文明の最大の危機は、かかる無責任なる楽観から起こるものである。これがマッカーサー元帥が痛論した趣旨であります。

 実際この改正案の第九条は戦争放棄を宣言し、わが国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導的な地位を占むることを示すものであります。今日の時勢になお国際関係を律する一つの原則として、ある範囲内の武力制裁を合理化、合法化せむとするがごときは、過去における幾多の失敗を繰り返す所以でありまして、最早わが国が学ぶべきことではありませぬ。文明と戦争は結局両立し得ないものであります。『文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅する』ことになるでありましょう。

私はかような信念を持ってこの憲法改正案の起草の議に与かったのであります」

一方、吉田茂首相は、一九四六年六月二十六日の衆院本会議で帝国憲法改正案の提案理由説明を行った中で、

「(日本は)全世界に率先して戦争を放棄し、自由と平和を希求する世界人類の理想を国家の憲法条章に顕現する」との考えを表明している。

 さらに吉田首相は、「改正案は特に一章を設け、戦争放棄を規定致しております。すなわち国の主権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争解決の手段としては永久にこれを放棄するものとし、進んで陸海空軍その他の戦力の保持及び国の交戦権をもこれをも認めざることに致しているのであります。

 これは改正案における大なる眼目をなすものであります。かかる思い切った条項は、おおよそ従来の各国憲法中まれに類例を見るものでございます。

 かくして日本国は永久の平和を念願して、その将来の安全と生存を挙げて平和を愛好する世界諸国民の公正と信義に委ねんとするものであります。

 この高き理想を持って、平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行こうという固き決意をこの国の根本法に明示せんとするものであります」

 吉田首相は、北ヤ吉氏の質問に答え、「日本自身が平和国際団体のさきがけになるということを考えてこの憲法の条章の規定なのであります」とも述べている。

 金森徳次郎国務相は同年九月十三日の貴族院憲法委員会で、佐々木惣一氏が、九条の規定は日本の独立を喪う恐れがある、と質したのに対して「九条の規定は、本当に人類の目覚めの道を日本が第一歩を踏んで、模範を垂れるつもりで進んでいこう、こういう勇断を伴った規定であるわけであります』。この第一項に該当します部分、つまり不戦条約の趣旨を明らかにする規定は世界の諸国の憲法中類例を若干見うるものであります

 日本ばかりが先駆けていることではございませぬ。しかし、その第一項の規定、つまりある種の戦争はやらないということを明言するだけでは、どうも十分なる目的は達し得ないのでありまして、諸国の憲法もこれに類する定めは甚だ不十分であります。

 そうなりますとさらに大飛躍を考えて、第二項のごとき戦争に必要なる一切の手段及び戦争から生ずる交戦者の権利もなくするというところまで進んで、もって、この画期的な、道義を愛する思想を規定することが適当なこととなったと思うのであります。

 その結果として、国が現実に世俗的に言う独立性を確保する上に置いては、相当苦心を要することは、これは自然の結果であろうと思いますが、それをやらない限りは世界は救われない。こういう考えでありまして、この規定は、確実に、適正に日本が守って行くことによって、大きな世界の波乱を、良き意味における波乱をおこしうるであろうということを前途に起きつつ起案せちれたものである」と述べている。

 また金森氏は、佐々木氏が「戦争放棄の国際法的意味、効果」について質したのに対して「これは明白に国内法的規定であり、その効力もその範囲に止まる」と答弁。他国からの武力攻撃に対し、日本が武力で反撃することについても金森氏は「国際法上毫も禁じられてはいない」と述べ、またこの条項があっても他国からの武力攻撃がない、という国際法上の保証はない、との考えを明らかにした上で「(戦争放棄条項は)国内法でありながらも、同時に効果においては、世界的意義を持っているもののように思っている」と強調した。

