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上野宝石商殺人事件

1987年(昭和62年)4月3日、東京都港区南青山のゴミ集積場で、黒いポリ袋に無造作に包まれ、廃棄されていた膨大なニセ札を通行人が発見し、警察に通報した。さらに、4日から5日にかけて足立区の荒川河川敷でも同様のニセ札が数ヶ所に散乱した状態で発見された。ニセ札偽造に関しては「和D−14号事件」と言われたが、ニセ札の出来映えは、手触りが異なり、印刷ズレがある上、画像はぼけ、全体的に黒っぽく、すかしもないお粗末なシロモノだった。

「和」とはニセ札一万円に対する警察関係者のコードナンバーのことで、十円札の場合は「伊」(もしくは「い」)、百円札の場合は「呂」(ろ)、千円札の場合は「チ」、五千円札の場合は「利」(り)と呼ばれている。

2日前の4月1日、安田火災海上保険(現・損保ジャパン)がオークションでゴッホの『ひまわり』を絵画では当時、史上最高額の約53億円で落札した。まさに、バブル絶頂期だったことを象徴するような出来事であったが、そんな時代に事件は起きている。

4月8日、ニセ札の偽造に関わった印刷業のK(当時53歳)が、ニュースを見ていて、逃げられないと観念して赤坂署に自首した。「同業者のY(当時54歳)から『選挙用の見せ金にするから印刷してくれ』と持ちかけられ、それに従わざるを得なかった」と供述した。

4月9日、Kの逮捕を報道によって知ったYが大崎署に自首した。

K、Yの供述によって、ニセ札偽造に中小出版社の創林社社長のM(当時42歳)のほか、数人が事件に関与していたことが判明し、同日、逮捕された。

4月10日、創林社社長のMは童話作家の武井遵(じゅん/当時49歳)から「知人の地方選挙を応援するのに見せ金が必要だから5億円分のニセ札を作って欲しい」と1000万円の謝礼を条件に依頼されていたことが分かった。

武井遵は群馬県榛名町で、韓国人の父親と日本人の母親との間に生まれた。だが、武井が2歳のとき、母親は父親には韓国に本妻がいることを知って離婚した。父親の金素雲(1981年死亡)は詩人で、日韓両国で活躍し、知日派詩人、日韓文化の掛け橋とたたえられ北原白秋の門下として、佐藤春夫、川端康成とも親交があった。だが、その金が1959年(昭和34年)に手形詐欺事件を起こして逮捕されている。知り合いの女性に、「会社を作るのに見せ金が必要だから株券を貸してくれ」と頼み、手に入れた株券を現金化したのだった。「見せ金が必要だから」という理由による詐欺の手口は息子へと受け継がれていった。

金素雲の著書(一部)・・・『朝鮮詩集』 / 『ネギをうえた人 朝鮮民話選』 / 『朝鮮童話選』 / 『近く遥かな国から』

1986年(昭和61年)2月に、問題の創林社から出版された武井の著書『詩人・その虚像と実像 父-金素雲の場合』では全編、父に対する激しい愛情と憎しみに満ちている。

『詩人・その虚像と実像 父 金素雲の場合』

武井は少年時代に日韓のハーフとして “スパイの子”などと言われイジメにあった。高校を中退後、自動車整備工、自動車販売員、バーテン、キャバレー、クラブのバンドマン、ロックバンドの演奏などで生計を立てていた。

その後、「北原綴(つづる)」というペンネームで童話や小説を執筆する作家になった。著書の出版元は全て創林社刊であった。

その著書のひとつ、1985年8月に出版された『山のメルヘン 木の実ふる村』(絵・谷内六郎)は同年、全国学校図書館協議会と日本図書館協会の選定図書になっており、同書には「岩井堂の春」「九郎ギツネの話」「麦笛のころ」など9編が収められている。童話の作品では『風のメルヘン』(絵・横手由男/1984年9月)、『だれも知らない南の島で』(絵・平田智香/1985年6月)、『いじわるちーこのなみだ』(絵・村上昴/1985年10月)、『みしょうづかの鬼ばば』(絵・関口将夫/1985年12月)、『ノロは花になった』(絵・新井五郎/1986年4月)、『あじさいの六月』(絵・いがらしひろたか/1986年7月)、『ゲンの花曜日(かようび)』(絵・菊田晶子/1986年9月)、『ドングリとドングラ』(絵・矢野ひかる/1986年11月)、『ほんとうのまほうつかい』(絵・村上昴/1986年12月)がある。

