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海外の事件

50音順に記載。各事件の項目は左から事件内容、関連書籍など、関連DVD/VHSの順に記載。リンクは同じ窓で開くので別窓で開く場合は[Shift]キーを押しながらクリック。 随時、項目を増やしていく予定。
アイリーン・ウォーノス
アルバート・デサルヴォ
アンドレイ・チカチーロ
アンリ・ランドリュー
イテウォン殺人事件
インディアナ少女虐待事件
ウインヴィル連続少年殺人事件
エド・ゲイン
O・J・シンプソン事件
切り裂きジャック
クラッター一家惨殺事件 / 『冷血』
コロンバイン高校銃乱射事件
サム・シェパード事件 / 『逃亡者』
ジェフリー・ダーマー
ジョン・R・H・クリスティ
人民寺院事件
ゾディアック事件
チェイス・マンハッタン銀行襲撃事件
チェスター・ジレット
チャールズ・スタークウェザー
チャールズ・マンソン
テキサスタワー銃乱射事件
テッド・バンディ
八仙飯店一家殺人事件
パメラ・スマート
華城(ファソン)連続殺人事件
ブラック・ダリア事件
ブランドン・ティーナ惨殺事件
ペーター・キュルテン
ベルナルド事件
ヘンリー・リー・ルーカス
ボニー&クライド
ボビー・ケント殺人事件
マーカス兄弟
柳永哲(ユ・ヨンチョル)
リトビネンコ暗殺事件
『20世紀の冷酷犯罪史』
参考文献・・・
『現代殺人百科』(青土社/コリン・ウィルソン&ドナルド・シーマン/2004)
『世界残酷・猟奇ファイル 人類を震撼させた血塗られた欲望』(日本文芸社/冬門稔弐/2004)
『映画になった戦慄の実話 真相はそうだったのか! 』(鉄人社/鉄人ノンフィクション編集部/2011)

『映画になった戦慄の実話 Vol.2 真相はそうだったのか!』(鉄人社/鉄人ノンフィクション編集部/2012)
『ハンギョレ新聞』(2015年9月23日付)
アイリーン・ウォーノス

アイリーン・ウォーノス --------------------------------------------------
本名・アイリーン・キャロル・ピットマン。全米でも初と言われた女性の連続殺人鬼で、1989年〜1991年にかけて米国フロリダ州で7人の男性を殺害した。

1956年2月、アイリーンはミシガン州に生まれた。母親は15歳でアイリーンを生んだが、半年後に家出した。父親は幼児性愛者で8歳の少年を誘拐して虐待し、その後、刑務所で自殺した。親の代わりに祖父母がアイリーンを育てたが、祖母はアルコール中毒で、祖父は性的にも肉体的にも虐待した。さらに父親の親友だった男や2歳上の兄までもレイプした。

9歳でタバコほしさにフェラを覚え、13歳で妊娠。赤ん坊は養子に。と同時に家を出て売春を始めた。森の中の廃屋で生活し、昼は学校に行き、夜は客を探す毎日だった。

16歳でコロラドへ移り、飲酒運転中に銃を発砲して警察に逮捕された。

20歳の頃、病死した兄の保険金を手に入れ、フロリダに移った。ヒッチハイクで出会った69歳の石炭会社の社長と結婚するも、夫に対する暴力でわずか1ヶ月で離婚。

1981年、コンビニ強盗で1年ほど服役。偽造小切手を使用して逮捕されたこともあった。

1986年、アイリーンはデイトナのゲイバーでティリア・ムーアという24歳の女性と出会い、同性愛関係になり一緒に暮らすようになった。ティリアはホテルのメイドの職を辞め、2人で売春と窃盗で稼いだ。2人の恋愛感情は1年ほどで冷めたが、信頼しあえる友人として一緒に行動した。

1989年12月、アイリーンはいつものように幹線道路脇にたたずんで客待ちをしていると電気屋を営む51歳の男が車を停めた。アイリーンは車に乗り込むと、男は豹変し、アイリーンを殴りつけた上にハンドルに手を縛り付けて乱暴にレイプし始めた。アイリーンは身の危険を感じ、縄を必死で解くと護身用の銃を撃って殺害。男からサイフを奪うと死体を森に棄てた。ニュースで迷宮入りになったのを知り、これ以降、1991年11月までトラック運転手や元警察署長など計7人を殺害。ティリアは少なくても1件の殺人事件に関与していたので自分が罪に問われないことを条件にアイリーンの犯行であることを警察に知らせた。

マスコミはアイリーンを「モンスター」と名付け、犯行を書き立てた。裁判が始まり、アイリーンは最初の殺人が正当防衛であることを訴えたが、1992年、陪審は死刑評決を下した。後日、被害者の男性が別の州で暴力的なレイプ行為で10年間服役していたことが判明したが、再審は行われなかった。

2002年10月9日、薬物注射で死刑が執行された。46歳だった。

アイリーンは聖書と一緒に火葬されることを望み、最期の言葉は「私はキリストと船に乗って旅立ち、再び地上に現れる」だった。


『シリアル・キラー アイリーン 「モンスター」と呼ばれた女』(DVD/出演・アイリーン・ウォーノス/2004)

ドキュメンタリー映画。当時のニュース映像や処刑前日のアイリーンへのインタビューも納められている。


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『モンスター 通常版』(DVD/監督・パティ・ジェンキンス/出演・シャーリーズ・セロン&クリスティーナ・リッチほか/2005)

2003年、アカデミー&ゴールデン・グローブ賞で主演女優賞をシャーリーズ・セロンが受賞。

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『テルマ&ルイーズ』(DVD/監督・リドリー・スコット/出演・スーザン・サランドン&ジーナ・デイヴィスほか/2001)
アルバート・デサルヴォ

アルバート・デサルヴォ--------------------------------------------------
本名・アルバート・ヘンリー・デサルヴォ。1931年、6人の子どもの3人目として米国マサチューセッツ州イェルシーで生まれた。父親はその妻と子どもたちをよく殴った。1944年、両親が離婚。デサルヴォは10代で押し込みの前科が記録された。17歳のとき、軍隊に入隊し、占領軍の一兵士としてドイツで勤務した。その地でフランクフルト出身の女性と出会い、結婚した。デサルヴォは小柄だが、頑丈な体格をしており、欧州駐留米軍ミドルウェイト級のチャンピオンになったことがある。米国に帰り、除隊を待つ身となった。

