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青酸コーラ無差別殺人事件

1977年(昭和52年)1月4日午前0時、新幹線ビュッフェで働く従業員の男女の6人が、この日の仕事を終えて、品川駅から歩いて5分ほどのところにある会社の寮に戻るところだった。

駅前の第1京浜国道を横断し、そこから約200メートル南の港区高輪4丁目のスケートセンターわきの電話ボックスの前を通りかかったとき、女の子の1人がボックスの下に10円玉が落ちているのを見つけた。ボックスの中折れドアを押し開くと、コカコーラの普通サイズびん1本が床に転がっているのに気付いた。

コーラは最近では缶容器が主流になっているが、当時はまだびん容器全盛だった。普通サイズは190ミリリットル。

転がっていたとはいえ、栓もしてあり、誰かが、電話しながら忘れていったのだろう。「ラッキーだな、拾っていけよ」という仲間の声に、女の子は「私、コーラは飲みたくないから」と一番若いアルバイト高校生の檜垣明(16歳)にコーラを渡した。

檜垣明は、京都市に住む府立洛東高校1年生で、父親が国鉄(現・JR)職員ということもあり、冬休みを利用して新幹線内食堂の会社で、12月30日から、東京〜大阪間でビュッフェのボーイとしてアルバイトしていた。

午前0時15分ころ、6人は寮に着き、めいめいに入浴したあと、午前1時ごろから2階の娯楽室に数人が集まってビールで乾杯した。明はビールを飲み終わったあと、隣りの食堂に置いていたコーラを取りに行き、栓を抜き、一気に飲もうとした。

「このコーラ、腐ってる」

明は口に含んだコーラを吐き出し、水道の水で口をすすいでいたが、コーラを口にして5分くらいで、突然、倒れた。両こぶしを握ったままうつ伏せに倒れた明は、すでに意識不明の状態に陥っていた。

すぐに、救急車を呼んで、近くの品川総合病院に運ばれ、気管支を切開して、胃洗浄をするなどの処置を施したが、明は午前7時半過ぎに死亡した。検死の結果、体全体はピンク色に染まり、青酸中毒死特有の症状が見られた。

110番通報を受けた高輪署では、コーラびんを警視庁科学検査所に送って毒物鑑定を行った。その結果、びんからは青酸反応を検出した。

午前8時15分ころ、明たちが青酸コーラを拾った電話ボックス(以下・第1現場)から、第1京浜国道を約600メートル北へ行った歩道上に、作業服姿の中年男性の菅原博(46歳)が倒れているのを、近くの会社員が発見した。110番通報で近くの病院に運ばれたが、すでに死亡していた。

菅原博は、下関市出身。戦争が激しくなった頃、山口県厚狭(あさ)郡に疎開し、地元の農芸高校を卒業したあと、父親の林業を手伝っていたが、厳しい父と折り合いがよくなかった。30歳で離婚した後、窃盗で2度逮捕されるが、起訴猶予と執行猶予で実刑には至らなかった。その後、故郷を離れ岡山で寸借詐欺事件を起こし、その任意の取調べ中に逃げ出して以来、13年間消息不明だったが、4日の訃報でその消息が家族に知らされることになった。菅原の身元が判明したのは、皮肉にも以前逮捕された際に取られた指紋のおかげであった。

この遺体には外傷はなく、所持品も現金25円とショルダーバッグにドリンク剤とタオル1本が入っていただけだったため普通の “行き倒れ” として都監察医務院に運ばれた。行き倒れ人の場合は通例、行政解剖される。ところが、遺体から青酸反応が出た。

警視庁が改めて、菅原が倒れていた港区高輪3丁目付近の歩道(以下・第2現場)を調べたところ、遺体があった場所にはコーラを吐いた跡があり、そこから約100メートル離れた電柱の下に、栓のない中身が減って7分目ほど残っていたコカコーラの普通サイズびんがあった。

近くのガードレールには、コーラの栓を引っかいて開けたらしいキズがついていた。さらに、コーラがあった電柱から約10メートル先の公衆電話ボックス内には、コーラをこぼした跡が残り、電話ボックスと電柱の間にはコカコーラの王冠が2個落ちていた。このいずれからも、青酸反応が検出した。

警視庁はまだ、他にも毒入りコーラがばらまかれている可能性があるとみて、近隣署の警官を動員して辺り一帯を捜索した。

午後0時50分ころ、第1現場から約600メートル離れた品川区北品川1丁目の永谷商店前の赤電話の棚(以下・第3現場)に、栓のついた普通サイズのコカコーラが放置されているのを品川署員が発見。鑑識の結果、中からはかなり強い青酸反応を検出した。

