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ロボトミー殺人事件

1929年(昭和4年)1月1日、桜庭章司は長野県松本市で次男として生まれた。小学生のとき、東京に移った。神経質なところがあったが、気が強く明朗闊達な子であった。小学校卒業後、東京高等工学校(現・芝浦工業大学)付属工科学校に進学したが、貧窮家庭の生活を支えるため、1年で退学して工員になった。

1945年(昭和20年)の終戦の頃、松本市に戻り、商売をしながら町のジムでボクシングの練習をやり始めた。19歳のとき、北陸5県社会人ボクシング選手権大会にライト級で出場して優勝した。

1949年(昭和24年)、20歳のとき、「これからは英語の時代」を確信して独学で英語を勉強し、通訳の資格を取得した。その英語能力をかわれ、占領軍基地のある新潟の電話局(現・NTT)に通訳として就職した。その後、米軍のOSI(諜報機関)にスカウトされ、英語力に磨きをかけた。

だが、病躯の母親の面倒を見るため、松本に帰ることになった。松本には英語を生かす職場がなかったため、体力に自信のある桜庭は日銭稼ぎに土木作業員として飯場で働くことになった。

飯場では喧嘩が絶えなかった。ある日、刺青をした土木作業員が出稼ぎの農民を殴っているのを見て、桜庭は刺青の男を叩きのめした。ボクシングで鍛えたパンチは衰えていなかった。

桜庭は土木作業を続けているとき、路肩工事の手抜きを発見した。班長に注意すると、その夜、桜庭は社長に呼ばれ小料理屋に連れて行かれて、5万円を握らされた。

桜庭には作家になりたいという夢があった。そのために読書や執筆に専念したかった。5万円あれば、しばらく働かなくても暮らせると思い、悪いこととは知りながら受け取ってしまった。

その後、桜庭は警察に逮捕された。刺青の男が訴えたのである。訴えにより、事情聴取された社長は、金を脅し取られたと供述した。桜庭は暴行と恐喝容疑で起訴され、懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決を受けた。

1958年(昭和33年)8月、ダム工事現場で働いていたとき、賃金不払いと不当解雇問題が発生した。桜庭は社長宅に談判に行ったが、恐喝容疑で逮捕された。執行猶予は取り消され、12月、長野刑務所に収監された。

1961年(昭和36年)8月、刑務所を出所した桜庭は、東京で鉄筋工として働きながら、翻訳会社を介して翻訳のバイトをした。

1962年(昭和37年)の春ごろ、2、3のスポーツ新聞を見て、海外スポーツ情報のいい加減な紹介に腹が立った。桜庭は幾つかの新聞社や雑誌社にクレームの手紙を書いて出した。手紙を読んだ編集者たちは桜庭に原稿を依頼してきた。33歳になっていた桜庭はこれを契機にライターへ転身した。

その後の仕事は順調に運び、資料整理のために2人の学生アルバイトを雇うほどになった。月収は10万円を超え、当時の中堅サラリーマンの3、4倍は稼いでいた。

1964年(昭和39年)3月、桜庭は東京都板橋区の妹宅に立ち寄った。老いた母親のことで話し合っているうち、喧嘩になった。桜庭はそばにあった人形ケースなどを壊した。妹の夫が110番通報した。志村署の警察が駆けつけ、桜庭は器物破損の現行犯で逮捕された。

翌日、妹夫婦は告訴を取り下げたが、警察はさらに1週間留置し、桜庭の過去を調べ、暴力、恐喝などの前科を洗い出した。繰り返される暴力行為は、精神疾患からくるものとして、桜庭は世田谷区の都立梅ヶ丘病院に連れて行かれ、精神鑑定にかけられた。

担当の医師は桜庭を「精神病質」と鑑定した。桜庭は釈放を求めたが、警察によって今度は、3月11日、東京都多摩市の聖跡桜ヶ丘の桜ヶ丘保養所(現・桜ヶ丘記念病院)に連行され強制措置入院させられた。

桜庭はスポーツライターとして編集者から信頼されていたので、入院後も原稿執筆を続け、編集者は病院へ原稿を受け取りにきていた。

桜庭は拘禁中に精神外科手術をされることをおそれていた。それは、入院中に、八重という20歳くらいの女性が精神外科手術をされ、担当の藤井澹(きよし)医師が手術は大成功だったと言っていたにもかかわらず、約1ヵ月後に八重が首吊り自殺したからだった。桜庭は精神外科手術によって廃人にされることをおそれ、主治医である藤井医師に対して明確に手術の拒否を告げていた。また、手術するには母親の承諾が必要であることが分かっていたので、桜庭は安心していた。ところが、藤井医師は何も解らない母親から承諾書を取ってしまった。

11月2日、桜庭(当時35歳)は藤井医師から肝臓検査と称して、全身麻酔をかけられ、加藤雄司医師によって、ロボトミーの一種であるチングレクトミーという精神外科手術を強行された。

