呉海軍墓地合祀碑一覧

呉海軍墓地に建立されている90基の合祀碑と、その関係艦船並びに英国水兵の墓の詳細説明です。長いので途中HOMEPAGEにバックすることが出来ます。
合祀碑関係戦没者は、34,429柱を数えます。そのデータは、財団法人呉海軍墓地顕彰保存会事務局にあります。

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軍艦厳島
 (いつくしま)

碑名  軍艦厳島乗組員之碑 明28.9. 建立

艦種

長さm

幅m

吃水m

排水量t

速力kt

主要兵装
巡洋艦 (89.9) 15.3 6.4 4,278 16.0 32cm/38単×1, 12cm/40単×12, 4.7cm単×5
 明24.9.3竣工仏, 大1.8.28海防艦, 8.4.1雑役船(潜水母艇), 15.3.14除籍
 明治18年度計画, 建造所フォルジ・エ・シャンティエ・ドゥラ・メディテネ社(仏,ラ・セーヌ)
明21.1.7起工, 22.7.18進水, 24.9.3竣工, 第一種に編入
明25. 5.21 横須賀到着
 27〜28   日清戦争。 黄海海戦,大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦等に参加
 31. 3.21 二等巡洋艦に類別
 33. 8〜11 北清事変。 上海警備に従事
 34    呉造船廠で主缶を円缶からベルビール缶に換装
 34. 2〜 8 少尉候補生の東南アジア・清国方面遠洋航海に従事(以降,明36,39〜41の各年度,遠洋航海に従事)
 37〜38   日露戦争。 旅順攻略作戦,黄海海戦(明37) 日本海海戦,樺太攻略作戦(明38) 等に参加
大 1. 8.28 二等海防艦に類別変更
  8. 4. 1 雑役船に編入,潜水艇母船に指定,厳島丸と改名
  9. 7. 1 特務艇に編入,潜水艦母艇に類別,艇名を厳島に復帰
  9.6〜13.7.31 潜水学校浮校舎として使用(9.9.15雑役船に編入)
  14. 4.14 廃船
  15. 3.12 除籍
  14.10.14 舞鶴飯野商事会社呉支店に売却,14.11.29〜15.7呉吉浦で解体
 
 軍艦「巌島」は、清国北洋艦隊の「鎮遠」、「定遠」に対抗しうる軍艦として「松島」「橋立」との三隻のいわゆる〃三景艦〃の一艦として、明治24年にフランスで建造された4,278噸、32糎砲一門の海防艦であった。
 日清戦争の黄海海戦においては本隊に属して奮戦したが、32糎砲は殆ど役に立たず、速射砲の方が有効だった。この戦闘の戦死者を「念忠碑」として、呉鎮守府下に軍艦「比叡」の碑と並んで建立されたが、その後この〃碑〃は呉海軍墓地に移転された。
                                  
 日清戦役の黄海海戦の軍艦厳島乗組員戦死者の霊を弔い目鏡橋畔に建設されたが、明治37年4月に海上自衛隊呉警備隊正門横に移された。
昭和56年市道大正線改修により呉海軍墓地に移された。
(明治三十七年四月属呉水交社之管理移転之千城山山麓
 明治廿八年九月軍艦厳島乗組員当港之住人者青盛敬篤君寄附之地に建之)
 (碑文)
 黄海之従軍厳島戦死者一等兵曹猶原国松君三等兵曹菊地八次郎君同大畝松君三等鍜冶手柳原九十郎君一等水兵湯原藤次君同佐藤長作君同松尾才蔵君一等火夫松木要松君二等水兵宮本政太郎君同山口新吉君二等火夫木村金次郎君二等厨夫今井睦之介君三等水兵山崎浅次郎君四等火夫水津久吉君之記念碑文 
 明治叡聖文武皇帝即位ノ二十七年詔シテ征清ノ師ヲ起シ以テ其ノ罪ヲ問フ名正シク義高ク正々丐堂々丐是ヲ以テ皇師ノ向フ所勁敵ナク戦ヘハ克チ攻ムルハ取ル シ日清ノ役海陸ノ戦闘其ノ数ヲ知ラス而シテ其ノ捷ノ最モ大ニシテ旦偉洵ニ千古ノ壮観タルモノヲ黄海ノ戦ハ日清勝敗ノ決スル所ニシテ実ニ此役ノ関鍵タリ恭シク惟ルニ黄海ノ戦捷ヤ偏ニ至尊ノ威徳ト皇天ノ祐助トニ是レ頼ルト雖モ抑モ海軍ノ士人上ハ将校ヨリ下兵卒ニ至ル迄至誠淳忠能ク奉公ノ志ヲ尽シ磅磚タル日本魂ヲ以テ敵愾ノ気ヲ皷舞シ静整危ニ処シ敏活機ニ衆シタルニヨラズンハアラズ而シテ此際下士兵卒ノ剛毅沈勇能ク大事ニ耐ヘタルハ吾人ヲ驚カスモノアリ吾厳島戦死者諸子ノ如キ実ニ其尤ナルモノナリ龍争虎闘ノ際皆能ク粛々トシテ其部署を守リ孜々トシテ其職務ヲ執リ剣ヲ揚ケ砲ヲ発シ以テ死ニ至ル所謂ル六矢面ニ中リテ動カザルモノ此々皆然リ死ニ瀕スルヤ尚ホ他事ヲ言ハス曰ク定遠ヲ沈メサレバ死ヌトモ巳マス曰ク尚ホ没セザルカト若夫レ半死尚ホ水雷ノ鎮鑰ヲ守リ之ヲ水雷長ニ致シテ而シテ後ニ瞑スルニ至リテハ節義稜々忠烈炳耀実ニ人ヲシテ感激流涕セシク戦死者諸子ノ流風余韻ハ優ニ千古ノ亀艦タルニ足ルト云フベシ是ヲ以テ之ヲ見ルニ黄海ノ捷ハ此等諸子ノ能ク其力ヲ尽シ其命ヲ致シタルニ是レ頼ルト云フモ過言ニアラズ鳴呼諸子逝ケリ旧知同僚誰レカ哀悼セザラン然モ日清ノ戦捷ハ黄海ノ捷ニ基シ黄海ノ捷ハ諸子ノ功勲ニ是レ頼リ従テ諸子ノ功勲ハ長ニ万世ニ照耀スル事ヲ思ハバ諸子ノ魂モ亦安スル所アラシ唯吾曹旧友ノ諸子ヲ思フ哀惜ハ区々止ム能ハザルモノアリ即チ爰ニ記念ノ碑ヲ立テ諸子ノ功勲ヲ表シテ不朽ニ伝フト云爾
  征清聨合艦隊司令長官海軍中将正四位勲一等功二級子爵伊東祐亨篆額
  海軍大学校教授月山高橋作衛謹撰
  注 青盛家は呉の旧家(宮原の庄屋)として有名でありその子孫現存す

軍艦比叡
(ひえい)
碑名  軍艦比叡戦没者之碑 明28.8. 建立

艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
コルベット 70.4 12.5 5.3 2,250 13.0 17cm/40単×3,15cm単×6,7.5cm単×2,発×1
 明11.2.25竣工英, 31.3.21海防艦, 44.4.1除籍
 明治8年度計画, 建造所 ミルフォード・ヘヴン造船会社(英,ペンブローク)
明8.9.24起工, 10.6.11進水, 11.2.25竣工
明11. 5.11 三等艦と定める
 11. 5.22 横浜到着
 13.4〜8  インド・ペルシア・東南アジア歴訪
 15    京城事変。 朝鮮水域警備に従事
 22.8〜23.2 少尉候補生の地中海方面遠洋航海に従事(以降,明23,24,30,31,32,35の各年度,遠洋航海に従事)
 23. 8.23 第一種と定める
 23.10〜24.5 トルコ軍艦エルトグロル号生存者の送還のため遠洋航海を兼ねてコンスタンチノープル訪問
 27〜28   日清戦争。 大連・旅順・威海衛攻略作戦等に参加・・
 31. 3.21 三等海防艦に類別
 37〜38  日露戦争。 舞鶴及び旅順港警備に従事
 40    測量任務となり明41まで近海の水路測量に従事
 44. 4. 1 除籍
 45    売却, のち解体
 
 初代軍艦「比叡」は、「扶桑」、「金剛」(共に初代)と共に日本海軍最初の海軍軍備拡張計画により、明治11年にイギリスで建造された2248噸の鉄骨木皮艦であった。  日清戦争の黄海海戦においては、隊の一艦として参加、敵艦の重囲の集中攻撃を受けて大きな被害を受けたが、幸運にも脱出に成功し、速射砲の威力を発揮して奮戦をした。 この記念碑は旧呉鎮守府下にあったが、現在は呉海軍墓地に移設された。また、大分県 竹田市の広瀬神社にマストが遺されている。
(二基)                              
 招魂碑「比叡」(初代) 横須賀市衣笠光心寺
 比叡慰霊碑(初代)   竹田市竹田神社境内
 
 日清戦役の黄海海戦の軍艦比叡乗組員戦没者(海軍軍医大尉 三宅貞造ら23名)の霊を弔い、目鏡橋畔に建設されたが、明治37年4月に海上自衛隊呉警備隊正門前に移された。昭和56年市道大正線改修により呉海軍墓地に移された。
 
碑(表) 帝国与朝鮮修好己旧倹彼頃内訂存起為隣邦所制皇上至聖至仁欲挨植啓誘使彼鞏固独立之基礎乃与清国胥議事順義正清国 盟反為属邦陰妨我事恣出兵於朝鮮遂開寡端要撃我艦於韓海皇上震怒敕敕挙陸海二軍以征討之旌旗所向無堅不破無強系挫豊島成歓牙山平壌黄海旅順威海等従風披靡行将破山海関屠天津以衝北京而黄海之役最為海上激戦此役吉野高千穂秋津洲浪速為先鋒松島千代田巖島橘立比叡扶桑為本隊赤城西京随馬舳艫相 赴海洋島偵敵艦動静迄近大孤山与敵之北洋艦隊相過其定遠鎮遠在中枢致遂経遠起勇揚威在其右靖遠来遠済遠広甲在其左堂堂張両翼我軍季列相遇敵艦居以中堅欲分断我列者而敵艦平遠広平亦率水雷艇数隻来勢益加砲煙巻濤霹靂震天比叡後於我隊敷 勢殆孤立敵之中堅猛然転舵来迫其危不容髪比叡決然突進衝敵艦之間砲銃激射敵艦為擾時一艦駅列襲撃手将近我艦長桜井少佐大喝疾呼使機砲手急射弾丸命中敵百数十人不復留隻影彼又放水雷我旋転避之而合艙内火起因出列外救火既而揚威起勇致遠経遠逐為我事所撃滅定遠鎮遠来遠平遠失火煙焔漲空敵艦乱隊遁走時既寄黒我軍追撃反暁不知其所去 比叡之突入敵陣陣勢揺動列伍殆乱 比叡戦死者海軍大軍医三宅貞造海軍大主計石塚鋳太海軍少軍医町越千代吉下士四人卒十六人実明治三十七年九月十七日也敵艦従是竄伏無従気焔為鳴呼奮我健闘克奏捷而靖献身於国家素雖其分豈可不惜乎今也清国悔非割壤償費以請和皇上許之詔班師仁声義聞震動四極宛者可以瞑矣頃艦負相謀欲建石表功以弔其魂余賛其挙乃為之銘日
禹城渝盟箕邦事急我皇哀矜援厥独立赳赳武夫峨峨艨艟王師所嚮衆萃偃風噫我貔貅捐生暴虎爰表忠誠深勒豊碑呉山高聳呉水長流魂万帰去魂万来留                 明治二十八年八月八日
  海軍大佐大勲位威仁親王篆額海軍中将従三位勲二等 伊東 吉供弁書
 
(裏)戦死者海軍大軍医正七位勲六等 三宅 貞造  海軍3等兵曹  末広鹿之助
      海軍大主計従七位    石塚 鋳太      海軍1等水兵  島崎平太郎
      海軍小軍医正八位    村越千代吉         同      金井 倉助
      海軍1等兵曹勲八等   団野 兼蔵          同      砂川 三吉
      海軍1等主帳        藤田辰次郎      海軍1等看病夫 加藤助三郎
      海軍2等兵曹        西谷源六郎      海軍1等厨夫  中川 亀吉
      海軍2等水兵       古谷松三郎 
       同              有松 新治
      海軍2等木工        大屋総次郎
      海軍2等看病夫      石川滝五郎
      海軍3等火夫        二本木弥助
      海軍3等厨夫        吉林忠次郎
      海軍4等水兵        西原 久松
          同           諸原定次郎
          同           竹中 浅次
          同           近松  貢
          同           海道仁三郎
(その他) 明治三十七年四月属呉水交支社
          管理移転之干城山山麓
           敷地寄附者 青 盛 敬 篤
 
  軍艦比叡戦死者弔魂碑
──黄海の役、吉野、高千穂、秋津島、浪速先鋒となり松島、千代田、嚴島、橋立、扶桑、本隊となり赤城、西京之に從い軸 相 みて海洋島に赴き敵艦の動静を偵う。大孤山に近づくに從い敵の北洋艦隊と相遇う。其れ定遠鎮遠中枢にあり經遠、政遠、超勇、揚威、其の右に在り靖遠、来遠、済遠、広甲、其の左に在り、堂々として両翼を張る我が軍列を布きて相逼る。敵艦中堅を以って我列を分断せんと欲する者の如し。而して敵艦平遠、広丙亦水雷艇数隻を率いて来り勢益々加はり砲烟濤を捲き霹靂天を震はせり。比叡我隊に遅る数ば勢殆孤立す敵の中監堅猛然舵を転じて来り迫る。其の危きこと髪を容れず、比叡決然突進して敵艦の間を衡き砲銃激射、敵艦為に擾る、時に一艦列を馳せて襲撃す。我が艦長櫻井少佐大喝疾呼機砲手をして急射せしむ、弾丸敵に命中して百数十人復隻影を留めず、彼亦水雷を放つ、我旋転して之を避く、遇艙内火起る因って列外に出で火を救う、既にして揚威、超勇、致遠、經遠遂に我軍の撃滅する所となり、定遠鎮遠、来遠、平遠、火を失し烟焔空に漲り敵艦隊を乱して遁走す。時既に昏黒、我が軍迫撃暁に及ぶも其の去るところを知らず、蓋し比叡の敵陣に突入するや陣勢揺動隊伍殆んど乱る比叡戦死者海軍大軍医三宅貞造、海軍大主計石塚鑄太郎、海軍少軍医村越千代吉下士四人、卒十六人実に明治二十七年九月十七日也──
 日頃艦員相謀り石を建て、功を表し以て其の魂を吊せんと欲す余其清を賛し乃ち之が銘を為る、曰く
禹域渝盟 箕邦事急 援厥獨立
赳々艨艟 王師所嚮 衆草偃風 噫我貔貅
損生暴死 爰表忠誠 深勤豊碑 呉山高聳
呉水長流 魂合来留
 明治二十八年八月 海軍大佐大勲位    威仁親王篆額
          海軍中将従三位勲一等 伊藤調吉撰
                          注 威仁親王(有栖川宮)


軍艦天龍
てんりゅう)

 碑名  軍艦天龍遭難死者紀念碑 明31.7.23 建立 合祀者 3柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
スル-プ (67.3) 9.7 4.9 1,547 12.0 17cm/25単×1,15cm/25単×1,12cm/25単×4,
            7.5cm単×1
 明18.3.5竣工, 31.3.21海防艦, 39.10.20除籍
 明治10年度計画, 建造所 横須賀造船所
明11.2.9起工, 16.8.18進水, 18.3.5竣工, 三等艦と定める
明23. 8.23 第一種と定める
 27〜28  日清戦争。 大連・旅順・威海衛攻略作戦等に参加
 31. 3.21 三等海防艦に類別
 37〜38  日露戦争。 神戸港警備に従事
 39.10.20 雑役船に編入,舞鶴海兵団練習船として使用
 44.12.21 廃船
 45    売却
 
 軍艦「天龍」(初代)は、初期の国産軍艦として明治18年3月に横須賀海軍工廠で竣工した1,547噸、12節の巡洋艦で、日清・日露戦争に参加し、明治39年に除籍された。
 日清戦争後に台湾方面警備に従事していたが、明治30年11月26日に船艙から火災を発生し、猛煙をついて消火作業に従事中、木曾川次郎船匠(工作兵曹)以下22名が殉職した。その殉職者の霊を悼み、「天龍」乗組員外有志らにより明治31年7月23日この〃碑〃を建立した。
                                 
 日清戦争後台湾方面の警備が忙がしくなった。軍艦天竜は同方面の警備に就いていたが明治30年11月26日船倉に火災が発生し、猛煙を突いで消火作業中、木川増次郎二等船匠兵他2名の殉職者を出したことは誠に惜しいことである。
 この碑は明治31年7月23日軍艦広丙と共に小丘上に建立されたものであるが都市計異のためにこの地に移設されたものである。
                               
 明治30年11月26日台湾の打狗に碇泊中、艙内に突然火災を起し、その際焼死した2等船匠手木川増次郎ほか2名の霊をいたみ天龍乗組員外有志により明治31年7月23日に建立された。
 碑文は兼子 の撰にかかる
 碑の (本体) 高さ 1.6M     (台座) 高さ 2.0M
         幅  0.7M          幅  1.9M
         奥行 0.3M          奥行 1.6M
 

軍艦廣丙
(こうへい)

 碑名  軍艦廣丙遭難哀悼碑 明29.5. 建立 合祀者 37柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
巡洋艦 (80.4) 8.0 3.5 1,000 17.0 12cm/40単×3, 4.7cm単×4, 発×4
 明25.竣工, 清国軍艦, 28.12.21沈没, 29.2.18除籍
旧清国広東水師所属巡航艦,廣丙,建造所 馬尾造船政廠(清国,福州)
明24.4.11進水, 25竣工,日清戦争時27.9.17黄海海戦に参加,28.2.17威海衛で捕獲
明28. 3.16 艦籍に編入
 28.10. 9 呉到着,呉造船部で整備
 28.12.21 澎湖島沖八単島に潜伏中の旧清国官吏逮捕に向かう途中,倉島東南で座礁,沈没
 29. 2.18 除籍
 
 軍艦「廣丙」は、明治24年に清国福州で建造された清国広東水師(海軍)所属の1,335噸の巡洋艦で、速力17節、12糎主砲3門、発射管4門を装備し、日本海軍と黄海海戦を闘った後威海衛にあって日本海軍に降伏、引渡された戦利艦であった。
 明治28年12月21日、台湾方面警備中に澎湖島西方2浬の暗礁に乗りあげて沈没し、笹村英介一等兵曹以下37名が殉職した。その関係者の青盛敬篤村長ら有志により、明治29年9月5日この〃碑〃を建立した。
                                 
 軍艦広丙は、元清国広東水師に属し、僚艦には広甲・広乙・広庚・広戍・広巳・広玉・広金・広元・広貞・広亨・広利・広安など広東水師を強く表現している。
 日清戦争後、清国の軍艦で日本の軍艦となった艦は鎮遠・鎮東・鎮西・鎮北・鎮南・鎮中・鎮辺・鎮済・済遠・平遠・済雲・教捷・操江と広丙である。
 広丙は台湾方面警備中、明治28年12月2日澎湖島南方2浬の暗礁に乗り揚げて沈没し、37名の尊い殉職者を出してしまった。
 この碑は明治29年5月墓地の西北方の小丘上に建立されていたものを区域整理のため現在地に移設されたのである。
                               
 明治28年10月9日呉港を出港、台湾征討に従事し、さらに膨湖島に向うため12月31日馬公港を発し倉島に近づいたとき、海図にない暗礁に座礁し艦体沈没の際溺死した笹村英介1曹ほか36名の霊をいたみ、青盛敬篤村長外有志が元の広丙艦長海軍少佐藤田幸右衛門の碑文を刻んで亀山神社境内に明治29年5月に建立したが、後海軍墓地内に移された。
 碑の(本体) 高さ 2.25M     (台座)高さ 1.70M
        幅  1.25M         幅  3.50M
        奥行 0.15M         奥行 2.25M


軍艦高砂

(たかさご)

 碑名  軍艦高砂戦死下士卒墓 明38.1.15 建立 合祀者249柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等巡洋艦 (109.7) 14.2 5.1 4,155 22.5 20.3cm/40単×2,12cm/40単×10,7.6cm/40
            ×12,4.7cm単×6,発×5
 明31.5.17竣工英, 37.12.13沈没, 38.6.15除籍
 
明治29年度計画, 建造所 アームストロング社エルジック工場(英,ニューキャッスル)
明29.5.29起工, 30.5.17進水, 31.5.17竣工, 二等巡洋艦に類別
明31. 8.14 横須賀到着
 33〜34  北清事変。 芝罘・山海関・大沽に派遣
 35    英スピットヘッドでの英皇帝エドワード七世の戴冠式記念観艦式(明35.6.
      16〜18)に参列のため英国訪問後,ヨーロッパ各国歴訪
 37    日露戦争。 旅順攻略作戦,黄海海戦に参加
 37. 2. 9 旅順沖で露汽船MANJURIA(後の関東)を捕獲
 37.12.13 旅順港外で哨戒行動中,触雷沈没
 38. 6.15 除籍
                                 
 明治37年12月13日旅順港口強行封鎖作戦に従事中機雷にふれ沈没、その際戦死した山?副長以下273名の霊を悼み明治38年1月15日に墓碑を建立した。
                              
 碑(裏) 明治37年12月13日
      旅順口沖強行封鎖中戦死
  (本体) 高さ 2.35M     (台座) 高さ 1.46M
       幅  0.55M          幅  1.66M
       奥行 0.53M          奥行 1.10M
 

軍艦矢矧
(やはぎ)

軍艦矢矧殉職者之碑 大9.1.19 建立 合祀者 48柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等巡洋艦 (134.1) 14.2 5.1 5,000 26.0 15.2cm/45単×8, 7.6cm/40単×4, 発×3
              4,400
明45.7.27竣工, 昭15.4.1 除籍
 明治40年度計画, 建造所 三菱長崎造船所
明43.6.20起工, 44.10.3進水, 45.7.27竣工, 二等巡洋艦に類別
大 3〜8  第一次大戦。 南洋群島占領作戦,南シナ海・インド洋・スルー海に作戦
 12〜昭12 中国水域警備に従事
昭15. 4. 1 除籍, 廃艦第12号と仮称,呉海兵団の練習船として使用
 18    大竹に回航,潜水学校で使用,終戦を迎える
 22.1.31〜7.8 笠戸ドックで解体
 
 軍艦「矢矧」(初代)は、明治45年三菱長崎造船所で竣工した5,000噸、15糎砲8門、26節の二等巡洋艦であった。「矢矧」(艦長山口傳一大佐(兵26))は、第一次世界大戦において第一特務艦隊第二南遣隊に所属し、太平洋、印度洋方面に作戦行動し、大正7年12月任務を終えシンガポールから凱旋途上マニラにおいて流行性感冒が全乗組員に感染し、惨憺たる状況となり、副長普門卯之助中佐(兵29)以下48名が倒れマニラ英人墓地に埋葬された。この病没者慰霊のため呉海軍墓地にこの〃碑〃を建立した。                           
 
 第一次世界大戦中、南太平洋及び印度洋方面の警備任務を終え久振りに喜びの帰国の途についた。そのとき思いもよらぬ恐しい病魔が待ち構えていた。
 大正7年11月30日シンガポールを出港直後から悪性流行性感冒が蔓延し、四日後には乗員の三分の二がおかされ、翌日は機関を扱い得る者5名、操舵員は2名となり航海当直すらも困難な状況となる。
 12月6日マニラに入港し、重症者60名を入院させ、残りのものは艦内で療養につとめたが12月20日までに普門副長以下48名が病死した。
 なおマニラサンヒトロ墓地にも慰霊碑が建立されている。
 
 大正7年11月8日シンガポールに入港した際、同地に流行性感冒が流行しており、同月30日同港発、佐世保に向う途中約300名の患者を出したため、12月4日マニラに入港して重患者を入院せしめたが、同月21日までの記録では副長普門中佐ほか48名の死亡者を出した。
 同艦は翌8年1月20日マニラを出港、佐世保を経て1月30日呉に帰着。2月1日海兵団で合同葬儀を執行した。海軍墓地の記念碑はその後に建てられたものと思われるが、碑表の題字及び裏面金属板は昭和23年墓碑資格審査により剥脱されたものを昭和32年10月に碑文のみ修復されたものである。
 
碑(表) 海軍少将 従四位勲三等 山口 伝一 書
 (本体) 高さ 3.00m      (台座) 高さ 0.45m
      幅  1.25m           幅  0.50m
      奥行 0.45m           奥行 1.56m
 
 マニラのサンピドロマガチの日本人墓地には「軍艦矢矧病歿者墓」(高さ1丈6尺)が大正9年1月19日に建立されている


駆逐艦早蕨
(さわらび)

 碑名  駆逐艦早蕨殉職者之碑 昭8.10.16 建立 合祀者 103柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等駆逐艦 第2号若竹型 83.82 8.08 2.51 900 35.5 12cm単×3, 発連×2
大正7年度計画, 建造所 浦賀船渠
大11.11.20起工,12.9.1進水,13.7.24竣工,第8駆逐艦と命名,二等駆逐艦に類別
大13. 4. 1 第8号駆逐艦と改名
昭 3. 8. 1 早蕨と改名
  7.12. 5 馬公に回航中,基隆沖で荒天のため転覆沈没
  8. 4. 1 除籍
 
 駆逐艦「早蕨」は、大正13年7月24日浦賀船渠で竣工した820噸、35.5節、二連装魚雷発射管2基の若竹型最後の二等駆逐艦であった。
 昭和7年12月5日、南支方面警備中に海の難所の台湾北端富基角北方60浬で荒天に遭遇、艦長角田健吾少佐(兵47)以下必死の操艦を続けたが、艦の動揺が甚だしく、逐に復元不可能となり、転覆沈没し、艦長以下104名が艦と運命を共にした。
 この殉難将士を悼み、遺族、有志の拠金で呉海軍墓地にこの〃碑〃を建立した。
                                  
 呉から馬公に向け航行中、昭和7年12月5日午後、N27°E13°−10′の地点において、暴風雨に遭遇沈没。この際殉職した104名の霊をいたみ、昭和8年10月10日に建立された。
 
碑(表) 呉鎮守府司令長官 海軍中将 中村 良三 書
 (裏) 時維昭和7年12月3日駆逐艦早蕨は僚艦3隻とともに南支那警備の重任を帯び呉軍港を発して遠く馬公に向う。偶々東支那海は北風強吹して波浪山の如く、航行真に困難を極む。越えて同月5日風愈々強く波浪益々高く艦の操縦極度の困難に陥り早蕨遂に覆没の厄に会す。而して僚艦必死の努力に依り一部乗員を救助し得たるのみにて爾後幾十日に亘り荒天を冒しあらゆる捜索を試みたるもその効なく艦長門田中佐以下104名は艦と運命を共にせるものと断ずるのやむなきに至る。鳴呼悲痛なんぞ堪ふべけんや。此の報一夕に伝へらるるや挙国殉難将士の壮烈を悼み、捐金忽ちに聚りて数万に達す。則ち之を頒ちて遺族を賑恤し、茲に碑を建て其の遺烈を長へに後世に伝ふと爾言。
       昭和8年10月
          駆逐艦早蕨殉職者
          艦長 海軍中佐 門田 健吾 以下6列に階級氏名刻字     
(本体) 高さ 2.30m      (台座) 高さ 1.40m
     幅  1.00m           幅  2.60m
     奥行 0.65m           奥行 2.20m


