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ライフスペース事件

1999年(平成11年)11月11日夕方、千葉県成田市のホテル客室に、4ヶ月以上も宿泊し続け、清掃サービスも拒否し、不審な行動をとる異様な集団がいるとホテル従業員が警察に通報したことから事件が発覚した。

午後10時45分ころ、警察が駆けつけると、13階建てホテルの12階にあるツインルームでミイラ化した男性の遺体が発見された。遺体は兵庫県川西市の元会社員の小林晨一(しんいち/66歳)だった。

小林晨一は同年6月24日、自宅で脳内出血で倒れ、兵庫県伊丹市の病院に入院したが、小林の長男のK(当時31歳)が自己啓発セミナー主催団体「ライフスペース」のメンバーだったことから、指導者(グル)の高橋弘二(当時61歳)に相談した。そのとき、Kは高橋弘二に「病院のおもちゃにされちゃうぞ」「点滴は危険」などと言われ、7月2日朝、Kは「自分の信じる教えに基づいて治すので退院させてほしい」と病院側の説得を振り切って、父親の小林晨一を病院から連れ出し、航空機を使って成田市のホテルに移送させたが、翌3日早朝、小林晨一は痰を咽喉に詰まらせて窒息死した。ところが、メンバーらは「グルのシャクティパットで順調に回復していた」と主張した。

1983年(昭和58年)、税理士だった高橋弘二が80年代に日本各地で広がった自己啓発セミナーの草分けの「ライフダイナミックス」の分派のひとつとして、「ライフスペース」を設立。バブル期には1万人がセミナーに参加したといわれる。その後、1995年(平成7年)、熱湯につかる「ふろ行」で京都の大学生が死亡したころから、高橋弘二は「グル」を名乗り、「前世のカルマを落とし病気を治す」「グルがシャクティパットで気を通す」などの表現を用い、参加費も最高500万円に上った。1999年(平成11年)5月には、団体の目的を「インドの哲学者であるサイババの教育システムに基づくセミナーの開催・運営」などに変更、宗教性を帯びてきた。高橋弘二は代表を退いたが、実質的な主宰者の立場にあった。「シャクティパット」の「シャクティ」とは、ヒンズー教の破壊と創造の象徴であるシバ神の力(あるいは、女性の持つ神秘的生命力)、「パット」は種子のことだったが、高橋弘二はパットを英語の「軽く叩く」の儀と考え、頭を軽く叩いて病気を治す儀式として行なった。高橋弘二の行動理論は「定説」と呼ばれ、話の中で「これは絶対的な定説」などと使われる。

遺体が発見されたホテル側の話によると、ホテルには1月から10月上旬まで、出版社と名乗る団体が最大時15室に宿泊していた。9月下旬、「ライフスペース」について書かれた写真週刊誌を同封した投書がホテルにあり、「記事の中で『グル』と紹介されていた男が団体の部屋に出入りしていたので、その団体に間違いないと思った」と話している。

11月13日、「ライフスペース」の関連組織「Shakty PAT GURU FOUNDATION」(SPGF)の男性メンバー2人が、毎日新聞の取材に応じ、「小林さんは回復の最中だった」などと独自の見解を繰り返した。メンバーの男性は、「小林さんは病院で誤診を受け、劇物を投与され、危険な状態にあった。シャクティパットによる治療は小林さん本人と家族の希望であり、(発見時は)順調に回復している最中だった」と述べた。また、男性が示した「闘病ドキュメント」と題する5冊の冊子には、小林晨一の「生存」を前提にした4ヶ月間の経緯が詳細に記されていた。

11月24日、「ライフスペース」の関連団体が千葉県警の家宅捜索を受け、東京都内の団体施設SPGFにいた男子1人女子8人(入所当時9〜17歳)の9人の子どもが保護された。関係者の話で、子どもたちは事件発覚前、ミイラ化した会社員の遺体を拭く作業をさせられ、その作業を「看病」と話すなど、特異な実態が浮かび上ってきた。

都児童相談センターや捜査当局によると、子どもたちは新宿区の施設で3人、文京区の施設から6人が保護された。冷蔵庫には食物は何もなく、人数分の食器や布団もなかった。外出は自由だったらしいが、成田での死体遺棄事件後は自由な外出は許されなかったという。また、この9人が学校に通ったこともないことが明らかになった。

一方、SPGF側はこれまで都児童相談センター側との交渉で、「公教育は信頼できない。子どもたちには独自の教育を施していた」と主張。また保護前の子どもたちの生活については会見などで「朝8時ごろ起きて掃除をし、午前中は英語、数学、国語の勉強。午後は公園などで散歩し、夕食前後は自由時間」などと説明。勉強もし、規則正しい生活を送らせていたことを強調している。その一方、親がSPGFの仕事で留守がちなため、一緒に過ごす時間が少なかったことは認めている。