 制憲国会で吉田首相らが九条の意義について説明するために使ったキーワードは「自由と平和を希求する世界人類の理想」「正義の大道」「平和国際団体のさきがけ」「道義を愛する思想」などだ。こうした言葉は他人から押しつけられて出てくる言葉ではない。新憲法は米国からの「押しつけ憲法」との批判はある。制定過程でそうした経緯があったことも事実だが、九条に関しては幣原氏らの真情が重なって起草されたと見る方が自然だ。

 戦後、半世紀が経過し、核兵器の性能も保有する数も一九四五年、四六年当時より一段とレベルアップしたにもかかわらず、日本の政治家は、戦争といえば通常兵器を使う『BATTLE』しか想起しなくなった。

 戦後、朝鮮戦争、中東戦争、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、コソボ紛争など多くの戦争が戦われたが、原水爆が使用されたことはない。

 核保有国同士の戦争はなく、米国が言わば弱いものいじめをしたにすぎないが、米国は、局地的な戦争は可能である、ことを印象付けることに成功している。最近のコソボ紛争では、ユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領による民族浄化を制裁する、という大義名分の下に、空爆したが、それによりミロシェビッチのやってきたことよりも悲惨な結果をもたらしている。

 米国の軍需産業に必要な戦争、汚い戦争であることが日を追うにつれ明らかになっている。しかし、こうした米国のワンサイドゲームをテレビで見る若い政治家たちと戦争を知らない日本国民は、「戦争」とは吉田氏たちが危惧した核戦争ではなく、『BATTLE』と観念するようになっている。

 甘い戦争観と言わざるを得ない。局地的な紛争が『BATTLE』にとどまっているかどうかは誰にも分からないのだ。米国から「日米安保条約の枠組みの下で、あるいは国連の平和活動の一環として、アジア太平洋地域をより一層平和で安定した地域にするために日本が米国とともに集団的自衝権を行使できることを明確にすべきだ」との再三にわたる要請がある。改憲論者は、戦争が通常兵器によるBATTLEなら、憲法を改正して、自衝隊も鎮圧に参加した方が、米国や国際社会に対して日本の発言権も高まる、と考える。

 上滑りなプラグマティズムであり、甘い戦争観の典型だ。戦後保守政治の「米国の茶坊主路線」の行き着く果てとも言える。支配階級の「他人は死ぬが、自分や自分の身内は死なない」という身勝手な考えが露骨に示されたものとも言える。

日米二国間で集団的自衛権行使の問題を考えるべきでない。米国が介入するあらゆる紛争に日本は軍事的に加担することになる。韓国はベトナム戦争の際、米韓相互防衛条約に基づき、韓国軍を延べ三十一万七千人派兵した。金大中大統領は一九九八年、ベトナムを訪問した際、韓国軍の派兵について遺憾の意を表明した。日本も韓国と同様の惨めな結末を迎えることを覚悟しないといけない。

(『戦後政治にゆれた憲法九条 [第2版]』、中村明、2001、中央経済社、320〜325より)

 


憲法の森 を美しい森にみんなで育てよう!

 今NHKの人間講座でC.W.ニコルさんが「森から未来をみるー黒姫高原で考えたこと」を放映しています。ニコルさんが黒姫に森づくりをはじめて20年近くなるようですが、木々は美しく輝きツキノワグマもくる立派な森に成長しています。

 憲法の森は1995年戦後50年の節目に誕生しましたから2年後には10周年を迎えます。1994年11月に憲法の森構想を発表してから林学の専門家にも意見を聞きましたが、周りがスギの人工林ばかりのところに広葉樹を植えても動物の食害にあってまず育たないよという返事、それでも私はあきらめきれず大豊町の立川に元々あったであろう広葉樹の苗を植林はじめました。植えた木は50種4800本ほどですが三分の一が枯れたり、食害にあったりしているものの全滅ではありません。手入れ不十分で草刈りもろくにできなかったことが逆に食害をふせいだのかもしれません。成長の早い木は背丈の2倍ほどになっていますが、ヤブツバキなどは草にうもれてじっと光をまっています。

