説教原稿

宣教原稿(2020年7月5日) 「律法と福音—パリサイ人にまさる義」 マタイの福音書5:21〜26

 5章21節から「律法学者やパリサイ人にまさる義」の具体例というのでしょうか、六つのアンチテーゼが挙げられています。まず、最初に挙げられているのが、この「殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない」ということです。その内容を見る前に、その引用のしかた、と言いましょうかその導入の仕方を見たいと思います。
 当時のラビの定式的な言い方として「私は・・・のように聞いています」と律法の誤っていると自分が思う理解を紹介し、それに対して「私は・・と言わなければなりません」と自分の考え出した、自分なりの正しい解釈を教えるという言い方があったようです。
 ですから、主イエスのこのような言い方もその一つのバリエーションと言えないこともないですが、この「わたしは、・・・しかし、(あなたがたに)言います」という言い方は、単なるバリエーションというには、その域を超えているように思います。
 すでに学んだ18節でも出てきた表現ですが、26節に「まことに、あなたに言います」とありますが、この「まことに」とは、元のことばでは「アーメン」ということばです。
 決まり文句のこのことばが文頭に用いられている例は、主イエス以外に見当たらないと言います。少なくとも自分の発言を重要なことばとして受け合わせることばとしてこのことばを用いるのは主イエスだけです。
 アーメンとは、ギリシャ語でも「アーメーン」と音訳されていますが、もともとはヘブル語の「アマン」という語根、が語源で「確固とした、信頼できる」というほどの意味のことばで祈りや祝福、時には呪いに対する会衆の応答で、「然り」とか「本当に」という意味です。主イエスという信頼できるお方が、自ら信頼できるものとしてこれらのことばを語っているのですから、それらは当然、しっかりと受け取られることが求められます。
 また、先日も引用しましたが、この山上の説教を聞いた群衆の反応。マタイ7:28に「イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」とありますが、まさに「彼らの律法学者」との違いがここに現れているのです。
 さてその内容を見ていきたいと思います。主イエスがこれから挙げようとしている六つの律法解釈のすべてが、実はすべてが全く画期的であるとは言えませんが、少なくともその導入のしかたはこのように画期的なものであったと言うことができます。
 「昔の人々に対して、・・・言われていたのをあなたがたは聞いています。」と主イエスが言われていますが、「昔の人々」とは、誰を指すのでしょうか?また、あなたがたとは誰を指していて、昔の人々とあなた方とはどのような関係にあるのでしょうか?
 「殺してはならない」ということばの最初の聞き手は、モーセの律法を受けたその当時の人々です。しかし、後段の「(人を)殺す者は裁きを受けなければならない」という部分は、このままの形で旧約聖書に出てきません。旧約聖書の教えを要約したものです。ですから、旧約聖書の時代を生きていた人々ということになります。そしてさらに「あなたがたは聞いています」と言われているのは、言うまでもなく、そこにいた、現に山上の説教を聞いていた弟子です。その人々に向かって「しかし、わたしはあなたがたに言います。」そして最後には「あなた」と迫ってくるのです。
 ここで「殺す」と言われていますが、ここで「殺す」訳されていることばは単に「死なせる」ということではありません。過失によって死なせることではなく、悪意を持って人を死なせること、つまり、傷害致死や過失致死ではなくて殺人です。「殺してはならない」とは、先に申し上げた通り、モーセの十戒の第六戒に出て来ることばはそのままです。
 殺すことが罪である理由を聖書は創世記9:6で明確にしています。
「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。」
「裁きを受けなければならない」とは、単に罰を受けなければならないというよりは、死刑に処されるということに近いように思います。長津田駅を越えてさらに十日市場に向かって行きますと、「泣き坂」という坂があります。江戸時代に近くに「お仕置き場」があったと言われています。そこで言われている「お仕置き」は「死刑」(たぶん「斬首」)をさしているのです。何れにしても、そうした厳しい裁きは免れないといっているのです。
