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つくば母子殺人事件

1994年(平成6年)11月3日、横浜市鶴見区の京浜運河で、ビニール袋に入れられ、重しを付けられた女性と女児の絞殺遺体が発見された。

横浜水上、鶴見両署は、合同捜査本部をつくって捜査に乗り出した。まず、被害者の割り出しにかかった。本部は、首都圏で行方不明になっている母子の失踪時期、肉体的特徴、服装などをチェックした。

すると、10月29日に、茨城県警つくば中央署が受け付けていた捜索願いの内容と一致、被害者はつくば市の主婦の映子(31歳)と長女の愛美ちゃん(2歳)と分かった。願出人は、夫で総合病院医師のN(当時29歳)であった。

Nは勤めから帰宅すると妻子がいなくなっていた、失踪の動機についてはまったく心当たりがないと言っている。続いて、長男の優作ちゃん(1歳)の遺体が、横浜港近くの海で発見された。状況から見て、3人は10月下旬にどこかで殺され、遺体を海に投げ込まれたのは確かだった。

捜査本部は、夫のNから失踪当時の事情を詳しく聞くと同時に、夫婦の身辺調査を進めた。捜査員は、事件の根は家庭内にあると見ていた。Nの右手の甲の小さな傷について本人は飼い犬に引っ掻かれたと説明しているが、妻子殺害のときにできた可能性もあると考えた。捜査が進むにつれ、夫婦のトラブルが浮かんできた。

Nは茨城県の農家の次男で学業成績は優秀、筑波大学医学部を出て医師になった。映子とは、その頃からの付き合いで、周囲の人たちは、結婚は自然の成り行きだと見ていた。だが、一度、映子に中絶させていたことがあり、2度目の妊娠で、Nは結婚を決意したくらいで、最初から夫婦仲は冷え切っていた。映子にとってこれが2度目の結婚ということもあって、結婚式も披露宴も挙げなかった。勤め先の病院でのNの評判も悪くなかったが、金銭欲、財欲が旺盛で、大阪、神戸など3ヶ所に投資用マンションを買ったり、女出入りも激しく、勤務先の病院に8人の愛人がいたという。

家宅捜索で、映子の日記が発見されると、そこには、夫婦の荒廃した暮らしが綴られていた。Nは、年収1300万円であったが、複数の女性との付き合い、借入金の利子返済などで、いつも金に追われていた。年上の映子は、Nに文句を言いながらも、やりくりのために働かざるを得ず、昼は、微生物研究所の事務員、夜はランジェリーパブのバイトで生計を助けていた。ときどき、Nへの当てつけに衝動買いをしたり、ブランド品を身につけたりしたが、そんな生活がいつまでも続くわけはなかった。

取調官は、手の傷を追及すると同時に、収集した状況証拠を並べ、早く白状して妻子を成仏させてやりなさいと説得した。

11月25日、Nは3人の殺害と死体遺棄を次のように自供した。

「10月29日早朝、朝帰りした俺は離婚を切り出され、慰謝料1億3000万円、妻のローン1000万円を払ってくれと要求された。勝手な言い分に逆上し、思わず妻の映子を絞殺してしまった。我に返ると、母を失い、父が殺人者となった子どもが哀れになった。寝ている長男の優作を絞殺し、しばらく添い寝していたが、出勤時間が迫ってきて、長女をどうするか迷った。最初、自首を考えていたが、誰かの犯行に偽装する気になり、思い切って、長女の愛美を絞殺した」

「2日間、遺体を自宅に置いていたが、そのままにしておくわけにはいかず、31日早朝、3人の遺体を車に乗せ、首都高速の大黒埠頭に行き、非常駐車場から海中に投げ込んだ。死体遺棄の前、新宿の歌舞伎町に立ち寄り、ストリップやソープランドに行った。さらに、その翌11月1日には、愛人の看護婦とともに北海道旅行の予約をした」

看護婦・・・保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律(改正保助看法)が2001年(平成13年)12月6日に成立、12月12日に公布、翌2002年(平成14年)3月1日に施行された。これにより、保健婦・士が「保健師」に、助産婦が「助産師」に、看護婦・士が「看護師」に、准看護婦・士が「准看護師」となり、男女で異なっていた名称が統一された。

3人の遺体遺棄の際に、大黒埠頭に向かう途中で自動車ナンバー自動読み取り装置(Nシステム)に捕らえられたことが、犯人逮捕の決め手にもなったようである。

1996年(平成8年)2月22日、横浜地裁(松浦繁裁判長)は「医師という社会的地位にありながら、3人も殺害し、死体を遺棄、その後偽装工作するなど極めて重大な犯罪。しかし衝動的な犯行で深く反省している」とNに対し無期懲役を言い渡した。

判決理由で松浦裁判長は「倫理観念もなく浮気を重ね、夫婦げんかの果てに憎しみを募らせた。医師として生命の貴重さを学んだはずにもかかわらず、3人の命を奪った。遺族が受けた精神的衝撃、苦しみは大きい。夫や父親の情を感じさせない無慈悲な行為で罪の意識を欠くこと甚だしい」と厳しく指摘した。しかし、子どもたちの殺害については、母親を亡くし父親が殺人者となった子どもたちの将来をふびんに思った衝動的な犯行とし、「夫婦の不和は、互いに自己の考え方、観念等のみにとらわれた2人の行動が要因となっており、1人被告人の責任とは言えない」と述べた。さらに、「犯罪を繰り返すような強い反社会性がない以上、被告の人格面を理由に刑罰を重くすることはできない」とし、逮捕後、犯行を自供してからは素直に事実を明らかにし、公判を通じて殺害の重大性や自己の人格の未熟さを認識し、深く反省、悔悟していることを理由に無期懲役を言い渡した。

検察、弁護側ともに控訴した。

1997年(平成9年)1月30日、東京高裁で控訴棄却。Nは上告した。

2月14日、Nが上告を取り下げ、無期懲役が確定した。

参考文献・・・
『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気、非情の13事件』(新潮文庫/「新潮45」編集部/2002)
『週刊文春』(2000年1月4・11日新年特大号 20世紀最終号)
『佐賀新聞』(1996年2月23日付)

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