1955年1月、フォート・ディスクという土地で9歳の女の子に性的ないたずらをしたが、その子の母親は世間に知られることを嫌って訴訟を拒んだ。軍は何の処置もせず、1956年にデサルヴォは名誉ある除隊資格を得た。デサルヴォは妻との性生活でのトラブルが絶えなかった。一日に5、6回も性交を求めた。妻は嫌がった。デサルヴォはセックスのはけ口を外に求めた。

デサルヴォは「寸法取り男」になった。これは警察側が付けた名前だった。数えきれないほどのアパートの私室を訪れ、応対に出た女性にモデル会社からきたと言葉巧みに言い寄り、女性が少しでも興味を示すと室内に入り込み、ポケットから巻尺を取り出して、バスト、ウエスト、ヒップなど可能な限り、身体の各所に触れながら寸法を取った。だが、危害を加えることはなかった。寸法を取り終えると、後ほど契約のため会社から担当者が来ると約束した。もちろん、担当者が来たことはなかった。

1960年3月17日、デサルヴォが逮捕され、「寸法取り男」であることを認めた。裁判では押し込み未遂だけの容疑で2年の懲役刑となった。刑務所では模範囚として11ヶ月で仮釈放となった。だが、妻からは人柄がまともになるまで性生活はできないと言われた。

デサルヴォは「グリーンの男」になった。犯行時にいつも緑色のズボンをはいていたところから付けられたあだ名だった。「グリーンの男」は地元ボストンだけでなく、隣のコネチカット州までその行動範囲を広げた。言葉巧みに室内に入ると縛り付けて凌辱した。デサルヴォは「ボストン絞殺魔」と自称した。1962年6月14日〜1964年1月4日までに19歳から85歳までの女性13人がその犠牲となった。高齢の女性は「犯されていない」こともあったが、ワインの瓶などによって「犯されていた」。デサルヴォは置き土産として絞殺に使ったヒモやネクタイを「蝶結び」にしていた。

その後、絞殺魔は出現しなかったが、レイプ事件は起こっており、被害者から共通する証言が得られた。犯人は緑色のズボンをはいていることが多く、出ていくときに必ず謝る。その声はハスキー。凶暴ではなく、礼儀正しい。警察では絞殺魔とは別扱いだった。警察は過去に起きた「寸法取り男」を思い出し、面通しが行われた。被害者は一様にデサルヴォを指差した。

逮捕されたデサルヴォは精神病と診断され、病院に送られた。病院の患者仲間には「ボストン絞殺魔は俺だ」と自慢していたが、警察の取り調べでは絞殺魔であることを完全否定していた。証拠は患者仲間に自慢していた「自白」だけだった。デサルヴォは絞殺魔事件以外の明確に立証できるレイプや押し込みによって起訴された。裁判での判決は終身刑だった。1967年に刑務所に送られたが、6年後の1973年11月、刺殺体として発見された。心臓をひと突きされていた。犯人不明の謎の死だった。
『絞殺 ボストンを襲った狂気』(早川書房/ジェロルド・フランク/1968)

『絞殺魔』(DVD/監督・リチャード・フライシャー/出演・トニー・カーティス&ヘンリーフォンダほか/2010)

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『ボストン ストッキングキラー ボストン連続絞殺魔』(DVD/監督・マイケル・フェイファー/出演・デヴィッド・ファウスティーノほか/2009)
アンドレイ・チカチーロ

アンドレイ・チカチーロ---------------------------------------------------
1936年10月16日、アンドレイ・チカチーロはロシア南西部のロストフ州ノボチェルカスクで生まれた。少年時代は第二次大戦の最中で絶えず死の恐怖にさらされて生きる毎日だった。チカチーロの兄は飢えて絶望的になった人々に連れ去られて食べられてしまったという。その忌まわしい記憶はチカチーロの心の奥底に焼きついていた。チカチーロは貧困から逃れようと勉学に励み、常にトップクラスの成績だった。思春期、性的な趣味は人一倍あったが、女性と付き合う勇気がなかった。チカチーロは性的不能を自覚しており、射精できても勃起しなかった。ロストフ大学でロシア文学を学び、優秀な成績で卒業。忠実な共産党員でもあった。

1966年、結婚。妻とのセックスはたまにうまくいくことがあり、男女2人の子どもをもうけている。70年代半ば、チカチーロはノボ・シャンティクスにある寄宿学校の文学教師になった。教師の立場を利用して女子生徒の体に触り、放課後に生徒を犯そうとして逮捕された。だが、学校を退職することで放免された。その後、商業専門学校に職を得た。

1978年12月22日、チカチーロは9歳の可愛らしい少女を見つけるとガムを与え、ロストフ郊外の自分の別荘に連れ込んだ。そして、押し倒して叫ぶ少女の口を押え、服をはぎ取った。チカチーロはペニスを少女の陰部に押し付けたが、勃起できなかった。手の届くところにナイフがあるのを見つけ、手に取ると少女をめった突きにした。異常に興奮し、絶頂感の中で射精した。その後、首を絞めて殺害し処分した。以後、ロストフの森から子どもたちが失踪し始めた。性別不能なほど切り刻まれた少年少女の死体がロシア、ウクライナ、ウズベキスタンをつなぐ鉄道沿いの森から次々と発見された。チカチーロは1990年に逮捕されるまで少なくとも52人の少年少女を強姦し、むごたらしい方法で殺害し続けた。男女の区別なく裸にし馬乗りになってナイフなどで何十か所も突き刺し、舌を噛みちぎり、交わったあと射精し殺害した。体をバラバラに切り刻み、切り取った肉や性器は料理して食べることもあった。

かつて旧ソ連は自国内の犯罪の存在を公式には認めていなかった。「犯罪は堕落した資本主義の産物で労働者の天国には存在する余地はない」というのが旧ソ連首脳の主張だった。事件が起きても警察に通報することは稀で、旧ソ連の支配下にあった警察は通報者を社会の混乱を画策する反体制分子と見なす可能性が高かった。そのため、ロストフでの大量殺人事件でも警察が本格的に捜査するまで時間がかかった。