 ここから三つの具体的な例を主イエスは上げて、弟子たちに語りかけている。
 第一は人に向かって、腹をたてる人に対して、主イエスは言います。
 最高法院とは、言わば、最高裁判所で、重要な案件を取り扱う場所です。私たちが兄弟に向かって「ばか者」ということが、そのように重要な案件だということを主イエスは言っているのです。それは、神の形に造られた人間を侮辱していることに繋がるからです。私たちは、お互いのことをそれほど重大な存在とは思っていないかもしれません。私にとって大切であっても、他の人から見れば大勢のうちの一人に過ぎないと見ているかもしれません。しかし、主イエスは、私たちが思わず「ばか者、愚か者、役立たず」と言ってしまうような人、何か自分のことを言われているみたいな気がしてしまいますが、そのような存在を大切な存在、馬鹿にされることを許さない存在と見てくださっているのです。
 アベノマスクの後日談として、使えない、使い勝手が悪いと思う人が多いので、それを集めて、施設などに寄付しようという動きがあるという報道がありました。そのような動きに対して、「アベノマスク」という言い方などで、揶揄しているという意見があったという報道がありました。さらにその後日談として、そのような形で集めて、そこにサービス券などを配る場合、そのような場合限定なのかどうかわかりませんが、法律に違反するというのです。古物取り扱いの法律に違反すると言って警察から通知が来たというのですね。誤解かもしれませんが「警察のご機嫌取り」と言いましょうか、「忖度」もここまで来たのかと思います。私たちのことをそのように忖度してくれる人はいないでしょう。しかし、神さまご自身が私たちを大切な存在掛け替えのない存在と見てくださっているのです。私たち一人ひとりの存在は、そのように尊いのです。
 しかし、主イエスはさらに一歩迫ってきます。「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」死後の裁きを言っているのかも知れません。 ゲヘナと言うことばが出て来ますが、エルサレム郊外のゴミ捨て場で絶えず燃やされていたと言われています。そこに兄弟に向かって「愚か者」といったそっちの方が燃やされために、処分されるために投げ込まれるのです。
 この箇所の本文の初期のいくつかの写本には「理由なくして」ということばが挿入されていると言われています。しかし、それにもかかわらず、現在の本文が正しいと言われています。それは、正当な怒りはないということを意味していますし、「人の怒りは神の義を実現しないのです。(1:20)」とのヤコブ書のみことばとも調和します。
 怒りは、理性的で冷静な思考を排除します。また、論理的な反論よりも感情的な拒絶をもたらします。そこにあるのは、神が造られた人格への敬意の欠如です。 
 二つ目は、神さまへの捧げ物と兄弟との和解の優先順位を秤にかけて、捧げ物をそこに置いてでさえも、急いで人と、兄弟と和解するように進めています。しかも、自分の方が恨んでいるのではなく、恨まれているのを思い出したら、つまり、自分ではなくて、相手が恨んでいるのを思い出したらということです。そのように意識されている方も多いと思いますが、自分が人を恨んでいるのではなくて、恨まれていることをです。人を恨んでいたとしたらもちろんその人と和解しておくと言うことは言わずもがなと言うことなのかも知れません。
さらに、訴訟を起こされたら、いっしょにいる間に和解しないさいとも言われている。
 このように見ると、怒るだけではなく、怒らせることにも問題視しているようである。人を怒らせておいて自分だけ、神さまを礼拝するということを主イエスは喜ばれないということでしょう。神さまを礼拝すると言うことの中に、実は人と人との関係を振り返ることが含まれるということなのでしょう。
 教派・教団によっては、礼拝の中で「悔い改めの祈り」をささげる教会があります。私も何回かそのような礼拝に与ったことがありますが、「私の罪をお許しください」とか、「私は罪を犯しました」といのるその祈りに心が合わせられない時があります。その時に私は自分の一週間の人間関係を思い起こします。あるいは、人間関係の中で犯してしまったことを思い起こすことによって、その悔い改めの祈りに力強くとは言いませんが、心からアーメンと言えるような気がします。



宣教要約(2020年6月21日) 「地の塩・世の光」 マタイの福音書5:13〜16