上海満州事変

 碑名  上海満州事変戦没者之碑 昭8.10.23 建立 合祀者 49柱
 
 昭和6年に勃発した満州事変において海軍は、北支沿岸警備の小艦艇若干を派遣して警戒に任じていた。
 翌7年1月、上海方面における排日侮日運動は激化の一途を辿り、28日、中国民衆の後押しで十九路軍は、上海駐屯のわが陸戦隊に発砲し、上海事変の火蓋が切って落とされた。
 戦闘の様相から海軍は2月2日に第三艦隊を編成(旗艦「出雲」)、上海に艦隊司令部を新設した。
 一方、陸軍部隊増派の大命が下り、第一、第二艦隊により緊急輸送と上陸援護作戦が行われ、航空部隊も増派され海軍史上最初の空中戦が行われた。
 かくして5月5日、停戦協定の締結で戦火が収まったが、海軍は居留民保護とわが権益擁護のため上海特別陸戦隊を編成して常駐し、第三艦隊は兵力を減少して上海に配備された。
 これが第一次上海事変であるが、海軍部隊は各鎮守府から出征して多くの戦死者を出したため、その鎮魂のために各鎮守府毎に慰霊碑が建立され、現在次の三基が遺っている。
(二基)                              
  上海事変戦死者之碑   横須賀市馬門山墓地
  上海事変戦死者之碑   佐世保海軍墓地
  上海事変及び満洲事変において戦死した49名の霊をいたみ昭和8年10月23日に建立された。
 昭和23年墓碑資格審査により裏面銅板撤去
 
碑(後方壁面) 戦死者名刻字


駆逐艦深雪

(みゆき)

 碑名  駆逐艦深雪殉難者之碑 昭10.6.2 建立 合祀者 5柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 吹雪型 112.0 10.36 3.2 1,980 38.0 12.7cm連×3, 発3連×3
 大正12年度計画, 建造所 浦賀船渠
昭2.4.30起工, 3.6.26進水, 4.6.29竣工(昭3.8.1第38号駆逐艦から深雪と改名) 一等駆逐艦に類別
昭 9. 6.29 済州島南方で演習中,電と衝突,沈没
  9. 8.15 除籍
 
 駆逐艦「深雪」は、昭和4年吹雪型として浦賀船渠で竣工した1,680噸、38節の駆逐艦であった。
 「深雪」は第十一駆逐隊に所属し、昭和9年6月29日に済州島南方海域で演習中、駆逐艦「電」の艦首が「深雪」の缶室部に突入、艦体が切断して沈没し、「電」は第一砲塔より前部を大破した。
 この事故で大部分の乗組員は救助されたが、5名が殉職し、これを慰霊するため呉鎮守府が翌10年6月27日に呉海軍墓地にこの〃碑〃を建立した。
                                 
 昭和9年6月29日済州島南方海面に於て演習中、駆逐艦「雷」と衝突、沈没の際殉職した5名の霊をいたみ、昭和10年6月27日に建立された。 
碑 (本体) 高さ 1.7m      (台座) 高さ 2.0m
       幅  0.8m           幅  2.5m
       奥行 0.5m           奥行 2.5m


第四艦隊
碑名  第四艦隊遭難殉職者之碑 昭11.11.14 建立 合祀者209柱

  「第四艦隊事件」とは、昭和10年9月26日、海軍大演習のため臨時編成された第四艦隊(赤軍)が、演習海域に向かう途中、岩手県三陸沖で風速35米、波高平均15米という未曾有の台風に遭遇し、参加艦艇の殆どが損傷し、全艦艇の再検査となった重大事件であった。
  第四艦隊(赤軍) 旗艦「足柄」
  第五戦隊「妙高」「那智」「羽黒」
  第七戦隊「最上」「三隈」
  第九戦隊「天龍」「北上」「大井」「木曽」
  第三水雷戦隊「鬼怒」
  第四水雷戦隊「那珂」
  駆逐艦25隻
 被害は特型駆逐艦が顕著で、「初雪」「夕霧」が艦首切断、「睦月」「菊月」が切断寸前、重巡「最上」が電気溶接艦首外鈑に皺を生じ、「妙高」が艦体中部外鈑鋲接手のゆるみ、他の駆逐艦7隻が艦橋破壊などであった。
 一方、第一、第二艦隊の連合艦隊(青軍)は、空母「鳳翔」「龍驤」が艦橋圧壊で操艦不能となり、潜水母艦「大鯨」も同様であった。
 このような大損害は、査問会で徹底的追求が行われ、各艦は船渠に入り殆ど丸裸に近い状態で検査が行われ、各所に補強の必要が認められ、電気溶接の技術未熟で各所に大規模改修が行われた。
 これ等の一連の徹底的な補修工事が急速に実施された結果、その後何等の支障なく太平洋戦争を闘った。
 第四艦隊の殉難者は54名と発表されたが発見に至らず、横須賀、呉、佐世保の海軍墓地に慰霊の碑が建立された。
 この事件の最中、旗艦「足柄」が第一弾を発射後砲塔内火災を発生、砲台長黒木重雄少佐(兵53)以下24名が殉職した。遺体を室蘭のモトマリ火葬場で火葬し、古谷幸雄氏の父が納骨塔を自費で建立した。同市満冏寺の碑と一年おきに室蘭海友会が慰霊祭を行っている。
 海軍史上重大事件であった第四艦隊事件の碑は、五基建立されている。
(四基) 第四艦隊遭難殉職者之碑   横須賀市馬門山墓地
     第四艦隊殉職者之碑     佐世保海軍墓地
     海軍殉難将兵納骨塔     室蘭市船見町モトマリ墓地
     足柄潮秋風殉難英霊碑    室蘭市満冏寺         
 昭和10年9月の大演習中本州東方海上において台風に遭遇殉職した29名の霊をいたみ、昭和11年11月14日に建立された。昭和23年墓碑資格審査により碑文及び裏面銅板撤去。昭和32年10月表碑文のみ修復された。



軍艦吉野
(よしの)

碑名  軍艦吉野戦死者之碑 昭13.5.15 建立 合祀者 273柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等巡洋艦 (109.7) 14.2 5.1 4,216 23.0 15.2cm/40単×4,12cm/40単×8,4.7cm単×22
        (4,160)   発×5
 明26.9.30竣工英, 37.5.15沈没, 38.5.21除籍
 明治24年度計画, 建造所 アームストロング社エルジック工場(英, ニューキャッスル)
明25.3.1起工, 25.12.20進水, 26.9.30竣工
明27. 3. 6 呉到着
 27〜28  日清戦争。 豊島沖海戦,黄海海戦,大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦に参加
 29〜30  フィリピン独立運動に対処,邦人保護のためマニラに派遣
 31. 3.21 二等巡洋艦に類別
 33. 6〜 9 北清事変。 大沽に派遣
 37    日露戦争。 旅順攻略作戦に参加,37.2.25鳩湾で露駆逐艦ウヌーシテリヌイを砲撃により擱座させる(のち自沈)
 37. 5.15 山東角沖で哨戒行動中,濃霧のため春日と衝突沈没
 38. 5.21 除籍
                                   
 日清戦争、北清事変、日露戦争と新興日本に対する試練が次々とやって来る。日露戦 争における日本海々戦は世界大海戦史にまれなる大勝を得ているが、その反面には多く の犠牲があった。
 その第一は旅順港外警備中濃霧のため、春日と衝突した吉野が沈没し、更に亀田が座 礁し妙高、初瀬、八島、宮古、斉遠、手遠、海門、速鳥、第18水雷艇などが機雷にか かって沈没或は大破したことのあるを忘れてはならない。
                               
 明治37年5月15日旅順口沖の強行封鎖中に深夜突然濃霧に逢い、転進の際、続行 の春日に突かれて沈没し、艦長海軍大佐の佐伯○ら303名が戦死した。それを悼んで、 昭和13年5月15日に海軍大佐武田盛治の発起によって建碑した。
  
碑(表) 呉鎮守府司令長官 子爵 加藤 隆義 書
 
 (裏) 明治37年5月15日旅順口沖強行封鎖中
     艦長 海軍大佐 佐伯 ○以下303名戦死
       昭和13年5月15日建之
             発起者 海軍大佐 武田 盛治
 
 (本体) 高さ 3.55m      (台座) 高さ 0.77m
      幅  1.75m           幅  2.50m
      奥行 0.40m           奥行 2.10m

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大東亜戦争戦没者

 碑名  大東亜戦争戦没者之碑 昭22.1.25 建立 合祀者133,000柱
                                  
 この碑は呉地方復員局が建立し碑の背面に納骨施設を施して大東亜戦争戦没者の遺骨 で遺族から納骨希望のもの及び引取人のないもの氏名の判明しないもの121名
 昭和26年末までの靖国神社合祀11万柱、27年以降を積極的に進め13万3千余柱の見込み(呉復員局発表)
                               
 大東亜戦争死歿者の遺骨で遺族から納骨希望のもの、引取遺族不明のもの及び氏名該当者不明のもの121柱を納骨するため、呉地方復員局が昭和22年1月同墓地の災害復旧工事完成時に建立したものである。その後靖国神社合祀の133,000柱の御霊を合祀。昭和30年6月碑文(真鎮鈑)盗難にあい、同年7月石材で修復した。建立55年後の平成14年7月13日改装整備し、鎮魂の鐘を設置した。

碑(表) 呉地方復員局長 森下 信衛 書


戦艦日向

(ひゅうが)

碑名 軍艦日向慰霊碑 昭44.7.24建立  合祀者233柱 197柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
戦艦 195.0 28.7 8.7 31,260 23.0 36cm/45連×6,14cm単×20,8高単×4,発×6
 大7.4.30 竣工, 昭18.11.30 航空戦艦,20.11.20 除籍
 大正2年度計画, 建造所 三菱長崎造船所
大4.5.6 起工, 6.1.27 進水, 7.4.30 竣工, 戦艦に類別
大7〜    第一次大戦
 8.10.24  房総沖で演習中,第3砲塔で爆発事故が発生
昭9.10.24〜11.9.7  呉工廠で改装
 12    シナ事変。上海陸兵輸送及び陸戦支援に従事
 15.6〜7  満州国皇帝,訪日御召艦となる
 16〜19  太平洋戦争。ハワイ作戦支援(昭16〜17) ミッドウェー作戦支援(昭17)
      候補生実習艦(昭18) 比島沖海戦(昭20) 北号作戦(昭20)等に参加
 17.5.5  伊予灘で訓練中,第5砲塔で爆発事故発生
 18.5.2〜18.11.30 呉工廠で航空戦艦に改造
 20.6. 1  特殊警備艦に指定
 20.7.24  呉港外情島海岸に疎開繋留中,米空母機の爆撃を受け大破着底のまま終戦を迎える
 20.11.20 除籍
 21.7.2〜22.7.4  播磨造船呉ドックで解体
 
 戦艦「日向」は、「伊勢」と同型艦として大正7年4月30日に三菱長崎造船所で竣工した。太平洋戦争開戦時は「伊勢」と共に第一艦隊第二戦隊に所属して各海戦に参加したが、ミッドウェー海戦後空母増強のため「伊勢」と共に航空戦艦に改装された。
 昭和19年5月1日、「伊勢」と第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)を編成し、旗艦となってレイテ海戦に参加した。航空戦艦といっても搭載機は前機台湾に進出したため航空機のない参加であった。
 10月18日「捷一号作戦」には小澤艦隊の一艦として参加した後、翌20年2月20日に南方から本土防衛航空部隊用のガソリン1200噸を積んで呉軍港に無事帰還した。
 3月19日、米機の5回の波状攻撃を受けて実質的な戦闘力を喪失し、情島西岸約100米沖に繋留し、樹木で偽装し防空砲台として呉軍港東方の守りについた。
 7月24〜25日の空襲で至近弾多数の致命傷を受けて浸水着底した。7月28日の空襲の対空戦闘で草川艦長以下多数の戦死者を出し、艦体傾斜して全員離脱、戦死者は情島馬渡海岸で火葬に付した。
(二基)
  日向殉忠碑       呉市情島(広湾沖)
  軍艦日向将兵供養塔   上碑より海上5〜6分の火床海岸
  旧戦艦伊勢日向浮揚解撤記念(関連碑)
                                  
 軍艦日向は大正4年5月6日長崎の三菱造船所で起工、3年の日時を費して完成し88艦隊の主力艦として昭和18年太平洋戦争「捷号作戦」に旗艦として出動し昭和20年3月呉港に帰投、情島の北岸に敵機をさけて待機出撃の機をねらっていた。同年7月4日0730米艦上グラマン戦闘機約百機の空襲を受け更に第二波は1100頃第三波は1500の波状攻撃によりさしもの日向の巨体も1538頃より沈没し始め翌25日未明艦体は遂に情島沖百米の海底に達した。
 乗組員千余名中戦死者204名重軽傷者600余名に及んだ。艦長草川淳中将もグラマンの投下した爆弾により戦闘艦橋において壮烈な戦死を遂げた。
                              
 昭和20年7月24日の米軍機の奇襲にあい呉情島北岸に擱座着底、その際の戦斗において戦死した197名の霊をいたみ昭和44年7月24日に建立された。
 
碑(表) 唐 陰 謹書
 (裏) 献 辞
 南太平洋の海を征服し比島沖海戦に出撃し颯そうと旗艦の重任を果して還る。ああ恨は深し昭和20年7月24日米グラマン数百の奇襲にあい勇戦奮斗のすえ呉情島の北岸に沈む。されど日本を護り国に殉ぜし尽忠のまことは星移り月かわるとも、とわにこの国の歴史にとどめられん。ねがわくば197勇士の霊よ永遠に安かれ!
     昭和44年7月24日
              軍艦日向慰霊碑建設委員長 景 山 勝 義
 
 (略歴)基準排水量 39.657トン
     全   長 215.80米
     幅   員  28.65米
     吃   水   8.74米
 軍艦日向は大正4年5月6日長崎の三菱造船所で起工、3年の日時を費して完成した日本最古の名艦である。大正7年に「陸奥」「長門」ができるまで日本最大の巨艦であった。日本海軍が列強に誇った「八八艦隊」の主力艦として昭和18年太平洋戦争「捷号作戦」に旗艦として出動、この作戦中サイパン沖で空母「瑞鶴」「翔鶴」などが撃沈された。昭和20年3月呉港に帰投、情島沖の北岸に敵機をさけて待機出撃の機をねらっていた。敗色は日増しに濃くなってきた20年7月24日7時30分米艦上「グラマン」戦斗機約100機が300キロの大型爆弾による高度3.000米の上空よりの空襲を受け、第2波は更に11時頃より、第3波は3時頃より波状攻撃により、さしもの帝国海軍の象徴「日向」の巨体も3時38分頃より沈没し始め翌25日未明艦体は遂に情島沖100米の海底に達した。乗組員1.000余名中死者197名重軽傷者600余名に及んだ。艦長草川淳中将は10機目の「グラマン」の投下した爆弾の破片にたおれ、前甲板の戦斗艦橋で壮烈な戦死を遂げた。


戦艦伊勢
(いせ)

 碑名 軍艦伊勢慰霊碑 昭45.10.25建立  合祀者201柱 190柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
戦艦 195.0 28.7 8.7 31,260 23.0 36cm/45連×6,14cm単×20,8高単×4,発×6
 大6.12.15竣工, 昭18.9.5航空戦艦, 20.11.20除籍
大2年度計画,建造所 神戸川崎造船所
大4.5.10起工, 5.11.12進水,6.12.15竣工, 戦艦に類別
大6〜    第一次大戦
昭10.8.1〜12.3.23 呉工廠で改装
 16〜19  太平洋戦争。ハワイ作戦支援(昭16〜17) ミッドウェー作戦支援(昭17)
       候補生実習艦(昭18) 比島沖海戦(昭20) 北号作戦(昭20)等に参加
 17.12.23〜18.9.5 呉工廠で航空戦艦に改造
 20.6.1  特殊警備艦と指定,音戸で防空砲台任務につく
 20.7.24.28呉港外三子島沖で米空母機の爆撃を受け大破着底のまま終戦を迎える
 20.11.20 除籍
 21.10.9〜22.7.4 播磨造船呉ドックにより解体
 
 戦艦「伊勢」は、大正6年12月15日、三菱長崎造船所で36糎砲搭載の戦艦として竣工した同型艦は「日向」である。
 太平洋戦争開戦時は、第一艦隊第二戦隊旗艦であったが、ミッドウェー海戦で空母4隻喪失により、「日向」と共に昭和17〜18年に航空戦艦に改造され、レイテ海戦では小澤艦隊の第四航空艦隊として参加した後、南方重要物資を搭載して呉軍港に無事帰還した。
 昭和20年3月19日の呉空襲において沈没はまぬかれたものの実質的戦闘力を失い、7月24日の空襲で音戸町坪井海岸で大破着底、牟田口艦長以下多数の戦死者をだした。戦後、中瀬艦長を中心に伊勢会が結成されてこの〃碑〃を建立した。
 
 昭和20年7月24日及び翌28日の米軍機の攻撃により倉橋島北岸に擱座着底、その際の戦斗において戦死した190名の霊をいたみ昭和45年10月25日に建立された。
 
碑(表) 捷号作戦
     当時艦長  中 瀬 斥 謹書
 
 (裏) 献 辞
 第二次世界大戦起るや航空戦艦として各地に転戦し、武威を輝かし昭和20年7月24日及び28日敵機の大群の攻撃を受け勇戦奮斗のかいなく倉橋島北岸に擱座着底し護国の鬼と化したる190名の勇士に痛恨おくあたわざれど戦友よ星移り月かわれども永遠にその名をとどめ之れを顕彰せん。願はくば安らけく眠り給え。
   昭和45年10月25日
          軍艦伊勢慰霊碑建設委員長 師 岡 勇


戦艦大和
(やまと)

 碑名  戦艦大和戦死者之碑 昭54.4.7建立 合祀者 2800柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装 
戦艦 244.0 36.9 10.4 68,200 27.0 46cm/45 3連×3,15.5cm3連×3,12.7cm高連×6
 昭16.12.16竣工, 20.4.7沈没, 20.8.31除籍
 昭和12年度計画, 建造所 呉工廠
昭12.11.4起工, 15.8.8進水, 16.12.16竣工, 戦艦に類別
昭16〜20  太平洋戦争。ミッドウェー作戦支援(昭17) マリアナ沖海戦,比島沖海戦(昭19) 菊水一号作戦等に参加
 18.12.25 トラック北方で米潜水艦SKATEの雷撃を受け損傷,19.2.25〜3.18呉工廠で修理
 20. 4. 7 菊水一号作戦中,坊ノ岬沖で米空母機の雷爆撃を受け沈没
 20. 8.31 除籍
 
 戦艦「大和」は、海軍軍縮条約が効力を失う昭和12年「B計画」の、「大和」型戦艦の一号艦として高度の軍機のもとに呉海軍工廠において起工された。
 計画に際しては米戦艦がパナマ運河通過に艦巾の制限のあることから、それ以上の38.9米という大型艦とし、45口径46糎砲3連装基9門、基準排水量64,000噸という世界海軍史上最大最強の戦艦として建造され、太平洋戦争開戦の十日後の昭和16年 12月16日に竣工、直ちに連合艦隊第一戦隊に編入、就役した。
 「大和」の初陣は、連合艦隊旗艦としてミッドウェー作戦であったが、機動部隊の潰滅で戦闘を交えず帰還した。
 爾来、昭和18年2月11日に旗艦を「武蔵」と交替したが、主要作戦に参加し3年4月にわたり連合艦隊の主力艦としてその偉力を発揮した。この間、最大の激戦は日本海軍最後の決戦ともいうべきレイテ沖海戦(捷一号作戦)において勇戦奮闘し、世界海戦史にその名を残す活躍をした。
 昭和20年になって米軍は本土決戦の最後の拠点ともいうべき沖縄に上陸を開始するに至り、航空特攻作戦と併行して海上特攻作戦を実施する作戦が決定し、第一遊撃部隊(第二艦隊)が編成され、その旗艦として出撃した。4月7日、勇戦奮闘空しく、米艦載機延千機の攻撃と潜水艦の魚雷十発により、午後2時23分東支那海の海底深く沈没した。司令官伊藤整一中将(戦死により大将)以下司令部248名、艦長有賀幸作大佐(戦死により中将)以下2,488名、計2,736名が「大和」と運命を共に〃水漬く屍〃となって散華した。
 戦艦「大和」は日本海軍の栄光の象徴であり、散華した乗組員の偉勲をながく後世に語り継ぎ、鎮魂の誠を尽すべく、戦艦「大和」の生存者、遺族の協力によってこの〃碑〃を建立した。


戦艦扶桑
(ふそう)

 碑名  戦艦扶桑戦没者慰霊碑 昭55.9.22建立 合祀者1637柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
戦艦 192.0 28.7 8.7 30,600 22.5 36cm/45連×6,15cm単×16,8高単×4,発×6
 大4.11.8竣工, 昭19.10.25沈没, 20.8.31除籍
 明治36年度計画(44年度計画で艦型変更),建造所呉工廠
明45.3.11起工, 大3.3.28進水, 4.11.8竣工, 戦艦に類別
昭5.4.19〜8.5.12 呉工廠で第一次改装
 8.9〜9.9     呉工廠で第二次改装
 9.9.16〜10.2.19 引き続き呉工廠で未済部分の改装を施行
 16〜19     太平洋戦争。ハワイ作戦支援(昭16〜17)ミッドウェー作戦支援(昭17)
候補生実習艦(昭17〜18)マリアナ沖海戦,比島沖海戦(昭19)等に参加 19.10.25 比島沖海戦時,スリガオ海峡で米水上部隊と交戦,雷撃を受け沈没 
 20. 8.31     除籍
 
 戦艦「扶桑」は、36糎砲12門総てを中心線上に配置した日本海軍最初の超弩級戦艦(基準排水量34,700噸)として、大正4年11月18日呉海軍工廠で「山城」の姉妹艦として竣工した。
 その後、第一次、第二次の大改装工事が行われて艦型を全く一新し、太平洋戦争開戦時には第一艦隊第二戦隊に編入された。
 昭和19年9月10日、「山城」と第二艦隊第二戦隊を編成、9月23日呉出撃、10月22日比島沖海戦において西村艦隊に属して参加、25日米駆逐艦の魚雷と戦艦の集中砲火により一瞬のうちに沈没、1,682名の乗組員は全員戦死を遂げた。
 戦後、呉海軍墓地には次々と各艦の慰霊碑が建立されるのに、呉鎮守府最大の戦艦でありながら生存者が無いため「扶桑」の慰霊碑が建立されなかった。これを知った名古屋在住の野原朴氏は各方面に働きかけ、「扶桑」に縁りのある浜田利貞氏らと協力してこの〃碑〃を建立した。


航空母艦信濃
(しなの)

 碑名  軍艦信濃戦没者之墓 昭41.11.29建立    合祀者791柱 885柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
航空母艦 256.0 36.3 10.31 68,060 27.0 12.7cm高連×8,搭載機74機
     266.0       62,000
昭15.5.4起工,17.6.30戦艦から空母改造, 19.11.19竣工, 19.11.29沈没,20.8.31除籍
 昭和14年度,戦艦として計画,建造所 横須賀工廠, 昭15.5.4起工, 17.6.30航空母艦に変更のことに決定, 19.10.8進水, 19.11.19竣工, 航空母艦に類別
昭19.11.29 横須賀から呉に回航の途中,潮岬沖で米潜水艦ARCHERFISHの雷撃を受け沈没
 20. 8.31 除籍
 
 航空母艦「信濃」は、戦艦「大和」型3番艦であったが、ミッドウェー海戦で主力空母4隻の喪失により、急拠空母として建造され、昭和19年10月19日に横須賀海軍工廠で竣工した。しかし完全に工事を終ったわけでなく、横須賀軍港空襲が想定されたことから急拠呉軍港に向けて出港することになった。
 11月29日、潮岬沖で米潜「アーチャーフィシュ」の魚雷4本が命中したが、さすがの大艦だけあって20節で航行できたが、間もなく浸水が増大し潮岬南東約百浬で転覆沈没した。乗組員、工廠工員など1,080名が救助され、広島県音戸町三ッ子島に隔離収容され、「阿部俊雄大佐他戦死者之墓」という白木の墓標を建立して回向をした。
 戦後、昭和58年に「空母信濃会」を結成、三ッ子島から卒塔婆を撤収、11月29日の命日に白木の墓標を再建したが、白木では朽ちるため遺族、生存者有志の協力を得てこの〃碑〃を建立した。
 
 昭和19年11月29日横須賀から呉に回航の途中潮岬沖において米国潜水艦の雷撃をうけて沈没、その際戦死した791名の霊をいたみ昭和41年11月29日信濃生存者及び遺族会により建立された。
碑(表) 靖国神社宮司 筑波 藤磨
 (裏) 艦 歴
 昭和15年5月横須賀工廠で大和型戦艦として起工、昭和17年ミッドウェー海戦直後空母に変更建造。
 昭和19年11月19日竣工、連合艦隊第1航空戦隊に編入、同月28日呉に向け横須賀を出港翌29日潮岬沖で米潜の雷撃を受け沈没した。
 (本体) 高さ 2.30m      (台座) 高さ 0.60m
      幅  1.25m             幅  2.50m
      奥行 0.15m            奥行 1.60m



航空母艦雲鷹
(うんよう)

 碑名  軍艦雲鷹戦没者之碑 昭57.9.15建立 合祀者264柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
航空母艦 173.7 22.5 8.0 20,000 21.0 12.7cm高連×4
 八幡丸(日本郵船)昭16.10.21徴用, 17.5.31改造空母竣工, 19.9.17沈没,19.11.10除籍
 建造所 三菱長崎造船所
昭13.12.14起工, 14.10.31進水, 15.7.31日本郵船八幡丸として竣工
昭16.10.21 徴用
 16.11.25 特設軍艦籍に編入,特設航空母艦に類別
 17. 1   呉工廠で航空母艦への改造に着手
 17. 5.31 改造完成
 17. 8. 1 買収
 17. 8.31 軍艦に編入,雲鷹と改名,航空母艦に類別
 17〜19  太平洋戦争。 南方戦線への航空機輸送及び船団護衛に従事
 19. 1.19 サイパン沖で米潜水艦HADDOCKの雷撃を受け損傷,19.4.2〜6.28横須賀工廠で修理
 19. 9.17 門司向ヒ74船団の護衛中,南シナ海東沙島南東で米潜水艦BARBの雷撃を受け沈没
 19.11.10 除籍
 
 航空母艦「雲鷹」は、日本郵船「新田丸」級の優秀客船「八幡丸」が前身で、昭和16年10月に空母改装が決定、11月25日特設空母「八幡丸」となり、呉海軍工廠で改装、翌17年5月31日に竣工、「雲鷹」と命名され軍艦籍に編入された。 
 就役後は苛烈な太平洋海域で航空機輸送任務に従事、昭和18年末に海上護衛総隊付属となった。翌19年1月にトラックから横須賀回航中に損傷を受けたが、修理して後に第一海上護衛隊に編入された。
 昭和19年9月17日、シンガポールから北九州に向う「ヒ74船団」を護衛中、南シナ海東沙島南90浬で米潜「ハーブ」の雷撃を受けて沈没した。総員退去命令で750名は救助されたが、木村行蔵艦長以下232名は艦と運命を共にした。
 戦後37年を経て元乗組員生存者が慰霊碑建立委員会を結成し、遺族、関係者の協力を得て、この〃碑〃を建立した。


