説教要旨
●2024年4月28日の説教要旨「あなたがたは神の宮」コリント人への手紙第一3:16〜23
・パウロは、「あなたがたは神の宮である」と、コリントの人々に語りかける。ここで「あなたがた」と複数で言われているが、パウロの書簡でこのように言われる場合、多くは「教会」を指している。コリント教会が全体として神の宮なのである。新約聖書で神殿や宮を表すことばは、「ナオス」と「ヒエロン」の二つのことばがある。厳密な区別はないが前者は祭司以外入れない場所、つまり、聖所や至聖所を指すのに対して、後者は神殿一般を指しているようである。しかし、いずれにしても、それは神と人が出会う場所である。それは、人の側が工夫をして神に近づくための方法を考え出したのではなく、神ご自身が人のためにその場を設けたのである。言ってみれば、旧約聖書においてその設計図や模型を示し、新約聖書においてはイエス・キリストを通して本物を与えられたのである。
・そのような神の宮であるが、壊すこと、あるいは汚して使えなくなってしまうことがあるのである。それは、人の神に逆らう悪意から出たものもあるが、人の善意から出たものもある。たとえば、人を傷つけていけないが、病気で外科手術が必要な場合には人の体に傷をつけなければならないといった場合である。神は愛のお方ではあるが、人の救いや霊的な成長のために人を扱われることがある。
●2024年3月24日の説教要旨「十字架を負われた主イエス」マタイの福音書27:14〜26、45〜61
・主イエスが訴えられているのは祭司長や律法学者のねたみのためと知っていたピラトは、主イエスを助けるために、赦免を与えるのをバラバか、主イエスかという提案を群衆にしめした。ピラトは群衆が主イエスを選び取るだろうと踏んいた。しかし、群衆は主イエスを拒絶し、バラバを選んだ。「バラバ」という名は「父の息子」という意味であり、彼を選ぶことは、キリストによる救いではなくて、自分たちの今までの生きた方を肯定するということを意味しているのであった。
・主イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。それは、恐怖と絶望の叫びであるとともに、詩編22篇の冒頭のことばである。この叫びによって主イエスはこの詩篇全体を人々に思い起こさせている。それは絶望に始まってはいるが、その後半は、やがて与えられる救いの喜びと期待に満ちているのである。
●2024年3月17日の説教要旨「成長させてくださるお方」コリント人への手紙第一3:1〜9
・先日、ヨハネ受難曲を聴きに行った。すばらしい演奏会であった。演奏を讃える拍手を聞きながら、真の神をしらされ、讃えることのできる幸いを感じた。
・パウロはコリントの人々に対して、「兄弟たち」と呼びかける。パウロは自分自身に対しても呼びかけているように思う。それは、パウロとコリントの人々との、言わば、絆の確認である。そこに立ってパウロは話を進めるのであるが、この一行(ひとくだり)のことばにパウロの葛藤が感じられる。確かに「御霊に属する人」の対立概念は「肉に属する人」であるが、それは未信者をも指し得ることばでもある。パウロは彼らをそこまで貶めてしまったことに気づいて、「キリストにある幼子」とことばを継いでいるのである。
・「キリストにある幼子」の特徴は、相手がどのような人物であれ「人に着く」ことである。コリントの人々の問題はまさにこれであった。パウロは、成長させてくださる神ご自身に目を留める必要を訴える。アポロであれパウロであれ、神の備えたもう器にすぎないのである。
●2024年3月3日の説教要旨「聖霊の教えてくださること」コリント人への手紙第一2:10〜16
・宗教には、キリスト教の立場から言うと自然宗教と啓示宗教がある。神さまがご自身を人に現してくださった宗教と天才的な宗教家が自分の考えを広めるといったものである。そこには神を起源とするものと人を起源とするものの決定的な違いがある。私たちは、キリスト者として、キリスト教のみを真の啓示宗教とするものである。そのような私たちを独善から守るのが、聖書であり、聖霊なのである。
・キリスト教の中心は、イエス・キリストが十字架にかかられたこととそのイエスがよみがえられたことである。それを歴史的な事実としてではなく、信仰の事実として受け入れることがキリスト教信仰である。信仰は知識の問題だけではなく、生き方、別の言い方をすれば、人間の価値観や人生観の問題である。人は聖霊によらなければ、そこを変えられることはない。聖霊によって歴史的な事実を、信仰のことがらとして、生き方に関わることがらとして受け止めることができるのである。
●2024年2月25日の説教要旨「神の備えてくださったもの」コリント人への手紙第一2:6〜9
・先週お読みした「御霊と御力の現れ」ということばのギリシャ語本文には冠詞がない。それは文法的に「その性質を示すことに重きを置く」ということである。さらにこれらのことばは、二つのことばで一つのものを表す「二詞一意」と呼ばれる表現法が用いられている。つまり、ここは 「御霊と御力」というよりも「御霊の力の現れ」を示している。
・パウロの行った宣教、それは「説得力のある知恵のことばによるものではな」かったと彼自身が言っている。それは「知性(だけ)ではなくて神さまと人に対する愛に根差した霊性に訴えるもの」であったのである。
・さて、ここで神を人格として尊ぶことについて考えたい。神さま、主イエスをどう呼んでいるだろうか?人間関係の中では、身近に、しかも、敬意を感じるならば、敬称は必須であろう。神さまについてはどうだろうか?親しさゆえに敢えて呼び捨てということもあるが、私たちが証しや宣教の中、あるいは祈りの中で神さまをどの呼んでいるか、とりわけ、神さまとの直接的な会話である、祈りの中でどのように呼ぶかは、その人の神さまとの関係を物語るものということができる。
・パウロは「成熟した人たちの間では知恵を語ります」と語る。「成熟」とはあるものを得た人、ある域に達した人という意味であるが、主イエスもマタイの福音書でこのことばを用いている。
「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。マタイ5:46〜48」
●2024年2月18日の宣教要約「御霊と御力の現れ」コリント人への手紙第一2:1〜5
・パウロは彼自身が伝えた福音を「神の奥義」と言い表している。奥義とは特別な人にだけ知ることが許された知識や知恵であり、特別な修行の結果得ることができるわざである。逆に言えば奥義を知り、悟ることの出来る人、出来た人は神さまにとって特別に存在なのである。
・パウロは、当時のさまざまな知識に通じていた。しかし、彼はそうした知識や知恵を得ている自分と決別していることを明らかにする。パウロにとって神は知識や概念ではない。生きておられるお方なのである。それは私たちにとっても同様である。概念を知ることで、人は人格的に大きく変えられ、成長することはないかもしれない。しかし、「神」を、いや神さまを人格的に知ることによって、私たちの人格は大きな影響を受けるのである。私がイエスさまや神さまを「さま」を付けずに語れない理由も、口語であるからというのではなく、そこに、神さまを人格として、それも私にとって身近な存在と感じているからであるように思う。
・パウロは、この福音、奥義の宣教が知識によって支えられたものではなく、御霊と御力の現れと言った。それは単なる知性を超えた、霊的な知性、まさに神さまの領域のできごとであり、出会いなのである。
●2024年2月11日の説教要旨「本当に誇るべきもの」コリント人への手紙第一1:26〜31
・パウロはコリントの教会の人々に自分たちの召しを考えるように促す。パウロは彼らの救いを、つまり、彼らが信仰を持つに至ったことを神の召しと捉えているからである。自分が努力して得たのでもなく、必死に求道して得たのでもない、ただ主イエスが選んでくださったのである。ヨハネの福音書に「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」とあるように、私たちの救いは神の主権的な選びによるのである。
・「選ばれた」者であるということにしてもコンリトの人たちは知性や力など自分の内の何かしらによって選ばれたというエリート意識を持っていたようである。しかし、パウロは明確にそれを否定し、むしろ選ばれたのは、愚かな者、弱い、取るに足りない者を選ばれたのであると告げた。
・むしろ、救われた者が神さまから、神さまの前に正しいとされる義と、神さまとの交わりが許される聖さと、そしてなによりも罪の贖いをキリストのゆえに頂いたのである。
●2024年2月4日の説教要旨「十字架のことばは神の力」コリント人への手紙第一1:18〜25
・パウロのコリントでの働きは、バプテスマを授けるためではなく、知恵によらずに福音のことばを宣べ伝えることであった。「十字架のことば」というときに、主イエスが私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって下さったという宣教の内容を指すが、広い意味ではその受肉から地上での歩み、そして復活という主イエスの生涯全般を指している。それは単なる「ことば」ではなく、福音という「ことがら・出来事」である。
・パウロはそれを神の力と語る。その「力」ということばは、ダイナマイトの語源にもなっている「デュナミス」ということばである。それは大きな力、爆発的な力を意味しているが、「秘められた、潜在的な力」でもある。それはあらゆる困難を突破する力を持っている。
・パウロはその十字架のことばとこの世の知恵とを対照している。「知者」ということばは、ソフィスケイト(洗練された・教養のある)という言葉の語源でもあるが、詭弁を弄して人を混乱させた者である「ソフィスト」であり、学者とは「律法学者」である。彼らは「論客」と呼ばれるが、救いを求めるのではなく、議論のための議論をするような人たちであり、彼らの知恵を神は虚しいものとされたのであった。
●2024年1月28日の説教要旨「同じ心、同じ考えで」コリント人への手紙第一1:10〜17
・コリント教会のゆえに神に感謝し、彼らを喜んで来たパウロであったが、パウロは一転してコリント教会の現状とそれに対するパウロの無念を吐露する。そして、イエス・キリストに対する信仰を土台として一致して行くことを求める。
・分裂の原因が何であったのかは直接には記していないが、個人的な、人間的な好悪が原因であったのかも知れない。仲間割れせずと言われているからには、本来は愛するべき互いを敵視さえしていたことが窺える。互いに見つめ合うのではかく、神を見上げるという、同じ方向を向くところにこそ、聖書の教える愛がある。また、愛するべき人を敵とするのではなく、真の敵を見極めることが大切である。
・パウロはピリピ人への手紙の中で、キリストにある励ましと愛、そして御霊のご臨在の確かさが、教会の愛と一致の源であることを語り、それこそがパウロを、ひいて神ご自身を喜ばせることに繋がると語っている。
「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。ピリピ2:1,2」
●2024年1月21日の説教要旨「主にある者の豊かさ」コリント人への手紙第一1:4〜9
・パウロは当時の手紙の形式に従って、差出人、受取人、そして祝福の祈りをささげている。従来通りの形式に従いながらもそこに「古い皮袋にも新しいぶどう酒を」と言わんばかりに新たに真の神の御名を書き込んでいるのである。
・パウロはコリント教会のゆえの神への感謝を言い表している。現実的にはコリント教会には分裂分派があり、異邦人の中にもないような不道徳があった。しかし、パウロはコリント教会を肉の目ではなくて霊の目によって見つめているのである。パウロの指導は、キリスト者はかくあるべしという律法主義ではなくて、主イエスとの人格的な関係に訴えたものである。
・パウロは自分が伝えた最も大切なことは十字架と復活であると語る(15章参照)。そのキリストのこと、その証しが確かなものになっている今、主の御霊の導きを期待することができるのである。
・私たちも自分の現実を見て一喜一憂するならば、私たちの信仰は安定を欠いたものとなってしまう。しかし、今や主イエスは私たちをコリント教会の人々とともに、父なる神と主イエス・キリストとの交わりに入れられたのである。この交わりの中にあって、私たちも主の前に価値のあるものとされるのである。
●2024年1月14日の説教要旨「神に召された人々」コリント人への手紙第一1:1〜3
・コリント人への手紙第一はその差出人を使徒パウロと兄弟ソステネとしている。パウロは自らを使徒と呼んでいるが、いわゆる十二使徒ではない。使徒の働きは、使徒補充の条件として、主イエスの宣教の初めから復活の日まで共にいたこと、また、主イエスの復活の証人であることを挙げているが、パウロはそれには当てはまらない。しかし、パウロはダマスコに行く途中で復活の主イエスと出会い、さらには異邦人宣教の使命を主イエスから授かったことによって使徒となった。コリント教会もパウロによって設立されたものであった。
・一方ソステネはクリスポの後任として、コリントの会堂の会堂司(使徒18:17)となったものと思われる。彼の立場はパウロと共に立ってコリントへの第一の手紙を聞く立場にあったのであろう。かつての自分の町の人々へのパウロの手紙をいわば吟味する立場にあったようである。
・コリントという町は貿易の盛んな港町で宗教的にはさまざまな偶像礼拝が蔓延り、道徳的にも問題が多かった。そしてその影響はコリント教会の中にも及んでいた。しかし、パウロはコリントのキリスト者たちをも「聖徒たち」と呼んでいるのである。
●2024年1月7日の説教要旨「東方の博士たちの礼拝」マタイ2:1〜23 
・東方の博士たちは誕生した王となるべきお方に謁見するためにやってきた。マタイはそれを「礼拝するために」と言い表している。それはヘロデを動揺させるものであった。彼はいつも自分の地位を守ることを考え、自分の息子さえも自分の地位を狙うものとして殺してしまったのであった。そのような惨劇が起こることを人々も恐れたのであった。彼の周囲の人々はメシア到来を喜ばしい知らせと受けるよりも悲劇の始まりとしか受け取ることが出来なかった。そのような恐れのゆえに、祭司長たちはヘロデに言われるままにメシア誕生の地を明かしてしまった。
・また、博士たちは人間的には最もおられそうなエルサレムの王宮、ヘロデのもとを訪れたのであった。ベツレヘムにいるということ以上は知ることはできなかったが、彼らがヘロデの下を出発した時、かつて彼らを導いた星が再び現れ彼らを導いた。件(くだん)の子どもは王の宮殿にいるという博士たちの思い込みが、星を通して与えられていた神さまの導きを見えなくしてしまったのである。しかし、自分たちの思いを離れた時、再び神さまの導きを知ることができるようになったのである。
●2023年12月31日の説教要旨「恵みの上に恵みを」ヨハネ1:14〜17
・今年は7月にファミリー音楽会、秋には井口一江姉の洗礼式を行うことが出来た。感謝な一年であった。私たちは今年も多くの恵みが与えられた。平穏と見える一年であってもそれ自体が主の恵みに守られてのことである。恵みの上に恵みが与えられると言うときに、持っている者はますます与えられるということを覚えたい。
・私たちにとって、何と言っても大きな恵みは主イエスの十字架と復活によって与えられた罪の赦しとそれによる神さまとの交わりの回復である。クリスマスで神さまは私たちにご自身の大切な子を人の手に委ねて下さった。また、その御子は私たちに神のみこころを教え、それだけでなくて、私たちが罪のために受けるべき刑罰を身代わりとなって受けて下さった。そして、三日目によみがえって下さった。十字架と復活、それが私たちに与えられた一番大きな恵みだと言うことができる。
・恵みということは、上位者が下位の者に対して与える贈り物である。水が上から下に流れるように、高き所にいます至高の神の御前でへりくだるときに小さな被造物、罪ある者に過ぎない私たちに与えられるのである。
●2023年12月24日の説教要旨「飼葉桶に眠る救い主」ルカ2:1〜7 
・先週は、受胎告知から学んだ。マリアが知らせを受け取ると、御使いはマリアから去っていった。それは、マリアと神さまとの関係の妨げとならないようにということであったのであろう。私たちも交わりに中で自分が与えられた分を超えないように気をつける必要がある。
・さて、本日の箇所。福音書記者ルカは、主イエスの出来事を綿密に調べ、できるだけの方法で主の歴史性、実際に生まれ、生きたことを指し示している。霊的な領域だけでなく、知的な領域も用いられる。
・ヨセフとマリアは、予想された困難な中に歩んで行った。
主の導きは道が開かれることで知らされることもあるが、みこころを成し遂げるために困難を乗り越えることが必要とされる時もある。平安と確信が与えられ、みこころと思いながら歩んでいく時も困難に直面するときに、時には心が萎え、心が折れてしまうようなこともある。しかし、神さまはそのようなときにも、励ましや助けを与えてくださるのである。
・主イエスが生まれたのは、宮殿の中ではなく、宿屋でさえなかった。誰でもが来ることのできる家畜小屋で飼葉桶に寝かされた。望みさえするならばだれでも来ることができる場所、それが家畜小屋であった。また、それは父なる神が大切な御子を人の手に委ねてくださったことを意味している。主イエスが私たちの心にも住んでくださるよう祈る者でありたい。
●2023年12月17日の宣教要約「マリアへの御告げ」ルカ1:26〜38
・ガブリエルはマリアに「おめでとう」とあいさつをしたが、それは中心的なメッセージでもあった。なぜならそれは「主があなたと共におられる」という根拠があるからである。
・続けて御使いはマリアに受胎を告げる。処女懐胎、あるいは処女降誕の告知である。そして生まれる子に旧約聖書のヨシュアにあたるイエスという名前を付けるように言った。その名の意味は「主が救ってくださる」というものである。
・マリアはひどく戸惑ったが、その思いを率直に御使いに告白した。御使いは、その告白に対して解決の三つの手がかりを示した。第一に聖霊の臨在と導きに信頼することである。第二は同じ恵みのみわざに与っているエリサベツの存在に目を留めることである。そして最後には神の語られたことばに信頼することである。(このことの後実際にマリアはエリサベツのもとに行き、交わりの時を持っている。)
・マリアは自分自身を「私は主のはしためです」と言う。それは自分の歩みを完全に主に委ねるという信仰の告白である。私たちも神を私たちの主人として、信頼して歩む者となりたい。
●2023年12月10日の宣教要約「ザカリヤへの御告げ」ルカ1:5〜23 
・先週から待降節に入りました。教会ではアドベント・キャンドルに一本一本火を灯していきます。今日、第二主日に灯すキャンドルは天使のキャンドルと言われ、平和を意味しています。ウクライナだけではなくガザ地区にも戦いが拡がっている昨今ですが、来年こそ平和が訪れることを願うばかりです。・
今日の箇所には祭司ザカリヤとエリサベツの夫婦が登場します。「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落ち度なく行っていた。」と記されています。彼らには子どもがなく、二人ともすでに歳をとっていました。
・しかし、ザカリヤが香を炊くため神殿入って行ったとき、そこに御使いが現れ、主がザカリヤたちの夫婦の願いを聞いてくださり、子どもが与えられること、そして、その名をヨハネと付けるべきことを告げました。
・ザカリヤはその御告げを信じることができませんでした。しかし、神さまは確かに彼らの願いを聞いてくださったのでした。彼らが願った時にではなく、神さまご自身のよしとする時にみわざをなしてくださったのです。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