チングレクトミー手術は、患者の攻撃性や爆発性を選択的に除去する効果があるという大義名分のもとに手術が行なわれてきた。患者の右前頭部の頭皮を開き、頭蓋骨を切り取って脳硬膜を開き、大脳間裂を広げて視認できる脳梁のやや上部に位置する帯状回転(帯回ともいう)の前部に外科的侵襲を加える手術をいう。

ロボトミー lobotomy の lobo- は、中肺葉や前頭葉の「葉」という意味で、-tomy は「切断」「切除」を意味する。ロボトミーは正式には prefrontal lobotomy といい、「前部前頭葉切截(せっせつ)術」と訳されている。

ロボトミー手術を発明したのは、ポルトガルのエガス・モニス(1875-1955)で、リスボン大学神経科教授であり、下院議員や外務省高官を歴任した政治家でもあった。1935年(昭和10年)、モニスは60歳のとき、ロボトミーの基本を考案、治りにくいうつ病や不安神経症の患者に手術を実施して、効果絶大と発表した。その後、ロボトミー手術はアメリカで改良され、第2次大戦後の一時期には、精神分裂病の患者に対して盛んに行われ、全世界に大ブームを巻き起こした。当時はまだ精神分裂病に対して効果を示す薬が開発されていなかったこともあり、ロボトミーは画期的な治療法として広まっていった。日本ではこの手術を受けた患者は東京大学精神科医師の磯田雄二郎の推計で全国に約12万人いると見られている。1949年(昭和24年)には偉大な業績の創始者として、モニスとスイスの神経生理学者のルドルフ・ヘスにノーベル医学・生理学賞が与えられている。だが、その後、後遺症が多数報告されるようになり、また、抗精神病薬が開発され、人権意識の高まりもあって、1960年(昭和35年)代後半からほとんど行なわれなくなった。しかし、一部の病院ではその後も手術を行なっていた。1975年(昭和50年)になって、日本精神神経学会で「精神外科を否定する決議」が可決された。このロボトミー手術の被害を法に訴えたのはこのうちわずか5人、5件である。ここにロボトミー訴訟の特殊性があった。手術を受けた者は死亡し、廃人化して訴えることができなくなったケースも少なくなく、そうした状態になっても「病状の変化」を聞き入れる家族の「医者信仰」が根強く、時効の壁があり、法的救済をよしとしない風土とも無関係ではなかった。さらに、訴訟費用、弁護士、専門的知識をもつ(ロボトミーに反対する立場の)医師の協力なしには裁判は起こしにくいという事情があった。

ロボトミー手術を受けた患者で最も有名な人物に、後の第35代米国大統領ジョン・F・ケネディの妹・ローズマリー・ケネディがいる。ローズマリーは生まれつき脳の発達が少し遅れていたが、生活はほぼ普通に送ることができた。だが、1941年、23歳のときにロボトミー手術を受けた。手術後はウィスコンシン州の精神病院に入れられ、死亡するまで60年以上そこで暮らした。もう一人の有名人に女優のフランシス・ファーマーがいる。才能あふれる美しい女性だったが、精神分裂病と診断され、ワシントン州の病院に入院した。入院後は二度とカメラの前に立つことはなかった。フランシスの伝記を元に制作された映画『女優フランシス』(DVD/監督・グレーム・クリフォード/出演・ジェシカ・ラングほか/2000)ではロボトミー手術を受けたことになっているが、この伝記の著者が多くの脚色を加えたという不確かな情報があり、実はロボトミー手術を受けなかったのではないかとも言われている。

「精神分裂病」という名称は “schizophrenia”(シゾフレニア)を訳したものだが、2002年(平成14年)の夏から「統合失調症」という名称に変更されている。

ロボトミーを題材にした映画に、ケン・キージーの小説『カッコーの巣の上で』 (富士房/1996/邦題は当初「郭公の巣」であったが、後に映画のタイトルに合わせて改題された)を元に制作された『カッコーの巣の上で』(DVD/監督・ミロシュ・フォアマン/出演・ジャック・ニコルソンほか/2010)がある。この映画作品はゴールデン・グローブ賞6部門、アカデミー賞5部門を受賞した。

桜庭がチングレクトミーを強行されたのは、ベースボールマガジン社発行の『プロレス・ボクシング』誌に、ペンネーム・鬼山豊で、「貧しかった労働少年がついに栄光をつかんだ」というサブタイトルで「イタリアの発電所」と異名をとるレスラーのブルーノ・サンマルチノの原稿が掲載されてから間もなくのことだった。

手術を強行されてから約4ヶ月後、桜庭は希望していた退院が叶えられたが、藤井医師によって、退院許可と引き換えに手術の同意書を書かされた。すでに手術の症状が現れ、従順になっていた桜庭は同意書を書いた。桜庭の精神的意欲は減退し、原稿を書ける量は手術前の5分の1に減少した。その後、桜庭はスポーツジャーナリズムの世界から姿を消した。運転手や自動車修理工場の見習い工などをしながら各地を転々とした。