航空母艦隼鷹
(じゅんよう)

 碑名  軍艦隼鷹慰霊碑 昭58.6.19建立  合祀者300柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
航空母艦 215.3 26.7 8.15 27,500 25.5 12.7cm高連×6
 橿原丸(日本郵船)昭16.2.10買収, 17.5.3改造空母竣工, 20.11.30除籍
 建造所 三菱長崎造船所
昭14. 3.20起工, 15.11航空母艦改造に着手
昭16. 2.10 買収
 16. 6.26 特設軍艦籍に編入,隼鷹と命名,特設航空母艦に類別
 17. 5. 3 竣工
 17. 7.14 軍艦に編入,航空母艦に類別
 17〜20  太平洋戦争。 アリューシャン攻略作戦(昭17) ソロモン水域の作戦(昭17〜18) マリアナ沖海戦(昭19)等に参加
 18.11. 5 トラックから内地に帰投の途中,沖ノ島沖で米潜水艦HALIBUTの雷撃を受け損傷,
 18.11.19〜19.2.29呉工廠で修理
 19.12. 9 南方から内地へ帰還の途中,長崎県野母崎南西で米潜水艦SEA DEVILの雷撃を受け中破状態で佐世保似帰投,
 19.12〜20.3佐世保工廠で修理,以後同港に繋留のまま終戦を迎える
 20.11.30 除籍
 21. 6.11〜22. 8. 1 佐世保船舶で解体
 
 航空母艦「隼鷹」は、戦時空母急速改造条件つきで海軍が船価の六割を補助して建造された日本郵船の超優秀客船「橿原丸」が前身で、昭和17年5月3日、長崎三菱造船所で竣工、同14日軍艦籍に編入されて「隼鷹」と命名され、第四航空戦隊に編入、後に編成替で第二航空戦隊の旗艦として太平洋戦争に参加した。
 南太平洋海戦、ソロモン海戦に参加、マリアナ海戦で米機の攻撃で発着艦不能となるも航行可能で呉軍港に帰還した。
 昭和19年12月9日、輸送任務を終えてマニラよりの帰途、女島付近で米潜の雷撃を受けたが、片舷航行で佐世保に帰還、修理をした。しかし搭載する航空機がなく、佐世保航空隊前の絶壁に横付け、偽装して終戦を迎えた。
 「隼鷹」は各海戦で300余名の戦死者を出したが、当時共に闘った戦友達の間で慰霊碑建立の議が起り、建立準備委員会を結成してこの〃碑〃を建立した。


航空母艦飛鷹
ひよう)

碑名 航空母艦飛鷹の碑 昭58.8.9建立 合祀者880余柱              
           (「飛鷹」完成回航記念の日)
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
航空母艦  215.3  26.7  8.15  27,500  25.5  12.7cm高連×6 
 出雲丸(日本郵船)昭16.2.10買収, 17.7.31改造空母竣工, 19.6.20沈没, 19.8.10除籍
建造所 川崎重工 昭14.11.30 日本郵船出雲丸として起工 15.11   航空母艦改造に着手 16.2.10  買収
 16.6.24  進水, 特設軍艦籍に編入, 飛鷹と命名, 特設航空母艦に類別
 17.7.14  軍艦に編入, 航空母艦に類別 17.7.31  竣工
 17〜19  太平洋戦争。ソロモン水域の作戦(昭和17〜18)マリアナ沖海戦(昭19)等に参加  
 18.6.10  横須賀からトラックへ向かう途中, 三宅島東方で米潜水艦TRIGGERの雷撃を受け損傷, 18.6.29〜9.15横須賀工廠で修理
 19.6.20  マリアナ沖海戦で米空母機の雷爆撃を受け漂流中爆撃により沈没
 19.8.10  除籍
 
航空母艦「飛鷹」は、日本郵船サンフランシスコ航路の超優秀船「出雲丸」が前進で、昭和16年に海軍が買収、昭和17年7月31日神戸川崎造船所で竣工した(24140トン・搭載機戦爆76機(5機))の改装空母であった。
竣工により「隼鷹」「龍驤」とをもって第2航空戦隊(司令官角田覚治少将)を編成、ガダルカナル島攻略戦行動中主機械故障でトラック経由横須賀に回航し修理した。
昭和19年6月19日マリアナ沖海戦において米雷撃機隊の攻撃を受け、魚雷1本、米潜魚雷1本によりガソリン庫が爆発して大火災となり、乗組員250名は艦と運命を共にし、ヤップ島北方で沈没し散華した。
昭和54年生存者で結成した飛鷹会で慰霊碑建立の議が起り、用地難で苦心していた折軍友会近藤会長の協力が得られ、京都嵐山の地にこの”碑”を建立した。のち和歌山県西牟婁郡白浜町1011白浜御苑に平成7年6月20日移転しましたが、平成14年4月日母港の呉海軍墓地に移転しました。

 *飛鷹の最後
マリアナ沖海戦の2日目の昭和19年6月20日、午後5時30分より約30分間、わが機動部隊はこの海戦で初めて敵機の攻撃を受けた。
第2航空戦隊の飛鷹は約20機の急降下爆撃機の攻撃を、右に左に回避したが、250キロ爆弾が飛行甲板の右端にあるマスト桁に触れて炸裂した。
この炸裂により、防空指揮所にいた艦長は負傷し、航海長、飛行長、見張り員は戦死して、艦は盲同然となったが航海長にかわって若い航海士が操艦した。この時雷撃機6機が右舷艦首の方向から低空で魚雷運動に入ってきた。それを飛鷹の対空砲火で6機のうち2機を撃墜し、3機は遠方で魚雷を発射して逃げたが、1機は勇敢にも距離2百メートルまで接近してきた。
これも対空砲火で撃墜したのだが、黒煙をはいた瞬間に魚雷を発射したので、魚雷は飛鷹に向かって1直線に進み、避ける余裕もなく、とうとう右舷機械室に命中した。そのため、煙突から真っ白な蒸気が吹き出して、見る見るうちに速力は落ちてしまった。
飛鷹付近に僚艦が心配して近寄り、成り行きを見守っていたが、被雷後、約2時間たったとき、突然大爆発が起こり、猛火はたちまち艦を包んでしまった。
 総員が必死の防火作業に努めたが、火勢は強くなるばかりで、しかも高角砲弾も誘爆するありさまとなったので、ついに艦長は総員退去を命じた。
 やがて午後7時32分、艦首を突き上げるようにしてその姿を海中に没し、約250名の乗員が艦と運命を共にして行った。
*飛鷹慰霊碑建立の経過
昭和52年6月、空母飛鷹会が結成され、会員一同慰霊碑建立に努力し、昭和58年8月会員、遺族有志の寄付により、京都市右京区嵯峨天龍寺造路町 32−22、京都嵐山「美術館の庭」に慰霊碑が建立されましたが、平成3年11月、嵐山美術館が閉館となり、慰霊碑も美術館の南紀白浜への移転計画と共に白浜に移転建立が計画されました。
 平成7年6月20日、和歌山県西牟婁郡白浜町1011白浜御苑の高台に戦死者銘板と共に建立され、飛鷹会会員の悲願が達成されました。
その後、白浜御苑の閉鎖に伴い、平成14年4月日母港の呉海軍墓地へ移転しました。
  


軍艦加古
(かこ)

 碑名  軍艦加古戦没者慰霊碑 昭42.11.25 建立 合祀者74柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装

一等巡洋艦

176.78 15.77 5.56 8,586 34.5 20cm単×6, 8cm高単×4, 発連×6
 大15.7.20竣工, 昭17.8.9沈没, 17.9.15除籍
 大正12年度計画, 建造所 川崎造船所
大11.11.17起工, 14.4.10進水, 15.7.20竣工, 一等巡洋艦に類別
昭11. 7. 4〜12.12.27 大阪鉄工所桜島工場(船体)佐世保工廠(兵装)で改装
 16〜17   太平洋戦争。 グアム島・ウェーク島攻略作戦(昭16) ラバウル・ラエ・サラモア攻略作戦,珊瑚海海戦,第一次ソロモン海戦(昭17) 等に参加
 17. 8. 9 第一次ソロモン海戦の帰途,シンベリ島北東で米潜水艦S44の雷撃を受け沈没
 17. 9.15 除籍
 
 一等巡洋艦「加古」は、20糎主砲搭載の重巡1号艦として大正15年7月20日に神戸川崎造船所で竣工し、その性能の優秀なことで世界の海軍を驚かした。
 就役と共に第二艦隊第五戦隊に編入され、以後の重巡建造に大きな影響を与えると共に日本海軍用兵上にも数々貴重な教訓を残した軍艦であった。
 太平洋戦争開戦時には、第六戦隊(司令官後藤存知少将)に所属してウエーキ島第二次攻略作戦の支援隊として参加した。以後珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦の支援部隊として奮戦した。
 特に昭和17年8月8日〜9日の第一次ソロモン海戦においては三川軍一中将指揮のもと奮戦し、敵重巡4隻を撃沈する偉功をたてた。しかしその帰途、8月10日にカジエレ付近で米潜「S−44」の雷撃を受け、魚雷3本が命中して沈没し、74名の戦死者を出した。
 この武勲艦で奮戦し散華した戦友を慰霊のため、この〃碑〃を建立した。
                                 
 帝国海軍最古参の重巡洋艦加古はソロモン群島ガダルカナル争奪戦の冒頭・僚艦と共に米濠連合の敵艦隊を襲って完勝を収め、その翌朝昭和17年8月10日に一転して、敵潜水艦の雷撃によって南溟に消えた。(予想地点2度28分南152度11分東)
愛する艦と共に乗員多数の生命を失ったことは艦長として痛恨の極みである。
 いま加古についての艦長私記の上梓を決意したのは国家のために一命を捧げた、これらの英霊を慰めたいとの思いからに外ならない。(元加古艦長高橋雄次氏著・鉄底海峡より)
                              
 昭和17年6月23日、同年8月8日及び同年8月10日の戦闘において戦死した74名の霊をいたみ、昭和42年11月25日に建立された。
 
碑(表) 元加古艦長 高 橋 雄 次 書
 (裏) 戦没者命日
    昭和17年6月23日   3柱
         8月 8日   3柱
         8月10日  68柱
                昭和42年11月25日設立
 (本体)高さ 0.90m      (台座) 高さ 1.0m
      幅  1.20m           幅  2.5m
      奥行 0.25m           奥行 1.5m


軍艦青葉
(あおば)

碑名  軍艦青葉戦没者慰霊碑 昭45.10.吉 建立 合祀者169柱 168柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装

一等巡洋艦

177.48 15.83 5.71 8,586 34.5 20cm連×3, 12cm高単×4, 発連×6
 昭2.9.20竣工, 20.11.20除籍
 大正12年度計画, 建造所 三菱長崎造船所
大13.2.4起工, 15.9.25進水, 昭2.9.20竣工,一等巡洋艦に類別
昭12    シナ事変。上海上陸作戦に参加
 13.11〜15.10.30 佐世保工廠で改装
 16〜17   太平洋戦争。 グアム島,ウェーク島攻略作戦(昭16) ラバウル・ラエ・サラモア攻略作戦,珊瑚海海戦,第一次ソロモン海戦,サボ島沖夜戦(昭17)ソロモン方面輸送作戦(昭17〜18) ベンガル湾通商破壊戦,渾作戦(昭19)等に参加
 17.10.11 サボ島沖夜戦で米水上部隊と交戦,被弾大破,17.10〜18.2呉工廠で修理
 18. 4. 3 ニューアイルランド島メウエパセージ港に在泊中,米軍機の爆撃を受け大破着底,18.8.1〜18.11.24呉工廠で修理完成
 19.10.23 比島沖海戦に出撃の途中,マニラ湾口南西で米潜水艦BREAMの雷撃を受け大破,呉に帰投
 20. 6.20 特殊警備艦に指定,呉鍋島海岸に繋留
 20. 7.28 呉で米空母機の爆撃を受け大破着底のまま終戦を迎える
 20.11.20 除籍
 21.11.19〜22. 7. 1 播磨造船呉船渠で解体
 
 一等巡洋艦「青葉」は、7100噸級巡洋艦4隻の1艦として昭和2年9月20日三菱長崎造船所で竣工した。
 太平洋戦争開戦迄は「加古」「古鷹」「衣笠」と行動を共にし、開戦時も同じ艦隊編成で作戦行動を共にした。第一次ソロモン海戦夜戦でレーダー射撃の斉射を受け後藤司令官以下が戦死、3番砲塔を破壊、呉に帰還して修理した。
 2度目の大被害は、カビエン在泊中に米機と交戦し、沈没寸前となったことであり、再度呉に帰還して修理した。
 3度目は陸軍輸送でマニラ入港直前、米潜の雷撃で30度傾斜したが応急処置を施し、呉に僅か5節の速度で帰還した。
 この頃には燃料も無くなり、呉軍港に繋中7月2回の空襲で被弾着底し、さしもの強運艦も生涯の幕を閉じた。
 戦後、昭和44年の青葉会全国大会で会員の賛成により、「青葉」で共に闘って散華した戦友の英霊を慰霊顕彰するためにこの〃碑〃を建立した。
                                   
碑(表) 太平洋戦争戦歴
 昭和16年12月10日    グアム島攻略作戦
 昭和16年12月22日    ウエキ島攻略作戦
 昭和17年1月23日     ビスマルク島攻略作戦
 昭和17年5月7〜9日    珊瑚海海戦
 昭和17年8月8日      第一次ソロモン海戦(ツラギ夜襲戦)
 昭和17年10月11日    サボ島沖夜戦
 昭和18年4月3日      カビエング泊地の遭難
 昭和19年3月        印度洋作戦
 昭和19年10月23〜30日 比島沖海戦(マニラ沖の遭難)
 昭和20年7月28日     瀬戸内海方面(呉軍港被空襲)
 
(礎石) 風荒れ雨はくるうじも
      草木は空にもえ出でて
     やがて青葉いろどられ
      真夏の苦熱如何あらん
     ますらたけおの胸の血は
      青葉の如くもゆるなり
 
 (裏) 軍艦青葉戦歿者慰霊碑建立
      起工  昭和45年 2月吉日
      竣工  昭和45年10月吉日
        軍艦青葉乗組生存者有志一同
     顧   問  山 森 亀之助
             山 澄 忠三郎
             星 野 清三郎
             吉 安 覚 一
     世話人代表  甘 岡   明
               綱 田 一 徳
 
     建設委員  服 部  巖 人     武 波 護 郎    小 谷  繁 雄 
             長谷川  太 平     中 野   広    東    末 造
             榎 本   明      中 村 孝 蔵 
             太 田  勝 由     受 田 兵 吉
             川 口  昌 良     山 田 昇 琉 

     改修 平成11年5月吉日
     会   長 伊藤 喜代一            
     事務局長 西 田  潔
     
     追刻 令和2年7月吉日
     顧  問  中曽根 康 弘   
     会  長  甘 岡  昭 彦
     世話人   受 田  光 雄   西 田 昌 弘  梶 川 幸 男



軍艦最上 
(もがみ)

 碑名  重巡最上戦没者慰霊碑 昭49.4.7 建立 合祀者941柱 463柱
艦種  長さm  幅m  吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装 

一等巡洋艦

189.0 18.0 5.5 11,169 37.0 15.5cm3連×5, 12.7cm高連×4, 発3連×4
 昭10.7.28竣工, 19.10.25雷撃処分, 19.12.20除籍
 昭和6年度計画, 建造所 呉工廠
昭6.10.27起工, 9.3.14進水, 10.7.28竣工, 二等巡洋艦に類別
昭10. 7〜13. 2 呉工廠で性能改善工事
 14. 2〜15. 4.12 呉工廠で主砲換装を実施
 16    シナ事変。 対仏印威力顕示作戦,南部仏印進駐作戦に参加
 16〜19   太平洋戦争。 マレー進攻作戦(昭16) 東インド諸島攻略作戦,ビルマ作戦,バタビア沖海戦,ベンガル湾作戦,ミッドウェー作戦(昭17) 中部太平洋輸送作戦,マリアナ沖海戦,比島沖海戦(昭19)等に参加
 17. 6. 5〜7 ミッドウェー作戦中,
 
 一等巡洋艦「最上」は、条約型巡洋艦が「高雄」型で保有量一杯となるため、軽巡として建造が決定し、建艦技術の粋を集めて昭和10年7月29日に呉海軍工廠で竣工、間もなく無条約時代に突入したため主砲を換装して重巡となった。
 太平洋戦争開戦時は、第七戦隊(司令官栗田健男少将)としてマレー部隊に属し、バタビア沖海戦で米重巡、英軽巡を撃沈する偉巧をたてた後、インド洋通商破壊作戦に従事、ミッドウェー海戦では「三隈」と衝突し、辛うじて内地に帰還した。
 マリアナ沖海戦に参加した後、比島沖海戦で第一遊撃部隊に属してスリガオ海峡を北上中敵水上艦艇と交戦、被弾、南下中に「那智」と衝突、火災が鎮火せず、10月25日総員退去し駆逐艦「曙」の魚雷で処分、藤間艦長以下190余名が戦死下。
 戦後、「最上」の生存者が集まり最上会を結成、「最上」と散華した英霊941柱の慰霊をするため、この〃碑〃を建立した。
                                  
 重巡最上は昭和9年3月4日呉海軍工廠において進水し第二次大戦初期南支那海ジャワ海、印度洋等の作戦に活躍して大いに功績を挙げた。その後太平洋各海域において対空戦闘中大損傷を受けたがその都度よく危機を脱し修理改装を加えて爾後数次に亘り作戦に参加し最後はレイテ沖海戦で、勇戦空しくスリガオ海峡西口の海面にその艦影を没した。戦後最上乗員の生存者は各地に散在し、連絡も途絶えていたが昭和44年旦てのミッドウエー海戦当時の曾爾章艦長は、最上とその戦没者慰霊のため「重巡最上艦霊とともに」の著書を出版され、是れが機縁となって最上生存者相集り、重巡最上会を結成した。更に曾爾艦長は最上慰霊碑建立を熱望されたが実現を見ぬまま物故された。重巡最上会は故艦長の遺志を受け継ぎ今日ゆかりの呉にその完成を見るに至った。茲に重巡最上の艦霊と戦没者の冥福を祈り慰霊の誠を捧げる。

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軍艦古鷹
(ふるたか)
碑名  軍艦古鷹戦没者慰霊碑 昭49.10.10 建立 合祀者171柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装

一等巡洋艦

176.78 15.77 5.56 8,586 34.5 20cm単×6, 8cm高単×4, 発連×6
 大15.3.31竣工, 昭17.10.11沈没, 17.11.10.除籍
 大正12年度計画, 建造所 三菱長崎造船所
大11.12.5起工, 14.2.25進水, 15.3.31竣工, 一等巡洋艦に類別
昭12. 4. 1〜14. 4.30 大阪鉄工所桜島工場(船体)呉工廠(兵装)で改装
 16〜17  太平洋戦争。 グアム島・ウェーク島攻略作戦(昭16) ラバウル・ラエ・サラモア攻略作戦,珊瑚海海戦,第一次ソロモン海戦,サボ島沖夜戦(昭17) 等に参加
 17.10.11 サボ島沖夜戦で米水上部隊と交戦,被弾大破,翌10.12.同島付近で沈没
 17.11.10 除籍
 
 一等巡洋艦「古鷹」は、20糎主砲搭載7200噸級重巡の一番艦として大正15年3月31日三菱長崎造船所で竣工し、江田島の古鷹山の名をとって命名された。
 当時世界の巡洋艦のなかでも諸性能が極めて優秀で、艦容も独創的な名艦として注目の的となっていた。
 太平洋戦争開戦時は、「青葉」「衣笠」、「加古」と第六戦隊(司令官後藤存知少将)を編成し、ウエーキ島、グアム島攻略支援作戦に、ついで珊瑚海海戦、第一次、第二次ソロモン海戦に参加、特に第一次ソロモン海戦で抜群の偉功をたてた。
 昭和17年10月15日第八艦隊第二戦隊の一艦としてガダルカナル島飛行場砲撃のためサボ島沖に突入した時、敵の新式レーダーによる集中射撃を受けて火災を起こし、死傷者が続出したが4時間にわたり奮闘し、力尽き沈没した。
 「古鷹」の生存者は軍艦古鷹会を結成し、戦没者の冥福を祈念するため関係者の協力を得てこの〃碑〃を建立した。
                                   
 軍艦古鷹は20糎砲を搭載する重巡の第一艦として江田島の霊峰古鷹山の名を取り大正15年3月31日に竣工した。当時諸性能極めて優秀にして艦容又独創的となった。大東亜戦争開戦劈頭ウエーキ島及びグアム島攻略を支援次に珊瑚海々戦、第一次第二次ソロモン海戦等に参加就中第一次ソロモン海戦に於ては抜群の戦果を収めた。
 昭和17年10月11日サボ島沖夜戦に於て勇戦奮闘せるも遂に23:30沈没した。茲に重巡古鷹の慰霊碑を建立して戦没者の冥福をお祈りする。尚本慰霊碑は古鷹関係生存者有志の献資により建立した。

軍艦阿賀野
(あがの)

 碑名  巡洋艦阿賀野慰霊碑 昭49.10.12 建立 合祀者632柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装

二等巡洋艦

162.0 15.2 5.63 7,710 35.0 15cm連×3, 8cm高連×2, 発4連×2
 昭17.10.31竣工, 19.2.17沈没, 19.3.31除籍
 昭和14年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭15.6.18起工, 16.10.22進水, 17.10.31竣工,二等巡洋艦に類別
昭17〜19  太平洋戦争。 ウェワク・マダン攻略作戦(昭17) ラバウル方面輸送作戦,
      ブーゲンビル島沖海戦(昭18)等に参加
 18.11.12 ラバウル沖で米潜水艦SCAMPの雷撃を受け損傷,トラック島に曳航応急修理
 19. 2.16 内地回航の途中トラック島北方で米潜水艦SKATEの雷撃を受け2.17沈没
 19. 3.31 除籍
 
 二等巡洋艦「阿賀野」は、水雷戦隊の旗艦が従来の軽巡では老朽化し、新鋭駆逐艦の登場により、性能を改善した軽巡が必要となり、「阿賀野」型4隻が計画建造され、その一番艦として昭和17年10月31日、佐世保海軍工廠で竣工した。
 昭和17年12月2日、トラック島で機動部隊第三艦隊第十戦隊旗艦(司令官木村進少将、初代艦長中川浩大佐)となり、東部ニューギニア作戦で初陣を飾った。
 ブーゲンビル島沖航空戦に参加、ラバウルを中心に行動し、第4次の大編隊攻撃で損傷、トラック島に回航して修理後、昭和19年2月15日、呉回航のため出港、16日トラック北方160浬で米潜「スケート」の魚雷2本が命中、17日午前0時50分に沈没した。乗組員約500名は駆逐艦「追風」に救助されたが、同艦も爆沈、松田艦長以下615名が散華した。
 戦後、「阿賀野」の生存者(沈没時108名)は戦友会を結成し、共に闘って散華した戦友の冥福を祈り、「阿賀野」の奮戦を讃えるためこの〃碑〃を建立した。


軍艦鈴谷
(すずや)

 碑名  軍艦鈴谷戦没者慰霊碑 昭52.10.23 建立 合祀者778柱
艦種  長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装 

一等巡洋艦

187.8 19.2 5.9 13,440 35.0

15.5cm3連×5, 12.7cm高連×5, 発3連×4

昭12.10.31竣工, 19.10.25沈没, 19.12.20除籍
 昭和6年度計画, 建造所 横須賀工廠
昭8.12.11起工, 9.11.20進水, 12.10.31竣工,二等巡洋艦に類別
昭14. 2〜14. 9.30 横須賀工廠で主砲換装を実施
 16     シナ事変。 対仏印威力顕示作戦,南部仏印進駐作戦に参加
 16〜19   太平洋戦争。 マレー進攻作戦(昭16) 東インド諸島攻略作戦,ビルマ作戦,  ベンガル湾作戦,ミッドウェー作戦,第二次ソロモン海戦,南太平洋海戦,ガダルカナル島砲撃作戦(昭17) 中部太平洋輸送作戦,マリアナ沖海戦,比島沖海戦(昭19)等に参加
 19.10.25 比島沖海戦時,サマール島沖で米空母機の爆撃を受け搭載魚雷の誘爆により沈没
 19.12.20 除籍
 
 一等巡洋艦「鈴谷」は、「最上」型一等巡洋艦の一艦として昭和12年10月31日横須賀海軍工廠で竣工した。進水式に天皇陛下の行幸を仰いだ。
 太平洋戦争開戦時は、第七戦隊(司令官栗田健男少将)に属しマレー作戦に参加、ミッドウェー海戦参加後第三艦隊に編入、南太平洋海戦には警戒部隊として参加した。
 昭和19年の連合艦隊編成替で第二艦隊に編入され、マリアナ沖海戦に参加した。11月25日比島沖海戦においては白石司令官が将旗を「熊野」から「鈴谷」に移して奮戦したが、米機30機の来襲を受け、右舷至近弾で装填中の魚雷に引火誘爆、一面火の海となり、各所に誘爆が起り傾斜が増した。白石司令官は将旗を「利根」に移したが、その後魚雷が再び誘爆して「鈴谷」は沈没した。駆逐艦「沖波」が寺岡艦長以下425名を救助した。
 「鈴谷」の生存者は、栄光ある艦名と艦と運命を共にした戦没者の偉勲を永遠に遺すことを祈念し、生存者、遺族の協力を得てこの〃碑〃を建立した。


軍艦熊野
(くまの)

 碑名  軍艦熊野慰霊碑 昭53.11.19 建立 合祀者498柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等巡洋艦 187.8 19.2 5.9  13,440 35.0 15.5cm3連×5, 12.7cm高連×5, 発3連×4
昭12.10.31竣工, 19.11.25沈没, 20.1.20除籍
 昭和6年度計画, 建造所 神戸川崎造船所
昭9.4.5起工, 11.10.15進水, 12.10.31竣工, 二等巡洋艦に類別
昭14.5〜14.10.20 呉工廠で主砲換装を実施
 16    シナ事変。 対仏印威力顕示作戦,南部仏印進駐作戦に参加
 16〜19  太平洋戦争。 マレー進攻作戦(昭16) 東インド諸島攻略作戦,ベンガル湾作戦,ミッドウェー作戦,第二次ソロモン海戦,南太平洋海戦(昭17) 中部太平洋輸送作戦(昭18) マリアナ沖海戦,比島沖海戦(昭19)等に参加
 19.10.25 比島沖海戦時,サマール島沖で米水上部隊と交戦の際,雷撃を受け損傷,マニラに回航
 19.11. 6 内地回航の途中,米潜水艦RAYの雷撃を受け航行不能となりルソン島北部西岸サンタクルズ港へ曳航
 19.11.25 サンタクルズで米空母機の雷爆撃を受け沈没
 20. 1.20 除籍
 