● 先主日は「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」とそのあとのみことばを学びました。主イエスが、現に、あるいはやがてご自身のために迫害される人々に対して、「幸いです」と語りかけ、さらには「喜びなさい。大いに喜びなさい」とさえも語っていること学びました。何度も申し上げていることですが、主イエスの命令について、主イエスが私たちに命令をお与えになったとき、そのとき、私たちは二つのことを、二つの面を覚え、気をつける必要があるのです。
●  第一は、「命令」というからには、現実には出来ていないことが、そこで指摘されているということです。私たちが迫害されている時、多くの場合、悲しみや苦しみ、もしかしたら、悔しさを感じても、なかなか喜ぶということは出来ないのが私たちの本来の姿です。また、それが迫害の迫害たる所以でしょう。
 しかし、使徒の働きを見るとこんな記事があります。5:41 です。
「使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。」
 マタイのことばと使いとは違いますが、ここでは、使徒たちが迫害されたことを受けて、却って「喜びながら・・・出て行った」とあります。この箇所を元のことばで見ますと、最初弟子たちは、喜んでいなかったが、脅され、鞭打たれた時、御名のゆえに辱められるに値する者と「なった」とあります。
 言ってみれば、鞭打たれるその時、主イエスもそのようにされたことを思い起こし、主イエスと同じ目に遭わされていることに気がつき、御名のために辱められるに値する者とされていると気がつき、喜んで出て行ったというとことがわかります。
 共にいてくださる聖霊なる神さまによって気づきが与えられたのでしょう。迫害の中にあって喜びなさいという命令は、そのように、聖霊によってなされていくのです。肉で、強がって、同じようなことが、あるいは出来るかも知れない。けれども、そうなると、今度は相手が赦せなくなるでしょう。現に迫害していた当人が、後に回心したとしても、迫害された人は、相手のことを赦せないということが起こってくるのではないでしょうか。
 こうした喜び、迫害をも喜ぶ喜びは、聖霊によるきよい喜びであることを覚えて頂きたいのです。
 また、「命令」のもう一つの面は、神さまは、人を、それが「喜ぶことが出来るように」といいますか、「喜ぶ、そのようなものとして」と言いましょうか、造り変えてくださっているということです。
 自分の現状を、自分の目で、自分の基準や枠組みでみるのではなく、目を挙げて、主に目を開いていただいて、主の枠組み、主の基準で現状を見据える。その時、私たちの周りを覆っていた暗闇が消え、主のみわざの輝きを垣間見ることができるのです。
 今日の箇所との共通することなので、特におぼえたいのですことです。何度も申し上げていることですが、聖書は、イエスさまは、「地の塩になりなさい」とか「世の光になりさない」とか命じられては、いないのです。なんとおっしゃったでしょうか?
 「あなたがたは地の塩です」「あなたがた世の光です」と弟子たちのどう「あるべき」かではなくて「どうある」のかを語っているのです。本来塩でないものが、あたかも塩のように振る舞うのではなく、本来光たり得ないものが光のように振る舞うように言われているのではないのです。
 塩ではなく、光ではなかったものが、主の新しい創造によって、そのように塩とされ、光とされた者。その本質といいますか、本領を発揮させよ、輝かせよというのです。
● マタイのテクストに戻りますが、ここで「塩」に期待されているのは何でしょうか?
「塩が塩気を失ったら、何によって塩気をつけるのでしょうか」ということから、ここで、塩は味付けや腐敗防止のために用いられていると考えることができるでしょう。
 愛が冷めていくこの世、倫理的に堕落していくこの世にあって、愛の炎を燃やし続け、この世の腐敗を留めるために主イエスの弟子は存在するのです。何か力んでしまいそうですが、「燃える」のではなくて「燃やされる」のです。
● 学生時代、KGKキリスト者学生会の交わりの中で過ごさせていただきましたが、確か入った最初の年の新入生歓迎合宿だったでしょうか、この、「地の塩」になるということが取り上げられました。そこで一番印象的であったのは、『塩が「塩のまま」「塊のまま」では塩気を発揮することができない。塩気を発揮するためには、溶けて、入り込んでいかなければならない。』ということでした。
 人々と共に生きる、上から目線になってしまいますが、今よく言われる言い方で言えば、「寄り添っていく。」そういう生き方を主イエスは、弟子たちに求めているのです。そのために必要なことはなんでしょうか?
