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京都日野小児童殺人事件

1999年(平成11年)12月21日午後2時ころ、京都市伏見区の日野小学校の校庭のジャングルジムで遊んでいた小学2年生の中村俊希君(7歳)が殺害される事件が発生した。遺体付近には犯人の物と思われる血に染まった文化包丁、農薬入りの容器、塗料缶、金づち、枕カバー、手書きの文章をコピーした同一の「犯行声明文」6枚が落ちていた。犯行声明文は角張った文字で次のように書かれていた。

[ 犯行声明文 ]

(全文)

私は日野小学校を攻げきします。

理由はうらみがあるからです。

今はにげますがあとで名前を

言うつもりでいます。手紙

をかきます。だから今は追わ

ないでください。私を見つけな

いでください。

私を識別する記号

→てるくはのる

俊希君と一緒に遊んでいた児童5人などの証言から、犯人はハーフコートのようなものを着た150〜160センチくらいの若い男で目出し帽をかぶり、手袋をしていた。南側の正門から入ってきて、ジャングルジムで鬼ごっこをしていた俊希君に近づくといきなり包丁で切りつけ、そのまま正門と反対側の北門のほうへ平然と歩いて去ったことが分かった。

同日夕方、学校から約300メートル離れた醍醐辰巳児童公園で犯人の遺留品と思われる血のついたズボン、青いフードのついたジャンパー、バイク用手袋、黒い目出し帽、自転車、新品でさやに収められたままのナイフが発見された。自転車は防犯登録番号から大阪府枚方(ひらかた)市の店で販売されたものであることが分かった。防犯登録の名義は「山室学」で住所は京都府宇治市内になっていたが、その住所は現場近くのビデオ店になっていた。

12月30日、現場から約4キロの地点にある宇治市内のホームセンターで事件2日前の12月19日に遺留品と同一のナイフと農薬を購入した若い男がいることが分かった。防犯ビデオにその若い男が映っていたことから、枚方市の自転車屋に確認したところ、「山室学」に酷似していることが分かった。

翌2000年(平成12年)1月28日、京都府警山科署はホームセンターのビデオに映っていた男の写真を公開した。だが、1月中旬、捜査本部は実は既に伏見区の団地で母親と一緒に住んでいる自宅浪人中の岡村浩昌(21歳)をマークしていた。1月下旬には殺害動機の解明のため、岡村が通っていた学校を調べ、岡村が卒業した府立高校の教師から高校卒業時に卒業を取り消してほしいと強く迫ったこと、教育制度全体に不満を抱いていたことなどの情報を入手した。

2月5日午前7時ころ、6人の捜査員が岡村宅を訪ねて任意同行を求めた。だが、岡村は「いきなり訪ねてくるのは失礼だ。今日は友だちと会う約束がある」などと言って拒否した。捜査員が母親に事情を説明し、ホームセンターのビデオに映っていた写真を見せると、母親は「写真があなたに似ている。行って話をしなさい。信じているから」と促したが、頑なに拒否した。捜査員が1時間近く説得した結果、近くの公園でなら話してもいいと言い出した。

午前8時20分ころ、岡村宅から200メートルほど離れた向島東公園に場所を移し、捜査員2人と話を始めた。公園の中には他に4人の捜査員がいた。

午前10時半ころ、捜査員の要請で岡村の母親も公園のベンチに来て説得した。

午前11時すぎ、家宅捜査が開始された。岡村の部屋から犯行を示唆する内容のメモが発見され、自転車を購入した男の名前「山室学」が記されていた。

午前11時半すぎ、捜査員が地裁に逮捕状を請求。

午前11時50分、岡村は突然ベンチから立ち上がると、持っていた黒いリュックサックを捜査員に投げつけてスーパーに飛び込み、そこを出ると、数十メートル離れた13階建ての公団住宅に逃げ込んだ。

午後0時40分ころ、屋上に出た岡村はそこから飛び降り自殺した(府警は当初、13階から飛び降りたと発表した)。

その5分後、地裁は逮捕状を出していた。追跡してきた警察は飛び降りる10分前に、屋上の岡村を見つけていた。だが、上がり口の扉に鍵がかかっていて手間取り、自殺を制止できなかった。その後、被疑者死亡のまま書類送検された。いずれにせよ任意同行を拒否され逃走を許したことなど京都府警の稚拙な捜査は非難を浴びた。

岡村が逃走直前に、捜査員に投げつけたリュックの中から約20通の手紙が出てきた。手書きとワープロの2種類あり、その大半は岡村の小学校、中学校、高校時代の担任や教師に宛てたものだった。手紙には日野小学校の事件を認める記述や自分のような中退希望者を理解して中退させてほしかった、といった学校教育に対する不満、自殺をほのめかすような記述があった。自宅から押収したメモにも同じような記述があった。

