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小説 『悪魔の詩』訳者殺人事件

1989年(平成元年)2月14日、イランの最高指導者のアヤトラ・ホメイニ師は、イギリスで出版された小説『悪魔の詩(うた)』がイスラム教の預言者マホメットの私生活をスキャンダラスに描くなど、冒とくしたとして、「著者のインド系イギリス人作家のサルマン・ラシュディ(当時41歳)と発行人には処刑が宣告されねばならない」との声明を発表、世界のイスラム教徒に対して、著者と発行人の処刑を呼びかけた。

『悪魔の詩 上』 / 『悪魔の詩 下』

『悪魔の詩』のタイトルはイスラム教の聖典『コーラン』を指すとされている。この小説には、マホメットの12人の妻を連想させる12人の売春婦が登場したり、「マハウンド」というイスラム教の軽蔑の対象であるイヌを連想させる名前の預言者が登場するなどイスラム教を揶揄する表現がちりばめられている。

サルマン・ラシュディ・・・1947年、インド・ボンベイでイスラム教徒実業家の家に生まれ、14歳で渡英、名門ケンブリッジ大学で学び、1972年から本格的著作活動を開始した。1981年、独立直後のインドを舞台にした『真夜中の子供たち』で、世界的に定評のあるブッカー賞を受賞した。鋭い現実批判を含んだ幻想的な描写に満ちた一連の作品には「魔術的リアリズム」という形容が与えられた。

『真夜中の子供たち 上』 / 『真夜中の子供たち 下』

2月15日、イランのホルダホ財団(貧困者の救済を目的とする財団)の責任者のサナイ師はラシュディを「処刑」した者に、巨額の賞金を与えると発表した。処刑実行者が外国人なら100万ドル(当時で約1億2500万円)、イラン人の場合は2億リアル(当時で約3億6000万円)とした。また、サナイ師は、処刑を実行しようとした者が死亡した場合には殉教者と見なし、遺族を救済機関が援助するとも述べた。さらに、革命防衛隊も「ホメイニ師の命令を執行する用意がある」と犯行予告の声明を発表した。また、イランのラフサンジャニ国会議長、ハメネイ大統領がホメイニ師を支持する声明を発表した。

ラシュディの身柄はイギリス警察の保護下におかれ、暗殺の危機に対応することになった。

また、『悪魔の詩』がイギリスで出版され、近いうちに、アメリカでも出版が予定されているところから、イランの首都・テヘランのイギリス大使館前では、約1万人(「イラン革命通信」発表)の市民が抗議デモを行い、「イギリスに死を」「アメリカに死を」などのスローガンを叫んだ。大使館への投石はあったが、大きな混乱はなかった。

2月26日、宇野宗佑外相は、東京都港区麻布の外務省飯倉公館で行われたイランのサリーム副大統領との会談で、ホメイニ師の処刑指示を撤回し、西側各国との対外関係を回復するよう強く要請した。

これに対し、サリーム副大統領は「イスラム教全体への冒とくであって、西側世界は我々の感情を充分理解していない。日本から西側にこの感情を伝えて欲しい」と述べ、駐イラン大使の召還などで政治的圧力をかけている西欧各国に譲歩する意思のないことを表明した。会談で外相は「宗教的国民感情は配慮しなければならないが、それを理由に表現の自由を侵害してはならない」と日本政府の立場を説明した。

小説『悪魔の詩』をめぐる問題は、イランの対英断交に発展する一方、「表現の自由」の問題などで、全世界に大きな論議を巻き起こした。

[ アメリカ・コロンビア大中東研究所所長のリチャード・ブリットの見解 ]

「この本には、イスラム教の預言者ムハンマド(マホメット)の妻の名前を持つ売春婦が出てくる。これはイスラム教徒にとっては明らかな侮辱であり、攻撃的な本と言わざるを得ない。一方で、ラシュディ氏は死に値するとした宗教指導者たちや、本の発売を自粛した書店なども非難されるべきである。ただ、問題の根はもっと深い所にある。西側世界とイスラム世界の間にある埋めがたい溝だ。この事件では、イランや同国の最高指導者ホメイニ師が西側報道の中で故意に強調されすぎている。ホメイニ師が口を開く前に、パキスタンでは本に反発して暴動が起きている。昨年12月には、エジプトの宗教指導者が『ラシュディ死刑』を口にした。しかし、いずれも大きな記事にはなっていない。ホメイニ師が何も言っていなければ、これほどの論議になっていないはずだ。西側のマスコミが、ホメイニ師とイランを必要以上にクローズアップした結果、かねてからある西側のイスラム世界に対する『暴力性』『後進性』といった固定観念がますますあおられることになった」

