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戸塚ヨットスクール事件

1983年(昭和58年)6月13日、愛知県知多郡美浜町の戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長(当時42歳)ら関係者が逮捕された。直接の容疑は、前年の1982年(昭和57年)12月12日に、訓練生である藤沢市の鵠沼(くげぬま)中学1年の小川直人(13歳)をヨット上で角材などで殴り、死亡させた傷害致死である。死因は外傷性ショック死だった。

それ以前には次のような死亡及び行方不明事件があった。

1979年(昭和54年)2月、少年(13歳)が死亡(病死として不起訴)。1980年(昭和55年)11月、古川幸嗣(21歳)が死亡。1982年(昭和57年)8月、奄美大島での合宿の帰りにフェリーから水谷真(当時15歳)と杉浦秀一(当時15歳)が太平洋に飛び込んで行方不明。

1964年(昭和39年)、戸塚宏が名古屋大学工学部機械科を卒業。在学中はヨット部主将を務めた。

1975年(昭和50年)7月19日〜1976年(昭和51年)1月18日の沖縄海洋博覧会記念の「サンフランシスコ〜沖縄間太平洋単独横断ヨットレース」に参加し、驚異的な記録を達成して優勝、一躍有名になる。

1976年(昭和51年)愛知県美浜町に戸塚ヨットスクールを開校した。家庭内暴力や登校拒否などの、いわゆる情緒障害児を集団生活とヨット訓練によって矯正、治療する目的であった。当時、登校拒否の生徒、児童は全国で4万数千人と言われ、校内、家庭内暴力、非行なども急速に増加していた。これらの子どもの親たちは自分の子どもに手を焼き、学校、各種相談所、警察、病院などを訪ね歩いた末、万策つきて、戸塚ヨットスクールにやってきた。

戸塚ヨットスクールでは、子どもを預かると、まず、問答無用で頭を丸刈りにした。寮生活や訓練は規律第一で、違反すれば厳しい体罰が加えられる過酷なものだった。ヨットレースで生死を分ける過酷な経験を生かした過酷な指導方法で臨んだところ、情緒障害児の訓練生にその治療効果が認められたため、各界の注目を集めた。

1978年(昭和53年)から、戸塚が考案した「かざぐるま号」という転覆しやすいヨットを使用したヨット療法を本格化していった。『中日新聞』と『東京新聞』に長期連載されていた『スパルタの海 甦る子供たち』というルポルタージュでも大きな反響を呼び、広く知られるようになった。これを読んだ親たちから子どもを預かってほしいという電話が殺到したという。のちに東宝東和の制作で映画化もされた。

映画作品『スパルタの海』の監督を務めた西河克己の長男も家庭内暴力と不登校を重ねる問題児でちょうどその息子を交通事故で亡くしたばかりだった。1983年(昭和58年)半ば、作品は完成し、9月に公開される予定だったが、6月13日に戸塚宏とコーチ15人が逮捕され、東宝東和は公開を断念した。世間からの厳しい批判を浴びることが予想されたからだった。こうしてオクラ入りになった作品を「戸塚ヨットスクールを支援する会」が東宝東和から買い取ることでビデオ・DVD化が実現し、一部の映画館では上映された。

『スパルタの海 甦る子供たち』(東京新聞出版局/上之郷利昭/1982) / 『スパルタの海』(DVD/監督・西河克己/戸塚役・伊東四朗/2012)

だが、訓練中に訓練生3人が死亡したのも事実であった。

裁判の最大の争点は、戸塚ヨットスクールのやり方を教育と見るか暴力と見るかだった。戸塚校長の逮捕から2日後、戸塚ヨットスクールは訓練を再開したが、入校希望者は減らず、退寮者も少なくなかった。

1992年(平成4年)7月27日、名古屋地裁は、戸塚宏校長に懲役3年・執行猶予3年、他の9人の被告には懲役1年6ヶ月〜2年6ヶ月・執行猶予2〜3年という判決を下した。

