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名古屋アベック殺人事件

1988年(昭和63年)2月22日夜、リーダーのA(当時19歳/とび職/名古屋市港区)、B(当時17歳/とび職/名古屋市中川区)、高志健一(当時20歳)、C(当時18歳/無職/名東区)、D子(当時17歳/名古屋市港区)、E子(当時17歳/愛知県海部[あま]郡)の少女2人を含む6人は、いつもの通り、テレビ塔の噴水の近くに集まっていたので、「噴水族」と呼ばれていた。彼らを結び付けていたのはシンナーだった。誰かが「バッカンをやろう」と言い出した。「バッカン」とは、アベックを襲って金品を強奪することだ。

6人は2台の車に分乗して名古屋埠頭へ行った。そこで、2台の乗用車を鉄パイプや木刀で、次々と襲い、計8万6000円を手に入れた。それに勢いづいて、もう2、3件やろうということになり、緑区の大高(おおだか)緑地公園入口の駐車場に車を乗り入れた。

23日午前4時半ごろ、Aが場内に停まっている車を見つけ、「あれをやろう」と言った。Cが即座に承知し、ラリっている他の者も賛成した。車のアベックは理容師の野村昭善(19歳)とその友人の末松須弥代(すみよ/20歳)であった。

A、Bらは、まず2台の車で退路を塞ぎ、野村を車から引きずり出した。野村は必死で抵抗したが、鉄パイプや木刀でめった打ちにされた。野村が気を失うと、車内で腰を抜かしている須弥代を3人の男たちは輪姦した。

性欲を満たしてちょっと冷静になったAは気づいた。

「こいつらをこのまま解放すると、顔を見られているから、サツにタレこまれる。男は殺して、女はどこかに売り飛ばそう。それが駄目なら女も殺すほかにはない」

Aがそう言い出すと、他の者も我に帰って、「そうだな、早く片付けないとヤバイ」と焦り始めた。

野村をその場で絞殺し、その死体を車のトランクに入れて、タバコの吸殻などを拾い集め、逃げ出した。

23日朝、大高緑地公園で、窓ガラスが割られ、車体がボコボコになった車が発見された。所有者の須弥代が行方不明になっていることも分かり、警察の捜査が始まった。

翌24日、Aらは、須弥代を車内に監禁していたが、処置に困って、須弥代を絞殺することになった。AとBは、須弥代の首に綱を巻き付け、綱引きをした。「このタバコを吸い終わるまで引っ張るんだ」などとふざけながら絞殺した。この2人からは現金約2万円を奪っていた。

27日、目撃情報などからA、Bらが逮捕された。自供通り、三重県阿山(あやま)郡大山田村(現:伊賀市)の山林から2人の遺体が発見された。

1989年(平成元年)6月28日、名古屋地裁は、主犯格のAに死刑、Bに無期懲役、高志健一に懲役17年、Cには懲役13年、他の2人の女性には、懲役5年〜10年の不定期刑を下した。

Aは「少年だから死刑になるはずがない」と言って、裁判官の心証を悪くしたようだが、犯行の残虐ぶりが極刑の最大の原因となった。裁判長は「その冷血非情さには、一片の情状酌量の余地もない」と述べた。

Aと高志健一は控訴した。

1996年(平成8年)12月16日、名古屋高裁は、「精神的に未成熟な青少年による場当たり的な犯行で、矯正の可能性が残されている」として、1審判決を破棄、Aに対し無期懲役を言い渡した。高志は懲役13年の判決だった。

この事件のあった1988年(昭和63年)11月(殺害は翌年1月)には、東京都足立区綾瀬で女子高生コンクリ詰め事件が発生する。両事件は凶悪少年事犯の“双璧”として、その後の少年法改正に多大な影響を与えた。

ちなみに、アベック “avec”は、「〜と一緒に」という意味のフランス語で、英語の “with”と同じ使われ方をする。

参考文献・・・
『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)
『新潮45』(2003年10月号)
『産経新聞』(1996年12月16日付)

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