平和資料館 草の家だより No.76 発行 2002.11.1 |
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'拉致'、′戦争責任'そして′東アジア市民連帯'を思う -済州島(チェジュド)での東アジア共同ワークショップを終えて- |
風景1. 2002年10月、高知で 拉致被害者の24年ぶりの帰国ニュースが連日マスコミを飾っている。彼らの24年ぶりの感動的な再会は最近感動の少ない日本社会を涙の海にするのに不足しなかった。私もニュースを見ながら何回も涙を流した。 何らの考えなしにテレビを見ていていたら過去と現在を通じて朝鮮と日本の間には拉致問題以外にはまるでどんな問題も存在しなかったし、今も存在しないことのように感じられる。 "忘れたい植民地支配の歴史はお金で解決すれば終わる。でも拉致問題はがまんできない。"というマスコミの論調である。権力とナショナリズムによって'記憶'と'忘却'という行き違った運命を強いられる歴史的事実を考えねばならない。 風景2. 2002年8月、韓国済州島(チェジュド)で 去る8月、日本の北海道、東京、大阪、高知そして韓国のあちこちから100人余りの若者達-日本人、在日朝鮮人、韓国人-が朝鮮半島の南端にある小さな島、済州島に集まった。'忘却'を強いられる歴史的事実を'記憶'にとりもどすために・・・ 済州島(チェジュド)は日本では'韓国のハワイ'と知られた韓国第一の観光地だ。しかし眩しく美しい済州島の風景の後には植民地支配と分断につながる韓国近現代史の悲しい歴史が盛られている。日本の沖縄が日本近現代史の痛い記憶を盛っているように・・・ 1945年8月15日、朝鮮半島が36年間の日本植民地支配から解放された日にも済州島の住民たちは日本帝国主義が中国侵略のために作っていた飛行場で強制労動をした。日本軍が去った済州島にはまた他の占領軍米軍がその席を代理して来ただけだ。統一された解放祖国を建設しようとする民衆たちの熱望にもかかわらず朝鮮半島は米ソ帝国主義両陣営によって南と北に分断された。 一方、占領軍米軍政の続く弾圧と朝鮮半島の分断を固着化しようとする韓国だけの単独選挙に反対して済州島の住民たちは1948年4月3日、一斉に武器をもって抵抗した。これについていわゆる'レッドハント'(アカ狩り)と名前付けられた米軍政の無慈悲な虐殺-三光作戦、三尽作戦-が加えられた。その結果、今もその数を正確に分からない位に多くの無辜の住民たち(3万-8万)が死んだ。 その後も朝鮮半島の分断状況と軍事独裁によって50余年が超える歳月の間'4・3民衆抗争'は'共産主義者たちの暴動'と呼ばれ、その家族たちは'アカの家族'という汚名を被ったまま息を殺しながら暮さなければならなかった。今も済州島の山と野には家族を求めることができなかった幾多の犠牲者たちの遺骨が埋められている。 このような悲しい歴史を納めた済州島で'東アジア共同ワークショップ'の名前の下に集まった若者達は一緒に東アジアの歴史を向い合った。 今も済州島の山河のあちこちに散らばっている日本帝国主義軍隊の戦争遺跡と4・3民衆抗争の現場を足で尋ね歩いて、抗日闘争に先に立った海女たちの話を聞いた。また虐殺を避けて大阪や東京に帰らなければならなかった在日朝鮮人たちの歴史を思った。 若者達が向い合った済州島の歴史と住民たちの生は帝国主義侵略と植民地支配で染められた東アジアの歴史的悲劇がまだ終わらなかったことを証言していた。また若者達にまだ解決されてない東アジアの歴史的課題を明確に見せてくれた。 国境を超えて済州島に集まった若者達は一緒に過去を直視する経験を通じて東アジアの現在を身で直接体験し、夜を明かして平和のための東アジア市民連帯を一緒に話し合った。 風景3. 2002年10月、また高知で "いつ、どこに引かれて行って、どんなに暮して死んだか、今その遺骨はどこにあるのか分かりたい。" 