神はまた、人の心に永遠を与えられた。

しかし人は、神が行うみわざの

始まりから終わりまでを見極めることができない。

伝道者の書 3:11
●2023年11月26日の説教要旨「備え日の翌日」マタイ27:57〜66
・アリマタヤのヨセフは主イエスの亡骸の下げ渡しをピラトに願った。主イエスの死が予想外に早かったことに驚きながらも、ピラトはそれを許した。ヨセフは自分のための用意していた新しい墓にその遺体を納めた。その日は備え日であったので正式な埋葬はせずに墓を大きな円盤状の石で閉じた。
・マタイは明くる日を「安息日」と書かずに、「備え日の翌日」と書き、祭司長とパリサイ人たちが安息日の侵したことを敢えて触れなかったようである。安息日はユダヤ人たちにとって文字通り死守すべきものであり、彼らもその意味を十分に理解していた。そうであったにもかかわらず、その日、彼らは異邦人であるピラトの下に行き、主イエスの弟子たちが主イエスの遺体を盗み出して復活を擬装するのではとの恐れを打ち明けたのであった。ピラトはそれを受けて、番兵を出すことにした。彼らは祭司長たちと共に墓に行き、墓を塞ぐ石に封印をした。
・しかし、そのような封印もやがて破られたのである。それは当時ローマに支配されていたユダヤで起こった歴史の一コマである。しかし、それが一般には不可能とされる復活も神の御力(みちから)によって実際に起こったと信じるように導かれることが大切である。
●2023年11月19日の説教要旨「平安に至る絶望の叫び」マタイ27:45〜56
・主イエスは、十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。親しい交わりを保って来られた父なる神との交わりの断絶への絶望の叫びであった。祭司長や律法学者たちは主イエスがエリヤを呼んでいると言い、ある者は苦痛の軽減を図るための酸いぶどう酒を差し出したり、「エリヤが救いに来るか見るとしよう」と見物をしていた。主イエスは再び大声で叫んで、神に霊を渡された。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。この出来事は、神と人との間にあり、交わりを妨げていた壁が、神の側から取り去られたことを意味している。そのとき、聖なる人々のからだが生き返った(彼らは主イエスの復活の後、多くの人に現れた。)また、十字架を見守っていた者たちは、非常に恐れ、「この方は本当に神の子であった」と言った。
・さて、冒頭の主イエスの叫びは詩篇22篇の冒頭である。主イエスの叫びは22篇全体を指し示すものであった。それは、確かに絶望で始まってはいるが、最後には、「王権は主のもの。・・主のことが 世代を越えて語り告げられます」と主の恵みが溢れることを歌っている。主イエスの絶望の叫びは、絶望で終わるのではなく、勝利と賛美への序曲なのである。
・私たちも困難や苦難の中にある時、その先にある希望を思い見るものとされたい。
「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。ローマ8:18」
●2023年11月12日の説教要旨「あなたが神の子なら」マタイ27:39〜44
・十字架につけられた主イエスを通りすがりの人たちはののしり、祭司長たちは嘲った。彼らは「もしおまえが神の子なら」あるいは「『わたしは神の子だ』と言っているのだから」と言っているが、それは間違いなく事実であった。
・「神殿を壊して三日で建てる人よ」という彼らのことばも、主ご自身のよみがえりによって成就している。また、福音書記者ヨハネは「イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」と書いている。(ヨハネ2:19〜22)
・ルカの福音書には共に十字架についた犯罪人について、マタイの福音書より詳しく記されている(ルカ23:39〜43)。共に十字架につけられた二人の犯罪人のうちの一人は、もう一人が主イエスを罵るのをたしなめただけではなく、主イエスに「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言った。そのとき、主イエスは彼に「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのであった。
・このことは、主イエスを信じ告白しさえすれば救われること、信仰義認ということを如実に物語っている。
●2023年11月5日の説教要旨「主にあって眠った人たち」召天者記念礼拝
Ⅰテサロニケ4:13〜18 
・キリストにあって死んだ人々について確認したい。パウロはここで死を眠りと言っている。しかし、それは死という現実に目を背けて言っていることではない。キリストにある死者が必ずよみがえるという確信の現れである。死はキリストが再び来られるまでの眠りであって、決して永遠の眠りではないのである。
・その時、私たちより先に眠った人たちも、また私たちもよみがえりが与えられ、新しいからだを着て、新しい天と新しい地に住むことが許されるのである!そこでは、私たちが経験するような困難や苦しみ、悲しみはもはやない。
・神が私たちの神となり、またともに住んでくださることは、出エジプト記の幕屋が、また、イエス・キリストのご降誕が指し示していることである。それは、神が人を造られたときの原初の姿であり、ゴールなのである。主イエスはご降誕と受難、そして復活によって、その道を開かれたのである。イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)」
・さて、私たちは信仰を告白せずに先だった親兄弟、知人友人を慮る。確かに主イエスを通してでなければ御国に至ることはできない。しかし、死の間際にその人が主イエスを告白することも十分にあり得り、それは神さまだけが知っていることである。そういう意味でも、救いや死後のことについては神さまにお委ねすべき事柄である。
●2023年10月29日の説教要旨「十字架にかけられた救い主」マタイ27:27〜38
・10月15日に読んだみことばマタイ27:25「すると、民はみな答えた。『その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。』」について、一言加えておきたい。
・「その人の血は私たち・・の上に」ということばは、その責任は自分たちの上にという意味である。実際、この後、紀元70年に起こるエルサレムの破壊は、このみことばの成就とする向きがある。
・しかし、それだけでは終わっていない。「血の責任」と言えばそうかも知れないが、「血の注ぎかけ」であるとしたら、どうだろうか?ヘブル人への手紙にはこのようなみことばがある。「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか(10:22)。」
・「血が降りかかる」ということは、死の責任が問われるということだけではない。祭壇をはじめとする礼拝に用いるものはすべて、いけにえの血によってきよめられたのである。
・そのように、主イエスの血は「イエスを十字架につけろ」と叫んだ者たちを断罪するだけの血潮ではなく、罪の赦しをもたらす血潮、罪をきよめ、聖なるものとする血潮でもあったのである。
●2023年9月24日の説教要旨「ペテロの否認」マタイ26:69〜75 
・召使いの女の「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」とのことばがペテロを追い詰めていく。ペテロの返事のそれに応じて強くなっていくが、論理性を欠いていく。「何を言っているのか、私には分からない」とペテロ。さらに、別の召使いの女のことばには、「そんな人は知らない」と答えた。
・証言者と認められなかった女のことばにさえ動揺している弱いペテロがいる。
・さらに別の人々がペテロに近づいて来て「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる」と言われて詰め寄られると、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。このことばもガリラヤなまり丸出しであったのだろう。そのとき、鶏が鳴いた。マタイ受難曲の中での鶏の声は何か憂いを含んでいるように聞こえる。ペテロは鶏の鳴き声に主イエスのことばを思い出し激しく泣いた。
・人は聖霊によらなければ「イエスを主」と告白することはできない。鶏の声は古いペテロの終わりを告げるものということができる。主イエスと一緒なら死んでもいいと言っていた勇ましいペテロは、信じている自分を信じていたのである。信仰で大切なことは―だれを信じているかが大事なのである。
●2023年9月17日の説教要旨「不正な裁判」マタイ26:57〜68
・主イエスの逮捕を受けてユダヤ人による裁判が行われた。昼間行われるはずの裁判が夜行われた。さまざまな偽証がなされた後、大祭司自身が主イエスに「おまえは神の子キリストなのか」と問いかけた。主イエスが「あなたの言ったとおりです」と答えた時、大祭司は衣を裂き「なぜ、これ以上の証人が必要か。」と言い、主イエスを死刑に定めた。死刑に定められた主イエスに対して、そこにいた人々は侮辱の限りを尽くした。
・二千年前に私たちがそこにいたとしても同じようにしたのではないか。主イエスはこのような侮辱に耐えられた。それは、罪人である私たちのための苦しみであった。今朝のみことばの箇所は、適用めいたことは見当たらない。イザヤ書53章に預言されている苦難の僕の姿がそこにあるだけである。主イエスは、一切の誇りが取り除かれ、神のみこころのままにと屈辱に耐えてくださったのである。
●2023年9月10日の説教要旨「ユダの裏切り」マタイ26:47〜56 
・主イエスが一人祈り、弟子たちが居眠りから覚めたころ、イスカリオテ・ユダが主のみもとに来た。それは裏切りの実行であって、決して悔い改めではなかった。主イエスが普段夕食の後を過ごされるいつもの場所、讃美と祈りの場所・ゲッセマネにいらっしゃった。ユダはそこに祭司長や民の長老たちから遣わされた群衆を引き連れて来たのであった。
・またもユダは主イエスを「先生」と呼んだ。主イエスはこの後に及んでもなお当時のラビと弟子の習慣に従って「ラビ」との呼びかけに「友よ」と答えられた。
・ユダは主イエスに「こんばんは」(原文では「喜びがあるように」ヘブル語訳では「平安あれ」)と続けたが、主イエスは「あなたがしようとしていることをしなさい」(「2017」の注や「第3版」では「何のために来たのですか」)と問いかける。ここには滅びるユダへの愛と嘆きを見ることができる。
・この危機に際しても、主イエスはご自身の持っていらっしゃった神としての御力を用いにならなかった。「剣をもとに納めなさい」と弟子にお命じになった。それは剣の「あるべき場所」である。主イエスにとって、剣は脅したり、人を傷つけたりするためのものではなかった。また、剣で傷ついた兵士の傷をお癒しになった。
・「ごいっしょなら死ぬ覚悟はできています」と言っていた弟子たちさえも逃げてしまった。
・一連の逮捕の場面で主イエスの主導性を見ることができる。それは同時に救いのご計画の主権である。
●2023年9月3日の宣教要旨「ゲッセマネの祈り」マタイ26:31〜46
・主イエスのゲッセマネの祈りから祈ることを学びたい。祈りは神との人格的な交わりであるから、祈りの現場でしか学ぶことができない。今日の箇所は主イエスの究極の祈りの現場である。
・さて、主イエスは11人の弟子たちと共にゲッセマネに赴いた。そして、さらにペテロとゼベダイの二人の子・ヤコブとヨハネの三人の弟子を同行させたが、最後には主イエス一人が父なる神に向かわざるをえなかったのであった。本来ペテロたちは、とりなしの祈りをするためにその場に導かれていたのであろうが、その責を果たすことができなかったのである。
・主イエスは三人の元に行くたびに彼らの居眠りしている姿を見たのだが、だからと言って十字架をお受けになる思いは揺るがされることはなかった。むしろ、その祈りは深くなって、父のみこころを受け取るに至った。祈りの内容に初め「できることなら、過ぎ去らせて(39)」くださいというものであったが、眠っている弟子を見、最終的には「過ぎ去らないのであれば、みこころの通りに(42)」と変えられて行ったのである。
●2023年8月27日の宣教要旨「取って食べなさい」マタイ26:26〜30/Ⅰコリント11:23〜27
・種なしパンの祭りと過越の祭りは本来別の祭りであるが、一連の祭りとして考えられるようになったようである。いずれにしても、この種なしパンの祭り/過越の祭は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が、モーセに導かれてそこを脱出しことを記念するものであった。また、その祭りは奴隷生活を後にして、神の民として生きる出発の時でもあった。彼らはシナイの荒野で十戒などの律法を与えられ、神の民としての生き方を教えられ、整えられていった。しかし、彼らは度々、真の神を捨て、偶像礼拝に陥っていった。その度に主は預言者などを送り、悔い改めに導いていった。そしてついに、新バビロニアによって、エルサレム/南(ユダ)王国は滅ぼされるに至った。帰還を許されたイスラエルの民は、今度は極端に律法を守る生き方をしたが、それも逆の極端であって、神のみこころにかなうものではなかった。・弟子たちは主イエスとともに最後の晩餐の食卓についた。それは、過越の食事ではなく、その前日であったと考えられる。そこで主イエスは聖餐式を定められた。それは旧約聖書の契約に代わる新しい契約である。その契約に必要な犠牲は、過越の羊が屠られる日に十字架に付けられた主イエスご自身なのである。
●2023年08月20日の宣教要旨「まさか私では」マタイ26:20〜25
・主イエスは種なしパンの祭りの最初の日に、過越の食事をする場所を指示している。主イエスの最後の晩餐はいつであったかの新約聖書の大きな研究テーマだと言われているが、ここでは割愛する。・その日の夕方、十二弟子と一緒に食卓についた。その席で主イエスは、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と語られた。十一人の弟子は一人一人「主よ、まさか私ではないでしょう」と口々に言った。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」と主イエスは言う。それは日本風に言えば「同じ釜の飯を食う」という意味である。・弟子の最後にユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。「先生」という呼び掛けは原語では「ラビ」である。「ラビ」とは律法の一教師でしかない。いわば旧約の信仰の域を出ていなかったのである。ちなみに他の十一人、彼らは口々に「主よ」と呼んだ。それは旧約聖書では「神である主」への呼びかけであった。それはイエスをキリストと認める信仰の立った告白であった。・このイエスをキリストとして、主としていつも告白することができるように祈りたいものである。
●2023年8月13日の説教要旨「神の家に住む幸い」詩篇84
・詩人は「なんと慕わしいことでしょう。」あるいは「なんと幸いなことでしょう」と神さまのみそばにいることの幸いを繰り返している。詩人はここで神さまを「万軍の主」と呼ぶ。万軍とは、天の星々や御使い、軍勢の主という意味でも用いられるが、森羅万象を指している。詩人は「天地万物を創造し、今もそれらを治めておられる万軍の神、主に呼びかけている。・主の御住まいは神を礼拝する場所であり、その中心である祭壇は、犠牲をささげなければならないという痛みの場所であったが、神と交わることを知った詩人にとってそこは、よろこびと感謝の場所なのである。詩人はそれを「雀さえも、住みかを 燕も ひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。」と歌うのである。・次いで詩人は「その力があなたにあり 心の中にシオンへの大路がある人は。」と歌う。それは、詩人がすべてのできごと、自分がなさなければならないことであれ、苦難であれ、そのすべての意味を神さまとの関わりの中に見出しているということある。・詩人は「なんと幸いなことでしょう。 あなたに信頼する人は。」でこの詩を閉じる。それは詩人が日々、主の御手の守りと主の視線を感じて歩んでいるという信仰の告白である。
●2023年8月6日の説教要旨「動き出した受難への道」マタイ26:14〜19
・十二弟子の一人であったイスカリオテのユダが祭司長たちのもとへ赴いた。祭司長は、銀貨三十枚を彼に渡した。それ以来、ユダの主イエスを見る目は変わってしまった。ユダは主イエスを引き渡す最善のタイミングを見計らうようになっていたのである。ちなみに銀貨三十枚は奴隷の代価と同額である。ユダを主イエスの真の同志とする見方は全く聖書の記述に反している。
・ユダを十二弟子の一人として主イエスが選んだのは、ミスキャストであったのだろうか。そもそも弟子とは師と寝食を共にし、師のものの考え方、見方を学んでいくのである。主イエスが十二人を弟子として選んだのは、ご自身のそばに置き、愛を注がれるためであり、また人々への愛の思いを共有するためであった。主イエスは自分を愛し尊敬する者だけではなく、自分を裏切る者にさえも愛を惜しみなく注いだと考えることができる。
・ユダが主イエスを引き渡すタイミングを見計らうようになった一方で、主イエスは弟子たちに、過越の食事の準備をするように言いつけた。そしてそこで、聖餐式が制定された。私たちが守る聖餐式が何よりも主イエスの愛を土台とした契約を思い起こすときであるこを覚えさせていただきたい。
●2023年7月30日の説教要旨「この人の記念として」マタイ26:1〜13
・J・S・バッハはマタイ26章以降を歌詞の一部にして大曲「マタイ受難曲」を書いた。壮大な導入合唱のあとに「これらのことを語り終えられると、イエスは弟子たちに言われた」と曲は進んでいくのである。さて、主イエスが「オリーブ講話」を語り終えたということは、地上で弟子たちに教えるべきことすべて終えたということであり、いよいよ主イエスの地上生涯のもう一つの目的、「ピリポ・カイザリアの信仰告白」以来予告して来た受難へと向かうのである。・祭司長、民の長老たちが主イエス殺害へ準備を進める一方で、主イエスはベタニアで香油注ぎを受けられる。弟子たちはそれを「無駄」といって憤慨したが、主イエスはそれを喜ばれ、「この人の記念として語られる」と語る。主イエスの福音書の中に自分ことが記されているとしたら、何という幸いであろうか。・香油は普通、石膏の壷に入れられているので、用いられるためにはその壷は砕かれなければならない。私たちも主に用いられるためには砕かれなければならない。・「記念」ということについて。教会では、いわゆる「命日」を「記念日」と呼ぶことがある。主のもとに召された人のことを神さまへの感謝と共に思い起こす時とするのである。
●2023年7月23日の説教要旨「羊とやぎを別つもの」マタイ25:31-46
・人の子(イエス・キリスト)は再びこの世に来られて、栄光の座に着かれる。その時、人々を二つにお分けになる。
・まず、羊として右に置かれた人たちを祝福し、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。・・・あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、・・・牢にいたときに訪ねてくれたからです」と言う。しかし、羊たちは「主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、・・牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」と問い返す。王は「あなたがたが、これらの兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と答える。
・やぎに対して王は、永遠の火に入れとさばき、あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与えず、・・・牢にいたときに訪ねてくれなかったからです」と言う。
・両者を別つものは、やぎが行為に訴えているのに対し、羊はむしろ、自分の行った行為さえ気づいていなかったことにある。やぎは、自分がそうしなかったのが、いつの出来事か問いける。
・このたとえによれば、人が隣人にすることは、そのまま神さまに対してしたことになる。私たちの隣人はそれぞれが神さまに造られた、愛されている尊い存在だと言うことを心に留めたい。
●2023年7月16日の説教要旨「あなたはタラントをどう使うか」マタイ25:14-30
・主イエスは、神の国をそれぞれの能力に応じてタラントを三人のしもべに預けて旅に出た人にたとえている。主イエスの時代と現在とでは経済状況が違うので簡単には比較できないが、一番少なかった1タラントでも六千万円ほど。委ねられた額の大きさを覚える。
・5タラント、2タラントを預けられたしもべたちは、それで商売をして、二倍に殖やしたが、一タラント預かったしもべは地面に穴を掘ってそれを隠したという。
・清算の時、5タラント、2タラントを預けられたしもべたちは、同じほめことばを頂いて、さらに多くのものを任されることが約束され、「主人の喜びをともに喜んでくれ」と言われた。それはしもべという隷属的な立場から主人側の立場に移されることも意味している。
・一方、一タラントのしもべは、この期に及んで主人への不審を露わにした。主人は持っていたタラントを取り上げて十タラント持っているものに渡すように宣告した。
・ここからまず、私たちには自分では乏しいと思っていても豊かな賜物が与えられているということ、そして、それを用いるべきことを教えられる。またさらに、神さまは信じる者には恵み深いが、信じない者に対しては厳しいおかたであるということである。
●2023年7月9日の説教要旨「『さあ、花婿だ』という声に」マタイ25:1〜13
・オリーブ山講話の結論は、弟子には忠実さが求められるということで、留守をする主人としもべのたとえであり、25章の三つのたとえに進んで行く。その最初が十人の娘たちのたとえである。
・賢さと愚かさの分かれ目と予備の油の有無であった。それは花婿の到来が遅れなければ、決して顕れなかった違いであった。
・しかしそれは、油の多寡ではなく、予備の器の有無と見ることができる。と言うのは、当時使われていたともしびはそのまま油の補給はできても、火がついたままそのともしびから他のともしびに油を分けることができない構造になっていたようである。
・それゆえ、花婿の到来の声とともに、愚かな娘たちは油を買いに行かざるを得なかったのである。しかし、残念ながら、愚かな娘たちは祝宴の戸が閉ざされるのに間に合わなかったのであった。
・賢い娘たちは間に合ったが、ともしびの構造上、助けることができなかったのであった。彼女たちは自分の限界を知っていたのである。それだけでなく、どこで油を求められるかを知っていて、それを愚かな娘たちに指し示したのであった。
・聖書では油は聖霊の象徴として用いられている。ここではそう考えにくいが、もし、聖霊と考えるなら、聖霊なる神さまご自身にこそ、聖霊を求めるべきと言うことである。
●2023年7月2日の説教要旨「オリーブ山講話(3)」マタイ24:29〜51 
・オリーブ山講話の終末に関する部分の前半をまとめると、まず世の終わりに七つの前兆が現れることが語られている。偽キリスト、戦争と戦争のうわさ、飢饉と地震、これらはまだ「生みの苦しみの初め」である。これらに、弟子への迫害、背教と裏切り、偽キリスト、道徳の退廃が続く。
・そして主は「荒らす忌まわしいもの」について語られた。それは、アンティオコス・エピファネスのエルサレム占領(B.C.176)で一度成就しているが、さらにエルサレムの破壊(A.D.70)でさらに成就した。また、さらに成就があるのかも知れない。
・そして、終末には反キリストが出現するという。天地の崩壊を経て、人の子が出現する。そして、選びの民が四方から集められるのである。ラッパ(角笛)が響き(イザヤ27:13)、人々が主を礼拝するために集まって来る。
・主イエスは、世の終わりを迎えるに当たっての注意を語る。それは、時は近いので、前兆を悟るように、その時を知るのは父だけであること、また、弟子たちに忠実であるようにたとえをもって教えている。
・主イエスの再臨が近いことを理由に、この世の勤めをおろそかにする人々がパウロの時代にもいた。しかし、私たちは信仰に励みつつも、与えられた世の勤めにも励むものでありたい。
●2023年6月25日の説教要旨「オリーブ山講話(2)」マタイ24:15〜28
・主イエスのオリーブ山講話は、この世の終わりに実現する出来事であるとともに、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊というかたちでも実現している。「荒らす忌わしいもの」はエルサレム神殿に異教の神の像が建てられたことを指している。
・その時の対応の対応について、」主イエスはすぐに避難するように命じている。そして、その時にもなお起こる苦難を主は預言している。その苦難は、選ばれた民も経験するものではある。しかも、「その日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。」とさえも語られている。さらには、偽キリストや偽預言者たちが現れて、選ばれたたみをも惑わそうと、大きなしるしや不思議を行うと言われている。
・それらのことは、別の見方をすれば、終わりの日とその日に臨みながら気づかない人々がいるということを意味している。私たちは、主のあわれみによって、主イエスを知り、またそのみことばによってこの世の終わりを知らされた者として、その日に備え、また、御救いを津が知らされる者とされよう。
●2023年6月18日の説教要旨「オリーブ山講話(1)」マタイ24:1〜14
・マタイの福音書24章には、「オリーブ山講話」と呼ばれる説教が記されている。マタイはその福音書の中に「山上の説教」に始まる五つの説教を納めているが、その最後のものがこの「オリーブ山講話」と呼ばれるものである。
・弟子たちがヘロデ王の建てた神殿を見て感嘆したことをきっかけとしているこの説教は、その破壊、そしてこの世の終わりが重なり合って語られている。
・その初まりは、偽キリストの到来と出現であり、戦争やその噂。民族の対立や地震の発生などであり、そのような天変地異はそれ自体心を揺さぶられるものではある。しかし、主イエスはそれを世の終わりの初めに過ぎないと語られた。
・私たちの時代もまた、戦争の噂や実際の戦争、また地震など、これらに当てはまる事件を多く経験している。しかし、そうした出来事自体に心揺さぶられるのではなく、しっかりとみことばに立って、この時代を生きる必要がある。また、弟子たちがそうであったように。人の手の技の素晴らしさに心奪われるのではなく、主のみこころに心を向ける者でありたい。
●2023年6月11日の説教要旨「パリサイ人批判(3)」マタイ23:29ー39
・本日の箇所は、主イエスがパリサイ人に「わざわいだ」と語りかけた最後の部分である。ユダヤ人の王国には過去、預言者たちが送られた。イスラエル王国はダビデの子、ソロモンの死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、それぞれが多くの国家存亡の危機を経験し、イスラエルはB.C. 732年ないし722年にアッシリアによって、ユダはB.C.586年新バビロニアによって滅ぼされた。そのような中に預言者は遣わされ、南のエジプトでも、北のアッシリアや新バビロニアにでもなく、真の神に着くように呼びかけたのである。
・もし自分が同時代にいたらと考えるが、私たちは必ずしも過去に遡る必要はない。ウクライナ侵攻の中にあって、武器を取らないことを呼びかけられるだろうか。大いに問われることである。
・日本の教会も第二次世界大戦中に宮城遥拝を拒絶しなかったという負の歴史を追っていることを思い起こさなければならない。
・「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。1テモテ2:1, 2」のみことばを心に留めたい。
・主の「エルサレム、エルサレム」との呼びかけは断罪する叫びではなく、嘆きの声である。同じように主は、私たちのこの国をもあわれんでくださっているのである。
●2023年6月4日の説教要旨「パリサイ人批判(2)」マタイ23:13〜28
・本日は教会暦では「三位一体主日」である。ペンテコステ(聖霊降臨主日・祭)の次の主日を三位一体という教理を特別に覚える日としている。父なる神と御子なるイエス・キリストから教会に聖霊が降されたことをしっかりと覚えたい。
・主イエスはパリサイ人、律法学者に対して七回「わざわいだ」といって憚らなかった。彼らに対して主イエスは、「御国の戸を閉ざしている」、「改宗者を得て、彼をゲヘナの子とする」、「目の見えない案内人」、「正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」、「内側は汚れでいっぱいの白く塗った墓」と詰っている。
・目の見えない案内人という非難のもとに、彼らの誓いの教えが取り上げられている。神殿にかけて誓っても何の義務ものないが、神殿の黄金にかけて誓うなら、果たす義務があるというようなものである。
・マタイはその福音書の23章からパリサイ人や律法学者に対して主イエスが厳しく批判されたことを記している。その理由はマタイが彼らへの批判を読者と共有して溜飲を下げるためではない。むしろ、自分たちの心のうちにパリサイ人的なもの、律法学者的なものが巣食っていないかを探らせるためであった。
・私たちにも神さまの導きに従わないで言い逃れるような律法主義がないか心探られたいものである。
●2023年5月27日の説教要旨「聖霊の降臨」使徒2:1〜16 
・本日は聖霊降臨主日(ペンテコステ)である。主イエスがよみがえられてから50日目に、父と子から聖霊が地上の教会に与えられたことを記念する日である。
・旧約聖書の時代、聖霊は預言者たち(時にそうでない人々にも)が神のみわざをなすときやメッセージを語るとき降された。そして、「終わりの日=新約聖書の時代」には信じるすべての人に与えられると約束されていた(ヨエル2:28〜32)。
・主イエスが地上に来られたとき、主イエスは父が「もう一人の助け主」を信じるすべての人に与えると約束された(ヨハネ14:16)。
・そしてその約束は、二千年前のペンテコステに成就した。聖霊は教会に与えられ、教会の肢体(からだ)である私たち一人ひとりに与えられた賜物である。それは私たちを主イエス・キリストの十字架と復活の証人とするのである。
・短く東北ミニキャラバンの報告をしたい。三陸での主のみわざは、2011年3月の東日本大震災に対するOMFによる被災地支援から始まった。全世界からの献金が寄せられてOMFは緊急時支援として釜石、山田などに拠点を設けた。日本での宣教活動のための団体であるOMFはやがてその働きを終えることになるが、その働きを通して芽生えた福音への重荷を、一般社団法人・いっぽいっぽ岩手とJECA岩手開拓伝道委員会に委ねた。いっぽいっぽ岩手も緊急時被災地支援の働きを終えて、今、その働きを岩手開拓伝道委員会・三陸のぞみキリスト教会に委ねている。本多がこどもの国キリスト教会に赴任する前後に、開拓伝道委員会設立に際し委員に加わるように声がかかり今に至っている。三陸のぞみキリスト教会リスト教会に集う求道者の中からイエスさまに対する確かな信仰告白に導かれ、今年の夏に洗礼式を行うことが決まった。現地としてもまた、委員会としても、もちろん天においても大きな喜びである。
●2023年5月14日の説教要旨「パリサイ人批判(1)」マタイ23:1〜12
・主イエスは、パリサイ人・律法学者たちに対して批判をしている。この箇所から御声を聞いていきたい。律法学者たるためには四十歳以上であることが必要であったようである。また、律法を教えることによって対価を得てはならなかった。それは賄賂によって目を眩まされてはならないためであったと思われる。
・彼ら律法学者に対する主イエスの批判の第一は、人々に重荷を負わせるが、自分ではそれに指一本も触れようとしないということであった。今風に言えば、寄り添うことをしないということである。
・第二は、祈りの時に額と左手に着ける聖句の小箱をことさらに大きくしたり、衣の房を長くしたりするということがあった。それは彼らの「祈っています、みことばに従っています」という見栄のためであることを主イエスは見抜いておられた。
・主イエスは、地上の誰もラビ(わが主人、私の偉大な方)、父、師(導き手)と呼ばれてはならないと言われた。それは逆に、パリサイ人らがそのように呼ばれていたことを示している。主イエスは、神こそが真の導き手であることを明らかにされている。終末には反キリストが現れると言われているが、その際の「反(アンティ)」は「〜に代わる者」、はっきり言えば、「偽キリスト」という意味になることもある。
・私たちはいずれの意味にしても「アンティキリスト」になるのではなく、主イエス・キリストを指し示すものとされたい。
●2023年5月7日の説教要旨「なぜキリストはダビデの子なのか」マタイ22:41〜46
・主イエスは、集まっていたパリサイ人に対して、「キリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか」と問いかけた。彼らは、おそらくは即座に「ダビデの子です」と答えた。そこには、メシアが自分たちの中から現れるという誇りがあったように思う。しかもそのメシア像は、軍事的か政治的かは分からないが、力によって当時支配されていたユダヤの地をローマの支配から取り戻す政治的、あるいは軍事的な力を持った者であった。主イエスは43節以下でダビデ自らがメシアに言及している詩篇で、メシアを私の主と呼んでいることから、メシアがダビデの末裔であることに疑問を投げかける。
・それでは「ダビデの子」とはどう意味であろうか。それはダビデの信仰を受け継ぐものという意味ではないだろうか。彼は人として完全なものではなかった。彼は罪を犯すものであった。しかし、彼には罪を罪と示してくれる友がいたのだし、その告発を受け止め、悔い改めて神に立ち返る者であった。
・罪を犯されなかった主イエスに悔い改めということはありえない。しかし、ゲッセマネの園での三回に亘る祈りに見るように、絶えず父なる神に聞いていくということにおいては悔い改めに通じるものがあるのではないだろうか。
●2023年4月30日の説教要旨「一番大切な戒め」マタイ22:34〜40
・律法の専門家が主イエスに一番重要な戒めは何かと問いかけた。その問いかけは、当時の律法学者たちの議論の中心であったと言われている。彼らは旧約聖書に積極 的な戒め248と消極的な戒め365の計613の戒めを見出しその中で重要なものは何かを議論していたという。
・主イエスは、第一に申命記6:5のいわゆる「シェマア」、すなわち「聞きなさい、イスラエル」からの戒め、二番目に大切な戒めとしてレビ記19:18を挙げ、この二つの戒めが律法と預言者(=旧約聖書)の全体にかかっていると教えられた。
・律法学者にとって戒めを守ることはそれだけのことであったかも知れないが、新約聖書は、それを「神を愛すること」としている。人間にとって、神を愛することは神の愛を受け入れることであるが、Ⅰコリント13章と共に愛について教えているⅠヨハネは、「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。(Ⅰヨハネ5:3)。」と語っている。さらにⅠヨハネ4:19〜21は目に見える兄弟を愛することは、目に見えない神を愛しているかどうかの指標としている。
・人が神の戒めを守ろうとするとき、戒めをも守ったという達成感どころか、自分自身の罪深さやそれを解決し得ない絶望感さえ覚えるのではないだろうか。しかし、それを解決してくださるのが神の救いのみわざであることを覚えたいものである。
●2023年4月16日の説教要旨「生ける神との出会い」マタイ22:23〜33
・今日の箇所ではサドカイ人はレビラート(義兄弟、夫の兄弟)婚を取り上げて主イエスを試みてきた。レビラート婚とはその「家(の名前)」を途絶えさせないための制度で、長兄が死んだ場合、その弟が兄の妻にするというものである。申命記25章に規定されているもので、それが実際に適用されているのが、旧約聖書のルツ記である。
・モーセ五章のみを聖書として受け入れていたサドカイ人たちは、レビラート婚が行われた場合、復活の際は妻であったその女性はだれの妻となるのか、そう問いかけた。実は彼らは復活も信じてはいなかったので、この問いかけは、復活を揶揄するものでもあった。
・主イエスは彼らに答えられた。それは、復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく天の御使いのようであるということ、また、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であるというものであった。
・主イエスを信じる私たちは死んだ後も神のもとで生きる希望を持つことができるということである。
●2023年4月9日の説教要旨「主イエスはよみがえられた」マタイ28:1〜15
・本日は復活主日(イースター)。キリスト教会にとってクリスマス以上の大切な祝祭である。主イエスのおよみがえりには主イエスの受難が先立っている。主イエスはご自身の御力や御使いの助けによって逮捕を逃れることもできたのであるが、敢えてそのようなことをせずに、不当な裁判とその判決に身を委ねられたのであった。
・十字架につけられた時でさえも、そこから降りることができたにもかかわらず人々の嘲りに身を任せたのである。そして、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、人類のー私たちのすべての罪をその身に負われたのであった。
・主イエスの弟子となっていたアリマタヤのヨセフがポンテオ・ピラトに遺体の下げ渡しを願い、聞き入れられ、自分のために掘った墓に埋葬したのであった。
・安息日が明けた朝、マリアたちは遺体を正式に葬るために墓に行ったが、墓は空であった。戸惑う彼女らに主イエスは「喜びがあるように」と呼びかけ、自らの復活を告げた。
・ガリラヤで復活の主に出会った弟子たちであったが、そこでもなお疑う者がいたことをマタイは伝えている。主イエスのおよみがえり、また、その死が私たちの罪の身代わりであり、そのおよみがえりは永遠のいのちの補償であるということは聖霊の働きによって初めて信じることができるのである。
●2023年4月9日の説教要旨「主イエスはよみがえられた」マタイ28:1〜15
・本日は復活主日(イースター)。キリスト教会にとってクリスマス以上の大切な祝祭である。主イエスのおよみがえりには主イエスの受難が先立っている。主イエスはご自身の御力や御使いの助けによって逮捕を逃れることもできたのであるが、敢えてそのようなことをせずに、不当な裁判とその判決に身を委ねられたのであった。
・十字架につけられた時でさえも、そこから降りることができたにもかかわらず人々の嘲りに身を任せたのである。そして、十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、人類のー私たちのすべての罪をその身に負われたのであった。
・主イエスの弟子となっていたアリマタヤのヨセフがポンテオ・ピラトに遺体の下げ渡しを願い、聞き入れられ、自分のために掘った墓に埋葬したのであった。
・安息日が明けた朝、マリアたちは遺体を正式に葬るために墓に行ったが、墓は空であった。戸惑う彼女らに主イエスは「喜びがあるように」と呼びかけ、自らの復活を告げた。
・ガリラヤで復活の主に出会った弟子たちであったが、そこでもなお疑う者がいたことをマタイは伝えている。主イエスのおよみがえり、また、その死が私たちの罪の身代わりであり、そのおよみがえりは永遠のいのちの補償であるということは聖霊の働きによって初めて信じることができるのである。
●2023年4月2日の説教要旨「神のものは神に」マタイ22:15〜22
・本日は教会暦では「棕櫚の主日」と呼ばれている。イエス・キリストがエルサレムに入って来たことをお祝いする日である。当時の民衆はキリストがローマの支配を打ち破る王として来られることを期待していたが、主イエスは平和の象徴であるロバの背に乗って来られた。その時に群衆は道に自分の上着や木の枝(棕櫚の葉)を敷いてお迎えしたので、この日が棕櫚の主日と呼ばれるようになったのである。
・さて、その日から数日後、普段は水と油のように反発し合っていたパリサイ人とヘロデ党の者たちがことばの罠に陥れるために主イエスに問うて来た。それは税金(人頭税)を納めることは律法に適っているかどうかという問いかけであった。もし「適っていない」と答えれば、時の政府に反旗を翻すことになる。反面、「適っている」と答えればパリサイ人たちの反発を買うことになる。いわば「究極の選択」であった。
・主イエスはデナリ銀貨を見、そこにカエサルの銘を見て取って、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われた。主イエスの答えに当時の人々は驚いたと言われる。
・1テモテ2:1で王や高い地位にいる人々のために祈るように語られている。私たちも選挙や行政が公正になされていくように社会や国家のために祈り、また、生活のあらゆる面に神の主権を認めつつ歩む者とされる必要がある。
●2023年3月19日の説教要旨「披露宴のたとえ」マタイ22:1~14
・主イエスは、神の国を息子の披露宴に客を招待した王にたとえられた。初めに招待を受けた人々は、開宴を知らせる王のしもべを無視したり、辱めたり、殺しさえした。王は怒り、彼らを彼らの町もろとも滅ぼしてしまった。王はしもべたちに大通りに出て行って、どのような人でも人々をその披露宴の客として招き入れるように命じた。
・その結果、披露宴は客でいっぱいになったが、その中にただ一人、婚礼の服を着ていない客がいた。王は彼に「友よ。どうして婚礼の服を着ないで、ここに入って来たのか」と問いかけた。何も答えずに黙っていた彼を、王はしもべたちに命じて手足を縛り、外の暗闇に放り出すように命じた。たとえはそのようなものであった。
・当時、このような披露宴では、厳密な時は知らされないこと、また、披露宴の礼服は招いた側が準備しているのが常であつた。このたとえには、王の寛大さと最初の客たちや礼服をあえて着なかった客の理不尽さと彼らへの厳しいさばきがあること、また、ふさわしくない者をも招いていてくださっている父なる神のご愛が示されている。
・婚礼にふさわしい衣装を着ることは、主イエスを、新しい人を着ることであり、それは主イエスご自身の死とよみがえりによって備えられていることを覚えたい(コロサイ3:10)。
●2023年3月12日の説教要旨「ぶどう園のたとえ」マタイ21:33〜46
・主イエスは一つのたとえを語られた。ぶどう園を造って農夫に貸して旅に出たある家の主人がいた。収穫の時が近づいたとき、主人は収穫の分前を受け取るべく使いを送ったが、件(くだん)の農夫たちは使いたちはおろか、主人の一人息子さえも殺してしまったというものであった。主イエスはこれらの農夫たちに対する扱いを聞いていた人たちに問いかけた。厳しい裁きをと彼らは答えた。
・しかし、主イエスは物語の意外な展開を指し示した。それは「家を建てる者たちが捨てた石、それが要石(かなめいし)となった」というものであった。「要石」とは石造りの建造物を安定させている石である。どんなに不安定な建造物もその石によってしっかりと安定している、それが要石である。
・ぶどう園はイスラエル、使いたちは預言者たち、そして最後に送られた息子は主イエス自身を指している。祭司長たちは悪い農夫が自分たちを指していること悟り、怒りを覚えたと思われるが、群衆を恐れて主イエスに手出しできなかった。
・「この石の上に落ちる」また、「この石が上に落ちる」とは、否定的な意味ではなく、人がイエス・キリストと何らかの仕方で出会うことを意味している。そして、その結果は心砕かれて主の救いの恵みに与るものとなるのである。
●2023年3月5日の説教要旨「ぶどう園の主人の息子たちのたとえ」マタイ21:28〜32
・ぶどう園の主人は二人の息子にぶどう園に行って働くように言った。兄は「行かない」と言ったが、結局働きに行った。しかし、弟は「行きます」と言いながらもいかなかった。主イエスはどちらが父の願った通りにしたかと祭司長たちに問いかけた。彼らは兄の方ですと応えた。・主イエスは、バプテスマのヨハネを受け入れなかった民の長老たちを働きに行くと言っても、結局行かなかった弟に重ね合わせているのである。・私たちキリスト者は交わりの中で自分の罪の姿を知らされて行くことが多い。しかし、交わりがなかったり、表面的なものであったりすると、自分の罪に対しては十分な理由があるのであるが、人の罪に対しては、それがどれほど小さなものであっても、釈明を許さないものである。
●2023年2月26日の説教要旨「何の権威によって」マタイ21:23〜27 
・普段は敵対している祭司長たちと民の長老たちがいっしょになって主イエスの元にやって来た。それはみことばを聞くためではなく、主イエスが語る権威を問うためであった。「問う」と言うのは綺麗事で、実は主イエスが宮の中で語るのをやめさせるためであった。この背景には「ダビデの子にホザナ」と叫ぶ子どもたちの声があった。・しかし、彼らは思わぬ逆襲にあった。それはヨハネのバプテスマの権威を問うものであった。群衆と主イエスへの恐れから彼らは「天から」とも「地から」とも答えることができなかった。・そのような問いかけに対して主イエスは「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」と答えられた。そこには本当の自分を見つめることを知らない人には応えないという主イエスの姿勢がある。・ところで、祭司長たちには明らかにされなかった主イエスの権威は何だったのだろうか。それは言うまでもなく、父なる神の権威である。それを聖書では、「父なる神の御名」という言い方がされる。詩篇23篇では、「主は私のたましいを生き返らせ/御名のゆえ私を義の道に導かれます。」とある。主という神の名前の意味は「他のものを存在させる、生かすもの」という。ここでは、その名にふさわしく羊/人を救うことが明らかにされている。
●2023年2月19日の説教要旨「信じて祈り求めるなら」マタイ21:18〜22
・主は一本のいちじくの木を枯らされた。ショッキングな出来事である。しかし、この記事を理解するためにはこの地のいちじくの性質を理解する必要がある。パレスチナのいちじくは年に二度(6月と8、9月頃)実を結ぶと言われている。主イエスがこのいちじくをご覧になったのは、過越の祭りの時期であるから3月末から4月中旬ということになり、本来なら実を着けていない、そして葉もない時期であった。そのいちじくが葉を着けていたので主イエスはそこに実をも期待したが、実は見出すことができなかった。それは形ばかりで実質を伴わない礼拝をささげるイスラエルを示していたのであり、それが枯らされたことはイスラエルへのさばきの厳しさを示すものであった。
・弟子たちは主イエスの指し示したこの「たとえ」よりもいちじくが枯れたことに心を奪われた。主イエスはそれを受けて、「信じて祈り求めるなら何でも受けることになります」と教えられた。
・その約束は私たちにも与えられている。しかし、疑わずに信じるということに困難さを感じることが多いのではないか。私たちの救いがそのように信じることにかかっているなら、救いの確信が揺さぶられるかも知れない。しかし、Ⅰコリント12:3には「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」と言われている。私たちが信じるということ、私たちが信仰に導かれたということは、そこに私たちの意志や知性の働きもあったが、何よりも聖霊なる神さまの働きがあったのである。「信仰とは私たちの内になされる神さまのみわざである」と言われている。・聖霊の最も重要な働きは、罪を認めさせること、その罪の重さを認めさせることである。それは人にとって一番困難なことかも知れない。それは自分に与えられるさばきを認めることになるからである。しかし、御霊は同時に主の十字架による確かな罪の赦しを悟らせてくださるのである。
●2023年2月12日の説教要旨「宮きよめと子どもたちの讃美」マタイ21:12〜17、詩篇46:1〜3
・主イエスの時代、神殿で羊や牛を売り買いすることやローマと神殿に捧げるためのユダヤ人の貨幣であるシェケルに両替することが神殿でなされていた。それは神殿に礼拝に来る人たちのための便宜を図ってのものであった。しかし、良い動機や必要から始まったものがやがて変質し、強盗のような人間の欲望があからさまになってくる。主イエスの「わたしの家は祈りの家」との宣言は、そうしたものからの決別を意味している。
・目の見えない人たちなどが神殿に詣でる人々の情けに縋るようにそこに連れて来られていた。主イエスはそうした人々を癒された。それは、彼らの問題の決定的解決であった。
・子どもたちの讃美は大人たちの真似でしかなかったかも知れない。しかし、幼い讃美、拙い信仰の告白も主イエスは受け入れて下さっている。
・その後、主イエスはベタニヤに行かれた。ベタニヤとは「悩みの家」「貧困の家」という意味と考えられている。主イエスは形式的な礼拝が行われている神殿よりも具体的な信仰生活が為されている市井を休みの場として選ばれたのである。
●2023年2月5日の説教要旨「ろばに乗って来られる王」マタイ21:1〜11
・子ろばの背に乗ってエルサレムに入場される主イエスの記事は、受難から一週間前の出来事であった。主イエスはその出来事を、ろば調達のために二人の弟子たちを「向こうの村」に遣わすことから描き出している。それはゼカリヤの預言の成就であり、主イエスが平和の君として来られたことを指し示すものであった。それは力によって救いをもたらすのではなく、神の力による平和をもたらす者としての凱旋であった。
・主イエスを迎える群衆(彼らの多くはガリラヤからついて来た人々であった)は、上着をろばの上に掛け、また服や山から切って来た枝を道に敷いた。それはこの群衆が主イエスを王として受け入れることを意味していた。
・一方、エルサレムに住んでいた人々は「この人はだれなのか」と群衆に聞き、「ナザレの預言者」という回答を得ていた。「群衆」ではなくこの人々が一週間立たないうちに「十字架につけろ」を叫んだと思われる。
・主イエスは「預言者」と言うに留まる群衆を受け入れ、自分を必ずしも歓迎しなかった人々をも受け入れてくださったことを心に留めたい。
●2023年1月29日の説教要旨「二人の盲人の癒し」マタイ20:29〜34、詩篇119:18
・エリコを出た主イエスに大勢の群衆が付き従った。彼らは主イエスの教えを聞き、なされるみわざを見る者もいただろうし、主イエスの評判を語る者もいただろう。そのような人々の動きに盲人たちはただならぬものを感じ、人々に語りかけたことだろう。盲人たちはこの話から主イエスがメシアであることを悟ったに違いなかった。
・盲人たちのうちに、この方ならば自分たちの目を見えるようにしてくださるかも知れないという期待が育って行った。彼らは主イエスを「主よ(キリエ)、ダビデの子よ」と呼び、「あわれんでください(エレイン)」と叫んだ。この「あわれむ」ということばは、一時の感情だけでなく何かをして上げたいという思いである。その派生語をパウロもテモテへの手紙の冒頭で用いている。
・主イエスは「深くあわれんで」彼らの目に触れられた。主イエスのあわれみの御手に触れられ、いやされたこの二人の盲人は主イエスについて行った。それは主イエスのあわれみのみわざに対する全人格的な応答であった。
●2023年1月22日の説教要旨「ほかの十人の立腹 」ローマ4:25、マタイ20:24〜28
・ゼベダイの子ら以外の十人が立腹した、その理由は彼らの抜け駆けであった。彼らは主イエスの選ばれた十二弟子であった。弟子とは「学ぶ者」、師を「真似る者」という意味であり、福音書を読んでいくならば、特別にそばに置き訓練し、ご自身の権威を委ねると言われていると共に、ご自身の愛を特別に示す対象とされていたのである。それは主イエスと弟子との一対一の関係でなされていくだけでなく、弟子たちの相互の関係でも実現されるべきものであった。それが互いに競い合ってしまうのであれば、主が弟子を選ばれたこのご計画は解する危機にさえあった。
・そのような状況を見て取って、主イエスは弟子たちの間に介入された。それは、異邦人の王たちやこの世の支配者との違いを指摘するものであった。しかも、ご自身の人生、この世に来てくださった目的が、しもべとして仕えることであるばかりか、ご自分のいのちを人々の贖いのために捧げることでもあったのである。
・私たちも主の弟子として主イエスと同じ生き方に召されていることを覚えたい。
●2023年1月15日の説教要旨「受難予告の陰で」マタイ20:17〜23、イザヤ55:8〜11 
・「親切な雇い主」のたとえの後に、主イエスは三度、ご自分の受難と復活の予告をされた。過去2回は、それぞれご自身がキリストであることを示した後であり、エルサレムへの旅立ち(それは受難と復活に直接つながっている)という主イエスの公生涯の歩みの新しい段階への進行を示していた。その予告に当初は当惑した弟子たちであったが、今回は違った。むしろ、メシアの死は御国の到来をもたらすという当時のことばに踊らされたものだった。
・ゼベダイの息子らは、ほかの十人の弟子より素早く反応し、御国で主イエスの左右に座るということ(それは高い地位を求めることであった)を求めた。
・主イエスが自分に与えられた杯を飲めるか?と問うが、それに対して「できます」と言い切るぜべダイの子らであった。確かに彼らは主イエスの復活の後、確かに殉教や迫害を受けるが、それはゲッセマネでの敗走・裏切りを経てのことであった。主イエスは御国で主の左右に座る人は御父の決めることと語った。そして、何よりも主イエスが来た目的が、人に仕えることであることを明らかにされたのであった。
●2023年1月8日の説教要旨「博士たちの礼拝」マタイ2:1〜12 
・本日は教会暦では公現日とされ、東方の博士の来訪と礼拝を記念する日で、聖書の救いが広く異邦人にも及ぶことが明らかにされた日とされている。
・東方の博士たちは、場所は特定されていないが、メソポタミアのどこかからユダヤ人の王が生まれるという天体現象を見てエルサレムにやって来た。彼らの「王としてお生まれになった方」と投げかけに対して、ヘロデはそれをはっきりと「キリスト」と認識した。それは彼にとって自らの地位を脅かす存在であった。彼はキリストに対する殺意を隠しながら博士たちを送り出した。
・博士たちが星を通して神に導かれて、ベツレヘムでイエスを見出したとき、彼らは「ひれ伏して、礼拝した」と言われている。彼らは、王にふさわしい黄金、礼拝のための乳香、そして死者の埋葬に用いる没薬を捧げた。特に没薬は主イエスの使命が死を通して全うされることを示唆している。
・主イエスへの礼拝を終えた博士たちは夢でヘロデのところには戻らないように示され、来た時とは別の道を通って帰っていった。それは王の命令に背くということは危険を孕むことであったが、博士たちは怯まなかった。それは自分の知恵によって生きて来た彼らが、キリストとの出会いによってまことの神に聞き従う生き方に変えられたことを物語っている。
●2023年1月1日の説教要旨「事を行わせる神」ピリピ2:13、イザヤ54:2
・「一年の計は元旦にあり」と言う諺があるように、一年の始めに何かの目標を設けることは有益と言われる。教会も同様である。「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。(箴言29:18A)」と言われている通りである。ここで言われている「幻」とは、神の導きやみことばである。私たちの教会も今年、また23年度に向けて主の与えてくださる「幻」を求めるものとさせて頂きたい。
・パウロは、神は「志を立てさせ、事を行わせてくださる方」ということ言っている。みこころにかなった「幻」、あるいは「志」を立てさせてくださる。それは、主がなしてくださったみわざを、とりわけ、昨年一年間に与えてくださった恵みを思い返し、期待していくことであり、また、一年の歩みの悔い改めるペきことを悔い改め、赦しと癒しを与えられて行くことである。
・私が、今年、あるいは23年度のために主が導いてくださっていると思い巡らしているのはイザヤ54:2である。この、幕屋、天幕は彼らの生活と休息の場、あるいはそこに身を避けてきた人を受け入れ守る場所である。天幕が大き<なればなるほど、しっかりとした綱と杭が必要である。それは主との交わりと主ある兄弟姉妹との、みことばによる交わりである。
●2022年12月25日の説教要旨「闇の中で輝く光」ヨハネ1:1〜5、ルカ2:1〜7 
・ヨハネの福音書は、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と書き始められている。新改訳聖書第三版までには注として「『ことば』は『キリスト』のこと。したがって『初めに』はキリストの永遠的存在を意味する」と記されている。
・また、ここで用いられている「ともに」ということばは、「(何かに)面して、向かって」という意味もあることばであり、その二つのものが、(実際は三位一体の神の交わりではあるが)交わりの中にあった事を意味している。
・そのことばが、いのちであり、光でもあった。それは死すべきものを生かすいのちであり、暗闇の中にあって消え去ることのない光であった。
・そのことば、いのち、光であるお方が、この世にひっそりとお生まれになったことを記念するのがクリスマスである。この方が生まれたときに、野宿で夜番をしていた羊飼いたちに御使いがその誕生を知らせるとともに、天の軍勢が「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」と神に栄光、人々に平和があるよう賛美しつつ、預言している。
・このイエス・キリストこそが私たちの人生や心の闇を照らす真の光なのである。
●2022年12月18日の説教要旨「ヨセフへの御告げ」マタイ1:18〜25
・当時のユダヤ人にとっての婚約は、一緒に生活することは許されないものの結婚に近い拘束力を持つものであったと言われている。そのような中でのマリアの妊娠(懐胎)は一大事であったと言うことは想像に難くない。マリアの許嫁の夫ヨセフは正しい人であっただけに、難しい決断を迫られていた。
・そのようなヨセフに対して主は夢を通しての御告げを与えられた。それは、マリアの処女懐胎とやがて生まれる方がメシアであること、さらにはそのメシアの果たすみわざを告げるものであった。福音書記者マタイはこの出来事がイザヤの預言の成就であることを指摘している。
・マリアに告げられたメシアの名は「イエス」で、イザヤの告げた「インマヌエル」とは異なっている。「インマヌエル」とは「神は私たちとともにおられる」という意味で、「イエス」とはヘブル語の「ヨシュア」をギリシャ語に音訳したものであり、その意味は「主は救い」である。それらは相矛盾するものではない。それは「私たちと共におられる神(インマヌエル)が救い主である」と言うメッセージを明確に伝えている。神から離反し、罪を犯していたイスラエルにとって、神がともにおられると言うことはさばかれるのではという恐れを伴ったものであったかも知れない。しかし、神がこの世に来てくださって、 救いのみわざをなしてくださったのである。
・マリアやザカリアと違って、ヨセフには夢でみこころが示された。それは、その時代の霊的貧困・不毛さを反映している。現代もその時と同様、いやそれ以上に霊的に貧困な時代であろう。その解決は日々、みことばに触れて行くことにある。
●2022年12月11日の説教要旨「エッサイの根株からの新芽」イザヤ11:1〜10 
・預言者イザヤは、イスラエルやユダが滅ぼされようとしている時代に、「エッサイの根株から新芽が生え」との預言をしている。現実的には絶望的な状況の中にあって、その絶望を超えてエッサイの家系=ダビデの家系からメシアが送られることを預言しているのである。
・イザヤは人間にだけではなく、「狼は子羊とともに宿り」と自然界にも目を向けている。それは、「救い」という出来事が、単に人間と神の関係だけではなく、自然界全体に及ぶということを意味している。逆に言えば、人間の罪の影響が神と人間や人間同士にばかりではなく、自然界にも及び、今も及んでいるということを意味している。
・ある種の肉食動物は、自分では直接摂取したり、体内で作り出すことが出来ない栄養素があるため、どうしても他の動物を食べざるを得ないと言われている。しかし、「狼は子羊とともに宿り」というみことばは、そのような食物連鎖さえも解決してくださることが示されている。
・エッサイの根株、ダビデの子として来られる救い主はそのように拡がった罪の問題を解決してくださっているのである。
●2022年11月6日の説教要旨「金持ちが御国に入ることは」 マタイ 19:23〜30
・先週は、主のもとに永遠のいのちを求めて来た青年が、財産を売り払って、貧しい人に施し、そのうえで、ついて来なさいという主イエスのことばを聞いたときに、悲しみながら去って行ったということで終わった。今週は金持ちが御国に入る難しさは私たちに無関係ではないことを学びたい。
・「針の穴」をめぐって一つのエピソードがある。ある町の門の隣に「針の穴」という小さな門があった。夕方になると正門は閉じられ、「針の穴」からだけ出入りが許された。その町に金持ちがラクダに乗ってやって来た。ラクダは身を屈めて「針の穴」から入ることができたが、金持ちは正門から入ることにこだわって入ることができなかったというのである。私たちの持っているもの全ては神からのものである。私たちも「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言ったヨブの信仰を覚えたい。
・もう一つは、神にはどんなことでもできるとうこと。目に見えるもの、この世のものに囚われやすい私たちの心を変えて、主の僕、主を愛する者へと変えることができるのである。
●2022年10月30日の説教要旨「いのちを得るために」マタイ19:16~22
・一人の人が主イエスにちかづいて「『永遠のいのち』を得るためにはどんな良いことをすれば良いのでしようか」と語りかけた。ルカでは「指導者」と記されていることからも、彼が一角の人物であったことがわかる。幼い頃から律法を守って生きて来た彼であったが、永遠のいのちの確信がなかったのである。
・「何がまだ欠けているのでしょうか」問いかける彼に主イエスは一見すると律法を行う以上のことを要求しているようである。しかし、主イエスが彼に求めていることは、律法を与えられた神のみこころを知ることであり、彼がそのみこころからどれほど外れたものであるかを悟ることであった。
・彼は戒めを守ったと言うよりも、守ったことにしたに過ぎなかったのである。父なる神が律法を与えたのは、「守りました」と得意になって神の御前に立つのではなく、「私は罪人です。律法から、神のみこころから外れているものです」と御前に平伏すとき、主はあわれみ、受け入れて<ださるのである。
・この青年は主イエスの御前を悲しみながら立ち去って行った。マタイは「多くの財産を持っていたからである」と結んでいるが、財産を持っていたことそれ自体が問題なのではなく、御前を立ち去ったことこそが問題なのである。
●2022年10月16日の説教要旨「頑なな心の取り扱い」マタイ19:1~9
・律法学者・パリサイ人の主イエスに対する試みのことばが本日の聖書箇所。彼らは「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」と主イエスに問いかけて来た。この問については彼らの中で一定の見解を持っていた。それは「何かの理由があれば」離婚を可とするというものであった。しかし、問題はその「何か」であった。彼らは、パンを焦がす程度の日常のちょっとした落ち度、をその「何か」としていた。そのため実質的には無条件で離婚を許していたのであった。
・しかし、主イエスは結婚の起源まで遡り、安易な離婚がみこころでないことを明らかにされた。聖書の教える結婚、それは神の主権的な導きの中で行われているものである。それは人類の堕落前に定められた神聖とさえ言うことのできるものである。
・そのような「宣言」にさえも律法学者たちは食い下がって言った。それはあたかも男性側の権利のような言いようでさえもあった。それに対して主イエスは律法が与えられた背景、父なる神のみこころを知る者として語られたのである。
●2022年10月2日の説教要旨「七回を七十倍するまで」マタイ18:21〜35
・許しについて語られて来た中で、ペテロは、人が自分に罪を犯したとき、七回まで赦すべきでしょうかと主イエスに尋ねて来た。当時の律法学者は三回としていたようなので、ペテロ自身は「随分と寛容」と自分のことばに自信を持っていたようである。しかし、主イエスは、それを「七十倍するまで」と応えられた。それは言うまでもなく490回を意味するものではなく、無限の赦しを意味するものである。
・聖書の語る神の罪の赦しは、その罪を忘れ去ってしまうという側面を持っている。しかし、何回までという人間の赦しは、そのような意味では、本当の意味では赦しではないのである。赦しと言いながらも、一回一回断罪しているのが、人間の姿なのである。「赦す」ということと「我慢する」ということはまったく違ったこと、違った次元のことである。
・ここで語られた主イエスの喩えは、自分がそのようにされたように、自分も赦すべきことを教えているとともに、赦されたことは忘れやすく、その感謝も忘れやすいものであることを教えているものである。
●2022年9月25日の説教要旨「心を一つにして祈るなら」マタイ 18:15〜20
・今朝の箇所では、罪を犯した兄弟への扱いの原則が記されている。「あなたに対して」のない写本もあるが、新改訳2017のように「あなたに対して罪を犯したなら」と取るのが適切と思う。さて、その第一の対応は、二人だけのところで罪を指摘するというものである。以前の訳「責める」よりも柔らかく訳されている。あくまで相手が受け入れることができるような仕方で語っていくことが期待されている。
・それが受け入れられなかった場合、他に一人か、二人をそこに加えるように言われている。さらにそれが受け入れられなかったとき、教会に告げるようにと言われている。それは決して不特定多数に触れ回るということではない。教会はこの地上にあって罪を罪と正しく定めることが期待されている。ここで「あなたがた」と言われているのは「教会」を意味している。つまり、教会は、人を罪に定めるだけでなく、罪人のためにとりなすものとなることが期待されている。
・「あなたがたにもう一度言います」とは、この教会の使命を語っている。そしてそれは、地上にあって教会が一致して祈るべきことであり、20節に見るように主イエスの願いでもある。
●2022年9月18日の説教要旨「一匹の羊のもたらす喜び」マタイ18:10〜14
・迷い出た羊の喩えとその周辺を学ぶ。主イエスは弟子たちのだれが一番えらいのですかという問いかけに答えて、小さい者を軽んじてはいけないとおっしゃった。守護天使の思想が仄めかされているとも言われているが、新約聖書ではそれよりももっと明確に、聖霊なる神さまが私たちの内に住み、私たちのためにとりなしていて下さっていることが示されている。(ローマ8:9,10,26)
・当時の羊飼いは、一匹一匹に名前をつけていたと言われている。百匹もの羊を飼っているということは、ずいぶん大きな群れを買っていることになるだろう。(ヨハネ10:3) 
・ところで、残りの羊が残されたのは「山」であるが、そこは、マタイの福音書によるならば、「啓示」、や「教え」のための場所である。「九十九匹を山に残す」ということはみことばに委ねるということであり、決して残りのものたちに対する責任放棄ではない。むしろ、ルターをして「小聖書」と言わしめているヨハネ3:16の実践なのである。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
●2022年9月11日の説教要旨「避けられない躓き」 マタイ 18:6〜9
・前段で主イエスは子どもについて語ってきたが、6節からは小さい者たちについて主題を移す。小さい者とは、年端の行かない者だけでなく、信仰的に幼い者をさす。そのような者たちを躓かせる、つまり、罪を犯させる者は、「大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。」と語る。それは当時の死刑の執行の一つであったと言われている。
・さらに主イエスは、「つまずきを与えるこの世はわざわいです。・・・(7節)」と語った後に、手や足、目を失っていのちに入るほうが何も失われることなしに永遠の火やゲヘナの火に投げ込まれるよりよいと語っている。ここで注意したいのは、失われる主体が、小さな者から「あなた」に移っているということである。つまり、主題が子どもや小さい者から自分自身を躓かせることに移っているのである。
・躓きかねないものばかりでなく、人を躓きを起こしかねない者をも、主はあわれんでいてくださるのである。 わたしの目にはあなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4
●2022年9月4日の説教要旨「だれが一番偉いのか」マタイ18:1〜5
・今日の記事は、他の共観福音書に記されているが、神殿税をめぐるエピソードはない。それゆえ、「そのとき」とは、変貌の出来事の後、二回目の受難予告の後とすることができよう。彼らにとって、天の御国ではだれが一番偉いかということは真剣な議論の材料だったのである。
・主イエスは、一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、「向きを変えて子どものようにならなければ」そもそも天の御国に入ることができないと言われた。「向きを変える」とは、価値観や判断基準を変えることを意味にしている。主の呼びかけに、何の戸惑いもなく応えて、みもとに来る。主イエスの御声、そのみことばを最も大切なものとして行くことが大切なのである。
・さて、キリスト者にとって大事なことは、だれが偉いかということよりもむしろ、だれが一番愛されているかということかも知れない。自分が一番愛されているということを素直に受け入れたいものである。
●2022年8月28日の説教要旨「人を躓かせないために」 マタイ 17:22〜27
・主イエス一行はエルサレムへの最後の旅のために集まっていた。主イエスは、いわばその旅にあたっての訓辞としてご自身の受難と復活を宣言された。マタイは他の福音書記者と違って、神殿税をめぐってのエピソードを知らせている。
・神殿税を集める人たちがペテロに、主イエスたちが神殿税を納めるかどうかを尋ねて来た。ペテロは主イエスに相談することなく、払いますと答えてしまった。これは後のたとえから考えれば、またも「下がれ、サタン」と言われかねない先走りであり、同調圧力に負けてしまったことであったかも知れない。
・主イエスはペテロを「シモン」と呼び、税を納める義務のあるのは誰かと尋ねた上で、湖に行って釣りをし、最初に釣れた魚の口から神殿税を納める銀貨を得るように促した。
・ペテロの元の職業は漁師であった。しかし、彼らの漁の仕方は網を用いていた。そこには、主イエスの弟子となった彼らは魚を取るという彼らの慣れ親しんでいたことさえも新しい方法で向き合うようにとのメッセージがあると思う。
●2022年8月14日の説教要旨「エリヤを認めない律法学者」マタイ17:9〜13
・「そうすると」とは、ペテロたちが、旧約聖書の人物、とりわけエリヤを見たことを受けている。主イエスが示されたように、非業の死を遂げたバプテスマのヨハネが「エリヤ」であったならば、メシアの到来を期待することができる。メシアの到来は「エリヤ」の再来が前提となっているからである。
・ヨハネを「エリヤ」と認めないならば、主イエスもメシア足りえないというのが、パリサイ人・律法学者たちの理屈であった。ヨハネを再来のエリヤと認め、主イエスをメシアと悟るためには、聖霊が人々の上に臨まれることが必要であった。聖霊が臨まれる前の経験の意味が、聖霊の臨在によって理解されるのである。
・力による現状変更がまかり通りそうな昨今であるが、明日は、とりわけ平和を覚え、そのために祈ることが求められる終戦記念日である。この時代に生かされていることの意味を、神はどのような意図を持って私たちをこの時代に置かれたかを祈り求める日としたい。
●2022年8月7日の説教要旨「主イエスの変貌」 マタイ17:1〜8
・主イエスの変貌がなぜ起こったのか、その御姿をなぜ、ペテロたちにお見せになったのかを考えることも大切であるが、主イエスの地上生涯は主イエスがご自身の栄光の姿、栄光の座を去って地上に下された「謙卑」であったことをまず覚えたい。
・主ご自身の栄光の姿を示されたペテロであったが、主イエスをモーセやエリヤと同等に扱ってしまうという誤りを犯してしまった。また、三つの幕屋を建てる
ということも誤りであった。それは天井の栄光を地上に留めようとするものであり、偶像礼拝さえも招かねないものであった。そして何よりも大きな誤りは、自分の思いを先立てて、主のみ思いを聞こうとしないことにあった。神のご臨在を表す雲が彼らを覆ったとき、恐れに満たされたが、恐れることないと御声をかけてくださった。
・「神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空くして、…人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われた(ピリピ2:5以下参照)」主を見上げて歩んで行きたいものである。
●2022年7月31日の説教要旨「主イエスに従うということ」マタイ 16:24〜28
・マタイはペテロが主イエスを諌めた記事のあとに、「だれでもわたしについてきたいと思うなら・・」との記事を記している。それはペテロによって外れそうになった本来歩むべき道に再び立ち返って、いわば、再び歩き出そうとした主イエスご自身、また弟子たちの人生の方向性を確認し、再出発することを意味している。
・さて、「自分の十字架を負う」という言い方は、今日、人生の重荷を背負いながら歩いていくというような意味で普通使われている。当時、十字架で処刑される罪人は自分の十字架を少なくとも、その横木を刑場まで担って行かなければならなかった。「自分を生かす」どころか文字通り「自分を殺す」重荷を背負って歩いていくのである。「自分らしい生き方」、「自分の能力や賜物を生かす」ということがもてはやされる現代とは鋭く対照的である。
・主イエスは、本気で「父なる神のみこころにかなった生き方」を求め、弟子である私たちに対してもそれを求めたのである。しかし、私たちの担うべき重荷、くびきは主イエスもその一方を担っていてくださるのである。(マタイ11:28)
●2022年7月24日の説教要旨「下がれ、サタン」マタイ 16:21〜23
・「ピリポ・カイサリアの信仰告白」を境に、主イエスは弟子たちに対して、ご自身の受難と復活の予告を始められた。しかし、弟子たちの耳には「復活」ということばは響かず、むしろ、その受難と死のみが響いたようである。
・このことに真っ直ぐに反応したのはペテロであった。マタイは、ペテロが主イエスを「脇にお連れして、いさめ始めた」と記している。ペテロは主イエスをご自身の行くべき道から逸らさせた。その上に、直訳すると「あなたにあわれみがありますように」と語り、さらに「そんなことがあなたに起こるはずがありません」と加えている。
・主イエスは「振り向いてペテロに言われた」とあるように、そのようなペテロに対して、「向き合って」ペテロを諌められた。主イエスは、ご自分の地上生涯の目的を否定するようなことを語るペテロを「下がれ、サタン」という厳しいことばであったけれども、彼に向き合って諭してくださったのである。ここでの「サタン」とは「神のみわざをさまたげる者」という、いわば普通名詞として用いられていると考えられる。
●2022年7月17日の説教要旨「ピリポ・カイサリアでの信仰告白」マタイ 16:13〜20
・「あなたは生ける神の子キリストです」とのペテロの告白に対して、主イエスは四つのことを話された。
第一に「あなたは幸いです」と語り。「このことを明らかにしたのは天におられるわたしの父です」と言われた。それはペテロの人間的な洞察力の賜物ではないということを意味している。
・二番目に「この岩の上にわたしの教会を建てます」と宣言された。それは、ペテロ自身ではなくて、その信仰告白とその信仰告白を同じくする人々のうえに教会を建てるということであった。「岩の上に家を建てる」ということばは、山上の説教の最後のたとえ(7:24〜27)を思い起こさせる。このたとえに大雨や洪水はだれにでも押し寄せることを示している。しかし、この岩の上に建てられた家(教会や人生)は、倒れることがないというのである。
・三番目に主は、「よみの門も打ち勝つことはない」と語られた。教会は、いうまでもなく、死と沈黙への入口ではなく、いのちと賛美への入口なのである。(詩篇115:17, 18参照)
・最後に主は、「天の御国の鍵を与えます」と語る。この意味を理解するのは困難だが、「天においてすでに定められたことを地上で明らかにする」ほどの意味と思われる。
●2022年6月26日の説教要旨「パン種に気をつけよ」マタイ 16:5〜12
・主イエスは、パンを忘れた弟子たちに対して「パリサイ人、サドカイ人のパン種に注意しなさい」との注意を与えられた。パリサイ人やサドカイ人たちの教えを見極めなさいという意味であった。しかし、弟子たちは実際のパンがないことと勘違いをし、弟子たち同士で議論した。
・実際に主イエスがそこにいるのに、弟子たちだけで議論した。おそらくは責任の擦り合いをしていた。その議論を耳にして主イエスが弟子たちに声をかけられた。それは主イエスがかつてなさったみわざ、少しのパンで、四千人、七千人もの人々を養い、そればかりではなく、残ったパンくずで十二、あるいは七つのかごがいっぱいになったことを思い起こさせた。そして、パン種とはその教えのことなのだと悟ったのであった。
・パリサイ人・サドカイ人のパン種とは一体何だろうか。それは、形骸的な信仰、偽善的な信仰であることは言うまでもない。しかし、信仰の形骸化や欺瞞ということは、私たち自身もおちいりやすいものであることを知っておく必要がある。
●2022年6月19日の説教要旨「しるしを求める人々」マタイ 15:32〜16:4
・再び主は、男性だけで四千人もの群衆の空腹を満たされた。彼らは主イエスのみわざとみことばを慕って、主イエスについて来た人々であった。そうした群衆を主はあわれんで七つのパンと少しの小さい魚で彼らを養ったのであった。主イエスが祝福したパンと魚を弟子たちが配った。それは弟子たちに主イエスの働きの一部分を担わせるためであった。また、主イエスはみことばを聞いた群衆を解散させ、それぞれのいるべき場所に遣わしたのであった。
・パリサイ人・サドカイ人が一緒になって主イエスを訪れて来た。当時、神学的な立ち位置で対立していた派閥であったパリサイ人とサドカイ人の共謀を意味していた。そうしたユダヤ人たちが、主イエスにしるしをもとめて向かって来たのであった。主イエスに正しく向かわない彼らは、どのようなしるしを見せられても、主イエスを認めることが出来なかったのである。
・主イエスは、悪い、姦淫の時代に対しては、ヨナのしるししか与えられないと宣言なさった。それは、主イエスが十字架にかかって死に、三日目によみがえることを指している。それは究極のしるしであった。
霊的な姦淫とは、神さまを認めない、神でないものを神とすることである。今、私たちはそうした時代に生きていることを自覚したい。
●2022年6月12日の説教要旨「三位一体の神」ヨハネ 1:1, 2、17:1〜5
・私たち人間には一人に一人の人格がある、「多重人格」という状況も瞬間瞬間には一人に一つの人格が現れるだけである。しかし、聖書の神、真の神は一人でありながらも三つの人格(神格、位格、ペルソナ)を持っているのである。
・ヨハネ福音書は、「初めにことばがあった」と書き始めている。そして、「ことばは神と共にあった」「ことばは神であった」とヨハネは書き連ねている。3節以降を読んで行くならば、この「ことば」がキリストであることが判る。つまり神の御子であるイエス・キリストが初めから父なる神と共にいたと言われているのです。父なる神と御子キリストは、素晴らしい交わりの中にあったのである。
・その素晴らしい交わりに与るものとして、神は世界を、そして人を造られたのである。しかし、人間は罪を犯し、人間の存在と世界全体を汚してしまい、神にふさわしくないものとしてしまった。そのような人間と世界の贖いのために、父なる神はこの世に御子を贈られたのである。
●2022年5月22日の説教要旨「異邦人の子の癒し」マタイ 15:21〜28
・異邦人の地に行かれた主イエスにカナン人の女性がひたすらにあわれみを乞うている。その求めは「私をあわれんでください」というものであった。このことばはとりなしの祈りの姿勢を教えるものである。それは人の痛みを自分の心に引き受けての祈りである。
・このとりなしに主イエスは一言もお応えにならなかった。弟子たちは「あの女を去らせてください」と主イエスに願った。その願いの背後にはもしかしたらうるさくで仕方がないという思いがあったかも知れない。いずれにしても、その弟子たちのことばに主イエスは「わたしはイスラエルの失われた羊以外のところには、遣わされていません。」と応えられた。
・なお食い下がる彼女に「子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げてやるのは良くないことです」と語られた。しかし彼女はそのことばを受けて、「小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」この「小犬」ということばは可愛らしい犬というよりも「いぬっころ」というような意味も含むことばである。今日の箇所から最初にとりなしの祈りについて学んだが、ここでは自らのことを祈る、その姿勢を学ぶことができる。それは、自らを低くして、祈る ということである。
●2022年5月8日の説教要旨「真に人を汚すもの」マタイ 15:12〜20
・真に人をけがすものとは、何かということが本日の主題である。弟子たちは、パリサイ人が主イエスのことばを聞いて腹を立てていることを知り、彼ら自身恐れるとともにそれを主イエスに伝えた。主イエスの答えは「彼らのことは放っておきなさい」との答え、「盲人が盲人の案内をすれば、二人とも穴に落ちます」と結んでいる。
・パリサイ人についての主イエスの立ち位置を知ったペテロは主イエスの語ったたとえの説明を求めた。主は「人のうちにあるものが人を汚すのです」と解き明かした。人の心は絶えず悪に傾くものであるということである。人はたとえ美しいものを見ても、それを独占したいと思ったり、喜んでいる人を見ても、なぜ自分だけが苦しまなければならないのかと悪い思いで満たされたりするものである。
・何かが起これば、罪を犯してしまう、そんな人の姿を主イエスはどのような思いをもってご覧になったのだろうか。主イエスは彼らの正体を暴いて貶めようというのではなく、むしろ、その罪のために自分自身が罪のための宥めのささげ物にならねばならないという思いを硬くしていったのである。
●2022年5月1日の説教要旨「人の言い伝えと神の戒め」マタイ15:1〜11
・今朝は、「人の言い伝えと神の戒め」というタイトルでこの箇所を学んで行きたいと思います。当時の宗教の中心であったエルサレムからパリサイ人たちがやってきて主イエスに向かって「あなたの弟子たちは食事の時に手を洗わない。長老たちの教えを破るのですか」と言って来た。当時のパレスチナでの手を洗う、洗わないということは、衛生の問題ではなく、日々実践されるべき宗教的な儀式であった。そこにはもはや神さまとの生き生きとした交わりはなく、言い伝えを継承することでしかなかった。
・主イエスの反論は、「父や母を敬え」「父と母をののしる者は、必ず殺されなければならない」という聖書の教えがありながらも、「私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります」と宣言することによって、結果的に父母への贈り物をやめるという方法があったということである。人が父や母を憎んでいる時にこの方法を使えば、神への信仰という大義名分のもと、父母への渡すべきものをわたさずにいることができるのである。
・表面的なことばや行動ではなくて、心の深いところからの思いをもって神さまと人に使えるものとされたいと思うものである。
●2022年4月17日の説教要旨「イエス・キリストの復活」ルカ24:13〜35
・イースター(復活主日)は、地上に来られた主イエスが、私たちの罪の身代わりとして死んでくださり、蘇られたことを記念する、キリスト教会にとって最も大事な祝祭である。
・最初のイースターの朝、弟子たちは主イエスのよみがえりの知らせを女たちから受けた。その知らせは、とうの女たちも含めて、当惑させるものでしかなかった。私たちのことに当て嵌めれば、それが単なる「知識」でしかなかったということであろう。エマオの途上の弟子たちも主イエスのことを「預言者」と呼び、メシアであるということを信じていなかったのである。
・さて、旅路を進みながら主イエスに聖書を解き明かされた弟子たちは、主イエスにともに宿を取ることを願った。そして、夕食のパンを主イエスが裂かれ、祝福をしたときに、彼らの目が開かれ、その方が主イエスであることを悟ったのであった。よみがえりの主イエスは、神学的な議論の中にではなく、私たちの日々の歩みの中にご臨在されるのである。
●2022年4月3日の説教要旨「わたしだ。恐れることはない!」マタイ14:22〜33
・主イエスは五千人の給食を終えられると、群衆を解散させ、弟子たちを舟に乗せて先に行かせた。それはご自身が一人になって、山に上って祈られるためであった。ヨハネ福音書には、しるしを見、パンを得た人々が主イエスを王にしようとしたことが記されている。
・弟子たちだけで湖に漕ぎ出していった弟子たちは、風と波に悩まされる。弟子たちのうちの少なくとも四人はガリラヤ湖の漁師であったので、この湖のことを熟知していた筈であるが、その知識もこの事態の中では役に立たなかった。やがて主イエスは、湖の上を歩いて舟に近づいてこられた。それを見た弟子たちは、「あれは幽霊だ」とさえ言って恐れた。
・弟子たちに対して主は、「わたしだ。恐れることはない」と声をかけられた。「わたしだ」ということばは、ご自身が、出エジプト記に記されている、モーセにご自身を現された神である主であることを宣言するものであった。そして、そのご臨在を根拠に、「恐れなくてもよい」と弟子たちに語りかけたのであった。
・やがて落ち着きを得たペテロは主イエスに「水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。主イエスの応えを得て歩き始めたペテロであったが、風を見て恐ろしくなり、沈み始めた。しかし主イエスは、そのペテロに御手を伸ばして触れ、救ってくださった。
・今日のみことばから三つのことが教えられる。一つは、イエス・キリストこそ、「主」として旧約聖書で、イスラエル人にご自身を現した神。天地を造られた神、歴史を支配される神であるということ。第二に、私たちが遭う困難試練もご存知であり、それらを私たちの益のために備えられているということ。そして最後に、私たちにも御手を伸ばして救ってくださる方であるということである。
●2022年3月20日の説教要旨「五千人の給食」マタイ14:13〜21
・主イエスはバプテスマのヨハネの非業の死の知せを受けて、ご自分だけで寂しいところに出かけられた。それは父なる神との祈りの交わりのためであったと思われる。群衆はと言えば、主イエスに十分な暇を与えなかったようである。しかし、主イエスは彼らを憐れみ、受け入れ、「彼らの中の病人たちを癒やされた」のであった。
・夕方になったとき、弟子たちは主イエスに「群衆を解散させてください」と言った。人里離れた場所であったからであった。しかし、主イエスは弟子たちに自分たちで彼らに食べ物を与えるよう言われた。弟子たちは「五つのパンと二匹の魚しかありません」と応じたが、主イエスはそのパンや魚をご自身の元に持って来なさいと語られた。
・五つのパンと二匹の魚は男だけで五千人の群衆に対しては確かに少ないだろう。しかし、それを神さまの御手の中に差し出すとき、それは豊かに用いられるのである。私たちにとっての「〜しかない」は神さまの目には「〜がある」あるいは「〜もある」のである。
●2022年3月13日の説教要旨「ヘロデの恐れ」マタイ 14:1〜12
・ここ登場する領主ヘロデは、ローマの強大な権力を後ろ盾にしてユダヤを治めていた。しかし、彼は主イエスの噂を聞くにつけ、「あれはバプテスマのヨハネがよみがえったのだ」と恐れた。それはヘロデがヨハネを殺してしまったからである。
・権力を握っていたヘロデであったが、ヨハネを預言者だとする群衆を恐れて、ヨハネを殺したいと思っていたが、捕らえはしたものの殺すことはできなかった。また、自分の誕生日のお祝いの時にヘロディアの娘が母にそそのかされてヨハネの首を願ったときも、列席者を恐れて、心を痛めつつもそれを与えてしまった。彼は真に恐れるべき神さまではなくて、人々の目を恐れたのであった。
・失意のうちにバプテスマのヨハネを葬ったヨハネの弟子たちは、イエスを訪れ、この経緯を報告したのであった。このできごとの後、主イエスの宣教の対象は会堂にいる人々から、市井の人々へと変わって行くのである。
・主イエスはご自分の逮捕や裁判、そして十字架を前にして、弟子たちに、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に勝ちました」と語られた。
 いくつかの箇所で「強くあれ」と命じつつ、主は共にいてくださることを約束されている。ここではさらに「世に勝った」(裁判でいう「勝訴」)と言ってくださるのである。
●2022年3月6日の説教要旨「近親者のつまずき」マタイ 13:53〜58
・第三の説教である天の御国のたとえを語った後の最初の働きの場所は主イエスの郷里であった。郷里の人々は主イエスのみわざ、みことばを聞きながらも、これらの知恵や力をどこでどのようにして得たのかと互いに問い、そのことが障害となって、素直にみことばを聞いたり、みわざを喜ぶことができなかった。
・どれほど大きな力あるわざが行われようとも、どれほど深いみことばであっても、それを受け入れる側が、疑い、心を閉ざしてしまうなら、四つの種のたとえのように実を結ぶことができないものである。
・むなしく地に落ちたような主イエスのことばであったが、主イエスの復活の後、主イエスの兄弟ヤコブやユダは信仰が与えられて、エルサレム教会の指導者となり、殉教している。人間的には解決不能の不信仰のスパイラルであるが、聖霊なる神さまが働かれるときに、信仰に導かれる。
・私たちを取り巻く現実は厳しい面もあるが、「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」と語ってくださっている主に期待して行きたいものである。
●2022年2月27日の説教要旨「神の国のたとえ(4)」—真珠商人のたとえ マタイ 13:44〜52
・本日は、隠された宝のたとえ、真珠商人のたとえ、そして地引網のたとえから学んで行きたい。宝が隠されていた畑を見つけた人は持っているもののすべてを売って、それを買うという。また、高価な真珠を見つけた真珠商人は、持っていた物のすべて売払いてそれを買うと言うもの。自分の持っているものを売り払って買って余りある価値が、その宝物、すなわち、天の御国にはあると言う。三番目のたとえ、それは地引網のたとえであるが、この世の終わりのさばきを指し示している。
・これらのたとえがみな分かりましたかと弟子たちは問われているが、彼らの応答は「分かりました」というものであった。
・これらのたとえを語ったのち、主イエスは「御国の弟子となった学者」のたとえを語る。学者とは、ものの真贋や価値を正しく判断することのできる者である。
・正しいものを正しいとし、偽りを偽りとすることができる判断力、しかもこの世の中だけではなく、永遠に関わる問題として、そういった判断力は神さまから来る。
●2022年2月20日の説教要旨「神の国のたとえ(3)」マタイ 13:31〜35
・本日は、からし種のたとえとパン種のたとえから学びたい。からし種は胡麻粒よりもさらに小さいものである。以前奉仕していた教会では、こぼれ種が芽を出し教会の二階の天井に届くほどになった。小さいものが生長して大きくなるのである。パン種のたとえ、それはわずかなもの、しかも他と区別がつきにくいものがそこにあるだけで、膨らんで大きくなる。いずれのたとえも初めは小さくて、目立たなくても、やがて大きくなると言うことが表されている。天の御国、それは神さまのご支配や御救いと言うこともできる。小さな決意、信仰の告白が人の人生全体を変えるものとなっていくと言うのである。
・私自身も中三の秋に信仰告白の祈りをした。紆余曲折を経て献身のめぐみに与った。そればかりでなく、受洗することさえ反対していた両親も入信し、洗礼の恵みに預かった。
・主イエスはすべてをたとえで語るとイザヤに預言されていたことを成就された。たとえを用いなくても、人と人との間のコミュニケーションが成り立つためには共通の理解や土台が必要であり、わかる人にはわかるが、わからない人にはどうしてもわからないということがある。みこと
ばの真理を知るためには聖霊なる神さまの助けが必要なのである。
●2022年2月13日の説教要旨「神の国のたとえ(2)—毒麦のたとえ」マタイ 13:24〜30、36〜43
・マタイは畑の毒麦のたとえを記すとともに、弟子たちの願いに応えるかたちで主イエスの説明をも記している。このようにたとえ話の解き明かしを聞くことができるのは弟子の特権であった。
・その解き明かしは;地は世界であり、そこに人の子によって良い種が蒔かれていたが、いつも間にか悪魔が毒麦の種を蒔いていった。やがて畑に毒麦が現れたとき、しもべたちはすぐに刈り取ろうとするが、主人は借り入れの時まで待つように言う。そして刈り取り、すなわち世の終わりのときに、まず毒麦が集められて束にされて火の燃える炉に投げ込まれる。良い麦=正しい人たちは父の御国で太陽のように輝く。
・このような話を聞くと、自分は果たして大丈夫だろうかという不安を感じる人もいるかも知れないが、信仰告白の源が 聖霊なる神さまにあることを知っておくことが助けになる。パウロは言う。「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語るものはだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」1コリ12:3このみことばに信頼し、信仰の歩みを進めたい。
●2022年2月6日の説教要旨「神の国のたとえ」マタイ13:1〜23
・主イエスは湖に舟で少しだけ漕ぎ出された。群衆は岸辺に立ってみことばに聞き入った。これは天然の音響装置であった。主はそのように群衆たちがみことばを聞くことが出来るように最大限の備えをされた。しかし、そのみことばを悟るものは少なかった。むしろ、弟子たちさえも主に解き明かしを求めたのであった。
・主イエスは弟子たちに、道に落ちた種から始めて、岩地に落ちた種、いばらの中に、あるいは上に蒔かれた種、そして良い地に蒔かれた種と解き明かされていった。それによって、種そのものは変わらないものであって、問題は種を受け入れる地、私たちの心そのものがどうあるかであることを示された。
・ところで、当時のパレスチナの耕作法では、まず種が蒔かれ、その後に土地が耕されたと言われている。そうであるとすれば、私たちの祈るべきことは種=みことばが与えられることよりもむしろ、地=私たちの心がふさわしく耕されることなのである。そして、このどちらの恵みも神さまから来るものである。霊の目と耳とが開かれ、主のみこころをさやかに見、また聞く者とされたい。
●2022年1月30日)の説教要旨「主イエスの兄弟、姉妹また、母」 マタイ 12:46〜50
・「イエスの母、兄弟たちとは」という話は共観福音書に共通するものである。マルコの福音書はもとあった史料に基づいて幾分か状況について詳しく伝えている。いずれにしても、主イエスが悪霊どものかしらを使って悪霊どもを追い出しているとか、主イエスがおかしくなったという、そのような話を聞いて、主イエスの家族が連れ戻しにやって来たようである。
・直接話すのではなく人が介されていることから、主イエスの周りに多くの群衆がいて、主の話を熱心に聞いていたようである。主は彼らに手を延べて、「だれでも天の父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」とはっきりと語っている。
・ヨハネの福音書によると、主イエスの肉の兄弟たちは、公生涯の、少なくともその初期には、まだ信じていなかったことがわかる。しかし、ルカによれば、マリアは主イエスの誕生や幼い頃の出来事を心に納めていたが、この時にその思い巡らしがあったとは記されていない。
・主イエスによって「兄弟、姉妹、母」と名指しされた人々は、はじめに「群衆」と呼ばれていたが、「弟子」と呼ばれるようになっている。それは、ただみことばを聴き続けるということの中で起った変化である。私たちもそのように変えられたいものである。