「アメリカには、『表現の自由』をうたった憲法修正第1条がある。しかし、直接暴力を鼓舞するものでない限りいかなる自由も許されるとする声がある一方で、『表現の自由』は政治に限られるべきだとする保守主義者もいる。この国でテレビの検閲が中止されたのはほんの数年前である。アメリカが絶対的な『表現の自由』をおう歌していると思うのはナイーブだ。インドで『悪魔の詩』を発禁にしたのは、イスラム教徒ではなくヒンズー教徒の政府だった。なぜか。第一義的に、暴動を避けたかったからである。もし、アメリカが大きなイスラム社会を抱えているならば、この本は発禁にはならないにしても、出版社は明らかに発売を控えただろう。イギリス、イスラエル、南ア……。政治的制限が『表現の自由』に加えられている例はあちこちに見られる。西側世界でも『表現の自由』の形態は様々だ。我々が避けるべきは、一方に『表現の自由』を認めるすばらしい西側世界があり、他方に、それを圧迫するあしきイスラム世界があるとする考えである」

[ 国際大中東研究所主任研究員の小杉泰の見解 ]

「この小説がイスラム教徒にとって侮辱的かつ攻撃的な内容であることは、他のイスラム諸国での反応からも明らかであるが、他国の市民の著作について処刑の脅迫を行うことは、国際法に反するのではないか、との疑問が出されている。」

「なぜ英国市民に死刑を宣告するのかという点に答えるには、まずイスラム法の『属人主義』を見なくてはならない。それによれば法は領土によらず人に適用されるので、イスラム教徒である限りはどこにいても拘束を受ける。現在は英国籍を持っていても、ボンベイ生まれのイスラム教徒であるラシュディ氏の場合、外国人ではなく、元来イスラム法の規制を受ける内部の者と見なされるのである。もちろん西洋近代法は属地主義であるから、英国内では英国の法律だけが拘束性を持つのが当然であるが、ことはそう単純ではない」

「英国では、国民のうちイスラム教徒は150万人おり、キリスト教に次ぐ第2の宗教となっているが、イスラム法は時に英国の国内法と対立し、すでに様々な係争を生んでいるのである。例えば、金曜日の礼拝に出席して仕事に遅れた教師が解雇され、裁判で不当解雇撤回を争っているケースがある。今回の問題にしても、昨年の出版時から英国内では抗議行動が始まっている。サウジアラビアなど、政治的にはイランと対立するアラブ穏健諸国でも、ラシュディ氏の行為はイスラム法の対象であり、裁判をすれば有罪であろうと言われている」

「処罰の根拠については、おそらく『棄教』の罪が問題であろう。イスラム法は他の宗教も含めた国家レベルの法と、イスラム教徒だけを対象とする法に分けることができる。前者の特徴は自治であり、宗教ごとに信教の自由と法的自治を認め、きわめて寛容な内容を持っているが、自分の共同体に関する後者については厳格で、棄教は死罪と定められている。ただし公表されない心の内面は問われないのが原則で、かつ長い間これが適用された例はない。今回は出版によって実質上他人にも棄教を呼びかけたことになり、かつ内容が非常に冒とく的であった点と合わせて、この規定が持ち出された形である」

「現代においても棄教が死罪にあたるとは何と時代遅れか、という印象を受けるが、第3世界における宗教の重さもまた現代の国際社会の実態である。1981年には国連から『宗教に基づく差別を禁止する宣言』が出されたが、この時もイスラム諸国は信教の自由の中に『改宗の自由』を含めることに真っ向から反対している。確かに『改宗の自由』は植民地時代には宗主国宗教の宣教の自由を意味し、自国文化が否定されたという歴史的経緯もあるが、信教の自由という、一見異論のありえない人権に関しても、法文化の違いは対立を生むのである」