品川署員がこのコーラを発見する直前、永谷商店の裏に住む中学3年生のAは、祖母からお使いを頼まれて店の前に出ると、赤電話の台の棚にコーラが置いてあるのに気がついた。丁度、のどが渇いていたので手にしようとしたが、コーラの上の方が普通のものより、少し色が薄くて変に思ったことと、お使いに遅れるので、戻ってきてから家に持ち帰って飲もうと思っていた。10分後、お使いから戻ると、すでに捜査員が来ており、Aはそのコーラが毒入りであることを知る。

実は第1現場でもこれと似たようなことがあった。死亡した明が青酸入りコーラを拾う50分ほど前の3日午後11時10分ころ、現場近くに住む中学2年生のBが、長野にスキーに行った帰り道で友達に電話しようと、電話ボックスに入り、友達と話しをしているとき、床にコーラが転がっているのに気が付き、電話をしながら拾い上げた。そのとき、「プシュ」という軽い音がして栓の隙間からコーラが少し漏れ、親指と人差し指を濡らした。彼はこの人差し指をペロリとひと舐めした。苦味があった。簡単に栓が取れそうなので、おかしいと思い、いったんは飲むつもりだったコーラをまた床に横倒しにした。

警視庁科学検査所で、コーラに含まれていた青酸化合物を分析した結果、毒物は青酸ナトリウムであることが判った。青酸ナトリウムは「毒物及び劇物取締法」に指定された毒物で、正式にはシアン化ナトリウム、俗に青酸ソーダとも呼ばれる。青酸カリウム(青酸カリ)同様に、人間の致死量は0.15〜0.2グラムと毒性が強い。一般には入手しにくいが、金、銀、亜鉛などの冶金(やきん)やメッキには欠かせない薬品で、犯行現場付近から川崎・横浜にかけての工場街にはメッキ工場も多数ある。

第1現場と第2現場が面した第1京浜国道沿いには、高輪プリンスホテルやホテル・パシフィックが並び、その裏手に当たる西側は昔からの高級住宅街になっている。一方、海岸寄りの第3現場は、下町風情を残す入り組んだ町並みであった。3つの現場は品川駅から半径300メートル以内の範囲にある。

付近の住民らの目撃証言から、第1現場のコーラは、3日午後7時半〜午後8時に置き、それから第2現場の電話ボックスに仕掛けようとするが、何らかの理由でこぼれてしまい、4日早朝に再セットし、それから第3現場の赤電話に仕掛けた、ということが判った。

第1現場のコーラは、残量が少ないため、正確な分析結果は出なかったが、明が口に含んですぐ吐き出したにもかかわらず死亡しているため、致死量の0.15グラムを上回っていることは間違いない。

第2現場のコーラ(菅原が飲んで死亡)は、7分目ほど残っていたが、全量残っていたと換算して1.4グラムと致死量の約10倍を検出。

第3現場のコーラ(警察のよって発見され被害者なし)は、なんと、致死量の60倍近い約9グラムの青酸ナトリウムを検出した。

さらに、その後の調べで、犯人が第1現場付近で1ヶ月半も前から 「テスト」を繰り返していたという見方を強めた。場所は品川駅前の「ざくろ坂」。前年11月中旬から犯行当日の1月3日まで、この坂の植え込みの中や歩道の縁石、電話ボックス内などに、中身の入った普通サイズのコーラびんが置いてあるのを十数人が目撃していた。しかも、置きっぱなしというのではなく、数日経つと5〜10メートルずつ場所を移動させていた。これらのコーラは、被害が出ていないため、青酸ナトリウムが混入されていたかどうかは不明。

前年の12月20日は、小学生ぐらいの子どもが、植え込みの中のコーラを拾い、飲もうとしたところで、歩道に落として割っているところを会社員が目撃しているが、2日後には同じ場所に、新しいコーラが置かれていたことが判った。あたかも補充されたかのようである。

放置されたコーラに対して、通行人がどのような反応を示すかを調べようと、テストを繰り返していたことが考えられた。

犯人の有力な手掛かりになるのは、残されたコーラびん3本と王冠4個だが、指紋は残されていなかった。王冠にはいずれも「T」の記号が入っており、これは東京都東久留米市内の東京コカ・コーラボトリング会社多摩工場製であることを示していた。