死亡消息が伝わった拉致被害者家族たちの胸が痛む叫びを聞いて私はもう一度涙を流した。 植民地朝鮮で日本に強制連行された朝鮮人たちは100万人を超える。戦後57年間日本政府は謝罪もどんな賠償もしていない。拉致が事実で認められた後、日本あちこちで在日朝鮮人たちに対する脅迫が続けてあった。強制連行犠牲者たちの子孫である在日朝鮮人たちは今も日本社会の差別に対して闘っている。 2002年8月、済州島で高知の青年植田二郎と私は、'天皇陛下'と'大日本帝国'のために済州島の美しい海で毎日死を練習しなければならなかった当時の15・6歳の日本青年逹の生に一緒に向い合った。今も自殺特攻隊'回天'の壕がそのまま残っていろところで。 ある人が'国民体育大会'が開かれる高知に来た。全国各地から集まって来たという警察が街を占拠した。その人が通る姿を見るために大勢の人々が数時間を待つ手数をいとわず、そのうちある人は仕事の休みを取って街で日の丸を振った。 私は今日も日の丸がなびく高知の街で'戦争責任'と'東アジア市民連帯'という二つの単語を思う。 2002.10.29.金英丸 東アジア連帯の輪を大きく開く 出原恵三 「東アジア共同ワークショップ」が8月21日から25日まで韓国済州島で開かれた。このワークショップの目的は、韓国、在日、日本の参加者が「過去を心に刻み」、「その事実を共有し」、「共に未来を創る」ことにある。いくつかの分科会にわかれたが、私は「植民地時代の済州島」に参加して、日本軍によって作られた戦争遺跡を巡った。海岸に残る特攻基地や山腹に巡らされた陣地壕、そして飛行場あとに残る夥しい数のコンクリート掩体。これらの一つ一つは、日本のアジア侵略とその帰結を如実に語っている。まさにその事実を共有できる空間である。近代日本の富国強兵と拡張路線がアジアの民衆にとって何であったのか、半世紀以上を経た今日においても迫ってくるものがある。 74歳になる現地のハラボジ(おじいさん)は、当時のことを実に良く記憶しておられた。特攻隊の横穴は、全羅南道から徴用されてきた人夫によって掘られたこと、軍人に部屋を占拠されて家族は炊事場での生活を強いられたこと、またヤマムラ部隊長、予科練、七つボタン、震洋などの日本語も出てきた。 参加者は全員戦後生まれ、学生、研究者、会社員など年齢も職業も実に様々である。韓国や在日の参加者も特攻隊やここの戦争遺跡については初めての方が多いようであった。死を目前にした同年齢の人間が、この横穴の中から毎日どんな気持ちで海を見ていたのであろうか。国籍に関係なく吐露された感想である。それぞれの参加者が背負っている自らの歴史をフィールドと対話を通して検証し深めて行く、そのことによってはじめてお互いの信頼が築かれ、歴史的現代を確認することができる。 ワークショップに参加して素晴らしい仲間達に出会うことができた。歴史に目を背けず共に真実を追究することによって果たせた成果だと思う。今回の企画・運営は韓国の大学生が、中心となって行われたと聞く。今までに経験したことの無いような有意義なワークショップであった。この連帯の輪がもっと大きく広がる為に私も努力したいと思う。 家に韓国人がやってきた! 植田二郎 僕19才、日本の高知県に住んでいる。 高校卒業しての生活といえば、毎週借りてくるレンタルビデオ、毎朝の新聞配達。 そんなある夜、家に韓国人がやってきた。家の両親がご飯に招待したのだ。年齢は30くらいの細めな身体で背が高い、名前は金英丸(キム ヨンファン)といって色々なことを知っていた。映画や音楽のこと日本のことも、僕は韓国映画がだいすきで話がもりあがった。 その日、ヨンファンから「東アジア共同ワークショップ」と言う、韓国人、日本人、在日韓国人が集まり、こんど韓国の済州島という島で、若者も一緒に色々と韓国と日本の歴史をテーマとして、語り合うイベントがあると教えてくれた。