 一等巡洋艦「熊野」は、「最上」型の軽巡の四番艦として建造されたが、無条約時代に入り主砲を20.3糎に換装して重巡となり、昭和12年10月31日、神戸川崎造船所で竣工した。
 太平洋戦争開戦時には「最上」型4艦で第七戦隊(司令官栗田健男少将)を編成、マレー攻略作戦に従事、ついでミッドウェー海戦に参加後、第三艦隊に編入され、南太平洋海戦、第一次ブーゲンビル島沖海戦で奮闘した。
 マリアナ沖海戦では司令官白石万隆少将の旗艦として参加、比島沖海戦で損傷しマニラに回航、更に高雄に回航中再び損傷、11月25日サラタクプールで米軍機の空襲で爆弾、魚雷各3発が命中、艦長人見錚一郎(兵47)以下399名が艦と運命を共にし散華した。
 昭和51年に生存者、遺族で33回忌を行った後、熊野会を結成し慰霊建立の議が起ったが、生存者が少ないので遺族及び海軍関係者有志に広く呼びかけてこの〃碑〃を建立した。


軍艦鬼怒
(きぬ)

 碑名  軍艦鬼怒慰霊碑 昭55.5.25 建立 合祀者128柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等巡洋艦 152.4 14.17 4.8 5,570 36.0 14cm単×7, 8cm高単×2, 発連×4
 大11.11.10竣工, 昭19.10.26沈没, 19.12.20除籍
 
大正7年度計画, 建造所 神戸川崎造船所
大10.1.17起工, 11.5.29進水, 11.11.10竣工, 二等巡洋艦に類別
昭 9.11〜10.11 機関学校練習艦に指定
  12〜13   シナ事変。上海上陸支援,杭州湾上陸作戦, 支那沿岸封鎖作戦等に参加
  16〜19   太平洋戦争。 マレー進攻作戦(昭16) 東インド諸島攻略作戦(昭17) ソロモン,ニューギニア水域の掃討及び輸送作戦(昭 17〜19)等に参加
  19.10.26  レイテ島オルモックル輸送作戦の帰途,スルー海マスバテ島南方で米空母機の雷爆撃を受け沈没
  19.12.20  除籍
 
 二等巡洋艦「鬼怒」は、初めて61糎魚雷を搭載した「長良」型軽巡の三番艦として、大正11年11月10日に神戸川崎造船所で竣工した。
 太平洋戦争開戦時は第四潜水戦隊旗艦としてマレー作戦に参加したが、のち第二南遣艦隊第十六戦隊の旗艦として主に陸軍部隊の緊急輸送に従事し、昭和18年には南西方面艦隊に編成替えとなった。旗艦「青葉」が航行不能になり、これを曳航してマニラに到着、のち旗艦となった。
 昭和19年10月24日、駆逐艦「浦波」を率いてマニラを出撃、オルモックに陸軍部隊の揚陸を完了、翌26日、パネイ島北東方で米艦載機の攻撃を受け、「浦波」は沈没、攻撃は「鬼怒」に集中し約5時間の対空戦闘で3発の命中弾を受け転覆沈没した。約90名が艦と運命を共にしたが、救助された者はマニラで陸戦隊員となって殆ど散華した。
 戦後、軍艦鬼怒会が慰霊してきたが、同会によってこの〃碑〃を建立した。


軍艦衣笠

(きぬがさ)

慰霊碑 昭57.11.14 建立 合祀者55柱

艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等巡洋艦 177.48 15.83 5.71 8,586 34.5 20cm連×3, 12cm高単×4, 発連×6 
 昭2.9.30竣工, 17.11.14沈没, 17.12.15除籍
 大正12年度計画, 建造所 神戸川崎造船所
大13,1.23起工, 15.10.24進水, 昭2.9.30竣工, 一等巡洋艦に類別
昭12    シナ事変。 上海上陸作戦に参加
 13.10〜15.10.30 佐世保工廠で改装
 16〜17  太平洋戦争。 グアム島, ウェーク島攻略作戦(昭16) ラバウル・ラエ・サラモア攻略作戦, 珊瑚海海戦, 第二次ソロモン海戦, サボ島沖夜戦,ガダルカナル島砲撃作戦, 第三次ソロモン海戦(昭17)等に参加
 17.11.14 第三次ソロモン海戦時, ガダルカナル島水域で作戦行動中,米空母機の爆撃を受け沈没
 17.12.15 除籍
 
 一等巡洋艦「衣笠」は、7100噸級重巡として建造され、昭和2年9月30日、4艦の最終艦として神戸川崎造船所で竣工した。
 就役以来、昭和17年8月8日の第一次ソロモン海戦までは「加古」と同一行動で10月11〜12日のサボ島沖夜戦では敵軽巡、駆逐艦各1隻大破、重巡1隻を小破する奮戦をしたが、「衣笠」も敵の砲撃で小破した。
 昭和17年11月12〜15日の第三次ソロモン海戦で「鳥海」、「五十鈴」と共に攻撃隊を支援した。その帰途、米空母「エンタープライズ」とガダルカナル島などを基地とする艦爆隊の攻撃を受け、被爆舵故障、浸水多量で、転覆沈没し、沢正雄艦長以下多数の乗組員がニュージョージア島南方洋上で艦と運命を共にした。
 昭和55年、呉海軍墓地に第六戦隊で「衣笠」だけが慰霊碑がなく、関係者に呼びかけ、翌年軍艦衣笠慰霊碑建立委員会を結成してこの〃碑〃を建立した。


軍艦三隈
(みくま)

碑名  軍艦三隈戦没者慰霊碑 昭59.6.3 建立 合祀者698柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等巡洋艦 189.0 18.0 5.5 11,169 37.0 15.5cm3連×5, 12.7cm高連×4, 発3連×4
 昭10.8.29竣工, 17.6.7沈没, 17.8.10除籍
 昭和6年度計画, 建造所 三菱長崎造船所
昭6.12.24起工, 9.5.31進水, 10.8.29竣工, 二等巡洋艦に類別
昭10. 8〜12.10 三菱長崎造船所で性能改善工事
 14. 6〜14.12.30 横須賀工廠で主砲換装を実施
 16     シナ事変。 対仏印威力顕示作戦,南部仏印進駐作戦に参加
 16〜19   太平洋戦争。 マレー進攻作戦(昭16) 東インド諸島攻略作戦,ビルマ作戦, バタビア沖海戦,ベンガル湾作戦,ミッドウェー作戦(昭17)等に参加
 17. 6. 5  ミッドウェー作戦中,最上と衝突
 17. 6. 6〜 7 さらに米空母機,海兵隊機の爆撃を受け6.7沈没
 17. 8.10  除籍
 
 一等巡洋艦「三隈」は、「最上」型軽巡の二番艦として昭和10年8月29日に三菱長崎造船所で竣工、その後主砲を20糎に換装して重巡となった。
 太平洋戦争開戦時は、マレー部隊(司令官栗田健男少将)に属してマレー攻略作戦に参加した後、「最上」と共にバタビア沖海戦に参加、米重巡、英軽巡を撃沈して偉功をたてた後、インド洋通商破壊作戦に従事した。
 ミッドウェー海戦においては攻略部隊支援隊として出撃、6月6日、緊急回頭中に後続艦「最上」が左舵に衝突、駆逐艦「荒潮」、「朝潮」が「最上」を援護しつつ本隊に遅れて避退した。
 7日、米艦載機の攻撃により命中弾6発を受け火災発生、更に10機の攻撃を受け、命中弾によりミッドウェー北方洋上で沈没、崎山艦長は、「鈴谷」に収容された後絶命し、副長以下695名の乗組員は艦と運命を共にして散華した。
 軍艦三隈会は、乗組員で結成され、戦没者の慰霊を行ってきたが、昭和59年、この〃碑〃を建立した。


軍艦球磨
(くま)

 碑名  軍艦球磨慰霊碑 昭61.1.11 建立 合祀者139柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等巡洋艦 152.4 14.17 4.8 5,500 36.0 14cm単×7, 8cm高単×2, 発連×4
 大9.8.31竣工, 昭19.1.11沈没, 19.3.10除籍
 大正6年度計画, 建造所 佐世保工廠
大7.8.29起工, 8.7.14進水, 9.8.31竣工, 二等巡洋艦に類別
大9. 9   シベリア出兵。 船団護衛に従事
昭2〜 3, 5〜7 青島方面警備に従事
 9〜11   北支沿岸警備に従事
12〜16   シナ事変。上海上陸支援,北支・南支沿岸封鎖作戦等に参加
16〜19   太平洋戦争。 比島攻略作戦(昭16〜17)ラバウル,ギルバート諸島への輸送作戦に参加,19.1.11ペナン島西方で訓練中,英潜水艦TALLYHOの雷撃を受け沈没
19. 3.10 除籍
 
 二等巡洋艦「球磨」は、「球磨」型5500噸級軽巡の一番艦として、大正9年8月31日佐世保海軍工廠で竣工した。
 就役と共に第二艦隊第四戦隊を「平戸」と編成、翌10年に「球磨」「多摩」「大井」「木曾」4艦で軽巡戦隊を編成した。
 昭和9年以降、「多摩」と第三艦隊に属して支那事変に参加した。
 太平洋戦争開戦時は、重巡「足柄」軽巡「長良」と第十六戦隊を編成、第三艦隊(司令長官高橋伊望中将)直卒部隊に編入され、比島部隊として南方攻略戦に参加した後スラバヤ海戦に参加した。
 昭和18年初頭マカッサルで「B29」の爆撃を受け小破、翌19年1月11日ペナン省島西方海域で英潜「タリーホー」の雷撃を受け、多数の乗組員が艦と運命を共にした。
 戦後38年を経て元乗組員の生存者が集まって協議し、「球磨」の母港の地呉に慰霊碑を建立することを決定し、この〃碑〃を建立した。


軍艦神通

(じんつう)

 碑名  軍艦神通戦没者慰霊碑 昭62.9.22 建立 合祀者506柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等巡洋艦 152.4 14.17 4.91 5,595 35.25 14cm単×7, 8cm高単×2, 発連×4
 大14.7.31竣工, 昭18.7.13沈没, 18.9.10除籍
 大正9年度計画, 建造所 神戸川崎造船所
大11.8.4起工, 12.12.8進水, 14.7.31竣工, 二等巡洋艦に類別
昭 2. 8.24 美保関沖で夜間演習中,蕨と衝突,艦首を大破,昭3.3舞鶴工作部で修理完成
  3    山東出兵。 青島警備に従事
  7    上海事変。 揚子江口水域で作戦
 12〜13  シナ事変。上海上陸作戦,広東攻略作戦等に参加
 16〜18  太平洋戦争。 比島攻略作戦(昭16) 東インド諸島攻略作戦, スラバヤ沖海戦, ミッドウェー作戦,ソロモン群島方面輸送,海上護衛(昭17〜18)ガダルカナル島撤収作戦支援,コロンバンガラ島沖夜戦(昭18)等に参加
 18. 7.13 コロンバンガラ島沖夜戦で米水上部隊と交戦,砲雷撃を受け沈没
 18. 9.10 除籍
 
 二等巡洋艦「神通」は、「那珂」型軽巡三番艦として、大正14年7月31日神戸川崎造船所で竣工した。
 昭和2年8月24日第一水雷戦隊旗艦として夜間演習中に駆逐艦「蕨」と衝突沈没させ、艦長水城圭次大佐は責を負って自刃した。(慰霊碑は多摩墓地に現存)
 太平洋戦争開戦時は、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)旗艦として比島方面作戦、スラバヤ沖海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦に参加した。
 昭和18年、中部ソロモンの日米攻防戦が苛烈を極めた頃トラックに進出、7月12日、コロンバンガラ島沖で駆逐艦5隻を率いて奮戦、米軽巡、駆逐艦を撃沈したが、米巡洋艦戦隊の集中攻撃により壮烈な最後を遂げ、482名が散華した。
 昭和61年、広島で僅かな生存者が集まり第一回の慰霊祭を行い、一日も早い慰霊碑建立を決議、建立委員会を結成してこの〃碑〃を建立した。

軍艦大井
(おおい)

 碑名  軍艦大井戦没者慰霊碑 平元.7.19 建立 合祀者151柱
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等巡洋艦 152.4 14.17 4.8 5,500 36.0 14cm単×7, 8cm高単×2, 発連×4
 大10.10.3竣工, 昭19.7.19沈没, 19.9.10除籍
 大正6年度計画, 建造所 神戸川崎造船所
大8.11.24起工, 9.7.15進水, 10.10.3竣工, 二等巡洋艦に類別
昭3.12〜7.9  兵学校練習艦に指定
 7      上海事変。 上海付近で作戦
 8.11〜12.7 兵学校練習艦に指定
12      シナ事変。上海上陸支援等に参加
12.12〜14.11 兵学校練習艦に指定
16.1〜9末  舞鶴工廠で重雷装艦に改造
16〜19    太平洋戦争。 ミッドウェー作戦(昭17)に参加,17.9以降,発射管の一部を撤去,ニューギニア,東インド,インド洋水域の輸送作戦に参加
19. 7.19   シンガポール向け輸送作戦中,香港南方で米潜水艦FLASHERの雷撃を受け沈没
19. 9.10   除籍


軍艦鹿島
(かしま)

碑名  軍艦鹿島有終之碑 平元.9.22 建立
艦種 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
練習巡洋艦 123.5 15.95 5.75 6,300 18.0 15cm連×2, 12.7cm高連×1, 発連×2
 昭15.5.31竣工, 20.10.5除籍
 昭和13年度計画, 建造所 三菱横浜船渠
昭13.10.6起工, 14.9.25進水, 15.5.31竣工, 練習巡洋艦に類別
昭15.8〜9  少尉候補生の遠洋航海に従事
 16〜19   太平洋戦争。 ラバウル・カビエン攻略作戦(昭17) 中部太平洋・ソロモン方面作戦指揮(昭16〜18) 内海で練習艦任務(昭18〜19) 沖縄・台湾方面輸送, 海上護衛作戦(昭19〜20)に参加,呉で終戦を迎える
 20.10. 5 除籍,20.12.1特別輸送艦に指定,復員輸送に従事
 21.11.26〜22.6.15 川南工業香焼島造船所で解体


駆逐艦島風
(しまかぜ)

碑名  駆逐艦島風戦没者之碑 昭40.11.11 建立 合祀者468柱 342柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 島風型 120.5 11.2 4.14 3,048 39.0 12.7cm連×3, 発5連×3
 昭和14年度計画, 建造所 舞鶴工廠
昭16.8.8起工, 17.7.18進水, 18.5.10竣工, 一等駆逐艦に類別
昭18〜19   太平洋戦争。 北方作戦,マリアナ沖海戦,比島沖海戦,海上護衛,輸送作戦に参加, 19.11.11オルモック輸送作戦中同湾で米空母機の爆撃を受け沈没  20. 1.10 除籍
 
 駆逐艦「島風」は、高速駆逐艦として唯一艦だけ建造され、昭和18年5月10日舞鶴海軍工廠で竣工した。
 就役と共に千島への輸送任務に従事、キスカ撤収作戦には警戒艦として参加し、その後、トラック、ラバウル間の輸送任務に従事、次いで、マリアナ海戦に参加、その高速性能を発揮して活躍した。
 昭和19年11月9日早朝、第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将)の旗艦として、敵制空権下に5隻の輸送船を護衛して決死の覚悟でマニラからオルモック湾に向かった。11日米機300機の3波にわたる空襲を受け、輸送船は全滅「島風」は、至近弾と無数の機銃掃射を受け、応急処置のいとまなく後部付近に大爆発を起し、オルモック湾に没し、早川司令官以下400余名が艦と運命を共にした。
 戦後21年たった昭和40年上井艦長、上村機関長、友兼看護長、森脇電信員らが中心になりこの〃碑〃を建立した。
                                   
碑(表) 呉教育隊司令 上村 嵐 謹書
                       (裏)
  駆逐艦島風は帝国海軍艦艇中40節の高速を発揮し得た唯一の優秀な駆逐艦であった。同艦は昭和18年5月造船技術の粋をあつめ試作艦として舞鶴海軍工廠において建造されたが、その性能は大型艦代表の戦艦大和に匹敵する高度のもので正に小型艦中の代表艦であった。
同艦は呉鎮守府に属し、就役するや直ちに第2水雷戦隊に編入され太平洋戦争中常に第一線にあり、北に南に転戦して赫々たる戦果を挙げた。乗組員一同も呉鎮管下の精強な戦士を以って編成されていた。そして昭和19年11月11日比島沖海戦に続いておこなわれたレイテ島輸送作戦の際、敵機の熾烈な波状攻撃を受け、勇戦奮斗の甲斐なく同島オルモック湾において護国の楯となり、450余名の乗組員の大多数は壮烈なる戦死を遂げたのである。我等九死に一生を得て生存した島風乗組員は共に闘った戦友と島風のみ霊を慰め、長くその名を後世に留めようと決意し、ここに我等の誠意をこめて慰霊碑を建立した。                              
  昭和40年11月11日  発起人 上井 宏   友兼 久夫
                   上村 嵐   森脇 武夫
 
 (本体) 高さ 1.30m       (台座) 高さ 1.00m
      幅  1.50m             幅  2.00m
     奥行 0.20m             奥行 1.23m


駆逐艦綾波
(あやなみ)
 碑名  駆逐艦綾波戦没者之碑 昭45.5.14 建立 合祀者42柱 40柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 吹雪型 112.0 10.36 3.2 1,980 38.0 12.7cm連×3, 発3連×3
 昭和2年度計画, 建造所 藤永田造船所
昭3.1.20起工, 4.10.5進水, 5.4.30竣工,一等駆逐艦に類別
昭12    シナ事変。 上海・杭州湾上陸作戦に参加
 16〜17  太平洋戦争。 南方進攻,ミッドウェー・ソロモン作戦に参加,17.11.14第三次ソロモン海戦で米水上部隊と交戦,被弾大破,11.15サボ島付近で沈没
 17.12.15 除籍
 
 駆逐艦「綾波」は、「吹雪」型特型駆逐艦の十一番艦として、昭和6年4月20日藤永田造船所で竣工した。
 太平洋戦争開戦時は第十九駆逐隊に属し、マレー上陸作戦、ジャワ攻略戦などに参加、次いでミッドウェー、インド洋作戦に転戦して奮戦した。その後ガダルカナル奪回作戦に投入され、第二次ソロモン海戦など8回にわたり出撃し、赫々たる戦果をあげた。
 昭和17年11月14日、駆逐隊から分離し単艦でサボ島西岸を索敵中、敵前衛駆逐艦4隻と遭遇、2隻を撃沈、2隻を大破させたが、「綾波」も集中砲火を浴びて大爆発を起し、ソロモン海深く沈没した。
 戦後25年たった昭和45年、「綾波」の生存者が大阪に集まり、万感を胸に、旧交を温めると共に、不滅の金字塔を打立てた「綾波」の戦績を讚え、共に闘って戦没した戦友の偉業を正しく後世の人々に伝承するため、建立委員会を結成してこの〃碑〃を建立した。
                                 
 駆逐艦綾波は大東亜戦争開始以来マレー沖アンダマン、ミッドウェー印度洋等に転戦し、昭和17年8月ガダルカナル島奪回戦に投入されるや極めて困難なる状況のもとに8回に亘り出撃し同年11月14日敵飛行場砲撃部隊の最前方を掃蕩、単艦分離してサボ島西岸を索敵南下中21:00敵大型戦艦ワシントン、サウスダコタの前衛駆逐艦4隻を発見し単艦よく6隻に向って驀進接近し自らも損傷を受けながらも砲撃、魚雷戦の威力を極度に発揮し前記駆逐艦4隻を撃沈し海戦史上稀なる戦果を収めた。
 しかし亦自艦も敵駆逐艦4隻と戦艦2隻の集中砲火を浴び闇のソロモン海に燃へ爛れる鉄塊となって漂流し翌15日00:10サボ島南5千米の地点で大爆発、眠れる戦友と共に南溟の海に永遠のピケットラインについた。
                               
 昭和17年11月14日ガダルカナル島奪回作戦においてサボ島西岸を南下中、米艦隊と遭遇、被弾後爆発沈没したが、その際戦死した42名の霊をいたみ、昭和45年5月14日に建立された。
 
碑(表) 源 田 実 謹書
 (側) 左右に戦没者氏名各21名分
 (裏) 綾波建設委員会建之
           昭和45年5月14日   発起人 田 中 等
 (戦歴掲示板)
     日本駆逐艦綾波の戦歴
 第19駆逐隊駆逐艦綾波は太平洋戦争開戦以来、マレー沖、アンダマン、ミッドウェー、印度洋等に転戦奮斗し、昭和17年8月ガダルカナル島奪回作戦に投入されるや極めて困難なる状況のもとに8回に亘り出撃、赫々たる戦果を挙げた。同年11月14日敵飛行場砲撃部隊の最前方を掃蕩、単艦分離してサボ島西岸を索敵南下中、午後9時敵新大型戦艦ワシントン・サウスダコタの前衛駆逐艦4隻を発見綾波はサボ島を利用して単艦よくこの6隻に向って全速驀進近接し、自らも損傷を受け炎上しつつも正確無比なる数百発の12.7糎砲の零巨離射撃と、満を持して放った6本の魚雷によって敵駆逐艦プレストンを轟沈、次いでウォークを撃沈、ベンナムを大破、沈没、グインを大破させ海戦史上稀に見る大勝利を収めた。しかし自艦も亦敵駆逐艦4隻の集中砲火と新大型戦艦2隻の巨弾を一身に浴びて、闇のソロモン海に燃え爛れる鉄魂となって漂流し翌15日午前0時10分サボ島の南5000米の地点で大爆発、眠れる戦友と共に南溟の永遠のピケットラインについた。ガダルカナル海戦は事実上この夜を以て終焉し駆逐艦綾波生存乗組員はその後の戦斗に於て多数散華され終戦を迎えた。
 現生存有志一同ここに綾波戦歿者の碑を建立し、亡き戦友のため哀悼の意を表すると共にその勲を記念する次第である。
     昭和45年5月14日
              当夜戦斗参加の一人
              第19駆逐隊司令付  小 池 英 作 題


駆逐艦敷波
(しきなみ)

 碑名  駆逐艦敷波戦没者慰霊碑 昭47.9.11 建立 合祀者171柱 167柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 吹雪型 112.0 10.36 3.2 1,980 38.0 12.7cm連×3,発3連×3
 昭和2年度計画, 建造所 舞鶴工作部
昭3.7.6起工, 4.6.22進水, 4.12.24竣工, 一等駆逐艦に類別
昭12    シナ事変。 上海・杭州湾上陸作戦に参加
 16〜19   太平洋戦争。 南方進攻,ミッドウェー・ソロモン・ニューギニア作戦及び 輸送,海上護衛作戦に参加,17.3.1バダビア沖海戦で米重巡HOUSTONを雷撃撃沈,
19.9.12内地向船団護衛中海南島東方で米潜水艦GROWLERの雷撃を受け沈没
 19.10.10 除籍
 
 駆逐艦「敷波」は、「吹雪」型特型駆逐艦の十二番艦として、昭和4年12月24日舞鶴海軍工廠で竣工した。
 太平洋戦争開戦時は第十九駆逐隊を編成、マレー方面作戦に参加、その後、ガダルカナル島緊急輸送を10回にわたり実施、ビスマルク海戦に参加して呉に帰還した。
 昭和19年4月まで南西方面において護衛作戦に従事、6月8日ビアク沖海戦で損傷を受け、また軽巡「大井」の救助などに活躍した。9月12日船団護衛中海南島東方海域において、米潜「グローラー」の雷撃を受け、艦長高橋達彦少佐以下200余名の乗組員が艦と運命を共にし、東支那海深く沈没した。
 昭和45年、名古屋で慰霊祭を挙行した折、呉軍港で慰霊祭を行わなければ英霊は成佛できないとの意見が出され、全員一致の賛同が得られ、慰霊碑建立事務局を結成してこの〃碑〃を建立した。
                                   
 昭和16年12月マレー半島上陸作戦及びシンガポール攻略戦並にジャワ島攻略戦に参加し豪旗艦ヒューストンを撃沈し次いでミッドウェー、第二次第三次ソロモン海戦に参加し以後ラバウル方面オーストラリア、ニューギニア、南西方面作戦に参加。
 19年9月帰国の途次護衛任務を遂行中海南島の南250マイルの地点において敵潜水艦の襲撃を受け轟沈す。時9月12日06:55。


駆逐艦浜風
(はまかぜ)

碑名  駆逐艦浜風戦没者慰霊碑 昭52.4.7 建立 合祀者105柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 浦賀船渠
昭14.11.20起工, 15.11.25進水, 16.6.30竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜20   太平洋戦争。  ハワイ作戦,南方進攻作戦,ミッドウェー作戦,ソロモン作戦,マリアナ沖,比島沖海戦,菊水一号作戦に参加, 20.4.7沖縄特攻作戦中大隅諸島西方で米空母機の爆撃を受け沈没
 20. 6.10  除籍
 
 駆逐艦「濱風」は、新鋭駆逐艦「陽炎」型(甲型)として太平洋戦争開戦を目前にした昭和16年6月30日、浦賀船渠で竣工、「谷風」、「浦風」、「磯風」と第十七駆逐隊を編成した。
 開戦と共に機動部隊直衛駆逐艦として各地を転戦、ガダルカナル島の米軍反攻が始まるや、最初の挺身輸送作戦から最後の撤収作戦まで奮戦し、偉功をたてた。
 各海戦においても直衛艦として任務を果たし、昭和20年4月7日の「天一号作戦」の沖縄海上特攻作戦において戦艦「大和」と共に出撃し、勇戦奮闘した。しかし、文字通り刀折れ、矢つき、艦体が両断、壮烈な最後をとげ、乗組員100名は艦と運命を共に東支那海で散華した。
 太平洋戦争における「濱風」は、海軍艦艇のなかでも最も多くの戦闘に参加した赫々たる武勲艦で、その栄誉と散華した戦友の鎮魂のため、昭和50年に西村五郎氏が碑の建立を発案し、同52年濱風会を結成してこの〃碑〃を建立した。


駆逐艦陽炎

(かげろう)

 碑名  駆逐艦陽炎之碑 昭55.5.11 建立 合祀者23柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 舞鶴工廠
昭12.9.3起工, 13.9.27進水, 14.11.6竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜18   太平洋戦争。 ハワイ作戦,南方進攻作戦,ミッドウェー作戦,ソロモン作戦に参加,18.5.8コロンバンガラ輸送の帰途同島南岸西方で触雷,航行不能となり米海兵隊機の爆撃を受け沈没
 18. 6.20 除籍
 
 駆逐艦「陽炎」は、「陽炎」型駆逐艦の一番艦として、昭和14年11月6日舞鶴海軍工廠で竣工した。
 太平洋戦争開戦時は、第十八駆逐隊(司令官宮城登大佐)に属し、機動部隊の警戒隊としてハワイ真珠湾攻撃、ついでインド洋作戦に参加した後、第二駆逐艦に復帰、ミッドウェー海戦に参加した後、第十五駆逐隊に編入された。
 ガダルカナル島方面の戦局急を告げるや、第四、第竣十七駆逐隊と共に一木支隊を緊急輸送、ルンガ沖海戦では僚艦と共に米重巡艦隊に大損害を与えた。
 昭和18年5月7日ソロモン諸島クラ湾で触雷、翌8日米陸軍機の空襲により被爆し、さしもの武勲艦も南海に沈没した。
 戦後、生存者で結成した駆逐艦陽炎会は、万場一致で慰霊碑建立を決定し、武勲艦 「陽炎」の偉功を永く後世に伝え、艦と運命を共に南海に眠る戦友の御霊を鎮魂するため、この〃碑〃を建立した。


駆逐艦谷風
(たにかぜ)