第1現場のコーラの王冠には「709」の数字があり、前年の1976年(昭和51年)10月中旬の製造を意味していた。第2現場の2個の王冠には「706」の数字があり、同9月下旬、第3現場は「702」で同8月下旬の製造で、900万本のうちの4本であることが判った。

製造されたコーラは遅くとも2週間以内に店頭に並び、製造から2ヶ月以内には売り切るように小売店を指導していたという。

だが、捜査はここで行き詰まってしまった。

1月8日付の『朝日新聞』夕刊に、犯人を推理している記事がある。

一つは、犯人は社会的に恵まれず、日ごろの不満を歪んだ形で爆発させたという見方。世間一般が1年中で最も華やいだ気分になる正月早々を犯行時期に選んでおり、この事件の数年前に流行した、晴れ着に硫酸や塩酸をかけるといういたずらと共通した心理がある。

もう一つは、猛毒性の青酸ナトリウムを偶然手に入れた犯人が、その毒性を試したくて、実験したという見方。

年齢は若者に人気のあるコーラを使っていることから、中年以下、それも若者の可能性が強い。

青酸ナトリウムは、メッキ、印刷、写真製版、金属の焼き入れやサビ落し、塗色、殺虫剤、パチンコの玉洗いなど用途が広く、これらの工場で働いていたり、かつて働いていたことがある者の可能性もある、としている。

1992年(平成4年)1月4日、事件から15年が経過し、時効が成立した。

現在は、死刑になる殺人などの公訴時効は2005年(平成17年)1月1日施行の改正刑事訴訟法により「15年」から「25年」に改正。さらに、2010年(平成22年)4月27日施行の改正刑事訴訟法により公訴時効が廃止されたため、公訴時効が完成することがなくなった。

ちなみに、「愉快犯」という言葉はこの青酸コーラ事件から生まれたらしい。「愉快犯」といえば、この青酸コーラの事件が起きた頃、「“火曜日の放火魔”事件」が起きている。1976年(昭和51年)11月から3ヶ月に渡り、東京都新宿区の盛り場34ヶ所で放火事件が発生していた。必ず月曜の夜から火曜の未明にかけての出来事なので、テレビの中継車が出て、火の手を待つという騒ぎになった。翌1977年(昭和52年)2月1日火曜日未明、放火現場を張り込み中の機動隊員に、34件目でついに逮捕された。犯人は長沢重治(当時31歳)で理容師だった。「私は同性愛者です。歌舞伎町のサウナや新宿2丁目のスナックでいい相手が見つからないと面白くなかった。火が燃えると、野次馬やマスコミが騒ぐから気分がすかっとした」と犯行の動機を供述した。犯人の長沢は姉4人の中に末っ子の長男として育った。借金をつくった父親が小田急線に飛び込み自殺を図った後、世田谷区祖師谷の理髪店を継いだ。定休日の月曜日になると、夜の新宿に出かけては朝帰りをしていた。新宿で放火をする前に自宅周辺で14件の犯行を重ねていたことも明らかにした。人付き合いの苦手な性格で近所でも目立たない存在だった。27歳のときに見合い結婚したが、妻の体には一度も触れずに3ヶ月で離婚した。その後、男の裸体を物色しに新宿2丁目や歌舞伎町のサウナに出没するようになった。裁判で長沢に懲役10年の判決が下った。青酸コーラの事件が起きた同年1月4日の火曜日未明にも、歌舞伎町で7軒が火事で全半焼したが、これも長沢の仕業だった。

東京で、青酸コーラ事件発生以来、懸命の捜査は進められていたが、今度は大阪府藤井寺市で、これと似た手口の不可解な結末を迎えた事件が発生する。(↓)

[ 大阪青酸コーラ事件 ]

東京での事件発生から1ヶ月余りが経った、1977年(昭和52年)2月13日午前6時20分ころ、菓子運送会社の運転手のC(39歳)は、出勤途中にタバコを買おうと会社の数百メートル手前にある酒屋に立ち寄り、自動販売機でハイライトを買ったが、販売機の上にびん入りコーラが置いてあるのに気づき手に取った。2メートルほど横の公衆電話の台に、もう1本あったが、これは8分目しか入っていなかったため、誰かの飲み残しだと思い手を付けなかった。

拾ったコーラを持って、仕事先の菓子会社の流通センターへ向かう。同僚たちは「そんなん飲んだらあかん。何か入っているかもしれへんで」と忠告したが、Cは「一口飲んだけど大丈夫や」と、表に出て残りのコーラを一気に飲み干した。