1969年(昭和44年)ごろから桜庭はてんかん発作に悩まされるようになった。名古屋の中央労災病院で診察を受けた結果、チングレクトミーの後遺症である可能性が指摘された。

1976年(昭和51年)2月、桜庭は弟が経営する会社に勤めていたが、英語力をかわれ、フィリピンの支社で働くことになった。ここには約2年間、滞在していたが、働く気力が湧いてこない。藤井医師が言っていた「チングレクトミーによって無理がきかなくなる」という言葉を思い出す。

1978年(昭和53年)のある日の夕方、桜庭はマニラ湾の夕日を眺めていたとき、はっきりと覚った。

世界に名高いマニラ湾の夕日を見ているのに、俺の心には何の感動も湧いてこない。もはや俺は人間ではないのだ。生きている資格はない。こんなことになったのは、あの藤井医師のせいだ。あいつがチングレクトミー手術をしたせいだ。あいつを殺して俺も死のう。

1979年(昭和54年)9月26日午後5時ごろ、桜庭(当時50歳)は藤井医師(当時53歳)との無理心中という形で決着をつけるべく、遺書を持って、バルビタール(長時間作用型鎮静・睡眠薬)などの薬物を服用したのち、東京都小平市の藤井宅にデパートの配達員を装って押し入った。ダンボール箱を渡しながら、藤井の妻の母親の深川タダ子(70歳)を押さえつけ、手足に手錠をかけ、ガムテープで目と口をふさいだ。間もなく帰ってきた藤井の妻の道子(44歳)も取り押え、藤井医師が帰ってくるのを待った。桜庭の調べでは、午後6時半ごろ帰宅するはずだった。だが、午後8時になっても帰宅せず、決行を後日に延期するため、2人のノドを切りつけ、胸を刺して殺害し、物盗りに見せかけるため、預金通帳と現金46万円入りの給料袋を奪って逃走した。

午後10時20分ごろ、池袋駅の中央改札口近くで何度も手錠を落とす桜庭を見た警察官から職務質問を受け、銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕された。

翌27日午前2時、藤井医師は同僚医師の送別会の2次会を終え、タクシーで帰宅して妻と義母の死体を発見して、知人を通じて警察に通報した。

東京地裁八王子支部での1審で、桜庭は精神鑑定を受けた。筑波大学教授の小田晋(すすむによる検察側の鑑定では、「責任能力あり」とし、脳波検査では「異常なし」とした。精神科医師の逸見武光による鑑定では、責任能力は裁判所の判断事項であり、直接書かない主義としており、責任能力は減弱していたとし、脳に萎縮がある。両側則脳室前部が拡大。脳室周囲低吸収域が認められるところから髄液循環障害がある。手術中、止血用に使用した金属製クリップが脳に残存したままになっている。脳波検査では「異常あり」とした。

1993年(平成5年)7月7日、東京地裁八王子支部は、小田晋鑑定を採用し、桜庭に対して無期懲役を言い渡した。死刑を求刑していた検察側が控訴した。

桜庭は弁護士に対し、「私に対する判決は死刑か無罪にしてほしい。1審での無期懲役は中途半端で、チングレクトミーの問題点をまったく理解していない」と語った。そして、弁護側も控訴した。

東京高裁での控訴審では、検察側は新たな証拠として愛知教育大教授の渡辺久雄の検事調書と桜庭のカルテを提出した。しかし、そのカルテには「脳波は異常」と記されていた。検察側としては逆効果となった。

1995年(平成7年)9月11日、東京高裁でも無期懲役の判決だった。桜庭は上告した。

1996年(平成8年)11月16日、最高裁で上告棄却で、無期懲役が確定した。桜庭は67歳になっていた。

2008年(平成20年)2月15日、仙台地裁は宮城刑務所で服役中の桜庭(当時79歳)が自殺を妨げられない権利「自死権」の確認と、刑務所が自殺を認めないことに対する160万円の損害賠償を国に求めた訴訟の判決で桜庭の請求を棄却した。桜庭は長期の服役による身体の不調を訴え、「生きていても仕方がない」などと主張していたが、近藤幸康裁判官は「自死権が認められる憲法・法律上の根拠はない。身体状態や刑務所の処遇状況にかかわらず自死権の根拠はなく、請求は前提を欠く」と指摘した。

参考文献・・・
『隣りの殺人者たち』(宝島社/1997)

『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『ぼくの脳を返して ロボトミー手術に翻弄されたある少年の物語』(WAVE出版/ハワード・ダリー&チャールズ・フレミング/2009)
『ロボトミスト 3400回ロボトミー手術を行った医師の栄光と失墜』(武田ランダムハウスジャパン/ジャック・エル・ハイ/2009)
『河北新報』(2008年2月15日付)

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