 相手に対する本当の尊敬もその一つでしょうが、自分自身も主イエスに赦され、受け入れられた者という確かな手応えだと思います。それなしに他人に近くなら、相手に対する、今申し上げたような上から目線や、裁き心が、たとえ自分には分からなくても、また、なくても、相手は感じて取ってしまうでしょう。
● ある有名な神学者が「愛は他の人のために存在することである」というようなことを言ったそうです。キリスト者は、自分の人生の目標達成のために生きるのではなく、他の人のために、そして、何よりも主のために生きるのです。
● さて、「地の塩」から「世の光」に目を転じましょう。ここで主イエスは、あなたがたは、「世の光」、また、「灯り」と語られました。「光」というたとえは、他の箇所でも、神さまについて、主イエスについて用いられています。ヨハネ1章では、バプテスマのヨハネが指し示すお方として「すべての人を照らすまことの光」と福音書記者ヨハネに名指されていますし、ヨハネ8章では主イエスご自身が「わたしは世の光です。」と宣言しておられます。
 しかし、ここ、マタイ5章では、主イエスご自身が弟子に向かって「あなたがたは世の光」ですと言われているのです。大事なのは、あなたがたがこの光とか、灯りとか言われている目的です。あなたがたが世の光とされた結果何が起こるかということです。それは、人々があなたがたを見て、あなたがたの行いを見て父なる神を崇めるようになるためと言われています。
 今、東京では都知事選挙が行われています。二十数人の立候補があったということです。コロナウイルス禍での選挙戦なので、演説会などにそれほど多くの人を集めることはしないでしょう。ある候補はゲリラ演説会と自分の演説会を称して、盛んに選挙演説に勤しんでいます。また、ある候補はインターネットを巧みに用います。人を、特に現職をこきおろすようなものもあれば、ひたすらに自分を前に押し出し、自分に注目させます。しかし、どのような選挙手法であれ、それらに共通しているのは自分が、あがめられることを、期待されることを求めるということです。
 しかし、弟子たちに与えられている使命、弟子の存在目的。彼らが光とされ、塩とされている目的は何なのでしょうか?
 それは、ただひたすらに父があがめられることです。
 ある男性が言っていたことを忘れることができません。ある業界では先駆的な会社に勤めていた方です。たぶん奥様の影響で教会に導かれてきたのでしょう。彼が言うには、教会というところは、自分の弱さをだせるところだ。会社など他の社会ではありえない。会社などでは、弱みを見せられない。
トランプ大統領が少し歩き方がおかしかっただけで、健康に問題があるのではと取りざたされたりする。
 しかし、教会はどうでしょうか?教会は人の、自分の弱さを認めるところから始まると言っていいのではないでしょうか。
 そして、共に神の力、神の栄光が現されるのをねがっていくのです。


宣教(2020年 6月7日
三位一体の神によるの人の創造—神の交わりに与かる」 創世記 1:26〜28、ヨハネ 1:1〜2
● 三位一体主日
 先主日は、ペンテコステ、聖霊なる神さまの降臨を記念する日でしたが、今日は三位一体主日で、来主日から待降節まで無祭期間と呼ばれ、三位一体後第何主日と数えられていくようです。
 今年に入ってからマタイの福音書を通して、主イエスのお誕生とよみがえり、また初期のガリラヤ宣教と学んで参りました。その学びをペンテコステで中断しましたが、もう一日中断して三位一体という教理について学んで行きたいと思います。
 三位一体ということを学ぶとき、まず注意しなければならないのは、どのような説明も、神である主の三位一体というご性質を、一つでは完全に表現し、また理解することはできないということです。紙の上という2次元空間で3次元空間を完全には表現することができないように、人間の知性という思考空間では、神である主の三位一体を表現することができないのです。私の学んだ神学校の教理の先生は、三位一体は、何かに例えた瞬間、異端になるというのです。確かにそうなのです。三位一体の説明としてよく引き合いにだされる、水の三様態、水蒸気、水、氷ですね。それも考えてみれば、様態説という立派な異端に陥ることになる。
創世記1章、その後ヨハネの福音書1章から見て行きたいと覆います。
● 三位一体の曙光
今朝は、創世記1:26〜28をお読みしました。そこにはまず「神は仰せられた」とあり、『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。』と続きます。創世記1章には神さまの創造のみわざが記されていますが、人間の創造にかかわるこの1:26〜28以外の箇所では、神さまが「語る」、すると「そのようになった」というパターンが見られます。しかし、人間の創造のみわざの中で、「人を造ろう」と呼びかけて後に、そのみわざがなされるのです。ご自分と「われわれ」と言い得る親しい交わりの中で「われわれ」の「かたち」、あるいは「われわれ」の「似姿」に人を造ろうと仰せられ、そのように人は創造されたのです。