 碑名  第17駆逐隊(谷風、浦風、濱風、磯風、雪風、初霜)之碑 昭57.3.21 建立
         ( 39  88  37  89  90  91 ) 合祀者550柱(濱風を除く)
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 藤永田造船所
昭14.10.18起工, 15.11.1進水, 16.4.25竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜19  太平洋戦争。 ハワイ作戦,南方進攻作戦,ミッドウェー作戦,ソロモン・ニューギニア作戦,輸送,海上護衛作戦に参加, 19.6.9タウイタウイ沖で対潜掃討中,米潜水艦HARDERの雷撃を受け沈没
 19. 8.10 除籍
 
 第十七駆逐隊は、太平洋戦争直前に竣工した「谷風」「浦風」「濱風」「磯風」「雪風」(2000噸)と、「初霜」(1400噸)の6隻で編成された最精鋭の駆逐隊として太平洋戦争において顕著な武勲をたて、5隻が沈没した。
 特に「濱風」、「磯風」は、第一遊撃部隊として沖縄海上特攻作戦に参加し、「大和」と前後して沈没した。また「雪風」は唯一残存艦として終戦を迎えるという駆逐艦としては最高の強運艦といわれ、戦後は中国海軍に譲渡された。
 〃碑〃の建立の動機は、「浦風」生存者の小寺正義氏が慰霊碑建立の準備をしていた折、「谷風」生存者の柴田正氏が、共に闘った仲であるから「第十七駆逐隊の碑」として建立してはとの話により協議の結果、戦没者655柱の鎮魂と、第十七駆逐隊の栄光ある戦歴を永く後世に伝え、且つ祖国の安泰を祈念してこの碑を建立することとなった。

 

駆逐艦浦風
(うらかぜ)

 碑名  第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 昭57.3.21 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 藤永田造船所
昭14.4.11起工, 15.4.10進水, 15.12.15竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜19   太平洋戦争。 ハワイ作戦,南方進攻作戦, ミッドウェー作戦,ソロモン・ニューギニア作戦,マリアナ沖海戦,比島沖海戦に参加,
 19.11.21  内地帰投の途中基隆北西で米潜水艦SSEALIONの雷撃を受け沈没
 20. 1.10  除籍


駆逐艦桑
(くわ)

 碑名  駆逐艦桑戦没者之碑 昭57.12.2 建立 合祀者260柱
艦種  艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装 
一等駆逐艦 松型 92.15 9.35 3.3 1,530 27.8 12.7cm高連×1,12.7cm単×1,発4連×1
昭和19年度計画, 建造所 藤永田造船所
昭18.12.20起工, 19.5.25進水, 19.7.25竣工, 一等駆逐艦に類別
昭19     太平洋戦争。 比島沖海戦,輸送,海上護衛作戦に参加,
 19.12.3  オルモック輸送作戦中同湾で米水上部隊と交戦,被弾沈没
 20. 2.10  除籍
 
 駆逐艦「桑」は、「松」型駆逐艦の五番艦として、昭和19年7月25日藤永田造船所で竣工した。
 初陣は比島沖海戦で、小澤治三郎中将指揮の機動部隊の警戒隊第31戦隊(司令官江戸兵太郎少将)の一艦として奮戦し、対空戦闘の間隔を見て空母「瑞鳳」の乗組員481名を救助した。
 その後、マニラに進出、第七次オルモック輸送作戦に旗艦として参加、12月2日夜半任務完了後敵艦隊と遭遇、敵艦を撃沈したが、「桑」も被弾、衆寡敵せず、乗組員258名と共にオルモック湾に沈み、生存は僅かに11名であった。
 戦後、30年たって吉岡億氏(名古屋)は遺族探しをはじめ、現地慰霊祭に参加して遺族にその模様を話したところ、壮烈な最後を遂げた「桑」の栄光を永く後世に遺し、散華した乗組員の英霊の冥福を祈るため、遺族、生存者有志が力をあわせてこの〃碑〃を建立した。


駆逐艦磯風
(いそかぜ)

 碑名  第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 昭57.3.21 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型
111.0 10.8 3.76 2,500  35.0  12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭13.11.25起工, 14.6.19進水, 15.11.30竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜20   太平洋戦争。 ハワイ作戦,南方進攻作戦,ミッドウェー作戦,ソロモン作戦,マリアナ沖,比島沖海戦,菊水一号作戦に参加,
 20.4.7   沖縄特攻作戦中大隅諸島西方で米空母機の爆撃を受け大破砲撃処分
 20. 5.25  除籍


駆逐艦雪風
(ゆきかぜ)

 碑名  第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 昭57.3.21 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭13.8.2起工, 14.3.24進水, 15.1.20竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜20   太平洋戦争。 南方進攻作戦,ミッドウェー作戦,ソロモン作戦,マリアナ沖海戦,比島沖海戦,菊水一号作戦に参加,
 18.7.12  コロンバンガラ島夜戦の際ニュージーランド軽巡LEANDERを雷撃撃破,
      終戦時宮津湾に所在
 20.10. 5 除籍,
 20.12.1  特別輸送艦に指定,
 20.12.20〜21.2.10舞鶴で輸送用に改造,復員輸送に従事,
 21.12.30 特別保管艦(倍償艦)に指定,
 22.7.6  中国へ引渡し,国府海軍所属となり丹陽TANYANGと命名,41年除籍,解体
 


駆逐艦初霜
(はつしも)

 碑名  第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 昭57.3.21 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 初春型 103.0 10.0 3.03 1,680 36.5 12.7cm連×2,12.7cm単×1,発3連×3
 昭和6年度計画, 建造所 浦賀船渠
昭8.1.31起工, 8.11.4進水, 9.9.27竣工, 一等駆逐艦に類別
昭12〜    シナ事変。 上海上陸・杭州湾上陸作戦,北部仏印威力顕示作戦に参加
 16〜20   太平洋戦争。 南方進攻作戦,北方作戦,マリアナ沖海戦,菊水一号作戦,
       海上護衛,輸送作戦に参加, 
 20.7.30  宮津湾で対空戦闘中触雷擱座
 20. 9.30  除籍
 23〜24   飯野産業舞鶴造船所で浮揚,解体


駆逐艦浦波

(うらなみ)

 碑名  駆逐艦浦波慰霊碑 昭60.10.26 建立 合祀者102柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 吹雪型 112.0 10.36 3.2 1,980 38.0 12.7cm連×3, 発3連×2
 昭和2年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭2.4.28起工, 3.11.29進水, 4.6.30竣工,一等駆逐艦に類別
昭12    シナ事変。 上海・杭州湾上陸作戦に参加
 16〜19  太平洋戦争。 南方進攻,ミッドウェー・ソロモン・ニューギニア作戦及び輸送,海上護衛作戦に参加, 16.12.19マレー,コタバル沖でオランダ潜水艦020を砲撃及び爆雷攻撃により撃沈,19.10.26オルモック輸送の帰途パネイ島西方で米空母機の爆撃を受け沈没
 19.12.10 除籍
 
 駆逐艦「浦波」は、「吹雪」型特型駆逐艦の十番艦として、昭和4年3月4日佐世保海軍工廠で竣工した。
 太平洋戦争開戦時は、第十九駆逐隊(司令太田信之輔大佐)として第三水雷戦(司令官橋本信太郎少将)に所属してマレー作戦に参加、その後、ミッドウェー作戦、インド洋交通破壊作戦に従事した。
 次いで、ソロモン方面に転戦し、11日にわたるガダルカナル島緊急輸送作戦に従事した功績は高く評価された。
 その後南西方面の護衛任務に従事し、第十六戦隊(司令官左近充尚正中将)に所属し、マニラで兵員、物資輸送に従事、昭和19年10月26日オルモック島沖で米機50数機と交戦、勇戦奮闘するも被爆航行不能となり沈没し、佐古加栄艦長以下102名が艦と運命を共にして散華した。
 以来、浦波会は毎年命日に供養をしてきたが、慰霊碑建立の議が起り、戦没者の冥福を祈念し、永く後世にその功績を伝えるため、この〃碑〃を建立した。


駆逐艦椿
(つばき

 碑名  駆逐艦椿戦没者慰霊碑 昭58.7.23 建立 合祀者29柱
艦種  艦名 長さm 幅m  吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装 
一等駆逐艦 松型 92.15 9.35 3.3 1,530 27.8 12.7cm高連×1,12.7cm単×1,発4連×1
 昭和19年度計画, 建造所 舞鶴工廠
昭19.6.20起工, 19.9.30進水, 19.11.30竣工, 一等駆逐艦に類別
昭19〜20  太平洋戦争。 輸送,海上護衛作戦に参加, 20.7.24岡山沖で米空母機の爆撃を受け中破状態のまま終戦時,呉に所在
 20.11.30 除籍, 23.7.1〜7.28播磨造船呉ドックで解体
 
 駆逐艦「椿」は、「松」型駆逐艦として、昭和19年11月30日舞鶴海軍工廠で竣工、急速訓練の後第五十三駆逐隊に編入されて支那方面に派遣された。上海ー内地間の船団護衛作戦に従事の途次、磁気機雷して損傷したが、応急処理して船団を護衛し任務を果たした。
 以後は、呉鎮守府部隊に編入され、僚艦「椿」「檜」「桜」と共に瀬戸内海の警備任務についた。
 7月に入り米機の空襲が激化し、24日の空襲では最後迄奮戦して敵機を撃墜したが、砲術長以下18名が戦死、艦長以下多数の負傷者を出した。
 28日、再度の空襲により10数名戦死、多数の負傷者を出し、艦は損傷したが終戦迄勇戦奮闘して生き残った。
 戦後、生存者は、生き残った者の義務として、祖国に殉じた戦友の事績を正しく、永久に歴史に留め、子孫に伝えることを念じてこの〃碑〃を建立した。


駆逐艦叢雲

(むらくも)

 碑名  駆逐艦叢雲慰霊碑 昭60.4.5 建立 合祀者27柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 吹雪型 112.0 10.36 3.2 1,980 38.0 12.7cm連×3, 発3連×3
 大正12年度計画, 建造所 藤永田造船所
昭2.4.25起工, 3.9.27進水, 4.5.10竣工(昭3.8.1第39号駆逐艦から叢雲と改名)一等駆逐艦に類別
昭15    シナ事変。 南支沿岸作戦,北部仏印進駐作戦に参加
 16〜17  太平洋戦争。 南方進攻,ミッドウェー・ソロモン群島作戦等に参加,
 17.10.12 古鷹の救援に出動中,ニュージョージア島沖で米軍機の爆撃を受け大破,雷撃処分
 17.11.15 除籍
 
 駆逐艦「叢雲」は、日本海軍の建艦技術の粹を集めて建造された「吹雪」型特型駆逐艦の五番艦として、昭和4年5月10日藤永田造船所で竣工した。
 太平洋戦争開戦時は、「白雲」「東雲」「叢雲」で第十二駆逐隊(司令小川延喜中佐)を編成、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将)に所属して、マレー、ボルネオ上陸作戦に参加した。
 次いで、バタビア沖で奮戦した後、昭和17年に第十一駆逐隊に編入され、「吹雪」と行動を共にしミッドウェー作戦に参加した。その後米軍反攻開始によって戦局急を告げるソロモン方面に転戦した。
 ガダルカナル島の補給作戦が開始されるや、〃東京急行〃と通称される緊急作戦を7回にわたり実施し、昭和17年10月11日、陸軍部隊揚陸後、帰途において米機と交戦し奮戦空しく沈没した。
 生死を共にした戦没者、物故者の冥福を祈念し、その事蹟を後世に伝えるため、戦友会がこの〃碑〃を建立した。
                                 
 
初 代 叢 雲
明治29年度計画,建造所 ソーニクロフト社(英)
明30.10起工, 31.11.16進水, 31.12.29竣工, 水雷艇(駆逐艇)に類別
明32. 4.23 横須賀に到着
 33. 6.22 軍艦に編入,駆逐艦に類別
 33    北清事変に参加
 37〜38  日露戦争。 旅順攻略,黄海海戦,日本海海戦,樺太攻略等に参加
 38.12.12 駆逐艦に種別変更
大 1. 8.28 三等の等級を付与
  8. 4. 1 雑役船に編入,潜水艇母船兼掃海船に指定,叢雲丸と改名
  9. 7. 1 特務艇に編入,二等掃海艇に類別,艇名を叢雲に復帰
 11. 4. 1 再度,雑役船に編入,標的船に指定
 14. 3.12 廃船認許
 14. 6. 4 千葉県洲崎灯台沖で実艦的として撃沈処分


駆逐艦東雲
(しののめ)

碑名 駆逐艦東雲慰霊碑 平14.5.17建立 合祀者237柱

艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦(特型) 吹雪型 112.0 10.36 3.2 1,980 38.0 12.7cm×3,発3連×3
 
大正15年度計画, 建造所 佐世保工廠
大15.8.12起工, 昭2.11.26進水, 3.7.25竣工,第40号駆逐艦と命名,一等駆逐艦に類別
昭3.8.1  東雲と改名
 15    シナ事変。南支沿岸作戦,北部仏印進駐作戦に参加
 16    太平洋戦争。南方進攻撃作戦に参加,16.12.17ボルネオ,バラム角北方で爆沈
      (16.12.17,ボルネオ,ミリ付近でオランダの敷設機雷に触れ沈没)
 17.1.15 除籍
 
 駆逐艦「東雲」は、「吹雪」型特型駆逐艦の六番艦として、昭和3年7月25日佐世保工廠で竣工した。
 大東亜戦争開戦時は「白雲」「東雲」「叢雲」で第十二駆逐隊(司令小川延喜中佐)を編成、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将)に所属して、マレー、ボルネオ上陸作戦に参加した。
 昭和16年12月17日ボルネオ島ミリー沖で敵と交戦沈没し艦長笹川 博中佐(海兵50期)以下237名の乗組員全員が戦死した。同艦は恐らく大東亜戦争での水上艦沈没1号と思われる。
 この度艦長夫人笹川智恵子さん始めご家族の61年間の切々たる熱い思いが叶い平成14年5月17日慰霊碑建立の実現を見たものである。

駆逐艦天津風
(あまつかぜ)

 碑名  駆逐艦天津風之碑 昭60.4.5 建立 合祀者168柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 舞鶴工廠
昭14.2.14起工, 14.10.19進水, 15.10.26竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜20   太平洋戦争。 南方進攻作戦,ミッドウェー作戦,ソロモン作戦,輸送,護衛作戦に参加, 17.2.26セレベス南方でオランダ病院船オプテン・ノートを捕獲,
17.3.1〜2スラバヤ南方でオランダ潜水艦K10を砲撃及び爆雷攻撃により撃破(のち自沈)
19.1.16南支那海で米潜水艦REDFINの雷撃 を受け大破,シンガポールで仮修理後,船団を護衛して内地に帰投の途中,
 20.4.6   厦門沖で米陸軍機の爆撃を受け擱座,爆撃処分
 20. 8.10  除籍
 
 駆逐艦「天津風」は、艦隊決戦用駆逐艦「陽炎」型の9番艦として、2500噸、 35節の性能を有し、昭和15年10月26日、舞鶴海軍工廠で竣工した。
 太平洋戦争開戦時には、駆逐艦「時津風」「初風」「雪風」と共に第16駆逐隊を編成、第5戦隊(司令官高木武雄少将)に所属し、南部比島攻略作戦に参加した。以後、スラバヤ沖海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦に参加、第三次ソロモン海戦においては米重巡「サンフランシスコ」を大破したが、「天津風」も大破した。
 その活躍は、艦隊決戦駆逐艦にふさわしいものであったが、昭和20年4月6日仙頭沖にて米軍機の空襲を受け、対空戦闘も空しく沈没してその生涯を閉じた。
 昭和59年、駆逐艦「天津風」乗組員らによって天津風会を結成し、会員の総意によって戦没者及び元乗組員物故者慰霊のためにこの〃碑〃を建立した。



駆逐艦白雲
(しらくも)

 碑名  駆逐艦白雲慰霊碑 昭62.3.16 建立  合祀者270柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 吹雪型 112.0 10.36 3.2  1,980  38.0  12.7cm連×3, 発3連×3 
 大正15年度計画, 建造所 藤永田造船所
大15.10.27起工, 昭2.12.27進水, 3.7.28竣工,第42号駆逐艦と命名, 一等駆逐艦に類別昭 3. 8. 1 白雲と改名
 15    シナ事変。 南支沿岸作戦,北部仏印進駐作戦に参加
 16〜19  太平洋戦争。 南方進攻,ミッドウェー・ソロモン作戦及び北方の海上護衛作戦に参加,
 19.3.16  ウルップ島向船団護衛中,襟裳岬沖で米潜水艦TAUTOGの雷撃を受け沈没
 19. 3.31 除籍
 
 駆逐艦「白雲」は、「吹雪」型特型駆逐艦の八番艦として、昭和3年7月28日藤永田造船所で竣工した。
 太平洋戦争開戦時は第十二駆逐隊に編入され、マレー部隊として作戦に参加の後ミッドウェー作戦に参加、昭和17年ガダルカナル島で損傷、各地に転戦して数々の武勲をたてた。
 昭和18年4月、第九駆逐隊に編入され、北方部隊として千島方面防衛に当たっていたが、昭和19年3月16日夜、船団護衛中襟裳岬東方海域で米潜「タウドク」の雷撃を受けて沈没し、艦長以下乗組員270名が壮烈な戦死をとげた。
 生存者のいない艦で慰霊顕彰は至難であったが、遺族の一人が戦没者、遺族の調査を始め、沈没後42年目に洋上慰霊祭を行った折、参加者90余名に慰霊碑建立を提案したところ、遺族だけでも建立しようという意見がまとまり、白雲会を結成、多数の人々の協力を得てこの〃碑〃を建立した。


駆逐艦夏潮

(なつしお)

 碑名  第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 昭61.9.22 建立
( 45  92  93  94  38 )    合祀者267柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2 
 昭和12年度計画, 建造所 藤永田造船所
昭12.12.9起工, 14.4.23進水, 15.8.31竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜17  太平洋戦争。 南方進攻作戦に参加, 17.2.8マカッサル攻略作戦中同沖で米潜水艦S37の雷撃を受け大破,,翌2.9沈没
 17. 2.28 除籍
 
 第十五駆逐隊は、昭和14年から16年にかけて建造された艦隊決戦用最新鋭駆逐艦「陽炎」型18隻のうち「夏潮」「早潮」「親潮」「黒潮」の四艦で編成され、第二水雷戦隊に所属の駆逐隊として開戦を迎えた。
 昭和17年2月8日「夏潮」がマカッサル沖で沈没したため「陽炎」が編入され、昭和17年8月以降の米軍反攻作戦で苛烈を極めるソロモン方面で目覚しい活躍をした。 11月24日「早潮」はラエ増強作戦で敵機の攻撃を受けて沈没、翌18年5月8日「親潮」「黒潮」「陽炎」がコロンバンガラ島で、敵機雷の触雷によって沈没、栄光の駆逐隊は1年有半で消滅した。
 この勇戦奮闘の偉勲を永く後世に伝え、散華した267柱英霊の鎮魂を祈念する駆逐隊の碑を造ろうという声が生存者の中から起り、戦友会により設立委員会を結成してこの〃碑〃を建立した。


駆逐艦早潮
(はやしお)

 碑名  第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 昭61.9.22 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 浦賀船渠
昭13.6.30起工, 14.4.19進水, 15.8.31竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜17   太平洋戦争。 南方進攻作戦,ミッドウェー作戦,ソロモン・ニューギニア作戦に参加,
17.11.24東部ニューギニア輸送作戦中,米陸軍機の爆撃を受け沈没
 17.12.24  除籍


駆逐艦親潮

(おやしお)

 碑名  第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 昭61.9.22 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 舞鶴工廠
昭13.3.29起工, 13.11.29進水, 15.8.20竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜18   太平洋戦争。 南方進攻作戦,ミッドウェー作戦,ソロモン作戦に参加, 
  18.5.8  コロンバンガラ輸送の帰途同島南岸西方で触雷,航行不能となり米海軍機の爆撃を受け沈没
 18. 6.20 除籍
               
             
 駆逐艦黒潮
(くろしお)
 碑名  第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 昭61.9.22 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 陽炎型 111.0 10.8 3.76 2,500 35.0 12.7cm連×3, 発4連×2
 昭和12年度計画, 建造所 藤永田造船所
昭12.8.31起工, 13.10.25進水, 15.1.27竣工, 一等駆逐艦に類別
昭16〜18   太平洋戦争。 南方進攻作戦,ミッドウェー作戦,ソロモン作戦に参加,
 18.5.8  コロンバンガラ輸送の帰途同島南東岸で触雷と空爆で沈没
 18. 6.20 除籍

                                 

駆逐艦呉竹

(くれたけ)
 碑名  駆逐艦呉竹慰霊碑 昭62.9.22 建立 合祀者140柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等駆逐艦 第2号若竹型 83.82 8.08 2.51 900 35.5 12cm単×3, 発連×2
 大正7年度計画, 建造所 神戸川崎造船所
大11.3.15起工, 11.10.21進水, 11.12.21竣工, 第4駆逐艦と命名, 二等駆逐艦に類別
大13. 4. 1  第4号駆逐艦と改名
昭 3. 8. 1  呉竹と改名
 12     シナ事変。 南支沿岸作戦に参加
 16〜19   太平洋戦争。 内地及び南方で海上護衛,哨戒作戦に参加,
 19.12.30  バシー海峡で船団護衛中,米潜水艦RAZARBACKの雷撃を受け沈没
 20. 2.10   除籍
 
 駆逐艦「呉竹」は、大正時代末期に建造された「若竹」型二等駆逐艦の四番艦として、大正11年12月21日川崎造船所で竣工、第十三駆逐隊に編入された。
 昭和18年に入り、太平洋戦争の戦局は、米潜水艦による輸送船の被害増大で由々しい事態になり、護衛作戦の緊急対策として第一海上護衛隊が編成され、「呉竹」は、護衛艦に適していることから船団護衛任務についた。
 内地からシンガポール、マニラ方面への船団護衛に従事したが、次第に増強される米潜水艦による被害は増大し、護衛艦自体も危険になってきた。
 第一護衛艦隊に増強された「呉竹」は船団護衛中、バシー海峡中央部において米潜水艦「ラゾール・バック」の雷撃を受け、昭和19年12月30日に沈没、22年の生涯を閉じた(艦長吉田家雄大尉)
 同艦生存者は29名と少ないが、呉竹会を結成し、英霊の遺徳を末永く後世に伝え、感謝の誠を捧げたいと祈念し、この〃碑〃を建立した。


駆逐艦秋風
(あきかぜ)

 碑名  駆逐艦秋風慰霊碑 平3.9.22 建立 合祀者204柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 峯風型 97.54 8.92 2.9 1,345 39.0 12cm単×4, 発連×3
 大正6年度計画, 建造所 三菱長崎造船所
大9.6.7起工, 9.12.14進水, 10.4.1竣工, 一等駆逐艦に類別
昭13〜14   シナ事変。 中支沿岸作戦に参加
 16〜19   太平洋戦争。 南方で輸送,海上護衛作戦に参加,19.11.3船団護衛中ルソン島サンフェルナンド西方で米潜水艦PINTADOの雷撃を受け沈没
 20. 1.10 除籍
 
 
献 辞
昭和十九年十月三十日空母隼鷹は高千穂空挺部隊八五〇名と各種兵器弾薬を満載これを護衛する軽巡 木曽 第三十駆逐隊(卯月、夕月、秋風)と共に夕闇迫る佐世保軍港をマニラへと出港した
緊迫した航海が続いた十一月三日夜半隼鷹の左舷を護衛中の秋風に左六十度方向より米潜ビンタード発射の魚雷が隼鷹に命中するのを避けるため全速で前進体当りを行ない一瞬の間に山崎艦長以下二〇四名が全員戦死した
時正に二十二時五十三分 北緯十六度四十一、五分 東経一一七度二十一分マニラ西方海面で秋風はその勇姿を消したのである
思えばあの重大な輸送作戦が成功し戦後我々が無事復員して今日あるのは偏えにこの尊い犠牲の賜と確信するものである
このため秋風の戦没者に感謝し この偉勲を後世に傳え また御霊の安らかに眠られんことを願って隼鷹戦友会の有志一同 御遺族そして秋風の御遺族並びに賛同者の協力を得て鎮魂の碑を建立し亡き秋風戦没者に哀悼の意を表わすものである
    平成三年九月二十二日
                    建立委員長 吉川 亘
要 目
  艦型=一等 基準排水量=一、二一五トン 常備状態排水量=一、三四五トン
水線長=九九.五三米 量大巾=八.九二米 馬力=三八、五〇〇
速力=三九ノット 備砲=十二×四 発射管=五三×六
   



駆逐艦吹雪
(ふぶき)

 碑名  第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)慰霊碑 平4.9.2
( 51  95  96  97 )   合祀者340柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 吹雪型 112.0 10.36 3.2 1,980 38.0 12.7cm連×3, 発3連×3
 大正12年度計画, 建造所 舞鶴工作部
大15.6.19起工,昭2.11.15進水, 3.8.10竣工(昭和3.8.1第35号駆逐艦から吹雪と改名)
一等駆逐艦に類別
昭12    シナ事変。 上海上陸,杭州湾上陸作戦等に参加
 16〜17  太平洋戦争。 南方進攻,ミッドウェー・ソロモン作戦等に参加,
 17.10.11 サボ島沖海戦で米水上部隊と交戦,同島付近で被弾沈没
 17.11.15 除籍


駆逐艦白雪
(しらゆき)

 碑名  第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)慰霊碑 平4.9.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 吹雪型 112.0 10.36 3.2 1,980 38.0 12.7cm連×3, 発3連×3 
 大正12年度計画, 建造所 横浜船渠
昭2.3.19起工, 3.3.20進水, 3.12.18竣工(3.8.1第36号駆逐艦から白雪と改名)一等駆逐艦に類別
昭12    シナ事変。 上海上陸,杭州湾上陸,北部仏印進駐作戦に参加
 16〜18   太平洋戦争。 南方進攻,ミッドウェー作戦に参加,ソロモン・ニューギニア作戦に参加,18.3.3ラエ輸送船団護衛中ダンピール海峡で連合軍機の爆        撃を受け沈没
 18. 4. 1 除籍


駆逐艦初雪
(はつゆき)

 碑名  第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)慰霊碑 平4.9.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等駆逐艦 吹雪型 112.0 10.36 3.2 1,980 38.0 12.7cm連×3, 発3連×3
 大正12年度計画,建造所 舞鶴工作部
昭2.4.12起工, 3.9.29進水, 4.3.30竣工(昭3.8.1第37号駆逐艦から初雪と改名)一等駆逐艦に類別
昭10. 9.26 三陸沖で演習中台風のため艦首を切断,11.7.14舞鶴工廠で修理完成
 12〜    シナ事変。 上海上陸,杭州湾上陸,北部仏印進駐作戦に参加
 16〜18   太平洋戦争。 南方進攻,ミッドウェー・ソロモン・ニューギニア作戦に参加,18.7.17ブインで輸送物件移載中,米軍機の爆撃を受け沈没
 18.10.15 除籍

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呉鎮守府潜水艦戦没者

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立 合祀者2,962柱
合祀潜水艦名
伊号29隻、呂号6隻、合計35隻