「ところで、ホメイニ師の見解の是非をめぐっては、イスラム法から見た批判も出されている。第一に、刑罰は裁判によらなければならないという点。さらに問題なのはイスラム法では刑罰は国家の義務であり『私刑』は許されないという点。今回のいわゆる処刑命令(事実上の暗殺教唆)や実施者への賞金は、この原則に反する。今回の処罰を今後は非イスラム教徒の場合にも適用する、という主張も問題となるであろう」

「国際法に関しては、イランの行為は国際法に照らして不法である、との批判は、1979年のテヘランのアメリカ大使館占拠事件の時も出た。しかし、イラン革命は先進国が作り出した既存の国際社会の体制そのものに対する異議申し立てを含んでいる。国際法についてもイラン側の主張によれば、イスラム世界の独自の国際法を西洋列強が植民地化によって破壊し、西洋中心の秩序を作ったことが問題の発端である。さらに大きく見れば、西欧が過去何世紀にもわたって、イスラム世界を敵としてきた歴史が問題となろう。かつて英国がイランを半植民地化したことに比べれば、外交・経済関係の断絶も恐れるに足らない、ということかもしれない」

「そのように見れば、『言論の自由』よりも、国際社会での共存の仕方が問題となる。日本にしても、戦争の解釈をめぐってギクシャクする日中関係、黒人をキャラクターにした場合の人種差別問題など、日本側の『言論の自由』では片付かない問題にしばしば直面している。その意味では、『悪魔の詩』事件は、これだけ国際化時代と言いながらも、共存のシステムができるまでには、まだまだ摩擦が続くことを示しているようである」

6月3日、イランの最高指導者ホメイニ師(86歳)が、首都テヘランの自宅であるジャマラン・モスクで心臓発作のため死去したが、「処刑宣告」は撤回されることはなかった。

翌1990年(平成2年)9月、イギリスとイランの国交が再開された。

12月24日、ラシュディはロンドンで、マフグーブ・エジプト宗教相らイスラム教学者グループと会い、イスラム教を信奉し、著書のペーパーバック版の発行を断念することなどを誓約した。小説『悪魔の詩』は当初、ハードカバーで出版され、イギリス国内だけでも100万部が売れるベストセラーとなり、これまで15ヶ国語に翻訳されており、ラシュディは従来、ペーパーバック版発行の必要を主張してきた。学者グループによると、ラシュディはこの日の会談で、(1)アラーは唯一の神で、マホメットは最後の預言者である。(2)マホメットを侮辱し、イララムを中傷した同著書の登場人物の発言には同意しない。(3)著書のペーパーバック版発行と今後の翻訳出版は許可しないことを明記した誓約書に署名した。

問題が拡大していったのは、これ以降だが、「処刑宣告」の影響は意外にも日本に及んだ。

1991年(平成3年)7月11日、『悪魔の詩』の日本語翻訳者の筑波大学助教授の五十嵐一(ひとし/44歳)が大学構内で何者かによって刺殺された。犯人は分かっていないが、シーア派イスラム教徒のイラン人によって「処刑」されたという見方が有力なようである。

五十嵐一・・・1947年、新潟県生まれ。1970年、東大理学部を卒業。東大大学院美学芸術学博士課程を修了。1976年から3年間、イラン王立哲学アカデミーに研修生として留学。この間にイラン革命を体験し、帰国後、『イラン体験−落とされた果実への挽歌』を刊行。1986年、筑波大で現代語・文学系助教授に就任。また、自ら劇団(グループ・TZ)を主宰し、自作の音楽史劇『マラー・ベ・ブース』、聖喜劇『エマーム』などに主演、各地で公演を行っていた。その他に、ロックバンド(ザ・エマーム)も結成し、ボーカルをつとめてワンマンショーを開催するなどのユニークな面もあった。主な著書・・・『イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ「悪魔の詩」を訳したか』(法蔵館/1990) / 『イスラーム・ルネサンス』(勁草書房/1986) / 『神秘主義のエクリチュール』(法蔵館/1989)

その理由として、この事件の少し前にイタリアのミラノで、同じく『悪魔の詩』のイタリア語の翻訳者がイラン人と名乗る男に襲われて重傷を負っており、また、五十嵐助教授殺害のすぐあとに、イランの日刊紙『サラーム』がこの事件を評して「全世界のイスラム教徒にとって朗報である」「イスラム教徒が処刑実行責任者の適当なタイミングを計っていることを世界に示した」という論評を載せていることであった。