●2022年1月23日の説教要旨「主イエスを信じるということ」マタイ 12:43〜50
・主イエスは、汚れた霊のたとえを話された。ここでは家は汚れた霊が取り憑いていた人のことである。一旦その人から去り、別の人に取り憑こうとしますが適当な人が見つかりません。そこで今まで取り憑いていた人のところに戻ると、綺麗に片付いていたので、自分よりももっと悪い霊を七つ連れて来るというものです。
・私たちが第一に知らなければならないことは、私たちの目には見えない霊的なものが存在するということ、そして、私たちの戦いは霊的なものであるということです。(エペソ6:12)すべての災いが悪霊から来るというのも言い過ぎである。パウロも愚像の背後に悪霊がある場合とそうでない場合を考えているようである。(1コリント8:4、10:20参照)
・聖書の時代には、現代の私たちが精神病と考えているものを悪霊憑きと考えていたようであるが、すべてを退けることはできない。
・主イエスを救い主として信じるということは、キリスト教の教理を知っていくという面もあるが、三位一体の神を人格として知り、交わっていくことである。その交わりが深まっていくに従って、本当の意味で聖書の神だけが真の神という信仰に導かれて行くのである。
●2022年1月9日の説教要旨「神に背く時代へのしるし」マタイ 12:38〜45
・律法学者・パリサイ人は主イエスの御働きとりわけ、悪霊追放を悪霊どもの頭によるものとしたとき、主イエスは強い人のたとえをもってそれを否定された。さらには、良い木は良い実を結ぶと語り、そのみわざによってご自身をキリストと認めるように暗に求めていたが、パリサイ人らはそれを悟らずに、かえって、「あなたからしるしを見せて頂きたい」と求めた。パリサイ人にして見れば、そこまで「言うのならば」という意味合いもあったのだろう。
・主イエスは、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません」と答えた。「神に背いた時代(別訳)」の人々は、どのような明確なしるしを与えられようとも、それを悟り、受け入れることができないということである。
・そのように語る一方で主イエスは、「ヨナのしるしは別です」と宣言された。ヨナのしるしとは、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、主イエスが十字架にかかり死んで、葬られた後、三日目によみがえることを指し示している。それは正に福音という出来事の一端を示しているのである。この出来事とその意味を悟る者とさせていただきたいものである。
●2022年1月2日の説教要旨「エジプトに下った幼子」マタイ 2:1〜15
・キリスト教会の暦、教会暦では毎年1月6日を公現日とし、主イエスの受洗や東方の博士の来訪を記念して祝っているそうです。特に東方の博士の来訪を祝うことは、主の救いのみわざが異邦人世界にも及ぶことを祝うものとして重要な意味を持っています。日本などキリスト教が主流でない国では、1月2日から8日の最も6日に近い日曜日を公現日としていますので、今年は今日1月2日を公現日として祝います。
・さて、福音書記者マタイは東の国の博士の来訪の記事を唯一記しています。彼らは東方でユダヤ人の王の誕生を知り、礼拝するためにエルサレムまでやって来て、当時ユダヤ人の王であったヘロデにその所在を尋ねます。「王としてお生まれになった方」「礼拝するために来た」ということばがヘロデに動揺をもたらしました。彼自身は王になるべくしてなったのではなく、政治的、軍事的な策略を巡らしてやっと王になったのでありました。そんな彼をもユダヤ人たちは神として礼拝するということはなかったのです。ユダヤ人にとって礼拝は神にのみささげられるものだったからです。
・星の導きも与えられた博士たちは主イエスを見つけて礼拝をし、ヘロデ王のところに戻ることなく、自分の国へと帰って行きました。このことはヘロデ王を怒らせました。そして、ベツレヘム周辺の幼児が殺されるという悲劇を招きました。
・主イエスは、ヨセフに夢を通して与えられた神さまからの御告げによってエジプトに逃げ、難を逃がれることができました。そして「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出して」という予言が成就することになったのです。さらにこの預言の成就は、主イエスが私たちの弱さを知っていてくださるということも意味するものなのです。
・主イエスが私たらの弱さをも知っていて<ださることを覚え、その慰めと御力をいただいて歩む一年としたいものです。
●2022年1月1日の説教要旨「主の下さる新しい力」イザヤ 40:27〜31
・イザヤが活動していた時代、イスラエルは国際政治的に大きな困難に見舞われていた。イスラエルはそのような困難の責任を主が顧みてくださらないこととし、偶像礼拝にさえ走っていた。今朝の朗読箇所はそのような中での主からのイスラエルへの語りかけである。
・主は天地を造られたご自身の御力と英知、そして永続性を今一度イスラエルに示しておられる。そして、その後に彼らに対するさばきの宣言ではなくて、希望のメッセージを与えておられる。
・主が約束して下さっている新しい力、それはかつて持っていたような権勢や繁栄や英知、そのようなものに基づくものではなく、全く新しい。主から来る力は、自動車などに例えるなら力とともに排気ガスを出して他を害するようなものではない。
・私たちもヤコブ、イスラエルと同様に主につぶやくものであるが、そのような私たちにも、主は希望を与えてくださっていることを覚えたい。この一年の一日一日、そのような力を主が私たちにも与えてくださることを期待するものでありたい。

●2021年12月26日の説教要旨「インマヌエル—主の慰めルカ2:25〜35」
・今朝の箇所は主イエスの割礼と命名が行われた日に神殿で起こった出来事である。幼子には「イエス」という名がつけられたが、それはヘブル語の「ヨシュア」から来ており、「ヤハウェは救う」という意味である。神である主の救いのご計画がいよいよこの方を通して実行に移されるのである。
・さて、神殿に連れて来られた主イエスのもとにシメオンという正しい、敬虔な人が近づいて来た。彼はイスラエルの慰めを待ち望んでいた人と紹介されている。慰めを待ち望んでいるということは、イスラエルが慰められていないという現実を認めていることに他ならなかった。「慰める」ということばはギリシャ語では「傍らに呼ばれる」とか「傍らにいてくださる」という意味である。
・シメオンは神さまが自分に救いを見せてくださったと語り、「シメオンの讃歌」を歌った。それは救いがイスラエルのみならず、異邦人にも及ぶことを預言するものであった。また、主イエスに対して多くの人が倒れ、立ち上がること、また多くの反対者が起こることを語り、主イエスの生涯—迫害と受難—をマリヤたちに語った。
・福音書記者マタイは主イエスの名をインマヌエル(神が共にいてくださる)と呼び、その救いを示しているが、ルカも主が共にいてくださることを救いとしているのである。

●2021年12月19日の説教要旨「御子イエスのための場所」ルカ2:1〜7
・福音書記者ルカは皇帝アウグストゥスの時代、その最初の住民登録の時に主イエスが生まれたと記している。当時の世界―地中海沿岸の世界は、ローマの平和、あるいはアウグストゥスの平和と呼ばれる平穏な時代であった。その時代に彼は全世界の人口登録の勅令を出した。それは民にとっては大きな負担をもたらす徴税や徴兵のことであった。しかし、その出来事は同時にガリラヤにいたヨセフとマリアをダビデの町ベツレヘムへと導いた。それはいうまでもなく旧約聖書に預言されていた救い主・メシアの誕生すべき場所であった。
・そのような中でベツレヘムに導かれたヨセフとマリアであったが、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と言われるように、だれからも歓迎されるわけではなかった。子供が産まれるということも宿屋の主人たちには「面倒に巻き込まれたくない」という懸念もあったのかもしれない。多くの人によって拒まれた主イエスだったが、荒野の羊飼いたちや東方の博士たち、またシメオンやアンナは主イエスを喜び受け入れ、その証人となった。
・証人となること、それは聖霊の導きによることである。私たちも、聖霊なる神の導きを頂き、主を証しする者とされたい。

●2021年12月12日の説教要旨「バプテスマのヨハネ—主イエスの先駆け」ルカ1:57〜66
・神さまはザカリヤという名前にふさわしくザカリヤとエリサベツの夫婦を顧みられた。ザカリヤの名前の意味は「主は覚えてくださる」あるいは「主は目に留める」という意味合いだからである。神さまは彼らの心の願いに応えてくださったのである。(詩篇139:1〜6参照)彼らに与えられた子どもは主イエスの先駆けとして人々に主イエスを指し示すバプテスマのヨハネであった。
・ヨハネという名前は「主は恵み深い」という意味で、ご計画のうちにあった神さまの救いのみわざがいよいよ実行に移され、動き出したのである。彼はイザヤ書に記された「荒野で叫ぶ者の声」として人々に罪からの悔い改めを迫り、救い主の到来に備えるように求めた。その備えは単に心の中でのことだけではなくて、生き方そのものを神さまに向かって方向転換する、そういう意味での悔い改めであった(ルカ3:1〜6)。
・また彼は、自分の弟子たちに主イエスを指し示した。(ヨハネ1:29〜37)そして、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)と語り、主イエスこそが世の救い主メシアであることを明言した。
・私たちも自分自身には何の力もないが、主イエス・キリストとその御救いを指し示す者とされたい。

●2021年12月5日の説教要旨「受胎告知」ルカ1:26〜38
・ザカリヤにバプテスマのヨハネの誕生が告げられてから6ヶ月目に、御使いガブリエルがマリアのところに再び現れて御子イエスの誕生を知らせた。受胎告知が今日の箇所である。
・マリアの戸惑いは「一体何のあいさつか」ということであって、ザカリヤのように御使いの顕現に対する恐れではなかった。御使いは「あなたは神から恵みを受けたのです」「あなたは男の子を産みます」と続けた。「どうしてそのようなことがありえましょう」と答えるマリアに、ガブリエルはエリサベツの身に起こったことを引き、神の聖霊とその御力によってみわざがなされることを告げた。
・そのことばに対して、どうぞあなたのおことばどおり、この身になりますように」と受け止めた。神さまのみわざは人の思いを超えたみわざであり、その方法も神さまのなさるにふさわしいものなのである。
・このみことばに導かれ今週も歩んで行きたいと思う。そのためには、主とはどのようなお方かをみことばによっていよいよ知らされる者とされたい。また、マリアのように「ご覧ください。私は主のはしためです。なんの力のないものです。何の取り柄もないものです」と告白しつつ、いよいよ主により頼む者とさせて頂きたい。

●2021年11月21日の説教要旨「良い木のしるし」マタイ12:33〜37
・今日の箇所は、パリサイ人への主イエスの反論の終わりの部分である。まず主イエスは、木の良し悪しはその実にあると言われた。そのように聞くと、私たちは「自分は良い木なのだろうか、悪い木なのだろうか」と自問することが多いと思うが、それはヨハネ15章で学ぶことにする。いずれにしても生では食べられない実がアルコール漬けなど加工することによって食用や薬用に供することができるので、安易にその良し悪しは判断できないことを心に留める必要がある。ここで語られている悪いこと、それは神のみわざを神のものと認めない、聖霊の働きを悪霊のものに帰することである。
・まことのぶどうの木のたとえを見てみたい。そこでは主イエスご自身がぶどうの木であり、私たちはその枝、そして父なる神は枝の刈り込みをする農夫とされている。刈り込みをされるということを聞くと、厳しさを感じるかも知れない。しかし、それは豊かな実を結ぶためのことである。刈り込むこと、直訳すれば「きよくする」ことである。主の目にふさわしい実、それは主に扱われて初めて実らせることのできるものである。幹を離れては実を実らせる枝たりえないのである。

●2021年11月14日の説教要旨「子どもを招かれる主イエス」マタイ19:13〜15
・巷では七五三が行われているが、私どもの教会でも本日、宣教に先立って児童祝福式を行った。主イエスご自身も子どもを招き、祝福しておられるが、主イエスの弟子たちは、子どもたちが主のもとに来ることを初めは拒んでいた。子どもたちを招き、祝福された主のみこころはどうであったのか、今朝の箇所から学びたい。
・この箇所は「そのとき」と始められている。文脈は3節から始まる離婚問題にまで遡ることができる。この箇所は、いわば離婚をめぐっての論争物語とも映るが、実際そこで語られるのは、みこころにかなった生き方である。そして、それがこの物語の「そのとき」であり、背景となっているということができる。
・そこには、子どもたち、また、その祝福を願う人々が登場するが、それは同時に家庭を意味している。家庭という場においては、夫や妻だけが主人公なのではない。子どもたちも家庭を構成する大切な要素なのである。彼らの子どもたちの存在抜きには夫婦のことを語り得ないと言っても過言ではない。
・父や母が子供の祝福を、あるいは何らかの問題―課題と言った方がよいかもしれないがーの解決を主に求めるようになることを主イエスは求めていらっしゃるのである。

●2021年11月7日の説教要旨「初穂としてよみがえられたキリスト」1コリント15:12〜20
・コリント人への手紙第一は、パウロがA.D.50年代半ば、エペソで書かれたと考えられる。ということは、初代教会の中で、つまり、主イエスの十字架と復活の目撃者である使徒たちがまだ生きていた時代に、復活否定論が出てきたことになる。マタイの福音書の終わり近くには、復活が否定されるきっかけとなったエピソードが記されている。しかし、コリントでの復活否定論はもっと神学的な色合いがあるようである。
・いずれにしてもパウロは、復活がなければ、宣教も信仰もむなしいばかりか、キリストについて、神について偽証したことになる、さらにはキリストを信仰する者は、一番哀れな者となると語った。
・しかし、パウロは、「今や」キリストはよみがえられたと宣言する。ここで「今や」というのは、パウロやコリント教会の人々の「今や」ではなく、神の救いのご計画の中での「今や」なのであり、また、「初穂として」のよみがえりとは、キリストを信じ、従う者たちすべてが、そのよみがえりに与るということを示している。
・私たちにとって、死は終わりではなく、永遠のいのちへの通過点であることを覚え、先に御国へと旅立った方々との再会を待ち望みつつ、与えられた地上の歩みを続けるものでありたい。

●2021年10月31日の説教要旨「聖霊に逆らう罪」マタイ12:31, 32
・今日10月31日は最近ではハロウィンですが、教会的には「宗教改革記念日」です。1517年のこの日にマルティン・ルターが、ヴィッテンベルクの教会の門に当時の議論の習慣に沿って「95箇条の提題」を貼り付けたのが、宗教改革の発端とされています。
・ルターは、信仰のみ、恩寵のみ、聖書のみを訴えるようになり、結果的に当時のローマ・カトリック教会と袂を分かつこととなって行き、やがてプロテスタント教会となって行きました。
・今朝の朗読箇所では、聖霊に対する冒瀆が赦されないと語っている。聖霊に対する罪とは、聖霊の働きを無視したり、否定したりすることです。この箇所でパリサイ人がしていることが、まさに聖霊を否定することです。
・そのようなことばに接するとき、「果たして自分は大丈夫だろうか」という思いになるかも知れません。しかし、逆に聖霊のみわざとは何でしょうか。それは、罪を認めさせ、悔い改めに導くことです。ですから、どのような罪を犯しても、それを悔い改める思いが与えられ、その思いに素直に従って行くことこそが、聖霊に従うことなのです。そのような語りかけは、一度だけでなく、絶えず与えられているのです。そのような語りかけに聞き従うものとなりたいものです。

●2021年10月17日の説教要旨「神の国は来ている」マタイ12:22〜30
・主イエスはみもとに連れて来られた目も見えず、口もきけない人を癒された。他人とコミュニケーションする術を失ったか、生まれながらにそのようであったかは知る由もないが、その人が絶望の底にあったことは想像に難くない。そのような彼を主は癒されたのである。人々はそれに驚き、「この人がダビデの子なのではないだろうか」と言った。それを聞いたパリサイ人たちは、あろうことか、主イエスの力の源をベルゼブルに帰した。
・パリサイ人の主張に対して、主イエスは二つのたとえを用いて反論した。一つは分裂した家や国のたとえである。どんな国や家でも内部で争いが起これば立ち行かないというものである。さらに主イエスは「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と神の国の到来を宣言された。
・主イエスはさらに一つのたとえを語られた。強い人の家のたとえである。一家の強い人を縛り上げてしまえば、その強い人の家の家財を奪い取ることができるというものである。少々乱暴なたとえであるが、このたとえの「強い人」はこの世を支配するサタンを、「略奪する人」は主イエスを指している。イエスがこの世に来て、強い者を縛り上げたとき、サタンに支配されていた人々はそこから解放されるのである。

●2021年10月10日の説教要旨「成就したイザヤの預言」マタイ12:15〜21
・主イエスはパリサイ人たちが自分を殺そうと考え始めたのを知って、会堂をさられた。しかし、主の周りに来られた病人たちをお癒やしになった。主イエスは、そのことを人には語らないよう、彼らを戒められた。主イエスは、人々がご自身の癒やしのみわざなどを語ることによって、みことばを語ることが妨げられることを案じられたと思われる。しかし、彼らは、主の戒めにもかかわらず、人々に語ってしまった。
・福音書記者マタイはこの一連の出来事をイザヤの預言の成就と語っている。それは「傷んだ葦を折ることもなくくすぶる灯心を消すこともない」と言うことばが成就したということである。また、これは婉曲表現で「傷んだ葦が強くされ」、「くすぶる灯心の光がもう一度、しっかりと灯される」ということである。主イエスの到来とそのみわざが、人々を脅かすものでなく、人々に励ましと喜びを与える者であることを示している。
・ところで、一般に私たちは「よげん」と言えば、「予言」と言う漢字を当てるし、それが「成就した」とは言わずに、「当たった」と言う。それぞれの違いは大切である。聖書がそれらを語るとき、神から授かったことば、そのことばが、一度ならず実現するということであり、原語に従えば「満たされて行く」ということである。

●2021年10月3日の説教要旨「良きわざの陰で」マタイ12:9〜14
・麦の穂を巡るパリサイ人との論争を終えると、主イエスらは会堂に入られた。するとそこに片手の萎えた人がいた。「すると見よ」ということばから、彼は敢えて人目に着こうとは思わなかったにせよ、パリサイ人にとっては論争のための格好の材料として、彼らの目に入って来たと思われる。ひたすら神さまに縋ろうとする人と、そんな彼さえも自分たちの論争の種に、あるいは自己正当化のために用いようとするパリサイ人の姿が対照的である。
・議論はパリサイ人から仕掛けられた。「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と。主イエスは「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて・・」と人々にとって身近なたとえを用いて、彼らに問いかけ、「人間は羊よりはるかに価値があります。」と安息日に人を癒やすことの正当性を訴えられた。主イエスはそのように答えられたばかりではなく、実際にその人を癒やしたのであった・・パリサイ人たちは主イエスに対する殺意を抱いて会堂を出て行った。それは神の前を去って行ったと言うことができるかもしれない。罪の世の中に吸収されるように、外に出て行ったのである。その殺意は「どうやって殺そうかと相談する」というレベルにまで至っていたのであった。
・ここで私たちが問われることは何だろうか
 ・私たちが会堂に入ってくるとき、それは何のためなのかということである。会堂に集まることは、第一神を愛し、礼拝し、第二に人を愛し、交わることである。
 ・また、「それは安息日にふさわしいか」という問いかけにも私たちは答えなければならない。
 ・また、神さまに何を期待してこの場に集い、また、出ていくのかということも問われなければならない。私たちが、祈ってこの場を去って行くが、どこまで期待しているか、あるいは、その応えを聞く準備ができているかと言うことである。

●2021年9月26日の説教要旨「安息日の主」マタイ12:1〜8
・この部分は「その頃」と始められているが、それは11章の一連のできごとであり、それは有名な招きのことばで終わっている。その招きに応えた弟子たちであったが、彼らは空腹を覚えた。彼らは主の弟子だからといって、空腹にならなかったり、災いに遭ったりしないというわけではなかった。
・空腹だからと言って、いつも天からマナが降ってくるわけではない。人間的、その場しのぎの方法で解決を図らなければならないこともある。畑に入って麦の穂を積み、それを食べること自体は、当時許されていたことであった。しかし、安息日に行ったことがパリサイ人の目に触れ、安息日を冒しているとして、弟子の師である主イエスを責めたのである。
・彼らは聖書を引いて、あるいは正論と思われることから非難したのであった。しかし、神さまは責めたとしても救いを備えてくださるお方である。悪魔でさえも聖書のことばを用いて主イエスを誘惑したものである。
・主イエスの擁護は同じように旧約聖書を引用して、彼らを庇われた。しかも主イエスは、「ここに宮よりも大いなるものがあります」と宣言された。その宣言は主イエスによって、みことばの正しい意味が解き明かされたということを意味しているのである。

●2021年9月19日の説教要旨「疲れた人への招き」マタイ11:25〜30
・ここまでで主イエスは、時代や町々への厳しい批判をしているが、それは神の国の福音が目の前にもたらされているのに、信じ受け入れようとしない人々への非難であるとともに、主の熱心が語らせていることであった。
・天地の主、天地万物を造られ、それらを支配しておられる主への讃美は、主イエス一人が祈っているのではなく、背後にともに祈る弟子たちや人々の影が見え隠れするようである。そうした人々への招きが、28節以降の招きのことばなのである。彼らは子が心に定めた者である。彼らは自分たちの知恵や悟りによってではなく、唯々、主からの恵みによって与えられたお招きに応えた人々である。(1コリント1:18以下参照)
・ここで主イエスが語っておられる「休み」は、単なる休みではなく、与えられた働きをなすための力を蓄えるための休みであり、戦いや働きをなすために与えられる心と身体の安息である。
・そして、忘れてはならないことが、主のくびきは、その一方を主イエスは負っていてくださっているのである。
・また、それは鳥たちの「羽のような重さ」であると言われている。その羽があるおかげで、鳥たちは天を自由に飛び回ることができるのである。

●2021年9月12日の説教要旨「福音とさばき」マタイ11:20〜24
・主イエスは、バプテスマのヨハネこそ「来るべきエリヤ」と宣言し、ヨハネや主イエスご自身に対して批判するこの時代の人々を責められた。さらに主イエスは、コラジン、ベツサイダをツロやシドンというフェニキアの町々を引き合いに出して責め始め、さらに旧約聖書でその滅びが語られているソドムやゴモラの町の名をあげて、カペナウムを非難している。それは、地理的、歴史的にユダヤ人たちの民族的なプライドを傷つけるものであった。
・しかし、その厳しい非難は、主イエスが救いに招いている、その思いの強さを表しているのであって、滅びを望んでいるのではないということに心を向ける必要がある。その非難のことばは救いへの主イエスの熱意が表されているのである。
・聖書において神が明確にさばきを示されるということは、一方では救いが明確に示されるということであることに心をとめたいものである。

●2021年9月5日の説教要旨「来るべきエリヤ」マタイ11:7〜19
・バプテスマのヨハネの弟子たちがヨハネのもとに戻った後、主イエスはヨハネについて群衆に教えられた。ヨハネは「来るべきエリヤ」であったというのである。しかし、主イエスはヨハネを女から生まれた者の中で最も偉大と言われる一方で、「天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です」と加えて語られた。
・旧約に生きる者の偉大さ、エリヤの偉大さに優る天の御国に入れられた者たちの偉大さとは、道徳的・倫理的な問題ではなく、より勝った福音に与っているという意味である。バプテスマのヨハネ以後、主イエスの十字架によって救いの道が開かれてから(マタイの福音のこの時点では、その道はまだ開かれていないが)、その福音によって開かれた御国へと多くの人が入ろうとしており、そうした人々が御国に入っているのである。
・主イエスは、ヨハネは悪霊に憑かれていると言い、主イエスを罪人扱いするその時代に対して厳しく非難し始める。しかし、それは断罪ではあっても、拒絶ではないということを心に留めたい。

●2021年8月29日の説教要旨「ヨハネのつまずき」マタイ11:1〜6
・祭司長たちがバプテスマのヨハネに使いを送り、あなたは誰かと問うたとき、彼は自分自身を「荒野で叫ぶ者の声」と答えた。彼は自分自身の使命をはっきりと認識していたのである。また、ヨハネの福音書によるならば、ヨハネは彼の弟子たちに主イエスを「見よ、神の子羊」と呼び、主イエスこそが来るべき救い主・メシアであることを示していた。
・しかし、今朝の箇所に現れているヨハネは、主イエスがメシアであるのかどうかに戸惑いを覚えている。彼はその戸惑いをそのまま、弟子を通してであったが、主イエスにぶつけている。主イエスは、彼の弟子に「あなたがたの見たことを、そのまま彼に伝えなさい」と告げられたのであった。ヨハネは自分の持っていた福音理解と主イエスのそれとの違うことにつまずきを覚えていたのである。
・そのようなヨハネを彼は非難することなく、自分につまずかない者、あるいは注によるならば、「腹を立てない者」は幸いですと言われた。どちらを選ぶにしても、いずれにしても「幸い」である、すなわち、それは聖霊なる神さまご自身が私たちの心に働いて、恵みを恵みとして受け止めさせてくださるのである。

●2021年8月22日の説教要旨「まず主イエスが十字架を負って」マタイ10:38〜42
・主イエスは、十二人の弟子たちを遣わされるに先立って、弟子たちにこの「派遣の説教」を与えられた。先週は、主イエスがもたらされるのは、本当の平和であって、偽りの平和ではないということを確認した。それは同時に、偽りの平和があるということでもあった。
・今朝は十字架を負って、主イエスに従うようにと語られたことを学んでいきたい。十字架とは言うまでもなく、ローマで行われた、最悪の処刑の仕方であった。受刑者は、その横木を自分で背負いながら、刑場に進んで行くのである。受刑者は文字通り身も心も屈辱にさらされながら歩んで行くのである。弟子たちはそのように自分の十字架を負って主イエスに従って来るようにと言われた。それは、主イエスご自身が、まず十字架を負って歩んで行かれるのである。
・あなたがたを受け入れる人は主イエスを受け入れると言われている。主は、「主の弟子であるからと言って、小さい者を受け入れるなら」報いに漏れることはないと明言された。小さい者とは年齢的に小さいとは限らない、人格的な小ささであって、人の目に恩知らずのように写るかも知れない。しかし、主の御前では私たち自身がそのように小さい者なのかも知れない。

●2021年8月15日の説教要旨「本当の平和を与えるために」マタイ10:32〜39
・今朝の朗読箇所は「ですから」と始められている。それは前段の、神の目にあなたがたは価値があるということを受けている。別の言い方をするならば、神さまが私たちを愛しているということが前提となっている。そのことを十分に理解され、受け入れられていないと、主イエスの言われたことばが律法的なものとなる。神さまを認めると言うことは、神さまが大切と思っていることを認める、価値観を共有することができるということである。それが、まさに神さまを愛すると言うことに他ならない。
・そこに立って、適用として、ご自身が本当の平和を与えるためにこの世に来られたと語っている。本当の平和というからには、偽りの平和があるということである。それを見分けるため地上に剣をもたらすために主イエスは来られたのである。偽りの平和、それは力のバランスの上に立つ平和であるが、本当の平和は主イエスによってもたらされるものである。
・本当の平和を持つ者は、たとえ相手が愛していなくても愛し続けることができる。そして、その平和が本当のものであるのかどうかとは、神のことばである聖書によって見分けていくことができるのである。

●2021年8月8日の説教要旨「恐れるべき方を恐れる」 マタイ10:24〜31
・「弟子は師以上の者ではなく、しもべは主人以上の者ではありません」と主イエスは言われた。家の主人がベルゼブル(「蠅たちの王」、悪魔の頭の固有名詞)と呼ばれる、すなわち、悪口の対象になるのであれば、あなたがたはもっとひどい扱いをことばにおいても、行為においても受けることは当然のことであると、主イエスは言われた。それは、つまり、この世において主イエスの弟子は迫害に定められていると言うことである。
・また、主イエスの言われること(ここでは「神の国の福音」)が、やがて明らかにされることであるならば、それに先んじて、また、積極的に、人々に対して言い広めることを勧めている。それが、人を恐れずに、からだもたましいも滅ぼすことのできる方を恐れると言うことである。
・本来なら、主イエスのことばはここで終わっても良かったのかもしれない。しかし、主イエスは恐れるべき方を恐れなさいと命じるばかりでなく、その恐れるべき方の持っておられる、私たちに対するいつくしみを語る。それは、小さな雀や髪の毛一筋を例に挙げて語られるのであるが、父のいつくしみの深さが伝わってくるものであった。

●2021年8月1日の説教要旨「証しーあなたを通して語られる御霊」マタイ10:16〜23
・主イエスが弟子たちを宣教旅行に使わされるときに、「狼の中に送り出される羊のように」とおっしゃった。いうまでもなく、それは旅の安全を保障するものではなく、どれほどの危険が待っているかを意味するものであった。人間的に言えば、負けや、危険が見えているようなところに、勝機を見出すように語るものであった。「鳩のように素直で、蛇のようにかしこく」とはみことばに対する従順と洞察である。主イエスのことばは具体的であった。本来ならば神に従う者を保護する立場にある地方法院や会堂においてさえも迫害の手が及ぶのである。
・(イスラエルの滅びた羊のところに遣わされたはずの)彼らは異邦人の前、しかも、王や総督たちに対して証しする機会に導かれると言うのである。主イエスは、そのときに証しをするのはあなたがたではなくて、父なる神の御霊であると語る。つまり、証しの場に立たされた弟子たちが自分の経験や知性を超えて、父の御霊の知恵を頂いて、いわば、人の知性でなくて、人のたましいに語りかけることができるのである。
・さらに主イエスは、親子や兄弟姉妹の間に敵意や対立、あるいは憎しみさえも生じることも予告されている。

●2021年7月25日の説教要旨「派遣の説教」 マタイ10:5〜15
・マタイの福音書には五つの説教が収められている。その最大のものが山上の説教であるが、今回から次に収められている派遣の説教を何回かに分けて学んでいきたい。
・この説教は、十二使徒とも呼ばれる十二人の弟子を宣教旅行に派遣する際に語られたものであった。まず初めに、遣わされている対象が明示されている。それは、「イスラエルの家の失われた羊たち」であった。しかも、異邦人やサマリヤ人の方に行ってはならないとの禁令が伴っていた。また、「働く者が食べ物を得るのは当然だからです」とのみことばによって、持って行くものも制限された。
・何よりも注意が必要なのは、行った先で、留まるのにふさわしいかをよく調べ、その家に入るときに平安の挨拶をしなさいと命じられた。「平安」、それはここでは「救い」とも言い換えることができる。弟子たちにとっては、ふさわしい出会いが与えられるようにというのが最も大切な祈りということができる。そして、それは私たちも同様である。私たちはみな伝道することを願うかもしれないが、それにはまず、ふさわしい人に出会うように祈って行くことが大切なのである。

●2021年7月18日の説教要旨「十二使徒の任命」マタイ10:1〜4
・今日は、十二弟子の任命の箇所を学んでいきます。主イエスのまわりに集まっていた人は、マタイで使われていることばに従えば、「群衆」と「弟子」に分けることができます。言うまでもなく、群衆は主イエスの前に自然に集まってきた人々ですが、弟子は主イエスが特別にお声を掛けて招いた人々で、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、そしてマタイです。しかし、それ以外にも少なくとも七人が弟子とされています。その中には、先に弟子となった者から導かれたものもあったようです。弟子とは、原語で「真似をする者」を意味し、主イエスのみもとでその一挙手一投足を見、色々なものの見方や考え方を学んで行きます。そうした弟子の中から、特別に十二人を選び、使徒と名付けました。使徒とは「送り出される者」という意味です。
・共観福音書と呼ばれている、マタイ。マルコ、ルカの福音書には、十二弟子のリストがありますが順序は全部異なっています。共通しているのは大雑把に言って、ペテロが第一にイスカリオテのユダは最後と言うことだけです。あろうことか、主イエスを裏切ったユダが十二使徒の一人に任命されているのです。主イエスは人選を誤ったのでしょうか、間違いであったのでしょうか。
・そうではないと思います。それは、弟子の任命には別の意味があると思うからです。別の意味というのは、主イエスが弟子を任命したのは、弟子にご自身の愛を示すためであったと考えられます。文字通り、ご自身を裏切るものさえも愛する主イエスの愛をユダに、そして、私たちに示されたのです。

●2021年7月11日の説教要旨「群衆をあわれまれる主」 マタイ9:35〜38
・マタイの福音書9章の終わりの箇所が、本日のみことばとして与えられている。この箇所は、主イエスの宣教活動の様子をまとめたものであるとともに、主イエスの人々への思いを記すものである。そして、弟子たちへの献身の招きが10章との連結器の役割を果たしている。
・主イエスの宣教活動は、①会堂で教え、②福音を宣言し、③病気や患いを癒しながら、町や村を巡ったと記されている。そしてここでの出会いを通して、人々を深くあわれまれた。このことばは、神さま以外を主語にして用いられるのは、たとえの中で神さまにたとえられている人以外に用いられていない。「はらわたが揺り動かされる」と言うような意味で「断腸の思い」に通じるものがある。
・主イエスの目に、彼らは「羊飼いのいない羊の群れにように、弱り果て、倒れていた」。失われた羊は、弱々しく可愛らしいものではない。むしろ、その傷のゆえに荒々しくさえある。主イエスは、民のうちのいわゆる弱い立場にある者たちだけでなく、パリサイ人や律法学者などの指導者たちをもあわれんでおられると思われる。
・主イエスは弟子たちに対して、そのような思いを共有することを願いながら、献身へと招いておられるのである。

●2021年7月4日の説教要旨「悪霊追放の波紋」マタイ9:32〜34
・目の見えなかった二人の人がその場を出ていくと、その興奮や喜びがまだ収まらないうちに、悪霊に憑かれて口が聞けない人が連れて来られた。この当時、その時代の制約ゆえに、口がきけない人、耳が聞こえない人が「悪霊に憑かれた」と表現していたと考える人もいる。しかし、必ずしもそう考える必要はない。―確かに悪霊憑依などの超自然現象があることを認める必要があるだろうが、そのような超自然を持ち出さなくても、心因性の難聴などが起こることから、やはり、祈りによって癒されること、主イエスのご臨在によって癒されることがあるのである。いずれにしても、ここでは先主日学んだ盲目の人の癒しと明らかに違った仕方で、癒しがなされて行ったのである。
・群衆がこのできごとを「このようなことはイスラエルでいまだかつて起こったことがない」と絶賛したのに対して、パリサイ人は、あろうことか、悪霊どものかしらによって、この悪霊追放が行われたのだと言うのである。
・私たちの目の前に起こった問題が「霊的なこと」に見えなくても、そのことを主イエスに差し出し委ねて行くときに、主イエスからの解決が与えられることを私たちは忘れてはならない。

●2021年6月27日の説教要旨「二人の盲人の癒やし」マタイ9:27〜31
・主イエスが少女を甦らせたことが、その地方全体に広がったという記事で前段は閉じられた。主イエスが常宿としていた、おそらくペテロの家に向かう途中で、二人の盲人が主イエスを「ダビデの子」と呼びかけながらその家にまで来た。「ダビデの子」とは言うまでもなく救世主・メシアに対する呼称である。
・彼らにとって主イエスはメシアに他ならなかったのである。また、彼らにとってのメシアは、漠然とした存在ではなく、自分たちに触れ、癒やしてくださる方であった。主イエスはそのような彼らに「わたしにそれが出来ると信じるのか」と問いかける。「あわれんでくださる」と言うことは彼らにとって「目が見えるようになること」に他ならなかった。それは、自分の本当の必要を彼らは知っていたと言うことができる。
・目が癒やされた二人は、主イエスに「だれにも知られないように気をつけなさい」と厳しく命じられたが、彼らは出ていくと、そのことを言い広めてしまった。彼らは、「自分のこと」ではなくて「主イエスのこと」を言い広めた。このことを通して、私たちの証しの中心が「主イエス」から「私」にズレていないか、問われるところである。

●2021年6月20日の説教要旨「会堂司の娘の癒し」マタイ9:18〜26
・今朝の箇所は、一人の会堂司が死んでしまった自分の娘のよみがえりを求めて主イエスのもとにやって来たことに始まる。主イエスが手を置いてくださるならば生き返ると言うのが彼の確信であった。そんな彼に導かれて、主イエスは彼の家へと進んでいった。
・しかしその最中で、12 年間長血を患っていた女の人が、割って入って来た。長血の女の癒やしは、会堂司にとっては寄り道であったが、主イエスは彼女の信仰を認めて、「あなたの信仰があなたを救ったのです」とのおことばを与えてくださった。
・会堂司の家に着くと、当時の習慣に従って娘の死を知った人々が泣き悲しみながらそこにいた。そうした人々をそこから追い出して主イエスは少女の手を取った。すると彼女はよみがえったのであった。
・会堂司は、会堂を物理的に管理するだけでなく、安息日ごとに誰がみことばの解き明かしや奨励をするのかも決める権威と経験や信仰を持っていた。その彼が、自分の娘の死に接して、彼は主イエスこそが、主イエスだけが自分の娘を救うことができる方と認めたのであった。また主イエスは長血の女の人を癒やすにあたって、肉体の救いだけでなく、霊的な救いを与えてくださったのである。癒やされた人、よみがえりを頂いた人もやがて時を得て死んで行った。しかし、彼らは、そして私たちも、死は終わりや恐怖ではなくて、新しいいのちへの門口なのである。

●2021年6月13日の説教要旨「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」 マタイ9:14〜17
・断食論争のきっかけは、バプテスマのヨハネの弟子たちが主イエスのもとに来て、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と問うたことにある。この時が、ヨハネの弟子たちにとっても、パリサイ人たちにとっても断食すべき時期で、実際、彼らも断食していたのかも知れない。
・主イエスはその問いかけに直接的には応えないで、「花婿のたとえを」を持って応じられた。それによれば、今は花婿に付き添う友人たちは喜ぶべき時であるが、やがて花婿が取り去られ、悲しみ断食をする時が来るだろうと言うことであった。それは、主イエスが捕らえられ、渡されて十字架につけられることを指していると考えられる。
・次いで主イエスは、継ぎ当てのたとえとぶどう酒と皮袋のたとえを語られた。それは、主イエスを信じるということは、新しい価値観に生きることであり、古い価値観は後にされなければならないことを意味している。
・招詞で詩篇96篇を読みました。そこには「新しい歌を主に歌え」とあった。新しい歌とは、歌詞の内容や旋律が新しいというよりも歌う者の新しさである。

●2021年6月6日の説教要旨「マタイの召命」マタイ9:9〜13
・主イエスは、収税所に座っていたマタイを見て、「わたしについて来なさい」と声をかけられた。そしてそのマタイが、場所はマタイの家か、ペテロの家か明らかではないが、主イエスとともに食事をした。取税人マタイにとって、それは自分が主イエスに招かれたことの喜びの宴であったと思われる。取税人、それは当時にユダヤ人社会では最下層に置かれ、罪人の仲間とされていた。
・主イエスがその取税人、罪人とともに食事をすることについて、パリサイ人たちは主イエスの弟子に「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのか」と問いただした。それは、率直な問いかけではなく、非難であった。それを聞いた主イエスは、ご自分は罪人を招くために来たことを宣言されたのである。
・マタイに主イエスは「わたしについて来なさい」と招かれた。それはマタイにとっては驚きであったかもしれない。しかし、主イエスは、小さい存在を覚えていてくださるのである。また、マタイは自分の友たちとその喜びを分かち合った。ここに伝道し、証しすることのヒントがある。

●2021年5月30日の説教要旨「友を救う信仰」マタイ9:1〜8
・主イエスがご自分の町に戻られ、みことばを語っていると中風の人が人々に連れてこられた。それをご覧になった主イエスは中風の人に向かって「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」あるいは「赦されています」と語りかけた。本人の信仰によると言うよりも、おそらくは彼を連れて来た友人たちの信仰のゆえに、―彼のうちにあったのは、彼らの信仰を受け入れる、あるいは拒絶しない程度のものであったかもしれないー中風の人の赦しを宣言されたのである。
・その罪の赦しの宣言を聞いた律法学者たちは心の中で「この人は神を冒瀆している」とつぶやいた。主イエスはそれを知って、赦しの宣言と癒しの宣言、どちらが易しいかと律法学者たちに問いかけられた。そして、中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。そして、そのように彼は起き上がり、家に帰っていった。主イエスのみことばの力は決して、空手形ではなかったのである。
・今も主イエスは私たちと共にいて、みわざをなしてくださるのである。そして、その権威は主イエスを信じ、御霊を与えられている人々に継承されているとマタイは主張したのである。そのような力、そのような権威を、私たちもまた、与えられていることを今一度、覚えたいものである。

●2021年5月23日の説教要旨「見せかけの従順」マタイ8:28~34
・本日は、教会暦では聖霊降臨主日(ペンテコステ)、父なる神と主イエスのもとから聖霊なる神がこの地上に降されたことを祝う日である。また、使徒の働き2章に記されているように教会の生まれた日とも言われている。聖霊が与えられたことによって教会は、またそこに連なる人々は主イエスの復活の証人とされていったのである。
・本日の朗読箇所は、主イエス一行のガタラ人の地への上陸と悪霊に憑かれた二人との遭遇が語られている。多少の違いがあるが、同じ出来事がマルコとルカの福音書にも同じ記事が記されている。
・悪霊だちは主イエスを神の手と呼び、自分たちを追い出すならば、豚の中に遣わして欲しいと主イエスに懇願している。一見、主イエスに対する敬意と従順を装っているが、結局彼らがもだらしたものは滅びであった。
・豚の群れは失われてしまったが、この二人の人は悪霊から解放され、正気に帰ることができだことを他の福音書は伝ぇている。確かに二人の人は癒されたが、その対価は、その町の人々にとっては重すぎるものであった。
・人には負いきれない、私たちの罪の代価を主イエスはその十字架において負ってくださっだのである。

●2021年5月16日の説教要旨「主イエスが共にいる!」マタイ8:23~27
・マタイ8章は弟子とは何かということを教えている。そして、23節に「弟子たちは従った」というように主イエスに従って行<ということが弟子のなすべきことであると教えているように思われる。そこには、弟子のなすことにウエイトが置かれているように思われるが、主イエスが天の父なる神の右の座を去り、この世に来てくださったというできごと、受肉というよりは、謙卑(けんぴ)と言った方がより伝わるかも知れない、そのことが大前提とされているのである。そういう意味で、主イエスが共におられることは、弟子のあり方に先立っていることを覚えたい。
・湖の波風に弄ばれる舟に乗っていた弟子たちは主イエスに助けを求めた。困難の中で主イエスを呼ぶ弟子たちを、主イエスはお褒めにならず、むしろ、信仰の薄い書たちと断じている。福音書記者マタイも主イエスに従って舟に乗り込んだ彼らを「弟子」と書いていたが、主イエスに助けを求めた者たちを27節で「人々(人の複数形)」、普通の人々をかいている。この呼び方の変更には、マタイの弟子たちに対する厳しい評価があると考えられる。
・弟子とは何かを示して行く中で、弟子とは特別な人がなるのではなく、普通の人が、この世に降られた主イエスに出会い、変えられて行くものであるということを、マタイは示そうとしているのである。

●2021年5月9日の説教要旨「主イエスに従って行<こと」 マタイ8:18~22
服従を申し出た二人の人
・今日の箇所では、ニ人の弟子が主イエスヘの服従を申し出ている。最初の一人は律法学者であった。彼に対して主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と語り、その覚悟の程を探られた。聖書ではひど<貶(おとし)められている律法学者ではあるが、元来彼らは民と共に住み、神のみこころである聖書をどのように生きればよいのかを民に教えていた。それによって富を得ることは禁じられていたが、民からの尊敬を受けていた。しかし主イエスのこのことばは、尊敬されないどころか、迫害さえ受けかねないことを暗示するものであった。
・ニ人目の弟子は、主イエスに父を葬ることの許しを乞うている。その父が死んで間もないということではなく、父が死を間近にしていると考えられる。父を葬ることは、ユダヤ人にとって大切なことであった。しかし、主イエスに従って行くことは、そのようなことよりも遥かに大切なこと、なすべきことと、主イエスは彼に迫っているのである。
・主イエスに従って行<ことには、困難が伴う。逆に言えば、困難を伴わない服従はあり得ない。しかし、そこには大きな、本当の喜びがあることを覚えたい。

●2021年5月2日の説教要旨「私たちの病を負われた主」マタイ8:14~17
・「山上の宣教」を語り終えられた後、主イエスはツアラアトに冒された人を癒し、さらに百人隊長の僕を癒やされた。その後、カペナウムのペテロの家に入り、ペテロの姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になり、彼女の手を触れて癒やされた。すると彼女はイエスにお仕えしだ。癒しの目的は、癒されることだけが目的ではな<、それによって、神の栄光が表されるためであった。キリスト者の人生の目的、それは神を喜び、神の栄光を表すことなのです。
・マタイは、さらにイザヤ書を引用して、この福音書で実現している出来事が、その成就であったことを指摘している。マタイの引用は53:4の前半だけであるが、これを聞いたユダヤ人たちの心には、それ以降のみことばが響いていたように思います。それは、主イエスが病を「癒した」だけでなく、それらを「負って」くださったということである。
・私たちは、どんなに信仰深<ても、いつも神さまとの交わりに生きているわけではない。祈っているときにさえ、聖書を読んでいるときにさえ、思いを集中できずに別のことに心が向かってしまうことが少なからずあることを認めなければならない。しかし神さまは、私だちが「心を尽くして」ご自身を愛することを願っていらっしやる。いわば、その断絶を埋めるのが主イエスの十字架なのである。

●2021年4月4日の説教要旨「最も大切なこととして」1コリント15:1~5
・パウロが最も大切なこととして人々に伝えてきたことは、イエスの十字架の死と復活です。かつてのパウロはこの使信を信じる者、伝える者を激しく迫害した。それは彼らユダヤ人の信じる聖書と神の教えとに反するものと彼が考えたからです。
・クリスマスが日本人に受け入れられて久しいですが、近頃ではイースターも市民権を得始めているようです。人々は「ハッピー、イースター」と言って祝います。しかし、教会では「イースター、おめでとう」と互いに言い交わして、この日を祝います。「クリスマス、おめでとう」と言うことばに違和感を感じるといつだかの天声人語にもありました。イースターも同様と思います。
・しかし、私たちはイースターを「おめでとう」と言って、あるいは「ハレルヤ!」と言ってこの日を喜ぶのです。それはこの日が、私たちの罪のために死んでくださったイエスさまが死に勝利されよみがえられたことを記念する日だからです。
・「復活」ということは、多くの人にとって信じられないこと、つまずきです。しかし、このことの故にパウロやペテロは殉教していったのです。復活ということは、自然科学によって検証するようなことがらではありません。神さまご自身が私だちにお示しくださることがらです。
・神さまを信じるということは、神学的な研究ではなくて、神さまとの出会いであり、人格的なできごとです。そして、聖書を通し、聖霊なる押さまに導かれて、神さまの人格に日々触れていくこと、それが信仰であり、信仰の成長ということなのです。

●2021年3月28日の説教要旨「権威ある者として」マタイ7:28,29
・今日は教会暦では、椋欄の主日。主イエスのエルサレム入場を記念する日です。平和の君として主イエスを迎え入れたエルサレムの人々はやがて、律法学者や祭司長たちに扇動されてではありますが、主イエスを拒み、十字架に付けるのです。
・そのような日に主イエスの山上の説教の学びを終え、人々がそれにどのような反応をしたかを見ることは意味のあることと思います。群衆の反応は、驚きでありました。それは主イエスが「権威ある者として」教えられたことに対する驚きでした。驚きだけではもちろん、信じたということにはなりませんが、そこに、何かあると感じたのです。
・律法学者のようにではない何か、それは権威ある者としての教えでした。それは教え方や口振りや言い回しだけではなく、父の御心を知るものとしての確信に満ちたものであったのです。
・新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、そのギリシャ語の権威ということばエクスーシアは、エクス(から)+ウーシア(存在する)と分解することができます。主イエスその人の在りようから出てくるもの、それが人々の心を打ったのです。
・山上の説教は、主イエスのもとに弟子たちが来たことから始められています。ですから、初めの聞き手は弟子たちであったということができます。そして、最終的に群衆もその説教の聞き手となっていったのです。その中には主イエスの弟子に加えられた者もあるでしょう。
・主イエスは今も信じる者のうちにおられ、私たちをみことばの聞き手として整え、みことばを悟らせてくださるのです。

●2021年3月7日の説教要旨「実によって見分ける」マタイ7:15~23
・聖書は偽預言者の到来を預言しています。偽預言者が偽預言者のなりをして私たちのところに来るならば、私たちは騙されることはないでしょう。しかし、いかにも信仰深そうななりをしてやつて来るのです。共にみことばを学び、パフテスマの恵みを受け、また聖餐に与って来た仲間のうちからも起こるのです。
・そのような人々を主イエスは「実によって見分けるようになります」と語っています。第3版までの「見分けることができます」ではな<、新改訳2017では「見分けるようになります」と語っているのです。ことばではなくて、その人の悔い改めや信仰の実や行いによって、偽預言者かそうではないかが明らかになると言うのです。それはどういうことなのでしょうか。
 後半を見て行きたいと思います。彼らは「主よ、主よ」と言うばかりでなく、あなたの名によって預言し、奇蹟をおこなったではありませんかと主に訴える人々の姿が描かれています。しかし、主イエスは彼らを退けるのです。彼はなぜ退けられたのでしょうか。それは自分の行いを根拠にして御国に入ろうとしたからです。
・マタイが記している一つの例えがこのことを明らかにしています。25章31~46節の「羊とやぎ」のたとえです。少し長いたとえですが、あとでよく読んでいただきたいと思います。そこには、主のみこころを行いながら、いつ行ったのか主に問う人々と、反対にいつ行わなかったのかと主に問う人々の姿が描かれています。いつ行ったかと問う人々は御国に入れられ、いつ行わなかったかという人々は退けられるのです。
・このように、たとえ主の御名によって預言したり、奇蹟を行ったりしたとしても、それを救いの根拠とするならば、終わりのときに主に退けられるのです。
・私たちの日々の歩みの中で、「小さい者、小さい主の兄弟」に出会い、主の恵みを分かち合うものとさせて頂いているのです。

●2021年2月28日の説教要旨「狭い門から入りなさい」マタイ7:13,14
 狭い門、それは一般的には人々が憧れるようなものであるが、主イエスの語る狭い門はそうではないようである。今朝はこのみことばの教えるところを学びたい。
 先週、黄金律を学んだ。そして、それは「ですから」ということばで始められていて、主イエスが今まで語ってきだ山上の説教の一つ一つの教えを受けていることを学んだ。この「狭い門から入りなさい」というみことばもまた、同様に山上の説教の教え全体を受けて語られていると言うことができる。
 山上の説教は、「心の貧しい人々は幸いです」ということばで始められていた。それは日々の歩みの中で神さまの御守りなしには生きていくことができない者が幸いなのだという教えであった。またそれは、私たちの日々の歩みを、ー私たちが意識することがなくてもー神さまは日々守り導いていてくださっているのであるという面を心得ておくことが必要である。
 「狭い門から入りなさい」とは私たちの行動基準とすることもできる。自分が何かを選択する時に、自分の目に見てより厳しい道を選ぶと言う人がいるが、それは立派な見識であり、主イエスの歩みこ重なるところが大いにある。主イエスは荒野で悪魔の誘惑を受けられた。その中で悪魔は、「自分を拝めば、この世界を与えましょう」と安易な方法を提案した。しかし主イエスはそのような安易な方法は採らずに、十字架を通して人の救いを成し遂げ、世を治めるという方法を選び採られた。
 狭い門が導く道は、狭く険しい。狭いゆえに人とぶつかり合うこともあるかも知れないし、険しいゆえに、足を痛めるようなこともあるかも知れない。しかし、それぞれの場所で和解が与えられ、あるいは癒やしが与えられて、主イエスが共にいてくださることを知るのである。
「苦しみこあったことは 私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」というみことばを握って、この地上での歩みをなすものとされたいものである。

●2020年11月29日の説教要旨「再び来られる主」マタイ25:1〜13
・今日から教会の暦では待降節・アドヴェントに入ります。それは主イエスのご降誕を待つ時節です。教会によって日曜日ごとに灯すろうそくの火を一つずつ増やして行き、クリスマス礼拝当日には、四本のともしびを灯して、主のご降誕を祝います。
・ところで、アドヴェントの時にもう一つ待ち望むべきことがあります。それは主イエス・キリストが再び来られることを待ち望むことです。再臨待望というと、極端な人もありますが、主イエスが私たちに約束してくださっていることであり、それは私たちの救いの完成に関わることです。
・今朝お読みした箇所、十人の乙女たちの例え話は、いろいろな解釈がなされて来ていますが、この主イエスの再臨を待ち望む教会を指し示しているという理解もあります。今朝はそのような視点からこの箇所をご一種に学んで来たいと思います。
・十人の乙女が指しているもの、それは教会です。
・教会は主イエスを証ししながら、この地上での歩みをしていますが、この地上での歩みは、結婚生活に例えると、いわば婚約期間ということができます。婚約期間が終わり、名実ともに夫婦として同居が許される時、それは花婿や花嫁とその家族はもちろん、友人にとっても大きな喜びであり、その祝いの宴がこの例えの場面設定となっています。 
・ここでは、花嫁の友人たちが、花婿が来ることを、ともしびを持ちながら待つという設定になっています。後で「ともしびを整える」ということばも出てきますが、おそらく、そのともしびを灯しながら花婿が来て婚宴が始まるのを持ち望んでいたと考えることができます。それは、その婚宴が夕方から夜に行われたことを示しています。そして、彼女たちのうち五人はともしびとともに器に入れた予備の油を持っていたのですが、後の五人はともしびを持っているだけで予備の油を持っていなかったということです。
・聖書では聖霊の象徴として「油」と言うことばが用いられます。ですから、ここでも油を聖霊の象徴と考えて差し支えないと思います。
・よく言われることですが、このたとえは、教会には2種類の人がいる。つまり、聖霊という油を持っている人と持っていない人、聖霊なる神さまを心のうちに与えられている人と与えられていない人ということです。娘たちは同じように花婿を待ち望み、また、同じように居眠りをしてしまいます。
・しかし、一方は聖霊を頂いており、他方は聖霊を頂いていないという決定的な違いがあるというのです。先ほど、ともしびも同じように灯されていただろうと申し上げました。普段は同じように歩むことができる、しかし、主イエスが来られたとき、自分のともしびを整えるときに、不足を感じても器に入れてある予備の油によって整えることができるか、できないかということが起こると主イエスは語っているのです。
・このことに関して、8、9節から二つのことを知ることができます。一つ目は、油は娘たちの間ではやりとりすることはできないということです。二つ目は、店に行けばそれはあると言うことです。あるところにはあるということ。別の言い方をすれば、求めるべきところを間違えてはいけないと言うことです。
・13節がなぜあるのか、改めて問われました。正直言って、主イエスが終末、この世の終わりを語っていることを示す目印となるまとめのこどばということで片付けていました。しかし、今回改めて学び直していく中で教えられたこと、問いかけられたことといった方がいいかも知れませんが、それは、主イエスが来られるとき、そして、油を整えるべき時とはいつでしょうか?ということです。その答えは、今なのです。
・今日の宣教を聞いて、自分は果たして聖霊を頂いているのだろうかと思い悩む人がいるかも知れません。そんなとき、自分は大丈夫かと人に聞きたくなるでしょう。しかし、そんなときにこそが主イエスに向き合い、また、求めるときなのではないでしょうか?