まず聞き慣れない島と在日韓国人という存在にあまり気づかず過ごしてきた僕はすこしとまどった。帰りにヨンファンから名詞をもらった。そして次の日、ヨンファンに電話したのだった。 8月20日、岡山空港からソウルに飛んだ。 高知からはヨンファンをふくめ7人が参加することになった。ソウルでは一泊することになり、ヨンファンの友達のマンションに泊めてもらうことになった。びっくりしたのがマンションの高さだ30階ぐらいはある、それに初めて食べたビビン麺の辛さにはおどろいた。それと生の韓国語に一人感激していた。とまあ次の日、飛行機に乗り遅れそうになりながらも、ソウルから済州島にぶじ到着した。 済州島は、緑がおおく海が近い、ちょっと高知に似ているかな・・・なんて思いながら合宿生活が始まったのだ。そこですぐ友達になったのが、韓国人だけど今は日本に住んでいる相明(サンミョン)と、在日韓国人の(ジョンファ)だった。なぜかうれしかった。 チームにわかれ、好きなフィールドワークを選べるようになっていて僕は「植民地時代の済州島」を選んだ。一日一日色んな場所の戦争遺跡を見に行った。海岸沿いの岸壁に掘られたというか掘らされた洞窟には、つるはしの跡がのこっていた。洞窟は人間魚雷といって僕ぐらいかもっと下の年齢の日本の少年が突っ込んで行くという魚雷艇の置き場だった。洞窟の中から見る外の光は海に反射してまぶしく奇妙だった。軍服についている七つのボタンは英雄の証として、お国のために死んでゆく・・・結局ここでは一人も出陣しなかったらしいので、ほっとした。 洞窟や、芋畑がひろがる所にある飛行場でも、今では生活道具の保存場所になっていた。海女さんの道具や農業に使う農具、野菜などが保存され、現地の人は戦争の遺跡を壊すわけではなく生活に利用できる物は使う、という人間らしさがうかがえた。一日一日の最後にチームのみんなが集まり、今日感じたことを話す時間が作られていた。韓国の人は自分の意見をしっかり持っていて行動的にみえた。自分もそうでなければいけない、そうなりたいと強く思った・・・ワークショップでの日々は韓国の歴史を知るということ、日本の歴史を見つめることですごく僕の身体にしみた。 韓国人、日本人、在日韓国人の中で学べたといことは僕にとって大きく、ワークショップのスタッフは暖かく、韓国の友達もできて、すこしの韓国語で映画の話やたわいもない話をした。みんな夜通し起きてお酒を飲んだり語り合った。 こんど、これを切っ掛けに釜山でおこなう「釜山国際映画祭」に行くことになったのだ。これから僕にとっても、韓国はもっともっと近い存在になるだろう。
サランヘヨ♪(愛します) 山本哲治(通称 てっちゃん)
今回、韓国の済州島での「東アジア共同ワークショップ」に参加して、韓国特有の文化と歴史を肌で感じ取ることができた。非日常的な日常の中で、国と国、人と人との関係のあるべき姿が少しだけではあるが見出せた。 私にとって初めての海外旅行がこの韓国であった。韓国に降り立ったときは、色んな衝撃を味わった。まず思ったのは、異国の地にいるにもかかわらず、人の顔立ちや街の雰囲気が日本のそのものと似ているということだ。ただ、目にする文字や耳にする言葉だけが違っていた。私自身この地に対して親近感を覚えた。 ワークショップでは、私は「済州島と女性」チームだった。まず初めに済州島の文化や歴史に触れたのは、植民地時代に日本へ強制連行され、現在済州島に住んでいるハルモ二(おばあさん)の話しを聞いたときだ。彼女は、辛い過去にもかかわらず、私たちにいやな顔ひとつせずに話しをしてくれた。その話しに対しての質問の中で、「日本は好きですか」と、ある青年が問いかけた時に、「好きだよ」と答えてくれたことが、日本人の私にとって驚きとともに安心感さえも与えてくれた。次に、海女さんの抗日闘争にかかわり、その事実についての本を書いたハラボジ(おじいさん)に出会った。その後海女さんの話を聞く機会もあった。彼女たちの言葉の節々や態度からは男勝りの強さを感じ取った。それは、女性が強い力を持つ済州島の特質が反映されたものなのかもしれない。これらの話しを聞く中で、自分がまだ知識不足だとつくづく思い知らされた。しかし、自分が学習不足だと実感できたことも大きな収穫のひとつだと思った。これから先にこの経験を生かしていかなければならない。 |