 ここでは、「われわれ」ということが言われているだけで、それが二人なのか、三人なのか、あるいはそれ以上なのかは分かりません。しかしここに神は一人に一つのという人格の人間とは違って、複数の人格、神については位格と言いますが、複数の位格を持っておられる方であることがわかる。わかるとまではいえなくとも、三位一体の神の御姿を垣間見ることができます。ある先生はこれを「三位一体の曙光」と表現しました。
● さて、それに続くのが27、28節です。続く27節を見ますと、神の人間の創造と祝福が記されています。この節では、神が人間をご自分のかたちに創造なさったことが極めて強調さてれているように思われます。そして、神のかたちとして、創造されたことが、「男と女」に創造されたことと同様なことのような書きっぷり、筆致で記されているのです。神に似せて造るというみわざは、たとえそれがかたちということであっても、一人の人を造ることによって不可能なことであり、神のかたちということが実態であるよりも、関係性の中に、少なくとも、関係性の中「にも」あるということを示しているように思います。
● さて、28節は文化命令とも呼ばれますが、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」というみことばです
 以前、神さまの命令についてお話ししたことがあると思います。1ヨハネ5:3に「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷となりません」と言われています。言い換えれば、神の命令は不可能なことではなく、なすことのできるものなのです。できないどころか「重荷とはなりません」とさえ言われています。
 「神の命令は重荷とはなりません」 という1ヨハネのみことばで言われていることをもう少し考えて行きたいと思います。「重荷とはなりません」ということば、「行うことができる」、あるいは「行おうとする気になる」ということではないでしょうか。「神を愛することができる」にしても「神を愛そうという気になる」という言い方にも、何か不遜なもの感じる方がいらっしゃるかも知れませんが、その意味としては「神を愛そう」いう思いは、人間にとって絶望的に不可能なことではないということです。なぜなら、神ご自身が私たち人間をそのようなものとして造ってくださったからです。神さまは人間に実行不可能な命令を与えて、自分の力をお示し位なるお方ではないのです。それは、私たちがアダムから受け継いでいる原罪によって困難なことになってしまったことであり、いまや、主イエスの復活により、聖霊の御力によりなしていくことが可能になったことなのです。
● 世界の創造のときの神
もう一箇所、ヨハネの福音書1:1、2を見ておきたいと思います。
1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
このともにということばは、「〜へ、〜に」という意味が基本にあることばで、それが、ここでは「ともに」と訳されているのです。「共にいる」といっても「互いに何お関心もなく、交流もない」とれども、隣にいるということはありえます。しかし、この「ともにあった」ということばは、そこに交流があったことを告げています。「互いに向き合っていた」ということもできるのです。神は創造の初めから三位一体の神です。
● 神は永遠の昔から、三位一体の神として、存在し続けていました。そして、ご自身の栄光を現わすためにこの世界を創造されたのです。何かの欠けをや不満を感じられたわけではないのです。人の創造も同様です。世界を創造しても、人格的な存在がなくて、寂しかった訳ではないのです。ただ、神の幸いな交わりに与らせてくださるために、人を創造されたのです。
教会学校などで、「神さまは世界を創造したけれど、それを一緒に喜んでくれる人がいなくて、寂しく思いました。それで、神さまは人間を造ったのです」と説明してしまうことがありますが、実はそれは違うのです。三位一体の神の交わりは自己充足的、ご自分の中ですべてが完結している存在なのです。


宣教(2020年5月31日)
「十一人とともに立って」 使徒の働き 1:8、2:1〜4, 14

● 聖霊の降臨がもたらすもの(使徒 1:8)
 今日は、教会の暦ではペンテコステ、聖霊なる神さまの降臨を記念する日です。聖書が証しする三位一体の神の第三位格、聖霊なる神さまが教会に、そして、信じる全ての人の心に宿ってくださることを覚える日です。
 聖霊なる神さまは、私たちは新しく造りかえてくださるお方です。イエスさまを信じる前に私たちは、キリスト者・クリスチャンというと、どんなイメージを持っていたでしょうか?きよい人、優しい人、正義感の強い人など、いろいろなイメージがあったでしょう。それとともに、自分は決してそのようにはなれないと思っていたかもしれません。しかし、自分がどのように感じているかは別として、主イエスを信じている私たちは、そのようにされるのです。個人の好みや性格、主義が変わって行くのではなく、神さまの、聖霊なる神さまのみわざとして、神さまの御力によって、私たちは変えられて行くのです。
