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ジラード事件

1957年(昭和32年)1月30日、群馬県相馬が原の米軍演習場内の立ち入り禁止の場所に、薬きょうを拾いにきていた農婦の坂井なか(46歳)が、小銃弾に当たって死亡した。一緒にいた日本人農夫の証言で、米兵に「ママさん、だいじょうぶ!」と呼び寄せられ、約10メートルの距離から狙撃されたことが判明した。その米兵は、この日、立哨だった米軍第1騎士団第8連隊のウィリアム・S・ジラード(当時21歳)3等特技兵であった。

事件現場は1920年(大正9年)に旧陸軍演習場となり、戦後米軍に接収された土地だったが、鉄くずの薬きょうを拾って生活の足しにしている基地周辺の人々の貧しさや、日本人をスズメ程度にしか考えていない米兵の心理など多くの問題を提起した。

特に、ジラードの裁判管轄権を巡って日米行政協定下の日本の主権制限の実状を明らかにした。当初、米軍はジラードの行為は、公務遂行中のものであり、米側に裁判権があると主張した。日本側世論は、平時の明白な殺人まで治外法権の範囲に入れようとする米軍の主張に憤激した。

日米合同委員会でも決着はつかず、最終的には、日本側世論の硬化を考慮した米側が、行政協定の解釈問題を避け、「裁判権不行使」の特例措置をとることで事態収拾をはかった。

5月18日、検察はジラードを傷害致死罪で起訴。これに対して、アメリカ本国では、在郷軍人会やジラードの親族を中心に、「身柄を日本側に引き渡すな!」の一大合唱が湧き起こった。ジラードの兄は、米連邦地裁に人身保護を求める訴訟を起こした。

6月18日、米連邦地裁は、ジラードの身柄を日本への引渡しを禁ずる判決を下した。これに対し米政府が控訴した。

7月11日、米国最高裁が、1審判決を破棄して、日本の裁判権が認められる始末となった。

8月26日から、前橋地裁で開始され、検察側が傷害致死、懲役5年の刑を求めていた。

11月19日、前橋地裁は、ジラードに対し、懲役3年・執行猶予4年の判決を下した。傷害致死での起訴にも疑問があったが、この異例の軽い判決に対し、検察側はなぜか控訴しなかった。ジラードは、もちろん控訴しなかった。また、この間に日本人女性と結婚していた。

12月6日、ジラードは妻を連れて帰国した。軍からは正式な補償金はなく、見舞金が支給されたが、わずか62万円であった。

その後も、日本各地で、同様の事件が繰り返された。

1957年(昭和32年)8月3日、茨城で米軍機が超低空飛行をして通行中の母子を殺傷するという事件が起きている。母親の北条はる(63歳)は胴体を真っ二つにされて即死し、息子の清(当時24歳)が重体となった。米軍側は異常気象の熱気流による不可抗力的事故と公表したが、7日、地元の市議会は操縦者のジョン・L・ゴードン中尉(当時27歳)のいたずらによるものと断定した。8日、茨城県警はゴードン中尉を業務上過失致死と傷害の疑いで水戸地検に書類送検。12日、水戸地検はゴードン中尉に任意出頭を求め、取り調べるとともに、捜査の続行を表明したが、21日、公務中の過失と認定して第1次裁判権を放棄し、不起訴処分とした。26日、東京調達局は死亡者に対する補償額を43万2044円と決め、遺族に決定を通知、遺族の同意書を得た。

翌1958年(昭和33年)9月7日、埼玉県狭山市の米軍ジョンソン基地の米兵のピーター・E・ロングブリー3等航空兵(当時19歳)が西武線の電車に向かってカービン銃を発砲、乗客で武蔵野音大生の宮村祥之(21歳)が死亡した。発砲の動機について「カラ射ちの練習をしたところ実弾が入っているのを忘れて射った」と述べた。埼玉県警と狭山署はロングブリーを重過失致死罪で浦和地検(現・さいたま地検)に書類送検した。浦和地裁(現・さいたま地裁)は禁固10ヶ月の判決を下した。このロングブリー事件はジラード事件と同様に、日本側世論に支えられ、形だけでも犯人は裁かれ、見舞金が支給された。

ちなみに、1958年(昭和33年)時点で米駐留軍による日本人の被害件数は、正式に届けられたものだけで、9998件にも及んだ。

参考文献など・・・
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『米兵犯罪と日米密約 「ジラード事件」の隠された真実』(明石書店/山本英政/2015)

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