[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

力道山刺殺事件

1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビ局が放送を開始し、8月28日、続いてNTV(日本テレビ)が放送を開始した。それに合わせて、早川電機(現・シャープ)から白黒テレビ第1号が発売されたが、14インチ型が17万5000円もした。大卒の初任給が5000円くらいの時代であったから庶民が気軽に買えるほどテレビは安くはなかった。

この頃は、「街頭テレビ時代」と呼ばれ、駅前広場などに<朝日ビール提供>などと書かれたテレビ受像機が設置され、人々はそこに集まって高校野球の実況中継やプロ野球ナイターの中継を観た。

1954年(昭和29年)2月19日、NHKと日本テレビは「力道山・木村政彦×シャープ兄弟」の世界タッグ選手権試合を中継。外人レスラーを空手チョップで倒す力道山に人気が集まった。外人レスラーが何度も反則をするのに対して、力道山は大人しい風貌で、決して反則をしなかった。こういう演出がウケて、国民的英雄扱いを受けた。

「街頭テレビ時代」を経て、テレビのある家に近所の人々が集まって観る「近隣テレビ時代」になる。その後はどこの家にもテレビがある「お茶の間テレビ時代」になるのである。

1959年(昭和34年)4月1日、この日に開局したテレビ局は8社もあった。それは4月10日に行われる当時の皇太子(明仁平成天皇)成婚パレードに間に合わせようとしたためであった。2人にあやかって、この日に挙式したカップルは約2万組あったという。この年、1年でテレビ受像機の台数は2倍の200万台に増えた。

4月10日午後2時36分、約73万人の観衆が見守るなか、成婚パレードは二重橋を出て祝田町方面に向かっていた。そのとき、グレーのジャケットを着た少年(当時19歳)が皇太子夫妻の馬車をめがけて、こぶし大の石を投げ、さらに駆け寄って馬車に乗り込もうとした。少年は直ちに暴行現行犯で逮捕された。このハプニングは、生中継でそのまま報道された。逮捕後、少年は「東宮御所の新築に2億3000万円の税金を使ったと聞き、憤慨した。結婚式のバカ騒ぎも面白くない。2人をひきずり降ろして、メチャメチャにしてやろうと思った」とその動機を供述した。少年は東京都杉並区に住む大学浪人生だった。地元の長野県の伊那北高校卒で同志社大学の受験に失敗し、ガソリンスタンドでバイトしながら勉強していた。事件後、未成年だったので2年間の保護観察処分になり、故郷の長野県長谷村に帰された。「不敬罪」というものがなくなった以上、石を投げたくらいでは「身柄保護」の対象にはならないということで、警察は苦しい口実を考え、少年を「精神分裂病」ということにしたという。6月4日夕刻、石原慎太郎は長野市での講演(その2年前の一ツ橋大学の学生のとき『太陽の季節』で芥川賞を受賞していた)を終えて宿に戻ったが、しばらくして、「投石少年」が宿屋を訪ねてきた。「投石少年」は自分の気持ちを誰かに解かってもらいたいということで石原を訪ねたらしいのだが、結局、宿の応接室で石原と会話することになった。このときの会話が『文藝春秋』(昭和34年8月号)に「あれをした青年 四月十日、皇居前で私はなぜ石を投げたか」と題して記載された。石原はこの会見記で少年が話した通りの会話を忠実に再現している。その後、「投石少年」は再び上京。ある建築関係の会社に就職したが、数日後に刑事が訪ねてきたという。居づらくなり、職を変え転居した。だが、また、刑事が訪ねてきた。周りの人の態度も変わる。また住居を変え、職については前歴などを詮索しない水商売の世界へ入った。バーテン見習いからバー1軒まかされるマネージャーになったという。