岡村が自殺したことがニュースとなり、岡村が被疑者であることが世間に知られることになるのだが、その後、「てるくはのる」の意味を「解読」した一般人からの投書がテレビ朝日放送の「ニュースステーション」に寄せられた。その投書によると、岡村が犯行当時21歳であったことや犯行日が21日であったことから、キーワードを「21」とした。また、「てるくはのる」の「る」を「反」という記号とし、それを「反対に進む」「反対から読む」という意味とした。最初の文字の「て」から50音順に進むと、この文字を含めて、21番目の文字は「ら」である。次の文字の「る」はここでは「反対に進む」という記号としているから、次の文字の「く」「は」「の」をそれぞれ50音順に、「反対に進む」とその文字を含めて21番目の文字がそれぞれ「む」「か」「お」になる。つまり、「ら」+「む」「か」「お」=「らむかお」となり、最後の文字「る」は「反対から読む」という記号としているから、「らむかお」は反対から読んで「おかむら」となる、と「解読」した。だが、この見事な「解読」は違っていたことが判明する。

3月11日、岡村の自宅から押収された物の中に「名言名句416ページ」という殴り書きされたメモがあったので、本棚にあった格言集『すぐに役立つ名言名句活用新辞典』(アストロ教育システムあすとろ出版部/現代言語研究会/1993)という本を調べてみると、「てるくはのる」は、「か行」の索引の末尾の文字を左から右へ並べただけだったことが分かった。この本の中にも「てるくはのる」の文字があるとほのめかす内容のメモがあった。

【 か 】

体が食物によって成長す /// ヘルダー /// 298
体から病気を追い出すこと   エピクロス   286
完全なるホームを作る   内村鑑三   139
カンとは頭のはたらきではな   中村寅吉   34
艱難に会って初めて真の友を知   キケロ   93
甘美なイメージを甘美なものとし   伊藤整   89

岡村は遺留品のあった醍醐辰巳児童公園の近くに住み、日野小学校に隣接する春日野小学校に入学、2年まで通学した。小学3年の春、飛び降り自殺した団地のある向島ニュータウンへ引越ししたので、向島藤の木小学校に転校した。翌年には父親が病死し、母親が働いて家計を支えるようになった。小学校のときはパンを買いに行かされたり、お金をまきあげられたりしていじめられていた。走るのが得意だった岡村は小学6年のとき、京都市内の小学校の対抗戦「大文字駅伝」に出場した。中学では陸上をやりたかったが、陸上部がなかったので、仕方なく野球部に入部した。中学のときは通知表が5と4ばかりでずば抜けて成績が良かった。だが、第一志望校の高校の受験に失敗し、仕方なく府立高校に入学した。高2になると、中退したいと言い始め、家族がカウンセラーを交えて学校側と相談した上で、1年間、休学した。のちに復学し4年で卒業した。卒業時、単位が足りなかったが、追試を条件に学校側は岡村を卒業させることにした。卒業後、岡村は家にこもるようになった。1999年(平成11年)4月のある日、突然、母校の府立高校の担任教師を訪ね、「できれば、卒業せずに高校に残りたかった。単位が足りないのに卒業させられたことが納得いかず、すっきりしない」と言い、大検を受けたいので、卒業を取り消し中退扱いにしてくれと頼んだが、学校側には受け入れてもらえなかった。兄が1人いたが、事件前年の春に就職し、家を出ている。

2000年(平成12年)7月、殺害された俊希君の遺族である両親の中村聖志と唯子の共著による 『聞け、"てるくはのる"よ』が新潮社から刊行される。

2004年(平成16年)3月3日、「全国犯罪被害者の会」メンバーで、俊希君の遺族らが被害者の権利の確立と、被害回復制度の拡充を求める陳情書を京都府議会議長あてに提出した。陳情書は「被害者と家族は一生立ち上がれない痛手を受けながら、偏見と好奇にさらされ、精神的、経済的苦痛を強いられてきた」と訴え、「誰もが被害者になりうる。医療や生活の補償、精神的支援の制度確立は国の責務」と指摘し、(1)被害者のための刑事司法の実現(2)刑事裁判に被害者が参加する制度の創設(3)損害回復制度の確立――を要望している。

全国犯罪被害者の会

参考文献・・・
『<物語>日本近代殺人史』(春秋社/山崎哲/2000)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)

『毎日新聞』(2004年3月4日付)

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