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犯行日とその当時の奥崎謙三の年齢 罪名 量刑 1 1956年(昭和31年)
4月5日36歳 傷害致死 懲役10年 2 1969年(昭和44年)
1月2日48歳 暴行
(昭和天皇パチンコ狙撃事件)懲役1年6ヶ月 3 1976年(昭和51年)
4月25日56歳 わいせつ物頒布
(皇室ポルノビラ事件)懲役1年2ヶ月 4 1981年(昭和56年)
8月20日61歳 殺人予備 書類送検
(不起訴)5 1983年(昭和58年)
12月15日63歳 殺人未遂など 懲役12年 [ 1 ] 1951年(昭和26年)、神戸で奥崎謙三は「サン電池工業所」というバッテリー会社を設立した。1956年(昭和31年)4月5日、奥崎(当時36歳)は以前から店舗を拡大しようとしていたが、この日、不動産業者の延原一男と問題を起こし、延原を傷害致死で死なせてしまった。これで10年の懲役刑となった。
刑法205条(傷害致死)・・・身体を傷害し、よって人を死亡させた者は、3年以上の有期懲役に処する。
1966年(昭和41年)8月、満期出所。
奥崎は獄中で考えた。どう言葉を粉飾しても旧日本陸軍は「天皇」の軍隊であった。人が権力構造から自由であるためには「すべての天皇的なるものから解放されなければならない」――それが一般参賀の日に天皇めがけてパチンコ玉を撃つという行動に連結した。
[ 2 ] 1969年(昭和44年)1月2日、皇居長和殿東庭で一般参賀が行われた。長和殿の修築工事に6年の歳月を要したため、一般参賀は6年ぶりの再開であった。天皇陛下、皇太子、常陸宮様は揃いのモーニング。皇后陛下は洋服に茶のコート。美智子様はブルーのドレス。華子様はピンクのドレスという装い。
午前10時、両陛下と両ご夫妻がベランダに姿を見せると、約1万5000人の参賀者の中から「万歳」の声があがり、日の丸の小旗が揺れた。
奥崎(当時48歳)がバルコニーの前方、約15メートルのところから手製のゴムパチンコで、パチンコ玉3個を立て続けに陛下めがけて撃った。さらに「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て!」と声をあげ、パチンコ玉をもう1発撃った。玉はいずれも陛下の足元付近のバルコニーのすそかくしに当っただけだった。当時、まだバルコニーには防弾ガラスは入っていなかったが、この事件があってから防弾ガラスを入れるようになった。「ヤマザキ」はニューギニアの暗い密林で飢餓とマラリアで次々に戦死していった戦友たちの象徴としての名だった。
奥崎は近くにいた皇宮警察護衛官に、「俺がやった。一緒に行こう!」と叫び、おとなしく同行した。奥崎は逮捕後、病院に収容され精神鑑定を受けた。その後は何回も保釈が妨害され、保釈されたのは1年10ヶ月後だった。
1920年(大正10年)2月1日、奥崎は兵庫県明石市に生まれた。1940年(昭和15年)に召集され、工兵に配属、中国に送られ、1943年(昭和18年)4月、独立工兵第36連隊1200人がニューギニア戦線に送り込まれた。だが、敵の機銃掃射に逃げ惑い、飢餓とマラリアに冒され、原住民の殺戮によって、1194人が次々に死んでいった。食べるものがないという極限状態のなかで、人肉を食べるという凄惨なことまで起きた。日本に帰って来れたのは6人だけだった。その中に奥崎(当時23歳)がいた。奥崎はこのとき右手の小指を失った。
奥崎はニューギニアのジャングルを這いずり回りながら考えた。なんで俺たちはこんな所でこんな惨めな死にかたをしなくてはならないのか。この間、奥崎は人間性を破壊する軍隊内の秩序に抵抗、たびたび上官に反抗している。また、この地で米軍の捕虜になっている。銃殺される覚悟でいたが、その扱いは予想外に穏当なものだった。
そうしたこともあって、「天皇や軍閥政権の代わりに新しい権力者が民衆を苦しめるような悪政をしたならば、死刑を覚悟でその権力者を殺すことが死んでいった兵隊や戦友たちに対する私の義務である」という考えに達する。
しかし、戦後も天皇は生き残り、「誰からも罰せられず」、依然として「民衆の上に君臨」している。奥崎の怒りはそうした「天皇裕仁を許している者(日本人)」にも向けられている。
奥崎は公判で被害者である天皇、あるいは親族、侍従など宮内庁関係者を証人として召喚することを要求したが、受け入れられなかった。
1970年(昭和45年)6月8日、東京地裁で暴行罪で懲役1年6ヶ月の判決。被告、検察側ともに控訴。
刑法208条(暴行)・・・暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
10月7日、東京高裁で同じく懲役1年6ヶ月の判決となったが、未決勾留日数を刑期に算入する期間を増やして、刑の執行を不要とした。奥崎は上告した。