刑法73条から76条までは皇室に対する罪を規定しており、73条が大逆罪、74条が不敬罪、75条と76条が天皇の家族の保護に関する規定であった。だが、憲法14条の「法の下の平等」に反することから、1947年(昭和22年)10月26日に改正、11月15日の施行により、73条から76条まで削除され、皇室に対する罪も一般の罪として処罰されるようになったのである。ちなみに、このときの刑法改正により姦通罪も削除された。同じく11月15日に施行された。

刑法・皇室ニ対スル罪

73条 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ
危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス
74条 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ
不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役に処ス
(2)神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタル者亦(また)同シ
75条 皇族ニ対シ危害を加ヘタル者ハ死刑ニ処シ
危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ処ス
76条 皇族ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ
二月以上四年以下ノ懲役ニ処ス

皇后=天皇の正妻、皇太后=先代の天皇の皇后、太皇太后=先々代の天皇の皇后、皇太子=次代の天皇になるべき皇子(通常、天皇の長男)、皇太孫=皇位継承権をもつ天皇の孫

1923年(大正12年)12月27日午前11時少し前、当時日比谷公園の角にあった帝国議会の開院式に臨席するため摂政宮(当時、皇太子であった裕仁昭和天皇)がお召車で虎の門を通過するとき、共産主義テロリストの難波大助(当時26歳)がステッキ銃で車の中の皇太子に発砲した。この事件を「虎ノ門事件」というが、銃弾はわずかに皇太子の顔をそれ、難波はその場で現行犯逮捕された。1923年(大正12年)関東大震災で大被害を被り、以前から反動が強まっていた朝鮮人や無政府主義者のせいにされた。左翼仲間や朝鮮人のリンチがあり、難波は皇太子を暗殺して仕返しをしてやろうと考えた。逮捕されてすぐに難波は精神異常であったと発表されたが、のちに公表された文書ではそれはウソで動揺した民衆を落ち着かせるためのものだった。裁判は非公開で行なわれ、1924年(大正13年)11月13日、死刑の判決が下され、2日後に処刑された。1921年(大正10年)から1940年(昭和15年)の間、日本では暗殺が多発したが、左翼による暗殺はこの事件だけだと言われている。この事件で左翼への弾圧が強まり、1925年(大正14年)に共産主義者と疑わしい者を検挙し、裁判をせずに拘束することを官憲に認める治安維持法が成立した。

「精神分裂病」という名称は “schizophrenia”(シゾフレニア)を訳したものだが、2002年(平成14年)の夏から「統合失調症」という名称に変更されている。

1960年(昭和35年)9月10日、テレビ各局がカラーテレビ放送を開始した。

1963年(昭和38年)5月24日、日本テレビで放送された「WWA世界選手権 ザ・デストロイヤー×力道山」がビデオ・リサーチ社による調査で高視聴率番組の現在の歴代5位(64.0%)となっている。ちなみに、歴代1位は、同年12月31日、NHK総合で放送された第14回紅白歌合戦(司会・江利チエミ&宮田輝)でその視聴率は81.4%。

11月22日(日本時間23日)、通信衛星による日米間のテレビ宇宙中継が成功。アメリカからの第一報は、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺というショッキングなニュースだった。

12月8日午後11時10分ごろ、力道山こと百田(ももた)光浩(39歳/41歳説もある)が東京・赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」(1989年、閉店)で、住吉連合系暴力団の大日本興業組員の村田勝志(当時24歳)に登山ナイフで腹を刺された。1週間後の15日、腹膜炎から腸閉塞を併発し死亡した。

関連書籍・・・『東京アンダーナイト “夜の昭和史”ニューラテンクォーター・ストーリー』(廣済堂出版/山本信太郎/2007) / 『赤坂ナイトクラブの光と影 「ニューラテンクォーター」物語』(講談社/諸岡寛司/2003)

