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菅野村強盗殺人放火事件

兵庫県飾磨(しかま)郡菅野(すがの)村(現・姫路市夢前[ゆめさき]町)に住む山本宏子(事件当時34歳)は看護婦だったが、結婚とともに退職した。夫は寝たり起きたりの生活。病弱で怠け癖もあった。夫婦には長男(当時8歳)、長女(当時7歳)、次男(当時4歳)、三男(当時1歳)の4人の子どもがいた。宏子は闇商売として農家から米や麦を担いで姫路市内に売りに行ったり、田植えや稲刈りなどの農繁期には近所の農家を手伝った。だが、商売の才能があるわけではなく、やがて商売品の米や麦を口に入れるようになった。預かっていた転売代金の5万円にも手を付け、その穴埋めに高利で借金するようになる。長男の給食代が払えない。借金の返済の催促がくる・・・。

看護婦・・・保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律(改正保助看法)が2001年(平成13年)12月6日に成立、12月12日に公布、翌2002年(平成14年)3月1日に施行された。これにより、保健婦・士が「保健師」に、助産婦が「助産師」に、看護婦・士が「看護師」に、准看護婦・士が「准看護師」となり、男女で異なっていた名称が統一された。

宏子は私生児だった。そのことを不憫に思い、かねてから面倒を見ていた雨宮良男(仮名/当時71歳)という男がいた。宏子はいろんな状況から判断し、良男を父親だと信じていた。良男はこれまで何度か宏子に対しお金を貸したこともあった。宏子は雨宮宅に向かった。そのころ、良男は肺結核を患い、1階の床に伏していた。良男の妻のよね(仮名/66歳)は感染を恐れて2階で生活していた。当時、結核は不治の病と言われ、感染することもあって恐れられていた。

訪れた宏子に対し、よねは借金を断っただけでなく、お金が要るなら体を売ればいいと罵倒した。

その翌日の1949年(昭和24年)6月10日午前1時半ころ、宏子は厚鎌を抱えて雨宮宅の2階に忍び込んだ。1階では良男が熟睡していた。手探りで2階に上がると、よねも熟睡していた。タンスを開けるとよねの娘の結婚衣装があった。そのとき、よねが動いたような気がした。気付かれたと思った宏子は厚鎌を振り下ろした。悲鳴を上げるよねになおも振り下ろし続けた。さらに家の裏庭にあった枯れ枝を2階に運んで火をつけ、現金1万8000円と衣類20点(「101点」となっている参考文献もある)を盗んで逃げ帰った。当時は物のない時代で衣類は貴重でお金になった。

燃え上がる火に気付いて近隣の住人が駆け付けた。良男はこのままここで死にたいと救助を拒んだ。良男は宏子の犯行だと感づいていた。結局、良男は無理やり助け出されたが、火を放ったのは自分だと言い張った。3日後、良男は病状が悪化して亡くなった。

宏子は奪った金で借金を返済したが、これで、よね殺害の犯人が宏子だと分かってしまう。よねは紙幣の一枚一枚に番号を付けていたのだ。

6月13日(「15日」となっている参考文献もある)、宏子が逮捕される。

12月26日、神戸地裁姫路支部で死刑判決。宏子は判決を言い渡されると娘の名前を呼び続けた。

1950年(昭和25年)9月4日、大阪高裁で控訴棄却。

1951年(昭和26年)7月10日、最高裁で上告棄却で死刑が確定した。

こうして山本宏子は戦後初の女性死刑確定囚となった。

やがて、宏子の存在は世間に知られるようになり、法務府(現・法務省)には日本全国津々浦々から助命嘆願書が寄せられた。

収監先の大阪拘置所で宏子は俳句を作るようになった。単なる趣味ではなく、人間として成長させてくれるものがあると理解するようになり、作り続け、その数は千句にもなった。また、壁に貼った阿弥陀如来の写真を見ながら縦2メートルもある大紙に模写したこともあった。

高裁の所在地以外の地裁、簡裁で1審の判決を受けた被告人が控訴になった場合、高裁の所在地の拘置所に被告人として移送される。山本宏子の場合、大阪拘置所になる。さらに、東京以外の高裁(および高裁支部)で判決を受けた被告人で上告になった場合であっても、東京拘置所には移送されずに高裁の所在地の拘置所で刑が確定する。ということで、死刑確定囚となった山本宏子の収監先はそのまま死刑執行場のある大阪拘置所になる。

弁護士の働きかけで子どもが面会にくるのを宏子は直前になって取りやめたりした。

 <入学の母を忘れてくれればよし>

小学校に入学する次男を想って作った俳句には自分のことを忘れてほしいという思いが込められていた。

しかし、次第に宏子の様子がおかしくなっていった。面会に来た弁護士のことが分からず、ひたすら手にした数珠を握り合わせておじぎを繰り返して涙を流す。弁護士から贈られた小菊を赤ん坊のように抱え、枯れても花束を離さない。真冬に裸で水を浴び、夏に窓を閉め切って毛布をかぶる・・・。偏執性拘禁反応と診断され、肺結核にも罹ってしまった。

犯行動機に同情すべき点があり、模範囚で病気が悪化しており、被害者の遺族も恩赦を望んでいるという理由から、1969年(昭和44年)9月2日、山本宏子への恩赦が閣議決定され、死刑から無期懲役へと減刑された。死刑囚への恩赦は戦後初めてだった。

恩赦が閣議決定・・・憲法第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。(1〜7)
1〜6 (省略)
7 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。

恩赦には、大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権の5つがあり、それぞれ恩赦法で定められている。

その後、八王子医療刑務所、和歌山刑務所と服役場所が変わり、1977年(昭和52年)7月29日、刑の執行停止となり、結核予防法(現・感染症予防法)により、奈良県大和郡山市の国立療養所に収容された。

女子刑務所には、札幌刑務所の女区(札幌市)、福島刑務支所(福島市)、栃木刑務所(栃木市)、笠松刑務所(岐阜県羽島郡笠松町)、和歌山刑務所(和歌山市)、岩国刑務所(山口県岩国市)、麓(ふもと)刑務所(佐賀県鳥栖市)、沖縄刑務所(沖縄県南城市)の女区がある。

従来の「伝染病予防法」「性病予防法」「エイズ予防法」の3つを廃止・統合し、1998年(平成10年)、「感染症予防法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)」を制定、1999年(平成11年)4月1日に施行。2007年(平成19年)3月31日、「結核予防法」を廃止。翌日の4月1日、「結核予防法」も統合した。

翌1978年(昭和53年)3月4日、山本宏子が病死した。62歳だった。

参考文献・・・
『女性死刑囚 十三人の黒い履歴書』(鹿砦社/深笛 義也/2011)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)

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