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「日 本 鬼 子」 アンケート結果 |
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き:9月18日(水)(4回上映) l
ところ:自由民権記念館ホール l
参加者:370余名、アンケート応答者:73名
● 戦時中のことをもっと良く知りたいと思っていましたが実際のお話を聞く機会が今までなかったので良い体験をしました。今私共若い世代から見て思うのは"戦争の記憶が風化されつつある"という事です。 けれど、私たち若い世代こそが戦争の記憶を語り継いていかねばならないと、本当に今日の映画を見て感じました。又こういう機会があれば是非伺おうと思っています。ありがとうございました。(19才、女) ● 人間がおそろしいと思った。60年近く過ぎた今、始めて戦争時の日本の軍隊の実態を知り、おどろいている。一人でも多くの人に聞いてもらいたい、見てもらいたい日本鬼子でした。(65才、女) ● 今映画が始まって2時間です。精神的に辛くなったので途中休憩を勝手にしています。…沢山の方がこういった映画を観に来ていることが、こういった映画が上映されることが嬉しいです。(30才、男) ● 衝撃的で生々しかった。人を人でなくする。戦争のおそろしさは加害、被害に関係なくおとずれるんだと思いました。なぜあんな経験をたくさんの人がしたのに、今の政府の戦争しようとするのを認める人がいるのか分からないです。もっとたくさんの若い人にみてほしいと思いました。(22才、女) ● 今、イラク問題、北朝鮮との関係など平和について様々な重い問題が日本人一人一人につきつけられている中で、そういう問題についての無関心、また過去の事実を封鎖しようとする風潮のあることも事実である。そして危機感を感じながらも、自分がそういったことにどれだけ誠実に向きあえているかを自問する時、自分の行動がなさけなく思えることもある。そのような中で、こういった映画がつくられ一つの歴史の証言として多くの人々の心を打ち、平和作りのためにどれだけの威力を発揮するかと考え見ました。私も歴史の問題を深く学び直したいと思います。(34才、女) ● この映画で証言なさった方々に感謝します。戦争の本当のおそろしさを知りました。改めて平和の大切さを実感しました。(40才、女) ● 北朝鮮による拉致事件に対する昨夜の日本遺族の会見、熱く涙した日本人も多いことだろう。しかし、大事なことはこれを北朝鮮が日本にした一事件としてとどめ反北朝鮮の考えにとどめてしまうのか、それとも日本が起こした強制連行への学習へと発展し、そこから人間一般の恐ろしさを学ぶ教訓まで高めていくのか、大きな別れ道であると思う。(44才、男) ● 戦争の本当の姿を知る事が出来た。若い人はもちろんだが政治家を集めて上映会に強制出席させたい。(50才、女) ● 私も17年以降終戦まで中国湖南省で通信隊にいましたが、今日の映画を見て二度と戦争など起こすなとつくづく思った。(80才、男) ● 「戦争だから非道は仕方ない」という言葉は通用しない。戦犯管理所に育っていた大きな梨の木を思い出し感無量です。(71才、男) ● 人が対処不能に立ち至ったときには、泣くか笑うか怒るしかないとは思う。彼らには自身の怒りの感情を引き出すしか、次の一歩への踏み出しようがなかったわけだから、腑には落ちるのだが、とてつもない発想で驚かされる。