●2020年11月15日の説教要旨「天の御国は彼らのもの」マタイ19:13~15
・子どもたちの祝福を祈って頂こうと主イエスのもとに来た人々を弟子たちは叱ったが、主イエスはむしろ弟子たちを叱り、子どもたちを受け入れて祝福を祈られた。
・弟子たちは、人生の具体的な困難や病を負う人々の必要と子どもたちの祝福ということを秤にかけ、前者の方を優先し、後者をしりぞけたということであろう。しかし、主イエスは人生の危機や思い病とは無縁といってもいい子どもたちを受け入れて<ださったのである。
・子どもの頃、主イエスを信じた私のような者にとってありがたいみことばである。思春期や青年期の悩みや苦しみは誰もが通るものであり、そうしたことがらとうま<折り合いをつけていくということが大人になるということであると考える人は多いし、実際、私のクリスチャンの友人の中にもそのようにしてキリスト教を卒業していった人も少なからずいる。
・祝福を祈られるということは、神さ宗がイスラエルの長引こ与えられた特権であり、また、兼務である。人生万事塞翁が馬と言うことばもあるように、私たちには自分たちの現実がどのように変わることが幸いであるのかを知ることができない。しかし、主は私たちの現在Bも過去も、そして未来も知っていてくださり、最善の人生へと導いていてくださるのである。

●2020年11月8日の説教要旨「断食について一新しいぶどう酒は新しい皮袋に」マタイ6:16…18,9:14~17
・山上の説教の中に断食についての教えがある。主イエスは断食そのものを否定はされていない。しかし、人に見せるための断食を厳しく戒めている。元来、断食は喜捨(きしや)などと共に神さまに喜ばれる宗教的な行為ではあるが、献げる者、断食する者の心が、押さまよりも人間の側に憤<時、それは偽善となる。言うまでもなくそれは、神さまの喜ばれるところではない。
・マタイ9章では、パブテスマのヨハネの弟子たちが断食をしない主イエスの弟子たちのことを諌めている。主イエスは主の弟子たちがやがて断食するようになると語っておられる。主イエスが共におられる時は、婚礼の喜びにあるような特別の時であるというのである。
・主イエスの弟子たらは主イエスが約束された聖霊を待ち望む時にも断食をして祈っただろうし、迫害の最中に断食をしただろう。本来断食は、食物を断って、神さまに熱心に祈るためなのである。そこには、人間の評価が入り込む余地はありえない。

●2020年11月1日の説教要旨「主の晩餐にあたって」マタイ 26:26〜29
・先週まで主の祈りを学んできたが、その学びを終えた後に聖餐式を迎えられることに主の導きを覚える。主の祈りの中心が赦しであることを確認したが、聖餐式もまた、主イエスの十字架による罪の赦しを指し示すものだからである。
・聖餐式制定を前にイスカリオテ・ユダが最後の晩餐の席から離れて去ったことをマタイとヨハネは福音書で伝えている。その中でもヨハネの福音書を見ると、ユダに示された主イエスの愛を見ることができる。裏切るのは誰かと疑心暗鬼になった弟子たちを前に主イエスはユダに対してパン切れを浸して与えて彼が裏切ることをお示しになった。しかし、パン切れを浸して与えるということは一家の主人がその賓客に対して示す最大のもてなしであったと言われている。それはすなわち、主イエスはユダに対して引導を渡した訳ではなく、あくまでも彼に愛を示し、悔い改めを求めていたことを示しているのである。
・そもそも十二弟子の中にユダが選ばれたのも、いろいろな解釈はあるが、主イエスが彼をご自身の側に置き、いわば特等席で主イエスの愛と義が彼に示されるためであったのである。
・聖餐式は、パンとぶどう酒(ジュース)に与ることによって裂かれ、流された主の肉と血潮が私の罪のためであったことを認めることなのである。

●2020年10月25日の説教要旨「もし人の過ちを赦すなら」マタイ 6:9~15
・主イエスは弟子たちに祈りのことばを教えたそのすぐ後で赦しについて語っている。それは赦すことであっても赦されることであっても、罪の赦しこそが祈りの中心であることを意味している。罪の赦しというそのことが、地上での祈りの中心であるばかりか、福音の中心であるということができる。
・主の祈りの第五祈願にしても、マタイ6:14,15節にしても、一見、他人の罪を赦すことが、自分が赦される前提条件のようにも見える。しかし、罪を赦すというそのことは、自分の罪が赦されて初めて、なすことができることである。いわば、自分の罪が赦されたことから生じる結果ということができる。まさにそれは罪赦された者の特徴ということができるだろう。
・「人の過ちを赦す」場合には「あなたがたの天の父」が、「人の過ちを赦さない」場合には「あなたがたの父」が当てられている。つまり、後者には「天の」ということばが欠如している。それは、赦さない者が「天の父」という存在を経験できていないことを意味している。地上で父なる神からの罪の赦しを経験した者、それを実感した者は、人の罪を赦すことができる。

●2020年10月18日の説教要旨「試みに会わせないで」マタイ 6:9~15
・第五祈願の後半を学びます。原文を逐語的に訳すと、「私たちを私たちの負い目において赦してください。私たらも負い目を負う人たちを赦してしまいます。」となる。つまり、神さまは私たちと私たちの罪を赦すことはできるが、私たちは人を赦すことはできても人の罪を赦す権威を持っていない。罪を赦すことは神さまの権威の中でなされることである。そして、その神さまさえもご自身の御子を十字架につけ、罪の償いをしなければならなかったのである。
・人が罪を犯すとき、罪の当の相手だけではなく、神さまに対しても犯されるものなのである。詩篇51篇は、ダビデがウリヤの妻と通じ、さらには彼自身も間接的にではあるが殺してしまったことが、預言者ナタンによって明らかにされたときに歌ったものである。その背景には、神さまにとって大切な存在であるウリヤをダビデが殺害したことは、ウリヤやその妻パテ・シェパに罪を犯しただけでなく、神さまに対して大きな罪を犯したことになるのである。
・さて、本日の箇所であるが、最初に心に留めたいのは、「試練」と「誘惑」とは原語では同じことばで、文脈によって訳し分けているということである。また、別の見方をすれば、同じことがら、同じ禍でも受止め方によっては、試練となって人の成長の機会にもなるし、誘惑となって人を堕落させることにもなるのである。

●2020年10月11日の説教要旨「負い目をお赦しください」マタイ 6:9~15
・主の祈りの第五の祈り、それは、神さまの罪の赦しです。この祈りを祈ることに困難を感じたり、そもそもこの祈りを捧げられないという声を聞きます。また、その意見に共感する人も多いと思います。新改訳聖書2017と以前の訳との違いは、最後の部分で、「負い目のある人を赦します」という点ですが、それは決して祈り易<するための改変ではありません。
・ここは原文では、現在とか、過去の時間的な問題ではなく、「赦してしまったことがある」というようなニュアンスです。ですから、主イエスはこの祈りによって「人を赦すということに向き合います」と言う、あるいは「向き合った」という経験を持っていることのある人ならば誰でも、神さまはその罪を赦して<ださる、その人を受け入れてくださるということを教えているのです。
・しかし、それは決して、人の力によって成し遂げることができるものではありません。そもそも人を赦さないということ自体が神さまの前に罪なのです。この祈りは、主イエスの十字架によって成就するのです。
・神さまは、神さまに負い目のある人、すなわち、罪人をあるがままで受け入れ、その罪、その負い目を主イエスの十字架によって贖ってくださったのです。十字架によってその罪を赦して<ださったのです。

●2020年9月27日の説教要旨「私たちの糧をお与えください」マタイ6:9~15
・主の祈りの第四祈願、「私たちの糧をお与えください」という祈りを学ぶとき、詩篇145:15,16、さらには14節を読む必要があると言う人がいる。「主は倒れるものを支え …、みな起こされます」とは言うまでもな<、肉体的なことがらだけではなく、むしろ霊的、精神的なことがらについての助けである。だからと言って、肉体的な必要が無視されているわけではない、むしろ、「彼らのとき」、彼らの食事の時に食物を備えてくださるのである。
・主の祈りは、前半は私たちの父、神についての祈り、後半は私たち、人のための祈りであるとされている。しかしそれは別々のことを祈っているのではなくて、天で行われるように地でもみこころが行われるようにと一つのことを祈っているということを先主白までに確認して来た。
・ところで、『新改訳聖書2017』は、「日ごとの糧」を毎日毎日の必要は肉体的な糧との理解で訳しつつ、「必要な糧」、「明日のための糧」との訳す可能性を注記している。「日ごとの」と「必要な」の糧については、共通する部分が多いが、「明日のため」の糧となると事情は異なってくる。つまり、「明白」とは単なる翌日ではなく、「来たるべき日」を意味し、それは取りも直さず、終末を意味しえるからである。主が再び来られるか、あるいは私たちがこの地上の人生を終えた後に来る世においても通用する糧である。
・詩篇145:15には「すべての目」と言われている。「自を開かれた者」で霊的な知者を意味することから、この「目」も霊的な洞察を含んでいると思われる。生ける者は肉体の必要だけではなく、霊的な養いをも求めていることが一層明確になっている。

●2020年9月20日の説教要旨「みこころが地でも」マタイ 6:9~15
・前回と重なるところも多いが本日、「御名が聖なるものとされますように」以下の三つの祈りについて学びたい。
・御名が聖なるものとされること、それは御名が特別なものとして取分けられることを願う祈りである。御名ということはその本質、言い換えれば神ご自身を表している。神が特別な存在とされることである。きよさは神のもとにしか期待することができない。いかなる知者も知識を深めることはできても、神のきよさに辿り書くことはできない。神がきよいという特別な存在であるということは、神を信じる者のきよさによって現される。
・御国が来ますようにという祈りについて。国というと国民と国土、それに主権によって成り立っている。「A国に行く」というとその国土が、「B国では」というとその国の人々が指し示されている。しかし、「御国が来ますように」という祈りは主権が来ますように、言い換えれば、支配が拡がりますようにとの祈りである。そこには主イエス・キリストの再臨によって、この天地が過ぎ去り、新しい天と新しい地が来るようにとの再臨待望の祈りもあるが、キリストを信じる人々が増え拡がって行くように、また一個のキリスト者の中でキリストの支配が確立されて行くようにとの祈りでもある。
・新改訳2017では、「みこころが天で行われるように」と訳されているが、別の訳(新共同訳や協会共同訳)では主の祈り前半の三つの祈り全体に係るように訳されている。原語では、この天ということばと組みこなっている「地」という単語には冠詞がない。冠詞がないということはその性質に着目されているということを表す。悪しき者の支配のもとにある穢れた世で、神の御名が聖とされ、神の支配が拡がり、そのみこころが実現することを願うようにと、主イエスは教えられたのである。

●2020年9月13日の説教要旨「御名が聖なるもとされますように」マタイ6:9…15
・主イエスは弟子たちに祈りを教えられたが、その呼びかけは元の言葉では、「私たちの父よ」というものであった。「父」という呼びかけは、幼子が父を慕っていう呼びかけることばとも言われている。さらに私たちが目を止めたいのは、それに加えられている「私たちの」ということばである。神さまに対する信仰というと個人的なものと考えられるかも知れないが、私たらは、イエスさまに在って神さまを「父」と呼ぶことができるようになるばかりか、その父を、そしてその信仰を同じくする者として「私たち」と告白することができるのである。主イエスの十字架は私たちの神さまに対する罪の赦しを与えるとともに、人と人との間の隔ての壁をも取り除くのである。
・「父」との親しい神さまへの呼びかけに続けて、神さまに関わる三つの願いをささげるように主イエスは教えている。第一のものは「御名が聖なるものとされますように」。以前の訳では「御名があがめられますように」というようなものであったが、新改訳2017では「御名が聖なるものとされますように」と変わった。御名が「あがめられる」以上に「聖なるものとされる」ことを私たちは願って行<のである。「聖なるものとされる」とは、「礼拝のために取り分けられる、献げられる」あるいは、「聖なるもの、崇敬なるものとして扱われる」ということである。
・ニつ目は「御国が来ますように。」御国とは世の終わりに実現する神さまの御国だけではなく、神さまの主権やご支配でもある。三つ目は「みこころが地でも行われるように」。神さまのご計画が実現するようにということ。
・いずれの祈りも、私たちは自分の好みや思いではなく、神さまの御思いに生きているだろうか、また、自分の人生のプランではな<て、その人生を神さまに用いていただく用意はできているだろうかということを問いかけている。

●2020年9月6日の説教要旨「ですから、あなたがたは」マタイ6:9~15
・先主日、祈りの奉仕に慎重な人が多いということを紹介した。健全な慎重さもあるだろうが、そうでないものもある。それはどのように解決すべきだろうか。
・一つは、みことばと賛美をセットで考えることである。言うまでもなく、みことばを読むと言うことは、読み、黙想し、教えられたことを主に感謝し、みことばに歩むことができるように祈ることを含んでいる。また、それだけでなく、多<は昔の信仰の先輩たちの祈りの中で生み出された、あるいは祈りそのものである賛美を主にささげること、また聞<ことも!豊かな祈りの時をもたらすように思う。
・また、祈りが神さまとの「交わり」であるということから、信仰を持ったもの同士の交わりも神様の交わりにつながって行くものである。
・人前での祈りについて。一緒に祈っている人が、「アーメン」と心を合わせることができることも必要でないこともない。しかし、そこに必要以上に心が向いてしまうのは本末転倒である。実は宣教(メッセージ)も同様である。宣教の最も熱心な聴き手は神さまご自身と言っても過言ではないだろう。神さまの評価をさて置いて、自分や達成感、人の評価に満足を覚えるのはやはり本末転倒と言わざるを得ない。
・主イエスは祈りの本当の報いは、隠れたところで見ておられる父から来ると教えられた。それはどのようなものだろうか。三つ上げることができると思う。
・一つは平安である。主イエスはわたしはあなたがたに平安を与えると約束しておられる。ニつ自は祈りが実際に応えられることである。結果は同じでも、祈って与えられたことは主の応えとして受け取ることができる。祈りは「効く」ものではない「聞いて頂<もの」「応えて頂くもの」である。皐後に、祈りによって与えられるものは、主のみことばやみわざに対する深い洞察である。みことばの深い意味やそこで現に起こっているみわざの意味を知ることができる。

●2020年8月30日の説教要旨「祈るときには」マタイ 6:5~8
・教会の中で「祈りの奉仕」は一番親しみ易いものでもあるし敬遠される奉仕でもある。たとえ祈祷会に出席できな<てもそれぞれの場でいつでもできる奉仕であるからであろう。反面、礼拝で「宣教の後に祈ってください」と言われると躊躇する方は多いように思う。祈ろうと思っても、頭の中が真っ白になってしまう人もいれば、考えがまとまらないという人もいる。
・祈るときに語りかけているのは神さまである。聞いている人、周りにいる人ではない。そのような人の目や評価を必要以上に気にする危険もある。祈りということは、美辞麗句―教会での「祈りの用語」を並べ立てるのではなくて、自分のことばで祈ること、また、祈りのことばが自分のことばになって行くことが大切である。自分こそが祈る資格を持っているとばかりに、無意識のうらに人を見下してしまう危険にも心を留める必要がある。
・最後に繰り返す祈りについて。イエスさまは異邦人のようにことば数の多さが祈りの力というわけではないとおっしゃっている。しかし、祈りが神さまとのコミュニケーシである以上、熱心さ、執拗さも当然その要素であることは覚えておく必要がある。

●2020年8月23日の説教要旨「隠れた善行」マタイ6:1~4
・否定命題によって、昔の教師たちの教えを否定し、神のみこころの深みを指し示した主イエスは、彼らの行なっていた善行に対してことばを進めて行く。
・まず主イエスは、彼らの行なっていた施しのあり方に対して疑問を投げかけるどころか、真っ向から否定する。彼らが善行を行うとき、その善行によって自分が人から「あの人は義しい人である」という評価を引き出すための行いになっている。凡そ、人から義しい人と評価されることを願うこと自体が、人が本当に求めるペきところからずれているのである。ここに「的を外れた状態」=「罪」の姿があるのである。
・「施し」ということばは、神の「あわれみ」の具体的な現れである。言い換えれば、人が「施し」を行なっているとき神のあわれみのみわざに与っているということを神に先立つて主張しているのである。その意味でも、彼らの罪は重い。
・人前で自分の善行を振り回すことは、肯定的、否定的な形で私たちの姿と重なり合う。こうした私だちがそこから解放されて行<ためには、まず目には見えないが、私たちの人生ばかりか、世界の歴史を見つめておられ、ただしく審く神がおられることを知らされなければならない。そのような世界観が与えられるときに、私たちが何を大切に生きるかという価値観が帰られて行くのである。

●2020年8月16日の説教要旨「75回目の終戦の日に当たって」Ⅰテモテ2:1,2
・このコロナ禍にあって、私たちは世界や国のリーダーたちまた、最前線で労する医療者たちに感謝をささげなければならないとみことばは命じている。それは、「私たちが・・・平安で落ち着いた生活を送るため」と言われているが、平安と平和の違いは、安全と安心の関係のようにその客観性と主観性と見ることができるだろう。
・すべての人は平安で安心できる場所を求めているということができる。しかし、そうした場所が見つからないとき、人は苛立ち、恐れと不安に満たされる。その結果、頑なになって行く。この季節は、先の大戦の責任が近隣の国から問われるときでもあるが、もう十分に謝罪したとばかりに頑なに振る舞う政治家たちがいる。いじめであっても加害者は忘れても被害者は忘れないという。
・私たちはそうした責任を十分に果たしたと確信を持って言い切れるだろうか。そのように思うとき、私たら自身の罪の清算も問われてくるように思う。清算ばどのように行えば良いのか?
・私たちキリスト者は私たちの罪がまず第一に神に対してなされたものと、何よりもまず初めにこの神に赦しを請い、神との関係に平和がなければ、人との和解も平和もありえないと考える。また、神からの赦しの確信は人に対しての真実な謝罪に導く。
・教会福音讃美歌385「愛の神よ」第3節の最終行に「きょうわれ死すともわがたま休む」とある。歌詞ゆえに訳し出しきれなかった原詩を訳すと「きょうかあす私は死ぬが彼(イエス)が私のたましいに代わって心配してくださる」
・代わりに、しかも適切な和解の道を示しながら、心配してくださっている方を知るならば自分で自分を守る必要がなくなり、そのような庇(かば)いは消え去って行くのである。その和解の道とは、主イエスがすべての罪を負ってくださった十字架の道である。

●2020年8月9日の説教要旨「愛敵の教え」マタイ 5:43~48
・「隣人を愛しなさい」という神の命令をユダヤ人たちは、「隣人」を巧みに定義することによって守ったことにしていた。彼らにとって異邦人、異教徒だけではな<、自国の民のうちにも「敵」がいたらしいが・・「あなたの敵を憎め」との文言を聖書に見い出すことはできないが、律法の教師はそのようにしていてたようである。
・「愛する」とは感情の問題ではなく、意志の問題である。また、最大の愛情表現は祈ることである。イエスさまは敵や迫害する者のために祈ることを求めている。
・どのように祈ったら良いのだろうか。愛せないことを告白しながら、その相手をも神さまが大切な存在として受け止めていてくださることを認めていくことである。
・私たちが、敵さえも愛する根拠はどこにあるのだろうか。それは、その当の相手が神さまに愛されている存在だからである。
・根拠が明らかにされたからと言って、秘だちは隣人を愛せるようになるわけではない。私たちが愛することができるとすれば、私たちが神さまから深く愛されていることを知ることによってである。
・「完全でありなさい」とのみことばに接して私たちは自分の不完全さを知る。そして、そこから神さまに目を向けていくことが私たちに与えられている信仰でなのである。

●2020年7月19日の説教要旨 「聖書の教える結婚」マタイ 5:31, 32
・聖書の結婚についての教えを確認したい。
・創世記2:23から。男性がすなわち夫となる者は、父離れ、母離れをしなければならない。父親に認められることは大事だが、そこに囚われていてはならない。また、母離れをしていくことは、妻と一体となる一つの重要な過程です。そしてまた、精神的に裸になって、弱さや庇いを捨て去って行くことが必要となります。
・エペソ5章では、結婚関係がキリストと教会に例えられるほど大切なものとして教えられていることを心に留めたいものです。
・マタイ19:3〜9 イエスさまの時代、離縁することは男性の権利のように捉えられていた。パンを焦がすことさえ、恥ずべきこととして離婚の理由とされたといいます。
・結婚した時に相手を慕う思いが最大で、徐々に冷めて行くのではなく、表現はどうあれ、深められて行くものでありたいものです。
・日本のキリスト教界の現状として女性が圧倒的に多い。そのためにクリスチャンの女性が未信者と結婚することもあり得ます。そのような場合は、過度のプレッシャーを与えないように配慮しながら、一生を賭けて相手の救いのために教会をあげて祈っていきたいものです。
・現代の社会では、家庭内暴力など離婚せざるを得ない場合も多々あります。

●2020年7月12日の説教要旨 「躓きのもとを断つ」マタイの福音書5:27〜30
・主イエス・キリストの福音が文字通り福音として語られるために必要なことは、福音によって救いが実現されることが可能であると言うことです。別の言い方をすれば、律法という対立軸に対して優越しているということです。それは律法がなかったことにするのではありません。何らかの形で解決する必要があります。律法を完全に守るか、あるいは、その裁きに服するのかどちらかが必要なことです。人は、残念ながらだれ一人として律法を行うことができませんでした。ですから、さばきをだれが受けるのかということにあります。それとともに、神さまの要求、律法の要求は、どのように満足するのかという問題があります。それを取り上げているのが山上の説教のこの部分なのです。
・目が見えるということは大きな祝福です。人間のコミュニュケーションの半分以上は視覚に依存していると言われています。その目があなたを躓かせるならえぐり出して捨ててしまいなさい。と主は言われる。体の一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれない方が良いからです。また右の手についても同様のことが言われています。
・躓かせるとはここではたとえで言われていることで、「罪を犯させる」という意味です。しかし、私たちはたとえ目を失い、手を失っても、罪を犯してしまう、罪を犯さずにはいられない存在なのです。
・この絶望的な場所に、主イエスの福音の救いの御手が伸ばされているのです。

●2020年7月5日の説教要旨 「律法と福音—パリサイ人にまさる義」 マタイの福音書5:21〜26
・最高法院とは、言わば、最高裁判所で、重要な案件を取り扱う場所です。私たちが兄弟に向かって「ばか者」ということが、そのように重要な案件だということを主イエスは言っているのです。それは、神の形に造られた人間を侮辱していることに繋がるからです。私たちは、お互いのことをそれほど重大な存在とは思っていないかもしれません。私にとって大切であっても、他の人から見れば大勢のうちの一人に過ぎないと見ているかもしれません。しかし、主イエスは、私たちが思わず「ばか者、愚か者、役立たず」と言ってしまうような人、そのような存在を大切な存在、馬鹿にされることを許さない存在と見てくださっているのです。
・アベノマスクの後日談として、使い勝手が悪いと思う人が多いので、それを集めて、施設などに寄付しようという動きがあるという報道がありました。そのような動きに対して、「アベノマスク」という言い方などで、揶揄しているという意見があったという報道がありました。さらにその後日談として、集めて、サービス券などを配る場合、そのような場合限定なのかどうかわかりませんが、法律に違反するというのです。古物取り扱いの法律に違反すると言って警察から通知が来たというのです。誤解かもしれませんが、忖度もここまで来たのかと思います。私たちのことをそのように忖度してくれる人はいないでしょう。しかし、神さまご自身が私たちを大切な存在掛け替えのない存在と見てくださっているのです。私たち一人ひとりの存在は、そのように尊いのです。

●2020年6月28日の説教要旨「律法と福音-パリサイ人にまさる義」マタイの福音書5:17…20
・さて、19節では「『天の御国』で最も小さい者」と呼ばれるとか、「『天の御国』で偉大な者」と呼ばれるとか、言われています。このことを一瞥するならば、天の御国に律法を破った者がいるとか、律法を守らないでも天の御国に入れるとか言う話になりかねません。
・しかし、ここで言われているのはそう言うことではないのです。他の箇所に当てはまるかどうか分かりませんが、この箇所の「御国」と言うことばは天の御国の基準と言う意味です。つまり、マタイは多<の箇所で「神の御国」という代わりに「天の御国」という言い方をしています。彼はユダヤ人でしたから、「神」ということばの代わりにその碗曲な言い方として「天」ということばを用いているのです。また、「御国」ということばも、国の領土や、国民ではなく、国の主権、王権、また「支配」を指しています。そこに入る、入らないということではな<、「そこで用いられている基準に従うて」と理解することができるのです。
・この山上の説教を通して、天の御国の基準を主イエスは指し示しているのです。

●2020年6月21日の説教要旨「地の塩・世の光」マタイの福音書5:13~16
・私たちが迫害されている時、多<の場合、悲しみや苦しみ、もしかしたら、悔しさを感じても、なかなか喜ぶということは出来ないのが私たちの本来の姿です。また、それが迫害の迫害たる所以でしょう。
・しかし、使徒の働きを見るとこんな記事があります。「使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。」使徒5:41
・ここで、使徒たちが迫害されたことを受けて、却って「喜びながら・・・出て行った」とあります。この箇所を元のことばで見ますと、最初弟子たちは、喜んでいなかったが、脅され、鞭打たれた時、御名のゆえに辱められるに値する者と「なった」とあります。鞭打たれた時、主イエスもそのようにされたことを思い起こし、御名のために辱められるに値する者とされていると気がつき、喜んで出て行ったというとことがわかります。共にいて<ださる聖霊なる神さまによって気づきが与えられたのでしょう。肉で、強がって、同じようなことが出来るかも知れない。けれども、そうなると、今度は相手が赦せなくなるでしょう。現に迫害していた当人が、後に回心したとしても、迫害された人は、相手のことを赦せないということが起こってくるのではないでしょうか。
・こうした喜び、迫害をも喜ぶ喜びは、聖霊によるきよい喜びであることを覚えて頂きたいのです。

●2020年6月14日の説教要旨 「山上の説教一救い出される神」マタイの福音書5:10~12
「あなたがた」に語りかける主イエス
・10節まででイエスさまは、「・・・な人たちは」と3人称で語って釆ましたが、11章に至って「あなたがたは幸いです。」と2人称で語り始めます。「心の貧しい、どこかのだれか」「心のきよい、どこかのだれかというのではなくて、「今、現にこのみことばを耳にしているあなたがたに向かって、「幸いです」と語るのです。しかも、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と告げるのです。喜ぶということは「自分が幸いであるということを認め、告白する」とでもしておきましょぅか。そのように命じるのです。それは言ってみれば「あなたがたは、自分自身に関して、今はそう思っていない、感じられないかも知れないが、やがて、そのようであることを知るようになるということが意味されているのではないでしょうか。
・人が神さまとの関係を人々との関係よりも大事なこととしていくとき、人々はあなたを自分とは別のものと、排除し、迫害するようになるでしょう。しかし、自分の患いや痛みの解決を主イエスに求め、癒されてもなお、そこに留まり統けているあなたは神の子どもであり、天の御国はあなたのものなのです。

●2020年5月24日の説教要旨 「山上の説教—祝福の教え4」マタイの福音書5:9〜12 詩篇23:1〜6
・教会の2階のホ—ルに、「平和のための祈り」という額が掛かっています。「ああ主よ、我をして御身の平和の道具とならせしめ給え」と語り掛けた後、「我をして憎しみある所に愛をもたらしめ給え/争いある所に赦しを/分裂ある所に一致を/疑いある所に信仰を/謝りある所に真理を/絶望ある所に希望を/悲しみある所に喜びを/闇ある所に光をもたらしめ給え」とこの祈りは続いていきます。さらに「理解されることよりも理解することを/愛されることよりも愛することを求めしめ給え」と続いていきます。
・このように祈り、また、このように生きていくことこそ平和をつくる者にふさわしいのです。そして主イエスこそ、そのように生きた方なのです。しかし、私たちはだれ一人、平和をつくることはできないし、従って、神の子どもと呼ばれることもないのです。しかし、人を、平和をつくる者を神の子どもと呼ぶその方は、神さまご自身です。神がそう呼ばれるときに、それはなるのです。
・私たちは、主イエスさまの十字架の贖いによって、神との平和、そして、人との平和を頂くことができます。その時、私たちは「神の子ども」と、主ご自身、神ご自身から呼ばれるのです。使徒パウロもガラテヤ人への手紙の中で「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」と語っています。十字架による救いが完成した今、私たちは確かに「神の子ども」と呼ばれるのです。

●2020年5月17日の説教要旨 「山上の説教—祝福の教え3」マタイの福音書 5:7, 8
・宗教音楽の中にミサ曲というものがある。プロテスタント教会の礼拝にあたるミサの通常文と言われる部分に曲をつけたものである。それは「キリエ」ないしは「キリエ・エレイソン」で始まっている。その「エレイソン」ということばは、今日扱う「あわれみ深い」ということばの動詞の命令形である。それはただ感傷的に、黙って見ているのではなく。実際の必要に応えようと、行動を起こさざるを得ない、そのようなことばである。
・使徒パウロは、テモテへの二つの手紙を送るにあたって「恵みと「あわれみ」と平安」の挨拶をもって始めているが、それは他の書簡にはないことである。パウロのテモテへの愛情が感じられる。また、この「あわれみ」は、あわれまれた人が今度は他の人をあわれまずには置かない、人をあわれむように駆り立てるものなのである。人をあわれむことができること、それは自分自身が主のあわれみに触れた、触れていただいた印なのである。そして、そのように人をあわれんむ者が、再び主にあわれまれるのである。
・「心のきよい者」とは、どんな者であろうか。「きよい」ということばには二つある。一つは取り分けるという意味であり、もう一つは汚れがきよめられたという意味である。「カタルシス(浄化)」ということばである。主によってきよめられた者、心のきよい者は「神を見る」。それは神と愛親しく交わりを持つことができるという意味なのである。

●2020年5月10日の説教要旨 「山上の説教—祝福の教え2」マタイの福音書5:1〜11
・「悲しむの者は幸いです」についてもう少し加えておきたい。悲しむ者が何を悲しむかは語られていないが、そこに共通するものは、何らかの喪失体験ではないだろうか。そのような場に置かれるとき、私たちの心は敏感になっている。そしてそこで、神さまや人のあわれみが見えてくるし、良きにつけ悪しきにつけ、本当の友とそうでない者の区別が明瞭になってくる。そこで本物に出会うことができるし、本当の慰めを得ることができる。
・本日は予告した箇所に変えて、詩篇37:10, 11を読んだが、今日の主イエスの「柔和な者は幸いです」というのは、この箇所の思想を受けている。柔和、あるいはへりくだるということは、決して自己主張をせずに、ひたすらに神のみこころがなされることを待ち望む者、そのような者が地を受け継ぐことができると言うのである。
・義に飢え渇く者は幸いです。義とは、神さまとの正しい関係であると言われている。決して自分の正しさということではない。イエスさまの故に、私たちは神さまと正しい関係が与えられる。私たちは自分の義を振りかざすことがあろう。しかし、そのような中で、自分の中にその正しさの根拠がないことに気づかされ、飢え渇くことを知り、神さまに向かわせて頂き、イエスさまが満ち足らせてくださることを知る。そこに幸いがあるのである。

●2020年5月3日の説教要旨 「山上の説教—祝福の教え」マタイの福音書 5:1〜11
・主イエスは山上の説教を「心の貧しいものは幸いです」と始められた。原語では「幸い」ということばが文頭に来る。主イエスが「幸い」と語られた後、しばらく沈黙があったかも知れない。弟子たちは何が幸いなのかと、自分たちに問うたことだろう。
・主イエスは「貧しい者」とことばを継がれた。この貧しいということばは、人の施しによらなければ生きられないような、そのように貧しいということを意味している。
・そして、主イエスは「心の」あるいは「霊において」と加えられた。大雑把に言って、「心」とは人と人との人格的な交わりの場、「霊」とは神との交わりの場である。いずれにしてもその心なり、霊なりが「貧しい」と言われている。
・だれが「貧しい」というのか、だれのそうした貧しさを覚えるのかが問題であるが、それは言うまでもなく本人である。
・自分は神さまとの交わりにふさわしくない、神さまが御手を伸ばしてくださらなければ、神さまを知ることができないし、交わることなどありえないと知り、ひたすらに神さまのあわれみの御手におすがりすることによってしか、救いはありえないこと、それを知る人こそが、幸いな人なのである。

●2020年4月26日の説教要旨 「主イエスの宣教」マタイの福音書 4:23〜25
・本日の箇所は、四人の弟子を招いた主イエスのガリラヤでの宣教の様子のまとめであり、「山上の説教」への短い序文ということができるかも知れない。
・23節は、「巡った」という一つの動詞が、「教え」、「宣べ伝え」、また、あらゆる患いを「癒された」という3つの修飾する分詞によって形容されている。主イエスの宣教の歩みは、エルサレムや神殿や会堂に留まるのではなくて、民の生活の場所に出て行き、民の中に寄り添い、行き巡るものだったということができる。
・その評判はシリア全体に広まり、人々は病気、悪霊憑き、てんかんや中風に苦しむ人を主イエスのもとに連れて来た。病の人たちの世話や看病していた人たちは、自分ではどうすることもできないことを知り、自分で抱え込んでしまうのではなく、主イエスが彼らを癒すことができる方であることを期待して、主イエスのもとにやって来て、あるいは連れて来たのである。(マタイ11:28参照)
・25節には、おそらく肉体的には癒しが必要なかった人々も主イエスのみことばに惹かれて従って行ったことを見ることができる。主イエスが脱出の道なのである。(1コリ10:13)
白血病になった水泳選手や大事な人を失ったアーティストが「神さまは人に耐えられない試練を与えられない」と言っていた。しかし、そこには続きがあることを覚えていただきたい。(ヨハネ14:6)

●2020年4月19日の説教要旨 「漁師たちの召命」マタイの福音書 4:18〜22
・主イエスはガリラヤ湖のほとりを進んでいかれた。それは単なる移動ではなく、弟子と出会うための道行きであった。そのような中で主イエスは最初の弟子、ペテロとアンデレに出会った。主イエスは、「わたしについて来なさい。あなたがたを人間を取る漁師にしてあげよう」と語りかけた。すると彼らはすぐに従った、彼らの網を捨てて。
・主は「わたしの後に従って来なさい」と命じられた。これは選択の余地のない命令形が用いられているが、弟子になったペテロやアンデレが先立つのではなくて、主が先立ってくださるという恵みに満ちた命令であった。また、弟子たる者のゴールである「人間を取る漁師」とは、—その意味を彼らがどれほど認識していたかわからないがー主イエスが「してくださる」ことであった。自分でああだ、こうだと手探りしていくのではなく、ただ主の与えてくださることをそのままに受止めて行くことによって、そう「されていく」のである。
・ペテロとアンデレは網を、また、すぐ後で召されるヤコブとヨハネに至っては網ばかりでなく、舟と父とを後にしての旅立ちであったが、兄弟という関係はそのまま残された。
・私たちも同じように、主に呼び集められた者たち(教会)であるが、何を後にし、何を手にして行くか、もう一度主に問うて行く必要があるのではないか。

●2020年4月12日の説教要旨 「主イエスの復活」マタイの福音書 28:1〜15
・復活の朝、大きな地震が起こった。御使いが主イエスの墓を塞いでいた岩を動かしたからである。それを見て、ローマの兵士たちは恐れて、死人のようになったと記されている。本来ならば、結束してその場に留まるはずのローマの兵士たちの幾人かは、その場を去ってエルサレムの都にいる祭司長らにことの次第を知らせに行った。
・一方、女たちは御使いから主イエスのよみがえりの知らせを聞き取っている。よみがえりは弟子たちが兼ねてから聞かされていたものであったが、だれもそれを真に受けることはなかった。しかし、今、主イエスの復活の知らせに接して、そのことばが彼女たちの心に蘇って来たのかもしれない。「恐ろしくはあったが大いに喜んで」弟子たちに知らせに行った。神さまから落ち着いた心を与えられて、御使いのことばを聞いたのである。そして、そのことばに従ったときに、さらに明確に主イエスにお出会いすることができたのである。
・当時、女性の証言は、有効とはされなかった。しかし、聖書は大切な、復活の証人として女性を用いているのである。
・ところで、このようなことばがある。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です(1コリ1:18)」この危機の時代、みことばにおすがりして歩んでいきたいものである。

●2020年4月5日の説教要旨 「平和の君として」マタイの福音書21:1~11
・マタイの福音書からイエスさまがエルサレムに入られる前後を学んでいきたい。主イエスの遣わされた弟子たちは、どのような思いでろばを迎えに行ったのであろうか。決して、重大な働きとは思っていなかったかも知れない。しかし、その出来事をマタイはゼカリヤの預言と結びつけた。
・神さまのみわざや導きは、その時には分からないが、後になって明らかにされるということも多々あることを私たちは知っておくぺきである。一歩踏み出すときに、恐れや不安から放たれて、喜びを持ってみわざに励むことができるのである。
・主イエスを大歓迎した群衆は、主イエスを預言者、また、それがどのような意味においてであれ、王として迎えた。そのような彼らは、主イエスを祭司として受け入れることに欠けていたのであった。しかし、私たちのためにご自身を捧げて、その務めを果たしてくださるのでのである。

●2020年3月29日の説教要旨 「主イエスの宣教の開始」マタイの福音書4:12~17
・先週はマタイの福音書からイエスさまが受けられた試練について学んだ。神さまのみわざを神様の方法でなして行くことの大切さを学んだ。私たちは何かをすることに慣れているが、忍耐を持って「しない」ことに不慣れなように思う。この時期を「すべきこと」に目を留めながら歩みたい。
・主イエスを誘惑した後、しばらく主イエスから離れたと言われている。一方、パブテスマのヨハネは主イエスの道備えをして後に逮捕・投獄された。それを受けて、主イエスは宣教を開始されたという。
・主イエスが宣教を開始された場所、それは、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていた。それは、北王国(イエスラエル王国)がアッシリアによって滅ぼされ、その民は連れ去られた。残された下層階級はイスラエルの命脈を保ったが、民は他民族と混交のゆえに異邦人のガリラヤと呼ばれるようになっていた。その地で、主イエスは宣教を開始されたのである。
・主イエスの宣教開始のことばは、「悔い改めなさい」と民に迫った。「悔い改め」とは方向転換を示すが、それは自分や他人の方を向いていた人間が神の方に向きを変えるということを意味する。「天の御国が近づいた」とその悔い改めの根拠を語ったが、それは「時間的な」意味よりもむしろ「関係的に」理解されるペきものと考えられる。自分の生き方を探る時、神が自分をどのように「生かされる」のかという視点を持って生きて行く者とされたい。

●2020年3月22日の説教要旨 「主イエスの受けた試練」マタイの福音書4:1~11 詩篇91:1~16
・今年の元旦礼拝で、マタイ4:4を読み、神は人の思いを超えた方法で人を養ってくださること、また、主イエスがみことばによって試練に打勝たれたことを学んだ。
・悪魔は、最初の誘惑と同様に「あなたが神の子なら」と主イエスに囁くが、このことばは「あなたは神の子なのだから」と訳す方がふさわしいかもしれない。主イエスにできないことを言っているのではなくて、神の子である主イエスにとっては決して不可能でないことをさせようとしているのである。
・神のみこころであっても、自分なりの力、自分なりの方法で行っていくところに罪が生じるのである。
・今度は、そのみことばを引用して、悪魔は主イエスを試みた。今日の交読箇所・詩篇91篇である。
・詩篇91萬に目を向けたい。これらのみことば、とくに5,6節は「あなたはおそれない。/…/暗闇に忍び寄る疫病も/…。」昨今の新型コロナウイルス禍の最中にまさにふさわしいみことばである。そのような中で、人生の躓きや困難の中で、主は私たちの「足が石に打ちあたらないように」してくださるのである。悪魔の試みの声は、意図的に曲解したものである。・三番自の誘惑は、神が主イエスをこの世に送られたみ旨に適っている。しかし、方法・過程が全くもって異なっていることに注意しなければならない。主イエスの栄光、それは十字架という苦難を通しての栄光なのである。
・イエスさまを信じれば苦難を通らないで済むのではなく、その苦難を主が共に担ってくださるのである。

●2020年2月9日の説教宣教要旨 「ヤコブの子らへの祝福③」創世記49:13~28
・ゼプルンヘの祝福のことばは、「その境はシドンにまで至る」である。この遺言のことばはやがてイスラエル人がエジプトを出て、くじによってカナンの地に得た相続地とは必ずしも合致していない。彼らが受けた相続地は内陸にある。しかし、彼らが与えられた場所を自分の場として受け取って歩んで行く中で、やがて(フェニキア人らとの交易など)海辺にまでその活動の湧を得て行くことになる。どのような場所に導かれても、そこを主からの場所として受け取り、主の約束と祝福を信じて歩んで行くことは私たちの信仰生活にも通じるものがある。
・タンに与えられたことばは、祝福というよりも警告に近いものである。将来起こるタンの暴虐を予見しているかのようにも見える。ヤコブはその警告ののちに、「あなたの救いを待ち望む」と加えている。それが自分のための救いではなくて、タンのための執り成しであることは言うまでもないであろう。失敗を予想して、「それ見たことか」と言うのではなくて、失敗が起こらないように、また、起こつても救いのみわざ-悔い改めや信仰の前進-が与えうれるように祈りもとめることが大切である。

●2020年2月2日の説教要旨 「ヤコブの子らへの祝福」創世記49:1~28
・死の近いことを知ったヤコブは、子どもたちを呼び寄せ、それぞれにふさわしい祝福を与えている。今日は、ルペンと、シメオンとレビヘのことばから学んで行きたい。
・ルペンはレアとの闇に生まれた最初の子どもであったが、父の寝床を汚したためか、長子としての祝福を与えられなかった。この事件を当時のヤコブは直接には攻めなかったが、しかし、今はその罪を明らかにした。
・シメオンとレビは妹のディナが事件に巻き込まれたとき、「割礼」というイスラエルに与えられた約束の印を用いて、シェケムの人々を陥れた。そのことをヤコブは厳しく非難し、「呪われよ」とさえ言っている。その結果は民の間に散らされて行<という裁きを招来した。
・後にシメオン族においては、この預言が厳し<成就している。しかし、レビ族においては、散らされるという預言は成就しているとはいえ、-それは地上に相続地が割り当てられなくても、「主ご自身が相続地」となってくださった。それは、彼らがそのような「呪い」を受けながらも、なお、主を選び取って行くという信仰がもたらしたものであった。

●2020年1月19日の説教要旨 「祝福の継承」創世記48:1〜12
・ヤコブに与えられた祝福が子らに継承されていくことを私たちは創世記の終わりの数章で見ることになる。
・ヤコブはヨセフに自分に与えられた祝福について語った後、ヨセフの二人の息子、マナセとエフライムを自分の子とするとヨセフに宣言した。それはヨセフの関係を深めたい、共に出来なかった人生を共有したいということを意味しているのであろう。
・もう一つはヤコブのヨセフへの愛情の現れということができる。ヨセフは父の財産を他の兄弟の二倍の相続を受けることになる。それは長子に対する扱いと同等のものである。それはかつてヨセフをあからさまに溺愛したことによって他の兄弟との間に確執をもたらしたことを踏まえてのことであろう。
・実際のところ、イスラエルの子らのうちユダが長子の権利を継承し、そこから王が生まれ、イエス・キリストも生まれて来たのである。そこには、人間の好悪による選びと神の選びが異なるということが現れている。

●2020年1月12日の説教要旨 「成就された預言」マタイ2:13~23
・博士たち礼拝のあとのできごとを学びたい。それは①エジプトヘの避難と帰還、②ペツレヘムの幼児の虐殺、③ナザレ人と呼ばれるということであり、いずれも預言者のことばの成就と言われている。
①イスラエルの民は困難なときにエジプトに避難したり、支援を求めたりもした。それは神への信仰と相容れないものと考えられていた。しかし、主イエスもそれを追体験された。それはエジプトに行<ことそれ自体が罪なのではないということを示している。
②ペツレヘムの幼児の虐殺は別の史料には現れない。それは当時の王ヘロデの行った数々の残虐行為の申では特筆するべきことではなかったと考えられる。また、このことはなぜ罪のない子どもたちが死ななければならなかったのかという問いを引き起こすが、私たちは御子の受肉ということが十字架への道であるということを思い起こす必要がある。
③ナザレ人と呼ばれたこと。ヨハネの福音書によればナザレを含むガリラヤからはメシアはおろか預言者は起こらないとされていたことを指摘する必要がある。「ナザレ人」ということばには蔑みが含まれていたようである。

●2020年1月5日の説教要旨 「暗闇が消えて」マタイ2:1~}12
・当時の博士たちは、占星術などにも通じていたと言われている。彼らはそうした方法によってユダヤ人の王の誕生を知ったと言われている。彼らはエルサレムにやってきたが、彼らの来訪はヘロデに大きな動揺をもたらした。
・へロデはユダヤ人の王がメシアであることを悟り、学者や律法学者たちにその生まれる場所を問うたのであった。ベツレヘムで生まれると応えた。
・博士たちは乗方でその星を見たものの、エルサレムに至るまではその星を見ることがなかっだと見ることもできる。へロデを介してであったが与えられた預言のことばに従って主イエスのおられた場所に導かれて行ったのである。
・同じ学者であっても律法学者はへロデを恐れる余り、メシアに危害が及ぶことを恐れることなくへロデに主イエス誕生の場所を教えている。みことばを知っていることが重要なのではな<、そのみことばがまことの神への信仰に結び着けられて行<ことが重要なのである。

●2019年11月17日の説教要旨 「苦難を共に受ける民」 創世記47:13~31
・ヤコブたち一族は、ヨセフのゆえにエジプトの最良の地ゴシェンに所有地を得た。しかし、彼らだけが飢饉から除外されたということはなかったであろう。私たちもこの地上で生きて行く限り、この世界の人々と同様の苦難を共に受ける。私たちの一日一日は私たちの終わりの日まで覚えられているので、私たらが追きれないような重荷をおわせることはなさらないし、その重荷も神さまが共に担っていて<ださるのである。
・ヤコブは、自分が死んだ後にエジプトには葬らないで、カナンの地にある先祖の墓に葬るようにヨセフに誓わせた。私たちは主の再臨のときに肉体をもってよみがえることが約束されている。葬儀についての教えそのものは聖書にあまり見当たらないが、葬儀は大切にされているようである。
・葬儀のための遺書を書くことを勧める教会もある。一度書いた方も、一年に一度くらい自分の人生を振り返り、導かれたみことばや讃美を新たにしても良いのではないだろうか。

●2019年11月10日の説教要旨 「エジプトでの厚遇」 創世記47:1~12
・ヨセフはエジプトに来た家族をファラオに引き合わせた。父ヤコブは当然のことであるが、五人の兄弟もいっしょでであった。原文にある五人に掛かる「隅からの」ということばは新改訳聖書には訳出されていない、意味不明なことばであるが、彼が主要な兄弟ではない者をファラオに引き合わせたということを意味すると思われる。ヨセフは、自分たちのありのままの姿をファラオに見せたことになる。
・ヤコブはファラオと面会したときに、ニ度彼を祝福している。一般に上位の者が下位の者の幸いを願うことが祝福である。ファラオがこの祝福を受け入れていることから見ると、ここで彼らの立場が逆転していることになる。ヤコブの年齢が言われるのが、祝福する前のことであるので、祝福の印である長生きが祝福の資格でないことは明らかである。ヤコブは祖父アブラハムに与えられた神の約束の故に神の御名によって祝福したのであろう。
・私たちも同じようにこの時代にあって、この社会をや地域を祝福する約束と権威を神から与えられていることを心に留めたい。

●2019年11月3日の説教要旨 「エジプトに来たヤコブたち」 創世記46:28~34
・ヤコブはヨセフの元にユダを自分たちに先んじて送り、エジプトの地への導き手としている。それはエジプトへの導き手であるだけでなく、創世記49章のヤコブの子どもたちへの最後の祝福によるならばイスラエルのリーダーとなっている。つまり、ヤコブはレアの4人目の子どもであるにもかかわらず、長子とみなされたのである。
・ユダに先立つ3人の兄たちは父のそばめと関係したり、父の意に反して一族を危険に晒したりしたことによって長子としての資格を失わせたということができる。
・しかし、それだけでな<ユダが導かれたのは、彼が生まれたときの告白によっているのではないだろうか。彼より前の兄たちの名前は、「この子を見よ」とか、「夫に結びつく」とか、人、特にヤコブとの結びつきを求めたものであった。しかし、ユダという名前は「主をほめたたえます」という意味であり、レアの心が主に向けられていることが分かる。ユタ自身の歩みにも、嫁の策略により、死んだ息子の嫁との間に子を設けるという罪を犯している。しかし、それにもかかわらず、主に向かう生き方を父ヤコブが、そして、主が受け入れて<ださってのことであろう。

●2019年10月27日の説教要旨「エジフトに下る前に」 創世記46:1~7
・父ヤコブは「茫然としていた」ということばは「心が麻痺する」ということばである。そして、彼がヨセフの送った車を見たとき、「元気づいた」と言われている。が、それは「霊が生き生きとした」とも訳される。ヤコブのこの変化はヨセフがいなくなったときからの神さまとの関係で考える手掛かりともなるかも知れない。
・ヨセフがいなくなったとき、ヤコブの心は喪失感によって占められて、神さまとの関係が希薄になっていたと考えられる。しかし、ヨセフが生きている、しかも、自分を迎えてくれるということを知ったとき、ヤコブの神さまとの関係も回復していったのだろう。
・やがてイスラ工ルの民に与えられるパレスチナの南の端・ペエル・シェバに来たとき、ヤコブはいけにえをささげて礼拝をささげた。神さまは夜の幻を通してヤコブの名を二度繰り返して呼ばれ、祝福の約束を与えてくださった。
・人は具体的なことがらによって信仰が弱まることがある。反面、現実のことがらや人からのことばがけによって信仰が励まされ、覚醒されることもあることを心に留めたい。

●2019年10月13日の説教要旨 「再会を果たす兄弟」 創世記45:1~28
・ヨセフが涙ながらに自分の身を明かしたが、兄弟たちは驚きと恐れを持ってそれを受け取った。ヨセフはさらに自分に近寄るように兄たちを招いた。後の節を読むならば、ヨセフ自身もおそらく座っていた座から下りて兄たちに近づいていったようである。兄たちが近づいたときヨセフも彼らに近づいていったのである。そしてヨセフは三度、エジプトにいるのは神の配剤によるもので、飢饉にあってヤコブの一家を生き残らせるためであったと兄たちに言った。
・ヨセフは、イエス・キリストのひな型とされる場合がある。それはヨセフのエジプト行きと再会が兄弟たちの罪の端を発しているのと同様に主イエスの受難と復活もユダヤ人たちの罪深さに起因しているということである。そして、主イエスと交わり、その恵みを十±分に受けるためには私たちも主イエスに向かって近ついて行<必要があるし、そのようにすることができるために、主イエスはこの世に来て<ださったのである。
・私たちが神の祝福を十二分に受けるために知らなければならないことは自分自身の罪である。しかし、罪を自分で何とかしようとしたり、赦され得ないものと考えるのではな<、どのような罪も神がイエス・キリストのゆえに赦し、私たち自身を受け入れて<ださることを信じることが信仰の要なのである。

●2019年9月22日の説教要旨 「兄たちへの最後のテスト」創世記44:1~34
・ヨセフはベニヤミンを伴ってやって来た兄たちとともに食事をして彼らを送り出したときに一計を案じた。それはベニヤミンの食糧の袋に自分の盃を入れておくというものであった。ヨセフの元からやって来た追っ手が彼らを論難しその荷物を調べると、果たしてベニヤミンの袋から件(くだん)の盃が見つかった。
・兄たちはヨセフの元に戻り、ヨセフに対して、ユダは自分を奴隷としてエジプトに残し、ベニヤミンを父の元に返して<れるよう、ベニヤミンのためにとりなしをした。ユダに代表された兄たちの思いと父への思いをヨセフが知ったとき、ヨセフは涙を禁じ得ず、兄だちに自分のことを明らかにした。
・こうしてヨセフはかつて自分が見た夢を、このような飢饉の中にあって家族全員を救うことを予言するものであったことを悟るのであった。
・策略を用いて人の本心を探ることはあまり良いことではないかもしれないが、ヨセフにとっても、また兄たちにとっても改めて確認されることが、新しい関係に入るために必要であったのである。そして、そこに人には知り得なかった主の御手を認めるときに、本当の和解と許し合いが起るのである。

●2019年9月15日の説教要旨 「ヤコブの決断」創世記43:1~15
・「神を恐れる」ということには二つの意味がある。一つは「神を恐れかしこむ」ことであり、もう一つは「神からの災いや怒りを恐れる」ということである。ヨセフの兄弟たちが42章の最後で持っていたのは、おそらく後者であると思われる。
・帰途に兄弟の一人の食糧の入った袋から食糧とともに銀が見つかったとき、彼らは神を恐れたが、エジプトに戻って直ちに銀を返すことも、他の兄弟も自分たちの袋を確認することもしていない。彼らは信仰的な意味で神を恐れてはいなかったのである。私たちも自分がどのように「神を恐れている」のか自らを探って見る必要があるだろう。
・二度目に食糧を買いに行く必要が生わじたとき、ルベンは自分の二人の子を引き合いに出して父を説得しようとしたが、受け入れられなかった。自分の子を失ったことがあるユダが説得したときに、ヤコブは受け入れている。子を失うという同じ痛みの共有がヤコブの心を開かせたかもしれない。
・しかし、それ以上にヤコブ自身の変化、成長もその理由であったようである。それは彼の名前が「イスラエル」と呼ばれていることから推測することができる。彼は、神に扱われ、イスラ工ルのリ一ダーとされた者にふさわしく決断している。「子を失うときには、失うのだ」ということばには「主は与え、主は取られる」というヨプの信仰に繋がっているように思われる。

●2019年9月8日の説教要旨 「苦悩する兄たち」創世記42:1~38
・エジプトに食種があることを知ったヤコブは、それを買うために10人の息子たち遣わした。叫:彼らはその地で権力者になっていたヨセフに尋問され、三日間監禁された。一人を人質としてエジプトに残して、残りの9人でカナンの地lこ帰ることになった。
・「弟のことで罰を受けているのだ」と互いに言いつつも、ルベンは自分一人が「罪を犯すなと言ったではないか」と主張した。このような見たちの姿を見たときに、ヨセフは涙を流した。それは、時を経ても変わらず不和がある兄たちの姿に失望してのことだろう。
・ヨセフは食糧を詰めた彼らの袋の口に銀を戻すようにしもペに指事していた。家路の途中の宿泊所で兄たちのうちの一人が自分の袋の中に銀を見出し、一同は恐れるが、エジプトに引き返すことも、自分の袋も調べて見ることもなかった。彼ちのしたことは自分たちが言うほどには「正直者」ではなかった。
・今日の箇所から私たちは、「時間が経っても人は変えられない、神の取り扱いがあって初めて人は変えられていくのである」ということを教えられる。私たちは平時にあっても有事にあっても、主の御声を聞き、主め御手を見極めることが大切である。