連続殺人の増加とともに本格的な操作が開始され、50万人に及ぶ人間が取り調べを受けたとされる。沿線の駅で獲物を物色するチカチーロの姿はしばしば目撃されており、何度も尋問を受けている。ところが、チカチーロは百万人に1人の割合で存在すると言われている精液と血液のタイプが一致しない人間だった。だが、逮捕の決め手がないだけで、ブラック・リストの最上段にはチカチーロの名前はリスト・アップされていた。チカチーロのアリバイや過去が徹底的に再調査され、1990年11月20日、チカチーロは逮捕された。

1992年10月14日、死刑判決。1994年、銃殺刑による死刑執行がされた。


『52人を殺した男 異常性犯罪の欲望と心理』(イースト・プレス/ミハイル・クリヴィッチ&オルゲルト・オルギン/1995)

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『子供たちは森に消えた』(ハヤカワ文庫/ロバート・カレン/2009)


『ロシア52人虐殺犯 チカチーロ』(DVD/監督・クリス・ジェロルモ/出演・スティーブン・レイほか/2001)

監督のクリス・ジェロルモは映画制作のため、獄中のチカチーロに面会している。チカチーロに犯人役のジェフリー・デ・マンが本物そっくりで怖い。
アンリ・ランドリュー

アンリ・ランドリュー -----------------------------------------------------
1914年〜1919年までの4年間、第1次世界大戦さなかのフランスで10人の「戦争未亡人」と1人の少年を殺害した。1869年、ランドリューはパリに生まれた。1893年、フランス陸軍に従軍中、従妹レミーと結婚。除隊後、サラリーマンとして真面目に働いたが、給料から天引きの積立金を雇い主に持ち逃げされた。その後、ランドリューは詐欺などの犯罪で短い期間の服役を断続的に重ねていった。その間に母親が死に、父親が息子の罪を恥じて自殺した。1914年、ランドリューはブティックに勤務する39歳の未亡人とその16歳の息子と一緒にパリ郊外の町で同棲するが、翌年2人揃って消息を絶った。以後、同じく未亡人に近づいては結婚を匂わせて、同棲して金品を奪って殺害する。これを10件繰り返した。だが、やがてランドリューは逮捕され、裁判で死刑判決が確定した。

このランドリュー事件に最初に興味を示したのが『市民ケーン』を25歳で監督&主演したオーソン・ウエルズで、ランドリュー事件をチャップリン主演でドキュメンタリー的な犯罪映画として制作しようと考えていたが、チャップリン自身がこのアイデアを5000ドルで買い取り、自作自演による『殺人狂時代』(原案・オーソン・ウエルズとクレジットされている)を制作した。


『殺人狂時代 コレクターズ・エディション』(DVD/2枚組/監督&主演・チャールズ・チャップリン/2004)
イテウォン殺人事件

イテウォン殺人事件 ----------------------------------------------------
1997年4月3日午後10時過ぎ、韓国ソウル市梨泰院(イテウォン)のハンバーガーショップのトイレで大学生のチョ・ジュンピル(22歳)が殺害された事件。首を7回、胸を2回刺され血まみれで死んでいるのを発見された。

やがて、アーサー・パターソン(当時18歳)という男性が連行され、この男に「クールなものを見せてやる」と誘われてトイレに同行して犯行を目撃した友人のエドワード・リー(当時17歳)が出頭してきた。

パターソンは在韓米軍軍属の息子で、リーがアメリカ国籍だったため、「米韓地位協定」により、身柄が拘束できるのはアメリカ軍の犯罪捜査隊(CID)だけで、アメリカ側が立ち合わない供述は証拠にならないなどいくつもの障害があった。

米軍捜査隊は事件直後「パターソンが人を殺した」という情報提供を受けて、米軍軍務員の息子であるパターソンを検挙した。しかし、事件を引き継いだ検察は、パターソンの代わりに、当時のハンバーガー店で一緒にいたリーを疑った。解剖医が「被害者があまり抵抗せずに死亡したことから、加害者は体が大きく、強力な力を持った人」であり、「傷の一部が上から下方向に向かっていることから、加害者の身長が被害者よりも高いと思われる」という所見を示したためだ。韓国系米国人であるリーは、身長が180センチメートルで、体重が105キログラムの巨体だった。一方、パターソンは172センチメートルに60キログラムだった。当時トイレに立ち寄っており、服に血が付着していた2人中の1人が凶器を振り回したのは明らかだったが、取り調べでパターソンとリーは殺害したのは互いに相手だと言い張り、状況からパターソンは凶器準備で、リーは殺人罪で起された。

裁判の結果、パターソンは懲役1〜1年6ヶ月の不定期刑が確定し、1998年8月に特赦で釈放されると出国禁止期間が完了した1999年8月にはアメリカに帰ってしまった。

一方、リーは1審で無期懲役。2審で懲役20年の判決だったが、1998年、大法院(最高裁)で「パターソンの陳述の信憑性が疑わしいため、リーの単独犯行と断定するのは難しい」として、事件を破棄して審理差し戻しで、翌1999年に無罪が確定した。

2009年10月、法務部はパターソンの所在が把握されたことを受け、米国に犯罪人の引渡しを請求した。

2011年5月、パターソンが逮捕され、犯罪人引渡し裁判にかけられて、翌2012年10月に米国の裁判所が引渡しを許可した。パターソンは送還を回避しようと、地元の裁判所に人身保護請願を出したが、控訴審で請願と再審申請が棄却され、韓国送還が決定された。

2011年12月、ソウル中央地検がパターソンを起訴。

2015年9月23日、仁川空港に向かう便で送還される予定。


『イテウォン殺人事件』(DVD/監督・ホン・ギソン/出演・チャン・グンソクほか/2010)
インディアナ少女虐待事件

インディアナ少女虐待事件 ----------------------------------------------
1965年10月26日朝、米国中西部インディアナ州の州都のインディアナポリスの住宅街の一軒家で通報で駆け付けた警察官は1人の少女が薄汚れたマットレスに横たわっている姿を見つける。異様なほどやせ細り、腹部にはI AM A PROSTITUTE AND PROUD OF IT=i私は売春婦、それが自慢なの)の文字があった。16歳のシルヴィア・ライケンスが地下室に閉じ込められ、連日にわたり虐待を受け、ショックと脳内出血、栄養失調で死亡した。犯人は下宿先の女主人のガートルード・バニシェフスキー(当時36歳)とまだ十代の子どもたちだった。