この事件があった1ヶ月余り前の11月1日、それまで、「聖徳太子」の図柄だった千円札に換わり、「伊藤博文」の図柄の新千円札が登場した。千円札は、1950年(昭和25年)1月から「聖徳太子」の図柄で登場したが、同年4月にはニセ札が現れた。これが<チ・1号事件>、「チ」は「千」をもじったもので警察関係者のコードナンバーのことだが、それ以降、次々にニセ札が現れた。1959年(昭和34年)7月、「聖徳太子」の顔が真っ黄色なため「黄ダン千円札」の異名で呼ばれ、東京で31枚発見されたのが26番目で<チ・26号事件>、1961年(昭和36年)12月7日、日銀の秋田支店で発見されたのが37番目で<チ・37号事件>である。この37号のニセ札はかなり精巧で、警察もやっきになった。ニセ札発見者に3000円の謝礼、有力情報提供者には1万円を出すと発表した。全国銀行協会なども100万円の懸賞金をつけるという騒ぎになった。だが、ついに犯人を捕まえることができず、それならば、この際、「聖徳太子」を「伊藤博文」に切り換えて、新千円札を出そうということになったのである。1973年(昭和48年)11月3日、<チ・37号事件>は時効が成立した。

十円札のニセ札に対するコードナンバーは「伊」(もしくは「い」)、百円札の場合は「呂」(ろ)、五千円札の場合は「利」(り)、一万円札の場合は「和」(わ)と呼ばれている。

「力道山」と「伊藤博文」とは何の関係もなさそうだが、韓国の新聞はこの2つのことを大きく報じた。「高度経済成長の気運に乗った日本は、またしても日帝時代の気分になって、朝鮮総督だった侵略主義者の伊藤博文を千円札に登場させたり、韓国人である力道山を刺したりしたのではないか」と。

また、刺されたのは、12月8日で、「大東亜戦争」勃発の日だったこともあって、なおのこと、韓国人の人々の感情を逆なでした。

力道山は、韓国名を金信洛(キムシンラク)といった。プロレスラーとしてだけではなく、興行師としても辣腕をふるい、リキ・スポーツパレス、クラブ・リキ、リキ・アパートメントなどを経営する実業界の英雄でもあった。1963年(昭和38年)1月、力道山は韓国に飛んで韓国の英雄として迎えられ、6月にはホテル・オークラで、元日航国際線スチュワーデスの田中敬子(当時21歳)と豪華な結婚式を挙げた。

スチュワーデス・・・1997年(平成9年)6月18日に改正、1999年(平成11年)4月1日に施行された男女雇用機会均等法により、現在、求人誌などの募集欄では「スチュワーデス」(Stewardess)などの偏った性別の表現ができなくなり、「フライトアテンダント」(Flight Attendant)や「客室乗務員」という名称に変更されている。現在では、他にCA(シーエー)あるいは「キャビンアテンダント」(Cabin Attendant / 和製英語)、「キャビンクルー」(Cabin Crew)と呼ばれることが多い。

だが、性格は凶暴で、少しでも不満があると、リング外でも傍人に空手チョップを見舞った。

<力道山また暴れる>

この見出しは、昭和30年代、38年に彼が暴力団に刺されて死ぬまで、毎年のように12月の暮れも押し迫る頃になると三面記事の片隅に現れていたという。

赤坂の「ニュー・ラテン・クォーター」は、アメリカ人のテッド・ルウインの経営だった。ルウインは、フィリピン・マニラの暗黒街で「リベラルクラブ」という賭博場を経営していた国際賭博の大ボスで、モーリス・リプトンという札つきの子分を連れて、戦後の日本に貴金属商と称してやってきた。ルウインは、1952年(昭和27年)の夏、銀座の「マンダリン・クラブ」などを本拠に、モナコさながらの国際賭博を開帳し、芸能人などを集めて派手にやっていたが、警視庁の手入れを受けた。ルウインは、マニラに逃げ、しばらくしてから、再び、来日し、赤坂にナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」を経営する。