●2019年9月1日の説教要旨 「実り多いものとされたヨセフ」創世記41:50~52
・ヨセフは、ファラオの夢を解き明かした。ファラオはエジプトの全土を支配し、来るべき飢饉に備えるようにヨセフに指示した。飢饉の前にヨセフは、ニ人の子どもが与えられた。ヨセフは自分の子どもに名前を付けているが、それは彼の心境と決意を表すものであった。
・一人目の子どもをマナセと名付けた。それにはこれまでの苦労と父の家のことを忘れ去ったという意味が込められていた。新しい家族を作って、ここで生きていくとい う決意がそこに現れている。
・ここで「労苦」ということばが用いられている。人は困難に陥ったときに、神に助けを求めることもあるが、神を呪うようなこともあるものである。
・ニ人目の子どもにはエフライムと名付けた。苦しみの地で、実り多いものとして<ださったということで、日本人的には「実」ということだろう。
・この「苦しみ」とは「貧しさ」とも訳されることばである。しかも、自分ではどうすることもできない苦しみや貧しさである。新約聖書のみことばを思い起こすならば、それは主イエスに依り頼む他には、解決することのできない、そういう貧しさ、苦しみである。そこで主イエスに出会う時に、私たちの人生は実り多いものとなるのである。

●2019年7月14日の説教要旨 「兄たらに捕らえられるヨセフ」創世記37:12~36
・17歳になっていたにもかかわらず、まだ羊飼いの見習いであったヨセフは、ある時、父の言いつけを受けてシニケムにいる兄たちの様子を見に行った。父が作ってくれた長服を着て、出かけて行った。
・シニケムをヨセフがさまよっていると「ある人」がヨセフに「何を探しているのですか」と話しかけ、兄たちがドタンに移動したことを教えた。このことによってヨセフの人生が大きく動<ことになった。
・ドタンに行ったヨセフは殺意を抱いていた兄たちに捕らえられた。兄たちは、獣に襲われたことを装って、彼を殺そうとするが、ユダの提案によって、奴隷として隊商に売られてしまった。エジプトに売られたヨセフは、そこで人生の訓練とイスラエルが飢饉から救われるための道備えをすることになるのである。
・「ある人」と名前も記されていない人によって、ヨセフの人生だけでな<、イスラエルの命運が関わるようなできごとが引き起こされて行く。私たちに福音が伝えられてきたのも、有名無名の多くの人たちによっている。私たちの歩みも福音を次の人、次の世代にもたらす者として用いられる者とさせられたいものである。

●2019年7月7日の説教要旨 「夢を語るヨセフ」創世記37:1~11
・ヨセフは兄たちの悪いうわさをイサクに告げていた。イサクは一番愛した妻ラケルの子であり、しかも年寄り手であったヨセフを溺愛した。そのためにヨセフの兄たちはヨセフを嫉妬した。イサクはヨセフにあや織りの長服を作ってやっていた。働くためには不向きな晴れ着のような服を平気で着て羊飼いの仕事に出かけていた。17歳にもなっていたにもかかわらず、未だに「手伝い」であったことにも、父イサクの偏愛が伺える。
・そのような中で、ヨセフは自分の見た夢を兄たちに語った。ニ度繰り返されているこれらめ夢はヨセフ流に解釈するなら、そのことが確実に起こると主がお示しになったということになるだろうが、兄たちばかりか、父イサクまでもがその夢のことでヨセフをたしなめた。
・ヨセフは主から特別な使命を与えられたのであるが、そのことを彼は信仰で、神と自己との関係で受留めることをせず、人との関係で受け取ったのであった。
・主の特別な祝福や賜物が与えられるとき、人は謙遜にそれを受け取って行<必要がある。もしそうしないならばそうした賜物や祝福が交わり全体の祝福とはならない。
・自分に与えられた賜物や祝福を謙(へりくだって受け留めさせて頂きたいものである。

●2019年6月16日の説教要旨 「シニケムに報いるシメオンとレピ」創世記34:1~31
・ヤコブたちは厳しい事態に遭遇する。娘ディナがシェケムによって凌辱されたのである。この事件は決してディナの軽率さが招いたというものではない。責任を求めるとすれば、エサウと共にセイルに行かずにシェケムに宿営したヤコブにある。この事件に際して、ヤコブは父としてのリーダーシップを発揮することはしなかった。野にいた息子たちをすぐに呼び戻すでもな<、一番重要なことである神に祈るということもなかったのであった。
・ハモルはヤコブのもとにやって来て、ディナを自分の息子シニケムの嫁に欲しいと申し出て来た。略奪婚という結婚の形態があった時代のことではあるが、ハモルと族長の子として育てられたシェケムの独善性を看取することができる。ヤコブの子らは結婚の条件として彼らに割礼を受けるように求めた。割礼の傷が痛んでいるとき、シメオンとレビが彼らの町を襲い、略奪した。ヤコブはこの出来事に対して、自らを案じて、「困ったことをしてくれた」と息子たらに語った。しかし、「娘が遊女のように扱われてもよいのですか」と問う息子たちに返すことばを持たなかった。
・ヤコブはこのような危機に際して、神に解決を求めて祈ることをしなかった。このことが彼の最も大きな失敗であった。祈り、それは神に願いごとをすることでもあるが、同時に神の導きやみこころを聞<ことを大切な要素として含んでいることを今一度覚えたいものである。

●2019年5月26日の説教要旨 「エサウとの和解」創世記33:1〜20
・先主日は、ヤコブが新しくされたことを学んだ。今日の箇所は、「ヤコブが目を上げると」ということばで始められている。それは彼がその時まで祈っていたことを示すものであろう。
・エサウに近づくのに際して七回ひれ伏している。ヤコブではなくて、エサウの方が走り寄って来て再会を喜んだ。特別な扱いを受けて新しくされたとしても、状況や現実が変わるわけではない。それらを見る目が新らしくされ、また変えられる。エサウが連れて来た四百人は自分に敵対する四百人でなくて、自分を歓迎するものと映ったことであろう。
・ヤコブはエサウに「神の顔を見ているようです」とまで言っている。これが社交辞令でないとすれば、神に扱われたヤコブは、今や自分を殺そうとまで言ったエサウにさえも神のみわざを見るようになったようである。
・しかし、ヤコブはエサウに対して完全に心を許したわけではなかったようである。エサウがセイルに戻り、ヤコブ自身もそこに行くと言ったにもかかわらず、ヤコブはスコテに行ってしまったのである。変えられたとはいえ、変えられた者として一貫して生きることのできなかったヤコブの姿がここに現れているのである。

●2019年5月19日の説教要旨 「神との格闘」創世記32:22〜32
・ここでは「ヤコブが闘った」のではなく「ある人が(ヤコブと)闘った」と言われている。このことは、私たちは神さまの祝福を求める者であるが、神さまの方では既に祝福を用意して下さっていて、私たちが祝福を受けるのにふさわしく整えられるのを待っていてくださっているのであるということを示している。
・ある人は彼を祝福する際、ヤコブにその名を問った。ヤコブは自分の名を改めて答える中でヤコブは自分の名前の通りに生まれた時から兄を押しのけ祝福を奪い取って来たことを思い起こしたに違いない。
・神の祝福を求めるといいながら、自分の願いを神のみこころに先立てていることが多い。私たちは神に扱われてみこころを先立てる者に調えられていく必要がある。それはイエスさまのゲッセマネの祈りに繋がるものであり、信仰のゴールということもできる。
・ヤコブはある人に「あなたの名を教えてください」と問うているが、ある人はヤコブを祝福することによってこの問いかけに応えている。「その場で彼を祝福した」と言われているが、その祝福がご自身の御名によっていたものと考えられる。祝福の源は神ご自身なのである。
・この戦い以来、ヤコブは、足を引きずるようになってしまって、肉体的には不自由になったかもしれないが、このことは神が確かにヤコブに現れ、祝福して下さったことの確かな証拠なのである。

●2019年4月7日の説教要旨「神、主こそが証人」 創世記31:43~55
・ラバンとヤコブとの最後の対話が記されている。ラパンはヤコブの所有物すべてが自分に由来すると語り、ヤコブに相互の不可侵と娘の保護のために契約を結ぶことを申し出た。
・二人は証拠の塚にそれぞれ自分の母語で名前を着けた。ヤコブが敢えてヘプル語で名前を善けることには、彼の決意が窺われる。それは自分がカナンの地に帰って行き、そこに生きるという決断である。そこにはかつて騙した父イサクやエサウがいるが、カナンの地こそが自分が本来いるペきところであるということを確信し、決断したのである。そのように歩むことが主の導きと信じたのである。
・また、そこはミツパとも呼ばれた。元来それは、娘たちを案じてのラパンの命名によるものと考えられるが、それは二人の合意の元に着けられたと考えられる。それは主こそが見張りをされる-主が見ていて<ださるというヤコブの願いに適っていたのである。
・ラパンは神を、多神教的に「アブラハムの神、ナホルの神、彼らの父祖の神」と呼んでいるが、それにもかかわらず、ヤコブは自分の神に向かい、その神に誓ったのである。

●2019年3月31日の説教要旨 「ヤコブに迫るラパン」創世記31:22~42
・ヤコブに追いついたラパンであったが、神から事の善悪を論じてはならないとの戒めを受けた。それはラパンがヤコブとその家族にいかなる意味でも害を加えてはならないということである。まことの神はヤコブを守るために、ご自身を知らないラバンに対してさえも現れたのである。
・ラパンは自分の娘や孫たちを連れて何の断りもな<去ろうとしたヤコブの非礼を赦したが、自分の神テラフィムが失くなったことを、ヤコブのせいにし、ヤコブ一家の家捜しをした。偶像が見つからなかったとき、ヤコブはラパンを責め始めた。ヤコブの批判は偶像のととに留まらず、ラパンの下での20年間の仕打ちに対する不満をぶちまけた。
・害を加える力を十分に持っていたラパンではあったが、このことについてもヤコブを赦したのであった。ヤコブが守られた根拠は、ただただ神の恵による選びであろう。
・主は人それぞれにふさわしい「カリキュラム」をもって育てて<ださるのである。

●2019年3月24日の説教要旨 「ラパンとの決別の原因」創世記31:1~21
・ヤコブがその地位をラバンに確認した後、ラバンの群れを飼いながら、自分の富を増していった。しかし、富が増すにつれて、ラパンやラバンの息子たちとの関係は悪化していった。
・そのような中で主はヤコブに帰省するように語りかけた。それは夢の中でのヤコブの祈りの答えであった。「目を上げると」ということばが、こうペを垂れて祈るヤコブの姿を彷彿とさせる。
・へりくだってというよりも自分の現状に目が留まってしまって、神に目を向け急ことのできないヤコブの姿を表しているかも知れない。
・そのような彼に対して主は「ヤコブよ」と呼びかけ、語りかけて、ヤコブの最初の主との出会い-ペテルのできごとを思い起こさせる。それは、帰省の決断を促すというよりも、帰省しての安心を主が保証して<ださるというものだった。
・そのような確信を頂いていたヤコブであった。しかし、ラケルは父の家の偶像テラフィムを盗み出した。なお父の家や財産へのこだわりを捨てることができなかったようである。

●2019年3月17日の説教要旨 「ヤコブの帰省への備え」創世記30:25~43
・ヤコブはラバンに帰省の許しを求めた。彼の立場ではラバンの娘を娶っていたとはいえ、彼の許を去るときに妻や子たちを連れて行<ことにラパンの許しが必要だった。それは彼に与えられた地位が奴隷に近いものであったことを意味している。彼は帰省そのものよりも、いわば労働条件の向上や賃上げを願っていたようである。
・ラバンはヤコブの働きや帰省の意向を受け止めつつ、報酬の提供を申し出た。ヤコブは当時、生まれることが少なかった黒や斑のやぎや羊を報酬として求めた。そして、引き続きラパンの群れを飼うことにしたが、当時のやり方で自分の報酬がますようにした。
・創世記の記者はこの章の結論を「この人は大いに富み‥」としているが、そこに神や主の名前は見当たらない。つまり、このことが主の御手によらず、ヤコブの知恵によって行われたことを示しているように思われる。
・このように人間的な策略によって自分の立場を強め、財産を増そうとしたとき、31章に見られるように、ラパンやその息子たちの反発を買うようになってしまった。
・ラバンがヤコブヘの主の祝福を認め始めたところであったが、ヤコブの肉の知恵や力によって主の祝福が消し去られてしまったのであった。

●2019年3月3日の説教要旨 「ラケルを顧みられる主」創世記30:22~24
・「主はラケルを心にとめられた」と記されている。彼女の状態や心の思いに主は関心を持って下さったということである。主はラケルが主に求め祈っていたときも、また、以前に夫ヤコブに向かったり、恋なすびに頼って自分の子どもを求めたときも、主は絶えずラケルを見つめておられた。だから、彼女が主に向かって祈ったとき、主は「やっと自分に心をむけてくれたか」と思い、喜ばれたように思う。神である主は、いつでも私たちを見つめ、私たちが「主よ」とあるいは「あなた」と呼びかけることを待っておられる。
・主は彼女の願いを聞かれた。不妊の女の癒しという主題は、サラ、リベカ、またハンナなど聖書の中に多<登場する。いのちは神によって作られ、導かれていることを私たちは心に留めたい。
・彼女は生まれた子どもをヨセフと名付け、「主が男の子をもう一人・・」と祈る。ここに「神」ということばでなく「主」ということばをロにする。ヤコブの神への信仰の萌芽をここに見ることができる。
・神の存在証明によって一般的な神の存在を知ることができるが、どなたが神かということを知ることができるのはみことばと祈りによるということを心に留めたい。

●2019年2月10日の説教要旨 「姉妹の確執」創世記30:1~8
・ヤコブのもう一人の妻ラケルは自分が子どもを生めないのを見て、夫のヤコブに「死にます」とまで言って、迫った。その迫り方は、ヤコブが「怒りを燃やす」ほどに激レいものであったようである。
・このことは後に明らかになるが、ラケルは姉レアがヤコブの神を居じたようには信じずに、家の偶像の神を引きずっていたようである。まことの神を知らない彼女は夫ヤコブに向かうしか術がなかったのである。
・自分の願いを天に拒絶されて-神ならぬ身のヤコブにはそれは当然のことであるが-ラケルは、自分の女奴隷ピルハを差し出し、現代風に言えば代理出産」によって子を得ようとした。確かにこの策は功を奏した。しかし祖父アブラハムの例を見るまでもな<、この方法は兄弟たちの間に殺意にも繋がるほどの不和をもたらしたのであった。
・ラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れ」と言ったが、生ける神、主(ヤハウェ)ということばではなく、ただ普通名詞の神ということばを使った。主に触れていただいたというよりも、子どもが与えられたという事実からラケルが感じたことなのだろう。
・二人目の子どもが与えられたときも、彼女は姉レアとの死に物狂いの争いに勝ったと言った。神を本当の意味で知らないラケルにとって、気になるのは常に人であり、あわれみを垂れたもう神ではなかったのである。

●2019年2月3日の説教要旨 「レアの生んだ子ら」創世記29:31?35
・レアはヤコブと結婚した。結婚とともにレアはヤコブの信じる神、主を自分の神としたようである。」 主がレアを・・見て(31)」、また「主は私の悩みを見て・・・」ということばから容易に推察さうることができる。彼女にとって結婚は、新しい信仰へのスタートであった。
・主は彼女の胎を開かれ、ルベン、シメオンと子どもを与えられた。その度に、妊娠出産という出来事が主の主権にあることを認めつつ、夫の愛を期待したのであった。
・彼女はさらに身ごもり、第三子レビを生み、「今度こそ、夫は私に結びつくでしょう」と期待するのであるが、どうやら実現しなかったようである。
・そのような彼女がさらに身ごもったとき「今度は、私は主をほめたたえます」といった。「今度は」とは「今までは別のものを求めていたが、今回は違ったものを求めます」という意味である。今までは夫の愛を求めて来たが、今、自分になされた主のみわざを省みる時に、それで十分、いや、それが最も幸いなことということに気がついたのではなかろうか。それが彼女をして主をほめたたえる者としたのである。
・祈りにゴールがあるとすれば、それは願ったことが実現することではなくて、自分の人生に神である主の主権とみわざを認め、神をほめたたえるようになることである。

●2019年1月6日の説教要旨  「祝福への旅立ち」(創世記28:10?22)
・イサクの息子ヤコブは父イサクが兄エサウに与えようとしていた祝福を父の目を欺いて奪い取った。兄エサウの怒りはヤコブへの殺意にも嵩じていった。結局、ヤコブが殺されることを恐れた母リベカは彼を自分の故郷・ハランに送り出さざるを得なくなってしまったのであった。
母の故郷ハランでヤコブはラケルやレアと出会い、家族を設けることができたが、叔父であり、義父となったラバンの不公正な仕打ちに悩むことになる。しかし、それはヤコブにとって人生の訓練となって行くのであった。
・エサウからの逃避行のその最初の夜、ヤコブは夢を見た。それは、ヤコブがどこに行っても神は共にいてくださり、祝福としてくださることを知らせるものであった。ここでヤコブは、先祖代々の神としてではなく、自分の神として生きてくことになるのである。
彼の旅立ちは、小賢しい知恵を頼みとした生き方に別れを告げ、終生共にいてくださる神との出会いと神のお取り扱いの始まり、祝福への旅立ちとなったのである。
・「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)」というみことばをパウロは書いている。私たちの間にも神がみわざをなして完成させてくださることを、使徒パウロと共に信じ、告白させて頂きたい。

●2018年12月9日の説教要旨 「全知全能の神」(詩篇139:1~24)
・この詩篇は、全知全能の神、すでにすべてをご存知の神が、「私を探」ってい下さっているという詩人ダビデの告白から始まっている。それは神さまが「私」という存在に興味を持ち、好意を抱いていて下さっているということである。さらに詩人はこの方を思索の結果得た産物ではなく、そこにいらっしやる方としてあなだと呼んでいる。しかも、名も知れず、どこかにおられるかも知れない「神」を呼んでいるのではな<「主」とその名前を呼んでいるのである。その神は、私の生活の全てを、寝ている時も覚めている時もいつでも、また頭のてっぺんから足の先まで、また心の内にある一切を知っていて下さっている。
・それほどまでも「私」を知ろうとして下さっている根拠は、自分のうちにない。しかし、どれほどの罪に陥ってしまっていたとしても、神は変わらず「私」を知っていてくださり、「私」と共にいてくださる。それは、私が母の胎内にいる時から、否、その遥か以前から・・・。
・そのような神を知ったとき、神を否定し、その敵となることの愚かさ、罪深さに、詩人は怒りをさえ覚える。しかし反面、そのような弱さ、愚かさ-罪人性-を自分にも見出し、神に自分のうちを探って頂き、導いていただ<ことを求めるのである。

●2018年12月2日の説教要旨 「唯一の神」(出エジプト記20:2,3、32:1~35)
・モーセが主から律法を与えられている最中、イスラエル人たちは辛抱強<待つことができずにアロンに自分たちに先立って行く神を造るように要求した。エジプトからの解放を経験し、直前にはホレフでの主の降臨を見て、恐れを覚えたにもかかわらず、彼らの心は「目に見える神」を要求したのであった。彼らの弱さは責められるぺきであるが、私たちはここから、人間とはそれ程までに弱い者であることを知り、それを心に刻むペきである。
・イスラエルの背信を知ったときにモーセは激怒したが、再び神の山に上り、主の前に立ったときには自分の名をいのちの書から消し去っても構わないと必死になってイスラエルのために執り成した。そこに神の人モーセの偉大さを見ることができるが、それは神ご自身の決めることと神はその申し出を退けられた。ここに執り成し手としての人間の限界を否応無しに知らされる。結局、神の前に人間の罪のための執り成し手となり得るのは神ご自身以外にはあり得ないのである。
・神は唯一であるということは、数の問題ではな<、聖書でご自身を啓示された方のみが神であるということである。アダムとエバが神に対して罪を犯したとき、即座に彼らを滅ぼし、新しい人類を創造をする権利を神は持っていた。それにもかかわらず、神は人類のために救いを備えて<ださったのである。

●2018年11月11日の説教要旨 「偏愛がもたらすもの」(創世記27:1~13)
・イサクはエサウを呼び、自分が彼を祝福するために野に行って獲物を仕留め、それを美味し<(自分にふさわしく)料理して自分に食べさせるように求めた。無条件で与えられる神の祝福の約束と対照的である。イサクは終生自分の好みを先立てて、主のご計画や主が子どもたちに与えられた性格や賜物を受け入れるということがなかったのである。
・一方でリベカは、このことを聞き、息子ヤコブを呼び、兄が受けようとしている祝福を奪い取るように唆す。それを聞いたヤコブは、もしイサクがヤコブに触っだら、エサウでないことがすぐに判ってしまう。そしたら却って呪いを受けることになると恐れたのであった。逆に言えば、バレなければ良いということである。事実彼は母親の用意したエサウの着物とやぎの皮で変装してイサクのもとに向かったのである。
・イサクとリベカは、こどもたちが生まれる前に与えられた主のことばを共有していたのであろうか?もし共有されていなかったのなら、その時点で主を中心とした夫婦関係が破綻していたことになるだろう。もしイサクがこのことを知っていながらエサウを祝福しようとしていたならば、確かに責められるペきはイサクということになろうが、リベカはヤコブに祝福の横取りを勧めるのではな<、イサクに翻意を促すペきであったろう。何れにしても向かうぺきところが違っていたのである。

●2018年11月4日の説教要旨 「主が共にいてくださる」創世記26:26~35
・神が人と共にいてくださるという主題は、聖書の中心である。旧約聖書の創造物語も人の登場をもって閉じられている。また、新約聖書の初めのマタイの福音書も系図を提示した後の最初のキリスト降誕のエピソードをインマヌエル預言で結んでいる。また、聖書の最後の黙示録も「主イエスよ、来て<ださい」と結ばれている。
・今日の箇所ではゲラルの王アピメレクは「主があなたと共におられることを確かに見ました」とイサクに語り、盟約締結の提案をする。
・イサクとアピメレクが盟約を結んだ日に、イサクのしもべたちが「水を見つけた」と報告してきた。この「水を見つける」ということは、それが「掘り当てた井戸について」の報告であることから、彼らが探し求めた結果であることがわかる。
・私たちに主の恵みや導きが与えられることも、漠然と待っているのではなく、井戸を掘り当てるような、具体的な求めが必要である。祈り、みことばを開き、あるときには人に相談するということも当然そこに含まれる。
・私たちも恵みが与えられることに貧欲になって、熱心に祈り、恵みや導きを受け取る者とさせて頂きたいものである。

●2018年10月7日の説教要旨 「兄弟の葛藤の始まり」創世記25:19~34
・「イサクの歴史である」といわれている。聖書の記述は、アブラハムからイサクとその子らに中心を移している。
・イサクが妻のために祈っだと言われているが、妻自身のためにというよりも、「妻が不妊であることを」あるいは「妻に子が与えられるように」祈ったと言った方がよいと思われる。
・また、リベカの胎に子が宿ったために不安になったとき、その不安を夫イサクとは別のところに解決を見出した。それは主のみこころを求めたことであり、一見すればそれはそれでいいことのように思われるが、夫と分かち合ったことが記されていない、と言うことはやはり問題と言わざるを得ない。イサクが「兄が弟に仕える」という託宣をしっかりと受け止めていなかったように思われるからである。これらのことがらにイサクとリベカの夫婦が必ずしも機能していないことが現れている。
・また、エサウとヤコブがある程度の年齢になったときの長子の権利を巡ってのエピソードが記されている。それは一杯の食物と長子の権利を譲ってしまったというものであるが、旧約聖書の記者だけでなく、新約聖書の記者も長子の権威を侮ったと記している。
・今日の箇所に記されている4人が4人とも、主の前に何らかの欠けを持っていた。しかし、主のご計画は、そのようなことによっても妨げられず、進んでい<こともある、そのようなことを今日の箇所は教えている。

●2018年9月23日の説教要旨 「永遠に残る家」1コリント3:10~15
・JECAの開拓伝道のモデルケースとしたいと願いをもって、イエス・キリストを救い主と信じる信仰を土台としてこのこどもの国キリスト教会はスタートした。1998年4月5日棕櫚の主日が最初の礼拝であった。
・6節で「私(パウロ)が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」と言われている。また、9節には「私(パウロ)たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」とも言われている。今日の箇所はその建物がどのようなものであるかを語っている。
・建物を建てるために一番大切な人は建築家である。パウロは自分を神の恵みによる賢い建築家にたとえている。彼はイエスがキリストであると言う信仰を教会の土台として据えた。
・据えられた土台の上に建てる人とは、パウロのような伝道者ではな<、そうした信仰を与えられた人である。「土台の上に家を建てる」とは、どのような信仰生活を送るのかということを意味している。
・働きを明らかにする「その日」(13節)とは二重の意味があると思われる。一つは人生の中での試練の時であり、もう一つは終わりのさばきの日である。
・木、草、わらで家を建てるとは普通の家を建てることを意味しているが、金、銀、宝石で作るとは普通の家ではなく、神の宮(家)、神殿を建てることを意味している。そして16節は、私たちは神の宮、神殿とされていることを語っている。
・教会に来た時はキリスト者らレく振舞えても教会以外ではなかなか難しいことが多い。しかし、自分自身の欠けを知らされ、悔い改めを頂いて歩むこと自体が聖霊のみわざであり、みこころにかなった信仰生活なのである。
・救いは恵みであるが、私たちには福音のための報いが約束されている。ただ福音のための報いはこの地上では与えられないかも知れないが、終わりの日には主のおほめのことばが与えられ、報いが与えられる。
・私たちは、この地上でどのような建物を立てているだろうか。

●2018年09月16日の説教要旨 「母亡き後の慰め」創世記24:62~67
・62節からのこの段落は、「一方イサクは」と始められている。それはイサクの妻となるリベカがしもべによって見出され、結婚の準備が着々と進んでいたが、イサクの方はイサクの方で結婚の準備が進んいたことを意味している。イサクは自分にゆかりのある地域を行き巡っていたようである。それはアブラハムの後継としてふさわしいことと言えるだろう。人と人とが何らかの意味で出会うときに、それが結婚ということでな<とも、主は両方を整え、導いているのである。
・「イサクは夕暮れ近<、野に『散歩』に出かけた」とあるが、このことばは、聖書に一度しか出て来ないことばで「瞑想」と訳される場合も多い。イサクはこの時、一日の終わりにその日の自らの歩みや主の恵みを思い巡らしたと考えたい。
・そのようなイサクとらくだに乗っていたリベカは互いに目を上げて見つけた。リベカはペールに身を包んだ。それは婚礼の前の女性の誓いに従ったものであり、イサクを夫として受け入れることを示したものと思われる。
・イサクはリベカを母の天幕に連れて行き、「母亡き後の慰め」を得たと記されている。このことは母から得られた慰めに悪い意味で留まったり、懐かしんだりしたのではな<、それを後にして新たに夫婦としての関係に慰めを受けたことを示したものである。
・主とそのみことばを思い巡らす中で、私たちの歩みの中に働かれる主のみわざを悟ることができることを心に留めたいものである。

●2018年8月19日の説教要旨 「サラの死と埋葬」 創世記23:1~20
・アブラハムの妻サラが死んだ。アブラハムは痛み悲しみ泣いたと記されている。キリスト者の死は終わりではないのだから、それを悲しむべきではないとする向きもある。しかし、地上での別れでも悲しみがあるのだから、無理をして嘆き悲しむことを堪えな<てもよいのではないか。何れにしてもアブラハムの悲しみは深いものがあったろう。
・アブラハムが死んだ妻のそばから立ち上がるまでにどれほどの時を要したか知る由もないが、十分に悲しみ泣いたのちになって初めて立ら上がることができた。
・私たちも身近な人を失った人には、「しっかりと悲しむことができるような」環境整備は必要なことである。無理な我慢をせずに悲しむことができる環境が与えられることは大切なことである。そのような状況にある人を私たちは主にあって慰れるものではあるが、その慰めは悲しみを禁じるものになってしまうこともあり得ることを心に留めたいものである。
・立ち上がったアブラハムは、サラを葬るための土地をヒッタイト人たちに求めた。その願いは受け入られた。彼が希望した畑地と洞穴には「何ほどのこともない」と言われているもののかなり高い額が要求されているが、そこにはアブラハムがヒッタイト人にとっては異邦人であったことも勘案されているのではないだろうか。

●2018年8月12日の説教要旨 「試練の後に」創世記22:15~24
・平和を祈念する日を迎えるにあたって、「平和を造る書は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」とのみことばを覚えたい。平和を造るためにキー」スト者は召されている。しかし、その平和が自分のための平和であるなら、私たちは容易にトラブルメーカーとなり、戦いの元となってしまう。私たちが求めるのは神さまの平和であることを覚えたい。そして、その第一の方法は、祈ることである。たとえ、平和に貢献するように見えることであっても、神さまに祈ることなしには意味をなさない。私たちはお互い向き合って平和を求めるのではなくて、神さまの方を向いて、平和を求める者でありたい。
・さて、今日のみことばでは、イサクを屠ろうとしたのをとめた主は、「アブラハム、アブラハム」と再び、しかも、二度度彼の名を呼び、主の祝福の確認がなされている。「自分の子、あなたのひとり子を惜しまなかった」ことによって、イサクは改めて約束の子となったのである。もし、アブラハムがイサクを捧げることをしなかったならば、もはや主の救いの計画はそこで止まってしまうことになるのである。
・私たちの救いも、私たちで終わってしまうのではな<て、家族に、友人知人と分かち合い、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」というをみことばをわが祈り、わがみことばとして歩む書とされたい。

●2018年08月05日の説教要旨
「アブラハムの試練」創世記22:1~14
・「これらの出来事の後で」と言う表現は内容的には「危機を乗り越えた後で」と言うことであり、前にもー度用いられている表現ある。今回はアビメレクと契約を結んだ後である。アブラハムにはほっとする思いがあったことだろう。彼はそこに神の臨在と守りを感謝して、タマリスクの木を植えたのであろう。
・しかし、人とは愚かで罪深いもので、そうした確信が嵩じると「自分の信仰」が神の選びや祝福をもたらしたものと勘違いをすることがある。神のみこころに自分の目、自分の判断を合わせるのではな<、自分の思いや決断をみこころとしてしまうことが多々ある。そのような霊的な状態に陥った中で神はアブラハムに試練を与えられたのである。
・神はアブラハムにイサクを献げるように誇りかけられた。このイサクについて神は「あなたの子」、「あなたが愛しているひとり子」と語られた。本来イサクは「約束の子」と呼ばれなければならなかったのである。神の御声によって彼は自分の不信仰に気付かされたのであろう。彼が「翌朝早く」に出発したことにそのような気付きと悔い改めが現れている。
・三日目に神の示された場所が見えた。若者たちと別れる時にアブラハムが「私と息子はあそこに行き、・・・戻って来る」と言ったことの中に、どのような仕方か分からないが必ずイサクを死者の中から取り戻すことができると言う彼の信仰が現れているのである。

●2018年7月29日の説教要旨「アブラハムの試練」 創世記22:1〜14
・「これらの出来事の後で」と言う表現は前にも一度ある。それはロトの解放のための戦いでも勝利の後であった。今回はアビメレクと契約を結んだ後である。アブラハムはほっとする思いがあったことだろう。彼はそこに神の臨在と守りを感謝して、タマリスクの木を植えたのであろう。
・しかし、人とは愚かで罪深いもので、そうした確信が嵩じると「自分の信仰」が神の選びや祝福をもたらしたものと勘違いをすることがある。神のみこころに自分の目、自分の判断を合わせるのではなく、自分の思いや決断をみこころとしてしまうことが多々ある。そのような霊的な状態に陥って中で神はアブラハムに試練を与えられたのである。
・神はアブラハムにイサクを献げるように語りかけられた。このイサクについて神は「あなたの子」、「あなたが愛しているひとり子」と語られた。本来イサクは「約束の子」と呼ばれなければならなかったのである。神の御声によって彼は自分の不信仰に気付かされたのであろう。彼が「翌朝早く」に出発したことにそのような気付きと悔い改めが現れている。
・三日目に神の示された場所が見え、若者たちと別れる時にアブラハムが「私と息子はあそこに行き、・・・戻って来る」と言ったことの中に、どのような仕方か分からないが必ずイサクを死者の中から取り戻すことができると言う彼の信仰が現れているのである。

●2018年7月15日の説教要旨 「ハガルヘの導き」創世記21:14~21
・アブラハムは主のことばに従って、ハガルとイシュマエルを追放した。それはハガルたちにとっていくあてのない旅の始まりであった。彼女は嘆き悲しむが、神は「少年の声」を聞かれ、彼らを顧みられ、御声をかけられた。以前にも約束を与えられていたが、もう一度「彼は強い国民となる」とのみことばを与えられた。そして、彼女の目は開かれて井戸を見つけてその水を皮袋に満たし、また、少年に飲ませた。
・今日のみことばから三つのことを学ぶことができる。
①主はことばにならないような呻きさえも聞き取り、応えてくださる。
②主のみこころを受け取り、そこを歩むためには励ましが必要である。
③どんな素晴らしい恵みが目の前にあっても、霊の目が開かれなければそれをみつけることもできないし、味わい知ることもできないということを教える。
・また、前の週の箇所にも関わることであるが、主のことばを主の語ろうとすることの全体ではな<て、一部分を聞いて、心が塞がってしまい、それ以上聞けなくなったり、あるいは、まっすぐに理解することができな<なってしまうことがあることに注意することが必要である。

●2018年7月1日の説教要旨 「預言者と呼ばないで②」創世記20:8~18
・アブラハムはアビメレクに呼び出され、おそらく衆人環視の中で、彼の愚行を責められたことだろう。しかし、それでもなお、アブラハムは反論を試みた。それは「この地方には、神を恐れることが全くない」とのことばであった。自分のしでかしたことに愚かなまでに無自覚な、そして矛盾した言い訳である。
・その中でアブラハムは「神が私を父の家から、さすらいの旅に出された」とまで言っている。どのような決心をして旅に出ようとも、神を見失うならば、それは行き先の定まらない「さすらいの旅」になってしまう。自分がなぜ、ここにいるのかを今一度見つめ直し、出発点に、その決意に戻っていくならば、さすらいの旅から解放されるのである。
・アブラハムにとってそのきっかけは何だったのだろうか。主との関係の回復である。おそらく彼は、アピメレクに促されて祈り始め、自分の落ち度に気つき、悔い改めたことだろう。そして、その上でアビメレクのためのとりなしの祈りを捧げることが出来たのだろう。
・主はどのような人やことがらでも私たらの信仰の前進や悔い改めのために用いることがお出来になることを心に止めたいものである。

●2018年6月24日の説教要旨 「預言者と呼ばないで」創世記20:1~7
・アブラハムは、かつて飢饉を避けてエジプトに降った時と同じ過ちを犯してしまった。妻サラに「自分はアブラハムの妹だ」と言わせて、自分が殺されないようしたのである。
・神はアピメレクに現れて、サラがアブラハムの妻であることを告げた。そればかりではな<、アブラハムが預言者であることを告げ、アピメレクが生きるためには、アブラハムの祈りが必要ということも告げた。
・神ご自身が「アブラハムは預言者である」と言ったことから、私たちは信仰についての大切なことを学ぶことができる。それは、信仰が先なのではなく、神の選びが先にあるということである。「嘘をつくから嘘つきなのか、嘘つきだから嘘をつくのか」という問いは、信仰に関しては、神が選んでくださったから、神を信じることができる、神が聖霊を私たちの心に送って<ださったから、イエスさまを主と告白することができるのである。預言するから預言者であるのではなくて、預言者だから、神が預言者として召してくださったから、預言者であり、預言するのである。
・私たちは、自分のものであれ、他人のものであれ、行いを見ていると、その信仰を疑ってしまうようなことがある。しかし、大事なのはその人が聖霊を頂いて、イエスさまを救い主と信じているか、ということにあるのである。

●2018年5月20日の説教要旨「荒れ果てた時代の中で」創世記19:1~11
・今日2018年5月20日は、ペンテコステ(聖霊降臨主日)である。神さまは主イエスをこの世に送られただけでな<、聖霊を地上に送られた。使徒2章には最初のペンテコステの様子が記されている。聖霊が弟子たちの上に止まった時、彼らは他国の言葉で神さまの大いなるみわざを語つた。それは、すべての国民こ福音が伝えられることを示したものである。聖霊の降臨の時を以つて福音宣教は開始され、また教会が誕生したのである。
・ソドムにやって来た二人の御使いをロトは強いて自分の家に招き入れた。それは町の人々が彼らを害することを懸念してのことであったと思われる。実際、夜になると町の人々はかの家にやって来て、彼らの引き渡しを要求した。ロトは自分の娘を身代わりにして彼らの要求を拒もうとしたが、町の人々の怒りはロトを向けられ、御使いがロトを助けた。御使いはロトにソドムの町の裁きを告げた。ロトは婿たちをも助けようとして、彼らに御使いの知らせを告げたが受け入れられなかった。
・神さまの御使いを守ろうとしたときも、婿に警告を知らせたときも、ロトは無力さを思い知らされただろう。しかし、そのような時にあっても神さまの助けがあったことを覚えたいものである。

●2018年5月13日の説教要旨「みことばによって変えられる」マルコの福音書5:1~20
・主イエス一行がゲラサ人の地についた時、墓場から悪霊に憑かれた人が身許にやって来て主イエスを拝した。彼は墓場に住みつき、鎖をも引きらぎり、墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていたという。そのような彼であったが、彼の中にも解放されたいという葛藤があったと思われる。
・主イエスは悪霊のいうことを聞き入れ、そぼにいた豚の群れに乗り移ることを許されたが、その群れは湖になだれ込んでしまったが、その人自身からは悪霊は去り、正気に戻った。彼は主イエスがその地方を去るとき、同行することを願ったが、主イエスの応えは家族の元に帰り、その地方に留まって、「主がどんな大きなことをして<ださったか」を宣べ伝えるようにということであった。彼はそのみことばに従い、その地方全体に主のみわざを言い広めた。
・この人の悪霊からの解放、主の大きなみわざは、主イエスとの出会い、そのみことばを聞くことから始まっている。ある文筆家は「真の読書は、文字の向こうから著者が顔を出して<ることだ」というようなことを言っている。午後に学びの時を持つデポーションとはそのように神の御声を聞<時である。
・私たちもやらなければならない義務というのではな<て、与えられた幸いとして、そのようにみことばに触れ、みことばに聞くものとされたいものである。

●2018年4月15日の説教要旨「アブラムからアブラハムヘ②」創世記17:1~27
・主はアブラムに対して「全き者であれ」と語られた。それは神のみ完全に信頼する者である。アブラムは主に信頼したが、「あなたを大いに増やす」とか、「多<の国民の父になる」と言われた時に自分なりの聞き方をし、それ以上主のことばに本当の意味で聴き続けることができな<なってしまった。
・アブラムはサラによって「あなたに男の子を与える」と言われた時、平伏しながらも笑ったのである。そればかりか、主にイシュマエルを後継者にと提案しているのである。ある意味で笑い、提案をするという関係は、親しい友のような深い人格的な関係なしにこのようなことは起こり得ないだろう。
・アブラムとサライは新しい名前を与えられた。それは全面的に改名ではな<、より意味を限定したものである。アブラムという名は「高められた父」との意味であるが「多<の国民の父」を意味するアブラハムに変えられる。それはアブラムは数多<の父となることによって「高められる」ことを意味している。また、「サラ」は「サライ」よりもより王女にふさわしいことばと言われている。それは彼女はアブラムに子を産むことによつて「王の妻」であるだけでな<「王子の母」となってい<ことを意味している。
・割礼は、主との契約のしるしとして与えられたものだが、主は旧約においても頑なな心を捨て主に心を開<、心の割礼を求めておられる。

●2018年4月8日の説教要旨「アブラムからアプラハムへ①」創世記17:1~27
・16章の終わりと17章の始まりには13年間の沈黙がある。16章ではアブラムに与えられた約束を人間の知恵によって実現しようとしていたことが記されている。それは神のみこころを損なうことであった。その人間的なわざが主を沈黙させたのかも知れない。また、その13年間は人間的な方法で神のみこころを成し遂げることなど到底できないということを納得させる年月でもあったろう。
・17章になっても神のことばに全く偉頼するアブラムは現れない。彼は主のみ告げに対して平伏しながらも笑い、「イシュマエルが御前で生きますように」とイシュマエルを自分の後継としようとしたのであった。
・イシュマエルの13年間の歩みはどのように育っているか、どのように生きていくかを判断するための猶予期間と見ることができる。
・神の沈黙とは、私たちの側で神の御声を聞<備えができていないために、神の語りかけを聞き損じてしまっているということもあるかも知れないし、私たちの忍耐を以って待ち続けるように訓練するという意味もある。
・イシュマエルについてのアブラムの願いは聞き入れられた。しかし、それは以前にハガルに与えられた「すべての兄弟に敵対して住む」という預言を成就させることになってしまう。いわばアブラムの不信仰の結果がイシュマエルの孤立を招来したということができるかも知れない。

●2018年4月1日の説教要旨 「心を燃やす主イエスのよみがえり」 ルカ24:13~35
・イースターの朝の出来事がルカ24章に記されている。葬られた墓には主の体はな<、御使いが主のよみがえりをその墓にやって来た女たちに告げた。
・13節からはエマオの途上での出来事を記している。「2017」では「弟子たちのうちの二人」と記されているが、その前に「見よ」という言葉が添えられている。それはよみがえりの知らせを受けエルサレムに留まるペき弟子たちが、エルサレムを離れようとしていることに注自させようとするルカの意図がそこにある。
・クレオパたちは過越しの祭を祝うためにエルサレムにやって来た。そこで過越しの祭が指示して来た主イエスの十字架とよみがえりを見聞きしたにもかかわらず、失意のうちにそこをさろうとしていたのである。
・そのような彼らではあったが、主イエスが彼らと共に食卓に着きパンを割かれたときに、彼らの目が開かれて共にいて下さり聖書を解き明かして下さっていた方が主イエスであることを悟ったのである。
・歩いていた時の彼ら二人の議論は、彼らにとってその生き方の直接関わるような、そのような論じ方ではなかったように思われる。しかし、主イエスの語りかけは彼らの心を燃やし、それによって生きるようにと彼らを招<ようなみことばであった。
・私たちもそのようにみことばを聞き、そのように生きるものとされたいものである。

●2018年3月18日の説教要旨 「受難を前にした主イエス」 ルカ22:7‐23
・主イエスは過越の食事の準備のためにペテロとヨハネを遣わした。どこそこというのではなく、町に入って、水瓶を運ぷ男について行くように言われた。主イエスにとってこの過越しの食事は、地上の生涯で最後の過越であり、大切なものであった。その場所を知らせるためにこのような方法を取られたのである。私たちが地上の人生の中で、大切なことの導きを知るためにも神はこのような方法を用いられることも多いのではないだるうか。後ろから「これが道だ。これに歩め。」との導きを受けることもあるかもしれない(イザヤ30:21)。
・讃美歌「一度は死にし身も」の中に「主の受けぬ試みも、主の知らぬ悲しみも、うつし世にあらじかし、何処にも御跡(みあと)見ゆ。」という一節があるが、私たちも信仰の目が開かれるならば、この世で神さまの恵み、神さまのみこころを求めて歩んでいく中で、どこででもその御跡、その御声を覚えることができる。
・また、そのような導きを求めるとき、信仰の友に祈られることもまた、大切である。ニ、三人我が名に於いて集まるとこるには我も共にますなり」と約束されているからである。(マタイ18:19,20)
・主イエスは最後の晩餐の後、弟子たちと共にゲッセマネの園へと赴かれた。主イエスはペテロとゼベダイの子、ヤコブとヨ八ネの三人と共に進んで行き、彼ら三人にはその場で祈っているように言ってさらに進んで行き、一人、父なる神に祈られた。彼ら三人が選ばれた理由は記されていないが、主イエスに自分の思いを隠さずに語っていたことがその理由と考えてもいいかもしれない。自分の本音を神の前に言い表すことは祈りの基本である。

●2018年3月11日の説教要旨 「ニつの園と二つの視点」 マタイ26:36-46
 復活祭の46日前、2月14日からレント(受難節)に入っています。それにちなんで、ゲッセマネの園で祈られたイエスさまについての箇所を選びました。イエスさまは、3人の弟子を連れてゲッセマネの園へ行き、祈られましたが、その祈りは、できることならばこの杯を取り除いてほしい。けれど、自分の願いではなく、父なる神の御心がなるようにというものでした。
 園というと、もう一つの園を思い出します。エデンの園です。そこでアダムとエバが善悪を知る木の実を食べてしまったために、私たち人間は罪を犯すようになったと言われています。けれど、ヘブル語聖書の概念によって罪とは何かを詳しく調べると、罪とは悪いことをするというよりは、神さまの命令に背くことのようです。そして命令にそむく時、神さまの目から見るとその人は死んでしまったことを意味するのです。つまり霊的な死が訪れたわけです。
 一方、典型的な特徴として人間は、自分は悪くない、自分は生きてていると考えます。神さまの視点と人間の視点は、まったく逆というわけです。エデンの園で人間は神さまの命令に背いて霊的な死を迎えましたが、ゲッセマネの園で、イエスさまは、神のみ心を行うことに祈りを集中し、結果として十字架に架かられましたが、そのことによって私たち人間は命をいただいたのです。十字架の死の後こ、復活し、死に打ち勝ち、信じる者に永遠のいのちを与えてくださったのです。ですから、私たちは、死んだ状態で罪の中を生きるのではなく、いのちを持って新しい生き方ができます。
 ぜひ復活祭を前に、イエスさまが私たちにもたらしてくださったものについて考えてほしいと思います。(岡 眞美恵姉)

●2018年3月4日の説教要旨 「人の知恵のもたらすもの③」創世記16:1-16
・16章の出来事のもう一方の主人公であるハガルについて学びたい。
・彼女は自分の妊娠を神の御わぎとして受け入れることができずに、自分の肉の誇りとしてしまった。そんな彼女をサライは受け入れることができずに、その責任をアブラムに帰した。アブラムがサライにハガルを好きなように扱うことを許した結果、サライはハガルを虐め、その結果、ハガルはサライの下を逃げ出した。
・そのような彼女に主の使いが現れ、どこから来て、どこへ行くのかを問うた。彼女にはどこから来たという問いには答えられたが、どこへ行くかは答えることができなかった。神はやがて生まれる子どもへの祝福を約束してくださった。この主のお取り扱いを受けた場所を「ベエル・ラハイ・ロイ」と名付けた。
・この後の記事は13、4年後となる。その間神はハガルにもアブラムにも沈黙しておられた。それは主の恵みのお取り扱いを知る時となったのではないだろうか。

●2018年2月25日の説教要旨 「人の知恵のもたらすもの②」創世配16:1-16
・15章でアブラムは二つに切り裂いた動物に降りかかる猛禽を追い払った。猛禽が降りかかってくることは主とアブラムの契約をさせまいとする
悪魔の攻撃とする解釈がある。あからさまな攻撃であるなら人はそれを容易に気づき、払い除けるであろう。しかし、悪魔の攻撃や誘惑は人には気づかれないような仕方でやって来る。八ガルのとこるに入るようにとのサライの声は正にそのような誘惑であった。
・サライは自分が提案したにもかかわらず、ハガルが妊娠し、サライを見下げるような態度をとった時、それに耐えることができなかった。そして、その責任をアブラムに負わせた。
・一連の出来事をアブラムは主からの出来事として受け入れていなかったと思われる。信仰の伴わない知恵は結局自分も他人も傷つけてしまうことになることを覚えたい。

●2018年2月18日の説教要旨 「人の知恵のもたらすもの」創世記16:1-16
・アブラムは主に自分自身に子が与えられるという約束を明確に与えられ大きな恵めと励ましを受けていたにもかかわらず、それを妻サライと共有することがなかったようである。
・サライは「ご存知のように」(原文では「見よ」)とアブラムに語りかけている。それは祝福の約束が与えられているもののそれが実現しそうにないという現実に目を向けさせるものであった。そうした現実は、彼女の理解している現実に他ならなかった。
・主がアブラムに自分自身の子どもを与えるとの約束は「サライを通して」と明確には言われてていないが、彼女以外からと考えることは現実的、常識的ではあっても、信仰に立つものではなかった。
・主の約束のみことばをしっかりと握って、「現実」や「常識」ではなく、主のみここる、神の現実に目を向けるものとされたい。

●2018年2月11日の説教要旨「約束の再確認」創世記15:1-21
・この箇所は、戦いの勝利の後にあった主のアブラムヘの取り扱いについて記している。人は何事かを成し遂げた後に、ふと不安に襲われることがある。主の「恐れてはならない」というアブラムヘの呼びかけにそれが示唆されている。または、メルキゼデクによる祝福の具体化ということもできるかもしれない。
・主はアブラムに「わたしはあなたの盾である」と言われた。それは、アブラムが知っているものもあり、知らないものもあったが、攻撃があったことを示している。主のみ守りの約束にもかかわらず、アブラハムは自分の持っている不安―子どもが与えられていないことを申し上げている。
・確かに主の御約束の御業をひたすらに黙って待つということも信仰の一つの在り方であるが、主に「いつですか、いつですか」と問いかけていくこともーつの信仰の在り方である。何れにしても主との生き生きとした交わりが与えられるように願って行きたいものである。

●2018年1月21日の説教要旨「アブラハムの失敗―主人の目を恐れて」
創世記12:10-20
・アブラムはその父テラが死んだ後に、八ランを出て、カナンに出て行った。カナンに入って行ったとき、アブラムは祭壇を築き、主に祈りを捧げている。英語圏のクリスチャンの間でノーバイブル・ノーブレイクファストとことばがあるが、アブラムもカナンの地での歩みを祭壇を築くことから始めているのである。
・そのようなアブラムであったが、今日の箇所では非常に残念な姿を私たもに見せている。聖書はアブラムをイスラエルの信仰の父と呼びはするが、彼を絶対化し、美化して欠点や失敗から目を晒すことをせず、むしろそれらをあからさまにしているのである。ここで言われていることは二つある。一つは、飢饉に遭遇した時にエジプトに下って行ったことである。確かに自分たちが出て来たカルデヤに帰って行かなかったことには、もう人間的な関係に頼らない彼の信仰を見ることができるかも知れない。しかし、目に見えない神にではなく、目に見える人に頼ってしまった。
しかも、それは、二つ目の失敗でもあるが妻サライの犠牲の上に成り立っていたのである。
・アブラハムでさえもそのような失敗に陥ってしまったとしたら、私たもはどれほど祈り深くあらねばならないかと思わされる。

●2018年1月14日の説教要旨 「アブラハムの信仰―主の召に応えて」 創世記12:1~9
◎アブラハムの歩みから信仰を学んでいく。アブラハムは、初めはアブラムと呼ばれていたが、後に主によって新しい名前・アブラ八ムが与えられた。それは、主のお取り扱いによることであり、後で見ていくことになる。◎創世記11章の最後にアブラムの父・テラや兄弟たちのことが記されている。それによると、テラとアブラムを含む家族がカナンに向けて出発し、八ランまで来たことが記されている。◎テラが主体的にウルを出たのか、息子アブラムが主導したのかはよくわからないが、月神信仰が盛んだったウルから出たものの、八ランもその強い影書かにあったので、主の召に十分に応えたとは言い難い。◎何れにしても、アブラムにとって、父テラの死というものが、彼自身の人生の歩みを新しい段階に入れたと考えることができる。◎アブラムは、生からの祝福の約束のことばをひたすらに信頼して、父の死後、ウル地に帰るどこるか、さらに旅を続けることにしたのである。彼がカランを出て、カナンに出発したのは75歳であったと言われてている。75歳という年齢は、現代のそれとは違って、もしかしたら働き盛りの年齢であったのかも知れない。何れにしても彼は、カナンの地に入って来たとき、主のために祭壇を築き、主に祈ったと言われている。
◎彼にとってカナン到着は、ゴールではなく、主に従う信仰生活、神の取り扱いの始まりなのである。

●2018年1月1日 元旦礼拝説教要旨 「与えられた輝きを」 イザヤ60:1~3
・「起きよ」 イザヤが主から委ねられたこのことばは、「起きよ」という呼びかけをもって始まる。その呼びかけは、言うまでもなく、眠っている者、座っている者に対して、主は目覚め、立ち上がることを求めているのである。つまり、それは私たちが霊的な意味で、眠り、座っていると言うことを明らかにする。
・「光を放て」 主が命じるこの命令は、自らの光を輝かせるのではなく、主の光、主のご栄光を受けて、それを反射させることによって輝くようにということである。私たちはそのような意味で光とされているのである。私たちのうちには自分自身の光はないが、それが問題ではなくて、主のご栄光の輝き、また、それをいっぱいに受けて輝くことが重要なのである。
・「見よ。やみが地をおおい」 この世は主の前に、主の目にどのような状態であるのかをこのみことばは説き明かしている。主の目には、地が闇で手われ、暗闇が諸国の民を覆っているのである。これらの国々とはイスラエルやユダを蹂躙し、古代オリエントの覇権を争う強国である。しかし主は、それらが闇の中にあると言う。古代から現代に至るまで、様々な国が地域を支配してきた。しかし、それらのどの国も現代ではその名さえも残されていないことが多い。
・「国々はあなたの光のうちに歩み」 主は恵みによって私たちを主のものとしてくださった。それは多くの国々がその光を知り、その内を歩むためなのである。

