[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

高校教師教え子殺人事件

1986年(昭和61年)10月14日午後10時半ころ、岐阜県羽島市内の自動車工業の中古車展示場で「何かが燃えている」という119番通報があり、消防車が駆けつけたところ、人が黒焦げになって死亡していた。遺体の両手が体の前で縛られていた形跡があり、殺人の可能性があるものとみて捜査を始めた。

10月17日、焼死体の左手の指にわずかに残った表皮から採取できた指紋から鷲見(すみ)敬子(22歳)であることが判明。照合したのは運転免許証の指紋カードだが、これにより、現住所が名古屋の「東カンキャステール」と分かり、部屋を捜索し、勤め先まで割り出した。

10月19日、敬子の東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の預金を本人のキャッシュカードを使って岐阜駅前支店から36万円引き出したところを防犯カメラに記録された男を犯人と断定して逮捕。この男は岐阜西工業高校の美術教師のK(当時38歳)であった。

共犯として逮捕されたA子(当時22歳)と敬子とは郡上北高校で1年後輩と先輩という関係だったが、Kとこの2人との関係は同校で教師と生徒という関係であり、また、のちに愛人という関係になる。Kには美容室を経営する妻(当時38歳)がおり、四角関係になっていた。

Kは岐阜の隣の大垣市出身で、日大芸術学部美術学科を卒業し、1971年(昭和46年)4月に美術教師として初めて岐阜県の益田高校に赴任。その後、いくつかの高校を転任した。

1979年(昭和54年)4月、敬子やA子が通学していた郡上北高校に転任。在任は4年で、2人との接点は3年間だった。その後、大垣工業高校を経て、岐阜西工業高校に赴任した。

Kは田舎では目立つファッションでジーパンにセーターという格好で授業をしていた。評判は、冗談をよく言う面白い先生であり、美術室にスヌーピーの縫いぐるみを並べるなどして女生徒に人気があり、進路指導にも真剣に相談に乗ってくれる頼りになる先生であった。

その反面、気に入らない生徒を丸刈りにしてしまったり、放課後、女生徒を1人ずつ美術室に呼んだり、授業中に財布の中の札束を生徒に見せびらかしたりする問題教師でもあった。

教師の給料ではとても買えないベンツ500SEを乗り回し、車は他にもクラウンとランドクルーザを持っていた。さらに、左腕にゴールドのロレックス、右腕に金のブレスレットをする金ピカ趣味があった。

実は、自分で買った車はクラウンだけで、他は、敬子に貢がせて買ったのだった。また、サラ金、マージャンの借金もあり、ファッションにも凝っていたというから、それらに敬子のお金が使われていた。

美術準備室のKの机の引き出しにはピルやスキン、無修正のポルノ写真やポラロイドの男女の結合写真、部屋の隅にはピンク雑誌が束になって積んであり、他の教え子たちのいかがわしい写真を撮り「写真をバラされたくなかったら2000万から3000万円出せ、さもなくば特殊浴場で働け」と脅迫していたことが後に分かっている。

特殊浴場・・・「トルコ風呂」から「ソープランド」という名称に変わったのは、1984年(昭和59年)12月19日のことで、この日、東京都特殊浴場協会が赤坂プリンスホテルで新しい名前の襲名披露を行った。ことの発端は同年8月、かつて東大地震研究所に留学していたトルコ人のヌスレット・サンジャクリ(当時30歳)が再来日、「トルコとトルコ風呂は関係ないのに妙なイメージをもたれて迷惑している。なんとかしてほしい」と渡部恒三厚生(現・厚生労働)大臣に直訴したことから見直しがされた。最初に横浜市特殊浴場協会が、店の看板やネオンから「トルコ」の名前を消した。そうしたことが、愛知県、神戸市でも起こった。ところが、代わりの名前が見つからず、「特殊浴場」と名乗るところがほとんどだった。Kもそのことを知っていて「トルコ」という言葉を使わず、「特殊浴場」と言っていたのかもしれない。ちなみに「ソープランド」という名前は一般公募により決まったが、名付け親はこれまで吉原にも川崎にも遊びに行ったことがないという東京都渋谷区に住む会社員(当時24歳)だった。

敬子とKが愛人関係になったのは、敬子が高校を卒業する1982年(昭和57年)3月からで、Kが敬子に名古屋のモデルクラブである「トップファッションクラブ」を紹介したことがきっかけだった。しかし、モデルクラブ在籍はわずか8ヶ月だった。

1983年(昭和58年)3月、敬子は化粧品の「関西マックス販売」名古屋支店に入社し、メイクアップアーチストとして「ダイエー」一宮支店に派遣されていたが、1年足らずで辞めた。

そのあとは、Kの勧めで岐阜の金津園の高級ソープランド店「貴公子」で働くことになった。当時の「貴公子」は入浴料が1万円、サービス料は金津園ではトップクラスの2万5000円だった。

「関西マックス販売」に提出した履歴書によると、<身長163センチ、体重44キロ、スリーサイズは78、56、82>とあり、均整のとれたプロポーションであった。Kは敬子をモデルにすることによって、ヒモになることを狙ったが、敬子はOLになってしまった。そこで、Kは敬子をソープ嬢にした。もちろん、大金をしぼり取るために、そうさせたのだった。