刑法21条(未決勾留日数の刑期算入)・・・未決拘留の日数は、その全部又は一部を本刑に算入することができる。
1971年(昭和46年)4月1日、最高裁で上告棄却で刑が確定した。
[ 3 ] 1976年(昭和51年)4月25日、奥崎(当時56歳)は銀座松屋、渋谷西武、新宿丸井の屋上から裏面に天皇一家のポルノ写真(ポルノ写真に天皇一家の顔をコラージュしたもの)を印刷したビラを約4000枚ばらまいた。このビラには全裸であったり、SMもどきの写真と皇室の顔写真がコラージュされたものが9点使われていた。休日の歩行者天国にまかれたビラは警官の必死の回収作業にもかかわらず、ほとんど持ち去られた(皇室ポルノビラ事件)。
この事件により、わいせつ図画流布の罪名で懲役1年2ヶ月となった。
刑法175条(わいせつ物頒布等)・・・わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。
1977年(昭和52年)、収監中、参院選に全国区から立候補するが、落選。
1978年(昭和53年)4月、満期出所。
1980年(昭和55年)、参院選に全国区から立候補するが、落選。
[ 4 ] 1981年(昭和56年)8月20日、奥崎が『田中角栄を殺すために記す』(サン出版)を刊行。田中角栄に対する殺人予備罪で書類送検(不起訴)。
刑法201条(殺人予備)・・・第199条の罪を犯す目的で、その予備をした者は、2年以下の懲役に処する。ただし、情状により、その刑を免除することができる。
刑法199条(殺人)・・・人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する。(現在は2005年1月1日施行の改正刑法により「3年以上の懲役」は「5年以上の懲役」に改正されている)
1982年(昭和57年)、原一男監督によるドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』クランクイン。
この作品は、日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ映画賞、キネマ旬報ベストテン第1位、読者選出ベストテン第1位、同監督賞、毎日映画コンクール日本映画優秀賞、同監督賞、ブルーリボン賞、日本映画ペンクラブ選出ベストワン、パリ国際ドキュメンタリー映画際グランプリ、ロッテルダム映画祭批評家賞、優秀映画鑑賞会推薦などを受賞した。
1983年(昭和58年)、衆院選に兵庫1区から立候補するが、落選。
[ 5 ] 12月15日、奥崎(当時63歳)は元中隊長で無職の村本政雄(当時71歳)の自宅で、本人が不在のため競艇場警備員で長男の和憲(当時39歳)の左胸を改造したピストルで発砲し、3ヶ月の重傷を負わせた。その理由として、中隊長が脱走兵に対して軍法会議にかけず銃殺してしまったことに対して、奥崎が「責任を取れ。なんで軍法会議にかけなかったんや。かけずに勝手に殺した責任をとれ」と長男との諍いの最中に負傷させた。この事件により、殺人未遂などの罪名で懲役12年の判決。
刑法203条(殺人未遂)・・・第199条及び前条(第202条)の罪の未遂は、罰する。
刑法199条(殺人)・・・人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する。(現在は2005年1月1日施行の改正刑法により「3年以上の懲役」を「5年以上の懲役」に改正されている)
刑法202条(自殺関与及び同意殺人)・・・人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。
1997年(平成9年)8月、満期出所後、ドキュメンタリー映画『神様の愛い奴』(監督・藤原章&大宮イチ)クランクイン。
2005年(平成17年)6月16日、奥崎が老衰で死亡した。85歳だった。
奥崎の著書に、『ヤマザキ、天皇を撃て 皇居パチンコ事件陳述書』(新泉社/1987) / 『ゆきゆきて神軍の思想』(新泉社/1987) / 『非国民奥崎謙三は訴える ゆきゆきて神軍の凱歌』(新泉社/1988) / 『奥崎謙三服役囚考 あいまいでない、宇宙の私』(新泉社/1995) / 『宇宙人の聖書!?』(サン出版/1976) / 『田中角栄を殺すために記す』(サン出版/1981) / 『殺人論』(サン出版/1983)がある。
参考文献・・・
『別冊歴史読本 戦後事件史データファイル』(新人物往来社/2005)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『昭和・平成 日本テロ事件史』(宝島文庫/別冊宝島編集部/2005)
『毎日新聞』(2005年6月26日付)[ 事件 index / 無限回廊 top page ]