当日の『読売新聞』の夕刊の見出しには、<軽い判決、遺族複雑><「目的理解」に泣き声も><寛大判決、広がる波紋><遺族、被告双方に割り切れなさ>などの言葉が並んだ。

判決は阻却されるものではないと認めながらも、「多くは治療、矯正のため、あるいは合宿生活の秩序維持のための体罰と認められ、目的の正当性はほぼ肯定できる」と述べた。だが、事実認定は、検察側の起訴事実に沿ったもので、「体罰は教育、懲罰とは結びつかない異質な過酷なもの」と断罪した。

量刑理由で、被告に有利な点として、傷害致死事件は不幸な結果であったこと、行き過ぎを認め反省していることを挙げている。さらに、実刑も考えられたが、戸塚校長の勾留期間はすでに1100日(3年1ヶ月)を越えていること、再開したスクールでは体罰は行われていないし、再発の恐れもないので、実刑の意味は失われたとしている。

8月5日、名古屋地検は量刑不当を理由に控訴。

8月6日、戸塚ら6人も無罪を訴え、控訴した。

8月14日付の『朝日新聞』には、精神障害の息子をもつ60歳の教員の次のような投書が載った。

<戸塚ヨットスクールを頼った大半の人々も私どもと同様に感謝こそすれ、恨む気持ちは毛頭ないのではないかと思う。事故は残念だったが、国に私どもを救済する手だてがない限り戸塚ヨットのような存在は必要だ>

1996年(平成8年)2月19日、名古屋地裁は訓練中に死亡した小川真人の母親が戸塚宏校長ら7人とスクール側に総額約4000万円の損害賠償を求めた訴訟で、暴行などの不法行為を認め、スクール側に総額約2942万円の支払いを命じた。

1997年(平成9年)3月12日、名古屋高裁は、1審判決を破棄し、戸塚宏に懲役6年の判決を下すなど4人を実刑とした。

2002年(平成14年)2月25日、最高裁は名古屋高裁での2審の判決を支持し、被告の上告を棄却する判決を下した。戸塚宏に懲役6年、コーチだったKに懲役3年6ヶ月、Hに懲役3年、Yに懲役2年6ヶ月。即日、被告側が異議申し立て。

3月11日、最高裁は異議申し立てを退ける決定を出した。

これで起訴された15人全員の有罪が確定し、一連の刑事裁判は終結した。

2006年(平成18年)4月29日、戸塚宏(当時65歳)が静岡刑務所を出所した。出所後、静岡市内で記者会見した戸塚は「体罰は教育」との持論を強調し、スクールでの指導を「これからも続けたい」と話した。戸塚は「正しい教育論がないのに、私の教育論を否定するのはおかしい。2審判決には納得できない」と検察と裁判所を批判、再審請求も考えていることを明らかにした。また、「今後の仕事を邪魔しないでほしい」と話した。

戸塚宏の著書・・・
『私は子たちを救いたい ”殴らない父”と”愛しすぎる母”へ』(光文社/1983)
『私が直す!』(角川書店/1985/「治す」じゃなくて「直す」としたところに戸塚校長の意思が感じられる)
『こんな輩が子供をダメにする 偽善を排す異論・暴論63』(太陽企画出版/1992)
『教育再生!』(ミリオン出版/2003)
『静岡刑務所の三悪人』(飛鳥新社/2006)

『それでも、体罰は必要だ!』(ワック/新書/田母神俊雄との共著/2010)

参考文献など・・・
『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)

『犯罪地獄変』(水声社/犯罪地獄変編集部/1999)
『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
『裁判官 Who'sWho 東京地裁・高裁編』(現代人文社/2002)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『ワケありな映画』(彩図社/沢辺有司/2011)
『戸塚ヨットスクールは、いま 現代若者漂流 』(岩波書店/東海テレビ取材班/2011)
『読売新聞』(2002年2月27日付/2002年3月12日付/2006年4月29日付)

関連サイト・・・戸塚ヨットスクール

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