 この第8節は「しかし」ということばで始まっています。少しパラフレーズして読んで行きますと、それは前の節を受けて『あなたがたはいつとかどんなときとか知りたいだろう。しかし、あなたのなすべきことは別にある』ということなのです。私たちは何をなすべきなのでしょうか?私たちのなすべきことそれは、4節に遡って言えば、「父の、父なる神さまの約束を待つこと」なのです。
 また、8節に戻って、さらに元のことばの語順に従うと「あなたがたのうえに臨むとき」ということばに先立って、「あなたがたは力を受けます」とあります。あなたがたの願い、あなたがたの望むところではなく、神さまがあなたがたになしてくださることをこそ弟子たちは受け取るべきであり、その結果として、わたしの証人となる。しかも、この迫害の地エレサレムとユダヤ、ユダヤ人としては受け入れ難いサマリヤの全土、そらには「地の果て」においてさえも、と言われているのである。
 【バプテスマのヨハネにとっては悔い改めのしるしであったバプテスマは、今や悔い改めとともに主イエスのものとされたことを証しするものとなったのです。】
● ペンテコステに祝われること(2:1〜4)
さて初めに、今日はペンテコステ・聖霊降臨祭とか、聖霊降臨日と呼ばれる記念日と申し上げましたが、このペンテコステという名前はギリシャ語の第50日で過越の祭りから数えての第50日で「七週の祭り」とも呼ばれる。また、「刈入れの祭り」、「初穂の日」とも呼ばれるユダヤ人の祭りでした。また、シナイ山での律法の授与を記念する祭りであったと言われている。
 そうであるとすれば、神の民としての生き方が示され、記念された日に、聖霊なる神さまが降臨して、新しい人としての生き方が心に刻まれるという意味で意義深いとも割れます。
● ペテロの説教(2:14〜36)
 今日、全体を読むことはしませんでしたが、ペンテコステの出来事に集まった人々へのペテロの説教のいくつかの点を見てみたいと思います。あとでじっくりと読み返して頂ければと思いますが、説教の内容を取り上げる前に、まず、ペテロの立場、と言いますか彼が説教しているその立ち位置を確認したいと思います。14節に「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げて人々に語りかけた」と記されています。使徒の働きの聖書記者ルカがここで「ともに立つ」ということばを用いていることに注目したいと思います。ここに聖霊によって新しく作られたペテロの新しい生き方があるように思うからです。
 彼は自らを主イエスの一番弟子と任じていたと言われています。ピリポ・カイザリアで主イエスが「あなたがたは自分を、主イエスのことをだれだというか」と弟子たちに問いかけた時に、他の弟子たちに先んじて、「あなたは生ける神の子キリストです」と答えたペテロです。反面、その直後に「下がれ、サタン」と主イエスに戒められたペテロです。また、最後の晩餐で「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と主イエスに語りながら、ものの数時間後(あと)には鶏が鳴く前に主を否定してしまったペテロです。そのようなペテロが、この時に彼が肉、彼本来の性質を引きずりながら、その思いを持ち続けるならばこのような立ち位置、つまり、他の「十一人とともに立って」ということはなかったように思うのです。
 主イエスを裏切ったという思いが嵩じれば、声を張り上げて説教をするどころか、後ろに下がっていたでしょう。それどころか、ユダのように弟子であることを捨て去ってしまったかも知れませんし、肉の責任感と言いましょうか、自分を悲劇のヒーローに仕立て上げるようなら、その方がふさわしいでしょう。また反対に、他の弟子たちも同様裏切ったではないかと自己弁護しつつこの場に立つならば、彼のことですから、「先に立つこと」はあっても、「ともに立つこと」はなかったでしょう。人の先に立ちたいという思いが聖霊なる神さまのお取り扱いを受けて、他の人々を押し退けず、また、主イエスに赦され、受け入れられたという思いが、自分に与えられた分、自分に与えられた賜物を正しく用いることができるようになったのです。
・ ヨエルの預言の成就 
さて、ペテロの説教を見ていきましょう。ペテロはその宣教を聖霊降臨に伴って起こったしるしの解き明かしから始めます。このできごと—当時の世界中から集まってきたユダヤ人や改宗者らが自分の国の「ことばで神の大きなみわざを語るのを聞く」というできごとは、預言者ヨエルのことばの成就だとするのです。神さまはヨエルを通して、終わりの日の来る前に、主の御名を呼び求める者には、老若男女を問わず、奴隷にも自由人にもここでは「わたしの霊」と言われていますが、「聖霊」が注がれると語っています。この預言の成就の中心は、それぞれが幻を見、夢を見るとともに、「預言する」ということ。別の言い方をすれば神さまの証し人となるということです。証言するということは、「神さまが人の人格を通して人の語りかける」ということです。語る者、証言する者にも、それを聞く者にも聖霊は働きかけておられるのです。聖霊が注がれた結果、証しする者は神のことばにふさわしく、福音を語り、聞く者もふさわしく整えられ、救いへと心開かれて行くのです。