伊号第 8潜水艦 伊号第38潜水艦 伊号第172潜水艦
伊号第11潜水艦 伊号第52潜水艦 伊号第174潜水艦
伊号第27潜水艦 伊号第54潜水艦 伊号第175潜水艦
伊号第28潜水艦 伊号第55潜水艦 伊号第176潜水艦
伊号第29潜水艦 伊号第56潜水艦 伊号第351潜水艦
伊号第30潜水艦 伊号第70潜水艦 呂号第103潜水艦
伊号第31潜水艦 伊号第73潜水艦 呂号第104潜水艦
伊号第32潜水艦 伊号第122潜水艦 呂号第105潜水艦
伊号第33潜水艦 伊号第123潜水艦 呂号第112潜水艦
伊号第34潜水艦 伊号第168潜水艦 呂号第113潜水艦
伊号第35潜水艦 伊号第169潜水艦 呂号第114潜水艦
伊号第37潜水艦 伊号第171潜水艦
※印は、単独の慰霊碑があるもの。別に伊号363潜水艦の慰霊碑がある。 
 
 

伊号第8潜水艦

 碑名  伊号第8潜水艦之碑 昭56.3.31 建立 合祀者128柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(巡潜3型)
伊7型 103.8 9.1 5.26 2,525 23.0
8.0
14cm連×1,13mm機銃×1,発×6,
水偵×1,カタパルト×1
 昭和9年度計画, 建造所 川崎造船所
昭9.10.11起工, 11.7.20進水, 13.12.5竣工, 一等潜水艦に類別
昭16〜20   太平洋戦争。 開戦時 三潜戦旗艦,先遣部隊米西岸,中部及び南太平洋,インド洋で作戦, 18.6〜10訪独任務に従事
 20. 3.31 沖縄方面で哨戒待敵中,同島南方で米駆逐艦STOCKTON及びMORRISONの爆雷攻撃により浮上砲戦後,0412被弾沈没
 20. 8.10 除籍
 
 「伊号第八潜水艦」は、巡潜型三型として、昭和13年12月15日川崎造船所で竣工した。三型は、作戦室等の潜水戦隊旗艦設備を有し、通信能力も強化された。
 太平洋戦争開戦時は、第三潜水戦隊(司令官三輪茂義少将)の旗艦としてハワイ作戦に参加した後、ガダルカナル島補給の輸送作戦に従事して奮戦した。
 昭和18年6月1日、日独技術交換等の目的をもった遣独第二艦(艦長内野信二少佐)として呉軍港を出撃、三洋万里の波濤を乗りきり、無事任務を果して12月中旬に帰還した。
 昭和20年3月20日、呉を出撃し(艦長篠原茂夫少佐)沖縄方面に向かったまゝ消息を断ち、乗組員128名が艦と運命を共にした。米軍資料によると31日沖縄海域で米駆逐艦「モリソン」、「ストックトン」の攻撃で沈没した。
 赫々たる武勲をたてゝ散華した乗組員の偉業を永く後世に伝えんと、五代軍医長本橋政男氏が建碑を決意し、著書の売上金を基に建立委員会を設立し、生存者の協力を得てこの〃碑〃を建立した


伊号第11潜水艦

 碑名  伊号第11潜水艦之碑 昭56.10.30 建立 合祀者114柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 甲 型)
伊9型 108.4 9.55 5.36 2,919 23.5
8.0
14cm単×1,25mm機銃連×2,発首×6,
水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 川崎重工
昭15.4.10起工, 16.2.28進水, 17.5.16竣工, 一等潜水艦に類別
昭17〜19   太平洋戦争。 開戦時 三潜戦旗艦,先遣部隊
      南太平洋で作戦に従事
 18. 7.20 エスピリツサント島南東で豪軽巡HOBERTを雷撃により撃破
 19. 1.11 エリス・サモア方面作戦に向かった後消息不明, 3.20.エリス諸島方面で亡失と認定
 19. 4.30 除籍
 
 「伊号第十一潜水艦」は、「伊九潜」型(甲型)として、昭和17年5月16日川崎重工で竣工、「伊第十潜水艦」と同型艦の新鋭潜水艦であった。
 「伊十一潜」は竣工後1カ月足らずの急速訓練で昭和17年6月7日呉軍港を出撃し、シドニー沖に行動、商船3隻を撃沈して初陣を飾った。
 8月以降ソロモン方面海域で作戦行動、9月7日、米軍機と交戦して損傷を受け呉軍港に帰還した。
 昭和18年初頭、呉軍港を出撃、再び豪州東海岸方面海域で作戦行動、7月20日豪巡洋艦「ホバート」に魚雷2本を命中させて撃破した。
 昭和19年初頭、フナフチの偵察を見合せ、エリス、サモア方面に移動を命ぜられたが消息不明となり、3月20日沈没と認定された。(艦長伊豆寿市少佐)
 戦後、「伊十一潜」の乗組員だった花戸正雄氏が音頭をとり、戦没した乗組員の英霊を鎮魂せんと慰霊碑建立の議が起り、遺族、生存者の協力でこの〃碑〃を建立した。


伊号第27潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊15型 102.4 9.3 5.14 2,584 23.68.0 14cm単×1,25mm機銃連×1,発首×
6, 水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭14.7.5起工, 15.6.6進水, 17.2.24竣工(当初予定艦名は伊号第29だったが建造中伊号第27に変更) 一等潜水艦に類別
昭17〜19   太平洋戦争。 開戦時,八潜戦 第十四潜水隊 先遣部隊に編入南太平洋及びインド洋で作戦,甲標的によるシドニー攻撃に従事
 19. 2.13 インド洋交通破壊作戦中,マルディブ諸島南西で英船団攻撃中,英駆逐艦PALADIN及びPETERDの反撃を受け浮上砲戦に移ろうとしたとき衝撃を受け沈没
 19. 7.10 除籍


伊号第29潜水艦

 碑名  伊29潜戦没者慰霊碑 昭42.5.27 建立  合祀者107柱
艦種 艦名  長さm  幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型 )
伊15型 102.4 9.3 5.14 2,584 23.6
8.0
14cm単×1,25mm機銃連×1,発首×6, 水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 横須賀工廠
昭14.9.20起工, 15.9.29進水, 17.2.27竣工(当初予定艦名は伊号第33だったが建造中伊号第29に変更)第十四潜水隊に編入一等潜水艦に類別
昭17〜19   太平洋戦争。 南太平洋及びインド洋で作戦に従事, 18.11〜訪独任務につく
 19. 7.26 訪独任務の帰投,バシー海峡で米潜水艦SAWFISHの雷撃を受け1645沈没
 19.10.10 除籍
 
 「伊号第二十九潜水艦」は、「伊十五潜」型(乙型)として、昭和17年2月27日横須賀海軍工廠で竣工した。乙型は旗艦設備なく偵察機一機搭載の新鋭潜水艦で、急速訓練の後4月に豪州東岸の交通破壊作戦に従事して初陣を飾った。
 次いでインド洋方面海域で作戦に従事した後、遣独第四艦に選ばれ、昭和18年12月6日シンガポールを出港、翌年3月11日ロリアン軍港に到着、4月16日同地を出航、7月14日シンガポールに到着、22日呉に向け出航帰途についたが、26日、バタン島沖バリンタン海峡で米潜「ソードフイシュ」の雷撃を受け、艦長木梨鷹一中佐以下乗組員107名は艦と運命を共に南海の海に沈没した。
 昭和29年、第一回の慰霊法要を行い、「不朽会」は「二九潜」の語呂を合わせて名付け、栄光ある艦歴と散華した戦友の武勲を〃不朽〃に鎮魂するため、この〃碑〃を建立した。
昭和19年7月26日ドイツ派遣の使命を果し帰国の途上バタン島沖バリンタン海峡において米国潜水艦の雷撃をうけ沈没。その際戦死した107名の霊をいたみ、昭和45年に建立された。
 
碑(表) 不   朽
       第十四潜水隊司令 寺 岡 正 雄 謹書
 
 
 (裏) 艦と共に身おば砕きし火柱の
      一瞬をただ見つめたるまま
 大東亜戦争中輝かしい戦歴を重ねた伊号第29潜水艦は昭和19年7月26日午後4時15分頃ドイツ派遣の重大使命を果して一路帰国の途上米国潜水艦の雷撃を受けて沈没。乗組員107名もまた艦と運命を共にせり。
 バタン島沖バリンタン海峡のそうそうたる海原水深く波静かなる紺ぺきの海そこは祖国に生命を捧げた精鋭と艦の不朽の偉勲を語るところ、その海には今もなお壮烈偉大なる殉国の魂が永遠の眠りをつづけている。
 
 (本体) 高さ 1.20m      (台座) 高さ 1.4m
      幅  1.10m           幅  2.4m
      奥行 0.35m           奥行 2.0m


伊号第30潜水艦

碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊15型 102.4 9.3  5.14   2,584   23.6
  8.0
14cm単×1,25mm機銃連×1,発首×6,
水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 呉工廠
昭14.6.7起工, 15.9.17進水, 17.2.28竣工(当初予定艦名は伊号第35だったが建造中伊号第30に変更) 一等潜水艦に類別
昭17    太平洋戦争。 南太平洋で作戦に従事, 17.6〜訪独任務につく
 17.10.13 訪独任務の帰投シンガポール港外で開戦時英軍が敷設した機雷に触れ沈没  19. 4.15 除籍, 34.8〜35.2北星船舶により浮揚解体
  

伊号第31潜水艦

呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊15型 102.4 9.3 5.14 2,584 23.6
8.0
14cm単×1,25mm機銃連×1,
発首
×6, 水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 横須賀工廠
昭14.12.6起工, 16.3.13進水, 17.5.30竣工(当初予定艦名は伊号第37だったが建造中伊号第31に変更) 一等潜水艦に類別
昭17〜18   太平洋戦争。 南太平洋及び北太平洋で作戦,アッツ島等への輸送作戦に従事
 18. 5.12 キスカ島輸送に成功,同島を出港後消息不明, 5.14アッツ島付近で亡失と認定( 5,13アッツ島ホルツ湾外で米艦隊襲撃後,米駆逐艦EDWARDとFARAGATEの爆雷及び砲撃を受け沈没)
 18. 8. 1 除籍


伊号第32潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊15型 102.4 9.3  5.14   2,584 23.6
8.0
14cm単×1,25mm機銃連×1,発首×6,
水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭15.1.20起工, 15.12.17進水, 17.4.26竣工(当初予定艦名は伊号第39だったが建造中伊号第32に変更) 一等潜水艦に類別
昭17〜19   太平洋戦争。 中部及び南太平洋で作戦に従事
 19. 3.23 ウオッゼ島輸送作戦中,敵機動部隊発見後消息不明, 3.24マーシャル方面で亡失と認定( 3.24ウオッゼ島付近で米駆逐艦MANLOVE,駆潜艇PC1135の砲撃と爆雷攻撃を受け沈没)
 19. 6.10 除籍


伊号第33潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦( 乙 型) 伊15型 102.4 9.3 5.14 2,584 23.68.0 14cm単×1,25mm機銃連×1,
発首×6, 水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 三菱神戸造船所
昭15.2.21起工, 16.5.1進水, 17.6.10竣工(当初予定艦名は伊号第41だったが建造中伊号第33に変更) 一等潜水艦に類別
昭17〜19   太平洋戦争。 南太平洋で作戦に従事
 17. 9.26 トラック島で事故のため沈没, 12.29引揚げの後内地に曳航,修理
 19. 6.13 伊予灘で訓練中由利島付近で事故のため沈没
 19. 8.10 除籍
 28. 7.23 北星船舶工業により浮揚,日立造船因島工場で解体

 

伊号第34潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊15型 102.4 9.3 5.14 2,584 23.6
8.0
14cm単×1,25mm機銃連×1,
発首
×6, 水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭16.1.9起工, 16.9.24進水, 17.8.31竣工(当初予定艦名は伊号第43だったが建造中伊号第34に変更) 一等潜水艦に類別
昭17〜18   太平洋戦争。 北太平洋で作戦,キスカ島輸送作戦に従事, 18.10〜訪独任務につく
 18.10.13 訪独の途中ペナン沖で英潜水艦TAURUSの雷撃を受け沈没
 19. 1. 5 除籍


伊号第35潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊15型 102.4 9.3 5.14 2,584 23.6
8.0
14cm単×1,25mm機銃連×1,
発首
×6, 水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 三菱神戸造船所
昭15.9.2起工, 16.9.24進水, 17.8.31竣工(当初予定艦名は伊号第45だったが建造中伊号第35に変更) 一等潜水艦に類別
昭17〜18   太平洋戦争。 太平洋全域で作戦に従事
 18.11.22 ギルバート諸島方面で敵有力部隊発見の報告後消息不明, 19.1.10ギルバート方面で亡失と認定( 11.22タラワ島南沖で米駆逐艦MEADE,FRAZIERの爆雷攻撃を受け浮上後,砲撃と衝撃により沈没)
 19. 4.30 除籍

 


伊号第37潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊15型 102.4 9.3 5.14 2,584 23.6
8.0
14cm単×1,25mm機銃連×1,
発首
×6, 水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 呉工廠
昭15.12.7起工, 16.10.22進水, 18.3.10竣工(当初予定艦名は伊号第49だったが建造中伊号第37に変更) 一等潜水艦に類別
昭18〜19   太平洋戦争。 インド洋で作戦,回天によるパラオ泊地攻撃に従事
 19.11. 8 回天菊水隊を搭載,呉発,パラオ攻撃に向かった後消息不明, 12.6パラオ方面で亡失と認定( 11.19パラオ北方で米護衛駆逐艦CONKLIN,MCCOYREYNOLDSの爆雷攻撃を受け沈没)
 20. 3.10 除籍


伊号第38潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊15型 102.4 9.3  5.14   2,584 23.6
8.0
14cm単×1,25mm機銃連×1,
発首×6,
水偵×1,カタパルト×1
 昭和14年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭16.6.19起工, 17.4.5進水, 18.1.31竣工, 一等潜水艦に類別
昭18〜19   太平洋戦争。 中部及び南太平洋で作戦,ラエ等への輸送作戦に従事
 19.11. 7 ルソン島東方で敵艦隊発見後消息不明, 12.6パラオ東方面で亡失と認定(11.12ヤップ南方で米駆逐艦NICHOLASの爆雷攻撃を受け沈没)
 20. 3.10 除籍


伊号第52潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 丙 型)
伊52型 102.4 9.3 5.12 2,564 17.7
6.5
14cm単×1,25mm機銃連×1,
発首×6,
昭和17年度計画, 建造所 呉工廠
昭17.3.18起工, 17.11.10進水, 18.12.8竣工, 一等潜水艦に類別
昭18〜19   太平洋戦争。 18.4.23〜訪独任務につく
 19. 6.23 訪独任務中,大西洋で独潜水艦と会合後消息不明, 8.2ビスケー湾で亡失と認定( 6.24ビスケー湾で米護衛空母BOGUEの爆撃を受け沈没)
 19.12.10 除籍


伊号第54潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊54型 102.4 9.3 5.19 2,607 17.7
6.5
14cm単×1,25mm機銃連×1,
発首
×6, 水偵×1,カタパルト×1
 昭和17年度計画, 建造所 横須賀工廠
昭17.7.1起工, 18.5.4進水, 19.3.31竣工, 一等潜水艦に類別
昭19    太平洋戦争。 中部太平洋で作戦に従事
 19.10.24 比島東方海面に向かう途中,同日以降消息不明, 11.20比島東方海面で亡失と認定( 10.28スルアン島東方で米駆逐艦GRIDREY及びHELMの爆雷攻撃を受け沈没)
 20. 3.10 除籍

 

伊号第55潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大3型a)
伊53型 100.58 7.98 4.83 1,800 20.0
8.0
12cm単×1,発首×6,尾×2 
昭和19.4.20竣工
昭19〜    太平洋戦争。
 19. 7.14 テニアン島付近で消息不明
 
 

伊号第56潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
( 乙 型)
伊54型 102.4 9.3 5.19 2,607 17.7
6.5
14cm単×1,25mm機銃連×1,
首×6, 水偵×1,カタパルト×1
 昭和17年度計画, 建造所 横須賀工廠
昭17.9.29起工, 18.6.30進水, 19.6.8竣工, 一等潜水艦に類別
昭19〜20   太平洋戦争。 中部太平洋で作戦,回天によるアドミラルティー諸島泊地及び沖縄方面の敵艦船攻撃に従事, 19.9.24比島水域で米戦車揚陸艦LST695を雷撃撃破
 20. 3.31 回天多々良隊を搭載,沖縄方面に向かい大津島出撃後消息不明, 5.2沖縄方面で亡失と認定( 4.5久米島沖で米駆逐艦HADSONの爆雷攻撃を受け沈没)
 20. 6.10 除籍


伊号第70潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大6型a)
伊168型  98.4 8.2 4.58 1,785 23.0
8.2
10cm高単×1,13mm機銃×1,
発首×4, 尾×2
 昭和6年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭8.1.25起工, 9.6.14進水, 10.11.9竣工, 一等潜水艦に類別
昭16    太平洋戦争。 ハワイ作戦に参加
 16.12. 9   ハワイ沖で敵情報告後消息不明, 12.10真珠湾口付近で亡失と認定( 12.10 ハワイ諸島モロカイ島ハラワ岬北東で米空母ENTERPRISE機の爆撃を受け沈没)
 17. 3.15  除籍


伊号第73潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大6型a)
伊168型  98.4 8.2 4.58 1,785 23.0
 8.2
10cm高単×1,13mm機銃×1,
発首×4,
尾×2
 昭和6年度計画, 建造所 川崎造船所
昭9.4.5起工, 10.6.20進水, 12.1.7竣工, 一等潜水艦に類別
昭16〜17   太平洋戦争。 中部太平洋で作戦に従事
 17. 1.15 クェゼリンを出撃,ハワイ方面監視に向かう途中,敵情報告後消息不明, 1.27ハワイ方面で亡失と認定( 1.29ハワイ島ハマクア海岸北東で米駆逐艦JARVIS,掃海駆逐艦ロング,トレバー,エリオットの爆雷攻撃を受け沈没)
 17. 3.15 除籍


伊号122潜水艦
 碑名  伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑 昭45.6.10 建立 合祀者85柱 84柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(機雷潜型)
伊121型 85.2 7.52 4.42 1,383 14.9
6.5
14cm単×1,発首×4,機雷×42 
 竣工 昭和2.10.28
開戦時 六潜戦,第十三潜水隊
昭16〜   太平洋戦争。 南方部隊
 20.4.10 舞鶴発七尾湾に回航中米潜水艦スケートの雷撃を受け沈没
 
 「伊号一二二潜水艦」は、一等潜水艦機雷潜型として、昭和2年10月28日川崎造船所で竣工した。
 竣工後11月に「伊一二一潜」と第九潜水隊を編成、防備隊や各種学校の練習艦などに従事した。
 太平洋戦争開戦時は、潜水母艦「長鯨」を旗艦とする第六潜水戦隊(司令官河野千万城少将)に編入され比島、マレー方面作戦に従事した。
 昭和17年9月中旬航空機燃料補給潜水艦としてガダルカナル島南東方に進出し、「二式大艇」に対し燃料補給に従事した。
 昭和20年6月10日「伊一二一潜」「伊一二二潜」は、回天搭乗員訓練のため石川県七尾湾穴水港に回航した。「伊一二一潜」が港内で海防艦と接触し破損したため、「伊一二二潜」はそのまま出港、祿岡崎灯台沖で米潜「スケート」の雷撃を受け、三原艦長以下85名全員が壮烈な戦死をとげた。
 竣工以来常に行動を共にしてきた「伊一二一潜」潜友会がこの〃碑〃を建立した。
                                   
戦死した85名の霊をいたみ伊121潜友会が昭和45年6月10日建立した。
 
碑(表) 元伊号第121潜水艦長
       稲 葉 通 宗 謹書
 (裏)
 昭和20年6月10日11時45分石川県禄剛崎灯台の北東海面即ち緯度37度29分東経137度25分の地点において米国潜水艦(SKATESSー305)と交戦の際沈没全員戦死するものなり。
         昭和45年6月10日
                    伊121潜友会建之

伊号第123潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(機雷潜型)
伊121型 85.20 7.52 4.42 1,383 14.9
6.5
14cm単×1,発首×4,機雷×42
 昭和3.4.28竣工
昭16〜太平洋戦争。
 17.8.28 フロリダ島イースト岬見張所へ食糧補給後消息不明(米敷設駆逐艦ギャンブルの爆雷攻撃により沈没)


伊号第168(68)潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大6型a)
伊168型 98.4 8.2 4.58 1,785 23.0
8.2
10cm高単×1,13mm機銃×1,発首×4, 尾×2
 昭和6年度計画, 建造所 呉工廠
昭6.6.18起工, 8.6.26進水, 9.7.31竣工, 一等潜水艦に類別
昭16〜18   太平洋戦争。 太平洋全域で作戦,アッツ島等への輸送作戦に従事
 17. 5.20 伊号第68より伊号第168と改名
 17. 6. 7 ミッドウェー海戦で米空母YORKTOWN及び駆逐艦HAMMANNを雷撃撃沈
 18. 7.27 ラバウルに進出中,イサベル海峡で位置報告後消息不明, 9.10ラバウル北方で亡失と認定( 7.27ニューハノーバー沖で米潜水艦SCAMPの雷撃を受け沈没)
 18.10.15 除籍


伊号第169(69)潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大6型a)
伊168型  98.4 8.2 4.58 1,785 23.0
8.2
10cm高単×1,13mm機銃×1,
首×4, 尾×2
 昭和6年度計画, 建造所 三菱神戸造船所
昭6.12.22起工, 9.2.15進水, 10.9.28竣工, 一等潜水艦に類別
昭16〜19   太平洋戦争。 太平洋全域で作戦,キスカ島等への輸送作戦に従事
 17. 5.20 伊号第69より伊号第169と改名
 19. 4. 4 トラック島で空襲を受け夏島沖で沈座中,事故のため沈没
 19. 6.10 除籍


伊号第171(71)潜水艦

碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大6型a)
伊168型  98.4 8.2 4.58 1,785 23.0
8.2
10cm高単×1,13mm機銃×1,
発首×4, 尾×2
 昭和6年度計画, 建造所 川崎造船所
昭8.2.15起工, 9.8.25進水, 10.12.24竣工, 一等潜水艦に類別
昭16〜19   太平洋戦争。 太平洋全域で作戦,アッツ島等への輸送作戦に従事
 17. 5.20 伊号第71より伊号第171と改名
 19. 1.30 ブカ島に向かいラバウル出撃後消息不明, 3.12ブカ島方面で亡失と認定( 2.1ブカ島南西で米駆逐艦GUEST及びHUDOSONの爆雷攻撃を受け沈没)
 19. 4.30 除籍


伊号第172(72)潜水艦

碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大6型a)
伊168型  98.4 8.2 4.58 1,785 23.0
8.2
10cm高単×1,13mm機銃×1,
発首
×4, 尾×2
昭和6年度計画, 建造所 三菱神戸造船所
昭8.12.16起工, 10.4.6進水, 12.1.7竣工, 一等潜水艦に類別
昭16.17   太平洋戦争。 中部及び南太平洋で作戦
 17. 5.20 伊号第72より伊号第172と改名
 17.11. 3 ソロモン群島東方散開線で情況報告後消息不明, 11.27ソロモン群島南西海面で亡失と認定( 11.10サンクリストバル島レチャーチ岬付近で米高速掃海艇SOUTHARDの爆雷攻撃と砲撃を受け沈没)
 17.12.15  除籍
 


伊号第174(74)潜水艦

碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大6型b)
伊174型 98.4 8.2 4.6 1,810 23.0
8.2
12cm単×1,13mm機銃×1,
発首
×4, 尾×2
昭和9年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭9.10.16起工, 12.3.28進水, 13.8.15竣工, 一等潜水艦に類別
昭16〜19   太平洋戦争。 中部及び南太平洋で作戦
 17. 5.20 伊号第74より伊号第174と改名
 19. 4.10 パラオ東方で位置報告後消息不明, 4.13トラック南方で亡失と認定( 4.12トラック北方で米海兵隊機の爆撃を受け沈没)
 19. 6.10 除籍
 


伊号第175(75)潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大6型b)
伊174型  98.4 8.2 4.6 1,810 23.0
8.2
12cm単×1,13mm機銃×1,
発首×
4, 尾×2
昭和9年度計画, 建造所 三菱神戸造船所
昭9.11.1起工, 12.9.16進水, 13.12.18竣工, 一等潜水艦に類別
昭16〜19   太平洋戦争。 太平洋全域で作戦,キスカ島等への輸送作戦に従事
 17. 5.20 伊号第75より伊号第175と改名
 18.11.25 ギルバート諸島付近で米護衛空母LISCOMEBAYを撃沈
 19. 1.31 輸送任務中,ウオッゼ方面に急行の命令を受けた後消息不明, 3.26クェゼリン方面で亡失と認定( 2.4ヤルート北西で米駆逐艦CHARRETTEほかの爆雷攻撃を受け沈没)
 19. 7.10 除籍
 
 

伊号第176(76)潜水艦

碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(海大7型)
伊176型  98.6 8.25 4.6 1,833 23.1
8.0
12cm単×1,25mm機銃連×1,
発首
×6,
昭和14年度計画, 建造所 呉工廠
昭15.6.22起工, 16.6.7進水, 17.8.4竣工, 建造中17.5.20伊号第76より伊号第176と改名, 一等潜水艦に類別
昭17〜19   太平洋戦争。 南太平洋で作戦に従事
 17.10.20 サンクリストバル島南南東で米重巡CHESTERを雷撃撃破
 18.11.16〜17  トラック島南方で米潜水艦CORVINAを雷撃撃沈
 19. 5.10 ブカ輸送のためトラック島出撃後消息不明, 6.11ソロモン群島北方で亡失と認定( 5.16ブカ島アレクサンダー岬北方で米駆逐艦FRANKS,ハガードの爆雷攻撃を受け沈没)
 19. 7.10 除籍
 


伊号第351潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(潜 補)
伊351型 107.0 10.15 6.14 3,512 15.8
6.3
8cm迫連×2,25mm機銃連×3,25mm機
銃単×1,発首×4,(ガソリン500kl搭載)
 昭和17年度計画, 建造所 呉工廠
昭18.5.1起工, 19.2.24進水, 20.1.28竣工, 一等潜水艦に類別
昭20    太平洋戦争。 シンガポールからの輸送作戦に従事
 20. 7.11 佐世保に向かいシンガポール出港後消息不明, 7.31南シナ海で亡失と認定( 7.14ボルネオ沖で米潜水艦BLUEFISHの雷撃を受け沈没)
 20. 9.15 除籍


伊号363潜水艦

碑名  伊363潜殉職者之碑 昭41.10.29 建立 合祀者34柱 33柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
一等潜水艦
(丁型・潜輸)
伊361型  70.5 8.9 4.76  1,779  13.0
6.5
14cm単×1,25mm機銃単×2
(補給搭載約180t)
 昭和17年度計画, 建造所 呉工廠
昭18.5.1起工, 18.12.12進水, 19.7.8竣工, 一等潜水艦に類別
昭19〜20   太平洋戦争。 中部太平洋方面への輸送作戦,回天による沖縄,パラオ方面敵艦船攻撃に従事
終戦時  呉に所在
 20.10.29 佐世保に回航の途中,宮崎市住吉沖の日向灘で触雷沈没
 20.11.10 除籍
 41. 1.26 深田サルベージより浮揚,江田島で解体
 