ルウインは「ニュー・ラテン・クォーター」の他、麻布仲町の「ゴールデン・ゲート」など都内数ヶ所のアメリカ人経営のナイトクラブで国際賭博を開き、あくどい稼ぎをあげていた。怪しげなアメリカ人が集まる場所として、他に立川のキャバレー「ゴールデン・ドラゴン」、横浜桜木町の「エメラルド・クラブ」などがあり、こうした場所で、香港から密輸されてくるアメリカ製のピストルや小銃などが、旧日本特務機関員である児玉誉士夫や坂田誠盛の手を経て、各右翼団体や暴力団員のボスに流れていたという。

力道山は、「ニュー・ラテン・クォーター」によく出入りしており、気分がいいときはドアボーイに一万円札を与えたりしていたが、酒癖が悪く、客の扱いが悪いといってテーブルをひっくり返したり、他の客にケンカをふっかけたりした。あるとき、マフィアにつながる外人を2、3人まとめてやってしまい、児玉誉士夫が中に入って、ようやくカタがついたということもあったという。

刺された当日も、酔っていてアメリカからやってきた黒人のバンドに向かって「ニグロ、ゴーホーム! サノバビッチ “Negro go home! son of a bitch”(黒人はウチに帰れ! くそったれ野郎)」と大声で怒鳴っている。力道山を刺したのは、以前、彼とケンカになりそうになったことのある暴力団員で、この日は、泥酔状態の力道山がトイレの前にいたところを、足を踏まれたと因縁をつけて、錆びたナイフで腹部をぐさりと刺した。

力道山は刺されたあとも腹をタオルで押さえながら酒を飲み直したとかしないとか。その後、赤坂にある山王病院の応急手当室に運ばれたが、山王病院には、力道山の傷の手術をする執刀医がいない。それでも、力道山が山王病院に入院したのは、院長が力道山の力士時代からのひいきだったというのが理由である。

当日の深夜、力道山の手術をすることになった執刀医は聖路加病院の外科医長で、手術は無事に済んだが、その1週間後の12月15日、回診で傷口を見た院長が、腸閉塞を起こしているのを発見し、その日のうちに再手術することになった。同じ執刀医が駆けつけ手術が行われ、午後4時には手術は終了したが、午後9時ごろからショックに陥り、手当ての甲斐もなく午後9時50分、死亡した。力道山はうめくように何か言って指を3本出し、こと切れてしまったという。この3本の指で何を伝えたかったのかは、今も謎のままである。

力道山の突然の死後、様々な憶測が流れた。禁じられている水分を摂るため、花瓶の水を飲んだ。大好きな炭酸飲料を飲んだ、ブランデーを1本空けたという噂まであった。飲んではいけない水分を摂ったことが腸閉塞を誘発し、結局、命取りになったという。若手レスラーとして力道山のそばにいたアントニオ猪木などは炭酸飲料を直接与えたという疑いまでもたれた。だが、そのようなことはなかったようである。また、再手術が行われたことにも疑問があった。

力道山を刺した村田勝志は村田組の組長として都内に事務所を構えているが、力道山の命日の翌日になると、人目を避け力道山の眠る大田区の寺に参っていたという。村田は1審で12年、2審で8年、最高裁で懲役7年の刑が下され、きっちり、7年間、刑に服したという。

その裁判で、力道山を手術したという医師と麻酔を担当したという医師が証人として出廷した。手術した医師は手術中に麻酔を使ったら血圧が下がってショックを起こして死亡した、と証言した。麻酔を担当した医師は麻酔を普通の人の倍くらいは使ったと証言した。証拠として、カルテの提出を求めたがそのカルテだけは出てこなかった。

事件当夜、犯人の村田に対しては、力道山が顧問を務めていた町井久之率いる東声会からの報復もあったという。だが、最終的には村田の所属する住吉連合系のトップと力道山に近い東声会の兄貴分、山口組の田岡一雄との間の話し合いが行われ、事なきを得ている。

事件から30年後の1993年(平成5年)、岐阜大学医学部教授である土肥修司の著書『麻酔と蘇生』(中央公論社)が出版された。この書には、力道山の死因について書かれている。