こういうリアリティは、やはり当事者でなくてはかなわない。被害者のみならず、加害者も心身がずたずたにされていたことが偲ばれる。加害行為の残酷非道さともあいまって思わず戦慄し、暗澹たる気持ちになってくる。加害行為を語ることを始めて、夜中にうなされることが少なくなったと語る元兵士もいた。贖罪や使命感だけではないものが彼らに言葉を継がせていることの窺えるところに説得力がある。こういう言葉と表情の力を前にして、彼らの証言活動を「洗脳による虚偽であり、自酷史観の根原だと批判する」という"自由主義史観"というのは、いったい何物なんだろう。(山本嘉博) |
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戦争と感情 ―連綿と続く鈍感社会― 野田正彰(京都女子大学教授) |
戦後ワンサイクルを終えた。 しかし社会は大きく変わったようで、変わっていない。文化の連続性を、思い知らされている。例えば「戦争神経症」という概念がある。PTSD(精神的外傷後ストレス障害)と密接な関係にあるこの概念は、戦争の中から確立していった。社会的に大きく登場するのは、第一次大戦だ。例えば塹壕(ざんごう)の中で、身体的には異常はないのに、足が動かなくなる、声が出なくなる…。精神を脅かされ、無力なままにとどめられれば、人間は精神的に解体する。米軍の記録によると、第二次大戦の戦争神経症者は、全兵士の一割から一割五分に上ったという。日本では、人間の精神が戦地で傷つかないために、「人間を鬼」にする訓練をした。現在のいじめにつながる日本文化だが、先輩兵士が、下の兵士を徹底的に殴り、理不尽な暴力で支配した。 国内で自殺する初年兵もたくさん出てきた。そういった抑圧の行動が外地の人たちに向かうこともしばしばあったし、中国や東南アジアの農民をスパイ容疑でつかまえてきて、刺殺する練習もさせた。人間の感情をいかに鈍磨させるか、という訓練だ。かつての帝国陸軍病院に残る精神病のカルテ二万枚を調べたことがある。戦争における精神的解体が、残虐行為とのかかわりで記載されていたのは、たった二例だった。奇妙だ。では、日本の兵士は、戦争で何も傷つかないような人間たちだったのか。そうではない。例えば小川武満さんという方は、敗戦に近いころ中国で軍医で働き、当時の人たちに戦時栄養失調症という病名があり、食糧を受け付けられず、慢性的に便意を催し、衰弱しながら食べずに死んでいった人が、非常に多かったと語っている。つらい葛藤(かっとう)が感情で表現できず、消化器系統で表現したのだろう。 一方で、日本人は精神医学で言う「多動」の方法を取ったのではないか。受け入れがたい傷を持った人は、それを思い出さないために、うつ状態になるか、動き回る方法をとる。自分のつらい体験を直視する代わりに、行動面でそれを忘れようとする。自分が何をしたかを見つめることをやめるため、経済的活動に専念した。動き回るかぎり、自分たちの持つゆがみ、人間としての解体について考える必要はなくなる。感情をまひさせて戦後の社会をつくっていったのが、私たちの社会ではなかったか。
(2000.8.16.高知新聞.23面 |
731部隊細菌戦訴訟 第一審判決について |
去る8月27日、東京地裁で第一審判決が言い渡された。(傍聴山根、岡村夫妻) この裁判の目的は、国の司法機関が細菌戦の事実を認定し、被害者らの無念を晴らし、奪われた尊厳を回復すること。 日本政府の反省を呼びさまし、真摯な謝罪と個人への賠償を果させることにあった。 それが中国等アジアの人々からの日本への信頼を回復し、真の和解、平和、友好関係を築く絶対条件だと考えたことにあった。 判決は細菌戦の事実を認めたが、国家の謝罪と賠償責任は退けた。裁判所が初めて細菌戦の事実、被害の存在を明確に認めたことの意義は大きいが、なぜ賠償責任を退けたか。