 「伊号第363潜水艦」は、「伊361」型(T型輸送潜水艦)として、昭和19年7月8日呉海軍工廠で竣工した。T型潜水艦は洋上で飛行艇に燃料補給するため建造され、高オクタン価ガソリン5000竏を搭載するため世界最初の三重艦体潜水艦で〃潜補〃と略稱された。
 急速訓練を終え、10月トラック、メレヨン島、南鳥島等に輸送作戦に従事した後、回天5基を搭載して5月28日光基地を出撃し、沖縄方面に向ったが、荒天で使用の機会なく帰還した。次いで多聞隊回天5基を搭載して出撃したが作戦中に日本海配備に変更され、回航の途次銃撃を受け、終戦3日後に光基地に帰還した。終戦後の10月29日に宮崎沖で触雷、艦長木原栄少佐以下35名が艦と運命を共にした。
 戦後、深田サルベージにより引揚げられて江田島で解体したが、遺骨、遺品が多数あり、遺品と夜間潜望鏡を買い受けてこれを納めてこの〃碑〃を建立した。
                                   
 昭和20年10月29日呉から佐世保に回航の途中宮崎沖において触雷沈没。
その際戦死した34名の霊をいたみ、昭和41年10月29日に建立された。
 
碑(表) 昭和41年10月29日 荒木 謹書
 
 (裏) 記
 伊号第363潜水艦は第二次世界大戦中回天特別攻撃隊にあるいは孤島への物資輸送に参加し勇戦奮闘したにもかかわらず終戦となり、米軍の命により昭和20年10月29日呉から佐世保に回航の途中武運拙なく宮崎沖にて触雷し艦長木原少佐外33名同艦と運命を共にした。
 ここに殉職乗員の遺徳をしのぶと共に御冥福を祈って関係者一同本碑を建立する。
    昭和41年10月29日
                遺族生存者一同
(本体) 高さ 2.80m      (台座) 高さ 0.60m
      幅  1.80m           幅  2.75m
      奥行 0.40m           奥行 2.15m


呂号第103潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等潜水艦
(潜 小)
呂100型 57.4 6.0 3.51 601 14.2
8.0
25mm機銃連×1,発首×4
 昭和16年度計画, 建造所 呉工廠
昭16.6.30起工, 16.12.6進水, 17.10.21竣工, 二等潜水艦に類別
昭17〜18   太平洋戦争。 南太平洋で作戦に従事
 18. 7.28 レンドバ島方面で敵情報告後消息不明, 8.10ソロモン方面で亡失と認定
 18.11. 1 除籍


呂号第104潜水艦

 碑名  呂号第104潜水艦之碑 昭56.10.30 建立 合祀者59柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等潜水艦
(潜 小)
呂100型 57.4 6.0 3.51 601 14.2
8.0
25mm機銃連×1,発首×4,
 昭和16年度計画, 建造所 川崎重工
昭16.11.19起工, 17.7.11進水, 18.2.25竣工, 二等潜水艦に類別
昭18〜19   太平洋戦争。 北及び南太平洋で作戦,ガリ島等への輸送作戦に従事
 19. 5.16 アドミラルティー諸島北方哨区に向かいトラック出撃後消息不明, 6.25同方面で亡失と認定( 5.23アドミラルティー諸島北方で米護衛駆逐艦ENGLAND及びジョージのヘッジホッグ及び爆雷攻撃を受け沈没)
 19. 8.10 除籍
 
 「呂第一○四潜水艦」は、南方離島の航空基地防禦を目的として計画された「呂一○○潜水艦」525噸型四番艦として、昭和18年2月25日神戸川崎造船所で竣工した。 竣工により瀬戸内海で急速訓練の後、第十一潜水戦隊に編入、6月5日北方潜水部隊としてオホーツク海方面の哨戒任務に従事した。
 8月26日にはラバウルに進出、ニューギニア方面の輸送作戦に従事した後内地に帰投、再びトラックを経てサイパンに進出した。
 次いで「あ号作戦」の前哨としてカビエン北方哨区「ナ散開線」に向ったが、19年5月23日米駆逐艦に発見されて爆雷攻撃を受け、艦長出渕愈大尉(兵64)以下58名全員が艦と共にマリアナ海の海底深く水漬く屍となって散華した。
 戦後、同艦生存者で結成された呂一○四潜会は、同艦の栄光と功績を永く後世に伝え、散華した戦友の御霊を鎮魂するためこの〃碑〃を建立した。

呂号第105潜水艦

碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等潜水艦
(潜 小)
呂100型 57.4 6.0 3.51 601 14.2
8.0
25mm機銃連×1,発首×4
昭和16年度計画, 建造所 川崎重工
昭16.11.19起工, 17.7.11進水, 18.3.25竣工, 二等潜水艦に類別
昭18〜19   太平洋戦争。 太平洋全域で作戦,スルミ等への輸送作戦に従事
 19. 5.17 アドミラルティー北方哨区に向かいトラック出撃後,消息不明, 6.25同方面で亡失と認定( 5.31アドミラルティー北方で米護衛駆逐艦ENGLANDほかのヘッジホッグ及び爆雷攻撃を受け沈没)
 19. 8.10 除籍

 


呂号第112潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等潜水艦
(潜 小)
呂100型  57.4 6.0 3.51 601 14.2
8.0
25mm機銃連×1,発首×4
昭和17年度計画, 建造所 川崎重工(進水までは同社泉州工場)
昭17.6.20起工, 18.3.25進水, 18.9.14竣工, 二等潜水艦に類別
昭18〜20   太平洋戦争。 中部太平洋で作戦に従事
 20. 2.10 比島バトナリオ輸送?のため高雄出撃後消息不明, 2.20比島北方で亡失と認定( 2.11ルソン海峡で米潜水艦BATFISHの雷撃を受け沈没)
 20. 5.10 除籍


呂号第113潜水艦

 碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等潜水艦
(潜 小)
呂100型 57.4 6.0 3.51 601 14.2
8.0
25mm機銃連×1,発首×4
昭和17年度計画, 建造所 川崎重工(進水までは同社泉州工場)
昭17.7.11起工, 18.4.24進水, 18.10.12竣工, 二等潜水艦に類別
昭18〜20   太平洋戦争。 インド洋及び中部太平洋で作戦に従事
 20. 2.10 比島バタナリオ輸送?のため高雄出撃後消息不明, 2.20比島北方で亡失と認定( 2.12ルソン海峡で米潜水艦BATFISHの雷撃を受け沈没)
 20. 5.10 除籍


呂号第114潜水艦

碑名  呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 平3.4.23 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
二等潜水艦
(潜 小)
呂100型 57.4 6.0 3.51 601 14.2
8.0
25mm機銃連×1,発首×4
昭和17年度計画, 建造所 川崎重工(進水までは同社泉州工場)
昭17.10.12起工, 18.6.19進水, 18.11.20竣工, 二等潜水艦に類別
昭18〜19   太平洋戦争。 中部太平洋で作戦に従事
 19. 6.12 マリアナ群島付近の配備点到達報告後消息不明, 7.12サイパン付近で亡失と認定( 6.17米駆逐艦MELVINほかの爆雷攻撃を受け沈没)
 19. 8.10 除籍


潜水母艦長鯨
(ちょうげい)

 碑名  潜水母艦戦没者慰霊碑 昭60.9.7 建立 合祀者104柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
  長 鯨 115.82 16.21 5.86 5,160 18.0 14cm連×2,
 
大正12年度計画(当初,大正9年度に計画されたがワシントン条約により大正12年度の整理計画に計上), 建造所 三菱長崎造船所
大11.3.11起工, 13.3.24進水, 13.8.2竣工, 水雷母艦に類別
大13.12. 1 潜水母艦に類別変更
昭7     上海事変。 揚子江口で陸上戦闘支援
 9〜10   復元性能改善工事を実施
 12    シナ事変。 上海上陸作戦等に参加
 14. 4. 1 航海学校練習艦に指定
 14.11.15 兵学校練習艦に指定
 16〜19   太平洋戦争。 南方進行作戦(昭16〜17)に参加,その後内地に帰投,潜水学校練習艦に指定(昭17)トラック・ラバウルで潜水部隊の指揮に当たる(昭18)内海西部で潜水部隊の訓練に従事後,沖縄方面輸送任務につく(昭19)
 20. 7.30 若狭湾で米空母機の爆撃を受け損傷,航行不能の状態で終戦を迎える
 20.10. 5 除籍, 20.12.1 特別輸送艦に指定
 22    日立造船向島工場で解体,船体の一部は同所の浮桟橋に利用
 
 潜水母艦「長鯨」は、「迅鯨」と同型艦で、排水量6600噸、水偵1機搭載の潜水母艦として、大正13年8月2日に三菱長崎造船所で竣工した。
「長鯨」は就役以来潜水戦隊の旗艦及び潜水母艦の任務に従事し、太平洋戦争開戦時にはマレー攻略部隊の第六潜水戦隊(司令官河野千萬城少将)旗艦として作戦に参加した。
 爾来、潜水艦作戦の中心的な役割を担って前進基地を行動し、昭和19年に同型艦「迅鯨」が沈没、他の潜水母艦が空母に改装され、唯一の潜水母艦として太平洋戦争を闘い抜き、終戦時には武運つよく残存し、戦後は復員業務の特別輸送艦として再び活躍した。 終戦を目前にした昭和20年7月30日、丹後半島の伊根湾において米軍機の攻撃を受け、対空戦闘で百余名の戦死者をだした。戦後、長鯨会(会長伊集院正年氏)を結成し、戦没者の供養と冥福を祈ってこの〃碑〃を建立した。


第31潜水艦基地隊

 碑名 第31潜水艦基地隊戦没者慰霊碑 昭57.10.10 建立 合祀者 213柱
 
 第31潜水艦基地隊は、昭和19年7月8日、呉鎮守府で編成され、比島セブ島に進出した。潜水艦基地隊とは、潜水艦作戦の戦力を十分に発揮させる任務をもって昭和16年3月に設置が定められたものであり、各鎮守府、大湊警備府、外地7基地の合計12基地隊が設置された。
 第31潜水艦基地隊がセブ島に進出して間もなく比島沖海戦が生起、潜水艦部隊は比島東方海域に先遣部隊として展開した34隻が、敵機動部隊の捕捉撃滅と敵輸送路の遮断に従事した。また、8月から12月にかけ防禦作戦用として特殊潜航艇6基がセブ基地に進出、第33特別根拠地隊(司令官原田覚少将)の指揮のもと多大の戦果をあげた。 基地隊隊員の戦死者は213名であったが、その将兵の御霊を慰霊すると共にその武勲を永久に後世に伝えるため戦友、遺族が協力してこの〃碑〃を建立した。

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敷設艦初鷹

(はつたか)碑名  軍艦初鷹慰霊碑 昭58.4.2 建立 合祀者82柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
初 鷹 82.0 11.3 4.0 1,890 20.0 40mm機銃連×2,
昭和12年度, 急設網艦として計画, 建造所 播磨造船所
昭13.3.29起工, 14.4.28進水, 14.10.31竣工, 敷設艦に類別
昭16    シナ事変。 中南支の警備任務につく
 16〜20  太平洋戦争。 南方進攻作戦(昭16〜17)南西方面の海上護衛と機雷敷設作戦に参加(昭17〜20)
 20. 5.18? シャム海で米潜水艦LAGARTOを爆雷攻撃により撃沈
 20. 5.16 船団護衛を終わりシンガポールに帰投の途中マレー半島ズングン沖で米潜水艦HAWKBILLの雷撃を受け沈没
 20. 8.10 除籍
 
 敷設艦「初鷹」は、急設網艦「初鷹」型の一番艦として、昭和14年10月31日播磨造船所で竣工した。
 太平洋戦争開戦時には南遣艦隊第九根拠地隊に所属、仏印、マラッカ海峡で哨戒、水路啓開、船団護衛任務に従事した。
 次いでラバウル方面に進出して対潜警戒に任じ、再びシンガポール方面を行動し、本来の敷設任務よりも船団護衛任務に従事することが多かった。
 昭和19年末より同方面の補給輸送任務中、翌20年5月16日、マレー半島トンガス沖で、米潜「ホークビル」の雷撃を受けて沈没した。
 生存者、遺族が協議して慰霊碑建立委員会を結成し、この〃碑〃を建立した。


工作艦明石
(あかし)

艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
  明 石 146.6 20.5 6.29 9,000 19.2 12.7cm高連×2,
 昭和9年度計画, 建造所 佐世保工廠
昭12.1.18起工, 13.6.29進水, 14.7.31竣工, 工作艦に類別
昭16〜19  南方基地で工作任務に従事
 19. 3.30 パラオで米空母機の爆撃を受け沈没
 19. 5.10 除籍
 
 工作艦「明石」は、日本海軍が工作艦として計画建造した唯一の艦で、昭和14年7月31日佐世保海軍工廠で竣工した。
 太平洋戦争開戦時は連合艦隊に所属し、移動工廠として主にトラック島で損傷艦艇約300隻を昼夜を分けぬ連続作業で戦列に復帰させ、米軍をして〃「明石」を叩け〃と命令させる程の功績をあげた。
 昭和19年3月30日連日反覆の大空襲を受け、孤軍奮戦したが逐に力尽き、パラオ諸島の海岸に擱座し、乗組員100余名が爆死或は艦と運命を共にし、愴絶な最後をとげて散華した。
 戦後、生存者有志が相集り「明石」の功績と散華した乗組員英霊の史実を永く後世に伝えんと、慰霊碑建立委員会(委員長野原朴氏)を結成してこの〃碑〃を建立した。


特務艦朝日

(あさひ)

 碑名  工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑 昭60.5.21 建立 合祀者713柱
          (98)  (99)
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
工作艦 朝日 122.1 22.9 8.3 15,200 18.0  
 明33.7.31竣工英国, 大10.9.1海防艦, 12.4.1特務艦, 昭17.5.25沈没, 17.6.15除籍
 
明治30年度計画,建造所ジョン・ブラウン社(英,クライド・バンク)
明30.8.18起工, 32.3.13進水, 33.7.31竣工, 一等戦艦に類別
明33.10.23 横須賀到着
 37〜38  日露戦争。旅順攻略作戦,黄海海戦(明37)日本海海戦(明38)等に参加
 38.12.12 等級を廃止,戦艦となる
大7.1〜4  シベリア出兵。沿海州警備に従事
 10.9.1  一等海防艦に類別変更
 12.4.1  軍縮条約により兵装・装甲を撤去,特務艦に編入,練習特務艦に類別
 14.2〜8 横須賀工廠で潜水艦救難設備を設置
 15.7〜昭3.8 呉工廠で潜水艦救難設備を改造
昭12.8.16〜18 呉工廠で工作艦に改造,工作艦に類別変更
 12〜15  シナ事変。上海方面で修理任務に従事
 16〜17  太平洋戦争。海南島・カムラン湾・シンガポールに進出,修理任務に従事
 17.5.25  シンガポールから内地へ帰投の途中カムラン湾南東で米潜水艦SALMONの雷撃を受け翌 5.26沈没
 17.6.15 除籍
 
 工作艦「朝日」「山彦丸」「山霜丸」は、連合艦隊の工作艦として、太平洋戦争において最前線に進出し、損傷艦艇の応急修理に優秀な技術を発揮し、戦力の保持と志気高揚に大きく貢献した。
 「朝日」は日露戦争を大勝に導いた戦艦で、昭和12年に工作艦となり、17年5月25日ブトナム・アナンバス島沖で米潜「サーモン」の雷撃により沈没した。
 「山彦丸」は昭和16年に特設工作艦となり、19年1月八丈島沖で米潜の雷撃により沈没した。
 「山霜丸」は昭和18年に特設工作艦となり19年2月サイパン島沖で米潜雷撃により沈没、生存者は皆無であった。
 三工作艦の乗組員は工作兵又は海軍工廠派遣技術者で、その栄誉と功績を顕彰するため三艦合同のこの〃碑〃を建立した。


工作艦山彦丸
(やまびこまる)

 碑名  工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑 昭60.5.21 建立
          (98)  (99)
艦種 船名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
工作艦 山彦丸       6,799    
 船主 山下汽船 海軍徴用船
昭和19. 1.10 八丈島北沖でスチールヘッドの攻撃を受け沈没


工作艦山霜丸
(やましもまる)

 碑名  工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑 昭60.5.21 建立
          (98)  (99)
艦種 船名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
工作艦 山霜丸       6,777  
 船主 山下汽船 海軍徴用船
昭和19. 2.22 トラック港で空爆により沈没


特務艦間宮
(まみや)
碑名  特務艦間宮戦没者慰霊碑 昭58.11.20 建立 合祀者502柱

艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
運送艦 間 宮 144.78 18.59 8.43 15,820 14.0 14cm単×2, 8cm高単×2
(給糧)              
 大正12年度計画, 建造所 神戸川崎造船所
大11.10.25起工, 12.10.26進水, 13.7.15竣工, 運送艦(給糧艦)に類別
昭12〜13   シナ事変。 糧食補給任務に従事
 16〜19   太平洋戦争。 トラック・パラオ・比島等への糧食補給任務に従事
 19. 5. 6  五島列島南西で米潜水艦の雷撃を受け損傷,佐世保工廠で修理
 19.12.20  サイゴンから比島方面に補給の途中,南シナ海東沙島西方で米潜水艦SEALI ONの雷撃を受け沈没
 20. 2.10 除籍
 
 給糧艦「間宮」は、日本海軍最初の給糧艦として、大正13年7月15日神戸川崎造船所で竣工した。「間宮」の名は艦隊勤務をした人であれば、誰一人として知らない者がない〃海のオアシス〃として最も愛された艦であった。
 太平洋戦争開戦を呉で迎え、11日パラオに向け出撃したのが初陣で、以後ダバオ、タラカン、マカッサルに補給を行った後、トラック島を中心に南太平洋方面の第一線部隊の補給任務に従事した。
 昭和19年12月20日サイゴンで物資を搭載しマニラに向け出向した夜、米潜の雷撃を二度にわたって受け、艦長加瀬三郎大佐以下乗組員の殆どが艦と運命を共にして南支那海に沈没した。生存者は僅か6名であった。
 戦後、生存が少ないため慰霊行事も出来なかったが、生存者の一人河野光男氏が呉海軍墓地を参拝した折、「間宮」の碑が無いことから「月刊海交」に呼びかけたところ、有志が集まり建立委員会が結成され、この〃碑〃が建立された。


特務艦第3号輸送艦

 碑名  第参号輸送艦戦没者慰霊之碑 昭46.11.23 建立 合祀者148柱 52柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
輸送艦 第3号 89.0 10.20 3.6 1,800? 22.0 12.7cm高連×1,
(一等)         (1,500)    
 昭和19. 6.29竣工
昭和19. 9.14 サランガニ方面でグワビナの攻撃を受け沈没
 
 「第参号輸送艦」は、第一号型(特々)一等輸送艦として、昭和19年6月29日呉海軍工廠で竣工した。
 昭和18年も後半に入ると、南方各島嶼に展開している部隊に対する兵員、物資の輸送は由々しい事態となり、その緊急対策として登場したのが輸送艦で、「第参号輸送艦」は、竣工後訓練期間もなく比島への輸送任務を命ぜられ、出撃した。
 9月14日ダバオで揚陸後、サランガニ海峡を航行中、チチカ岬灯台近くで、座礁して航行不能になったところへ、9月15日米潜「グァヴィナ」の雷撃を受け、4発のうち2発が艦後部に命中、タンクが破裂し、炎上沈没した。
 戦後、生存者が27年ぶりに呉で初会合、全員一致で慰霊碑建立を決議し、勝利を信じて戦い不運にも散華した戦友の尊い英霊を慰めると共に、永遠の平和を祈念するための生存者一同によってこの〃碑〃を建立した。
                                  
 昭和19年9月15日ミンダナオ島に於て爆破炎上した際戦死した146名の霊をいたみ、同艦生存者35名により昭和46年11月23日に建立された。
 
碑(表) 嶋 田 繁 太 郎 書
 
 (側) みふねもえ とうしとうえで たたかいし
       ともはミンダの つちにねむりぬ      利 峰
            昭和19年9月15日ミンダナオ島に於て爆破炎上
 
 (裏) 戦死者146名の氏名を刻字
 
 (台座裏面)
     生存者35名の氏名を刻字


特務艦第113号輸送艦

 碑名  第113号輸送艦慰霊碑 昭61.10.19 建立 合祀者 95柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
輸送艦 第113号 72.0 9.1 2.94 1,020? 16.0 8cm高単×1,
(二等)         (870)    
 
昭和19.10.15竣工
昭和19.11.25 リンガエン,サンタクルーズ南方で空爆を受け沈没
 
 「第百十三号輸送艦」は、二等輸送艦第一○三号型(SB艦T)として、昭和19年10月25日大阪造船所で竣工した。二等輸送艦は、ガダルカナル島戦の戦訓から、揚陸艦艇の緊急建造に迫られ、上陸作戦、航空基地緊急設営や移動等の作戦に使うべく急速量産化の特殊艦艇として、太平洋戦争後半に登場した。
 行動海域は南方作戦のみに使用され、制海制空権なき海域での奮闘であったため、69隻が完成し40隻、58%が南海の海底に沈んだ。
 昭和19年11月25日、陸軍戦車隊を前線に輸送途中、ルソン島西岸サンタクルーズ沖にさしかかった際、米軍雷撃機の急襲を受け、1名を除き乗組員の殆どが戦死して沈没、僅か一カ月十日の短命であった。
 同艦乗組松島完氏が出撃3日前に転勤になって生残り、戦死者のためせめて慰霊碑を建立しようと発願、自費を投じ藤田正次郎、千崎秀夫の両氏の協力を得てこの〃碑〃を建立した。


海防艦第82号

 碑名  第82号海防艦戦没者慰霊碑 昭47.8.10 建立 合祀者117柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
丁型 第82号 65.0 8.6 3.05 900 17.5 12cm高単×2,
 
昭和19年度計画, 建造所 三菱長崎造船所
昭19.9.6起工, 19.11.18進水, 19.12.31竣工, 海防艦に編入
昭19〜20  太平洋戦争。 内地,台湾及び日本海方面の海上護衛戦に従事,
 20.8.10  朝鮮半島城津東北東でソ連機の雷撃を受け沈没
 20.9.15 除籍
 「第八十二号海防艦」は、偶数番号型海防艦として、昭和19年12月31日三菱長崎造船所で竣工、急速訓練ののち翌20年2月15日第一海防隊に編入された。
 船団護衛任務につき南に北に奮戦し、終戦を目前にした7月5日、第二海防隊に編入され隠岐島に移動した。8月9日羅新、清津方面上空に猛火煙を望見、攻撃中の100余機視認、ソ連参戦の電報受信で、攻撃の飛行機はソ連機と判明した。
 8月10日最後の避難船を護衛して南下中、ソ連雷撃機隊24機が来襲、次いで第二波が来襲、魚雷が後部に命中、瞬時に沈没した。93名が救助されたが、機関長田島長次郎大尉以下117名が終戦を目前にして散華した。
 戦後、27年たって生存者の間で、共に戦って散華した戦友の英霊を鎮魂をする声があがり、この碑をお参りに来る人々と共に永遠の平和を願ってこの〃碑〃を建立し                                 ページ187
 第82号海防艦は昭和19年暮当時東南アジアから南北太平洋全域に拡大された戦線の随所において戦況極めて不利の状況に転じていた頃三菱長崎造船所で竣工直ちに第一線部隊に編入せられ就役したものである。
 乗組総員215名、明けて昭和20年初頭から船団護衛対潜掃蕩作戦に従事し終戦直前の同年8月10日日本海方面において単艦作戦行勤中ソ連機の来襲を受け、これを多数撃墜せるも間断なき敵機の攻撃により遂に被雷爆沈117名将兵の尊い命を一瞬のうちに失ったのである。
 爾来27年平和と繁栄の時代を迎えた今日生存者相寄り、かねて念頭の慰霊碑を此所ゆかり地に建立し心からなる祈りを捧げて戦没者の霊を慰め且つこの地を訪れる人々と共に永遠の平和を希うものである。(航海長 歴 義一郎)


海防艦稲木
(いなぎ)

 碑名  海防艦稲木戦没者慰霊碑 昭55.11.23 建立 合祀者 29柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
乙型 鵜来型 72.5 9.1 3.05 1,020 19.5 12cm高連×1,12cm単×1,爆雷×120
 
昭和19年度計画, 建造所 三井玉野造船所
昭19.5.15起工, 19.9.25進水, 19.12.16竣工, 海防艦に編入
昭19〜20  太平洋戦争。 内地,南方間及び日本海,三陸方面の海上護衛戦に従事,
 20.8.9   八戸で米空母機の爆撃を受け沈没
 20.9.15  除籍,金子商事で解体
 
 海防艦「稻木」は、「鵜来」型(改乙型)海防艦として、昭和19年12月16日三井玉野造船所で竣工、急速訓練の後翌20年1月に第一護衛隊に編入された。
 初陣は門司−シンガポール間の船団護衛であった。次いで上海方面、北海道方面の船団護衛に従事、7月26日大湊出航三陸方面に出動した。8月9日八戸港で停泊中、米第58機動部隊艦載機百余機の攻撃を受け、熾烈な対空戦闘も利あらず、直撃弾を受けて大傾斜、艦長山田少佐以下28名戦死、35名重軽傷、総員退去後、夕闇と共に海底に沈んだ。
 戦後、毎年慰霊祭を行ってきた稻木戦友会は、国に殉じた戦友の鎮魂のためこの〃碑〃を建立した。また、沈没の地八戸港の地元の人々は、蕪島に別の〃碑〃を建立した。                                 
(一基)
 海防艦稻木之碑   八戸市蕉島鹿島神社


駆潜艇第34号

 碑名  第34号駆潜艇戦没者慰霊碑 昭42.3.26 建立 合祀者110柱 112柱
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
駆潜艇  第13号型 46.5  6.7  2.75  460  16.0  8cm高単×1,爆雷×36
 