『山のメルヘン 木の実ふる村』/ 『風のメルヘン』 / 『だれも知らない南の島で』 / 『いじわるちーこのなみだ』/ 『みしょうづかの鬼ばば』 / 『ノロは花になった』 / 『あじさいの六月』 / 『ゲンの花曜日(かようび)』 / 『ドングリとドングラ』 / 『ほんとうのまほうつかい』

童話以外では、『美少女綺譚』(1987年3月)や『薔薇館の神々』(1986年7月)という異常性愛や少女殺人のストーリーを売り物にした作品も手がけていた。

『美少女綺譚』 / 『薔薇館の神々』

創林社以外では、『木の実ふる村』(煥乎堂/絵・横手由男/1984年9月)がある。

また、武井はテレビの企画請負、演劇・音楽会の企画、図書の発刊などを主目的とする有限会社「北原総合企画」の経営者でもあった。その一方で、身近に暴力団関係者を近づけたり、力士のタニマチを気取ったりした。だが、1985年(昭和60年)、韓国の国立国楽高校芸術団を招いての公演で数千万円の赤字を出すなど、事業収益がうまく上がらず、その上、BMW、ベンツ、ポルシェなどの高級外車、国産車の購入、車庫代などにお金を費やし経済的に苦しい状態であった。

武井はニセ札事件の疑惑以外に、上野の宝石商の小笠原隆男(39歳)が同年1月16日に、失踪、行方不明になっていた事件でも重要参考人として名前が挙がっていた。

4月13日午後8時40分、行方知れずになっていた武井が、ニセ札バラ撒き現場から3キロと離れていない赤坂東急ホテルに現れたところを、張り込み中の捜査員に取り押えられて逮捕された。そのとき、武井は長髪を切って丸坊主になり、野球帽をかぶって、メガネをはずして「変装」していたが、意外にも素直に本人であることを認めた。同日、「北原総合企画」の社員であり、武井の愛人でもあったU(当時25歳)もニセ札偽造容疑で逮捕された。

武井が3回に渡って偽造させた一万円のニセ札は、計36億円分あり、これは史上最大であったが、このうち、印刷などの失敗で不正使用できないものもあり、直接の逮捕容疑は17、8億円分のニセ札偽造ということになった。武井は知人の俳優に相談した上で使用を諦め、投棄したのだという。

武井の著書は発行部数が3、4000冊で全国の書店に並べられていたが、いずれも売れ行きが悪く、2、3週間で返本されるケースが多かった。だが、事件の容疑者として、武井の名前が浮かんできたあたりから、飛ぶように売れ、品切れの書店が続出したという。特に、『美少女綺譚』には、警察への挑戦的な文章など一連の犯行をにおわせる内容があり、人気を呼んだ。

『美少女綺譚』より

月明かりのなかで

夕顔が朧ろげに夢みる

月明かりのなかで

笛吹いてた子は

そんなわけで スリになったのさ

針の耳に糸通しながら

目がかすんだ祖母が

いつも仇といっていた

あの貧乏のため 帰ってくるよと

村外れで 帰ってくるよと

叫んでいた夜は 星影がかすみ

田ン圃は蛙の鳴き声でいっぱいだった

そうではないんだ

手を握って哭いていた祖母を

決して忘れたわけではない

角が生えたわけでも

足が六本あるわけでもないふる里の人

あの子はどうしても

そうはなれず

転がりながら もがきながら

寒いなかをさまよった挙句

監獄にいた

目を醒ました夜明けには

スリになって・・・・・・

< 『コラムニスト3 事件の味覚』(東京三世社/1992) >

また、武井は同年5月22日に、銀座の某ホールで「北原綴 大地を唄う」というタイトルで、友人のジャズバンドをバックに20曲を1人で歌う予定になっていたが、逮捕されたことによってコンサートは中止となってしまった。

武井はニセ札偽造事件の前に未遂を含め、幾つかの事件を起こしていた。

1961年(昭和36年)、長野県上田市で交通死亡事故を起こし、巣鴨拘置所で禁固1年。このとき、詐欺事件で収監されていた父親の金と偶然、対面した。

1974年(昭和49年)、取り込み詐欺で、懲役1年6ヶ月・執行猶予5年となった。

1976年(昭和51年)1月、輸入ダイヤモンド販売業のベルギー人宝石商から宝石を詐取しようとして、一万円札の大きさに切った新聞紙の束を作り、その両側を本物の一万円札で隠して、あたかも本物の札束に見えるようにしたが失敗。水中銃でベルギー人宝石商の背中を射ち傷害を負わせた。これにより懲役7年の刑に服した。

