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杉並一家皆殺し放火事件

1986年(昭和61年)春、R(事件当時29歳)は自分の父親の正之助(事件当時69歳)が経営する東京都杉並区井草(いぐさ)の建設会社の常務取締役で、工事現場に車で向かっていた。そのとき、突然、子どもが路上に飛び出してきた。それを避けようとしてハンドルをきったRは土手を乗り越えて川原に転落、頭を強打する重傷を負った。一時、記憶喪失状態になったが、治って退院した。治療した東京女子医大病院の医師は「症状は逆行性健忘症で、ときどき一時的に記憶がなくなるが、心神喪失ではない。自分の行動は判断できるし、暴力を振るったり、奇行に走ることはない」と言った。Rは仕事に復帰した。

11月1日、Rは泥酔したようにヨロヨロ歩いて杉並署員に職務質問を受けた。だが、名前を忘れていて答えられなかったが、やがて名前と住所を思い出し父親に連絡して引き取ってもらった。

11月8日未明、R宅から出火した。消防車が出動し間もなく鎮火したが、焼け跡から正之助とその内妻の笠井せつ(65歳)、Rの妻の香芳(27歳)、娘の玲ちゃん(2歳)の4人の遺体が見つかった。解剖の結果、4人の死因は絞殺と判明、殺されたあと、放火されたものと見られた。Rの姿はなく、Rの白い乗用車も見当たらなかった。殺人放火の犯人はRの可能性が大きくなった。

また、正之助の預金通帳から270万円が引き出され、会社の預金通帳から500万円など、合計1000万円余りの金が引き出されていたことが分かった。

警視庁は所轄の荻窪署に捜査本部を設置し、Rの乗用車のナンバー、Rの顔写真、肉体的特徴入りの手配書を全国に電送、指名手配した。

11月9日午前10時過ぎ、宮城県警は県下主要道路で交通違反の一斉取締りを行なっていた。仙台市内の検問所の巡査はナンバープレートの端が折れ曲がっていた乗用車を不審に思い、運転免許証の提示を求めたが、持っておらず、落ち着きのない態度に犯罪の臭いを嗅ぎ取り、近くの交番に連行して事情を聞いた。男はRと名乗り4人殺しを自供した。

荻窪署捜査本部の取調べに対し、Rは妻と娘の教育のことで言い争っているうちに激しい口論になり気がつくと妻を絞め殺してしまっていた、とその動機を述べたが、取調官はたかが娘の教育のことでの言い争いで殺人にまで発展するとは信じられず、厳しい追及を続けた結果、Rは次のような自供を始めた。

<前から娘の玲は自分の子ではないのではないか、という疑念を抱いていた。11月3日、自宅の寝室で妻と娘のことで口論となったとき、興奮した妻が「この子は他の男の子よ」と口走った。Rは逆上し、腰紐で絞殺した。そばで寝ていた娘の玲にも憎しみが湧いてきて絞殺してしまった。Rは自分がしでかしたことを後悔し自首を決意した。>

4日夜、階下の父親の正之助に犯行を打ち明けて詫びた。正之助には十数年前、協議離婚した前妻との間に2人の息子がいた。だが、長男は10年以上前、交通事故で死亡して次男のRだけになっていた。父親は冷たい口調で「お前が何をしようと俺には関係ない。大体、お前は俺の子じゃない。母親が浮気して生んだ子だ。ずっと隠してきたのは死んだ兄が知って苦しむのが可哀相だったからだ」と言った。

疑惑を抱いていた娘の出生が口論の最中に明らかになり、その直後、自分の出生の秘密も暴露されて、錯乱したRは果物ナイフで父親を刺し腰紐で絞殺した。別室にいた父親の内妻のせつも絞殺した。秘密を知っていて隠していたのが許せなかった。8日未明、4人の遺体を1階の寝室に集め灯油をふりかけて放火したのだった。

事件後、血液型を調べた結果、Rが正之助の実の子であることが法医学的に確認されている。

東京地裁はRに対し無期懲役判決を言い渡した。検察側が控訴。東京高裁で控訴棄却。検察側は上告せずに刑が確定した。

参考文献・・・
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『実録 戦後殺人事件帳』(アスペクト/1998)

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