ガートルードは16歳で2つ年上の元保安官と結婚して4人の子どもを授かるが、夫の暴力が原因で離婚。その後よりを戻してさらに2人の子どもを出産したが、1963年にまたも別れることに。

被害者の少女のシルヴィアは5人兄弟の真ん中で父親のレスターが移動カーニバルの従業員ということもあり、引っ越しが多かった。両親は喧嘩が絶えず、子どもは親戚などに預けられる生活だった。

1965年7月、子どもを預けていた祖母が万引きで捕まり、子どもの預かり場所に悩んでいたライケンス夫婦だったが、知り合ったばかりのガートルードが自ら申し出て、週20ドルでシルヴィアと妹ジェニーを預かることになった。

最初の1週間は問題なく過ぎた。シルヴィアとジェニーはガートルードの長女のポーラ(当時18歳)や次女のステファニー(当時15歳)と一緒に学校や教会に行く仲だった。

だが、翌週に入るとシルヴィアとジェニーの父親からの小切手が遅れ、ガートルードがシルヴィアとジェニーの尻を酷く叩いた。翌日、お金は無事届いたが、ガートルードは自分の子どもや近所の遊び仲間を集めて、しつけを口実にシルヴィアに体罰を加えるようになった。

8月に入るとガートルードは長男のジョン(当時14歳)やポーラ、さらに近所の子どもたちにも殴らせ始めた。

10月になると虐待はエスカレートし、ガートルードはシルヴィアの登校を禁じ、タバコの火を押し付けるようになった。食べ物もろくに与えられず、トイレも禁じられ、夕方になると「ショー」が始まった。殴る蹴る。階段から突き落とす。ストリップをさせて局部にコーラの瓶を挿入。排泄物を食べさせる。熱湯に押し込める、、、。

10月26日、シルヴィアが死亡すると、近所に住んで虐待に加担していた少年(当時15歳)が警察に通報した。警察官が駆け付けるとガートルードはシルヴィアに無理矢理書かせた手紙を差し出した。「私は悪い子です・・・」。

裁判でガートルードの終身刑が確定。娘のポーラや息子のジョンなど計4人の2〜21年の不定期刑が確定。他の5人は不起訴となった。

1985年12月4日、模範囚だったためガートルードが仮釈放。

1990年6月16日、ガートルードが肺がんで死亡。60歳だった。


『隣の家の少女』(扶桑社ミステリー文庫/ジャック・ケッチャム/1998)


『アメリカン・クライム』(DVD/監督・トミー・オヘイヴァー/出演・エレン・ペイジ&キャサリン・キーナーほか/2008)

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『隣の家の少女』(DVD/監督・グレゴリー・M・ウィルソン/出演・ブライス・オーファース&ダニエル・マンシェほか/1998)
ウインヴィル連続少年殺人事件

ウインヴィル連続少年殺人事件 ------------------------------------------
1928年2月、米国カリフォルニア州南東部の田園風景が広がるウインヴィルで溝の中でメキシコ人と思われる少年の首なし遺体が発見されたことから警察が動き出した。近所に住むウインズロウ兄弟(12歳と10歳)が養鶏場主のゴードン・ノースコット(当時20歳)と一緒にいるところを目撃されたのを最後に行方不明になっていることが明らかになった。

さっそくロス市警がゴードンの養鶏場に行くとメキシコ人少年の頭部があり、その場にゴードンの甥のサンフォード(当時14歳)がいた。サンフォードは自白を始める。ゴードンは町に出ては10歳前後の少年たちを誘拐し、養鶏場に監禁。口や手を使って性的虐待を繰り返した上で同様な性的嗜好をもつ客に貸し出し金を稼いでいた。飽きると銃や斧で殺害。その数20人ほど。サンフォード自身も虐待を受けた被害者で誘拐や遺体の処理の手伝いをさせられていた。さらに、ゴードンの母親のサラ・ルイーズもゴードンに脅されて少年の誘拐や殺害に直接手を下したこともあった。

裁判が始まるが、ゴードンは弁護人を雇わず、矛盾だらけの供述を繰り返した。サンフォードの証言により、血に染まった斧や大量の人骨などたくさんの物証があったが、被害者を特定できたのはメキシコ人少年とウインズロウ兄弟だけだった。ゴードンは3人の少年に対する殺人の罪で死刑が確定。

母親のサラは素直に5人の殺害を認め、終身刑が確定。

サンフォードは司法取引で不起訴となったが、氏名変更命令を受けた後に少年院送致となり、ほどなくカナダに強制送還された。

1930年10月2日、ゴードンの死刑執行。22歳だった。

1940年、母親のサラが仮釈放。1944年、病死。

この事件を元に制作された映画に『チェンジリング』があるが、ウインヴィル連続少年殺人事件についてはあっさりとしか描かれていない。9歳の息子のウォルター・コリンズが行方不明になり、5ヶ月後、ロス市警は捜査の怠慢から母親のコリンズ夫人に別の少年を押し付け、さらにわが子ではないと訴えるコリンズ夫人を異常者扱いした上で精神病院に送り込んでいる。この母親役をアンジェリーナ・ジョリーが熱演している。

コリンズ夫人は腐敗した警察を訴え、失踪人課の担当警部と市警本部長を免職&罷免に追い込んでいる。


『チェンジリング』(DVD/監督・クリント・イーストウッド/主演・アンジェリーナ・ジョリー/2009)

2008年度、アカデミー賞最優秀女優賞をアンジェリーナ・ジョリーが受賞。
エド・ゲイン

エド・ゲイン ------------------------------------------------------------
本名・エドワード・セオドア・ゲイン。米国の殺人者、墓荒らし。地元の墓場から掘り返した死体で作り出した恐ろしい「戦利品」と「記念品」を警察当局に発見されたことで名を馳せた。人間の死体を使って、ランプシェイドやブレスレットを作ったことで知られており、米国の殺人史を代表する1人である。