1985年(昭和60年)12月15日、武井が経営する「北原総合企画」の社員がバイク事故を起こし死亡した。そのとき、武井は保険金の半分の1500万円を遺族から強引なやり方で強奪した。この社員は武井の指示で事件の5ヶ月前に無理やり保険契約させられ、そのあとすぐに、必要もないのにバイクの免許を取らされ、さらに、500CCのバイクを武井から買い与えられていた。後日、武井はこの社員に、「俺は面倒見のいい男だからな!」と言い放ったという。

1986年(昭和61年)12月24日、宝石卸業を営む会社の社員2人を取り引きしたいと言って、会社に呼び出し、武井は自分の会社の社員2人に依頼し、会社から帰る途中のこの社員2人を千枚通しで襲って宝石を強奪させようとしたが、実行には至らなかった。

その3日後の12月27日にも同様の手口で貴金属販売会社の社員2人を殺害しようとしたが失敗した。

武井は億単位の現金取り引きができる宝石商を紹介してほしいと知人に頼んでいたが、1987年(昭和62年)1月7日、上野の宝石商の小笠原隆男を紹介された。

武井は資力があるように見せかけるために、あたかも多額の現金が入っているかのようなアタッシュケースを持ち歩いたり、高級外車で乗りつけ小笠原に会っていた。また、バックに大金持ちがいてその者から依頼されて交渉にあたっているなどと言った。小笠原もこれを真に受け、各地からダイヤモンド、エメラルド、キャッツアイの指輪を集め、これらを武井に渡し、武井は手付け金として現金を手渡していた。

同年1月16日、武井は小笠原に電話をかけ、会社に来るように伝えた。社員でもあり愛人でもあるUには、「午後4時に小笠原が来るから、朝鮮人参茶にアタラックス(催眠作用のある精神安定剤)を入れて出せ」と指示した。武井はニセの札束を詰めたジュラルミンケース4個を用意し、拳銃2丁をショルダーバッグに忍ばせておいた。

やがて、小笠原がミンクのコートとローレックスの時計を持って会社に現れた。武井はこれまで受け取った宝石とこの日、小笠原が持ってきたコートと時計を合わせて1億円で購入したいと言って、ニセ札が詰まったジュラルミンケース1個を「中には1億円が入っている」と嘘を言って、小笠原の車に入れた。

さらに、小笠原を関越自動車道に誘い出すため、「金の地金を1億円ほど買いたいが、手持ちの金がなく、所沢に金を出してくれる人がいるので一緒に行ってください」と話して小笠原を外に連れ出した。小笠原の車を武井の会社の社員が運転することになり、その後部座席には武井と小笠原が乗った。

練馬インターチェンジから関越自動車道に入り、鶴ヶ島インターチェンジを走行中、武井は拳銃で小笠原の胸、頭に銃弾6発を発射し、即死させ、その後、群馬県榛名町の山林に小笠原の財布から現金40万円を抜き取り、死体を埋めた。

武井は最初から車の中で殺害しようとしたわけではなく、会社のあるビルの地下室で決行しようと、社員にイスやテーブルを買ってこさせ、換気口を毛布でふさぎ、ガラス戸などをガムテープで目張りして、銃声がどの程度、外に漏れるかを実験していた。

武井は殺人事件のあと、ニセ札束ではバレやすいと考えたのか、本格的に偽造券の作成に力を入れ、一万円札を偽造したが、結局、廃棄処分したのだった。

4月14日、全国学校図書館協議会は運営委員会を開き、『山のメルヘン 木の実 ふる村』の選定取り消しを検討することを決定した。その後、実際に取り消したかどうか不明。全国学校図書館協議会のサイトで調べた限りでは書籍一覧にはなかったのだが。

1989年(平成元年)3月27日、東京地裁は武井遵に対し、無期懲役を言い渡した。

3月31日、控訴したが、9月25日、控訴を取り下げ、無期懲役が確定した。

参考文献・・・
『犯罪地獄変』(水声社/犯罪地獄変編集部/1999)
『コラムニスト 3 事件の味覚』(東京三世社/1992)
『読売新聞』(1987年4月2日付/1987年4月10日付/1987年4月14日付/1987年4月15日付/1987年4月18日付/1987年4月28日付/1989年3月28日付)

関連サイト・・・
全国学校図書館協議会

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