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築地八宝亭一家惨殺事件

1951年(昭和26年)2月22日、東京中央区築地2-8の中華料理店「八宝亭」で、一家4人が殺されるという事件が発生した。1階6畳間で、べったりと血で染まった寝具の上に、主人の岩本一郎(48歳)と妻のきみ(45歳)、長男の元(11歳)の死体が転がり、長女の紀子(10歳)だけがフスマに片手を突っ込んだ状態で半立ちのまま死んでいた。凶器の薪割りが4人に振り下ろされた回数は50回を越えており、死体はすべて頭部を割られていた。一家4人の惨殺現場は、血を見慣れている捜査員でさえ、正視に耐えられないものだった。

凶行は胃に残された夕食の消化状態から午前4時ごろと推定された。被害品は現金2、3万円のほか、14万円あまりの残金のある永楽信用組合の預金通帳、5万円記入の千代田銀行(現・三菱東京UFJ銀行)築地支店の通帳、5万円あまりの預金のある勧業銀行(現・みずほ銀行)通帳であった。

第一通報者は、同店の住み込み店員である山口常雄(当時25歳)だった。2階で寝ていた山口は、午前9時に起床して階下に降りたところ、店主の一家4人が血みどろになって死んでいるのを発見したとして、筋向かいの築地署に駆け込んだのである。

築地署ではすぐに現場検証を始めるとともに、唯一の生き証人である山口から約13時間に渡って事情聴取した。

そのとき、山口は次のように証言した。

「凶行前日の21日夕刻、太田成子(なりこ)と名乗る、25、6歳のパーマをかけた、小太りの洋装の女が『女中募集の貼り紙を見てきた』と言って店を訪れた。その場で店主に採用された太田は、その夜、同店1階の3畳間に泊まり込んだが、夜遅くなって、親類だという若い男が彼女に会いに来た。だが、今朝になると、太田は男ともども姿を消していた」

警察は当然、この「太田」と名乗る女性が事件に関わっていると見て、その行方追及に全力を挙げることになった。新聞も事件を詳しく報じる中で「太田」と犯行の関係に着目し、<“お目見得(めみえ)強盗殺人”ともいうべき珍しい犯行と見られる説が有力になった>などと書き連ねた。「お目見得」とは奉公人が2、3日試しに使われることを言う。

だが、警察は山口自身に対しても疑いの目を向けていた。

(1)2階で寝ていてあれだけの惨劇に気づいていないのは不自然.。

(2)4人の死体全部に52ヶ所の傷を負わせた凶悪な犯人が、2階に寝ていた山口を見逃すはずがない。

(3)凶行前夜、太田を訪ねてきたという男を目撃した人がいない。

(4)主人も雇人も普段は8時に起床するのにその日に限って山口は9時に起きている。

(5)午前1時ごろ、付近の料理屋からかけた電話が通じなかった。しかも、その受話器から山口の指紋が出た。

(6)この種の惨劇の目撃者が、警察に届け出る場合、被害者が面識者または知人であった場合、病院へ直行、または通報するのが普通だが、山口はそのようなことをしていない。

このように、山口を疑うに足りる点は決して少なくなかった。とはいえ、身柄を拘束するほどの決定的な理由は見当たらなかった。

たび重なる事情聴取に応じる山口の態度からは、犯人らしい動揺はなにひとつ感じられなかった。また、山口以外の数人が「太田」を目撃しており、彼女の容姿や特徴に関する証言が、山口の証言とピッタリと一致していた。

だが、山口は自分が疑いが持たれていることを知ると、「私は世話になった主人一家を殺した犯人を早く捕まえてもらいたいばかりに、こんなに苦労してまで捜査に協力しているのに、その私を犯人だと疑う人がいようとは、もう、死んでしまったほうがましだ」と、大声を上げて泣いた。それはどう見ても、演技で泣いているようには見えなかった。ベテラン刑事でさえも「山口はシロだよ。人間、嘘や芝居であんなに泣けるもんじゃない」と断言するほどだったし、山口の張り込みを続けていた新聞記者たちも、「あいつはいい奴だ。あんな素直な奴が犯人だとは、絶対に信じられない」などと口にするようになった。

「山口シロ説」が警察やマスコミの主流になるにつれ、山口の協力ぶりはなんともめざましく、一躍、時の人として捜査本部、新聞各社を飛び回る日々が続いた。必死で「太田」の行方を追う警察に協力して、モンタージュ写真を作成したり、5000枚もの売春台帳に目を通して「太田」らしい女のファイルを探すなど、その熱心な捜査協力活動は、いつしか「美談」に近い語調で報道されるまでになった。また、新聞や雑誌の求めに快く応じ、事件発生から2週間ほど経った3月6日の『朝日新聞』には<私の推理>なる山口の手記までが掲載された。この時期の山口は常にマスコミ関係者に囲まれ、世の注目を浴びていた。

山口の協力でできあがったモンタージュ写真の助けもあり、事件発生から17日後の3月10日、「太田成子」こと元売春婦の西野つや子(当時24歳)が捕まった。

「あの事件の犯人は山口で、自分は犯行後の山口から頼まれ、奪った通帳で金を下ろしに行ったが、通帳の届け出の印と違う<岩本>の三文判を持って払い戻そうとしたため失敗し、怖くなって故郷に逃げ帰っていた」と西野が自供した。

犯人探しに最も協力的だった山口が真犯人だったという結末に、世の人々はびっくり仰天してしまった。

「太田成子」という名前は山口が適当にデッチ上げた名前で、「成子」は一般的に「しげこ」と読むが、山口はそのことを知らずに、「なりこ」と読んでおり、記者たちとすき焼きを囲んでの懇談中、そのことを指摘されて、妙に狼狽した素振りを見せたことがあったという。

山口は同日午後5時過ぎに逮捕されたが、「今は大変疲れているので、すべては明日話します」と意外にも素直に犯行を認めた。しかし、翌11日未明、築地署内の留置場で隠し持っていた青酸化合物を呑んで自殺を遂げた。これにより、犯行の動機や事件の詳細など、すべての謎は解明されずに幕を閉じた。

なお、西野つや子については、共同正犯の決定的な証拠が不充分とされ、盗品運搬罪で起訴されて懲役1年・執行猶予3年、罰金2000円の判決が言い渡された。

山口常雄は茨城県東茨城郡川根村(現・茨城町)の比較的裕福な農家の次男で、尋常小学校を卒業後、神奈川県横浜市鶴見の軍需工場で少年工として働いたが、肋膜を患って療養。その後、1943年(昭和18年)から地元の村役場で書記をしていたが、なにかにつけ要領よく派手好みで、ルーズな女性関係が原因で金に窮し、1947年(昭和22年)の春ころから、配給主任となった約1年間、村役場で扱っていた報奨物資を7回に渡って横領して、1948年(昭和23年)9月、逮捕されたと同時に村役場も退職。これにより、懲役1年6ヶ月・執行猶予5年の判決を受けた。しかし、この物資の横領は村人のための横流しでもあったため、まるで凱旋将軍のような扱いを受けたという。その後は農業の手伝いもせずぶらぶらしていた。そして、預金を引き出しては遊んでいたが、いよいよ自由になる金が底をつき始めると、1950年(昭和25年)12月に上京し、その後、「八宝亭」に住み込みで働き始めたのだった。

参考文献・・・
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)
『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1985)
『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房/近藤昭二/1997)
『日本の殺人者』(青林工藝舎/蜂巣敦/1998)

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