・ 主イエスの十字架と復活
 ついでペテロは、主イエスを指し示します。主イエスが前の週まで生きていた時のことですから、主イエスの教えやそのみわざに多くのことばは必要なかったでしょう。ことは主イエスが、よみがえられたというできごと、そして、そのよみがえりの前提となっている、主イエスの死の責任が「あなたがたにある」ということです。ここでペテロは責任を「あなたがた」に押し付けているように見えます。なぜ「私たち」ではないのでしょうか。それは主イエスのよみがえりを信じるペテロたちにとっては、「死の責任」問題は存在しない。あるいは、「あなたがた」と同じ意味では「死の責任」を共有していないということでしょう。逆に言えば、「私たち」においてはこの主イエスの死は意味のあるものとなっているが、あなたがたがそれを受け入れない限り、主イエスの死はあなたがたの救いに関して有効でないというほどの意味になるでしょう。あるいは、よみがえりということを認めない限り、死の責任が問われるということなのでしょうか。
● 人々の応答 悔い改め
この説教を聞いた人々の反応は、「心を刺された」と言われています。しかし、彼らはそこにとどまります。反発するのでもなく、そこから去って行くのでもなく、弟子たちに「私たちはどうしたらよいでしょうか」と問うのです。人々が達し得たところで、主に従うように心が開かれたのです。
よい説教とは、神のことばに従うように人々を動機付け、自分にではなくて、神さまに、そのみことばに従うようにと方向転換、あるいは行動変容を促すものです。それは聖霊なる神さまの働きです。


宣教要約(2020年5月24日) 「山上の説教—祝福の教え5」 マタイの福音書5:10〜12

● 「平和をつくる者は幸いです」を学んだ後、2回ほど–ペンテコステと三位一体主日の関係で山上の説教のこの祝福の教えを離れましたが、今日は再び祝福の教えに戻って学びを続けたいと思います。
 そういうわけで今朝は「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」とそのあとのみことばを学んで行きたいと思います。
● 祝福の教えがもたらすものー神との平和
 前回、平和をつくる者は幸いですと学びましたが、それまでに主イエスが語って来た六つの特性、「心の貧しい、あるいは霊において貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」「あわれみ深い者」、そして「心のきよい者」という霊的、あるいは精神的な性質、徳性に人々が与るならば、(特徴の「特」、ではなく道徳の「徳」ですが)必然的にそういう人は9節に言われている「平和をつくる者」、あるいは「平和をもたらす者」「平和を実現する者」になっていくと考えることできます。
そういう意味で前回学んだ「平和をつくる者は幸いです」とのみことばは祝福の教えの一つの結論、と言いますか頂点ということができると思います。
● 祝福の教えに生きた方
 さて、この山上の説教全体は、主イエスが弟子たちに与えられた生き方の指針であると考えられます。しかしもし、福音書記者マタイが弟子はかくあるべしということ伝えるだけのために、これを書き残したとしたらここで終わってもよかったと思います。
 けれども実際は、主イエス誕生前後の物語や、宣教の開始や弟子たちの召命の記事の直後に記されているのです。福音書全体の中で、この部分は比較的早い位置にあります。マタイの福音書には五つの戦況がありますが、その最初のものですし、また、先にも申し上げましたが、ぺテロとアンデレ、ヤコブとヨハネという二組の兄弟を最初の弟子として迎えたばかりの位置にあります。
マタイがこの説教をここに配した意図は何だったのでしょうか。それは、まさに人の罪の深さを物語っているように思います。人としての神にあって生きるあり方が示されたにも拘わらず、そうやすやすとは、そのような生き方を許さないのが、この世の罪深さなのです。
この世、そしてこの世の人々は、それを拒んでいくのです。祝福の教えそのままに生きたお方であるイエス・キリストを迫害し、十字架にさえもつけてしまうのです。そういう意味でこの10節は、前回学んだ「平和をつくる者は幸いです。その人たちはかみのこどもと呼ばれるからです」とのみことばは、主イエスの掲げた人のあるべき姿と現実とのギャップを繋ぐ連結器のような役割を担っていると考えることができると思います。
 また、それは福音を担った初代教会の人々の姿であり、マタイの福音書の読み手が経験している事柄とも重なり合うものであったのです。
● 神と「人」との二者択一
