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赤衛軍事件

1971年(昭和46年)8月21日夜、埼玉県の朝霞(あさか)駐屯地の機材置き場で、パトロール中の一場哲雄陸士長(21歳)が刺殺された。現場付近に「赤衛軍」と書かれた赤色ヘルメットやアジビラ、腕時計、古新聞などの遺留品があったため、過激派が武器奪取を目的とした犯行と断定した。遺留品のビラには<戦闘宣言>という題で次のようなことが書かれてあった(<>内)。

<われわれ日本共産党と人民の革命的戦闘部隊・赤衛軍は、本日の米軍・自衛隊反革命軍に対する「基地襲撃銃器奪取闘争」を突破口として、圧倒的な非合法遊撃戦に突破したことを、ここにすべての労働者・農民・学生・非抑圧人民に宣言し、全国いたるところに散在している革命的武闘派諸君のわれわれの戦列への結集を呼びかけるものである>

犯人たちは赤衛軍という新左翼過激派集団で、銃器奪取が目的だと分かったが、銃器は奪われていなかった。捜査により、現場に遺留されていた腕時計は品川区大井の古物商の店にあったもので、『朝日新聞』の古新聞は品川を含む都内南部に配達されているものと分かったが、それらの遺留品の捜査から日大グループへとたどり着いていった。

11月19日、赤衛軍のリーダーで日大文理学部の学生の菊井良治(当時22歳)と同じく日大生のメンバーや元自衛隊員が逮捕された。

さらに、その黒幕として京大経済学部助手の滝田修(本名・竹本信弘/当時31歳)が指名手配された。いわゆる「滝田事件」と呼ばれるフレーム・アップ(でっち上げ)事件へと発展した。

菊井良治はそれまでにも京浜安保共闘の幹部と名乗り、週刊誌に手記を売り込むなど、疑問の多い人物であった。今回の供述でもほとんど面識のない人物の名前を数多く挙げ、いかにも接触や指示を受けているように装った。また、「赤衛軍」という名称は新左翼の事件に関する書籍などを読み漁っても、この事件の記述以外で見かけることはなく、事件を起こす目的のために名付けられた実体のない組織にも思える。

滝田修は1940年(昭和15年)2月、京都に生まれ、1964年(昭和39年)、京大経済学部を経て、京大大学院に入学。専攻はドイツ社会思想史。1967年(昭和42年)、助手試験に合格。博士課程を中退し、京大経済学部助手になり、同年暮れ、「ローザ・ルクセンブルクの社会主義運動論」を雑誌『思想』(1968年1月号/岩波書店)に発表。一躍学会の注目を集める。1968年(昭和43年)、若手研究者として将来を嘱望される一方、京大闘争が始まると、助手共闘の立場から参加していったが、この頃から「滝田修」のペンネームで積極的に論文を執筆し、アジテーションに忙しい日が続く。その暴力革命論は全国の全共闘系学生に大きな心情的影響を与えた。その闘争の中でパルチザンを組織して闘った。

ローザ・ルクセンブルク・・・1871年、ポーランド生まれ。ドイツで活躍したマルクス主義の政治理論家・革命家・哲学者。ローザはポーランド王国社会民主党の理論家で、のちにドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党に関わるようになる。ドイツ共産党を創設、1919年1月、ベルリンでドイツ革命に続いて武装蜂起するが、国防軍の残党や義勇軍との衝突で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。

1972年(昭和47年)1月9日、前年8月13日未明の「米軍グラントハイツ強盗予備事件」(元自衛官と日大生の2人が自衛官制服を着用して米軍グラントハイツ正面検問所で銃奪取を図ったが、警備員がピストルを所持していなかったので引き上げたもの)で全国指名手配された滝田はすぐに地下に潜った。「一方的に着せられた身に覚えのない濡れ衣を官憲に対して自ら晴らさねばならない義務はない」として潜行生活を選んだ。また、1日でも多く潜行を続けることはそれだけ警察を失墜させることにつながるとして、1982年(昭和57年)8月8日、神奈川県川崎市で逮捕されるまで10年7ヶ月間(3864日)に渡り、新左翼関係者、シンパなどの支援を得て15都道府県50ヶ所を渡り歩いて潜行を続けた。この間、『只今潜行中・中間報告』(序章社/1974)と題する手記などの出版や新左翼系雑誌などに手記を発表したり、新左翼諸団体の各集会にはメッセージを送ったりした。