主要な論点は、(1)国家無答責の法理の採用(国家賠償法の施行は昭和22年10月)、(2)国際法上の個人請求権の否定、(3)国際慣習法と条理の3点である。 いずれも裁判所が正義の場であることを忘れ、戦前の法理をこじつけで判決を下した点で諸外国から非難の的とされかねない代物である。 国家無答責は明治憲法下で生きていた解釈論であり、国際法における個人の法主体性と個人請求権の問題についても、判決は「国際法はあくまで国家間の法」であるという伝統的な考え方を強調し、1907年のハーグ陸戦条約以後の人権思想の高まりを無視している。国際慣習法もその実行例から、現在の法感覚で裁くべきである。訴訟は現在行われているのである。原爆被害者医療法、戦没戦傷病遺族等援護法、台湾住民戦没者遺族弔慰法、ドイツ、アメリカ、カナダ、オーストリア等による補償が条理に基づいて実現したとの原告側主張に対し、これらはいずれも諸々の配慮が加わって立法された例にすぎないという。 これは「司法不作為」といわざるをえない態度であり、権力側の庇い合いと国際社会から非難されるであろう。 なお、判決は1972年の日中共同声明と1978年の日中平和友好条約において中国政府が戦争賠償請求を放棄したことを挙げ、国際法上はこれをもって日本の国家責任は決着済みであるとの独自の判断を下した。しかし、福岡地裁の判決(2002年4月26日)の示す通り、サンフランシスコ平和条約締結当時中国は、中国国民が日本政府に対して日中戦争において被った被害の賠償を請求し得るとの立場をとり、1995年3月全人大の席で当時の副首相兼外相銭其・が日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって個人の補償請求は含まれず、これは国民の権利であり、政府は干渉すべきでないという見解を示している。したかって決着済みとの判断も誤りである。 裁判は原告が早速控訴したが、控訴審裁判官の良心と勇気に期待したい。正義の判決こそアジアの平和の基礎をつくるのであり、また日本の民主主義のレベルを世界に示すことになるからである。 (西森茂夫) |
非武装非同盟永世中立を実現するための方向と方法として14項目の提案をします。 |
「非武装非同盟永世中立を求める会」(準備会)編の著作(池道正)が近く出版されます。 この中で14項目の提案がなされています。論議を期待します。 @憲法第九条は堅持します。 日本国憲法は自由民権の思想に基づいた正真正銘の自主憲法です。憲法の平和主義は、日本の安全保障にとって最強の戦争抑止力と言えます。「自衛権」を侵略戦争の口実にさせないためにも憲法九条は一字一句たりとも改定する必要ありません。 A日米安全保障条約は終了させます。 日米安保条約は戦後アジアの不安定要因の元区となっています。安保は、日本国民のみならずアジアの人々をも、覇権主義超大国米ソの核戦争に巻き込み、核攻撃の応酬による死の放射能を浴びる危険にさらしました。 B国連総会で日本の非武装非同盟永世中立を宣言し、国連の承認を受けます。 日本の安全保障は国連の対応に依存します。日本の永世中立宣言は国連総会で行われるべきです。 C平和維持活動の国連監視団を国内に設置します。 平時の日本の国連監視団の場合は日本に対する国外からの侵略戦争を未然に防ぐ目的で、朝鮮半島中立国監視委員会(NNSC)のように中立国や国連安保理、軍将校、外交官が非武装で臨むことが望ましい。政府機関である安全保障会議には国連代表の複数の席を設けるべきです。 D非核3原則を厳守します。 国会決議である非核3原則は、核兵器は「もたず、使わず、持ち込ませず」の3原則である。「持ち込ませず」は、実行されず在日米軍の艦船に戦術核兵器を搭載していた冷戦の時代に、核兵器を在日米軍基地を通過させるために、日本政府と米政府の間で秘密協定を結び、通過させていたことが、情報公開された米政府の公式文書から明らかになりました。