 「第三十四号駆潜艇」は、第13号型駆潜艇として、昭和17年8月31日播磨造船所で竣工した。第13号型駆潜艇は戦時中建造の主力を占める優秀な性能の駆潜艇で、各地で奮戦し49艇中35艇(71%)が海没するという大きな損害をだした型式であった。
 本艇は、竣工後横須賀回航、三陸方面沿岸の海上警備に従事したのが初陣であった。 昭和17年12月29日第二特別根拠地隊に編入、ウエワクに入港直ちに船団護衛、対潜哨戒に従事した。
 昭和18年はパラオ、比島、ボルネオ、ジャワと各地を転戦して武勲をたて、昭和19年には第十五特別根拠地隊に編入され、シンガポールに配備された。
 昭和20年3月26日、アンダマン向け船団護衛中、英駆逐艦2隻と遭遇し被弾、
宇佐美艇長以下百十余名が散華した。
 戦後22年たって元乗組員の岡本照男氏が、共に戦って散華した戦友の冥福を祈り、艇の武勲を永く後世に伝えるためにこの〃碑〃を建立した。
                                   呉鎮守府所属第34号駆潜艇 450トン 速力16ノット
 昭和17年8月31日兵庫県相生市播磨造船所に於て竣工、横須賀に廻航三陸方面沿岸の海上警備に従事。
 昭和17年12月29日午後2時横須賀を出港、第二特別根拠地隊附としてニューギニア、ウエワクに向う。サイパン、ラバウルを経て昭和18年1月22日午前9時30分ウエワクに入港、直ちに沿岸の警備日夜を分たず船団の護衛又は潜水艦哨戒に従事。 昭和18年10月30日呉軍港に帰港相生に廻航播磨ドックに於て船体、兵器、機関の修理を行い、昭和18年11月29日パラオに向け出港パラオ入港以後パラオ←→ニューギニア間の舶団の護衛又は潜水艦掃蕩に従事し南太平洋に戦う最後の日本艦艇となるまで活躍し赫々たる武勲をあげたり、比島、セレボス、ボルネオ、ジャワと転戦し昭和19年10月艦隊編成変更に依り第15特別根拠地隊(ペナン)隊附となり昭南に廻航第10特別根拠地隊司令官の指揮下に入る北に南に舶団の護衛沿岸の警備に従事。
 昭和20年3月22日「ペナン」を出港印度洋東部「ニコバル」「アンダマン」方面に向け舶団護衛の途中、昭和20年3月26日午前9時30分頃北緯10度38分東経94度42分の海上に於て英国駆逐艦2隻と遭遇し数時間にわたる交戦の末、午前1時頃撃沈され艇長以下百十余名は艇と運命を共にした。
 昭和42年3月26日この碑を建立し戦友の冥福を祈ると共に艇と戦友の武勲を末永く伝える。
                              碑(表)初代艇長 逆 井 保 治 謹書
  (裏) 呉鎮守府所属第三十四号駆潜艇 四百五十トン 速力十六ノット
  昭和17年8月31日播磨造船所に於て竣工、横須賀に回航三陸方面の沿岸警備、 昭和17年12月29日ニューギニア方面に向け出撃以来南方海域に於て日夜戦斗に 従事、昭和20年3月26日ニコバル・アンダマン方面に向けて船団護衛の途中英国 駆逐艦2隻と遭遇し3時間にわたる交戦の末撃沈され艇長以下110余名艇と運命を 共にす。
 昭和42年3月26日この碑を建立して戦友の冥福を祈ると共に艇と戦友の武勲を末 永く伝える。
           元乗組  岡山県出身 岡 本 照 男
           呉市広町   西本石材店協力
 (本体) 高さ 1.00m      (台座) 高さ 0.9m
      幅  0.55m           幅  1.2m
      奥行 0.20m           奥行 1.3m


特設駆潜艇第18日東丸

(だい18にっとうまる)

 碑名  特設駆潜艇第18日東丸戦没者慰霊碑 昭63.10.吉 建立
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
駆潜艇              

掃海艇第13号(第11掃海隊)

 碑名  第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 平4.9.23 建立
           (U141〜U145)
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
掃海艇 第13号 69.0 8.2 2.0 560 20.0 12cm単×2, 爆雷×18

掃海艇第14号(第11掃海隊)

 碑名  第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 平4.9.23 建立
(U141〜U145)
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
掃海艇 第13号 69.0 8.2 2.0 560 20.0 12cm単×2, 爆雷×18
 


掃海艇第15号(第11掃海隊)

  碑名  第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 平4.9.23 建
 (U141〜U145)
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
掃海艇 第15号 69.0 8.2 2.0 560 20.0 12cm単×2, 爆雷×36


掃海艇第16号(第11掃海隊)

 碑名  第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 平4.9.23 建立
 (U141〜U145)
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
掃海艇 第15号 69.0 8.2 2.0 560 20.0 12cm単×2, 爆雷×36


掃海艇第17号(第11掃海隊)

 碑名  第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 平4.9.23 建立
(U141〜U145)
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
掃海艇 第17号 67.3 7.85 2.5 700 19.0 12cm単×2, 爆雷×36


掃海艇第18号(第11掃海隊)

 碑名  第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 平4.9.23 建立
(U141〜U145)
艦種 艦名 長さm 幅m 吃水m 排水量t 速力kt 主要兵装
掃海艇 第17号 67.3 7.85 2.5 700 19.0 12cm単×2, 爆雷×36


呉6特レンドバ島派遣隊

 碑名 レンドバ島派遣隊戦没者慰霊碑 昭45.6.30建立 合祀者59柱 20柱
 
 レンドバ島は、ブーゲンビル島とガダルカナル島とのほゞ中間にあるソロモン群島の島で、配備された守備部隊は、海軍部隊は呉鎮守府第6特別陸戦隊(呉6特)、陸軍部隊は第38師団歩兵第229連隊第7中隊であった。
 昭和18年6月30日、米軍反攻作戦の上陸部隊はレンドバ島の北ニュージョージア島に対し大規模な上陸作戦を開始し、レンドバ島に対しても守備部隊の数十倍にも達する米軍部隊が攻撃を開始した。守備部隊は衆募敵せず次々と倒れ、南冥の孤島に〃草むす屍〃となって散華した。
 レンドバ島派遣隊の生存者は、戦死した陸海軍の戦友の御霊を鎮魂するため〃碑〃を建立し、碑文に次の歌を刻んだ。
 〃ソロモンの孤島に散りし戦友の英霊よながくここにやすかれ〃
 また、レンドバ島遺族会は、遺骨収集、納骨を機に副碑を建立した。
                               
 昭和18年6月30日ソロモン群島レンドバ島において米軍と交戦した際戦死したレンドバ島派遣隊員の霊をいたみ、昭和45年6月30日に建立された。
碑(表) 呉鎮守府第六特別陸戦隊
     歩兵第二二九連隊第七中隊
  (側)ソロモンの孤島に散りし戦友の
     英霊よながくこゝにやすかれ
  (裏)
 陸戦隊並に陸軍部隊は我に数十倍する米軍を水際に迎撃、昭和18年6月30日激戦奮闘する。衆寡敵せず、恨みをのんで此の地に散り心を邦家報恩に走せて今こゝに眠る。その健斗をたゝへ平和の礎に殉じた英霊の冥福を謹んで祈る。    昭和45年6月30日
            ソロモン群島レンドバ島派遣隊 生存者建之 
               兵庫県三木市  白 藤 岩 美
               大阪府豊中市  下 村  広
               広島県呉市   門 内  進


第32特別根拠地隊

碑名 第32特別根拠地隊戦没者慰霊碑 昭56.6.6 建立 合祀者 2639柱

 
 第32特別根拠地隊は、開戦時比島部隊の入船部隊(司令官入船直三郎少将兵39)としてパラオを出撃、比島各方面、ボルネオ油田地帯を制圧、マニラへの海上ルートを確保、ダバオに司令部を設置した。
 昭和19年に入り米軍の反攻作戦開始と共に連日の対空戦闘で、航空部隊、艦艇の殆どを喪失、同24年には完全に補給を断たれ孤島となった。その戦歴は碑文のとおり、全部隊一丸となって肉弾戦を展開したが、ダバオ進攻以来3年有余に亘る勇戦奮闘の間、4500名が散華した。
 昭和54年のダバオ会で慰霊碑建立の決議がなされ、戦没英霊の御霊を永遠に祀るためこの〃碑〃を建立した。

第33警備隊

 碑名  第33警備隊戦没者慰霊碑 昭43.11.23 建立 合祀者5307柱
 
 「第33警備隊」は、昭和19年3月5日呉海兵団で司令池田大佐指揮の下部隊を編成。同4月21日戦艦大和、巡洋艦摩耶に便乗呉軍港を抜錨、4月30日比島スルー諸島タウイタウイ島のボンガオに上陸占拠本部を設置し周辺の重要な島々に派遣隊を配備第二のラバウルとして我が陸海軍部隊の大根拠地とする任務に全力を尽すと共にゲリラ集団の掃討作戦及び拠点に陣地を構築し迎撃撃滅作戦に備える
 6月サイパン島陥落後米軍機動部隊は攻撃目標を比島方面に転じ海空からの攻撃が日毎に激しくなり補給路も一部遮断される。8月に至り我が本隊は次期作戦の命を受けボンガオバラバックホロ各派遣隊を島々に残しミンダナオ島ザンボアンガに転進即周辺の海軍部隊を池田司令が結集統師し比島南部ザンボアンガ方面海軍部隊を再編成する。
10月レイテ島ルソン島陥落捷1号作戦で我が艦隊は壊滅状態となり比島方面の制海空権は完全に敵中に制圧されミンダナオ島及び派遣隊の島々は孤立した。敵機による波状攻撃は強化増大し益々激烈となる。
 20年3月8日、米軍機動部隊バシラン島海域に来襲マイケルバーカー中将指揮する第41師団及び海兵隊FBロイヤル海軍少将坐乗攻撃隊旗艦ロッキーマウント号巡洋艦8、駆逐艦20、小艦艇輸送船約80、海空から一斉に猛烈なる砲爆撃の大攻勢を展開、我が軍これに応戦彼我の轟音炸裂天地をも揺り動かす激戦連日寸断なく続く。
 時に我が陸海軍総兵力約10,400名余、陸軍萩兵団4,600名余、3月10日米軍上陸を開始せり池田司令以下一丸となり連日連夜勇戦奮闘激戦を繰り返し果敢熾烈なる反撃を加え進出阻止するも兵器の優劣衆寡敵せず次第に苦戦に陥り陣地の固守絶望となり22日逐に陣地を脱出ザンボアンガ半島を北上奥地密林地帯へ転進ジャングル戦闘彼我入り乱れて肉迫戦、風土病、飢餓との戦いが続く。
 8月15日の終戦も知らず戦闘は続行中であった。
 天は我れに味方せず遂に10月7日悲運の涙をのみ武装解除バシラン島方面派遣隊特に魚雷挺身隊大発隊が敵来襲前に爆撃で全滅したのは一大恨事である。孤立状態のホロ派遣隊は4月敵上陸時悪戦苦闘を繰り返し西方山中で全滅一部ボンガオバラバック派遣隊は悪戦を繰り返しつつ北ボルネオに転進のち10月20日英軍により収容、我が警備隊はタウイタウイ島進攻以来2年余に亘る戦闘で司令池田少将以下5,307名の尊い犠牲を出した。(墓碑文)
 
 第三十三警備隊は、昭和19年3月5日、呉海兵団で編成、4月30日比島スルー諸島タウイタウイ島に進出して配備につき、同島所在の第十二衛所隊を編入した。
 以後、ミンダナオ島、バラバック島、北ボルネオなどの各地を転戦して作戦に従事し、南方重要根拠点の警備に目ざましく活躍をした。
 終戦時まで同方面の警備及び作戦に従事し、司令池田敬三助少将(兵34)以下5307名もの尊い戦死者を出した。
 この南冥の地に〃草むす屍〃となって散華した英霊の冥福を祈るため、この〃碑〃を建立した。
                                 
 地域別戦没者数
   ザンボアンガ本隊    
   南比空ザンボ派遣隊   
   甲乙防空隊魚雷調整斑    3,983
   軍需施設、工作部、航空廠
   甲標的隊        
   ホロ島派遣隊103軍需施設部‥‥ 570
   イザベラ島派遣隊‥‥‥‥‥‥‥‥  84
   バシラン島魚雷挺身隊‥‥‥‥‥‥  23
   マルソー派遣隊‥‥‥‥‥‥‥‥‥  52
   シバコ見張所‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  40
   ラミタン派遣隊‥‥‥‥‥‥‥‥‥  48
   パタ島派遣隊‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  50
   ボンガオ派遣隊        
   ボンガオ見張所          385
   バリンピン見張所、軍需施設部 
   バラバック派遣隊‥‥‥‥‥‥‥‥  46
   82駆船特務艇‥‥‥‥‥‥‥‥‥  14
   特務艇八代丸‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  11
 
          合計司令池田少将以下5,307名
 
 タウイタウイ、ミンダナオ、バラバック、北ボルネオ、各島の作戦に従事し司令海軍少将池田敬之助閣下外○○柱を合祀す。
 昭和43年11月23日建立。
                              碑(表) 元海軍主計少佐
     郵政事務次官  浅 野 賢 澄 敬書
 
 (裏) 司令海軍少将 池 田 敬 之 助 閣下
              外      柱
     戦 歴
      タウイタウイ、ミンダナオ、バラバック、北ボルネオ各島の作戦に従事
              昭和43年11月23日建之


                    
第531航空隊

 碑名 第531海軍航空隊慰霊碑 昭47.6.17 建立 合祀者 218柱 206柱
 
 第531海軍航空隊は、昭和18年7月1日、「天山11型」艦上攻撃機36機をもって館山航空基地で編成されて開隊し、第12航空艦隊第24航空戦隊に編入されて北千島方面に配備された。
 11月24日、館山、北千島に派遣隊を残して、本隊はマーシャル群島のウオッゼ島に進出した。
 昭和19年1月30日に米第58機動部隊がマーシャル群島に来襲した。この戦闘において全飛行機は勇戦奮闘したが、遂に全機を喪失、搭乗員は全員散華した。
 531空は、2月20日をもって解隊となり、基地隊員はウオッゼ島において絶え間のない米軍機の攻撃と、補給のなくなった同島で想像を絶する飢餓と闘いぬいて終戦を迎えた。
 戦後、531空で散華した英霊の鎮魂と、531空の武勲を顕彰するため、佐々木健爾氏(531空司令)をはじめ、同隊々員の献身的努力でこの〃碑〃を建立した。
                               
 第531航空隊は昭和18年7月1日天山11型艦上攻撃機36機をもって舘山において編成し直ちに北千島方面に進出し同年11月舘山及び北千島の擂鉢・片岡に派遣隊を残し本隊はマーシャル群島ウオッゼ島に転じ同方面の作戦に従事輝かしい戦果を収めたが翌19年初米機動部隊との戦いにおいて全航空機を失い搭乗員は全滅同年2月20日をもって解隊ウオッゼ基地隊員は全員第四艦隊司令部附、第64警備隊付となる。同島にて米軍の絶え間ない攻撃と想像を絶する飢餓との闘いのうちに20年8月終戦を迎え同年11月生存者58名全員鳳翔にて帰国、戦死戦病死者206名。


第634,934航空隊

 碑名 第634、第934海軍航空隊慰霊碑 昭57.10.24建立 合祀者約500柱
 
 第634海軍航空隊は、水上爆撃機「瑞雲」24機をもって、昭和19年5月1日岩国航空基地において編成され、呉空において訓練を実施した実施航空隊で、10月23日比島キヤビテに進出以来の戦歴は碑文のとおりである。
 第934海軍航空隊は、昭和17年初頭に「零式水偵」7機で発足した36空がその前身で、同年11月1日の特設航空隊名の改称により934と改称され、アンボンのハロン基地に進出した。その後の934空の奮戦は、上掲の碑文のとおりである。両航空隊とも水上機航空隊で、同じ戦域の南方第一線で死闘を繰返し、数多くの戦友が南の空に散華した。
 戦後、両航空隊とも戦友会で亡き戦友の慰霊を行ってきたが、昭和56年に634空飛行隊長田村少佐の令弟田村正三氏が出席した広島における隊員の集いで、両隊合同の慰霊碑建立が発議され、各方面の賛同を得てこの〃碑〃を建立した。


呉海軍設営隊

 碑名 呉海軍設営隊顕彰慰霊碑 昭51.4.11 建立 合祀者 7026柱
 
 呉海軍設営隊は、太平洋戦争において呉軍港から出陣した27個部隊の設営隊で、太平洋の殆どの戦域で海軍施設の建設、運営に従事し、敵軍と交戦し、熾烈な砲爆撃のもと勇戦奮闘した部隊である。
 第2(パラオ)、第5(タラカン、バリ)設営班、第12(カビエン)、第15(東北ニューギニア)、第19(ビスマルク、ソロモン)、第20(ブカ)、第28(ラバウル)、第32(ブーゲンビル)、第111(タラワ)、第211(ラバウル)、第212(ラバウル)、第213(バリクパパン)、第214(ペリリュー)、第215(ダバオ)、第216(メレヨン)、第217(グアム)、第218(グアム)、第219(コレヒドール)、第311(オルモック)、第312(海没)、第313(宮古島)、第314(香港)、第315(マニラ)、第318(クラーク)、第351(鎮海)、第352(鎮海)、第3110(昭南島)、
 各設営隊員一万数千名の鎮魂のため戦友会を結成しこの〃碑〃を建立した。


  

第103工作部

 碑名 第103海軍工作部戦没者之碑 昭59.5.27建立 合祀者1,475柱
 
 第103海軍工作部は、昭和17年1月にマニラ攻略後キャビテ軍港の米軍施設を接収し、呉海軍工廠を主体に広海軍工廠、函館ドック、田中車輌等を傘下に、艦船修理、小型艦船建造等の基地として設置された技術部隊であった。
 昭和20年1月、米軍の反攻上陸作戦により、工作部長早川倉治少将以下200名の本部隊員は、早川第103部隊となり北部山岳地帯に転進したが、敵弾とマラリアと、飢餓により漸減、終戦で下山した者はほんの僅かであった。残余工作部隊員約1500名は、マニラ防衛部隊に編入されて各種武器の製造に従事し、マニラ陥落寸前に脱出、東部山岳地帯を転戦したが、食糧事情悪化で部隊は解散、終戦で生還した者は数名に過ぎなかった。
 昭和59年に慰霊碑建立委員会(委員長塚本逸夫氏)を結成し、軍の蔭で散華した工作部隊員の業績を正しく歴史に留め、戦争を知らない世代に伝えるとともに、永遠の平和を祈念しこの〃碑〃を建立した。



呉第1特別陸戦隊(善本中隊)

 碑名 善本野戦高射砲中隊戦没者慰霊碑 昭55.10.10 建立 合祀者 84柱 
 
 善本高射砲中隊は、昭和16年10月、呉鎮守府第1特別陸戦隊藤村部隊の高射砲中隊として編成された。装備は高射砲4門、探照灯付自動車2台、牽引用自動車、機銃自動車等を装備の陸戦部隊で、地上戦と対空戦両用の中隊であった。
 開戦時に比島攻略部隊の入船部隊(司令官入船直三郎少将兵39)に編成替、「霧島丸」で呉軍港を出撃してパラオで開戦を迎えた。
 ダバオ、サンボアンガ、セブを転戦、ラバウルに進出、ラエで82警の防空陣に加わり、最後は高射砲の水平射撃で全弾打尽し、砲を破壊して撤退、4000メートルの史上空前のサラケット越えでキアリに到着した時は全部隊の三分の一を失った。開戦以来、上陸作戦四回、絶えず最前線で勇戦奮闘し、陸戦隊の特性を発揮し、その行動距離は1万キロメートルを超え、戦闘で84名がニューギニアの地で散華した。
 戦後35年を経て戦友会は、戦友慰霊の碑のないのを遺憾して、有志が協力して第二の故郷にこの〃碑〃を建立した。


第12防空隊

 碑名 ソロモン方面第12防空隊慰霊碑 昭58.2.12建立 合祀者約202柱
 
 第12防空隊は、昭和17年12月1日に呉海兵団で仮編成され、同月5日付で横須賀久里浜で開隊した防空隊である、隊長桝谷亀太郎中尉以下327名で編成され、25糎連装機銃12基24門、機銃車、四輪駆動車各1台、貨物自動車6台で装備された。 同月20日、特設水上機母艦「聖川丸」に便乗してラバウルに向け征途につき、到着後直ちに陣地構築したが、間もなく1個小隊をブインに派遣、本隊はレガタに転進し、ソロモン方面の激烈な航空戦において連日連夜の対空戦闘で多大なる戦果を挙げるも補給が途絶えて202名(62%)が散華した。
 昭和29年に戦友会を結成し、復員船「葛城」にて浦賀に上陸した2月21日を記念日として毎年慰霊祭を行ってきたが、昭和56年の慰霊祭で亡き戦友の慰霊と第12防空隊の足跡を永遠に伝えるため生存者、遺族有志の協力によりこの〃碑〃を建立することを決定し、58年に完成した。


ショートランド島(第13防空隊)

 碑名 ショートランド島戦没者慰霊碑 昭46.9.4建立 合祀者 124柱
 
 第13防空隊は、南東方面航空戦の激化に伴って第11、第12防空隊と共に昭和17年12月5日呉で編成され、急遽ソロモン群島に進出を命ぜられた。 隊長は初代奥田末三郎中尉、二代宮沢武中尉であり、300余名6個小隊編成であった。装備は当初13耗連装機銃であったが、後に25耗連装機銃12基、24門に換装され、照空隊を含み、陸戦隊装備の部隊であった。
  ソロモン群島ショートランド島の防空隊となり、呉鎮守府第6特別陸戦隊の重砲隊と共に布陣し、圧倒的な兵力で来襲する航空部隊を相手に勇戦奮闘し、両隊で178名が南海の島で散華した。その後、昭和18年11月25日に解隊しブインに転進し、呉鎮守府第7特別陸戦隊に編入され、終戦を迎えた。
 戦後、戦友会であるソロモン群島ショートランド会を結成し、戦没者178柱の英霊を永久に鎮魂するため、有志の協力を得てこの〃碑〃を建立した。
                              碑(表) 元聯合艦隊参謀長
      海軍中将 草 鹿 龍 之 介 謹書
 
 (左側)昭和46年9月4日建立
 (右側)故 中村大尉 以下124柱
 (裏)
 大東亜戦争中ソロモン群島ショートランド島にて戦歿せる旧呉鎮第13防空隊員及呉6特南海砲台員の英霊を謹んで慰霊の為建立
         ソロモン群島 ショートランド会

第16防空隊

 碑名 第16防空隊戦没者慰霊碑 昭和60.5.8建立 合祀者 188柱
 
 第16防空隊は、昭和18年4月20日、横須賀海軍砲術学校において編成され、第八艦隊第七連合特別陸戦隊に編入され、隊長鹿山誉大尉(兵65)以下302名、装備は「八八式野戦高射砲」6門を基幹に、25耗連装機銃、110糎探照灯等を装備した防空隊であった。
 5月8日「五州丸」に便乗して横須賀を出撃し、同20日ラバウル着、第8特別根拠地隊の指揮下にブナカナウ飛行場(通称西飛行場)に陣地を構築した。
 6月26日イサベル島レガタに転進、7月1日第1根拠地隊司令部直轄となり、コロンバンガラ撤収作戦に従事した。
 11月25日トノレイ湾で第16防空隊は解隊、20年に入り下士官兵は137名に減少、佐世保第6特別陸戦隊に編入となり、エルハート山の陣地で終戦を迎え、復員船「葛城」で浦賀に復員上陸した者は僅か86名であった。
 ソロモンの露と消えた187柱の英霊の冥福を祈り、偉勲を顕彰するため戦友会でこの〃碑〃を建立した。
   

高松宮宣仁殿下より賜りたるお言葉

「今次大戦に於いて、第16防空隊のソロモン方面に於ける奮戦の状況報告によれば、昭和18年横須賀出撃以後防空に、輸送にと、悪戦苦闘の連続で、その忠烈に敬意を表すると共に、その労を多とする。又慰霊碑除幕式並びに追悼式に当たり、改めて深甚の哀悼の意を表する。


第17防空隊

 碑名 呉鎮守府第17防空隊慰霊碑 昭47.5.8 建立 合祀者 200柱 175柱
 
 第17防空隊は、昭和18年4月20日、第16防空隊と共に呉で編成され、第8艦隊第7連合特別陸戦隊に編入され、隊長佐藤孫市中尉以下283名、装備は25耗連装機銃6基、12門、陸戦装備の防空隊であった。
 昭和18年5月8日、輸送船「山福丸」に便乗して呉軍港を出撃、一路ラバウルに向った。到着後約1カ月でレガタに転戦、約3カ月間、マラリアと闘いつつ、熾烈な対空戦闘に勇戦奮闘した。
 次いでブーゲンビル島のブインに転戦し、飛行場防空隊として連日のように対空戦闘を展開、昭和18年11月25日、第17防空隊は解隊となったが、陣地はそのままで第1根拠地隊の麾下の防空隊として任務を遂行し、終戦を迎えた。 昭和45年碑建立の気運が高まり、翌46年生存者が満場一致で決議し、戦死者の御霊を球で表し、日本地図を配し、祖国に魂の帰ったことを意味するこの〃碑〃を建立した。
                              
 1.昭和18年5月8日呉軍港出撃ソロモン群島サンタイサベル島レガタに進駐。 
 2.コロンバンガラ・チョイセル島スンビに転進しブーゲンビル島ブインと転進。
 3.ブインを基地とし、モノ島等各方面に出撃奮戦しブーゲンビル島ブイン基地にて終戦となる。


呉6特(バラレ島)

 碑名 呉6特バラレ島戦没者慰霊碑 昭60.9.22建立
 
 呉鎮守府第6特別陸戦隊(呉6特)は、昭和17年11月1日に編成され、南東方面の激戦地配備が予定されて猛訓練を始めた。
 呉6特は昭和18年1月に第一線航空基地バラレ島に進出を命ぜられ、呉を出撃した。配備後は日夜繰返される対空戦闘、艦砲射撃に勇戦奮闘し、バラレ島指揮官の感状と軍刀を受ける名誉に浴した。その4月8日来島を予定されていた山本長官はバラレ島着陸数分前に壮烈な戦死をとげた。
 部隊は連日の猛攻撃で多数の戦友を失い、戦況の悪化と共に補給は狙絶し、自給自足の農作業で頑張ったが、栄養失調、医療品不足で多くの者が病魔に倒れた。
 第一次決戦部隊発動でブインに行く者と残留者とに別れ、残りはバラレ島を死守して終戦を迎えた。
 戦後、生存者はバラレで散華した亡き戦友の御霊を鎮魂することは、生き残った者の義務であるとしてこの〃碑〃を建立した。碑名 呉6特バラレ島戦没者慰霊碑 昭60.9.22建立


昭和15年徴主主計科

 碑名 昭和15年徴募主計科戦没者慰霊碑 昭60.9.20建立 合祀者 389柱

 

第634航空隊(基地隊)

碑名 第634海軍航空隊基地隊慰霊碑 平元.12.19建立 合祀者 389柱

 

呉海軍看護合葬碑

 
碑名  看護の碑        大3.4.30和庄へ建立
               平9.9.23移転


柔道部員之碑

 碑名 大東亜戦争海軍戦没者柔道部員之碑 昭42.5.27建立
 
 大東亜戦争において戦死した海軍柔道部員の霊をいたみ、昭和42年5月27日に建立された。
 
碑(表) 九段 緒 方 久 人 書
 (側) 昭和42年5月27日建之
 (本体) 高さ 1.50m      (台座) 高さ 1.0m
      幅  0.60m           幅  2.0m


英国水兵の墓

碑名  英国水兵の墓碑 明40.4. 建立
 GEORGE・TIBBINS(当時19才)
 香港駐在の英国駐屯軍司令官アーサー・ウイリアム・ムーア海軍中将座乗の「アラクリティー」が、1907年4月15日日本軍艦「安芸」進水式参列のため呉に回航の際、1907年2月10日付同艦乗組員となった、ジョージ・ティビンズ2等水兵は、4月13日宮島沖航行中1600頃海中に転落、捜索されたが発見できなかった。彼が19歳の誕生日2日前の溺死であった。
 遺体は、同年5月2日朝、佐伯郡五日市沖で発見され、葬儀は同日の午後、多数の高級将校臨席のもと、日本海軍礼式に準じて呉海軍墓地において執り行われた。「アラクリティー」は、5月24日再び呉港を訪問、乗組員仲間の寄付による墓石を翌25日、呉海軍墓地に建立した。
 
碑(表)             SACRED
            TO THE MEMORY OF
             GEORGE TIBBINS
                  AGED
       SEAMAN.OF.H.M.S.KINGALFRED
 
          DROWNED OFF MIYAJIMA
            13TH APRIL 1907
    WHILST SERVING.IN.H.M.S.ARACRITY
TUIS STONE WASTR ECTLD BVHIS SHIP MAIES
 (本体) 高さ 0.5M       (台座) 高さ 0.7M
      幅  0.2M            幅  0.7M
      奥行 0.2M            奥行 0.7M
 
        

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