敬子は殺されるまでの1年半、「貴公子」に勤めることになるが、敬子はここで猛烈に稼ぎまくった。名古屋で発行されている風俗情報誌『プレイマガジン』(プレイマガジン出版)に、敬子のことが写真入りで紹介されたことがある。

<渚さん(敬子の源氏名)は身長163センチ、バスト85、ウエスト60、ヒップ88のプロポーション。水泳で鍛えた抜群のこのプロポーションと、美しい髪が評判のサーファーギャルです。彼女の得意なテクはイス洗い。でも、こんな美女にジュニアやタマタマをニギニギされたら、小心者のお父さんはひとたまりもなくダウンですね>

前と比べ、だいぶふっくらとした体型になったようである。風俗情報誌であるだけに、そのサイズに少々のゴマカシがあるとはいえ、ソープ嬢としては見事な体型である。

敬子はそこで稼いだお金の管理をKにまかせていたが、Kは銀行に自分名義の口座を作り、敬子に無断で外車を買う資金や女遊びするためのお金に充て、殺害までに2000万円使ってしまう。

1986年(昭和61年)10月の初めごろ、敬子は、自分のお金が勝手に使われていることを察知し、その代償として、kに対し一緒に上京して同棲してくれと迫ったが、拒否されると、2人の関係を学校や家族に言いふらしてやると脅迫した。そんなこともあって、Kは4年余りに渡った愛人関係をこの辺で清算したいと思うようになった。と同時に敬子に対し殺意を抱くようになる。

一方、Kの教え子であったA子は、9月24日ころ、Kが岐阜西工業高校に勤務していると知り、懐かしさからKを訪ねた。A子はKに男関係の相談をしたが、結局、それで付き合っていた男と別れ、1年ほど准看護婦として働いた病院を10月7日に辞め、翌8日には、敬子が住んでいる「東カンキャステール」の1046号室に引っ越している。

准看護婦・・・保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律(改正保助看法)が2001年(平成13年)12月6日に成立、12月12日に公布、翌2002年(平成14年)3月1日に施行された。これにより、保健婦・士が「保健師」に、助産婦が「助産師」に、看護婦・士が「看護師」に、准看護婦・士が「准看護師」となり、男女で異なっていた名称が統一された。

KはA子に対してもソープで働くよう勧めている。敬子の部屋は501号室だった。そのときからA子はKの愛人となった。10日、Kは敬子を殺害するために使う木箱(縦1メートル、横56センチ、高さ70センチ)をA子と一緒に購入した。

10月11日の夜、Kは敬子を自宅近くで、ランクルに乗せ、「妻に見られたら困るから」とだまして荷台に用意しておいた木箱に敬子を入れ、隠しておいた金づちで背後から敬子の頭などを数回、殴打。さらに、ひもで首を締めようとしたが、抵抗されたため、箱に押し込めて施錠した。

Kは凶器になるような物が岐阜西工業高校にあると思い、一旦、同校へ行くが、このまま、敬子が死んでくれないかと思い、名古屋市内に戻って、再び、同校に行き美術室に入って、ふたを開けると、敬子が生きていて、「言うことを聞く。先生のことは誰にも言わない」と哀願した。敬子に睡眠薬を飲ませ両手首をビニールひもで縛った。敬子は「先生に尽くしてきた。先生が私の夢を摘んだ」と訴えた。

夜が明けた12日の午前5時ころ、Kは「守衛が見回りに来るので木箱の中に隠れろ」と命じ、敬子に猿ぐつわをして中に入れ、タオル200本やクッションなどを押し込んだ。Kは美術準備室に逃げ込み、窒息死するのを待った。約3時間後の8時過ぎ、Kは敬子が窒息死したのを確認した。

死体を教室の隅に隠し、その日から死体を遺棄する3日間は授業を休むこともなく続けた。Kは死臭が気になり、遺棄することに決め、A子を共犯に加えることにした。

14日午後10時ころ、木箱のままランクルに乗せ、羽島市内の自動車工業の中古車展示場に着くと、死体を木箱から出し、両腕をタオルで縛ってガソリンを振りかけてライターで点火した。

後に、中古車展示場を遺棄する場所に選んだのは “意外性” があるからと、Kは答えている。

その後、Kは名古屋に戻り、A子を「東カンキャステール」の1046号室に送り届けると、同じマンションの敬子の部屋である501号室に合鍵で入り、自分の指紋をふき取る作業をした。その後、そこから500メートルしか離れていない自宅に戻っている。

1987年(昭和62年)12月8日、岐阜地裁は、Kに対し懲役15年、共犯にされたA子に対し懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の刑を下した。だが、検察側が控訴した。

1988年(昭和63年)6月21日、名古屋高裁は、Kに対し2200万円の示談金にもかかわらず、それは、被害者に貢がせたお金の返済に過ぎない、との解釈から、岐阜地裁の1審での判決が破棄され、無期懲役を言い渡した。Kはこの判決を不服として上告した。

1990年(平成2年)2月23日、最高裁は上告を棄却した。これでKの無期懲役が確定した。

参考文献・・・
『情痴殺人事件』(同朋舎出版/斎藤充功・土井洸介/1996)

『殺人評論』(青弓社/下川耿史/1991)

『昭和性相史 PART4』(第三書館/下川耿史/1993)

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]