刑法237条(強盗予備)・・・強盗の罪を犯す目的で、その予備をした者は、2年以下の懲役に処する。

赤衛軍事件では菊井良治らを匿い、証拠隠滅を謀ったとして、『朝日ジャーナル』編集部記者、『週刊プレイボーイ』記者が逮捕された。

1975年(昭和50年)1月、浦和地裁(現・さいたま地裁/以下同)は菊井良治に懲役18年、他の3人にも有罪判決を言い渡した。

1977年(昭和52年)6月、東京高裁は菊井良治に対し懲役15年に減刑、他の3人も減刑された。

11月、最高裁で上告棄却で菊井良治の懲役15年の刑が確定した。

1980年(昭和55年)6月、滝田修手配容疑の「強盗予備」の時効(時効は3年)が成立する直前、埼玉県警は新たに「強盗致死」(時効は15年)の逮捕状をとったため、時効はさらに12年延ばされた。

死刑になる殺人などの公訴時効は2005年(平成17年)1月1日施行の改正刑事訴訟法により「15年」から「25年」に改正。さらに、2010年(平成22年)4月27日施行の改正刑事訴訟法により殺人、強盗殺人は公訴時効が廃止されたため、公訴時効が完成することがなくなった。

刑事訴訟法254条2項・・・共犯の一人に対してした公訴の提起による時効の停止は、他の共犯に対してその効力を有する。この場合において、停止した時効は、当該事件についてした裁判が確定したときからその進行を始める。

1982年(昭和57年)8月8日、滝田が逮捕される。

1989年(平成元年)3月2日、浦和地裁は一貫して無罪を主張する滝田修に対し、実行犯との「謀議」ではなく、「幇助(ほうじょ)」と認定し、懲役5年を言い渡したが、「浦和拘置所での未決勾留6年7ヶ月(逮捕された1982年8月〜地裁判決1989年3月まで)を刑務所服役5年とみなす」と認定されたため、その場で釈放された。その後、弁護側が控訴したが、丸3年、裁判は開かれなかった。

刑法60条(共同正犯)・・・2人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする。

刑法62条(幇助)・・・正犯を幇助した者は、従犯とする。

刑法21条(未決勾留日数の本刑算入)・・・未決勾留の日数は、その全部又は一部を本刑に算入することができる。

12月、滝田がかつての革命の非を認め、『滝田修解体』(世界文化社/たけもとのぶひろ)を刊行。

1992年(平成4年)7月21日、東京高裁で滝田修の弁護側の控訴棄却。

1996年(平成8年)3月、滝田はテレビ番組制作会社を経て、映像制作会社を設立。

滝田修(竹本信弘)の著書・・・
『ローザ・ルクセンブルク論集』(情況出版/共著/1970) / 『只今潜行中・中間報告』(序章社/1974) / 『わが潜行4000日』(三一書房/1983) / 『ならずもの暴力宣言 滝田修評論集』(芳賀書店/1971) / 『昔の名前で出ています 滝田修評論集』(新泉社/1982) / 『滝田修解体』(世界文化社/たけもとのぶひろ/1989) /
『泪の旅人 ならず者獄後記』(明月堂/たけもとのぶひろ/2001)

参考文献など・・・
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『泪の旅人 ならず者獄後記』(明月堂/たけもとのぶひろ/2001)
『潜行 滝田修と赤衛軍の幻』(流動出版/穂坂久仁雄/1981)
『1970年の狂気 滝田修と菊井良治』(文藝春秋/福井惇/1987)
『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』(平凡社/復刻版/川本三郎/2010)
『毎日新聞』(2010年4月27日付)

滝田修の活動を撮影したドキュメンタリー映画に『パルチザン前史』(監督&編集・土本典昭/製作・小川プロダクション/モノクロ/1969)がある。

他には、書籍と同名タイトルで映画化された作品『マイ・バック・ページ』(DVD/監督・山下敦弘/出演・妻夫木聡ほか/2011)がある。

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