美しい森に育てるためには下草をかり、不必要な木は切ったり剪定してやらなければなりません。地元の方に森番になっていただき、その人のアドバイスで私たちが労働するというのが一番理想ですが、残念ながらそういう体勢をつくれないでいます。

しばらくはみんなの力でやるしかありません。今年は雨のため2度計画が中止になりましたが、これからは毎月1回ほどのペースで育林作業をしたいと思います。当面9月17日(水)10月12日(日)11月9日(日)を考えています。準備の都合もありますので行ける方はご連絡下さい。


 大川村診療所だより (1)

田村 有里恵

 

西森先生から「大川村での日々の出来事、村人のことや自然を気軽に書いてください。」と言っていただいたのが今年の7月でした。

大川村小松診療所で勤務してまだ4ヶ月ですが、この4ヶ月で、今までに経験したことも想像したこともないことを経験しました。また、これからも沢山経験するのだと思います。その一部を紹介できればと思っています。

まず、「なぜ私が大川村で僻地診療をしているか。」ですが・・・。この度は正直に認めます。西森先生の影響が大きいのではないかと思います。私は西森先生に中学時代に生物をはじめ色々なことを教えていただきました。しかし、「私は、絶対に西森先生の影響は受けない!」と中学時代に強く思ったものでした。なぜなら、大野見村の林間学校でクラス全員が、伐採体験後、山の中に「おいてきぼり」にされたり、修学旅行では、学年全員が古墳地帯で迷子になったり、と、散々な目に会ったからです。しかし、折に触れて、工石山と聞いて、「西森先生と遠足に行った山」、大座礼山と聞いて、「西森先生の大好きなブナの原生林の山」とすぐに思うのは、宇宙船地球号の大事な話を誰よりも先に、誰よりも熱心に教えてくださったからだと思います。

次に大川村を簡単に紹介します。人口が530人と全国で4番目に少ない村です。半分以上が60歳以上の方と言って過言でないでしょう。しかし、70歳代までは働き盛りという印象があります。特産と言えば、謝肉祭で有名な大川牛がありますが、ほとんど牛は見かけませんし、私の口にはほとんど入りませんが、牛の角に突かれて急患が来ることで、大川牛の存在を実感しています。自然に関しては、早明浦ダムと森林が村の大半を占め、大座礼山や東光森山などがあり、バス釣りの方や登山の方を見かけることもあります。患者さんは、診療所に来ることを「山から下りてくる」と表現し、交通手段がない方が多く、診療所から毎日バスを出して迎えに行っています。大川村は立地条件や老人単独世帯がほとんどの為、寝たきりの方の在宅は困難で、ほとんどが村外の施設へと出て行ってしまいます。とても残念なことだし、問題なことだと考えています。

最後に最近一番大変だったことを紹介しましょう。7月末に訪問診療に行ったときのこと。「家までは車は入れませんから少し坂を上っていただきます。」との言葉を信じ、気軽に登り始めたところ、歩けども歩けども、家はなく、30分の登山の末、やっと行き着いた先は、80歳代の老夫婦の家でした。その後、涼しい顔で診療ができたとは口が裂けても言えません。しかし、奥様は全盲の為、御主人が日用品を持って、毎日この登山道を往復していることを聞いて、脱帽しました。しかし、奥様が入院治療を必要とした場合、この登山道は当然下りられないため、下りる手段を今から考えておく必要があると思っています。

次回は東光森山の登山道を作った山の達人のお話ができればと思います。

 
念願だった、金英丸さんとの「韓国・平和の旅」竹内 功

 金英丸さんに機会があれば是非一緒に韓国平和の旅をさせて頂きたいとお伝えしてありました。1年ほど前のことです。その時はまだ一度も韓国を訪問していませんでした。しかし国際交流協会からの依頼で韓国の教師を2回と大学生1回のホームステイはさせて頂いていました。2回目のホームステイの機会に韓国語の学習をラジオとテレビで始めました。年齢のせいもあって学習成果は惨憺たるものです。それでも、継続は力と信じて続けて一年半になります。挨拶程度はできないと韓国には行けないと思っていました。その、第一の理由は日本帝国主義が母語を奪った国ですから。韓国語を学んだ1年後、Y旅行会社の格安の韓国ツアーがあったので妻と二人で参加しました。慶州とソウルの間の歴史観光でした。同行の仲間は中年から老年までの十数名でしたが歴史認識は乏しく、買物を楽しんでいました。