そのまま、少し歩き出したところで、急に気分が悪くなったCは、事務所のシートに横になると、「手がしびれる」「寒気がする」と口走り、驚いた同僚は救急車を呼んで、午前7時半ごろ、病院に担ぎ込まれた。点滴などの応急処置を受け、約1時間後には意識を回復した。このとき、病院側はCが体調を崩したか、腐ったコーラに当たったか、という程度の判断を下している。

Cは付き添った同僚2人に気になることを言った。

「酒屋の公衆電話のところに、もう1本コーラがあった」

2人は車を飛ばして会社近くの酒屋へUターン。電話台のすみに中身が8分目ほど入ったコーラを見つけた。はめていた手袋のままコーラを手に取り、手で王冠を引っ張ると簡単に栓が開いた。

「これは、東京で騒ぎになっとるのと同じかも・・・、大変や!」

羽曳野(はびきの)署でこのコーラとCが飲んだコーラを分析したところ、毒物反応は出なかった。念のため、大阪府警科学捜査研究所に送って分析した結果、青酸反応を検出した。

聞き込み捜査の結果、問題の酒店にコーラが仕掛けられたのは、同日の午前6時からCがコーラを見つけた午前6時20分のわずか20分の間だったことが分かった。

C 「東京の事件は知っていたけど、コーラびんを見たときは思い出しもしなかった。2、3日前には子供に ”変なコーラを飲むな” と注意したばっかりなのに・・・・・・、不細工な話しや。関係ない人間を巻き込むなんて無茶苦茶や。自分でも防衛せないかんと分かっていたのに。かっこ悪い、かっこ悪い」

Cは事件から3日後の16日に退院した。17日正午過ぎ、捜査本部では改めてCに事情を訊こうと捜査員がCの自宅を訪ねた。

玄関先で応答がないことに不審を抱いた捜査員が家の中に入ると、Cは2階の居間で階下の台所のガス管からホースを引き、頭からビニール袋をかぶって倒れていた。捜査員からの連絡で救急車が呼ばれたが、すでにCは死亡しており、家族が全員出掛けて留守の間にガス自殺したものと断定された。遺書らしきものは残されていなかった。

Cは妻に「こんな騒ぎになって恥ずかしい」としきりに漏らしていたらしいが、自分のうかつさを思い余っての自殺とは思えない。

[ Cの疑問点 ]

(1)Cがコーラを持ち歩いているところは同僚が見ているが、実際にCがコーラを飲んでいるところを誰も見ていない。病院での臨床尋問でも、「現場で一口飲んだ」とか「会社の栓抜きで開けて飲んだ」など供述が変わっている。

(2)東京での事件をよく知っており、子供にも「拾ったコーラは飲むな」と注意したばかりなのに、あえて自分が飲むのは不自然。

(3)救急車で病院に運ばれたとき、自分で歩いて診察室に入っており、血圧や脈拍ともに、正常だった。Cの体には青酸中毒特有の血球異常やチアノーゼ反応もなく、医師も毒物の中毒とは考えられず、問診の結果から肝機能の低下と診断して点滴3本という治療しかしていない。その1時間後に回復の兆しを見せており、むしろ、青酸コーラの被害者と分かって病院側が首を傾げたという。

そのほかにも、多少の借金があったこと、前年まで大阪のクギ販売会社に勤め、メッキ工場に知り合いがいることなども判明したが、何よりも家族仲がいいCが “青酸コーラ事件の被害者を自作自演する” という動機がなかった。なんとも不可解な事件であった。

さらに、この大阪での青酸コーラ事件のあった日の翌日の2月14日に、今度は再び、東京で事件が発生する。(↓)

[ 青酸チョコレート事件 ] 

1977年(昭和52年)2月14日(バレンタインデー)、東京駅の地下にある八重洲地下街の南端の階段通路にグリコのアーモンド・チョコレート40箱が入ったショッピング袋を会社社長が発見し交番に届けた。

このチョコレートは10日間保管されたが、落とし主が現れなかった。食品の落し物の場合はメーカーで換金して6ヶ月後に拾い主に渡すのが慣例になっているため、24日に江崎グリコ東京支店に引き渡された。

同支店で調べたところ、どの箱もセロハンを切って貼り直したあとがあり、箱のフタにあるロット番号(製造番号)がすべて切り取られていた。不審に思った同支店では、25日、大阪の江崎グリコ本社・中央研究所に送って検査を依頼した結果、40箱すべてから1箱につき1粒ずつ、致死量にほぼ達する青酸ナトリウムを検出した。そのうちの1箱の中箱の裏にはカタカナのゴム印を使って、<オコレル ミニクイ ニホンシンニ テンチュウヲ クタス>という文字が記されていた。・・・「おごれる醜い日本人に天誅を下す」を意味する濁点のない「犯行声明文」であった。結局、青酸コーラ事件との関連性も判らないまま迷宮入りになってしまう。