この秘密協定は今も生きていますがこれを破棄します。 E自衛隊の全兵力を予備役とします。 自衛隊は名目上の組織としては存続し、中央勤務員「1,400名」以外の自衛隊員は全て即応予備役(24〜72時間)とし、平時は他の職業に就かせ、危機管理に有効に使える兵器システムは部隊ごと、準軍隊や政府や自治体の危機管理部門に出向し活用します。 F兵器は、耐用寿命を終え用途廃止になるまでは戦争抑止力として保管します。 G予備役は、希望者全員危機管理部門で国家公務員、地方公務員として採用します。 H自衛隊法を全面的に改正し、平時の交戦権及び武器使用を認めません。 航空自衛隊も海上自衛隊も実弾による警告射撃以上の武力行使は認めません。外国の正規軍から攻撃を受けた場合は攻撃を回避して戦線を離脱し、国連安保理に通告します。またアメリカの戦争に日本が協力するための諸法律を廃止します。 I準軍隊を強化し、平時に於ける危機管理を自衛隊から受け継ぎます。 平時には準軍隊である海上保安庁には、海上自衛隊から艦や装備ごと隊員が移管、航空保安庁には、航空自衛隊から航空機や装備ごと隊員が移管、国境警備隊や治安部隊には、陸上自衛隊から自衛隊員が装備ごと移管します。準軍隊は有事の際、自衛権が発動されれば自衛隊の管轄となります。 沖縄には非武装の伝統があり、住民投票を行い沖縄を非武装地帯とします。 K防衛予算をNATO基準でGDP比0.5%以内に抑え現行の1/3とします。 L北朝鮮との間で、植民地支配に終止符をうつ平和条約の締結交渉を始めます。 韓国とは1965年12月に日韓基本条約批准書を交換し講和は発効していますが、冷戦体制のもと北朝鮮との講和はまだ行っていません。拉致疑惑などの北朝鮮との確執の解消は第二次世界大戦の戦後処理から始めるべきです。
Mロシアとの間で第二次世界大戦の終結の為の条約の締結交渉を進めます。 戦後日本は全面講和を捨てサンフランシスコ体制を選びました。旧ソ連・ロシアとの講和は行われていません。一日も早く15年戦争の講和を行い領土交渉も含め過去を清算しなければなりません。 |
アフガンにおける米国の戦争犯罪を裁く 「国際民衆法廷」を開こう ! |
戦争をとめるための「国際民衆法廷」を世界中の市民の協力でつくる動きが始まりました。 市民の側から国家にもう一つの平和のあり方を示してゆく意味を持つ民間法廷です。 ベトナムに対する米国の侵略行為を全世界に告発した「ラッセル法廷」(1967)をはじめ、「女性国際戦犯法廷」(2000)が実際行われてきました。今回の「国際民衆法廷」は2003年12月、東京で開催する予定で準備が始まりました。 平和資料館・草の家では「国際民衆法廷」の 趣旨に賛同する意見を実行委員会の前田朗さんに送りました。前田朗さんから次のように返事が来ました。 ″高知でもご協力いただけるとのこと、大変感激しております。公聴会を開いていただけると幸いです。高知からご連絡をいただいたことを、実行委員会に報告させていただきます。″ 日本における平和運動として、有事法制反対やイラクへの戦争反対の運動と共に進める「国際民衆法廷」の呼びかけを紹介します。 |
昨年10月7日、ブッシュ米国大統領は「9・11同時多発テロ」に対する「報復戦争」を、自衛権の行使と称して開始しました。しかし、米英軍の武力攻撃は自衛などではなく、国際法上いかなる正当化の根拠もありません。国連はこの国際法を無視した米英軍の武力攻撃を容認したばかりか、西欧諸国はこぞって参戦し、日本もテロ特措法を制定して後方支援で参戦したのです。 ―アフガン戦犯法廷準備委員会(http://www.cam.hi-ho.ne.jp/oguri/)― |
草の家日誌 |
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8/2 戦争遺跡保存ネットワーク高知の会「高知の戦争遺跡」の改訂作業をはじめる。 l