1906年、エドは米国ウィスコンシン州に生まれた。母親は極めて禁欲的な女性で子どもを作る以外は夫とのセックスを拒否。それが原因なのか父親はアルコール依存症に陥り、酔っては母親に暴力をふるった。エドと兄は母親から「女と交わると天誅が下る」「他者と関わると悪が侵入する」などというデタラメなことを教えられた。兄はそれでもまともに育ったが、エドは歪んだマザコン男になっていった。

1940年、父親死亡。1944年、兄死亡。1945年、母親死亡。39歳で天涯孤独になったエドはときおり近所の手伝いをする以外は自宅に引きこもり、やがて妄想の世界にのめり込むようになる。

1957年11月、ウィスコンシン州プレインフィールド。人口わずか600人の小さな町で金物屋を営む1人の中年女性が行方不明になった。

地元の警察が捜索に乗り出したところ、住民の聞き込みから町はずれの農場に住む50代の独身男性のエド・ゲインが捜査線上に浮上した。

その情報を元にエドの家にガサ入れした警察はそこで信じられない光景を目にした。

腸をすべて取り除かれ逆さ吊りにされた首のない死体。人間の頭蓋骨の上半分を切り取り加工したサラダボウル。人間の皮でできた椅子やごみ箱。人肌でつくったマスクなど解体された死体はすべて女性で確認されただけで15体。その中には今回行方不明になった金物屋の中年女性と3年前に行方不明になっていた酒場の中年女性も含まれ、残りはエドが近所の墓場から掘り起こした死体だった。

11月16日、武装強盗の別件で逮捕されたエドだったが、2人の殺害で有罪判決となった。だが、最終的に慢性的な精神障害(性的サイコパス)として無罪になり、「重度の精神病患者」として、刑務所ではなく、ミネソタ州立精神病院に収監された。その後は精神病院で過ごし、1984年7月26日、癌による呼吸不全で死亡した。77歳だった。

エド・ゲインの異常性をモデルとした映画作品は数多く作られている・・・『悪魔のいけにえ』『テキサス・チェーンソー』『サイコ』『羊たちの沈黙』。

『羊たちの沈黙』に登場する連続殺人者のハンニバル・レクターのモデルの1人(もう1人はヘンリー・リー・ルーカス)になっている。『レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙』(1986年)は『羊たちの沈黙』の前作といえる作品で、レクター博士を逮捕したFBI捜査官が主人公。副題の「レクター博士の沈黙」は『羊たちの沈黙』がヒットしたので改めて付けられたもの。以前は『刑事グラハム/凍りついた欲望』というタイトルで発売された。


『オリジナル・サイコ 異常殺人者エド・ゲインの素顔』(早川書房/ハロルド・シェクター/1995)

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『Photo:エド・ゲイン1957 1』(INFINETE PHOTOGRAPHS)

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『Photo:エド・ゲイン1957 3』(INFINETE PHOTOGRAPHS)


『エド・ゲイン』(DVD/監督・チャック・バレロ/出演・スティーブ・レイルズバックほか/2004)

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『エド・ゲイン』(DVD/監督・マイケル・フェイファー/出演・ケイン・ホッダー/2011)

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『羊たちの沈黙』(DVD/監督・ジョナサン・デミ/出演・ジョディ・フォスター&アンソニー・ポプキンスほか/2004)

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『レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙』(DVD/監督・マイケル・マン/出演・ウィリアム・ピーターセンほか/2008
O・J・シンプソン事件

O・J・シンプソン事件 ---------------------------------------------------
 1994年6月13日午前0時10分頃、米国カリフォルニア州ロサンゼルスで元プロフットボール選手であり俳優で有名なO・J・シンプソンの元妻のニコール・ブラウンとその友人のロナルド・ライン・ゴールドマンが血だらけの死体でニコールの自宅玄関前で発見された。ゴールドマンは身長が180センチあり、格闘技の達人であったため体格や腕力の勝る男性による犯行が濃厚と考えられた。

6月16日、第1級殺人罪でシンプソンに逮捕令状が下りたとき、友人のアル・カウリングズの運転するフォード・ブロンコの助手席に乗り、ロサンゼルスのフリーウェイをパトカーの追跡を振り切ろうとしたため、事態はカーチェイス模様を展開。この逃亡劇は全米のテレビで生中継された。だが、シンプソンは2時間後に逮捕された。

シンプソンは全面無罪と主張し陪審裁判で決着をつけることとなった。被害者が白人で、加害容疑者が黒人(アフリカ系アメリカ人)であったため、この裁判では人種問題が大きく取り上げられた。「人種偏見によって裁判が行われてはならない」として、判事は黒人でも白人でもない日系アメリカ人のランス・イトウが選出された。なお人種問題は検察の求刑にも影響した。死刑を求刑すれば「黒人だからだろう」と黒人住民に非難され、有期懲役を求刑すれば「スーパースターだからか」と白人から非難されるからである。そのこともあって結果的に検察側は仮釈放無しの無期懲役を求刑した。弁護団は陪審員を黒人が多い地区から選出することを要求し、採用された。また白人が選出されても検察・弁護側に認められている専断的拒否権(理由を述べることなしに、選出された陪審員を除外することが一定回数以下は可能な権利)を弁護団が最大限に行使した結果、陪審員12人のうち9人を黒人にすることに成功した。

裁判は弁護団のペースで進められ、犯行に使用したと思われる手袋がシンプソンの手に合わなかったことが陪審員に合理的疑問を抱かさせてしまったことも重なって、 最終的に、1995年に陪審員は全員一致で「無罪」と結論し、そのまま判決となった。アメリカでは無罪における検察の上訴は憲法修正第5条により認められていないので、シンプソンの無罪が確定した。

刑事裁判では無罪となったが、もう一人の被害者であるロナルドの父親・フレッド・ゴールドマンによって民事裁判が起こされ、裁判長には日系人のヒロシ・フジサキが選ばれた。憲法修正第7条によって、民事裁判による補償賠償と懲罰賠償を加害者にするように求めたのである。この裁判の結果は請求が認められ、父親に722万5000ドル、母親に127万5000ドルの補償をするように命ぜられた。しかし、シンプソンの主な収入であるNFL選手年金は「賠償金支払のために取り上げることが法律で許されない性質を持つ」ため法的に保護されている。シンプソンは一連の民事訴訟による賠償金の借金のため、ハイズマン賞のトロフィーを売却した。