 私は退職して17年の間に中国に8回(内、中国語学習留学1回、草の家平和の旅に4回、観光3回)、マレーシア・シンガポール1回(歴史教育研究者高嶋伸欣さん指導の調査)、フィリピン6回(内、3回は平和の旅、3回は次女の家族訪問)とアジア太平洋戦争調査の旅をしました。何れも主たる目的は、侵略と加害を認識し被害と加害の死者との対話を願ったからでした。教科書に毛の生えた程度の私の認識で、40年近く子どもの前に立ち、父母と接してきた自分が如何に不勉強で無知であったかを痛感し慙愧の思いに曝された旅行でした。しかし、家永訴訟の支援をしながら学んだ事がせめてもの自分に対する慰めになりました。

 高専の東南アジアからの留学生に日本語と日本事情を共に学ぶ機会を与えられて、バングラデイシュ、マレーシア、インドネシア、ベトナムなどの若者に数年間も接する機会を得ました。文部科学省から学費を支給されていた彼らは自らアジア太平洋戦争を語りませんでした。しかし、お互い心が開かれると、彼らの祖父母、父母の多くは侵略戦争の犠牲者であり学校の歴史学習で侵略による被害の歴史を学んだことを語ってくれました。日本の学校教育に加害の歴史が欠落していることは、アジアのこの地域で戦争餓死をした数十万人の魂を放棄している事実と共に21世紀を生きるわれわれ日本人にとって不幸なことです。

 この度の旅行は台風のため日程が1日短縮された6月20日出発、6月23日帰国というハードな旅でした。金さんの周到な配慮で私の予想を遙かに越えた内容となりました。

今、すぐ眼に浮かぶのは「ナヌムの家」と「日本軍慰安婦'歴史観」訪問、「弾琴台」、壬辰倭乱遺跡訪問と東アジア平和のための共同記者会見と声明発表、そして「梅香里」米軍爆撃場視察、また、最初の夜の忠州環境運動連合運営委員との交流などです。人との出会いの中でも金さんの母堂との対面、大阪の森井淳吉さんとの同行、大学生との対話、弾琴台での巫女の壬辰倭乱の犠牲者を弔う舞、などなどです。弾琴台での巫女の壬辰倭乱の犠牲者を弔う舞を見ながら幡多郡にある「朝鮮国女の墓」を思い出しました。

どうしても次の機会に学びたいというものは古代文化のほかに日本帝国主義支配の歴史です。1989年マレーシア・シンガポール平和の旅のとき同行させて頂いた京都北白川教会牧師小笠原亮一さんから「三・一独立運動と堤岩里事件」を初めて教えて頂きました。安重根が洗礼名トマスということも教えて頂きました。

 戦時中、小・中学校で朝鮮の友人と交わり幼い友情が交流できました。差別や偏見はなかったと思います。軍隊で朝鮮の頑健な戦友や上官に接したときはふと疑問がよぎったことは事実です。「アジアの解放」とか「東洋平和」とか唱ええるときこの人たちは何を思っているのだろうかと立場を換えて考えました。

 政治家をはじめ私たち多くの国民の無知を歴史と真理に恥じない知に転化する道を拓く旅行になりました。しなければならない仕事と共に仲間が増えていることも事実です。そんな自信と展望も持てた旅行でした。