五十嵐助教授はイスラム教徒ではないが、実際にイランで生活して、その厳格さを肌身で体験しており、イスラムを理解している人物である。だからこそ、シーア派のイラン人に狙われたのではないかという推測も成り立つ。

五十嵐助教授は『悪魔の詩』の文学性を高く評価し、「あの小説は作品として価値が高いから翻訳を引き受けた」と危険を省みず翻訳したが、ホメイニ師の「死刑宣告」のあとも、地元警察署からの「護衛」の申し出を断り、「(ホメイニ宣告は)もう時効だ」などと言って無警戒の生活を送っていたという。

一部のマスコミは<正義感強い熱血漢><一貫した信頼、使命感><イスラム研究者の無念>と五十嵐助教授を「殉職者」のように祭り上げた。また、日本ペンクラブは、「(凶行が同書の翻訳にかかわるものであるとすれば)国際ペン憲章に掲げられた言論表現の自由に対する重大な脅威、基本的人権に対する恐るべき侵害である」と声明を出した。

1993年(平成5年)1月末、イランのラフサンジャニ大統領は記者会見で、「死刑宣告のファトワ(イスラム法解釈)は宗教上の命令で、発令した本人しか変えることはできない」と発言。ホメイニ師がファトワ発令の4ヶ月後に死去していることから、死刑宣告は撤回できないことを改めて表明した。最高指導者ハメネイ師も、ファトワの正当性を主張するとともに、ラシュディの引き渡しをイギリスに求めた。

これに対し、1990年(平成2年)9月に、イギリスはイランとの外交関係を再開しており、その後、政府としてラシュディの問題に直接かかわることを避けてきたが、ラフサンジャニ大統領の発言を受け、イギリス外務省が初めて同氏を招いて対応を協議した。

この頃、イスラム教国のトルコでは、小説『悪魔の詩』の発売を禁止していたが、同国著作家協会の元会長のアジズ・ネシンらが中心になって出版案を公表した。

2月9日、国連人権委員会で、イギリスのハード外相が一転、「同氏に対する死刑宣告は人権問題」と訴え、イギリス政府として、今後は強い態度で臨む意欲を内外に示した。ラシュディ自身も西側マスコミと、相次いで会見し、「国際社会の対イラン圧力が死刑宣告撤回に不可欠」と各国政府に協力を訴えた。

7月、トルコで行われたトルコ語翻訳者の集会が襲撃を受け、37人の死亡者が出た。

サルマン・ラシュディは、今でも作家として活動を続け、新作も発表している。

2006年(平成18年)7月11日、五十嵐一助教授殺害事件から15年が経ち、公訴時効が成立した。

現在は、死刑になる殺人などの公訴時効は2005年(平成17年)1月1日施行の改正刑事訴訟法により「15年」から「25年」に改正。さらに、2010年(平成22年)4月27日施行の改正刑事訴訟法により公訴時効が廃止されたため、公訴時効が完成することがなくなった。

2022年(令和4年)8月12日昼、サルマン・ラシュディ(当時75歳)が講演のために訪れた米ニューヨーク州西部ショトーカで男に襲われた。その後、ラシュディはヘリコプターで病院に搬送された。容疑者の男はその場で拘束され、ニュージャージー州に住むヘイディ・マタール(当時24歳)と確認された。14日、ラシュディの代理人が声明を出し、ラシュディは「人工呼吸器がはずされ、回復の途上にある」と説明した。

参考文献・・・
『「命」の値段』(日本文芸社/内藤満/2000)
『日本タブー事件史』(宝島社文庫/別冊宝島編集部[編]/2005)
『毎日新聞』(1989年2月15日付/1989年2月16日付/1989年2月20日付/1989年2月26日付/1989年2月27日付/1989年3月8日付/1989年3月23日付/1989年6月5日付/2006年7月11日付/2010年4月27日付)
『朝日新聞』(2022年8月13日付)
『時事通信』(2022年8月13日付/2022年8月15日付)
『文藝春秋』(1991年9月特別号)

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