2007年9月16日、シンプソンは5人の男と拳銃で武装してラスベガスのホテルに押し入り、多数のスポーツ記念品を盗んだ容疑で逮捕された。被害者の一人はかつてシンプソンからハイズマン賞のトロフィーを購入した人物で、シンプソンは「盗まれた記念品と妻子の写真を取り戻そうとしただけで、銃など持っていなかった」と主張したが、これは退けられ、2008年12月5日に合計33年の懲役刑が言い渡された。仮出所は最短でも収監9年目以降になる。


『O・J・シンプソンはなぜ無罪になったか 誤解されるアメリカ陪審制度』(現代人文社/四宮啓/1997)

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『O・J・シンプソン事件の真相 スーパースターの大いなる疑惑』(同朋舎出版/シーラ・ウエラ/1996)
切り裂きジャック

切り裂きジャック -------------------------------------------------------
1888年の夏から冬にかけて英国ロンドンの貧民街ホワイトチャペル地区で起きた「切り裂きジャック」による一連の凄惨な売春婦殺しは世界中にセンセーションを巻き起こした。犠牲者は全部で5人だが、8月7日にスラム街のビルの中で殺されたマーサ・タブラムという売春婦を含めると6人になる。

1888年8月31日朝、バックス街の舗道でメアリー・アン・ニコルズという売春婦の死体が発見された。気管と咽喉は完全に切断され、脊髄に達するまで深くえぐられていた。腹は肋骨底部の中央から右側に切り開かれており、膣には2ヶ所の刺し傷があった。

9月8日、アニー・チャップマンが殺害され、腸をえぐり取られ、喉は頭部と胴体がほとんど切断されるほど深くえぐられていた。

9月28日、報道機関に「切り裂きジャック」と署名した犯行を続行する趣旨の手紙が届く。

9月30日、労働者教育クラブの中庭でエリザベス・ストライドの遺体が発見された。右耳の一部を切り取られていた上、喉をえぐられ、全身を滅多切りにされていた。同日、警察の留置場から釈放されたばかりの売春婦キャサリン・エドウズが発見されたが、やはり喉を切り裂かれていた他、腹壁が切開されて内臓が露出し、肝臓も突き刺されていた。しかもこの犯行はわずか15分以内に実行されていた。

11月9日、最後の5人目の犠牲者となるメアリー・ケリーという24歳の売春婦の死体は自室で切り刻まれているのが発見された。内臓の相当部分が摘出され、両脚から皮膚がはぎ取られていた。

「切り裂きジャック」は当時のロンドン警視庁の必死の捜索にもかかわらず、ついに逮捕されずに終わった。もちろん、動機も謎のままである。犯行を繰り返すごとに残虐さが増しているが、5人の殺害後に突然殺人を中止したことが不思議であり、犯人が自殺したか精神病院に入院させられたとする推測も行われた。「切り裂きジャック」の犯人については、外科医、もぐりの堕胎医、弁護士、産婆、王位継承者クラレンス公など様々な名前があげられたが、いずれも犯人であることが否定されている。


『図説 切り裂きジャック』(河出書房新社/仁賀克雄/2001)

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『切り裂きジャック』(講談社/パトリシア・コーンウエル/2003)

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『切り裂きジャック最終結論』(成甲書房/スティーブン・ナイト/2001)

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『切り裂きジャック 127年目の真実』(角川書店/ラッセル・エドワーズ/2015)


『ジャック・ザ・リッパー』(DVD/監督・ウィリアム・タネン/2004)

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『下宿人』(DVD/監督・アルフレッド・ヒッチコック/2007)

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『フロム・ヘル』(DVD/監督・アレン・ヒューズ&アルバート・ヒューズ/ジョニー・デップほか/2006)
クラッター一家4人惨殺事件 / 『冷血』

クラッター一家4人惨殺事件 / 『冷血』 ------------------------------------
1959年11月15日、米国カンザス州で農業を営むクラッター一家4人の惨殺死体が自宅で発見された。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。このあまりにも惨い犯行に『ティファニーで朝食を』(↓)などの著作で知られる小説家のトルーマン・カポーティは5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行。



『ティファニーで朝食を』(新潮文庫/2008)

そして犯人のリチャード・コック(事件当時28歳)とペリー・スミス(事件当時31歳)の2人が絞首刑に処せられるまでを見届けた。捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル。様々な物議をかもした衝撃のノンフィクション・ノヴェル『冷血(in cold blood)』が1966年に誕生した。

1967年、リチャード・ブルックス監督によって忠実に映画化されたが、実際の事件現場で殺害シーンを撮影、法廷場面では実際に裁判が行われた法廷を使用し、陪審員も6人は当時陪審員を担当した人物に演じさせた。

カポーティは『冷血(in cold blood)』で名声を高めたが、以後、1冊も本を出していない。晩年はアルコールと薬物中毒になり、テレビでは不可解な発言を口にするなどした。1984年、心臓発作で死亡。


『冷血』(新潮文庫/トルーマン・カポーティ/2006)


『冷血』(DVD/監督・リチャード・ブルックス/出演・ロバート・ブレイク&スコット・ウィルソンほか/2006)

DVDのパッケージの写真には実際の犯人の眼を写した写真が使われている(上がリチャード・コックで下がペリー・スミス)。

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『カポーティ』(DVD/監督・ベネット・ミラー/主演・フィリッピ・シーモア・ホフマン/2008)

最高傑作『冷血』誕生の陰に隠された真実を描く衝撃作。

アカデミー賞主演男優賞をフィリップ・シーモア・ホフマンが受賞。
コロンバイン高校銃乱射事件

コロンバイン高校銃乱射事件 --------------------------------------------
1999年4月20日、米国コロラド州デンバー郊外のリトルトン市にあるコロンバイン高校で惨劇が起きた。同校2年生のエリック・ハリス(18歳)とディラン・クレボールド(17歳)の2人は自分たちをのけ者扱いする学校という不公平社会をブチ壊そうと計画を立てていた。午前11時10分、エリックとディランは別々の車で学校の駐車場に乗り付けた。事前に食堂に仕掛けていた時限爆弾が混雑する昼食時に爆破し、500人以上が死亡、逃げ延びた者を次々と殺害する予定だった。午前11時17分、セットした時刻になっても爆破は起きず、計画を変更。まずはキャンパス内の丘で昼食をとっていた学生らに銃弾を放った。さらに校内に侵入した2人は廊下ですれ違った教師を撃ったり、教室に爆弾を投げ込んだりしながら図書館へ向かう。午前11時29分、図書館には学生52人と教員4人が隠れていた。2人は机の下に隠れていた学生の頭を冷酷にブチ抜いた。