2000年(平成12年)2月22日、高橋弘二と小林晨一の長男のKらが保護責任者遺棄致死容疑で逮捕された。

逮捕後、高橋弘二は「司法解剖されるまで小林さんは生きていた」などと独自の「定説」を展開した。

7月4日、千葉地裁で初公判が開かれたが、高橋弘二は「ミイラは日本に存在しないのでミイラ事件は起こり得ない」などと、起訴事実を全面的に否認した。

2001年(平成13年)9月28日、千葉地裁は保護責任者遺棄致死罪に問われたKに対し、懲役2年6ヶ月・執行猶予3年(求刑・懲役4年)を言い渡した。検察側、弁護側ともに控訴せず、刑が確定した。

2002年(平成14年)2月5日、千葉地裁は殺人罪に問われた高橋弘二に対し、求刑通り懲役15年の実刑判決を言い渡した。被告側は控訴した。

2003年(平成15年)6月26日、東京高裁は高橋弘二に対し、1審での懲役15年を破棄し、懲役7年を言い渡した。

裁判長は減軽の理由について「小林さんを病院から連れ出した時点での殺意を認めた1審判決には事実誤認がある」とした上で、「不作為による殺人であり、特段悪質性が高いとはいえない」と述べた。

不作為・・・殺人行為には、積極的に禁止されている行為を実行する「作為犯」とするべき行為を実行しない「不作為犯」がある。生まれたばかりの赤ちゃんにミルクを与えないという行為も殺そうという意思があれば「不作為犯」になる。

被告側は即日上告した。

2005年(平成17年)7月4日、最高裁は高橋弘二に対し上告を棄却。懲役7年とした東京高裁判決が確定した。

ライフスペース事件と同じ時期に発覚した同様の事件に、宮崎ミイラ事件がある。

[ 宮崎ミイラ事件 ]

2000年(平成12年)1月20日、宮崎市の住宅地にある加江田塾で、ミイラ化した男児(6歳)と乳児の遺体が発見された。

塾代表で自称経営コンサルタントの東(ひがし)純一郎(当時56歳)は1995年(平成7年)に塾を設立、全国にセミナーを開催して、自分のことを「創造主の代理人」と称して、過去を霊視したり、「病気の原因は先祖の因縁や人の怨みだ。病院や薬は金もうけを目的とする悪である。自分にはその悪を清める能力がある」と説き、手かざし治療をほどこし、悩みや病気などを抱える人々の信奉を集めていた。

塾を「ドロップアウトした人たちを指導する団体」と位置付け、約50人の成人スタッフの「塾生」とともに、不登校やいじめに悩む子どもたちと集団生活をしていた。宮崎市南方町の別館「加江田塾アネックス」には計20人の塾生と子どもたちが同じデザインの服を着ていた。また、塾代表の東純一郎は世界基督教統一神霊協会(統一教会)に入会した経緯があり、塾でも統一教会の教義を参考にした活動をしていた。

一方、男児の父親(当時35歳)は医療への不信から、息子のネフローゼ症候群について塾に相談したが、「薬や病院では治らない」と言われ、次第に主治医の処方に従わなくなり、1997年(平成9年)12月、塾に息子を預けた。預けられた男児は急速に衰弱し、1ヶ月ほどで死亡した。さらに、父親が求めた遺体の引き渡しを拒否して約2年間、塾本部2階の1室に放置した。

また、1999年(平成11年)2月、塾生で30代の女性が本部で未熟児を出産、呼吸障害などの症状があったにもかかわらず、適切な処置を怠り、10日後に栄養失調などで死亡させ、約1年間、2階の別の部屋に遺棄した。

東純一郎と幹部のT(当時49歳)は保護責任者遺棄致死罪と死体遺棄で起訴された。

2002年(平成14年)3月26日、宮崎地裁は、塾代表の東純一郎とTの両被告に懲役7年(求刑・ともに懲役8年)を言い渡した。

12月19日、福岡高裁宮崎支部は1審の懲役7年を支持、控訴を棄却した。

2003年(平成15年)9月29日、最高裁第1小法廷は、東純一郎とTの両被告の上告を棄却する決定をし、ともに懲役7年が確定した。

参考文献・・・
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『事件 1999−2000』(葦書房/佐木隆三+永守良孝/2000)

『毎日新聞』(1999年11月13日付/1999年11月15日付/1999年11月17日付/1999年11月18日付/1999年11月22日付/1999年11月24日付/2000年1月12日/2000年1月20日付/2000年1月28日付/2000年2月22日/2000年2月23日付/2000年7月4日付/2001年9月28日付/2002年2月5日付/2002年3月26日付/2002年12月19日付/2003年6月26日付/2003年10月1日付/2005年7月6日付)

関連サイト・・
SPGF

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