 金さんと草の家に毎度のことながら感謝いたします。


草の家日誌

l         /15 Peace Wave 2003スタートの集い、中央公園でピースライブ21組のミュージシャン参加

l         /20~23 「韓国・平和の旅」8人参加(ソウル、忠州、ナヌムの家、梅香里米軍爆撃場)

l         /28 第21回平和七夕まつり つり上げ作業。88連の折り鶴吹き流しで京町、新京橋を飾る。8/1まで

l         /1 「高知の戦争遺跡」(改訂版)、写真集「高知の空襲」(改訂版)発行

l         /1〜6 第25回戦争と平和を考える資料展(自由民権記念館)1高知空襲展2軍隊のない国コスタリカ3イラク侵略写真展(森住卓)4歴史が止まっている民族―在韓朝鮮人(日本軍性奴隷被害者)写真展、入場者約400名と予想より少なく課題を残した

l         /4 高知空襲犠牲者追悼集会:嘆きの森

l         /4 戦争の語り部活動:岡村正弘(6/10 岡豊小、7/2 小高坂小、7/4 潮江小、8/6 安芸川北小、8/20 繁藤小)、川村高子(6/20 高岡小、8/6 安芸伊尾小)、坂本安(7/4 介良小)

l         /7 アジアの人々と連帯する市民の集いー中国残留孤児国家賠償訴訟について:草の家ホール、講師:橋本左内、参加者:40名

l         /8 第20回反核平和コンサート:グリーンホール、500名

l         /11 朝日新聞の「文学の力」シリーズ4に槙村浩が思想に徹した志高い反戦革命の詩人として紹介される

l         /12 こうち市民平和行進―主催:高知生協

l         /12 第10回草の家小劇場「沖縄・韓国の米軍基地を考える」:韓国の反基地闘争ビデオ上映、発表:金英丸、仲原英哉、参加者:20名

l         /20 「心の教育」について高橋哲哉氏講演会:高知城ホール、主催:子どもと教育を守る高知県連絡会

l         /21 憲法の森草刈り 雨天ため延期

l         /22〜26 第9回平和演劇祭「はだしのゲン」、主催:高知市民劇場

l         /26〜27 第33回空襲戦災を記録する会全国連絡会議参加(愛知県豊橋市):岡村正弘、岡村花子、梅原憲作、植田幸作

l         /27 岡山医療生協40名来館

l         /27 第18回高校生平和祭―韓国・朝鮮を知ろう、金英丸講演、30名参加

l         /31〜8/2 歴教協全国大会、1030人参加、金英丸発表(平和教育、人権・国際連帯、地域合同分科会)

l         /2 草の家理事会

l         /5 安芸教祖青年部学習会、講演:玉置啓子

l         /5〜10 北海道札幌・朱鞠内を中心に「2003夏東アジア共同ワークショップ」金英丸他7人参加

l         /6〜10 第20回平和美術展―20回回顧展を中心に、64人・128点出品、1923名参観

l         /11〜14 幡多高校生平和ゼミナール20周年「共生の旅」で釜山へ、金英丸案内

l         /15 第4回平和のための子どものつどい、子どもの朗読、金正姫さんの朝鮮の歌と踊り、30名参加

l         /17 第20回平和映画祭「住井すゑ百歳の人間宣言」(グリーンホール)、150名

l         /18 田野中平和学習金英丸講演

l         /20〜25 金正姫さん内田脳神経外科、湯の里、ヘリオスの3ヶ所でコンサート

l         /23〜24 戦争遺跡保存ネットワーク全国大会(大分県宇佐市)参加:窪田充治、出原恵三

l         /24 社会教育研究全国集会(岡山)の平和教育分科会で金英丸発表

l         /30 「さるとび21」第31号発行

l         /31 第20回平和映画祭下山事件を描く「黒い潮」(県立文学館ホール)、150名

l         /1 槙村浩祭、関東大震災のビデオ上映、朗読、猪野睦氏の講演「詩集刊行の意義」、30名

l         /3 槙村浩墓地修復竣工記念墓前祭

l         /6 高知の戦争遺跡保存の集い

l         毎週日曜日(3〜5時)に街頭で反戦を訴えピースライブを続けている。