午前11時42分、2人は図書館を出た。この時点で学生12人が死亡、廊下で撃たれた教師1人が重体だったが、のちに死亡し、計13人が死亡。23人が負傷した。その後、倉庫部屋で爆弾をさく裂させたり、科学室に発砲し、誰もいなくなった食堂でエリックがテーブルに残されたジュースを飲んだり、火炎瓶を投げる姿が防犯ビデオに残されていた。午後12時2分、再び図書館に入り、それぞれが自分の銃で頭部を撃ち抜き、自殺した。

エリックの生前の日記には決行日について書き記している。<NBKの日がやってきた。何をしてもNBKと結び付けている俺。ヤバイ。映画のようだ> NBKは映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(監督・オリバー・ストーン ↓)のことで襲撃計画のコードネームになっていた。



『ナチュラル・ボーン・キラーズ 特別版』
(DVD/監督・オリバー・ストーン/
出演・ウディ・ハレルソン&
ジュリエット・ルイスほか/2011)


『コロンバイン高校銃乱射事件』(河出書房新社/デイブ・カリン/2010)

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『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』(太田出版/ブルックリン・ブラウン&オブ・メリット/2004)

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『その日、学校は戦場だった コロンバイン高校銃撃事件』(インターメディア出版/ミスティ・バーナル/2002)
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『息子が殺人犯になった コロンバイン高校銃乱射事件・加害生徒の母の告白』(亜紀書房/スー・クレボルド/2017)


『コロンバインの空に コロンバイン高校事件を乗り越えて』(DVD/監督・アーリス・ハワード/出演・デブラ・ウィンガー&ラリー・オースティンほか/2006)

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『ディスカバリーチャンネル ZERO HOUR コロンバイン高校銃乱射事件』(DVD/2006)

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『ボウリング・フォー・コロンバイン』(DVD/監督・マイケル・ムーア/2006)

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『エレファント デラックス版』(DVD/監督・ガス・ヴァン・サント/出演・ジョンロビンソン&アレックス・フロストほか/2004)

出演者は全てオーディションで選ばれた現役の高校生で役名も本名がそのまま使われた。2003年のカンヌ国際映画祭でパルムドールと監督賞を受賞。
サム・シェパード事件 / 『逃亡者』

サム・シェパード事件 / 『逃亡者』 ----------------------------------------
1954年7月、米国オハイオ州クリーブランド郊外のサム・シェパード医師の自宅で妻のマリリンが惨殺された。サムの供述によれば、深夜に当然侵入してきた巨漢の男と格闘になり気絶。目覚めたら2階寝室のベッドで妻が血だらけで死んでいたという。サムも首を絞められたような痕があった。だが、まもなくサムは殺人容疑で逮捕された。物証がないにもかかわらず、当時シェパード夫婦の関係が冷え切っていたことやサムに愛人がいることが発覚し、これが動機とされ、陪審員は有罪とし、終身刑を言い渡される。若きエリート医師による妻殺し事件を新聞は連日に渡り大々的に書き立てた。サムの母親は有罪判決後にショックで拳銃自殺し、父親も同じ頃、病死した。サムは刑確定後も無実を訴え続けた。

1963年、ABCテレビでこのサム・シェパード事件をモチーフに制作されたドラマ『逃亡者』(主演・デビッド・ジャンセン)が始まる。ドラマでは妻殺しの犯人として死刑を宣告された医師が警察から逃れながら真犯人を捜すストーリーになっており、全作品60話がDVDでリリースされている。

1966年6月、再審開始でサムは無罪となり、翌年から医師として復帰するが、周囲の疑いの目は変わらず、患者は訪れず、サム自身も長年の心労で精神的にまいっていた。酒とドラッグにおぼれ、医療ミスを犯して医師廃業。その後、45歳でプロレスラーに転身。マネージャーだった20歳の女性と結婚するも半年後の1970年4月、肝不全で死亡。46歳だった。

サムが死んでから数年後、シェパード家の窓掃除人だったリチャード・エバーリングが犯人である疑いが浮上した。別の殺人事件で終身刑となったリチャードが怪しいと思ったサムの一人息子が父親の墓を掘り起し、DNA鑑定を依頼。その結果、事件現場の寝室から家の外に点在していた血痕がリチャードのものであるとして裁判を起こした。リチャードと同じ監獄にいた受刑者から服役中に本人自らが犯人であると認めていた、という証言も得られた。だが、1998年、リチャードが獄中で死亡。2000年には息子の訴えも評決で退けられた。


『逃亡者 SEASON1(全30話収録)』(DVD/出演・デビッド・ジャンセンほか/2010)

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『逃亡者 SEASON2(全30話収録)』(DVD/出演・デビッド・ジャンセンほか/2010)

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『逃亡者』(DVD/監督・アンドリュー・デイビス/出演・ハリソンフォード&トミー・リー・ジョーンズほか/2010)

連邦保安官演じるトミー・リー・ジョーンズがアカデミー助演男優賞を受賞。
ジェフリー・ダーマー

ジェフリー・ダーマー ----------------------------------------------------
本名・ジェフリー・ライオネル・ダーマー。1978年〜1991年にかけて、主に米国オハイオ州やウィスコンシン州で17人の青少年を絞殺し、その後に死姦、死体切断、人肉食を行った。ミルウォーキーの食人鬼との異名を取る。その突出した残虐行為は、1990年代初頭の全米を震撼させた。

1960年、ダーマーは米国オハイオ州の平凡な家庭に生まれた。小学生の頃からウサギやネズミを硫酸で溶かす実験に夢中になり、串刺しにした犬の生首を森に飾って遊んだこともあった。

1978年、18歳のとき、ダーマーは自分がゲイだと気付き始め、ヒッチハイクしていた少年を自宅に連れ込んだが、相手にその気がないことを知ると、鉄アレイで頭を殴って殺害。死体の肛門を犯し、ノコギリでバラして床下に棄てた。