 義のために迫害される者と言われているこの「義」ということばですが、これは「義に飢え渇く者は幸いです」という句にも出て来ました。
彼らのその幸いの理由として、主イエスは「その人たちは満ち足りるから(未来形)」を挙げました。「この満ち足りる」ということばは、詩篇17:15「しかし私は 義のうちに御顔を仰ぎ見 目覚めるとき 御姿に満ち足りるでしょう。」とあるように霊的な満足、すばらしい神に見える時に与えられる霊的な満足に用いられています。
 ところでこの「義」ということばですが、それは神さまとの正しい関係であり、それは神のみこころを行うことによって実現されるものです。先にお話ししたことに沿っていうならば、この祝福の教えの6項目に沿った生き方、そう言ったことを大事にする生き方をしていくということです。神さま優先に生きていくことです。
しかし、そのように生きたときに与えられる人からの評価は、必ずしもはかばかしいものではないのです。むしろ、このみことばの語るところによれば、この世のもたらすもの、それは迫害なのです。
人々からの悪意、敵意、憎しみです。人は二者択一の前に立たされているということができます。それは、人の気に受け入れられること、入りそうなことを行うのか、そうではなくて、たとえ人には受け入れられなくても神さまのみこころを行なっていくのかという二者択一です。
● 「あなたがた」に語りかける主イエス
 10節まででイエスさまは、「・・・な人たちは」と3人称で語って来ましたが、11章に至って「あなたがたは幸いです。」と2人称で語り始めます。
 「心の貧しい、どこかのだれか」「心のきよい、どこかのだれか」というのではなくて、「今現にこのみことばを耳にしているあなた」しかも「あなたひとり」ではない「あなたがたに向かって、幸いですと語るのです。
 しかも、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と告げるのです。喜ぶということは「自分が幸いであるということを認め、告白する」とでもしておきましょうか。そのように命じるのです。それは言ってみれば「あなたがたは、自分自身に関して、今はそう思っていない、感じられないかも知れないが、やがて、そのようであることを知るようになるということが意味されているのではないでしょうか。
 「人が神さまとの関係を人々との関係よりも大事なこととしていくとき、人々はあなたを自分とは別のものと、排除し、迫害するようになるでしょう。
しかし、自分の患いや痛みの解決を主イエスに求め、癒されてもなお、そこに留まり続けているあなたは神のこどものであり、天の御国はあなたのものなのだ。」
● 迫害か報いか
 ところで、私たちは迫害と報いとを勘違いしてはいないだろうか。聖書には「人々が・・・ありもしないことで悪口を浴びせる」とありますが、いわゆる「あることないこと」で責められるのではなく、「あることあること」で責められる。人格のしからしむるとところで罵られる。ということです。
 しかし、私自分自身、真剣に自身の人生を振り返るとき、本当に笑い話で済まして頂くしかないようにも思いますし、決して笑って済まされないような思いもします。そのようなこと、ある種の絶望が心を占めることも心の、霊の貧しさを覚えることかも知れない。
 そういう意味では、マタイは迫害されている者の幸いの根拠として、天の御国はその人たちのものだからですと、心の貧しい者、霊において貧しい者に充てたものと同じ根拠を与えています。現実的な迫害と、内省によって「霊において貧しい」ことを知ることは近いように思えるからです。
 私が教会に通い始め、イエスさまの救いを知るようになったのは、高校生から大学生のときでした。その十数年たって、父や母も教会に通うようになり、洗礼を受けるのですが、そのときの母の証しを忘れることができません。
 母は言うのです。「高校の頃から息子が教会に通うようになり、困ったものだと思っていました」というのです。実は、その証しは原稿でしか読んだことがないのですが、会衆一同、爆笑といったところだったのかも知れません。
 それはどちらでも良いのですが、教会に通い始め、求道し始めたことは、ある種の反抗期だったようにも思います。ちなみに大学時代の恩師はそれを出エジプト体験を正してくれました。
 話を元に戻しますが、そうした事柄を思い巡らすとき、箴言の一つのみことばが思い浮かんで来ました。
 それは箴言30:7〜9です。
 7 二つのことをあなたにお願いします。
 私が死なないうちに、それをかなえてください。
 8 むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。
 貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、 私を養ってください。
 9 私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、 私の神の御名を汚すことのないように。