●2017年10月15日のの説教要旨 「貧しいやもめの豊かな捧げ物」 ルカ21:1,4
・主イエスは目を上げて、人々が献金箱に捧げているのをご覧になった。主イエスはこの寸前には目をあげていなかった、それはおそらく祈りの姿勢を取っていたと思われる。だから、祈りを中断させて人々の様子をご覧になったことになる。いわば、主は祈りの目で人々の捧げ物をご覧になった。それを霊的な事柄として見ていてくださっていたのである。
・パウロは、第ニコリントで「神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」と語っている。捧げる時、主は私たちの内面、私たちの霊的な状態を見ていてくださることに心を止めたい。
・件のやもめは、自分の生活のことを自分でなんとかしていかなければならないとは思わないで、主が養ってくださると老じて捧げたと言うことができるが、彼女は自分に与えられた主の恵みが自分の全財産を捧げてもなお余りあると感じていたと思われる。それほどまでに主の恵みの豊かさを感じていたのである。
・主の恵みは、私たちの上にいつも豊かに注がれている。その恵みに目が開かれる者とされたい。

●2017年10月8日の説教要旨 「キリストとダビデの子」 ルカ20:41-47
・主イエスは、キリストが「ダビデの子』と言われているにもかかわらず、ダピデ自身が、キリストを指して「主」と呼んでいる、と語られ、人々に問いかけられた。
・確かにキリストはダピデの子、すなわち王であるお方であるが、それとともに父なる神のみこころを解き明かされた預言者であり、ご自分を罪のためのいけにえとして神に捧げられる祭司であることを忘れてはならない。これを神学上の用語で「キリストの三職論」という。
・ユダヤ人たちがキリストをダビデの子と呼び、自分たちの王と考えているとき、ローマの支配下にある自分たちの国からローマ人を追い出し、自分たちを解放してくれる解放者を強くイメージしていて、主のことばを自らへのことばとして聞いて罪を悔い改めるというようなことは考えていなかったし、ましてや主が自らを自分たちの罪のために神に自らを捧げられるということなど思いもよらないことであった。
・私たちも、主イエスを自分に都合の良い存在としてしか受け止めないというようなことはないだろうか?自らを探って頂きたいものである。

●2017年9月10日の説教要旨 「カイザルのものはカイザルに」 ルカ20:19-26
・イエスさまの時代、祭司長や律法学者たちは何を恐れるべきかを知らなかった。しかし、そのような弱さと愚かさは私たちも共有するところである。そのことをはっきりと認めながら、今朝の箇所を学んで行きたい。
・カイザルに税金を納めることの可否を問うことによって、祭司長たちは、主イエスを政治犯に仕立てようとしていた。しかし、主イエスはお金はそこに肖像や銘が刻まれているカイザルに返すように言われた。また、神のものは神に返すようにとも言われたのである。私たちは、この世で生きている以上、この世の経済活動の中に歩んで行かなけれぱならないが、そこに巻き込まれ、それに支配されていくべきではない。
・主イエスは「神のものは神に返しなさい」とも言われている。実際のところ、一切のものは神さまから来、神さまから出ている。私たちの信仰、私たちが神さまを信じているということもまた、神さまから来ているのである。「信仰は人のうちになされる神さまのみわざ」と言われている通りです。
・私たちのうちに主の主権的なみわざがなされていくように祈って行きたい。

●2017年9月3日の説教要旨 「ぶどう園のたとえ」 ルカ20:9-48
・ぶどう園のたとえはトルストイかドストエフスキーの小説の初めにも記されているほど、有名なものである,この寓話のぶどう園はイスラエル人たちを指し、三度に亘って送られた僕(しもぺ)は、主がイスラエルに遣わした預言者を示している。そして最後に送られた息子はキリストを表している。聞いていた祭司長や律法学者たちは、農夫たちが僕や息子を拒絶する姿が自分たちを示していることに気づき、殺意を新たにするのであった。常識的に考えれぱ、ぷどう園の主人はそれを任せた農夫たちを滅ぽすまではしなくとも彼らを排除して、別の農夫たちに任せることになるだろう。
・しかし主イエスの話はそこで終えず「家を建てる者たちが、見捨てた石、それが礎の石となった。」と詩篇118:22を引用して話を続けられた。人々が見捨てた石、あるいは農夫たちが殺してしまった息子を通して、神の裁きがあるだけでなく、救いが到来することを意昧している。
・主は私たちに対しても様々な人や出来事を通して、福音を知らせてくださっていることに目を止めよう。

●2017年8月27日の説教要旨 「主イエスの権威」 ルカ20:1-8
・宮で教えている主イエスに対して、祭司長、律法学者、また民の長老たちが何の権威によってこれらのことをしているのかと問うて来た。主イエスは逆に、バプテスマのヨハネの権威について、その出所を尋ねることによって、その質問をかわしたのだった。
.・「権威」を意味するギリシャ語は、「その存在から出てくるもの」、あるいは「そのものの起源」というような語源を持っている。人の権威というものは、その人が何を行うか、何を行なったか(行為・doing)ということによるのではなく、その人のあり方(存在・being)から出てくるものなのである。
・神であるお方が、神であるが故に、世界を、そして人類を創造し、そして、堕落した人間のための救いをなしてくださった。

●2017年8月20日の説教要旨 「主イエスの宮清め」 ルカ19:45-48
・今朝、松内姉のお母様がわざわざ教会に来られ、岡村せつさんが12日に亡くなられたことをお知らせくださった。せつさんの霊を主に委ねるものである。また、先日から入院していた堂野君夫さんが退院された。緊急手術の前に信仰告白をされた。これからの治療や信仰生活の上に主の祝福を祈るものである。
・主イエスがエレサレムに上られ、神殿に行かれた時、そこには多くの「商売人」がいたと言われている。彼らの商売は神殿に納める献金の両替であったり、神殿でささげるいけにえの販売であったと思われる。いずれの商売も礼拝する人のための便宜を測るものであったが、同時に暴利を貪るものでもあった。また、それらには当然のこととして祭司たちが何らかの関わりを持っていたと考えられる。
・商売の初めの動機は純粋であっても、それはたやすく自身や周囲の欲望によって汚されてしまうものである。たとえそれが神を礼拝するという最もきよさが求められる場面であったとしても。
・今日の箇所の教えは、私たち自身の礼拝の動機、また、奉仕の動機を探るものかもしれない。

●2017年8月13日の説教要旨 「主イエスの嘆き」ルカ19:41-44
・まもなく終戦記念日である。テレピでもその関係の番組が組まれている。それらの多くは日本の受けた空襲などの悲惨さを、かつて攻撃する側だった人への取材も含めて描くものであった。しかし、私たちの国は加害者でもあったということ、また、戦争そのものが人間を非人間的なものにすることを忘れてはならないと思う。
・今日の箇所の主イエスのことばは、ユダヤ戦争でのローマによるエレサレムの徹底的な破壊を示唆していると言われている。主イエスを受け入れなかったさぱきとして、そうして破壊が行われたと言われる向きもあるが、それを過去の出来事として看過するのではなくて、私たちの問題として受け取る必要がある。私たちが彼らと同じ時代に、同じ場所に生きていたならば、問じように主イエスを拒み、十字架につけてだろうと。
・ユダヤ人たちが迫害されたーつの理由が、主イエスを十字架につけたことであったと言われるが、そのできごとがあったおかげで私たちも救いに入れられたことを覚えたい。いわぱ彼らは「損な役回り」を引き受けてくれたのである。


●2017年8月6日の説教要旨 「平和の君主イエス」 ルカ19:28-,40
・本日の箇所は、人には等しく与えられているものがあることと裁きがあることとを心の隅に置きながら歩んで行くことが必要である。
・主イエスは二人の弟子を遣わしてろぱの子を連れて来させた。ろばの子に乗ってエルサレムの都に入っていかれた。それはご自身が平和の君として来られたことを示すものであり、ゼカリヤ書の預言の成就であった。
・イエスがろばのことをなぜ知っていたのかは、超自然的な脱明もあるが、ろぱの所有者の一人が弟子の中にいたと考えることもできる。小いものでも捧げたときに主はそれをご自身の栄光のために用いてくださるのである。
・ろばに乗る主を見て、群衆は上着や木の枝を道に敷いて敬意を表し、さらに数日後には「十字架につけろ」という群衆が主イエスを「来るぺき方」と認めて「祝領あれ」と叫ぶのである。この告白は一時の熱狂のもたらしたものと見ることもできるが、聖霊の働きがあってのことと見ることもできる。イエスを主と告白することは聖霊によらなければできないことだからである。

●2017年7月30日の説教要旨 (神谷典孝師 横浜さちが丘キリスト教会牧師)
「人々があなた方の良い行いを見て」マタイ5:13-16
・イエス様は私たちを「地の塩、世界の光」と言われ、塩が腐敗を防止するように、私たちはこの世界が罪によって腐敗していくのを防止する者であり、あかりが燭台の上で家の人々を照らすように、この世界を照らす存在だと言われました。
・しかしこの世界が罪に満ち照らされなければならない闇であるなら、弱く小さな私たちはどうしてこの世に対して塩気を保ち、この世を照らす光を輝かせることが出来るのでしようか。
・そこで忘れてならないことは、私たちに必要なカは神様から与えられる、ということです。(ここの「世界の光」の光も、自分で光るのでなく、他から照らされて光る光です。)それゆえ、「人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい」ということは、私たちがどんな時も、私たちがこの世に対して証詞し、直面する問題を乗り越えるカを与えてくださる神様を信じて生きることです。私たちの最も良い行いは、神様を信頼することです。

●2017年7月23日の説教要旨 「どのように賜物を用いるのか?」 ルカ19:11-27
・今日の聖書箇所にあるたとえ話は、マタイの同様のたとえ話と違ってしもべたちはそれぞれ同じ、しかも比較的少ない金額を委ねられている。また、主人が旅に出たのは王位を受けるためであり、その国の人々が王位の授与に反対していたというエピソードが付け加えられている。
・その背景がどのようであれ、三人目のしもべは主人を厳しい方と知りながらも預けられたものをしまっておいて、用いるごとも銀行に預けることもしなかったのであった。このたとえ話の結論の一つは、委ねられた者は委ねた者を理解した通りに振舞うことが求められているということであろうか。
・私たちにはどのようなミナ、賜物を与えられているだるうか。何が与えられているということがすぐには思い浮かばないかも知れないが、今日ここにいるほとんどの人には主の救いが確かに与えられていることであるし、ここにいる以上、主ご自身のみならず、多くの人の祈りの中で与えられた「こどもの国キリスト教会」の交わりの中にあるということ、それは間違いなく主の恵みの賜物である。

●2017年7月16日の説教要旨 「罪人のもとに来られる主イエス」 ルカ19:1-10
・今曰の聖書箇所の主人公である「ザアカイ」という名前には「正しい人」という意味とともに「ザカリヤ」、つまり「主は忘れない」とか、「主は覚えていてくださる」という意味である。この物駱はまさに主が彼を覚えていてくださっていたことを告げている。主イエスを見ることを求めたザアカイを主ご自身も彼に会うこと求めていてくださったのである。
・通りを歩いてる主イエスを見ようとしたザアカイは、いちじくぐわの木に登って主を見ようとした。その木は枝分かれの多い常緑樹だったと言われている。彼にとって身を隠しながら主イエスを見ることが出来た。しかし主はその木に近づかれた時、上を見上げて彼の名を呼ぴ、彼の家に宿を取ることを告げられた。もろ少し原文に沿って言うならば、「あなたの家に泊らなければならない」と言われた。それは、このエリコの町に来た目的がザアカイに会うことだったことを示している。
・ザアカイは主イエスに財産の半分を貧しい人々に施し、だまし取ったものは五分の一を加えるという律法の規定をはるかに超えた四倍にして返すと宣言した。この線源は彼が主イエスに出会い、その救いに与ったことのしるしである。

●2017年7月9日のの説教要旨 「問いかける主イェス」 ルカ18:35・43
・エリコの近くで物乞いをしていた盲人の話。彼に主イエスが近づかれると「ダビデの子のイェスさま。私をあわれんでください。」と叫び立てた。人の得る情報の多くは視覚によっていると言われている。情報を制限されていた盲人にさえも主イエスのことが伝わっていた。それほどに主イエスのことを人々が語っていたことになる。またこの盲人はとりわけそのような情報に敏感であったということも考えられる。しかし、彼の周囲にいた人々は彼を助けるどこるか、たしなめ妨げた。しかし、主は彼のことを見捨てはしなかった。主は立ち止まり、彼をみもと連れてくるように言われた。
・盲人の「あわれんでください」との呼びかけに主イェスは「わたしに何をしてほしいのか」と応じられた。彼は金銀を求めるのではなく、彼の状況を本質的に解決する「目が見えるようになること」を求めた。
・この記事から祈り求めることを学ぴたい。彼は必死になって主イェスを求めたが周囲の人々はそれをたしなめた。同じように、私たちが主イエスに救いを求める時に、それをたしなめる声が外から内から聞こえてくるのではないか。若い自分が「信仰の決断などをするほどの経験をして来たのか」と問う声、あるいは「年老いた自分が今更神に救いを求めるのか。もう手遅れではないか。」という声などが聞こえてくるのではないか。そのような声を退けて、「主よ。あわれんでください。」と呼びかけ続ける者でありたい。

●2017年7月2日の説教要旨 「受難の予告」 ルカ18:31-44
・主イエスは弟子たちをかたわらに招かれた。そににはただ空間的・肉体的な意昧合いだけではなく、霊的・精神的な意味もあった。
・金持ちの役人との問答を通して主イエスは、救いは人にはできないことであるが神には可能であることが明らかにされた。神さまの側に立つ時、神さまの主導のもとに人の救いが成し遂げられるということであった。しかしベテロは自分が主イエスに家を捨てて従ってきたことを訴える。それは主イエスと弟子たちの神さまの思いを人間の側に引き戻すことであった。主イエスは彼の視線をこの世のことから神さまの元へと転換させた。それが永遠のいのちの約束であった。
・しかし、永遠のいのちが人にもたらされるために、その前に主イエスの受難がなけれぱならないということを弟子たちは知らなければならなかった。その神さまのご計画を悟るためには神のもとに立たなけれぱならないのである。
・主イエスの招きにもかかわらず、彼らは人の思いに留まり、受難の預言も、そしてその後に起こるよみがえりの予告も悟ることができなかった。しかし、それらの記事を私たちは今、福音書書の中に読むことができる。それは聖霊なる神さまが彼らのうちに働いてこの出来事を思い起こさせてくださったからに他ならない。
・私たちの人生の一コマーコマを私たちは何気なく通ぎて行ってしまうかも知れない。そこに働かれる主の御手を私たちは気がつかないかも知れない。しかし、その間にも主のみわざは行われている。そして、私たちが主によづて人生を振り返らせていただく時に、私たちもそこに主のみわざを認めることができる。

●2017年6月11日の説教要旨 「富める者の悩み」 ルカ18:18-27
・主イェスは、ひとりの役人の「尊い先生jと呼びかけに、「尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません」と答えている。それは主イェスが彼に対して、ご自身のことばを神からのみことぱとして聞きなさいという意味合いがある。
・主イェスが戒めを挙げると、(それらは人間関係に関する戒めのみで、神さまとの関係は語られていなかった。)その役人は「そのようなことはみな、‥・守っています」と答えた。「守っています」といことは「行なっています」という積極性はなかった。そこには、どのようにすれば、あるいはどのようにしなければ、戒めを侵さないかという「律法主義」がある。神さまは人に律法を守ることを求めているのではな<、みこころを行い、そこに生きることを願っておられる。
・主イェスは彼のうちに足らないものを認め、彼に持ち物を売って、ご自身について来るように招かれた。それは彼のすべての持ち物よりも、永違のいのちが価値のあるものであることを意昧している。
・彼は「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうかjと主イェスに問うた。彼にとってそれは彼の死後のいのちであったかもしれないが、この永違のいのちは、私たちの生きているときにも味わい知ることのできるものなのである。

●2017年6月4日(聖霊降臨日)の説教要旨 「小さき者を招かれる主」ルカ18;15-17
・人々は、主イエスに祈って頂くために子どもたちを連れてきた。それを見た弟子たちは彼らを拒もうとした。しかし主イエスはむしろ、弟子たちを叱って、子どもたちを御許に招き、祝福を祈られた。それが今日の箇所のあらすじである。
・ここで連れて来られている子どもたちは、特に信仰があったという訳ではない。ただ親たちに連れられて来ただけである。いわば親の信仰をそのまま受け入れただけであるし、中には物心つく前の子どももいただろう。しかし、物心着く前でも後でも、親は子どもによきものを与えようとしている。その親心をそのままに受け入れているのが、この子どもたちである。
・また、今回予告したタイトルを「子ども」から「小さき者」と入れ替えた。それはこうした子どもたち=小さき者たちは必ずしも私たちの目に信仰篤いようには映らない,しかし、小さき者たちもそれぞれの立場から主イエスを、そして親たち=人々を見ているのである。

●2017年5月21日の説教要旨 「義と認められる祈り」 ルカ18;9・14
・主イエスは祈るために宮に上る二人の人のたとえを用いて、義と認められる祈りの姿勢を人々に教えられた,
・パリサイ人は、自分を義人と自認するだけでなく、他の人々を見下すという致命的な誤りを犯しながらも、他の人を見下していた。「心の中で・・・言った」とは「自分自身に言った(直訳)」であり、自己完結的な者であった。
・一方、取税人の祈りは目こそ天には向けられてはいないが、まさに神さまに向かっての訴えかけであった。それは自分の存在自体が罪であるとの告白である。
・また、ここで用いられている「あわれんでください」ということばは、「なだめられてください」ということぱで、見方を変えれば、自分が神の怒りを引き起こさずにはいられないものであることを認めていることぱである。
・パリサイ人の高慢は、神さまとの間係も、人との関係も断絶するものなのである。
・私たちの祈りは、そのように独りよがりになっていないだろうか?主に探って頂く必要があるのではないだろうか?

●2017年5月14日の説教要旨 「失望してはならない」 ルカ16:1-8
・今朝の箇所は、主イェスが「いつも祈るぺきであって、失望してはならない」ことを教えるために語られたたとえ話である。使徒パウロも1テサロニケの中で「絶えず祈りさない(5:17)」ということを、「いつも(何某かのことが起こるごとに)喜んででいなさい」と「すぺての事に、感謝しなさい」ということとともに命じている。しかもバウロは「これ(喜び、祈り、感謝すること)がキリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおちれることです。」と付け加えている。
・「不正な截判官」でさえあくまで求め続けるなら、要求に応えるものだから、まして神が熱心に求める民に応えて下さらないはずはないというのがこの教えである。
・祈りに対して神はいつも私たちの思うように応えて下さるわけではない,しかし神は、確かに私たちの祈り、私たちの顔いを聞いていて下さっているのである。
・私たちはそれほど熟心に神に祈り求めているとは言えないかもしれない。しかし、私たちの内に父なる神と子なる神が送られた聖霊は私たちのためにとりなして下さっているのである。

●2017年4月23日の説教要旨
「あなたがたのただ中にある神の国」 ルカ17:20ー21
・新約聖書の時代のユダヤ人にとって、神の国が来るということは、ローマからの解放を意昧していたし、メシアの到来は解放の戦いのための指導者の到来を意昧していた。今日の鎗所で主イエスはそのような彼らの神の国観、メシア観を正そうとしている。
・主イエスは彼らに「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」と語った。それはまず、「あなたがた」と名指されている一人ひとりのうちに神の主権、支配があるのかということである。それとともに、その支配に服している人々の間に神の支配と主権があり、その権威ゆえに互いに主のものであることを認めていくことが必要なのである。
・人の内に神の御カが働いてることは、神の御霊によってしか悟ることができない。人の内外にあるどのようなことも、どのような拙い歩みであっても御雲によって見せて頂くならば、そこに主のみわざを見ることができるのである。

●2017年4月16日(イースター)の説教要旨
「ここにはおられません」 ルカ 24:1-12
・週の初めの日にマグダラのマリヤたちは主イエスの葬られた墓に来た。そこには封印と重い石という二つの壁があったが、女たちはそのことを考えながらも、ともかく墓に来たのではあったが、果たして石は入口から除けられていた。二人の御使いがそこにいて、彼女たちに「ここにはおられません。よみえがられたのです。」と告げた。御使いは彼女たちに、主イエスが生前、受難を予告されるとともに、よみがえりをも予告されていたことを思い起こさせた。
・御使いの告げた通りに使徒たちに女たちは語ったが、使徒たちはそれを受け入れなかった。ペテロは墓に行ってみたことが記されているが、そこでペテロが主イエスに出会ったことは記されていない。しかし、この一歩があったからこそ、復活の主イエスとの出会いがあったのである。
・主イエスの復活のこと、それはキリスト教の、聖書のメッセージの生命線である。それは理性的に論証することだけでなく、信仰で受け入れることなのである。

●2017年4月9日の説教要旨
「きよめられた十人」ルカ17:11-19
・十人のツァラアトに冒された人が主イェスのあわれみを求めて、「イェスさま、先生」と叫んだ。主イェスは彼らに「自分を祭司に見せなさい」と言われた。
 それが彼らにとっては、元の交わりに戻っでいくための検証であった。彼らが癒された目的は、彼らが神さまをほめたたえる者となること、形式的なことではなく祭司の実質の伴ったこととしてであった。彼らにとっては、主イェスのもとで神さまに感謝することであった。サマリヤ人は肉体の癒しぱかりか、まことの神さまとの関係の回復も与えられたのである。

●2017年4月2日の説教要旨
「みことばを慕い求める」 ペテロ2:1,2
・ペテロは私たちキリスト者の新生の根拠が朽ちない種、神のことばであると語っている。この記述は主イェスが語られた四つの種のたとえを下敷きにしていることは明らかである。神のことばとは、聖書のみことぱを指すと共に、イエス・キリストの十字架の死とよみがえりを私たちの罪の赦しのためとする聖書解釈を指している。

●2017年3月26日の説教要旨
「重荷をゆだねる」 マタイ11:28
・主イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」に対して、御許に来るよう呼びかけている。すべての人は何らかの意味で重荷を負い、疲れを覚えているのではないだろうか。しかし、すべての人が主の御許に来るわけではない。その手前で安らぎを見つけている場合が多いのではないだろうか。
・例えぱ人が人間関係に悩む場合、自分の置かれた状況を脱明するときに、時には、周囲の人々を貶めるようなことを言うこともあるだろう。そして、そうした思いを吐き出せた時に、心の軽さを感じるのである。しかし、実はそれは本当の解決とはならない。この束の間の「安らぎ」が、主イエスが与えてくださる本当の安らぎを受け取る妨げになってしまうことが多いのである。
・主イエスは「わたしのくびき」を負うように招いておられる。当時のくびきの多くはニ頭立であったと言われている。主イエスが負うように招いておられるくびきとは、そのもう一方を主イエスが負っておられるくびきなのである。だから、くびきの軽さは、主イエスが私たちの重荷を背負っていてくださるゆえの軽さなのである。

●2017年3月19日の説教要旨
「私は誰?」 ルカ 17:5-10
・先週の箇所で、主イエスが弟子たちに「からし種ほどの信仰があれば、いちじくの木をも、海の中に動かすことができる」と語られた。逆に言えば、弟子たちには「からし種ほどの信仰もない」ということを意味していた。それは、信仰ということの捉え方が、根本的に間違っていることを示したということができる。
・その文脈の中で、この「主人に仕えるしもべ」のたとえが語られている。このたとえを通しての主の語りかけを聞き取るためには、信仰とは何かを知る必要がある。
・弟子たちにとっての「信仰」とは何であったのだろうか?彼らの信仰理解は、そこのところが曖昧になっていたように思われる。主イエスが語られる信仰とはただ単に「神(の存在)を信じる」、あるいは「神に信頼する」とうことではなくて、「自分は神のしもべであって、神こそが主である」という信仰である。信仰が増し加わる、あるいは、信仰が成長するということがあるとすれば、それは何をどのように信じるかが明確にされていくことであり、ここでは自分は神のしもべであって、神こそが主であるという神との関係が明らかになっていくことなのである。

●2017年3月5日の説教要旨
「求められている赦し」 ルカ 17:1-4
・赦すということに関して、主イエスは、日に七度でも許しが求められるなら、赦すべきだと言われた。それも自分に対して犯された罪をである。私たちは、他の人に対してなされた罪であるならば、それくらいは赦せというが、自分に対してとなると、どんな小さな罪も見逃さない。それを主は「日に七度でも赦せ」と言われるのである。
・そもそも人が罪の赦しを求めてくるとき、これくらいのことは赦されるぺきだという思いが、その背後にあるのではないか。主はそれでもなお赦せとr命じている」 のである。
・私たちが人を赦すその根拠は、神が主イエスを通して与えられた赦しである。赦された者は赦すべきなのである、いや、自分が赦されたことを真に受け止めるならば、人を赦し、受け入れることも自然となされて行くのではないか。
・もし、そうでないなら、自分の罪深さを知らないか、主の赦しの大きさを知らないかのどちらかなのではないだろうか。

●2017年1月8日の説教要旨
「東方の博士たちの礼拝」 マタイ 2:1-12
・今日は東方の博士たちの礼拝を主イエスが受けられたことを記念する公現日。この冬のクリスマス・シーズンの最後の日である。
・東の方で主イエスの星を見たという博士たちがエルサレムにやって来たことは、ヘロデと町の人々に異なったものではあったが大きな動揺をもたらした。結果的には博士たちはユダヤ人の王として生まれた方の居場所を知ることになるが、エルサレムに寄らないでも、星が導いたのではなかろうか?この出来事は、神に頼り切れない博士たちの限界を露にしているのではないだろうか?
・しかし、ヘロデやエルサレムの住民にとっては、ユダヤ人の王として生まれ方を歓迎し礼拝するのか、それとも災いの種として拒絶するのかが問われる出来事となったことはたしかであろう。

●2016年12月18日の説教要旨
「神のこの世への介入」 マタイ 1:18–25
・イザヤ7:14は戦乱の時代に不信仰な王アハズに与えられた預言であった。彼はイザヤの子どもの誕生をもってこの預言は成就したと思った。しかし、実はこの預言は、メシア預言でもあった。それは聖書の中心思想である「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」を予告するものであるとともに「処女降誕」をも預言していた。マリアの夫となるヨセフは、マリアに宿った子を巡って困惑するが、夢に現れた御使いのことばを通してを、それが聖霊によるものであることを知った。このように預言が成就されること、また、その預言の成就が知らされることも、いくつかのことがらを通してなされて行くのである。
・人が信仰に導かれることも、多くの証しや祈りの積み重ねである。私たちもそのような証しや祈りに与るものとされたいものである。

●2016年12月4日の説教要旨
「主イエスを指し示す人」ヨハネの福音書 1:19–42
・バプテスマのヨハネがその活動を始めたとき、パリサイ人たちは彼のもとに人を送り、彼が何者であるのかを尋ねさせた。バプテスマのヨハネは自分は何者でもなく、「荒野で叫ぶ者の声だ」と答えた。預言者イザヤやマラキは、主が来られる前
 にエリやのような預言者が来ることを預言している。そして主イエスご自身がバプテスマのヨハネこそが、「来るべきエリヤ」であったことを明言しておられる。
・バプテスマのヨハネは、自分が誰であるのかということよりも、何のための存在なのかに自分の存在意義があると考えていた。イエス・キリストを指し示すこと、それこそが彼の使命であり、存在意義であった。
・バプテスマのヨハネは主イエスを自分よりも先におられた方、遥かに優っておられる方と弟子たちに教え、主イエスを「見よ。神の小羊」と弟子たちが主イエスに従って行くようにしむけている。
・私たちの人生の目的もキリストを指し示すことにある。私たちの人生にかかわる人々をキリストのもとに導く者とされたいものである。

●2016年11月27日の説教要旨
「行いを訴える人、忘れ去る人」マタイの福音書 25:31–46
・聖書は、世の終わりがあり、そこですべての人々の最終的なさばきが行われることを記している。主イエスも十字架を前にしてそのことを語られた。今日の箇所もそのような箇所の一つである。
・すべての人は御前に集められ、二つに分けられる。そしてその集団の一方を主は祝福に入るように言われる。彼らが困難の中にあった主を助けたからであるという。もう一つの集団の人々に対して、主はさばきを宣言される。彼らが困っていた主を助けることがなかったからであるという。祝福に入れられた者たちも、さばきを宣言された者たちも、その根拠に思い当たることがない。祝福された者たちは主に自分たちがいつそれをしたのかを尋ね、さばきを宣言された者たちはいつそれをしなかったのかを尋ねるのであった。
・さばかれた者たちは自分たちにはその機会がなかったと主張する。しかし主は、小さな者にしなかったのは自分にしなかったのだと退けられる。
・「小さい者」とはいかにも可愛くて、助けてあげたくなるような存在として、あるいは私たちの目に全く失われた存在として私たちの前に現れるのではなく、むしろ、私たちの目にどう写ろうとも、神の目に失われた存在なのである。

●2016年11月20日の説教要旨
「負い目をお赦しください」マタイの福音書 6:9–15
・主の祈りを祈った後で「私はこの祈りは祈れない」と行っておられた。「負いめのある人たちを赦しました」ということばが引っかかるというのである。このことばも含んで、私たちは主の「祈り」をどのように祈っているだろうか。
・二つのことを覚えたい。一つはその呼び掛けにある。私たちが祈りで重要なことは「何を祈るか」でなく、「だれに祈るか」ということである。私たちには天の父がおられる、そして、その父は、私たちが「あなた」と呼び得るほど近くにいて、私たちの祈りを聞いていてくださっているのである。
・二番目は「負いめをお赦しください」という祈りである。祈りの後で赦しのことが取り上げられていることから見て、このことは最重要なことと考えられる。私たちは人に赦しを請う時に、相手と取引きをする。赦しを請う思いが強ければ強いほど、自分の行動変容を求めるものになって来るだろう。「赦すから」では足らずに「赦しましたから」というところに、求めの強さと現実生が現れているのである。
・最後にもう一つ覚えたいことがある。それは、私たちが人の罪を赦すことができなくても、「あなたがたの父」は「あなたがたの父」」であり続けていてくださるということである。

●2016年11月6日の説教要旨
「もし信じるなら、神の栄光をみる」ヨハネの福音書 11:30–46
・ラザロの死の後に、主イエスはマルタに「わたしはよみがえりです。いのちです。…あなたはこのことを信じますか。」と問いかけられた。マルタは「信じます」と答えたものの、そのことばにリアリティーはなかった。(あなたが来るべきキリストであることを信じております。」とのマルタのことばの「キリスト」をネストレ校訂本(ギリシャ語本文)では、大文字でなく、小文字になっている。)マルタやマリヤ、そして周囲にいたユダヤ人たちは、「主イエスがいてくれたならば、…」、また「主イエスでさえ…」と落胆と悲しみの中にいた。
・主イエスは、そのような人々の信仰の現実ー信仰の現実性の欠如と絶望感、そしてまた、人々から信仰も希望も奪いさる罪に対してだろうか、憤りを覚えられた。しかし、彼らのそうした不信仰もラザロをよみがえらせるという主イエスの思いを押し止めはしなかった。
・主イエスは、ラザロの墓を塞いでいる石を取り除けるようににマルタに言いつけられた。彼女にとって石を取り除けることは、絶望を確認することでしかなかったが、主イエスのその命令は不信仰を去って、信仰に立ち、神の栄光を現実に見るようにとの招きであった。
・本日は、召天者記念日である。召天者を覚えると共に、自らが主の元に召される時のことを覚えたい。自分の葬儀のための聖書の箇所や讃美、また、故人略歴に代わる証しを書くなどして、備える時としたいものである。

●2016年10月23日の説教要旨
「あの狐に言え!」  ルカの福音書 13:31–35
・主イエスに「ヘロデがあなたを殺そうとしています。」との忠告で今回の話しは始まっている。そう告げる彼らはヘロデに与するものでありながら、主イエスに近づいて来たのである。そのような彼らに対して主イエスは、自分の宣教と贖いのための死に対する決意を伝えるように言われた。
・また、エルサレムを「預言者たちを殺す者」、「めんどりがひなを翼の下にかばうように」集めようとしたのに、それを好まなかったと嘆かれた。しかし、その嘆きは、父なる神の救いのご計画と主イエスの十字架の贖いを妨げるものではなかった。むしろ、そうしてエルサレムの霊的な状態のゆえに、救いのために不可欠なこととして主イエスはご自分の十字架を受け取られていったのであろう。
・主イエスは「『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときが来るまでは,あなたがたは決してわたしを見ることができません」と言われ、彼らとの対話を締めくくった。その「とき」が、いつなのか、主イエスのエルサレム入城のときか、それとも、終末のときなのか、解釈の分かれるところである。しかし、それがどちらであっても、私たち自身は、イエスを主と告白して歩みたいものである。

●2016年10月16日の説教要旨
「狭き門より入れ」  ルカの福音書 13:18–30
・主イエスは会堂で安息日に18年間病の霊に取り憑かれていた女を開放なさった。それを見た会堂管理者は、主イエスとおそらく主に癒しを求めていた人々を厳しく叱責した。しかし、主イエスは反対に、会堂管理者たちを「偽善者たち」と叱責し、安息日に人々が家畜に対する行っていることを取り上げて反論された。この反論に納得した双方は、一方は神を讃美し、他方は恥じ入った。
・恥じ入った者の中に働く神のみわざに主は目を留めてくださって、今朝取り上げているからし種とパン種のたとえを語られたと思われる。彼らの中に始まった神の国は、そのままで留まっていることなく、大きく成長していく。あるいは、やがては人格全体に影響を及ぼすように導かれていくのである。
・そして主はまた、狭い門から、しかも努力して,入りなさいと語られた。狭い門と対照的な広い門は、立派な門と言うよりは、多くの人々が入りたがるというよりもそちらに流されて行くような門ということができよう。狭い門に入るためには、また、マタイによるならば、見出すことも困難であり、努力しなければ入ることの出来ないものである。
・私たちは、自分の道を選択するに当って、それをどのように選び取り、また、歩んでいるのだろうか?真に主の道を求める者とされたい。

●2016年10月9日の説教要旨
「戸惑いを喜びに」  ルカの福音書 13:10–17
・主イエスは、8年間病のために腰が曲がっていた女性に手を置いて、彼女を癒された。彼女に取ってそれはどれほどの喜びであったろうか?その反面、会堂管理者はこのことを見咎め、怒って、安息日に癒されることが、律法に反することと非難した。しかし、主は、あなたがたは自分の家畜の縛りを解いて、水を飲ませるではないかと、彼らの主張の誤りを指摘した。会堂管理者たちは恥じ入り、人々はイエスのすべての「輝かしいみわざを」と喜んだと言われている。その喜びは、自分にもその癒しや祝福を与えてもらえるかも知れないという期待でもあったろう。
・彼ら会堂管理者の主張は、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」との律法が根拠であった。しかし、彼らのその律法に対する理解は、安息日に何も行ってはならないという律法を曲解したものであった。彼らの理解は本末転倒と言わざるを得なかった。主イエスは、そんな彼らに向かって「偽善者」と呼びかけた。彼らには、自分たちが正しい者であって決して偽善者ではないと思い込んでいたので、主イエスのことばを拒絶してしまった。それは同時に、主イエスの与える喜びをも拒絶するものであった。
・「偽善者たち」との主イエスの呼び掛けとその意味は、私たちにも受けられている。その呼び掛けをしっかりと受け留めて、自分の自分理解ではなくて、主が私たちをどのようなものと見ていられるかを主に聞く者とされたいものである。

●2016年10月2日の説教要旨(聖契神学校校長・鶴見聖契キリスト教会牧師 関野祐二師)
「心が燃える復活」  ルカの福音書 24:25–32
・クレオパ夫妻がエルサレムからエマオに向かう途中、復活の主イエスが二人に現れて、旧約聖書でご自分について描かれていることを解き明かされた。その解き明かしを聞きながら彼らの「心は燃えていた」と言われている。
・旧約聖書を読んでいた彼らであったが、それらをキリストの受難と復活をその中から読み取り、悟ることがなかった。主イエスはそのことを「愚かなこと」と言われたのである。
・ユダヤ人たちが経験したエジプトへの避難と出エジプト、バビロン捕囚とそこからの帰還という出来事、イスラエルの歴史そのものが、メシアの受難と復活を指し示している。主イエスは、そのように旧約聖書を解き明かされたのであった。
・主イエスが彼らと共に食卓に着きパンを裂かれたとき、彼らは彼らと共に歩み、みことばを解き明かされていた方が主イエスであることを悟った。その瞬間、主イエスは彼らから見えなくなった。心が燃えていた彼らにとって、主イエスを一目みたことで充分であった。こうした経験は、パウロの回心体験に通じるものがある。
・聖書を読み、そして神に出会ったときに、心が温められ、心燃やされた人は多くいる。その中に気圧の単位で有名なパスカルやジョン・ウェスレーなどがいる。
・私たちの心燃やされ、主と共に歩むことが出来るまでに、聖書を読み、悟るものとさせて頂きたいものである。

●2016年9月25日の説教要旨
「いのちを与える神」  イザヤ 53:1-12、ヨハネ 3:16
・宗教改革者マルティン・ルターはヨハネの福音者3章16節を聖書全体のメッセージがそこに集約されているとして「小聖書」と呼んだ。神はご自身のひとり子をこの世に送り、そのいのちと引き換えに私たちに永遠のいのちを与えてくださった。
 このみことばを心に留めながら、イザヤ53章を読んでいきたい。
・この章で語られているメッセージは、まず、それは理解されがたいこと、言い換えれば、神が教え導いてくださるのでなければ悟ることのできないものであることが語られていく。神の導きを求めていきたい。
・その方はどんな姿形であったのか? 多くの人が想像したような姿ではなかった。主イエスがエルサレムに来たとき初めは大歓迎したものの、一週間も経たないうちに人々は主を拒絶し、「十字架に着けろ」と叫んだ。その結果、主は兵士たちの手に渡され、酷い扱いを受けた。神は主イエスをそのような暴力から守ることもお出来になった。しかし、神は主イエスをなすがままにされ、十字架に着けられてもなお、お救いにならなかった。それは、その十字架の上で主イエスがすべての人の罪のための身代わりとなってくださったのである。
・人間関係の中で最も重い罪は、無視することかも知れない。それは相手の存在を無視し、和解のきっかけをもたらさないからである。私たち人間は、神を無視して来たのです。そして、本当の神を認めない生き方がもたらす結果は、結局は本当の幸せを失った人生なのである。
・私たちは、言いようもなく重い罪を見つめながらも、それがイエスさまの十字架によって赦されているという恵みを覚えながら生きるものとされたい。

●2016年9月18日の説教要旨
「主を讃美するしもべ」  詩篇 113:1-9、ピリピ 2:6-11
・詩篇113篇は、「ヤハを讃美せよ」と始められ、さらに「主を讃美せよ」と続けられている。しもべとは奴隷のことであり、与えられた労役をするだけのものである。しかし、その奴隷に向かって、讃美せよと呼び掛けられている理由は、その労苦によってもたらされる結果が素晴しいものであるということにある。主はその栄えある救いのご計画の一部を私たちに担わせてくださっているのである。新約聖書において、主イエスは私たちをしもべ以上の「友」と呼んでくださっている。しもべは主人のなすことのその全貌ではないにせよ、教えてくださったのである。
・主は身を屈めて、塵芥の中にいる弱く、貧しい私たちをご覧になり、また引き上げてくださる。罪とけがれの中にいる私を身許に引き上げるために、主はこの地に降り、十字架の死にまでも従われたのである。
・最後に「子を産まない女を、子を持って喜ぶ女として家に住まわせる」とこの詩篇は結ばれている。旧約聖書の時代、子のない夫婦は神の祝福のない人と考えられて来た。しかし、そのような人々も主の祝福に入れられているというのである。主イエスは、あなたの母があなたを呼んでいますとの声に、「神のみこころを行うものが、わたしの兄弟、姉妹、そして母なのです」と答えてくださったのである。この地上での教会の交わり、それこそが血縁の家族にも優る、神の目から見るならば霊の家族としての麗しい交わりなのである。

●2016年9月11日の説教要旨
「人生を見つめる」  ルカ 13:1-9
・ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのいけにえとともに流した(注参照)事件は、聖書の他の箇所や歴史的文書には言及がないが、エルサレムで何らかの反ローマ的な騒動を起こしたガリラヤ人が神殿に逃げ込み、祭壇の角を掴んで、神の助けを求めるようなことがあったらしい。しかし、助けはなく、むしろ、そこで彼らは殺されてしまった。これを見たエルサレムの人々は彼らの反乱は、主の御心ではなかったと思い、彼らを非常に罪深い人と考えられたようである。また、シロアムの塔の倒壊の犠牲になった人に対しても人々は彼らがとりわけ罪深かったと考えたようだった。挫折を知る人にとって、厳しいことではあろう。しかし、主イエスは真っ向からそれを否定し、人はみな悔い改めなければみな滅びると宣言された。
・ぶどう園に植えられたいちじくのたとえは、信仰の実を結ぶどころか、神を捨て去ってしまったイスラエルに対する神の忍耐を教えているが、同時にそれは、私たちに対する忍耐を示している。また、ぶどう園の主人に忍耐を求める園丁の姿は、究極的にはご自身を差し出して忍耐を求められる主イエスの姿に重なるものがある。

●2016年9月4日の説教要旨
「主がもたらされる平和」  ルカ 12:41-59
・ペテロのことばによって始められた主のみことば、第二に主がもたらされるのは平和でなくて分裂ということ、そして最後にさばきのことが今日の箇所では語られている。
・主のみことばは、基本的には聞き従う者のために語られている。ここで語られているたとえは、みことばを伝えるように召された人、そのみことばを聞く人、また、まだみことばに出会ってない人も考えられているように思われる。
・主の救いを受けた人は、主に選ばれた者であるとともに、その救いを宣べ伝え、他の人をも救いに導くことが期待されている。しかし、そうでない人もいるという現実を主は語られている。多くのものが委ねられた者には多くのことが要求される。主は主の救いに入れられた者が成長して、多くのことを委ねることができるようになることを願っている。
・主イエスのもたらされる平和は、神の平和であって、人の平和ではない。何も起こらないことではなく、神の義によって裏打ちされた平和であり、御名が崇められるための平和である。対立する人間のどちらかが非を認めるのではなくて、互いが主の前に罪人であることを認め、神の前に悔い改めていくことが真の平和に繋がって行くのである。

●2016年8月28日の説教要旨
「神を持ち望む」  イザヤ 40:1-31
・イザヤ書の前半、39章までは様々な人へのさばきのことば、「心を頑にするメッセージ」が語られているが、40章からは一変して、慰めが語られている。このことばの受け手は主として預言者たちであるが、一般のユダヤ人はもとより、私たちをもその聞き手と考えることができる。ここで語られている「慰め」は、感情的なものではなく、もっと実質のあるものである。
・主は、その労苦は終わったと宣言された。どのような困難や苦しみももはや終わりとされ、今からはそこからの恵みを受け取ることが出来る。エレミヤの哀歌で「口にちりをつけよ。もしや、そこに希望があるかも知れない」と言われているが、そこに「確かな希望がある」ということができる。
・「荒地で…大路を平らにせよ」と言われている。荒地、それは人生の困難な場所を指している、そこを平らにして、主の通られるところとせよ、ということ。主の恵みによって、主が共に重荷をになってくださり、みわざをなしてくださることを意味している。
・主は私たちに対して、主を待ち望むならば、新しい力で満たしてくださると約束してくださっている。

●2016年8月21日の説教要旨
「主人の帰りを待つしもべ」  ルカ 12:35-40
・先日、盲導犬を連れた男性が地下鉄のホームに転落して亡くなったというニュースがテレビで報道されていた。第一報から暫く経ってから名前が明らかにされたが、私の知人であることが分かった。死が突然やって来ることもあるのだということを改めて知らされた。
・今日のみことばは、終末が突然やって来ることを教えている。使徒たちの生きていた時代、多くのキリスト者たちが、また、使徒パウロも、世の終わりが近いことを感じ、また、その手紙に記しているが、その世の終わりはまだ、実現していない。
 しかし、それは実際に起こることであり、必ずやって来ることを知らなければならない。また、個人の終末である死にも、私たちは備えるべきである。
・婚礼に出かけた主人のこのたとえは、終末に対して備えているべきことを、それがいつあっても大丈夫なようにしているべきことを語っている。この前までの箇所で主イエスは、王や役人などのこの世の権威を恐れることをやめるようにと教えて来たが、それは真に本当に恐れるべき方を恐れることを警告していた。それは生きる目標の問題である。
・キリスト者にとって、神を喜び、神の栄光をあらわすことが人生の目的、目標である。それは、何か歯を食い縛るようにして「神の栄光を」と言って行くのではなく、神を知り、むしろ、知らされていく人生である。そうした歩みは、言うまでもなく、聖霊に導かれた歩みである。

●2016年8月14日の説教要旨
「平和を造る者の幸い」マタイ 5:1-10
・「山上の説教」の冒頭、祝福の教えには「平和をつくる者は幸いです」ということばがある。ここでつくる者が幸いであると言われている平和は、神の平和である。
・詩篇103には、「兄弟が一つとなってともに住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」と言われているが、それは、必然的なことではない。仲のよかった兄弟も親が失われるとき、ときには、その相続を巡って平和どころか、文字通り「骨肉の争い」が起こりかねない。
・「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ」と続いている。それは、「そそがれた」油、つまり、神が人に注いでくださった油。イスラエルの初代の祭司、アロンの名前が言及されていることからすれば、それは任職の油と考えることができる。イスラエルが、また、霊のイスラエルであるキリスト者が、平和のために召されたことがそこに意味されている。
・今日は「アッシジのフランシスコの平和の祈り」を配付し、祈りたいと思うが、三つのことに目を留めたい。第一は、「主よ」との呼び掛け、全知全能の、今も生きておられて、私たちと共にいてくださる神への祈りであるということ。第二は、その求める平和は、あなたの平和、すなわち神の平和であるということ。最後に、この祈りの終わりが、「死ぬことによって永遠の生命に与ることができるからです」があることに心を留めたい。それはイエスさまの死によって、いのちを与えられたキリスト者の特権である。

●2016年8月7日の奨励要旨 (岡真美恵姉)
「神さまのかたちに」Ⅱコリント3:6、13-18
・先週、中村先生が、人間は「神のかたち」として造られた大切な存在であると話してくださった。人格的な存在であり、自分を意識し、他者とコミュニケーションする能力や高潔な道徳性を持っている。神を信じ、礼拝する特権も持っていると。
・けれど、人間の現実はどうだろう。部活でコーチから「お前は使えねえ」「くず! 死ね!」と言われ傷つく子供たち。自殺した警察官も上司から「お前はだらしがない」「お前は嘘つきだ、バカだ」と言われ続けていたらしい。幼児が虐待され、障害者が殺害され、人が家族に殺される・・・、人間の悲惨な現実がある。
・それは、なぜか? 人を人として扱わず、傷つけ、殺すのは「罪の結果」。では、「罪の原因」―本質は何か? 罪を表す言葉はたくさんあるが、ギリシャ語のハマルチアは「的をはずすこと」を意味する。つまり、神が人を「神のかたち」に造られたのに、その本来あるべき姿から、外れていることにある。
・私たちはどうすればいいのか?聖書は、私たぢは新しい契約に仕えるものだと語っている。旧約の時代には、律法を守ることで神の民として生きていたが、何度も背きを繰り返した。それに対する最大の結果がバビロン捕囚であったが、―方で、新しい救いの計画を用意してくださった。神がこの地上へ来てくださるということ。
・コロサイ1:14には「御子は見えない神のかたち」であると書かれている。キリストが誕生し、貧しい人、苦しむ人と共に歩み、病人を癒し、悪霊を追い出して、神の愛を示してくださった。私たちは、キリストの見本によって、どのように生きれぱよいかがわかる。新しい契約に生きる私たちは、「神のかたち」を修復する歩みができる。そして神さまとの関係も良い方向へと修復され、聖霊が共に歩んでくださることで、「主と同じかたちに姿をかえられて」いくのである。

●2016年7月31日の説教要旨 (松見ヶ丘キリスト教会 中村守師)
「神のかたちに造られた人間」 創世記1:28-31
・先日障がい者施設で多くの入所者が殺害されるという事件があった。彼らは生きていても意昧がないというのが犯人の動機であったという。人間をその能力によって評価するという価値観が多かれ少なかれこの社会に拡がっている。それぱ聖書の価値観と対極的なものである。しかし、キリスト者もこの社会の影響を受けているので、日々みことばによって正されていかなけれぱならない。
・創世記1章では、神がご自身のかたちに人間を造られたと語っている。神は霊であるから、物質的なかたちを持ってはいない。さらに2章では、神が土地の塵で人を造り、その「人」にいのちの息を吹き込まれたと教える。神が人間にいのちの息を吹き込まれ、たましい・霊を持つものとなり、人格的な存在、自分を意識し、他者とコミュニケーションを持つことが出来る存在となった。神のかたちに造られたということを指していると考えられる。また、道徳性を持っていることや地を支配することが出来ること、あるいはものを造ることができるということなども神のかたちにかかわっていると考えられるとパッカー師はその著書に記している。(しかし、それは堕落とともに失われてしまった。)また、人間はからだがあるからこそ、在る物を材料として用いて、考えて、ものを造ることが出来る。また、人間だけが神を信じ、礼拝することが出釆る。それこそが人間に与えられた特権であり、責任でもある。
・堕落によって神のかたちの多くが失われてしまっているが、それでもなお、神は私たちを大切な存在と愛し、慈しんでおられるのである。

●2016年7月24日の説教要旨
 (ゴスペルチャーチ東京 波多師)
 「一人じやない歩み」 マタイ11:28-30
・アメリカの黒人教会の礼拝に参加してその讃美に驚いた。「神を讃美しましょう」ということばでどれほど感動しているだろうかと考えさせられた。
・奴隷制度の下にあったアメリカの黒人奴隷たちは、主人たちの下で教会に行くようになり、イエス・キリストのことを知るようになった。彼らにとって、神は、天上におられて御座についておられるだけでなく、この世に降り人となった方、彼らと同じように屈辱を受け、むち打たれ、十字架にさえも着けられた方であった。また彼らは「疲れた人」であり、休みが欲しかった。まさに彼らの心の叫びと重なるものがあった。「休ませる」というこのことぱは、楽器などの弦を緩めるという意昧のことば。それぞれの歩みを再び行うための力が与えられる。
・「だれもわかってくれない」という曲がある。黒人解放後、政府の不条理な決定が伝えられた時に、歌われた曲である。人は知らなくても、神さまだけは「私」を、また不条理な現実を知っていてくださることを歌ったものである。
・今日からの一週間、これらのことを心に留め、歩んで行きたい。

●2016年7月17日の説教要旨

「小さな群れよ。恐れるな。」 ルカ 12:22-34
・「愚かな金持ちのたとえ」を聞いた群衆の中には「自分のために蓄えても…」ということばに反応した人がいたかも知れない。明日の食べ物や着る物もにも困っていた人も少なからずいたと思われる。そのような人々を念頭において「だから」と語り始められたと考えられる。
・鳥よりも野の花にもよくしてくださっている神は、私たち人間をもよくしてくださらないはずがないと主イエスはおっしゃった。その後主イエスは「ああ、信仰の薄い人たち」と嘆かれた。それは私たちを責めることばではなく、自分の思い、その愛が受け入れられないことへのやるせない思いのほとばしりであった。
・そのような神のご愛についてことばに続けて「神の国を求めなさい」とのみことばが語られた。神の国とは神の支配、導きであるが、神のすばらしさ、栄光と言ってもよいかも知れない。神の力は弱さのうちに働くのである。出来そうな人、優秀な人が神さまのみわざを行うのではなく、弱く、欠けの多い器を主が用いてくださって、みわざがなされて行くのである。
・そのように小さな群れでも、主は恐れるなと呼び掛けてくださっているのである。

●2016年7月10日の説教要旨 
「小さな雀さえも」 ルカ 12:1-12
・立錐の余地のないほどに集まった群衆に対して主イエスは、「パリサイ人のパン種にきをつけなさい」と語った。パン種が初めは小さくてもやがて粉の全体に影響を与えるように、パリサイ人の教えによって人々が悪い影響を受けないようにとの警告であった。人は尊敬する人の影響を知らない間に受けるが、よい影響だけでなく悪い影響も受ける。むしろ悪い影響の方が容易に受け易いかも知れない。
・主イエスは続けて、恐れなければならない方を恐れるべきことを示された後で、「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません」と語られ、小さな者をも確かに覚えられていることを明らかにされた。雀は貧しい者の食べ物と言われている。そんな小さなものも主は覚えて下さっている。
・次いで主は、「あなたがたの頭の髪の毛さえも、みな数えられています」と語られた。自分のことは自分が一番よく知っているということがあるが、神さまは私たち自身以上に私たちのことを知っていてくださるのである。

●2016年7月3日の説教要旨

「重荷を負わせる宗教家」 ルカ 11:45-54
・律法学者たちは自分たちは賞賛されることはあれ、非難されることなどありえないと考えていた。しかし、主イエスは「人に重荷を負わせるが、自分ではそれに指一本触れようとしない」と彼らを責められた。
・ユダヤ人たちは、捕囚の経験から二度と主のみことばに逆らわないという強い決意をしていた。そして彼らはどのようにすれば律法から外れないようにすることができるか律法学者たちに求めていた。
・そうした人々の要求には彼らは応えることはできたが、神ご自身との御思いに触れる人格的な関係を神との間に育むことはできなかった。聖書は、神ご自身を人を愛して止まない父として表しているが、律法学者にはそのような神理解はなかった。
・神は律法を守ることの出来ない者への怒りと共に、あわれみの心を持っているお方である。その御思いに通じるものを彼ら、律法学者たちは持っていなかった。
・カインとアベルのささげ物の記事から、私たちはささげる者、礼拝する者の心をご覧になる神を知ることが出来るが、律法学者にはそのような思いはなかった。
・そのような彼らが神のことについて語ることを、主イエスは赦すことが出来なかったのである。
・私たちもそのような神の御心を知る者とたりえない者であることを知らされ、主を知ることを切に求める者とさせて頂きたいものである。