『麻酔と蘇生』

<力道山の死は、出血でも、ショックでも何でもなく、単に、運び込まれた病院で麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことであった。・・・・・・問題は、筋弛緩薬を使用したために、外科医が気管内挿管の失敗を繰り返していた間、呼吸ができなかった(人工呼吸をしなかった)ことによる無酸素状態が死亡の原因であった>

筋弛緩薬とは、人工呼吸のためのチューブを体内に入れる(=気管内挿管)時、その作業をやりやすくするために体の筋肉を柔らかくする麻酔薬の一種である。全身麻酔を必要とする手術の場合、筋弛緩薬を投与し、筋肉が緩んだ直後にチューブを体内に入れ人工呼吸を行うのが一般的なやり方だという。土肥教授によれば、力道山は筋弛緩薬によって筋肉が緩んだが、太い首が災いし、気道が広がらずチューブの挿入に失敗したという。土肥教授は留学先のアメリカで、力道山の手術について知る当時の医学生から事情を聞き、のちに専門医として調査した結果を発表したのだった。

力道山の長男の百田義浩(1946〜2000年)はプロレスラーで元全日本プロレス所属のリングアナウンサー兼取締役、元プロレスリング・ノア取締役だった。

力道山の次男の百田光雄(1948年〜)はプロレスリング・ノア所属のプロレスラー兼取締役副社長、テレビ解説も勤めている。

2002年(平成14年)9月30日、力道山の孫娘のパク・ヘジョン(当時29歳)が北朝鮮の女子重量挙げの監督として釜山アジア大会に参加した。へジョンは力道山の長女の金英淑と北朝鮮選手団を引率しているパク・ミョンチョル北朝鮮体育指導委員長の四女。高校では体操選手、その後重量挙げ指導者になった。今アジア大会ではメダルの期待がかかった48キロ級のチェ・ウンシム選手(当時20歳)が出場したが、結果は5位だった。

一方、村田勝志の愛娘の篠原光(ひかる/1977年〜)は格闘家として活躍中?

2003年(平成15年)7月、力道山夫人の田中敬子が『夫・力道山の慟哭』(双葉社)と題した告白本を刊行。

『夫・力道山の慟哭』

2013年(平成25年)4月9日ころ、都内の病院で村田勝志が亡くなった。74歳だった。

参考文献など・・・
『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1984)
『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1985)
『もう一人の力道山』(小学館文庫/李淳馬日[「馬」ヘンに「日」]/1998)

『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社/鎌田忠良/1989)

『刑法の楽しい読み方』(河出書房新社/近藤康ニ/1998)

『戦後史開封 社会・事件編』(扶桑社文庫/産経新聞「戦後史開封」取材班編/1999)

『昭和天皇下の事件簿』(現代書館/佐藤友之/2001)

『世界暗殺者事典』(原書房/ジョージ・フェザリング/沢田博訳/2003)

『NHKのそこが知りたい』(講談社/NHK広報局編/2000)
『麻酔と蘇生』(中央公論社/土肥修司/1993)
『力道山の真実』(祥伝社文庫/大下英治/2004)
『父・力道山 初めて明かす父の実像、父への愛』(小学館文庫/百田光雄/2003)
『力道山の真実』(角川文庫 門茂男のザ・プロレス/門茂男/1985)
『力道山がいた』(朝日文庫/村松友視/2002)
『巨人の素顔 双葉山と力道山』(講談社文庫/石井代蔵/1985)
『写真集・門外不出! 力道山』(集英社/写真・田中和章/2001)
『新東宝映画傑作選 力道山の鉄腕巨人』(DVD/監督・並木鏡太郎/2003)
『必殺の空手チョップ 今蘇る! 力道山 伝説の格闘王』(DVD/2003)
『河北新報社』(2002年9月30日付)
『毎日新聞』(2013年4月13日付)

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]