8/3 新婦人高知市支部「灯ろう流し」で金英丸講演:韓国の徴兵制 l
7/30〜8/4 第19回平和美術展(かるぽーと) l
8/4「郡上一揆」上映(グリーンホール、平和映画祭参加作品) l
8/9 土佐山田町宝町青少年人権教室で金英丸講演:在日外国人の人権 l
8/10~13「2002高校生による東アジア共同ワークショップ」(北海道朱鞠内)で金英丸講演:日韓共同ワークショップ・東アジア共同ワークショップについて l
8/15 平和のための子どもの集い(岡村正弘さんの紙芝居、北村真実さんと鍋島博直さんリードで歌の楽しいひととき) l
8/15~8/18 日独平和フォーラムの一行8名来館 l
8/15 西森茂夫館長高知新聞に大きく13年の歩みが報道される。 l
8/16 沖田光男・由美夫妻来館: 1999年9月、沖田光男さん(国立市在住)はJR中央線車内で携帯電話を注意しただけで女性に触れてもいないのに痴漢をデッチあげられ、警察・検察によって不当に逮捕・勾留請求をされ、「自白」を強要される、社会的信用を傷つけられるなど重大な損害を受けました。痴漢が許しがたい犯罪であることは言うまでもありません。しかし一方的な女性の申告を鵜呑みにして安易に一般市民を逮捕し長期間にわたって勾留、自白を強要する警察・検察の捜査は、えん罪の温床ともなる重大な問題であり、公権力による著しい人権侵害として許すことができません。沖田さんの国賠訴訟を支援して下さい。 l
8/17 幡多地区教組青年部学習会で金英丸講演 l
8/18 第8回平和演劇祭「この子たちの夏―ヒロシマ、ナガサキそして高知」(追手前芸術ホール) l
8/20~27「2002東アジア共同ワークショップ」参加(韓国、済州島):出原恵三、吉本弘、朴香潤、植田二郎、山本哲治、伊藤康博、金英丸 l
8/23 立命館大学平和ミュージアムの平和ツアー一行(23名)来館 l
8/24「暁の脱走」上映、満員(県立文学館、平和映画祭参加作品) l
8/24~25 第6回「戦争遺跡保存全国シンポジウム山梨大会」参加(「平和のための博物館市民ネットワーク」共催):山根和代、出原恵三、窪田充治 l
8/31「元皇軍兵士の証言をきく会」(高知城ホールに200名) l
9/3 槇村浩祭-誕生90周年記念(草の家に50名):「間島パルチザンの歌」朗読(植田二郎、金英丸)、西森館長の講演内容は「さるとび21」10、11月号に記載 l
9/7~8「平和友好祭」(香北町)で金英丸講演:私とあなたがつくる東アジアの平和 l
9/11 米同時多発テロ1周年:米ブッシュ大統領と小泉首相に抗議のメールを送る。 l
9/17 日中不再戦碑建立10周年の集いを開く。 l
9/18 2002年ピースウェイブ最後の行事「日本鬼子」上映(自由民権記念館ホール):4回、370余名の入場者があり成功裏に終る。 l
9/27 愛媛社会保険センター歴史教室一行(35名)来館 l
9/29「2002高校・障害児学校教育研究集会」人権・平和分科会で金英丸発表:私の経験した徴兵制―有事法制そして平和 l
10/1 外崎光広先生肺ガンで死去、草の家の歴史研究者のリーダーであった。草の家出版の「植木枝盛研究資料目録」は遺著となった。 l
10/4~5 城東中学校で金英丸講演:韓国の文化、歴史と平和 l
10/6 「バイオミュージックコンサート」(自由民権記念館アトリウム):270名の入場で会場は満員となった。 l
10/7 高知市国際平和係村岡誠也氏高知空襲犠牲者調査で協力依頼に来館 l
10/12 2002年ピースウェイブの総括のための実行委員会をひらく。 l
10/15 久礼中学校2年生来館 l
10/17 幡多農業高校教師学習会で金英丸講演 l
10/19 高知・子どもと教育研究会で金英丸発表:韓国の学校からみた平和 l
10/19 外崎光広先生を偲ぶ会(自由民権記念館ホール) |