●2016年6月26日の説教要旨
「備えられた礼服」 マタイ 22:1-14
・天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王に例えることが出来ると主イエスは語り始められた。
・当時の婚礼の披露宴は、大体の日にちが知らされているだけで、準備が整うと主催者は招待者に使いを送るというものであった。この披露宴は、王子のためのものであったから、招待された人々は有力者たちであり、町の代表者でもあったから、その人が王の招待を拒絶し、その使いを辱めさえもしたならば、その町が攻められることは不思議なことではないと思われる。王は事前に招待していた人たちの代わりに、通りに出て行ってだれでもその披露宴に客として連れて来るように言った。
・このたとえ話は、ユダヤ人の歴史と見ることもできる。モーセに導かれて約束の地に入って行ったユダヤ人は、主の御心から逸れて行った。神は多くの預言者たちを送って、彼らに悔い改めるように求めたが、ユダヤ人たちは招きに応じるどころか預言者たちを迫害し、殺害さえした。
・また、このたとえはユダヤ人でない、救いに招かれていなかった異邦人に救いが及ぶようになって行ったことを明らかにしている。そしてそこでは、披露宴にふさわしい服を着るように求められているが、その服は王が備えてくださるのである。その服とは、パウロが手紙に記しているように、自分の持っている古い基準やあり方を捨てて、神の備えてくださった新しい価値基準やあり方を受け入れることなのである。

●2016年6月19日の説教要旨
「心のうちをきよめる方」 ルカ 11:37-44
・体のあかりは目ですと言われているが、ここではこのあかりということばは、明かり取りの窓のようなものと考えることができる。その明かりが健全であるならば、光を充分に取り入れることが出来る。またここでの光は、ニネベの人々にとってのヨナの説教、南の女王にとってのソロモンやその知恵であり、そのみことばに対して彼らはそれをふさわしい仕方で受け留めた。
・主イエスを食事に招いたパリサイ人は、主イエスがきよめの洗いをしないのに驚いた。その指摘をきっかけとして主イエスは、パリサイ人たちの偽善を避難して言われた。物質的な物の捧げ物はしているが霊的にはささげること、神と人への愛がなおざりになっていると非難している。
・主は続けて、会堂で上席に坐ることや市場で挨拶されることが好きなことをも指摘し、彼らが人目につかぬ墓であるとさえ言われた。死体や墓は当時のユダヤ人たちにとっては人を汚すものだとされていた。このことばはパリサイ人にとっては酷い屈辱であった。それは律法の専門家たちも同様であった。
・このように非難されているパリサイ人であるが、これらのことが書かれたのは、取りも直さず、私たち自身への戒めであること覚えさせて頂きたい。

●2016年6月12日の説教要旨
 「ヨナのしるし」 ルカ 11:27-36
・主イエスがヨナのしるしについての話しをする前に、一人の女が「あなたを産んだ腹、あなたの吸った乳房は幸いです」と叫んだ。その幸いは「マリアの賛歌」でも歌われたことであった。主イエスはさらに一歩進めて、「神のみことばを聞いて、それを守る人です」と語っている。主イエスの母であることより、その兄弟姉妹であることよりも、神のみことばを聞き、それを守ることを幸いとしている。実は、このことは詩篇第一篇でも言われていることでもあった。
・そのような中で主イエスは「この時代は悪い時代です」と断じる。神に頼る者を弱い者と言い、神の教えを守る者を古ぼけた生き方に縛られているというのが、現代の潮流であり、それは神に逆らうという点で主イエスの時代と共通している。
 その時代に、主イエスはヨナのしるししか与えられないとおっしゃった。ヨナのしるしとは主イエスが十字架に架かり、三日目に死人の中からよみがえることに他ならない。
・主はさらに、シバの女王やニネベの人々を引き合いに出して、主イエスの同時代人を責めた。ソロモンの知恵のことばよりも主イエスのことばは、人に罪を悟らせ、いのちを与えるという点優った者である。また、自分の罪のためでなく、私たちの罪のゆえであることがヨナと主イエスの三日三晩の決定的な違いであるし、その救いの確かさに決定的な違いがある。主イエスのみことばは言うまでもなく、私たちの時代にも、私たちにも向けられていることを心に留めなければならない。

●2016年6月5日の説教要旨

「真の強い人キリスト」 ルカ 11:21-26
・この箇所の「強い人」には冠詞が着いている。それは悪魔やサタンを意味している。このたとえは、ヨハネの手紙第一にあるように、この世は悪い者(悪魔)の支配下にあることを教えている。この世のものは神の創造されたそのものの本性が充分に発揮することが出来ず、悪魔に隷属している。私たちがその支配から脱するためには、自分の無力さと主の御力を認めて、主の御名を呼び求めて行くしかない。また、現実がどうであれ、神さまの御心がなることをひたすらに求めて行く他はない。主は、私たちが、相手の今がどのようなものであれ、その滅びを願うのでなく、その悔い改めと救いを求めるように願っているのである。
・次いである「汚れた霊のたとえ」は、二つの解釈がなされる。一つは歴史的な事実に言及したとするものである。ユダ王国は偶像礼拝へのさばきとしてバビロン捕囚の憂き目にあった。彼らは悔い改めて、二度と律法から外れまいとしたが、主ご自身により頼まないで律法を守ろうとしたために、律法主義に陥ってしまった。もう一つは個人的な霊的経験に言及しているとするものである。すなわち、悪霊に憑かれた人から一時的に悪霊が離れるようなことがあっても、神ご自身により頼むことなしには、以前よりも悪い霊的な状態になってしまうということである。

●2016年5月29日の説教要旨(十日市場めぐみキリスト教会 トーマス・ベック師)
「よくなりたいか」 ヨハネ 5:1-9
・主イエスは祭りのときにエルサレムに上られた。ユダヤ人にとって祭は喜びの時であるとともに、神に出会い、その祝福を受ける時別な時であった。ベテスタ(恵みの家)の池の回りにいた病人たちはそのような喜びや祝福から引き離された人々であった。その池の水が動いた後、最初に池に入った人が癒されると言われ、彼らは病人同士として互いにあわれみ合うのではなく、我先にと水に入ろうと競い合っていた。現在の社会は、巨大なベテスタの池ということが出来る。
・そこに38年間伏せっている人がいた。彼には病だけでなく、神さまに出会い、祈りをささげることが出来ないという霊的な悲しみもあった。私たちも彼と同じように神から離れた存在である。しかし、イエスさまはご自分からこの病人のところに来てくださった。神は罪人が戻って来るのを黙って待っているのではなく、私たちのところに来て下さるのである。それは神の一方的な恵みである。
・主イエスは彼に目を留めて、「よくなりたいか」と問いかけられた。彼が深いところで、自分の問題の責任を他人や環境に転嫁することなく、本当に救われたいかと問われたのである。彼は自分には助けてくれる人がいないと応え、彼が希望を失っていること表した。しかし、主イエスは彼に「起きて、床を上げて、歩きなさい。」と命じられた。彼には不可能と思われるようなその命令であったが、そのみことばによって彼は変えられて、起き上がり歩く力と勇気が与えられた。私たちにとっても、みことばに従い、歩むことが大切なのである。

●2016年5月22日の説教要旨
「神の国の到来」 ルカ 11:14-20
・主イエスは、弟子たちに祈りが自分の願いを申し上げるという一方通行なものではなく、神のみこころに聞き従うべきこともあるということを教えてくださったあと、具体的な歩みの中での出来事をきっかけとして神の国の到来を宣言された。
・悪霊に憑かれた人から悪霊を追放したことが記されているが、それは決して、未開な時代に精神的な病気をそのような仕方で説明していたわけではない。
・主イエスは主イエスが神からの者であるということを証明するようなしるしを求める人々に対して、サタンが内輪もめをしたらならばサタンの国は当然のこととして崩壊するということを告げた。つまり、それは霊的な奇跡などを求めるまでもなく、考えれば判ることであると言う。
・もし神の指で悪霊を追い出しているなら、神の国は来ていると主張なさった。「神の指」とはモーセがエジプトの呪法師たちと戦い、呪法師たちがモーセと同じことができなかったときに、呪法師たちが言ったことばである。いわば、呪法師たちのモーセに対する敗北宣言なのである。そしてそれは、言うまでもなく、主イエスの勝利宣言なのである。

●2016年5月15日の説教要旨

「求めよ。さらば与えられん」 ルカ 11:5-13
・夜中にパンを求める人のたとえを語り終えた後で、求めなさい、捜しなさい、たたきなさいと三つの勧めをなさった。それは、ただ一度は求めてみる、捜してみる、たたいてみるということではない。むしろ父なる神が必ず応えてくださることを信じて、それぞれを継続する、執拗に行うことを含意されている。
・ついで主イエスは、子に求められれば、必ずそれに応えるという父を例に挙げて、父なる神が応えてくださることを請け合っている。しかし、この箇所はマタイの福音書の平行箇所とは微妙に違っている。マタイが「良いもの(複数)」となっているが、ルカのこの箇所では「聖霊」となっている。
・どのような意味がそこにあるのだろうか?それはこのことばが祈ることを教える文脈の中にあることにその鍵がある。祈りということは、一方通行の「願いごと」ではない。神との交わりである。自分の必要を神に強要するのではなく、そこで神の御心を聞いて行くことなのである。主イエスのゲッセマネの祈りがそうであったように、自分の願いではなく、神の御心を受け取り、従って行くことなのである。そして、御心を知り、またそれに従うために、ご聖霊の導き、照明と励ましがなくてはならないのである。
・私たちにも、聖霊なる神の満たしに与り、御心を受け止め、御心をなす者とされたいものである。

●2016年5月8日の説教要旨

「こう祈りなさい②」 ルカ 11:1-4
・主イエスは私たちの必要を祈るよう教えられた。その第一は、「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」というものである。私たちの肉体的な必要を主イエスはご存知であって、その必要を主が満たしてくださるようにと祈るのである。日ごとの糧のために切実に祈ることはないかも知れないが、それを欠くことになって、あるいは欠いている人がこの世界には多くいることを思い起こすことによって、この祈りは深まりを持つようになるのである。そして、私たちが当然としてしまっている糧も、主のご支配の中での出来事であることを知らされるのである。
・ついで主は、私たちに罪の赦しを求めるように導かれる。これも、私たちの日々の主との関係がぼやけているならば、切実さを持たない。しかし主は、私たちに「私たちも私たちに負いめのあるものをみな赦します」と告白させることによって、この祈りを私たちにとって身近で、切実なものとして意識させようとしている。
・終わりの「試みに会わせないでください」には、マタイ版主の祈りにある「悪(あるいは悪い者)からお救いください」が省略されている。マタイのこの「悪」を「もの」とするか、「者」とするかは決定的な決め手はないが、ルカはその決定を待たずに、人というものは試み(新約聖書では「誘惑」と同じことば)に屈し易いものということを指摘するだけで充分としたのであろう。

●2016年5月1日の説教要旨

「こう祈りなさい」 ルカ 11:1–4
・主イエスの弟子たちは、バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りを教えたように、自分たちにも祈りを教えて欲しいと請うた。実際、当時のラビたちは弟子たちに様々な祈りのことばを教えていたようである。
・主イエスの祈りは、「父よ」という呼びかけで始まっていた。聖書では神を子をあわれむ父として描かれ、また、地上の父に対しては家族と子どもを正しく導くことが期待されているのである。そのような「父」に呼びかけ、祈ることを主は弟子たちに教えている。そして、その御名が「あがめられるように」、原語に即していえば、「聖とされるように」と続けるように導く。主は私たちが地上の父に対して持つ悪い思いを、天の父と言う時に持ち込むことがないように、むしろ、地上の父との関係が見直されるように願っていてくださるのである。
・次いで主は「御国が来ますように」と祈るように教えている。「御国」とは神のご支配、ご主権が現れるようにということである。それは、受動的に主が御国を送ってくださるように祈るばかりでなく、私たち自身のうちに主の支配が豊かに現れるように祈るべきことを忘れてはならない。私たちは、主のご支配、主権の中でこそ本当に自由に生きることができるのである。

●2016年4月24日の説教要旨
「なすべき唯一のこと」 ルカ 10:38–42
・今日の箇所は、マルタという女性が主イエス一行を喜んで家に迎えたことから始められている。彼女は主イエスをもてなそうと懸命であった。その一方で、彼女の妹マリヤは主の足下でみことばを聞くばかりであった。そのことに業を煮やしたマルタは、主イエスにマリヤのことを訴えた。主イエスの答えはマルタに取って意外だった。今このとき、どうしてもすべきことは一つだけで、マリヤはそのどうしてもなすべきことを選んでいるというのである。
・主イエスのことばは、何かと働くことが必要とされる現代の私たちを困惑させるメッセージを含んでいる。私たちは、「それなら何もしない方がよいのか」と不満のあまり、開き直って、主イエスに向かうかも知れない。しかし、言うまでもなく、それは主イエスのみことばを聞くということにはならない。
・マルタは実はもてなすという仕方で主イエスに仕えていると、そう思っていたが、実際は主イエスを支配しようとしていたということを彼女の主イエスに対することばに見ることができる。マルタは妹に対して自分を手伝うべきと思っていただけでなく、主イエスに対してさえも、自分と同じ思いを持ち、そのようにマリヤを導くべきと思っていたのである。また、彼女は主イエスに仕えることの幸いを見失っていたのである。

●2016年4月17日の説教要旨
「隣人を愛するとは」 ルカ 10:25–37
・「よきサマリヤ人」と呼ばれているこのたとえ話は、一人の律法学者の問いかけがきっかけとなった。「何をしたら永遠のいのちを受けることができるでしょうか」 主イエスは逆に「律法には何とかいていますか。あなたはどう読んでいますか。」と問い返した。神を愛することと隣人を愛することと答えた律法学者はさらに、「私の隣人とはだれですか。」と問い返す。
・このたとえには、三人の姿がある。二人は残念ながら、それまで奉仕していただろう神への愛が、その人のその前後の歩みに表されていない。しかし、父なる神を指し示しているサマリヤ人は、まだ自分の旅の途中であるにもかかわらず、深いあわれみを示し、傷ついた人を助け、宿屋に連れて行って介抱し、宿屋の主人にその後を任せて、再び帰って来ることを約束して去って行ったというのである。
・「だれが隣人になったか」それがこのたとえの結論である。人とは、自分の隣の神の目に大切な存在さえをも無価値なものにしてしまう。罪深く、霊的に無感覚なものなのである

●2016年4月10日の説教要旨
「収穫の主への祈り」 ルカ 10:1–16
・遣わされて行く弟子たちのために主イエスが与えたみことばである。主イエスの弟子はみもとに留まって主イエスに学ぶとともに、主イエスに遣わされて人々の中に遣わされて行くのである。主イエスは、収穫のために働き手を送ってくださるよう祈るようにと弟子たちに言われた。私たちも祈るとき、祈りの応えを期待するが、自分がその祈りの実現のために何かなすべきことはないのか、自分に問いかけながら祈ることが求められている。
・彼らに主イエスが言われたことはその旅の危うさであるが、次いで旅のための備えはしてはならないということであった。それは主の信頼すべきことの具体化である。また、町に入ったならば一つの家に留まり次々と渡り歩いてはならないということ、そして、そこで平安の挨拶をするようにと命じられた。その家が平安にふさわしいならばその家に平安が来るし、もしふさわしくないならば、その平安は弟子たちに帰って来るということが言われている。また語る者自身も福音にふさわしく語り、またふさわしく生きているかが問われているのである。

●2016年4月3日の説教要旨
「主イエスの弟子たる者の歩み」 ルカ 9:51–62
・主イエスの状況は、十字架に着くためにエルサレムに上って行く途中サマリヤを通られたが、「御顔をまっすぐに向けられ」ていたためサマリヤ人たちは主イエスを受け入れなかった。それを見て取った弟子・ボアネルゲ(雷の子)と呼ばれたヤコブとヨハネが彼らを滅ぼそうかと主イエスに語る。主イエス本人以上に弟子が怒るということがここに起こっている。
・後半では主イエスについて行こうとする三人との対話が記されている。最初の人には主イエスは「狐には穴があり…」とのみことばを通して、主イエスについて行くために覚悟が必要であることをかたり聞かせている。まず自分の父を葬らせてください」と主イエスに言った二人目に主イエスは「死人たちに彼らの死人たちを葬らせなさい」と言われた。そこには痛烈な皮肉がある。三人目に人には「手に鋤きをつけてから後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくありませんと、召命にすぐに応じるように求められている。
・いずれの人に対しても、主は献身を求めておられるが、それはそれぞれの人の信仰を否定するのではなく、さらに主を信頼して踏み出すことを求めておられるのである。

●2016年3月27日の説教要旨
「主イエスの復活」 ルカ 24:1–12
・主イエスのよみがえりの三日前、全人類の罪を背負って主イエスは十字架につき、「父よ.彼らの罪をお赦しください」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」「完了した」などのことばを残して死んでくださった。まことの神の御子が、「十字架から降りて来い」などの群衆のことば―それは主イエスが公生涯の前に荒野で受けられた悪魔からの誘惑のことばを彷彿とさせる―を受けながらも、御苦しみを甘受されたのであった。
・ルカは他の福音書と違った形で主イエスの復活を記している。
・安息日が終わり、マリヤたちが主イエスの埋葬のために墓を訪れたがそこに主イエスの遺体はなく、ただ御使いが「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」とそのよみがえりを告げるのみであた。マリヤたちは生前の主イエスのことばを思い起こし、御使いのことばを信じ受け入れて弟子たちに主イエスのよみがえりを信じ、弟子たちのもとに帰って行って、その一部始終を報告したという。しかし、十一人の弟子たちはそのことを信じなかった。しかし、写本によっては省略されているものもあるが、ペテロは彼女たちの報告を受けて墓を訪れ、空になった墓と亜麻布だけがあるのを見て驚いて家に帰って行くのみであった。
・しかし、後にその日のうちにペテロは復活の主イエスの出会ったことが、エマオの途上の出来事―クレオパともう一人の弟子が復活の主に出会った―の最後に記されている。クレオパたちの話しを聞いているその最中に、主イエスが現れて弟子たちに語り、聖書の預言やご自身のことばを悟らせるために彼らの心を開いたことが記されている。主イエスは「父の約束してくださったもの」を着せられるもで待つように語り,彼らを離れて行かれた。そして、ベタニヤに帰った弟子たちが神をほめたたえつつ、喜びながら聖霊の降臨を待つ場面でこの福音書は終わってる。それは聖霊の降臨こそが弟子たちにとっての神の国の到来と新しい宣教の始まりであることを示唆している。

●2016年3月20日の説教要旨
「イエスを歓迎する人々」 ルカ 19:29–40
・イースターの前の主日は「棕櫚の主日」と呼ばれ、主イエスのエルサレム入城を記念する日であり、当時の群衆は主イエスを「主の名によって来られる方にホサナ」と大歓迎したと記されている。しかし、その同じ群衆たちは週末には主イエスを拒絶し、「十字架だ。十字架につけろ」と叫ぶのである。
・このできごとをどのように考えたらよいのか当惑させられる。しかし、「聖霊によるのでなければ、だれも、イエスは主です」と言うことはできません。(1コリント12:3)」というみことばが、解決の糸口を与えている。つまり、このときその群衆の上に聖霊の導きがあったということである。別の言い方をすれば、主イエスを拒絶し「十字架につけよ」ということばこそが罪深い人間の本来の姿なのである。
・私たちも、聖霊の導きなしには、主イエスを救い主として、決して受け入れることはできないのである。主イエスに対する信仰告白それこそが、私たちのうちに働かれる主のみわざなのである。
・主イエスが十字架につけられていたそのとき、人々は「あなたが神の子ならば」と叫ぶ。それは主イエスが公生涯を入られるときにサタンから受けられた誘惑を思い起こさせるものである。しかし、主イエスはそのような誘惑に勝利して、すべての人のために救いの道を備えてくださったのである。

●2016年3月13日の説教要旨
「神よ。私たちをもとに返し」詩篇 80:19
・この詩篇は、「イスラエルの牧者よ。聞いてください。」との神への訴えかけから始まっている。出エジプトの時代から遥かに後の詩人にとっても、この出来事は、救いの原点と言うことが出来る。私たちにとって、救いの原点とは何であったか、はっきりさせて頂くことが大事である。
・3,7,19節で「私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます」と三度繰り返されている願いは、私たちの信仰の回復が主にかかっているのであって、私たちの側の、人の力による真剣な反省や振返りではなくて、ただ聖霊なる神の働きに他ならないことを明らかにしている。
・祈りは神への自分の思いの告白であるが、時として、特に人とともに祈るときに人に聞かせる祈りになってしまうことがある。主はそのような祈りではなく、心のそこから注ぎ出される祈りを喜んでくださるのである。

●2016年2月28日の説教要旨
「信なき我を救いたまえ」マルコの福音者9:14-29
・主イエスが三人の弟子と共に山の上で過ごしていた間、残された弟子たちは困難に直面していた。耳を聞こえなくし、□を利けなくする霊に憑かれた子どもをその父が連れて来て、その霊を追い出してくれるように弟子たちに頼んだのであった。しかし、彼らにはその霊を追い出すことが出来なかったのである。
・主イエスたちが山から降りて来た時、人々は「議論していた」と言われている、それは「なぜ追い出すことが出来ないのか」「あなたがたは主イエスの弟子なのか」という弟子たちに対する詰問であり、それに対する弟子たちがらの応答であったと思われる。
・父親は主イエスに「もしできることならば、お救いください」と懇願したが、主イエスは「もし出来るならと言うのか」と迫っている。彼は「信じます。不信仰な私をお助けください」と返した。「私たちを」と言うことばが「私を」に替わっていることが印象的である。彼はこの事態を、子どもの問題ではなくて、自分自身の問題として受け取ったのである。
・また、「不信仰な私をお助けください」との祈り、また、そのような告白は、信じることの出来ない自分、自分の思いさえも支配することが出来ない自分を、主に委ねることなのである。

●2016年2月21日の説教要旨
「あなたにとってキリストとは」ルカの福音者 9:18-27
・主イエスは一人で祈った後に弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問われた。ペテロは「あなたは神のキリストです」と答えている。
・ギリシャ語本文を見るとその告白が厳密に言えば「多くの油注がれた者(=キリスト)の一人です」という意味であることがわかる。ペテロのことばは「唯一のキリスト」を告白するものとまでは行かなかったのである。
・主イエスは弟子たちに対して「日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われた。十字架の刑に処される者は自分の十字架を刑場にまで背負って行ったと言われている。今日私たちの社会では自分を活かすことをよしとする。しかし、日々自分の十字架を負う歩みとは、それとは反対の歩みなのである。それは、自分を捨て、自分を殺しさえもする歩みなのである。そこにいのちへの道が開けるのであるという。
・主イエスの要求は厳しいものであったが「ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます」とも宣言された。神の国の到来、それは主イエスの十字架と復活によって救いの道が開かれたこと、そして聖霊なる神さまによって人々がその信仰に導き入れられることをも意味している。実際、ユダ以外の十二弟子はそのような信仰に導かれたのである。

●2016年2月14日の説教要旨
「五千人の給食」ルカの福音者 9:10-17
・別の福音書では、二匹の魚と5つのパンは一人の少年が持っていたものとされている。ある聖書学者は少年が自分の持っていたものを惜しげもなくささげたのを見て、回りの大人たちも自分のものをささげた結果、五千人もの人々が養われることになったとし、超自然的な奇跡はなかったとする。
・初めに奇跡はないという結論があっての、少々苦しい説明ではあるが、少年が自分の手にある小さなものをささげたことには大きな意味がある。それは人々だけでなく、主イエスさまの心をも動かしたに違いない。
・主イエスは自分の持っておられるものばかりではなく、「一粒の種は…死ねば大きな実を結びます」ご自分のいのちを父なる神の前にささげて、私たちにいのちを与えてくださったのである。
・今.私たちの手の中に何があったとしても、それが自分の手の中に握られていたままでは、主がそれを用いることはできない。手を開き、御前におささげして初めて、主にも、また人にも用いられることができるのである。

●2016年2月7日の説教要旨
「派遣される使徒たち」ルカの福音者 9:1-6
・「使徒」ということばは「派遣する人の権威を託されて派遣される人」を意味している。また、「弟子」ということばは「師のもとにいて、師に習い、師のまねをする人」を意味している。
・ここでの「十二人」とは、言うまでもなく使徒であり、弟子である。彼らが主に遣わされて行ったのである。彼らは、主であり、師である主イエスの権威や教えばかりでなく、その御思いをも託されて福音の働きのために出て行ったのである。
・彼らが出て行くとき何も持っていかないように指示された。また、家々を渡り歩くことも禁じられた。それは、自分たちがみことばとみわざが必要な場所に行ってみわざを行うだけでなく、自分たち自身の必要をも主に満たして頂くことを実体験するためであった。
・主イエスは、「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました(ヨハネ 17:18)」と語られた。ここの「彼ら」直接的には十二弟子たちを指してはいるが、主の弟子とされているという意味においては、私たちをも指し示しているのである。

●2016年1月31日の説教要旨(横浜さちが丘キリスト教会 神谷典孝師)
「神のことばによって生きる」マタイの福音者 4:1-4
・教会も建てられて行く中で誘惑や試練を経験する。この箇所では主イエスご自身も「御霊に導かれて、悪魔の誘惑」を受けられたことが記されている。
・悪魔は、主イエスを「あなたは神の子なのだから」,石をパンに変えるように誘惑した。悪魔は主イエスが神の子であることをよく知っている。しかし、悪魔はその内実を変えてしまおうとしているのである。
・主はその誘惑に対して神としての力を用いることはせずに、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とみことばを引用して応えられた。苦しみや限界のある、弱い人間の問題として応えてくださったのである。
・神のことばによって生きるときに、そこには試練がある。そのとき私たちは「愚かでわきまえのない獣のように」なってしまうかも知れない。しかし、そのような私たちを主はしっかりと捉えてくださるのである。

●2016年1月24日の説教要旨 
「愚かな金持ちのたとえ」ルカの福音者 12:12-21
・ひとりの人が「遺産を分けるよう兄弟に言ってください」と主イエスに声をかけたことがこのたとえ話のきっかけとなった。人のいのちは財産に掛かっているのではないということがその主題であった。
・ある金持ちが豊作に恵まれた。その時、彼は自分の魂に「安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と語った。しかし、神は彼に「あなたの魂は今夜取り去られる」と語りかけた。主は「自分のためにたくわえても、神の前に富まないものはこのとおりです。」とたとえを結んでいる。
・神の前に富む者とはどのような人だろうか?逆説になるが、それは神の前に自分の乏しさを知り、そのように告白し、また、それゆえにひたすらに神により頼む者である。神の前には、私たちは何を持っているとか、また何をしたとか言うことはできない。そのことを率直に認めるところに神の恵みによる救いがある。

●2016年1月17日の説教要旨
「それぞれの十二年間」ルカの福音者 8:40-56
・この箇所には、十二年間病に苦しめられていた女性と同じ十二年間を両親の愛の中で育まれながらも死に瀕している少女が登場する。
・会堂管理者とは名誉ある立場であった。会堂での礼拝でだれが勧めをするのかを決める権威があったと言われているので、信仰の面においても見識があったと思われる。そのような人が公衆の面前で主イエスに平伏したことから彼の必死さが伝わってくる。彼の懇願に応えて、主は彼の家へと向かった。
・その途中、長血を患う女性が自らの癒しを求めて主の御衣のさわった。彼女は立ち所に癒された。主イエスは彼女に気がついて「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と声を掛けられた。
・会堂管理者の胸中は複雑だったかも知れない。しかし、この女性が十二年間も病に苦しめられていたことを知ったときに、この女性に対して同情することが出来たように思われる。
・彼の家から娘が死んだとの知らせがもたらされた。人々は娘の死を悼み悲しんでいたが、主イエスは「悲しまなくてもよい。」と希望と信頼とを捨てないように語ったが、それを聞いた多くの人は、あざ笑った。しかし、長血の女性が癒されたのを知っている娘の父の思いは主イエスに対して一縷の希望を抱いていただろうし、そのことばは慰めに満ちたものであったろう。
・私たちも主のみことばに心触れられ、深い慰めと希望を持つものとされたい。

●2016年1月10日の説教要旨
「あなたがたの信仰はどこにあるのか」ルカの福音者 8:22-25
・主イエスとともにガリラヤ湖を渡っていた間に嵐に遭遇した弟子たちは、風と波にすっかりとおびえていた。彼らのうちには以前にこの湖で漁師をしていた者もいた。湖のことを知り尽くしている彼らにとって嵐がどれほど危険であるかを熟知していた。弟子たちは舟が未だ沈まないうちから、主イエスに「溺れて死にそうです」と助けを求めた。主イエスはひとことで嵐を静められた。
・弟子たちは主イエスが「向こう岸へ行こう」と言われたことをすっかりと忘れてしまっていた。弟子たちはそのことばに確かに応答したのであったが、困難の中で主のことばを失ってしまったのである。現在の教会や私たち自身も主イエスの最初のお約束を困難の中で失ってはいないだろうか。
・また、主イエスは「世の終わりまで、わたしはあなたがたとともにいます」と約束してくださっている。主イエスは私たちとは別の安全な舟に乗っておられるのではなく、私たちと同じ舟に乗っていてくださるのである。
・最後に私たちが覚えたいことは、主イエスに呼び掛けることである。危機が迫っているときにこそ、主イエスを呼び、そのみわざが現れることを願うのことが大切なのである。
・「あなたの信仰はどこにあるのか」という問いかけに「あなたこそが私の信仰のなさをご存知です」と告白し、「ただ主よ、あなたのあわれみにすがるばかりです」と主にすがって歩んで行きたいものである。

●2016年1月3日の説教要旨
「博士たちの礼拝」 マタイ 2:1-12
・教会暦から言うと元旦は主イエスの命名の日であったが、6日は公現日である。多くの教会では年の最初の主の日を公現日として祝っている。東方の博士たちが主イエスのもとを訪れて礼拝をささげたことを記念する日である。主イエスが異邦人の礼拝を受入れたということは、その救いが異邦人にも及ぶということを明らかにしている。
・星によってユダヤ人の王の誕生を知った博士たちは、エルサレムにやって来て、時の王ヘロデにその居場所を尋ねた。ヘロデは政治力を駆使して王としての立場を手に入れた。そこには血で血を洗うような争いもあった。その凄絶さは、「ヘロデの息子であるよりはヘロデの豚であった方が安全だ」との諺によっても知ることができる。
・ヘロデが王として生まれた方の居場所を祭司や学者に尋ねると、彼らは立ち所にベツレヘムの名を挙げた。しかし、祭司たちのうちのだれ一人、主イエスのもとに赴こうとはしなかったが、博士たちはさらに確かな導きを星に与えられて主イエスのもと行き、主を礼拝し、夢で別の道から帰るように示されてそのように帰って行った。
・この箇所から私たちは、本来救いに入れられていなかった私たちが、求めるならば確かに救いに入れられているということ知ることができる。

●2016年元旦礼拝の説教要旨
「わたしはあなたとともにいる」 イザヤ 41:8
・教会暦で言えば元日は、主イエスの命名の日である。福音書記者マタイは、主イエスのご降誕をイザヤ7:14の預言の成就としている。イザヤ41:8は、「神が私たちと共におられる」ということばの人称をわたし(神)とあなた(私たち)という二人称の関係に言い直したものと言うことができる。
・預言者イザヤは、イスラエル王国やユダ王国が、神に対する不信仰のためにさばかれ、国が滅ぼされて行く、そのような時代の中で、それらの国に対して神のことばを語ったのである。神はイザヤを通してさばきを語る一方で、その後に与えられる恵みを語っているのである。

●2015年12月27日の説教要旨
「涙の谷を過ぎるときも」 詩篇 84:1-12
 この詩篇の詩人は「なんと幸いなことでしょう」と三度告白している。その中で5節の「その力があなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は」と言うことばは諳んじておられる方も多いでしょう。その大路は、神へと繋がっているものである。それは、パウロが、神は試練の同時に脱出の道も備えてくださると書いていること(1コリ10:13)や主イエスご自身の「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」ということばに繋がるものである。また、ここで使われている「道」ということば、それは「踏み均されてできた道」である。私たち人間によってではなく、神ご自身がこの世に来てくださって自ら拓いてくださった道なのである。 

●2015年12月20日の説教要旨
「平和、御心にかなう人々に」 ルカの福音書 2:1-20
・「今年の漢字」に「安」が選ばれた。平安や安心の安でなくて、不安の安である。残された2015年、また来る16年は、安心と平安の年となるよう願って行きたい。
・主イエスの生まれた頃、全世界で住民登録が行われた。それは、民に住民に税金を課すためのものであり、それによって得られたものは軍備のために用いられた。
・その住民登録によって、ガリラヤのナザレからメシアの誕生が預言されている地ユダのベツレヘムへマリヤとヨセフは引き寄せられて行った。
・主イエスの誕生の知らせは当時、社会の最下層、「地の民」と言われていた羊飼いたちにもたらされた。しかも御使いたちは「御心にかなう人々に」という賛美を残していった。このことばは、「自発的に応答する人々」と訳すこともできる。
・私たちも神の恵みに対して、進んで応答するものとさせられたいものである。

●2015年12月13日の説教要旨
「マリヤへの御告げ」 ルカの福音書 1:26-38
・ザカリヤにヨハネの誕生を告げた御使いガブリエルは、マリヤにも現れて主イエスのご降誕を告げた。いわゆる「受胎告知」であり、多くの画家がこの場面を描いている。
・この時代から七百年以上も前に生きた預言者イザヤは、この「処女降誕」とか、「処女懐胎」というこの出来事を預言していた。この預言は私たちを当惑させる以上にマリヤを当惑させた。しかし、マリヤはこの御告げを受けたときに、そして、この出来事が神の主導のもとで行われることを告げられたときに、自分の力で何とかしようとするのではなく、「おことば通りにこの身になりますように」と応じて、神さまに委ね切る信仰を告白したのであった。

●2015年12月6日の説教要旨
「ヨハネ誕生の予告」 ルカの福音書 1:5-25
・主のご降誕を前にした時代、祭司たちの多くは堕落していて、自らの立場を利用して両替人やいけにえのための動物を売る者たちから賄賂を受けていたと言われる。
 そのような時代にあっても、ザカリヤとエリサベツは信仰を保ち、主の教えを落ち度なく行っていた。
・そんな彼らに男の子が生まれるという御告げが、御使いガブリエルによってもたらされた。その子どもはヨハネと名付けられ、バプテスマのヨハネとして主イエスの先駆けをすることになる。御告げを聞いた時にザカリヤは疑い、しるしを求め、ヨハネ誕生の日まで口が利けなくなるというしるしを与えられた。
・主を信じる者の不信仰にもかかわらず主のみわざは進んで行くというパラドクスがここにある。
・私たちが祈らなければ神のみわざは起こらないということはないが、私たちは祈ることによって、そのみわざをよりよく気づくことができるし、そのみわざに感謝して与(あずか)ることができるのである。

●2015年11月29日の説教要旨(松見ヶ丘キリスト教会 中村守師)
「救い主の王国の到来」 イザヤ書 11:1-9
・待降節は、主イエスの誕生を祝うとともに、再臨を待ち望む期間である。伝統的に第一主日は預言を学ぶが、その習慣に従ってイザヤの預言を学んで行く。
・イザヤ11章は、実現する100年以上も前になされた預言である。根株(1節)ということばによって、ユダ王国もまた神のさばきによって滅ぼされることが預言されている。新バビロニアによって、エルサレムは滅ぼされ、その民は捕囚された。しかし、その木にはなおいのちがあったので新芽、若枝を生やすことができた。これは、主イエスキリストにおいて実現した預言である。
・さらにその預言は、来るべき方の上に主の霊がその上に留まると語る。「主を知る知識の霊」と言われている。それは、来られる方が天の父なる神を人格的に、親しく知る者であることを預言している。

●2015年11月22日の説教要旨
「主イエスの家族とは」 ルカの福音書 8:16-21
・「あかりをつけてから、それを器で隠したり、…。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、…。」このたとえを聞いて、自分の秘密があらわにされたらと不安を覚える人もいるかも知れない。
・ここで主イエスが「あかりをつけ」るといっていることは、神さまご自身が私たちに、救いを与え、聖霊を与えてくださったことを指していると考えられないだろうか。そうであるならば、私たちがあかりを隠すか、隠さないかの問題ではなく、神さまのみこころに関わる問題なのです。神さまは救いに導き入れた人を人々の証しへのために用いて下さるのである。
・主イエスは、みことばを聞いて、行う人々ーみことばに生きることを願って、みことばに向き合う人々を、自らの「家族」と呼んで下さるのである。

●2015年11月15日の説教要旨
「四つの種のたとえ」 ルカの福音書 8:4-15
・イエスさまはたとえを用いて、人々に教えられた。たとえは人に直感的に理解される。だから、分かる人にとっては分かるが、分からない人にとっては分からない。
・たとえを語られた後に、主イエスは、「聞く耳のある人は聞きなさい」と叫ばれた。そこには、みことばを悟って欲しいという主イエスの熱意が込められていた。
・弟子たちはたとえの意味を主に尋ねた。主に尋ねているということ、それは彼らが最初にたとえが語られたときに理解できなかったことを意味しているが、彼らのうちにみことばを悟りたいと言う思いがあったということを意味している。大切なのは謙遜になって、尋ねて行くということなのであるし、またそのような思いー謙遜に聞いて行く思いが与えられているということは、主の救いに導かれている徴なのかも知れない。

●2015年11月8日のの説教要旨
「すぐれた人の条件」 詩篇 62:1-12
・1節と5節で詩人は、「黙って、ただ神を待ち望む」と告白する。沈黙、それはあるときは神への固い信頼の現れある。そこには自分の窮状が神に知られているという確信から来る深い平安があるのだろう。
・1、2節と5、6節は一見、同じようであるが、わずかな違いがある。その違いは信仰の成長として捉えることができる。1節では具体的な救いを求めていた詩人であるが、5節では希望をー未だ得ていないことを望み見る信仰へと変えられているのでる。
・詩人は、民に「神の御前に心を注ぎ出せ」と勧める。それはおそらく詩人自身も通った道であり、自分の中の不安や恐れを主に語り尽くすことである。そのような祈りがあって始めて、黙って待ち望む信仰への導かれるのかも知れない。

●2015年11月1日の説教要旨
「死を超えたいのち」 詩篇 90:1-17
・詩人は主を代々に亘る「私たちの住まい」と呼び、祈りー死を巡っての思い巡らしを始める。
・人は罪のために死ななければならない存在であることを嘆くとともに、主にあっての人生の生き方に心を向ける。それは「自分の日を正しく数えること」、すなわち、自分が死ななければならないことを認めて、その一日一日を、主にあって大切に過ごすことをである。
・それは主にあわれみを求め、滅ぶべきであった人間である自分の歩みの中に主のあわれみのみわざを見いだして行く歩みである。
・主によってのみ、人の人生、その歩みは確かなものとされるのである。

●2015年10月25日の説教要旨 
「すべてを備えられた神」 マタイの福音書 22:1-14
・主イエスは、王子のために結婚の披露宴を開き、人々を招いた王のたとえを語られた。最初の招いた客は、理由を付けて出席を断ったり、王のしもべを殺したりしてしまった。そして王は大通りに出て行ってどんな人でも招くようにしもべたちに言いつけた。
・このたとえは救いに選ばれ、預言者たちを送られながらも、彼らを拒絶したユダヤ人の姿を現し、救いの福音があらゆる人々に開かれたことを示している。
・しかしその中に、王の用意した婚礼の服を着ないで宴に臨んでいる人がいた。王はその人を拒絶した。それは救われた者が自分の基準や知恵、力ではなく、神の備えてくださった導きと聖霊の御力によって生きるべきことを表している。

●2015年10月18日の説教要旨 
「おいでになるはずの方は」  ルカの福音書 7:18-35
・バプテスマのヨハネは二人の弟子を主イエスのもとに遣わし、主イエスが「来るべき方」なのかどうかを確認しようとした。彼らが聞いていたことがらに加えて、主イエスは「貧しい人に福音が宣べ伝えられていることを指摘された上で、見聞きしたことをヨハネに告げるように弟子たちに答えた。
・女から生まれた者の中で最も優れた者と言われたヨハネであったが、何を見るべきかを教える主イエスのみことばを必要としていたのであった。
・律法学者やパリサイ人もみことばを聞いていたが、主イエスは「貧しい者」こそが福音の真の受取手であることを示さたのであった。

●2015年10月11日の説教要旨
「死者を生かす神」  ルカの福音書 7:11~17
・主イエスはナインという町に入られ、ひとり息子を失ったやもめをかわいそうに思われた。ー「やもめとなった」と言われていることから連合いと息子とを相次いで失ったのかも知れない。主は棺に近づき、青年に声をかけ、生き返らせた。
・この世に生きることを、またはこの世を否定的に捉えたり、価値の低いものとする哲学や宗教は多くあが、主イエスはこの世に生きることを肯定的に捉えておられた。主は青年を生き返らせた。主のみことばの力がここに現されたのである。
・このできごとを見た人々は恐れを覚えた。そしてその恐れは同時に、死の縄目を解き放たれる神への賛美と変わって行ったのである。

●2015年10月4日の説教要旨
「みことばの力」  ルカの福音書 7:1~10
・百人隊長のしもべが重篤な病になり、百人隊長は主イエスに癒しを求めて来た。その使いとなってやって来たユダヤ人の長老たちは、彼の自分たちへの好意を根拠に癒しを願った。しかし、百人隊長は友人たちを主イエスのもとに送り、「ただ、おことばをください」と語った。主イエスは、その信仰をイスラエルにも見られないりっぱな信仰とほめられた。それは彼が主イエスのみことばの権威、みことばの力を認めていたからである。
・主イエスのみことば、それは天地万物を何もないところから創造した神のみことばである。また、それを伝えるごとに聖霊なる神さまがともに働き、神さまの直接の語りかけとして、正しく伝えられるのである。ときには、私たちのことばの拙さに拘らず、主はそのことばを用いてくださっているのである。

●2015年9月27日の説教要旨 
「より多く赦された者は」 ルカの福音書 7:36~50
・あるパリサイ人が主イエスを食事に招いた。その食事は主イエスとだけのものでは なくて、他に賓客がいたようである。そのような中に件の女が紛れ込んでいた。当時の習慣としてはそのようなことは特別なことではなかったようである。しかし、シモンにとって彼女は主イエスを試みる道具に過ぎなかったのである。 
・主イエスは借金をした二人の人のたとえを語られた。多く赦された者こそ、その結果として赦してくれた者を愛するようになるということ、それがこのたとえの指し示すことであった。
・おそらく遊女であったこの女は、そのままで主イエスの許に来て、主イエスを特別なお方と認め、ー招いたパリサイ人とは違ってー主イエスに対してふさわしく扱ったのであった。
・主イエスは彼女に「安心して行きなさい」と語られた。それは、主イエスの赦しやみことばがその場限りで消え去って行くようなものではなく、いつも共にあって、人を受入れ、力づけ、励ますものなのである。

●2015年9月20日の説教要旨
「岩を土台として」 ルカの福音書 6:46~49
・イエスさまに向かって「主よ、主よ」と呼ぶ者は、イエスさまのことばに聞き従うことが期待されるが、むしろ主に向かって自分のしたことをやその思いを主張する人がいるということが言われている。私たちも自らを顧みる必要があるように思われる。
・みことばに聞きそれを行わない者は、土台を掘り下げずに、土の上にそのまま建てられた家に例えられている。普段は土台がどのようであるかはあまり問題にならないかも知れないが、一度洪水に例えられている困難や試練が来るならば、その違いは明白になる。
・ペテロがピリポ・カイザリヤで主イエスに対して、「あなたは生ける神の子キリストです」と告白した時、主イエスは「この岩」ーその信仰の告白の上に「わたしの教会を建てます」と言われた。私たちも私たち自身の人生をこの信仰の告白の上に建て上げることが大切である。
・私たちの人生にも困難がある。その時、主イエス私たちが自分たちの人生の土台を振返り、主を土台とする機会であると願っておられるのではないだろうか

●2015年9月6日の説教要旨 
「父なる神のあわれみ」 ルカの福音書 6:36~38
・主イエスは弟子たちに対して「あわれみ深くしなさい」ではなく、「あわれみ深くありなさい」と語りかけられた。本来あわれみ深くない人間を扱われ、その存在からあわれみ深い者としてくださる。その上で、あわれみ深くある、あるいは、あわれみ深い者とされた人間に、その新しく作られた本性を発揮するようにとことばを掛けていてくださるのである。
・人は自分自身が主に扱われないままで、正しく振る舞おうとすると、自分は正しく行っているという思いが先立ってしまって、ついつい裁き心を持ってしまうものである。
・主は私たちにこのこの上ないあわれみを示してくださった。それの究極の出来事は主イエスをこの世に送ってくださったこと、そして、主イエスを十字架につけて私たちの罪の赦しを与えてくださったことである。このことを私たちが自分のこととして受け止めることが、神に触れて頂き、新しく造られることに繋がって行くのである。

●2015年8月30日の説教要旨 (横浜福音キリスト教会 中上勝男師)
「健全な悩み」 ヤコブ4:8~10
・私たちが本当に神に近づけば近づくほど、神の聖さを知り、また自分の罪深さを知るようになります。おのずと悔い改めに向かわせられるでしょう。そのたびに主イエスの十字架に、赦しの恵みに立ち返ります。そして少しでも成長したい、きよくなりたいと願う訳ですが、なかなか思うようには行きません。つまり真剣にクリスチャンとして生きようとすれば、おのずと信仰における悩みが出てくるのです。
・みことばに対していい加減に振舞っているのであれば、こういった悩みは出てきません。救われたクリスチャンの心には喜びがあると聖書に繰り返し登場します。しかしそれとともに、神に近づき、真剣にみことばに生きようとしている人の心には、自分の罪や未熟さに対する嘆きや憂いがあって当然なのです。だからこそ、私たちは神の御前に心からへりくだることができ、そのような私たちを神は高く引き上げ、救いと成長に導いてくださるのです。

●2015年8月23日の説教要旨
「敵のために祈れるか」 ルカの福音書 6:27-36
・主イエスは、聞いている人々に対して「今聞いているあなたがた」と注意を喚起して、「あなたの敵を愛しなさい。迫害する者を祈りなさい」と語りかけている。
・これは命令であって、聞く側に選択が許されているものではないということである。また、敵を、あるいは相手を愛するということは、人間関係に好悪の情だけではなく、意志を用いて行くということ、つまり、私ーあなたという関係に神さまに介在して頂くのである。二人の関係が難しくなっている時にもう一人他の人が一緒にいるならば、その関係が改善する場合がよくある。ましてや、そこに神さまがご臨在くださるなら、それはどれほどの影響を与えるものであるだろうか?
・主イエスのことばを聞いた人たちは、話しを聞きながらなるほどと思い、そのようにしようと思ったかもしれない。しかし主イエスは、聞いている人々を現実に引き戻す。愛すべき対象は、具体的に自分に悪を行う人々、自分の上に権威を振るう人々であると、主イエスは人々に語ったのである。
・主イエスは、愛することの出来ないものをなお愛し受け入れ、人が自分の愛ではなく、主イエスの愛によって人に向かうものとさせてくださるのである。

●2015年8月16日の説教要旨
「先祖の罪を引き受ける」 ネヘミヤ記 1:1-11
・聖書でもある言語でも「赦す」ということは「忘れ去る」ということ通じるという。逆に言えば、相手がそのことを忘れ去り、何のわだかまりない交流がそこに生じるまで謝罪をする必要があるように思う。
・エルサレムの来訪者からその都の惨状を聞いたネヘミヤは、泣き、喪に服し、断食をし、先祖の罪をわがものとして引き受け主に懇願した。彼にとって先祖の犯した罪は他人事ではなかった。ネヘミヤは、先祖の罪を引き受けるというよりも、自分自身をその罪を犯したもののうちに数えている。
・ネヘミヤの祈りはそのように告白するとともに、主のいつくしみ深い契約への信頼を改めて告白するものであった。それは、罪を犯しても悔い改めて御名を呼び求めるならば、回復が与えられるというものであった。
・ネヘミヤはさらに祈りの中で、「この人の前に、あわれみを受けさせてください」と具体的な助けを祈っている。この人とはネヘミヤが仕えていたアルタシャスタ王のことであった。彼はこの王を「この人」と呼んでいる。それは主こそが真の王であり、天地の支配者であることの間接的な告白に他ならない。

●2015年8月9日の説教要旨 
「この世での報いか、天での報いか」 ルカの福音書 6:24-26
・「富む者」とは普通以上の物を所有している者という。それならば、自分とは関係ないというかも知れない。しかし、それは「主の御心にかなった以上」にというならば、私たちに問われるものがある。人との比較ではない。問題は、持っている物をどのように用いているかどうかである。
・「哀れ」ということばも、主イエスが「あわれんだ」ということばとは違い、訳し方によっては「もうだめだ」とか「災いが来る」という意味合いを持っている。また、「神に慰められる」ということばは、「神がその人の傍らにいてくださる」という意味のことばである。だから、すでに慰めを受けているということは、本来は主がいてくださるべき場所に、何か別のものを置いてしまって、そこに主が入って来ることが出来ない状態にあるということである。
・神の富と人の富、神の評価と人の評価が違うということをしっかりとわきまえることが主の前に求められていることを覚えさせて頂きたい。そうは言っても、私たちはすでに人の評価に生きている、むしろそうせざるを得ない者である。そうした私たちを、「災いあれ」と言われる他ない者である私たちを主イエスは受け止めてくださって、そのことの解決、罪の赦しのために十字架に掛かってくださったことにこころを留めさせて頂きたい。

●2015年8月2日の説教要旨
「貧しき者の幸い」 ルカの福音書 6:20-23
・ルカ6章は、マタイの「山上の説教」に対して「平地の説教」と言われている。祈っていた主イエスは、祈りを終え、弟子たちを見、「貧しい者は幸いです」とみことばを語り始められた。この時代、貧しさは-それが物質的なものであれ、霊的なものであれ-神の祝福から遠ざかっていると考えられていた。しかし、旧約聖書を改めて見るならば、貧しい者は主をまっすぐに求めるものとして、「敬虔な人人」に数えられている。それは、ひたすらに神に頼らざるを得ないものであるからである。確かに横並びの比較によってではなく、神の与える完全性と永遠性の基準で見るならば、私たちは自分の幸いでもなく、完全でもない。
・貧しく、愚かで、罪深い私たちを、真の祝福のうちへと導かれるために、主イエスの十字架と復活によって、道を備えて下さったのである。
・今日は聖餐式が備えられている。幸いな人生への道、祝福された人生への道備えを感謝しつつ、その恵みに与る者でありたい。

●2015年7月26日の説教要旨
「 罪の赦しとそれから」  詩篇 51:1-19
・詩篇51篇は表題にあるように、ダビデが犯した罪を悔い改めたときに書いたものである。ダビデは、バテシェバに対して、またその夫ウリヤに対して罪を犯したのであるが、ダビデの悔い改めは主ご自身に向けられている。このことは、人がどんな罪を犯したとしても、まず悔い改めるべきは主に対してであること、言い換えれば、あらゆる罪の究極的な被害者は主ご自身であることを示している。
・ダビデは、自分が罪を犯さないではいられないような絶望的な存在であることを知らされるとともに、そのような者に対しても恵み深くあり、新約的に言えば、聖霊による悔い改めを与えてくださることに期待をしている。ー旧約聖書のそのような祈りは、イエス・キリストの十字架と復活によって成就するのである。
・悔い改めたダビデは、再び自分自身の使命を自覚し、その遂行を願っている。失敗したら、それで終わりと言うのではなく、むしろ、弱さを自覚して、自分の知恵や判断ではなく、真に聖霊の導きと力により頼むことにこそが主が導いておられる方向なのである。

●2015年7月19日の説教要旨
「平和をつくる者は幸いです」 マタイ 5:1-12, 1テモテ 2:1-8
・現実的な必要が人々をイエスの許に集めたが、彼らは主のみことばを聞くまでには整えられていなかったように思われる。弟子たちがみことばを聞くために来たのであった。山上の宣教はそのような人々に対する教えであった。
・冒頭は「祝福の教え」と言われるものであるが、平和をつくるという主のみわざをなすために必要な霊的なチェックリストということができる。また主イエスは、平和をつくるみわざに勤しむとき、迫害を招くことさえあることを告げている。しかし、私たちの求める平和、和解と言ってもいいかも知れないが、それは、第一に神との平和であり、次に自分との平和、そして、他者との平和、和解である。
・他者との平和を求めるとするとき、そこに平和を求める当のその人の中に平和どころか、相手に対する敵意が生じることがある。しかし主は、それを是認してはいない。むしろそのような他者のために祈るべきであることが教えられている。私たちは、平和をつくるために、平和を乱している人のためにさえもとりなし祈ることができる。それは、主イエスを信じる者に与えられた特権であるとともに、責任でもあることを覚えたい。

●2015年7月12日の説教要旨
「十二使徒の任命」 ルカの福音書 6:12-16
・十二使徒を任命するに当って、主イエスは一人父なる神の前で祈りつつ夜を過ごされた。夜が明けると主イエスは、弟子たちを呼び寄せ、その中から使徒たちを選ばれた。それは、彼らを自分の許に置き、寝食を共にする中でご自身のご愛と御心を知らせるためであった。
・使徒とは遣わす者の権威をそのまま持つ者であり、遣わす者の分身のような者、それが使徒であった。主イエスは自分の教えと権威を人々に効果的に伝えるために彼らを選んではいなかった。
・彼らの中にイスカリオテ・ユダがいた。もし宣教のための戦力として彼らを選んだのであれば、このことはミスキャストであったろう。しかし主イエスは、彼にそのご愛と御心を豊かに示すために彼をも選んだのであった。

●2015年7月5日の説教要旨
「安息日の過ごし方」 ルカの福音書 6:1-11
・安息日を巡っての二つのエピソードが記されている。
・一つ目は、麦の穂を摘んで食べていた弟子たちに対するパリサイ人たちの非難。それは、麦をつまみ食いしたこと自体ではなくて、それを安息日に行ったことがパリサイ人たちの非難の的となった。しかし、主イエスはそれを引き受け、ダビデが祭司以外の者が食べることを禁じられていたパンを食べたことを記した聖書の記事を引き合いに出して、パリサイ人のことばを退けられた。
・二つ目は会堂での出来事。手のなえた人を安息日に癒すことがよいかどうかについて主イエスは律法学者たちに向かって「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、 それとも悪を行うことなのか。 いのちを救うことなのか、 それとも失うことなのか」と問いかけ、萎えた手を癒された。律法学者たちはこのことで怒り、分別を失うほどであった。
・安息日は、否定的な働いてはいけない日というよりも、神を礼拝するために特別に取り分けられた日なのである。安息日を単純に主日と同一視することは出来ないがその日に人が神と人への愛を示すべきことは変わらない点であろう。