さらに、またもや意外な事件が発生する。(↓)

[ 「青酸」男ハイジャック事件 ]

1977年(昭和52年)3月15日の午後1時半ころ、横浜市鶴見区内のメッキ工場で、工業用青酸ナトリウム20グラムが騙し取られる事件が起こる。白衣を着た男は、横浜市の公害対策局水質検査員「森一道」の名刺を出し、「お宅で工業用の青酸ナトリウムを扱っていますね。検査します」と告げた。一連の青酸混入事件でメッキ工場への立ち入り検査が厳しくなっていたため、メッキ工場の社長は男の言葉を信用して、青酸ナトリウムの錠剤を見せ、求められるままに工場の施設を案内して説明していた。

そこへたまたま得意先からの電話が入り、社長は席を外した。電話が終わって戻ってみると、男の姿がなく、男に手渡して見せていたはずの錠剤型をした20グラムの青酸ナトリウム1個もなくなっていた。社長が横浜市公害対策局に電話で問い合わせると、名刺の「森一道」という人物はいないという返事だった。驚いた社長は鶴見署に届け出た。

2日後の17日、北の空を舞台に奇異な事件が発生した。一日に2件もハイジャック未遂事件が起きたのである。最初のハイジャックは午後1時ごろだった。千歳空港から仙台空港へ向かっていた全日空ボーイング727型機(乗員・乗客43人)が青森県下北半島上空を飛行中、若い男がスチュワーデスにジャックナイフを突きつけた。しかし、乗客の協力ですぐに取り押えられた。男は東京教育大(現・筑波大学)哲学科を中退した無職の27歳で、ノイローゼ気味。犯行の動機は「外国に行きたかった」というものだった。

スチュワーデス・・・1997年(平成9年)6月18日に改正、1999年(平成11年)4月1日に施行された男女雇用機会均等法により、現在、求人誌などの募集欄では「スチュワーデス」(Stewardess)などの偏った性別の表現ができなくなり、「フライトアテンダント」(Flight Attendant)や「客室乗務員」という名称に変更されている。現在では、他にCA(シーエー)あるいは「キャビンアテンダント」(Cabin Attendant / 和製英語)、「キャビンクルー」(Cabin Crew)と呼ばれることが多い。

もう1件は午後6時半過ぎだった。羽田発仙台行きの全日空ボーイング727型機(乗員・乗客180人)が離陸して2分後、若い男がスチュワーデスにピストルのようなものを突きつけ「俺はハイジャックだ。機内アナウンスしろ」と要求した。このアナウンスでハイジャックを知った機長は、男が具体的な要求をしてこないため、ハイジャック信号を出すとともに羽田空港へ引き返し、午後6時44分に着陸した。

男は舞い上がっていたのか、着陸したことにも気づかず「東京と仙台の間を燃料がある限り飛び続けろ」などと要求し始めたが、まもなく羽田空港に戻ったことを知ると、機内前部のトイレに逃げ込んだ。午後7時15分、空港署の捜査員が機内に突入してトイレに踏み込むと、男は壁にもたれかかってぐったりしていた。乗り合わせた医師が診察すると、男はすでに死亡しており、男の吐いたものや唾液、機内の配膳カウンターに男が置いたと見られる小びんから強い青酸反応を検出した。ハイジャックに失敗したため青酸化合物で自殺したものと見られた。その後、男の身元は東京都葛飾区柴又生まれの暴力団員O(26歳)と判明した。

19日夜、Oが宿泊していた横浜市中区の簡易宿泊所を家宅捜査したところ、鶴見区のメッキ工場から盗んだ青酸ナトリウムの残りを発見した。同工場の社長らが首実検したところ、横浜公害対策局と偽った白衣の男と同一人物であることが確認された。一連の青酸混入事件とOの関連が疑われたが、犯行当日にはアリバイがあり、関連はないという結論になった。青酸ナトリウム詐取とハイジャックの目的ははっきりしなかった。

参考文献・・・
『迷宮入り事件』(同朋舎出版/古瀬俊和/1996)
『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社/鎌田忠良/1989)
『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)

『新潮45』(2002年6月号)
『毎日新聞』(2010年4月27日付)

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