●2015年6月28日の説教要
「よきサマリヤ人」 ルカの福音書 10:25-37
・律法の専門家が主イエスに、何をすれば、永遠のいのちを得ることができるかと問いかけた。この問の「得る」と言うことばは、「相続として受け取る」と言うほどの意味なので、永遠のいのちを得ることが出来るのは、「自分たちユダヤ人だけ」、中でも律法を厳守している自分たちだけが、相続できると考えていたことが示唆される。
・それに対して主イエスは、この「よきサマリヤ人のたとえ」で応じたのである。このたとえの中で、サマリヤ人だけが、神の御心に適ったことをなし、律法学者は、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われたのである。
・しかし、主イエスは、彼が行って同じようにして帰って来ることを期待していたのではなくて、むしろ、律法学者が自分の弱さを悟り、主に助けを求めに来ることをこそ、主イエスは願っていたのである。

●2015年6月21日の説教要旨 
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」 ルカの福音書 5:33-39
・人々が主イエスに、ヨハネやパリサイ人の弟子たちは断食をするのに、主イエスの弟子たちはなぜ断食をしないのですか、と問いかけた。断食には、肉の欲を断ち、自分自身を主にささげるという意味がある。主イエスは「山上の説教」の中で人に見せるための断食、義務や形式的な断食を批判しているが、本当の意味での断食を、神を求め、祈りささげるものとして、肯定しておられる。
・これらのことを踏まえて、継ぎ当てのたとえ、ぶどう酒のたとえが語られている。新しいものには、変化や成長があるが、古いものにはそうした変化や成長は失われてしまっている。
・たとえの終わりに主イエスは、人は「古い物はよい」と言うとものだとおっしゃられた。それは、人は変化のない、慣れ親しんだ教えをよしとしがちであるが、そのような生き方は、古い文字(律法)による生き方であって、新しい、御霊によって導かれて行く生き方とは真逆であるという意味である。

●2015年6月14日の説教要旨 
「罪人を招く主イエス」 ルカの福音書 5:27-32
・主イエスは、収税所に座っていたレビに「わたしについて来なさい」と声をかけられた。レビは、ペテロやヨハネがそうしたように、何もかも捨てて主イエスに従った。レビは主イエスを歓迎して大ぶるまいをした。それは同時に、仕事仲間や友人たちとの別れの宴(うたげ)でもあったと言われている。当時、このような宴会にはたとえ招かれていなくてもその席に入って行くことが出来た。
・パリサイ人・律法学者たちが主イエスの行動に疑念を持ち、弟子たちに向かってつぶやいた。そのつぶやきに主イエスは応えて、「罪人を招いて、悔い改めるために来たのです」と語られた。
・主イエスが悔い改めさせるために取られた方法の一つはご自分の愛を人々に示す、いわば、「北風と太陽」の話しで言えば、太陽のとった方法を用いられたと言うことが出来る。また、「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です。」ということばには、自らを正しいとする者を神は招いておられないということ、もっと言えば「無関係」であるという神の拒絶と断罪の声を聞くことが出来る。

●2015年6月7日の説教要旨 
「汝の罪、赦されたり」 ルカの福音書 5:17-26
・屋根を壊してまでも主イエスに癒して頂きたいという主イエスに対する信仰と友人を何とか助けたいという友情とを見て取って、主イエスは「あなたの罪は赦された」と言われた。そのことばは律法学者・パリサイ人たちに「神をけがしている」という疑念を起こさせた。その疑念を晴すため主は「起きて歩け」とも言われることによって、ご自身が地上で赦す権威を持っていることを明確にされた。
・この記事から、主イエスの許に導く信仰の友のありがたさのようなものを学んで行くことが出来るのではないか。また、主イエスが人が抱えている問題や課題の本質をーそれは本人さえ気が着かないこともあるがー扱ってくださるのである。
・そしてその宣言は、主イエスの十字架によって可能とされるのである。

●2015年5月31日の説教要旨 (松見ヶ丘キリスト教会 中村守師)
「迫害の中に進む主のみわざ」 使徒の働き 8:1-8
・ペンテコステ以来からエルサレムの教会は一万人になっていたと思われるが、すぐに大きな迫害が起こり、使徒たちに代わって食事の配給の世話をするために選ばれた執事ステパノを始めとして殉教者も出るに至った。
・使徒たち以外の者たちがエルサレムから散らされていった。その背景にはその迫害の対象はギリシャ語を話すキリスト者だったこと、そして彼らの信仰の中心が神殿ではなくなったことが考えらる。(やがてその変化は使徒15章で明確にされる。)
・散らされた人々はみことばを語りながら巡り歩き、いやしなども行った。ピリポはサマリヤの町で人々に福音を宣べ伝えた。それは主イエスが昇天前に語られた約束、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」が教会の計画によってではなく、神のご計画によって実現して行ったのである。

●2015年5月24日の説教要旨
「新しい時代の到来」 使徒の働き 2:1-8
・主イエスがよみがえられ、天に昇られてから弟子たちは、集まって祈っていた。それは主イエスが弟子たちに与えた約束がいつ、どのようにして成就されて行くのか主に問いかけるものだった。それは同時に、自分たちが何をなすべき、どのように整えられるべきかを問いかけるものでもあった。そのような中で、弟子たちは、使徒の補充に導かれ、マッテヤが選ばれた。
・五旬節の日、弟子たちが祈り続けていると、大きな音と共に炎のような分かれた舌が現れ、弟子たちの上に留まると、弟子たちは他国のことばで神のことばを語り始めた。それは福音があらゆる国の人々に語り告げられることを予め示した出来事であった。それ以来、福音は語り継がれて、この日本にも伝わって来た。
・私たちもその連綿と続いて来た宣教の流れを絶やすことなく、証しし続けたいものである。

●2015年5月17日の説教要旨 
「お心一つで」 ルカ5:12-16
・全身ツアラアトに冒された人の癒しが記されている。人はツアラアトに冒されると人々の中から出て行かなければならなかったが、彼は主イエスの癒しを求めて、人々の真ん中で主に願った。文字通り彼に手を当てていやした後、主イエスは彼に自分を祭司に見せ、モーセの命じたささげ物をささげるように命じられた。
・彼の癒しは、自分の願いではなく、主イエスご自身に掛かっていると彼は主イエスに語り、果たして主イエスは、彼を癒して下さった。主イエスは彼の肉体的な癒しだけではなく、人との交わり、そして何よりも神との交わりへと導いて下さった。
・癒された人が人々に語ったことのゆえに、人々が集まったことを、他の福音書は否定的に描いているが、ルカは若干違った趣を語っている。それは、人々が、まず第一にみことばを聞こうと集まっているという点である。私たちもまずみことばを求める生活を身に着けさせて頂きたいものである。

●2015年5月10日の説教要旨 
「わたしの母、わたしの兄弟」 ルカ8:19-21
・主イエスが群衆にみことばを語っておられたとき、主の母と兄弟たちがやって来た。みことばを熱心に聞く群れとは異質の群れがそこにやって来たのである。主は彼らの声を聞きながらも、「神のことばを聞き、それを行う人たちこそが自分の家族なのだ」と宣言された。
・それでは主イエスは家族を、とりわけ母を見捨ててしまったのだろうか。主イエスがやがて十字架につけられたとき、その十字架の上から「そこにあなたの母がいます」「そこにあなたの子がいます」と母を愛する弟子に託されたのであった。
・教会の交わりが主にある家族であるが、自分たちの肉の家族も、この霊の家族に加えられて行くことを主に願って行きたいものである。

●2015年5月3日の説教要旨
「深みに漕ぎ出して」 ルカ5:1-11
・主イエスは、群衆にみことばを語り終えられると、ペテロに深みに漕ぎ出して漁をするように言われた。夜通し働いて何も取れなかった漁師にとって、それは意外な、というよりも愚かと思えることばであったかも知れないが、ペテロはそのことばに従った。結果は、ペテロの思いを遥かに超えた大漁で、ペテロの舟だけでは対応しきれなかった。彼は仲間に助けを求めるその大漁を受け止めることが出来た。その一連の出来事に接し、ベテロは主イエスが神のみわざを行い、語っていることを悟るとともに、自らの罪深さ、汚れを知らされ、主の前に立ち得ない者であると主イエスに告げた。しかし、主は彼をそのままに受入れ、「人間をとる漁師」として召されたのであった。

●2015年4月26日の説教要旨 
「一人一人に手を置かれる主イエス」 ルカ4:38-44
・今朝の箇所は、主イエスが病人を癒されたことが記されている。先主日は風邪のために充分な奉仕が出来なかったが、今日は癒され、再び講壇で奉仕できることを感謝なことと思う。
・ペテロの姑は熱病を病んでいたと思われるが、主イエスの奇跡的なみわざによって癒された。癒された後すぐに、彼女は主イエスに仕え始めた。それは、彼女の願いでもあったと思われる。主イエスは病を癒すだけでなく、みわざを行う力をも備えて下さるのである。
・ペテロの姑のみならず、あらゆる病の人々を、一人一人に手を置いて癒して下さった。それは、主イエスが彼らを一人の人として扱って下さることを意味している。

●2015年4月19日の説教要旨
「主イエスの権威」 ルカ4:31-37
・故郷ナザレを去り、カペナウムに来た主イエスの教えに、人々は驚いた。「そのことばに権威があったから」である。権威とは、ことばそのものによって現されるとともに、語り手の持つ人となりや居住まいによって現されるものである。それを感じたのは「人々」だけではなかった。人に憑いていた悪霊もイエスを神の聖者と認め、そのことばに従ったのであった。
・悪霊が「主イエスのことばに従う」といっても、そこには悔い改めもないし、信仰もないので、簡単に「不従順な人間」対「従順な悪霊」という構図をここに持ち込むことには慎重にならなければならないが、少なくとも、人は自らの不従順を問い直すことはできると思う。

●2015年4月5日の説教要旨
「信じられない出来事」 ルカ24:1-12
・主イエスは、私たちの罪の身代わりとなって十字架につけられて死に、墓に葬られた。マリヤたちはその墓に主イエスの体に香油を塗るためにやって来た。しかし、墓には主の体はなく、二人の人がマリヤたちに語りかけた。彼女たちは恐れつつも地面にひれ伏しつつ、そのみことばを聞く姿勢を取った。そのとき、神さまは御使いを通して女たちに、主イエスはここにはおらず、よみがえって、ガリラヤに行かれたことを告げた。それは、主イエスが生前に語っておられたことであった。
・彼女たちは戻って行ってその一部始終を十一弟子たちに告げたが、彼らはそれを信じなかった。それは使徒たちがみこことばを受け入れるように、まだ整えられていなかったからである。しかし、ペテロだけは墓に行って、空の墓を確認した。それによって、女たちのことばが事実無根のたわごとではないことを知ったが、復活そのものを信じ受け入れることが出来なかった。
・キリストの復活の出来事は、自然科学の対象ではなく、歴史的な一回的な出来事。信仰的な出来事として、受け入れるべき事柄なのである。

●2015年3月29日の説教要旨
「大歓迎された主イエス」 ルカ19:29-40
・主イエスはろばの子の背に乗ってエルサレムに入って行った。他の福音書でこのろばの子をどのように調達されたかを詳細に記したものもあるが、ルカは簡単にしか記していない。しかし、それによってさえも、主イエスがその御力の不思議さを見ることが出来る。主イエスに伴ってエルサレムに来た人々は、主イエスを「来るべき方」として迎えている。エルサレムの住民もこれらの人々に呼応して歓迎した。
・神殿に入って主イエスは、そこで神殿の来る人々のための便宜と言う名目で行われている商売人たちを追い出された。そこには、祭司たちが彼らが暴利を貪るのを許していたばかりか、結託していたことが見て取れる。
・また、主イエスは悔い改めないエルサレムーその指導体制を責められた。

●2015年3月22日の説教要旨 
「神のみわざを妨げるもの」 ルカ4:22-30
・ナザレの人々は、主イエスを子どもの頃から見知っていたために、主が真の人であるとともに、真の神であるということを見損なってしまっていた。そのために、主イエスは彼らのうちで力あるわざを行うことが出来なかった。
・また、彼らの内には、神に対して謙って、懇願するのではなくて、いわば当然の権利として、癒しや奇跡を見たいという想いがあった。それは、神の前に高ぶった思いであり、神はそのような思いでの願いを退けられた。
・みことばを語る者にとって、ふさわしくないものが御霊の御力によって語るという認識こそが大切であり、聞く者にとっては、だれが語ろうとも、主が人のことばを通して、ご自分のみこころを示されるということを心得ておくことが大切である。

●2015年3月15日の説教要旨 
「救いの成就の始まり」 ルカ4:15-21
・「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」と記されている。それは、主がご自分の意志や力に頼っていたのではなく、御霊の導きとその力を求めていたことを示している。
・会堂管理者は主イエスを律法の教師と認め、会堂で聖書を朗読し、みことばを解き明かすことを求めた。イザヤ書を読まれた主は、そのみことば通りに神の救いのみわざが始まったことを宣言された。また、御霊による油注ぎが、人々の救いをまっとうするためであることを確認された。
・主の約束のことばが実現するということは、一回的なことではなく、幾度も、様々な形で成就することである。

●2015年3月8日の説教要旨(聖契神学校校長・鶴見聖契キリスト教会牧師 関野祐二師)
「神の霊による再建」 ゼカリヤ4:1-14
・エルサレムの神殿は、ダビデがその建立を願い、その子ソロモンによって完成された。それは、神が共にいて下さることを象徴するものであった。しかし、ユダヤ人たちの不信仰のためバビロニヤによって破壊され、人々はバビロニヤに連れ去られた。
・70年後、バビロニヤを滅ぼしたペルシャの王クロスによって、ユダヤ人たちは帰還と神殿の再建が許され、民は帰還し、神殿再建にに着手した。それは、「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」というアブラハムに与えられた約束が、反故にされたのではなかったことの証しでもあった。
・一時、周囲からの嫌がらせなどによって、自分の家や畑のこと等に心を奪われた民であったが、ハガイとゼカリヤの叱責や励ましによって再建を再開した。6節は神殿の再建の指導者であったゼルバベルへの励ましのことばである。神殿再建、イスラエルの新たな出発は、この世の権力や軍事力、人間の勇敢さ、能力でなくて、ただ神の霊によって強められ、使命を与えられ、方向付けがなされるべきことがゼカリヤによって語られた。神殿の再建は、イスラエルにとって信仰と献身の行為であった。今、それは教会に受け継がれている。

●2015年3月1日の説教要旨
「荒野での誘惑」 ルカ4:14-5(マタイ4:17)
・バプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けられて後、主イエスは聖霊に導かれて悪魔の試みを受けられた。そして、「聖霊の力を帯びて」ガリラヤに戻って行かれた。その力は、人をおびえさせるようなものではなく、むしろ、そこに安らぎを見いだすような、また、慰めがあるような、そのような力であった。
・「評判が一帯に広まり」ということばから、主イエスが宣教の働きを開始されたことが容易に想像できる。マタイによれば主イエスの最初の宣教のことばは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」というものであった。悔い改めとは、今まで、自分の力を頼みにしていた者が神に向いを変えることを意味している。もちろん、個々の罪からの悔い改めもあるかも知れないのだが、それは生き方そのものに関わることである。この勧めの根拠を主イエスは、「天(=神)の国が近づいていることを挙げている。その「国」とは、地理的な場所ではなく、神の主権を認めて行くことに他ならない。

●2015年2月22日の説教要旨 
「荒野での誘惑」 ルカ4:1-13
・ヨハネからバプテスマを受けて後、主イエスは聖霊に導かれて荒野で誘惑(試練)を受けられた。聖霊に導かれることは祝福に導かれて行くことであるが、時には人間的には困難と見えることに導かれることもある。しかし、聖霊の御力におすがりして耐え抜くところに豊かな祝福が溢れる。
・悪魔は主イエスに食欲、名誉欲、また、神を試みるという誘惑に会わせる。しかし、主イエスはみことばによってそれらの誘惑を退けられた。
・主イエスがされたように誘惑や試練に打ち勝つためには、聖霊に導かれたみことばが不可欠であり、困難のないときに、普段から聖書に親しみ、心にみことばを蓄えておくことが大切である。主日礼拝や祈祷会、また個人的に静まってみことばに聞く機会を大切にしたいものである。

●2015年2月15日の説教要旨
「主イエスの到来」 ルカ3:21-38 
・バプテスマのヨハネは、その宣教を通して人々に対してそれぞれの生き方を質した。「二枚下着を持っている人は、一枚も持たない者に与えなさい」とのヨハネのことばに対して取税人たちや兵士たちも自分たちの生きる現場での何をなすべきかを問うた。
・また、ヨハネ自身も彼がキリストではないかという人々の期待に対して、自分はキリストの奴隷たる値打ちもないと自覚を人々に告げた。
・そして、そのようなヨハネの宣教活動は主イエスにも影響を与え、主が公生涯を始められた。それは、父なる神の許しの中で、聖霊なる神の導きによってなされて行くものであった。

●2015年2月8日の説教要旨
「荒野で叫ぶ者の声ー主イエスの到来を前に」 ルカ3:1-6 
・バプテスマのヨハネは、主イエスの先駆けとしてその働きを始めた。彼は「悔い改めのバプテスマ」を授けていた。異邦人がユダヤ教に回心する時にバプテスマが授けられることがあったようである。また、ユダヤ人が罪を犯した時、その罪の赦しのためにはいけにえをささげることが規定されていた。そういう意味で、悔い改めに基づくバプテスマは奇妙に思えるのだが、当時の人々にとっては画期的なことーメシアの到来ーを予感させるものであったようである。
・ヨハネはバプテスマを受けに来た人々に対して、悔い改めにふさわしく生きることを求めた。当時のユダヤ人たちは、どうすれば律法を守ったことになるのかという律法主義に陥っていた。しかしヨハネは、悔い改めということー赦す神と赦された人との生き生きとした関係ーについて考えることに人々を導いたのであった。それは、神のみこころに生きることを示したイエス・キリストの先駆けとしてふさわしいものであった。

●2015年2月1日の説教要旨
「主イエスの少年時代」 ルカ2:39-52 
・ルカの福音書は、他の福音書の伝えていない主イエスの少年時代の記事を納めている。とはいっても、聖書外資料のように荒唐無稽は話しはなく、ただおそらく成人して最初の過超しの祭のできごとを記すのみである。
・ユダヤ人たちは、過ぎ越しの祭のために旅をするときは家族がずっと一緒と言う訳ではなく、一日の道のりを世代ごとに歩んで行き、夜になると一家が一緒になるという形であったらしい。主イエスは宮に留まって、律法学者たちとともに過ごしていた。教師が次に語ろうとすることを先取りするような、あるいは人の理解を助ける質問や答えを主イエスは語られていた。それは律法の真意、神のみこころの奥義を知る者としての、まことの神でありまことの人である主イエスの姿を垣間見せるものであった。
・主イエスは、およそ30歳になり公生涯に入られるまで、両親に仕えられた。主イエスも自分の使命に専念するようになるまでに、じっくりとその前になすべきことをなしていった。

●2015年1月25日の説教要旨(長津田キリスト教会 須田丈夫師)
「神の近くにいることが」 詩篇73:1-14 
・イスラエルにいつくしみ深い主を知っていながらも、この詩の作者アサフは悪者らの繁栄を妬ましく思うことを正直に告白している。
・熱心な信仰者であっても、様々な苦しみに会うことがある。また、幸運に恵まれ、自分の計画通りにことが進んでいると高慢になって、神がこの世を支配していることを忘れてしまうことがある。
・アサフがそのようによそ見をした時に、迷い、疑いが生じ、躓いてしまった。このような躓きは私たちにも共有しうるものである。
・そのように、この世の現実に目を奪われてしまうと、次の世代に福音を伝える力も失われてしまう。
・しかし、アサフは永遠の神の礼拝を捧げた時、苦役であったこれまでの状況に展望が開けたと続ける。やがて神は悪をさばかれる。そのことを詩人が思い起こした時に信仰を回復したのである。
・神を礼拝し、その臨在に思いを向ける時に、神を信頼することができる。
・詩人は自分の姿を「獣のようであった」と顧みる。それは主の前に無礼であったということである。しかし、主が私たちを掴んでいて下さって、信仰を回復させてくださるのである。

●2015年1月18日の説教要旨
「迷い出た羊を求める主」 ルカの福音書15:3-7
・主イエスは、当時の指導的な立場の人々から疎んじられていた人々を受け入れ、自らの話しを聞かせるだけでなく、食事さえも共にされた。その話しの一つがここに納められている。
・主イエスは、神を百匹の羊の内の一匹が迷い出た時にその一匹を探し求める羊飼いにたとえている。羊は正しい方向以外のどこにでも行ってしまう動物と言われている。迷いやすく、目も悪く、また自分を守る術を持たない動物である。しかし、幸いな特徴が一つある。それは飼い主の声を聞き分けることが出来るということである。
・同じように、人間も、自分勝手な道を選び、神から離れ去ってしまった存在である。その人間に神は御手を差し伸ばして下さっているのである。神は迷い出た羊である人間を追い求めて下さったのである。この世に神から遣わされて来たイエス・キリストこそ、このたとえに示されている良き羊飼いなのである。

●2015年1月11日の説教要旨
「異邦人の光、イスラエルの光栄」 ルカの福音書2:21-31
・クリスマスに生まれた嬰児は、8日目の割礼を受け、「イエス」と名付けられた。それは旧約聖書では「ヨシュア」に相当するもので「主は救い主」という意味で、この方こそが救い主であることを示すものであった。
・主イエスの両親は律法の規定されている初子のためのささげ物を神にささげ、この子どもが神のものであることを示した。そこにシメオンと言う人が現れ、両親に主イエスについて語った。短いことばではあるが、神のなさる御救いについて「異邦人の光、イスラエルの光栄」など語った。それは救いと言うことがイスラエルのためだけに留まらずに、異邦人のためにもなされるものと語った。イスラエルは、救いが異邦人に及ぶことが、イスラエルにとって光栄なことなのだと言う。
・自分たちの受けた困難や屈辱を、いつか他の民が味わうように、あるいは立場が逆転するようにという否定的に願うではなく、困難の中にある自分たちが救われるのであれば、他の民もまた苦しみから救われることを願うように導かれているのである。
・またさらには、主イエスの十字架の死もその時に示唆されていた。

●2015年1月4日の説教要旨
「新しいみわざをなさる主」 イザヤ 43:16-21 
・伝統的な教会暦では東方の博士が主イエスを訪れた日を公現日と呼び、その日までをクリスマスシーズンとしてイエスさまのご降誕を祝う。それは神の救いみわざが異邦人に及ぶことが明らかにされたという意味で重要なのである。
・今朝のみことばは、イスラエル・ユダの民が神に背いて、助けを外国やその神々に求めていた時代に与えられた。そのような中でイスラエル・ユダの救済のご計画を告げているのは驚くべきことである。
・むかしのことを思い起こすなというが、それはむかしのことを現在には無関係なむかしのできごととしてはいけないということ。今これから、主が彼らのために救いをなそうとしていることを期待すべきことが命じられているのである。
・イスラエルの神に対する信仰がリバイバルされ、神をほめたたえるものとなるのである。私たちも主のみわざが私たちにとっての救いであり、希望であることを覚えさせて頂きたい。

●2014年12月28日の説教要旨
「主のよくしてくださったことを」  詩篇 103:1-22 
・詩篇103篇の主題は、6回繰り返されている「主をほめたたえよ」ということであることが明確である。それに伴って、主の良くして下さったことを忘れないで、思い起こすことが勧められている。
・主の良くしてくださったことのなかで、最初に挙げられていることは「すべての咎をゆるし」である。それは神である主と私たちの関係が正されることである。そのことなしには、主からどんな良いものを与えられていても、それを良いものとして受け止めることができない。咎とは、人が神に対して行った「酷いこと」である。そのような扱いを受けた神の方から人間に対して、いわば、被害者の方から加害者に対して、この上なく寛大な和解案を差し出してくださったのである。

●2014年12月21日の説教要旨
「神に栄光、人に平和」  ルカの福音書 2:8-20  
・救い主誕生の知らせは、最初に野宿で夜番をしていた羊飼いたちにもたらされた。定まった家を持たず、安息日も守ることのできなかった彼らは、政治的にも、また宗教的にも最下層の人々と考えられていた。
・しかし、そんな彼らが「この民全体のための、喜びの知らせ」を聞いた時、彼らは喜んで、そのできごとを見に町まで行き、そこにいた人々に「証し」をしたのであった。
・彼らがこの知らせとともに聞いた「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、みこころにかなう人々にあるように」との御使いたちの讃美は、その選びの基準が人の側にあるのではなく、まったく神の側にあり、恵みによることを明らかにしている。

●2014年12月14日の説教要旨
「主イエスの先駆け」  ルカの福音書 1:67-80  
・主イエスの先駆け、バプテスマのヨハネについて学ぶ。
・バプテスマのヨハネの誕生はザカリヤに予告されたが、彼は信じなかったために口を利くことができなくなった。命名の日、ザカリヤは人々の意見に反して、彼の子をヨハネと名付けるようにいった。すると、彼は再び、口を利くことができるようになった。ザカリヤの讃歌はその時、聖霊に満たされて歌ったものである。
・この讃歌の中で、主が人に与える救いは恐れなく主に仕えるための救いであることが明らかにされた。そのような中でヨハネは、救い主に先立ち、救い主を指し示す預言者となると告げる。彼によって人は神との平和、神の深いあわれみと圧倒的な力による平和に導かれる。

●2014年12月7日の説教要旨
「賢い娘と愚かな娘」  マタイの福音書 25:1-13  
・天の御国のたとえとして語られ十人のうち五人は賢く、五人は愚かであったというこの記事を学びたい。
・彼女たちは婚礼が始まるのを持っていた。当時の婚礼は今ほどには日時場所が厳密には決まっていなかった。彼女たちはみな、居眠りを始めてしまった。花婿が一番来そうもない時間に、「そら花婿だ。迎えに出よ」とのことばがあった。
・愚かな娘たちは、自分のともしびの油が充分にはないことを知り、賢い娘たちに分けてくれるように頼んだが、彼女たちはむしろ、店に行って自分のものを買うように進めた。愚かな娘たちが買いに出た間に花婿が来て婚礼が始まり、愚かな娘たちは、その婚礼に加わることができなかった。
・このたとえは同じように信仰を持っているように見えても、主イエスが再び来られる時まで、全うすることができない人もいるということを教えている。
・私たちも聖霊が注がれていることを問いながら歩みたいと思わされる。

●2014年11月30日の説教要旨
「隣人とはだれか」  ルカの福音書 10:25-37  
・主イエスは律法の専門家の何をすればいのちを得るのかとの問いに、「あなたはどう読んでいますか」と問い返された。彼はすぐに神と隣人を愛すること答えた。彼はさらに「私の隣人とは誰ですか」と問い返す。その問いかけに応えるかたちで、このたとえが語られた。
・エルサレムから下って来た祭司やレビ人は、おそらく礼拝での奉仕を終えての帰り道であった。それにもかかわらず彼らは傷ついた人に関心を持ち、助けるどころかかえって関わることを意図的に避けた。
・しかし、ユダヤ人からは救われるべき人とは考えられないサマリヤ人が、この人に対してあわれみ、彼を助けた。ーこのサマリヤ人は神ご自身にたとえられていると見ることも出来る。
・隣人とは、あわれみを持って関わることで初めてなることが出来る「関係」であると律法の専門家に、そして私たちに教えられたのである。

●2014年11月23日の説教要旨
「神の川の祝福」 詩篇65:1-13
・収穫の感謝を覚えながらこの詩篇を味わいたい。
・感謝を携えて主のみ前に来る者と主がすべての必要を満たす方であることを知らずに主に祈る者がある。しかし、聖霊なる神の働きによって、神の与えて下さったものがすべてよいものであることを悟る。
・すべてのできごとの背後に神さまがおられる。大海の中で航海するものにとって、帰って行く場所を示す、いわば灯台、それが主である。
・神ご自身が、地を祝福して実りを与えて下さる。古代のパレスチナにおいては地上の川は時に枯れて安定的に農業に用いることは出来ないが、神は折に適った雨を降らせて収穫を与えて下さる。
・日々の業の上に主の助けがあることを覚えたい。

●2014年11月16日の説教要旨
「ただ神の恵みによって」 ローマ人への手紙 3:19-26 
・信仰義認について学ぶ。律法(神さまの基準)に達した者は神によしとされる、すなわち、義と認められる。しかし、律法によっては、アダムに始まって誰一人義とは認められず、かえって罪の意識が増すのみである。律法は人に自分の罪からの救い主を待ち望ませる。
・しかし、新約の時代、旧約聖書によって約束されていた「律法とは別の道」が示された。神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって(信仰という手段を通して)義と認められる。私たちは信仰という手を広げて、神の与えて下さる義という賜物を頂く。このことを正しく理解しないと信仰の強弱などを問題にしてしまう。
・神さまは動物のいけにえに代えてイエス・キリストの命という贖い金(身請け金)を払って下さったので、キリストを信じる者は義と認められて神さまの子どもとされる。

●2014年11月9日の説教要旨
「こどもを招く主イエス」 ルカの福音書18:15-17 
・ユダヤ人たちは、律法の教師、ラビに子どもの頭に手を置いて祈って頂く習慣があった。人々は主イエスをラビと認め、そのもとに子どもを連れて行き。祝福の祈りをして頂こうとしていたようである。私たちの教会も年に一度、児童祝福式を行って、子どもたちの祝福を祈る。
・しかし、弟子たちはそれを拒もうとしたのである。子どもが主イエスのもとに来ることはふさわしくないとしたのである。弟子たちにとって子どもの存在はうるさいし、みことばを理解することもできないだろうというのが、その理由であったろう。昨今では、幼稚園や保育園での子どもの声が騒音と思う人たちもいるという報道もある。
・しかし、そうはあっても、主イエスは子どもを身元に引き寄せて祝福をして下さったのである。

●2014年11月2日の説教要旨 
「こどもを招く主イエス」 創世記11:1-9
・人々は平地を見つけて、町を造った。やがて彼らはそこに頂が天に届くような塔を建てようとした。彼らはれんがと瀝青を用いるという技術革新と、塔を一人ではなく一緒に建てるという集団の組織化を成し遂げて、それに挑んだ。
・天とは神の領域であり、そこに届かせようとすることは、神の領域を侵すことであった。神は人のことばを混乱させたために、彼らはもはや塔を建てることができなかった。
・ことばが混乱したとしても、忍耐と寛容を持ってことに当たれば、事態は違っていただろうが、人はそのようにすることができなかったのである。そこに人間関係の脆さを見て取ることができる。
・今日の私たちも技術革新によって神の領域を侵そうとしているのかもしれない。

●2014年10月26日の説教要旨 (湘南キリスト教会 古谷順児師)
「多くの実を結ぶため」 ヨハネ15:1-8
・ぶどうの木のたとえは、人間の存在の目的は、実を結ぶことであることを教えている。私たちが実を結ぶことによって神は栄光を受けられる。
・人生の実を結ぶためには、第一に、主に留まるとはである。それはみことばが自分の内に留まることであり、、みことばを守り行うことである。
・第二の点は自分の願いを神さまに求める、すなわち祈るということ。みことばを知っている人は、神の御心を知っている。そのような人は主の御心に適った祈りが導かれる。
・神は全能の方、豊かに施すことのできる方。神さまの命令には約束が伴っている。
・実を結ぶことは、人間の力、知恵、才能などの働く余地はない。

●2014年10月19日の説教要旨
「ほんとうの助けは神から」 詩篇121:1-8
・この詩篇は、巡礼者の声とその声への応答という形で歌われている。
・巡礼者は、旅の途上か、またその終わりか、はたまたそもそも旅の初めにか、山を見上げる。パレスチナの山々は、日本のように豊かな自然というより、人々の営みを拒絶するような山々である。そのような山々を前にして人は、「私の助けはどこから」と問を発せざるをえないだろう。その問いに彼は自ら応えて言う。「あなたの助けは天と地を造られた主から来る」と。
・天地を造られた方が、私の救い主であり、その方が私の足、その一歩一歩をよろけさせない。人であるならば、もう助けを諦めてしまう夜であっても、どのような危険がそこあっても、主の救いは妨げられることはない。主は、「私」を決して、諦め、見捨てるようなことはなされない。
・昼の太陽からも、夜の月からも、主は人の全存在は受け止め、守って下さるのである。
・主の守りとは、辛うじて助かったようなものではなく、圧倒的な勝利者としての守りであり、救いなのである。

●2014年10月12日の説教要旨
「父の恥を覆うセム」 創世記9:18-29 
・ノアはぶどう酒によって、天幕の中で裸になってしまった。彼はエレミヤ書やエゼキエル書には、モーセやヨブ等と共に義人のうちに数えられているし、ヘブル書では彼を信仰の勇者として挙げている。その彼でもこのような失敗をしている。だからと言って聖書は彼を貶めているわけではない。ここに私たちは神の恵みの確かさを見ることができる。
・彼の息子ハムは父の醜態を見たときに、自分の兄弟たちに告げている。しかし、それを聞いたハムたちは父ノアの恥を覆ったのであった。これらのこと故に、片やハムは呪われ、片やセムは祝福を受けるに至った。私たちも舌で罪をおかすことがないように願うものである

●2014年10月5日の説教要旨
「神の祝福、再び」 創世記8:20-9:17 
・洪水が治まった後、ノアは烏や鳩を用いて地上の状況を知り、神の声に従って箱船の外に出た。彼は最初に祭壇を築き、主に全焼のいけにえをささげた。全焼のいけにえは神への完全な献身を現すものである。主はそのノアのいけにえー礼拝ーを受け入れて下さった。そして、ノアの信仰の故に、彼の家族もその祝福を受けた。
・主はノアとその息子たちへの祝福の中で、人間の尊厳とその根拠を明らかにされた。それは人が神によって造られたこと、しかも神のかたちに造られたからである。神のかたちに造られたがゆえに、人は神と交わることが出来るのあり、それなしには、真の満足を感じることができないのである。

●2014年9月28日の説教要旨
「どうしても必要なこと」 ルカ10:38-42 
・マルタもマリヤも主イエスを喜んでお迎えしたことは同じだった。しかし、マルタの心は、主イエスへの思いだけでなく、自分と同じように主イエスをもてなそうとしないマリヤへの苦々しい思いがあったように思える。
・主イエスはそれを見て取り、「マルタ、マルタ」と彼女の名を二度も呼んで、マルタのその思いを主が喜ばれないこと、また、そのような思いを抱くマルタこそがみことばを聞き、それによって扱われる必要があることを彼女に示された。

●2014年9月21日の説教要旨 
「救いの実現を待つノア」 創世記7:17-8:19 
・ノアは箱船の中で日を数え、また、周囲を観察しながら時を過ごしていたようである。ノアは、また、烏や鳩をも用いて箱船の外、地の様子を知ろうとした。
・このことは私たちもノアが状況を知るためにあらゆる手段を用いたように、状況や導きを知るためにあらゆることを用いることができるし、その必要があることを明らかにしている。しかし、私たちの決断は、状況だけによってなされるのではなく、最終的には主の御声によるものである。主の導きに心開かれた者とされたい。

●2014年9月14日の説教要旨 
「やがて閉ざされる戸」 創世記7:1-16 
・主はノアに対して箱船に入るように命じられた。主のみこころにかなったノアのゆえに彼の家族ー彼の妻と三人の息子たち、そして息子の妻たちーも箱船に入り滅びを免れることが出来た。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(使徒16:21)」とのみことばを先取りしている。しかもノアたちは雨が降り始める前のことであった。ノアは目に見えることにではなく、主のみことばに従って行ったのである。
・ノアたちとすべての肉なるものの雄と雌が箱船に入った後に、主はうしろの戸を閉ざされた。水によるさばきであった「ノアの洪水」からの救いもいつまでもその戸が開いているのでなかったように、イエス・キリストの十字架の救いの扉もやがては閉ざされる時が来ることを、私たちは知っておかなければならない。

●2014年9月7日の説教要旨 
「終わりを定める主」 創世記6:5-22  
・主がおっしゃられた「人の齢は百二十年にしよう」ということばは、人はそのさばきを前にして、120年の執行猶予を与えられたとする理解がある。三世代に渡って人の内にあるものを試されたことになる。しかし、そのような猶予期間が設けられたことも功を奏せず、人は悪のみを行い、主のさばきを受けるに至る。
・「主のみこころにかなっていた」ということばは、直訳すると「主の目の中に恵みを見いだす」という意味。ノア自身の内に何かよいものがあるのではなく、ノアがいつも主を見つめていたというところに彼が「みこころにかなう」という根拠があったのである。

●2014年8月31日の説教要旨 
「誰をパートナーに選ぶか?」 創世記6:1-4  
・神の子らと人の子らとは、それぞれセツの家系に属する人々とカインの家系に属する人々を指すと言われている。主の御名によって祈る、また主の慰めを求める人々と神の裁きをも自分に都合の良いように解釈する、また神に従おうとしない人々であった。セツの家系に属する人々が、カインの家系の属する人々の娘が美しいのを見て取って、自分の妻としていた。そこには、自分にふさわしい妻が神によって連れて来られるという信仰は働いていなかった。

●2014年8月24日の説教要旨 
「主の慰めを求めた人々」 創世記5:1-32
・創世記5章では、人類の救いの歴史を再びアダムに遡って記している。この系図は、神の救いへの系図であるので、殺されたアベルたちはそこから外されている。
・エノクは、神の前でも、後でもなく「とともに歩んだ」と言われている。神との交わりのうちに歩んだということである。系図の中では極端に少ない年月ではあったが、それは幸いな人生であった。しかし、このことはキリストなしの救いを教えるものではない。
・イエスさまが地上に来て下さったことにより、いわば霊的なエリート中のエリートにしか与えられなかった救いが、すべての人に備えられている。感謝なことである。
  訂正:この系図の中でもっと長い人生を送ったのは、「メトシャラ」でした。

●2014年8月17日の説教要旨 
「主の御名を呼ぷ人々」 創世記4:25-26 
・エバが再び子どもを生んだときにセツ(置く・設けるの意)という名前を付けた。それは、殺されたアペルや殺人の罪を犯したカインの代わりであることを意味していた。しかし、それは同時に「女の子孫Jの末から救い主がおいでになるとの主の救いの計画にかかわることであった。
・セツは「代わり」あることに不満を感じていたかも知れないが、自分自身が子どもの父となることによって、親の思いを知るに至ったと思われる。それで、セツはその子どもに 「エノシュ(「人」を意味すると共に、「脆い・はかない」との意)」と呼んだ。それにはセツの人間理解が現れている。彼の信仰は、子どもを育てて行く中で、また、人とのかかわり合いの中で間で主により頼んでいく中で具体化されて行くのである。

●2014年8月10日の説教要旨 
「カインの末裔の文明」 創世記4:17-26 
・カインは主からの約束を取り付けると、御前を去り、「さすらい人となる」との主のことばに逆らって、ノデの地に住みついた。「ノデ」ということばは「さまよう」という意味である。一つ所に定住しても、安心感を持ち得ないカインの心情がそこに現れているのかも知れない。
・カインは妻を得、子どもが生まれ、名をエノクとした。それは「始める」という意味である。カインの自分の人生をやり直したいという思いを反映していると思われる。
・エノクの子らは自分の子どもに神の名前を付け、神の祝福を求める新しい生活を始めたが、神を人格として敬い、お従いするという生活ではなかった。また、その後の世代にあたるレメクに至っては、二人の妻をめとった。その子どもたちも神に依り頼むのではなくて、技術や産業を興すことによって、自分たちの力を強めたり自分たちの文化にふさわしい好戦的であったり、扇情的であったりする音楽を奏でるようになった。

●2014年8月3日の説教要旨
「主の前を去るカイン」 創世記4:8-16 
・カインは弟のアペルを野で殺してしまった。そのカインに向かって主は、「あなたの弟アペルはどこにいるのか。」と問いかける。それはカイン自らが弟殺しの罪を告白するようにとの語りかけ、招きであった。しかしカインは、頑にそれを拒絶した。
・主はそのことばを受け、カインが地から呪われ、さすらい人となると宣言された。それは、カインが耕しそこから産物を得ていたその土地がもはや何の産物も生じないとの、アダムに対してのさばきよりも、いっそう厳しい呪いであった。
・このさばきに対してカインは、この咎、罰が重すぎると主に応えた。それに対して主は、カインのしるしを与え、彼の出会う者が彼を殺すことがないようにされた。しかし、カインはその約束を取り付けると、主の前を去り、「さすらい人となる」との主の約束に逆らってノデの地に定住したのであった。

●2014年7月27日の説教要旨
「あなたの救いのために」 ルカ19:1-10 
・ザアカイは、自分のコンプレックスを覆い隠すために、金持ちになることを求め、取税人になることによって、それに成功したかに見えた。しかし、本当の満足をそのことによって得ることが出来なかったようである。
・主イエスはいちじく桑の木に登り、自分を見ている取税人ザアカイをご覧になったとき、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家にとまることにしてあるからJと語りかけられた。ザアカイにとって、ザアカイという自分の名で呼ばれることは、久し振りの体験であったかも知れない。
・ザアカイは主イエスのことばに喜んで、自分の財産を貧しい人に施すことを約束した。ここに彼の価値観が刷新されたことが現れている。
・さらにザアカイは、自分の罪を告白する。騙し取ったものを四倍にして返すというものである。

●2014年7月20日の説教要旨
「人を得たエバ」 創世記4:1-7 
・エバは生まれた二人の息子に、カイン、アペルと付けた。カインを生んだときには、充実と期待を持っていたエバが、アベルを生んだときにはそうでなく、謙遜にさせられていたと考えられる。
・カインもアペルも自分の仕事を得、それぞれその収穫から捧げものをした。主が目を留めておられたのは捧げものそのものではなく、捧げた者の心のあり方であった。カインの捧げものが受け入れられず、アペルのそれが受け入れられたのは、ニ人の捧げものの、いわば礼拝姿勢の違いであった。しかし、いずれに対しても、心を中を見通すほどの視線が注がれていたのであった。
・捧げものが受け入れられなかったカインに対して、神さまは見続け、語りかけて下さった。しかし、カインはその怒りを神さまにぷつけるのではなくて、アペルに向けたのであった。

●2014年7月13日の説教要旨
「エデンの東のケルピムと炎の剣」 創世記3:22-24 
・神さまはいのちの木への道を閉ざされ、人が永遠に生きないようにされた。善悪を知る知識の木の実を食べても、いのちの木の実を食べれば、死ぬことはなかったようである。しかし、神さまとの交わりを失ったいのちは、神さまの祝福のない歩みであろうし、神さまへの罪も増し加わったものになるだろう。神さまへの従順と交わりなしに、永遠に生きる者それが悪魔である。
・人は、技術を発達させることと組織化することによって、力を増し加えた。神さまご自身もその力の留まらないことを認めておられた。人から「時間」を奪うことによって、神さまは人がそのような存在になることから免れさせたということが出来る。
・エデンは神さまと人の幸いな交わりの場であった。神さまもその場に留まるのではなく、その場を後にして下さったのである。

●2014年7月6日の説教要旨 
「権威を持つという刑罰」 創世記3:16-21
・女へのさばきとして産みの苦しみを大いに増すということが言われているが、そこには実際の陣痛だけではなく、夫婦の関係の中に慕い慕われるという関係ではなく、支配と服従という関係が入って来たことから来る苦しみ,痛みがある。
・男へのさばきには、あなたのゆえに土地が呪われてしまったということである。そこには、祝福であった仕事が、また、そこにある交わりが苦しみを与えるものとなつていった。神さまとの霊的な交わりが損なわれている。
・アダムはその妻にエバという名を付けた。その名前は彼女自身よりも、その彼女によってもたらされる子どもたちへの希望を言い表したことのようにも思える。
・神さまは彼らに、動物の皮で作った衣を作ってくださった。そこには、動物の死が前提とされている。それはまた、キリストの死によってもたらされる義の衣が予表されている。

●2014年6月29日の説教要旨
 「救いを備える神」 創世記3:12-15 
・神さまの声を聞くまでのアダムとエバは、自分たちの腰おおいを作って、それを身につけることによってこと足りていたが、神の声を聞いたときに-神さまが介入されたときに-身を隠さざるを得ないような恐れと緊張が生じた。
・恐れの理由を裸であることを理由とし、責めを感じてもそれを 「この女が」、「蛇が」と責任を転嫁し、罪を認めてひたすらに謝るということがなかった。
・そんなアダムたちが神の蛇に対する厳しいさばきを宣告を聞いたとき、彼らはことの重大さを悟ったのではないか。 しかし、その宣告に続けて語られたのは、蛇と女の間に区別を設けること、さらには救い主の到来の予告であった。

●2014年6月22日の説教要旨 
 「問いかける神」 創世記3:8-15 
・木の実を食べたアダムとエバは賢くなったと確信するよりも、むしろ自分たちが裸であることを知った。彼らは自分たちの腰の覆いを作った。それは一時的なものであり、その用を充分には為さないものであった。
・これまでは喜びと平安をもたらすものであった神さまの声であったが、今や彼らに恐れをもたらすものとなった。そして、「だれが教えたのかJという神さまの問い
 かけに対して、「あなたが私のもとにおいたこの女が」と事態の責任を女に、また神さまにさえも負わせんばかりに応えた。
・神さまはアダムを呼び、交わりに招き入れようとしていたように、私たちをも呼び続けていらっしやること、そして、「はい、ここにおります。お語りください。しもべは聞いております」と応えるのを待っておられることを覚えたい。

●2014年6月8日 ペンテコステ礼拝の説教要旨 
 「キリストの証人とする聖霊」 使徒の働き1:6-8
1.主イエスが天に昇られた時、使徒たちは未だ救いということを理解できず、地上でのイスラ工ルの再興を思い、また、願っていた。それに対して主イエスは「聖霊があなたがたの上に望まれるとき、力を受けます」と言われた。その力とは福音を理解する力であり、ヨハネの福音書16章で約束されたことである。
2.彼らの上に聖霊が下った時、彼らは他国のことばで福音を語った。しかも、ペテロたちは福音を福音として理解し、集まって来た人々に対して力強く語った。
そして、それを聞いた人々に悔い改めが起こった。それは旧約の時代には人としても時間的にも限定的に与えられていた聖霊が、キリストを信じるすべての人に与えられるというヨエルの預言の成就である。
3.この聖霊が与えられるということによって、キリストを信じ、また救い主として、人生の主として告白することが出来る。自分自身が信じることに於いても、また、自分の証しが伝わり、救いが起こされるということに於いても聖霊なる神さまが働かれているのである。

●2014年6月1日の説教要旨
 「だれに聞いたらよいのか?」  創世記3:1-7 
 創世記3章に登場する蛇は、確かに賢かった。しかし、彼が自分は野の獣であるということをわきまえなかったとき、その賢さは、校滑さ、悪賢さに変わってしまった。
 女が蛇のことばに接した時、女の記憶が曖昧であることが明らかになった。おそらく、善悪を知る知識の木がなぜ置かれたかということの理解が不十分だったのではなかったか。この木の存在は、「試み」というやや消極的な目的ではなく、何が食べ物であり、何がそうでないかが、神さまのことばに掛かっているということを思い起こさせるものであった。
 蛇と女との間には戦い(強い言い方かもしれないが)があった。しかし、それは、孤独な戦いではなく、交わり、とりわけ神との交わりに助けを求めることが出来たのである。

●2014年5月25日の説教要旨
 「ふさわしい助け手」 創世記2:15-25
 エデンの園を「耕させ、守らせた」ということばは、単なる仕事をというのではなく、神さまを礼拝することであるとの指摘がある。確かに神さまに代わって世界を管理するということは、神さまの御心を求めるということなしにはなすことのできないことであり、それは広い意味で礼拝するということに他ならない。
 さて、神さまは「人がひとりでいるのはよくない」と言われた。そして、他の創造物の中に彼にふさわしい助け手がいないことを確認したうえで、彼に深い眠りを下され、彼のあばらから助け手を造られた。この「女(イッシヤー)」が人・男(イーシュ)のもとに連れて来られたとき、彼は感動し、彼女にその名を与えた。

●2014年5月18日の説教要旨
 「いのちの息を与えた神」 創世記2:4-17
 神さまは人間をご自身のかたち、ご自身に似せて創造された。ご自身のかたちというのは、神さまと交わることの出来る霊的な存在として、神さまに応答できる存在として造られたということである。2章で人の創造を人の鼻に神が息を吹き込まれたという形で描かれているが、それも、神さまとの親しい関係を持つことのできる特別な存在であることを表現したものと考えられる。
 創世記2章は、人間の創造が記されるとともにエデンの園の善悪を知る知識の木を生え出させたことが記されている。この木の存在は、人を誘惑するものというよりも、人に何を行動の基準、原理とするのかを思い起こさせるものであったと理解することができる。

●2014年5月11日の説教要旨
 「すべてを整えて」 創世記1:1-2:3
 神がすべてを整えて人間-私たちを造って下さった。神は光、大空、海と陸と植物を造り、その後、太陽などの天体を造られた。さらに、水の中の生き物と鳥、地の上の動物を造り、「生めよ、ふえよ」との祝福を与えられた。そして最後に、創造の冠として人間を創造し、「生めよ。ふえよ」と祝福した後に、さらに「地を従えよ」「支配せよ」という動物などにはない祝福を与えられた。
 私たち人間は、神の特別な創造物である。神が人間に必要なすべてのものを整えて、備えた上で、しかも「人を造ろう」という三位一体の神の一致した御心によって、私たちを造って下さった。私たち、一人一人は「わたし(神)の目に高価で、尊い」という意味があり、価値がある存在なのである。
 その恵みにふさわしく、神を愛し、そのご栄光を現す者とされて行きたい。 

●2014年5月4日 親子礼拝の説教要旨
 「神の創造のみわざ」 創世記1:1-5
 神が天地万物を創造したということは聖書の主題(土台)ということができる。この方を私たちの神と信じ、「あなた」と呼びかけることができることは幸いである。私たちが救われるというとき、様々な問題から解放されることを求めるが、神がどのようなお方かを知ることなしには根本的な救いにならない。
 神の創造は、必要に迫られたものではなく、全く神の自由な意思によることであり、また、みことばによるものであって、何かの助けや材料を用いてのことではなかった。
 闇の中で光を造られた神は、夜をも昼をも支配しておられる。人生の闇の部分と思われるような場所にも、神のご支配があることを覚えたい。

●2014年4月27日 召天者記念礼拝の説教要旨
 「自分の日を正しく数える」 詩篇90:1-17,1コリント15:50-58
 詩篇90篇は、天地万物を造られ、永遠から永遠までおられる神が、束の間の存在である私たちの避け所であり、その方を私たちが親しく「あなた」と呼ぶことが出来ることを教えている。また、神は、神から遠くはなれ、その祝福や本当の喜びから遠い存在である私たちに、イエス・キリストの下に重荷を降ろすようにと招いておられる。キリストの許に私たちが帰るとき、神と私たちは「あなた」と呼び交す関係に入って行くことが出来る。
 このように神との関係が正しくされるときに、自分の人生の限界を知り、また、本当の人生の意義を知り、自分の日を正しく数えること、すなわち、自分の人生を正しく見ることが出来るのである。

●2014年4月20日の説教要旨
 「そして、見て、信じた」 ヨハネ20:1-10
 この箇所に使われている「見る」ということばは三つあり、それぞれ「眺める」、「観察する」、「理解する・悟る」という意味である。女たちは復活の証拠である墓を見たが復活を悟ることはなかった。ペテロは女たちのことばに導かれて、墓まで来、さらにその中に入って観察したが、なお悟ることがなかった。しかし、もう一人の弟子はペテロの後に墓に入り、主イエスの復活を悟り、信じた。
 しかし、信じたヨハネもペテロと同じように「自分たちのところ帰って行った」。復活の信仰が彼の中で力強く働くことがなかったのである。ペテロやヨハネをはじめ、弟子たちが、生きて働く復活信仰に導かれるには、彼らが聖霊を受けるのを待たねばならなかった。
 私たちも、聖霊によって生きて働く復活信仰に導かれたいものである。

●2014年4月13日 牧師就任式の説教要旨(松見ヶ丘キリスト教会 中村守師)
 「御霊の一致を保ち」 エペソ4:7-16
 キリスト教会は、一つの信仰の上に建てられている。また、すでに与えられている御霊の一致を保つ続けるように勧められている。その教会にはキリストの賜物として、みことばを教える教師である牧師が与えられ、建て上げられるように召されている。それは教会が全体としてキリストに仕え、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけに達するためである。

●2014年4月13日の説教要旨
 「罪・咎を赦された者の幸い」 詩篇32:1-11
 この詩篇の詩人は、幸いを罪赦されるという神との霊的な関係とうたう。そしてまた、「その霊に欺きのない人」と続ける。それは「自分の霊的な状態を正しく把握している」ということであり、そのことは、実際、キリスト者である私たちの心に住んでいてくださる聖霊なる神さまの導きによることなのである。
 この詩篇は「正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。/すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」という讃美への招き、命令で結ばれている。聖書の中の命令については、不可能なことがそこで命じられているのではないということを心に留めて頂きたい。それは、主がその命令を守ることが出来るように主が先立って下さっている、主が成し遂げて下さっているのである。それゆえに、私たちもおそれなく、ダビデとともに喜びの声を上げることが出来るのである。 

●2014年4月6日の説教要旨
 「私を知っておられる神」 詩篇139:1-24
 この詩人は、全知、遍在、全能の神が、小さな、しかし、罪深い存在である「私」に関心を払っていてくださること、どこにでも共にいてくださること、そしてまた、造ってくださったことを、驚きを持って告白している。
 詩人は、それらに応えて神を讃美するが、さらには、神の敵に対しての敵意を剥き出しにする。
 最後の2節で、詩人はそのような敵意が結局自分から出て来る敵意であり、神の御心に適ったものではないと悟り、神がご自身の基準と心で詩人の内側を探ってくださるよう祈っている。