その後、手ごろな死体を求めて墓荒らしをしたが、地面がうまく掘れず断念。男性型のマネキンを買ってマスターベーションしていた。

1987年、ゲイバーで出会った黒人青年とホテルに入ったが、別れる段になって相手を絞殺。遺体はスーツケースに詰めて持ち帰り、屍姦。記念に頭蓋骨だけ手元に残した。

翌1988年、ウィスコンシン州ミルウォーキーに移ったダーマーは動物解体用のナイフを買い揃え、2年間で7人殺害した。死体を凌辱した後、頭部と性器を切り取って冷蔵庫に保管。解体シーンの一部始終を写真に収め、繰り返しマスターベーションに使った。

翌1989年になると「人肉食」を始めた。死体を凌辱した後、内臓や上腕といった大部分はビニール袋に分けて冷蔵庫に詰め込み、あとで少しずつ取り出して、ステーキにして食した。

続いて2人の青年の肉を食すとダーマーの犯行はグロテスクを増していく。

中でも悲惨なのは1991年4月に殺害された青年だった。睡眠薬で眠らせた男を電気ドリルで頭蓋骨に穴を開け、脳に硫酸を流し込んだ。凄まじい頭痛に目を覚ました男は絶叫しながら室内を転げまわった後、絞殺されて死亡する。

1991年7月、ダーマーの異常さに気付いた青年がほぼ全裸の状態で外に飛び出し、警察のもとへ駆け込んだ。ダーマーはその場で逮捕された。

1992年2月17日、936年の禁錮刑に相当する終身刑の判決が下り確定。1994年11月28日、コロンビア連邦刑務所のシャワールームで黒人収容者に撲殺された。34歳だった。


『死体しか愛せなかった男 ジェフリー・ダーマー』(原書房/ブライアン・マスターズ/1999)

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『息子ジェフリー・ダーマーとの日々』(早川書房/ライオネル・ダーマー/1995)


『ジェフリー・ダーマー』(DVD/監督・デヴィッド・ジャコブソン/主演・ジェレミー・レナー/2004)
ジョン・R・H・クリスティ

ジョン・R・H・クリスティ -------------------------------------------------
1950年1月、英国ロンドン中央裁判所でティモシィ・エヴァンス(事件当時24歳)に対し死刑が宣告された。容疑は妻のベリルと1歳の女児のジェラルディンの殺害だった。ともに絞殺死体となってレリントン・プレース10番街の3階建てアパートの自宅の洗濯室で発見された。エヴァンス逮捕のきっかけは前年の1949年11月末に自ら警察に出頭し犯行を自白したことだった。だが、その13日後に突如、自白を撤回。本当の犯人は同じアパートの1階に住むジョン・レジナンド・ハリディ・クリスティ(1898年生まれ/事件当時51歳?)だと言った。だが、それは「たわごと」としてまったく信用されなかった。信用されなかった理由にエヴァンス夫婦が日頃から不仲で喧嘩が絶えなかった事実があった。名指しされたクリスティへの強制捜査も行われなかった。クリスティは元警官(戦時予備警察隊)で知性を備えた中年。一方、エヴァンスは非識字者で精神薄弱気味の運転手だった。法廷ではしどももどろのエヴァンスに対し、証人として呼ばれたクリスティは憤慨して濡れ衣であることを明確に主張した。

1950年3月、エヴァンスの絞首刑が執行された。

1953年3月、レリントン・プレース10番街のアパートの1階に引っ越してきたジャマイカ人のビアスフォード・ブラウンはキッチンでラジオを壁掛けにしようとしてその場所選びで壁を叩いていたが、ある一面だけ音がうつろに響いた。奇妙に思って壁紙を少しはがしてみると大きな食器棚があり、ミイラ化した女性の裸の背中が見えた。他にも2体の死体があり、計3体、いずれも20代の女性で死の直後あるいは直前にレイプされていて、首には絞められた外傷があった。他にもリビングの床下から1体の女性死体が見つかり、裏庭の垣根の支えに2体の女性の死体が使われていて、これで計6体あったことになる。

殺人の被疑者としてこの部屋の前の借り主のクリスティが浮上した。その理由はリビングで見つかった死体がクリスティの妻のエセルと判明したからだった。

同時に別の問題も生じた。約3年前のエヴァンス事件だった。実はこの事件もクリスティが犯人だったのではないか? エヴァンスはクリスティが真犯人だと主張していた。だが、エヴァンスは処刑されている。

約1週間後、クリスティがテムズ川のプットニー橋で自我消失でフラフラしているところをあっけなく逮捕された。一文無しで生気もなく、救世軍の施設などを転々としていたという。そして、クリスティはのらりくらりとエヴァンス夫人とその娘を含めて計8人の女性を殺害したことを自供した。

現代司法はあの死刑は間違いだったとは言えない。

エヴァンスの自供は調書では夫婦喧嘩でついカッとなって絞め殺したとなっているが、クリスティの自供ではエヴァンス夫人が自殺したいと言い、その手伝いをしてくれるならセックスしてもいいと言った。だから、自殺を手伝い、それからセックスした、と。だが、エヴァンスは警察に自首した当初は堕胎手術の途中で妻が死んだと言い、クリスティが犯人だと言うようになってからはクリスティが手術したとも言っていた。

クリスティは取り調べで虚言を続けたため、明確な自分の妻のエセル殺害の容疑だけで起訴された。陪審員は一致で死刑判決を下した。

1953年7月、クリスティの絞首刑が執行された。
『10番街の殺人』(VHS/監督・リチャード・フライシャー/出演・リチャード・アッテンボローほか/1987/現在、廃盤)

クリスティの視点からドキュメント・タッチで追った完全再現映画。本当の殺人現場で撮影されている。
人民寺院事件

人民寺院事件 ---------------------------------------------------------
1931年5月、ジム・ジョーンズ(本名・ジェームス・ウォーレン・ジョーンズ)は米国オハイオ州の貧しい農家に生まれた。幼少の頃から土地の教会の説教に関心を抱いていた。18歳のときに結婚し、インディアナ州インディアナポリスに移り、そこの教会の牧師になったが、公民権運動に深入りしすぎて、この教会を去り、自前の教会を借り受けた。

1960年、人権委員会の理事に任命された。黒人びいき≠ヘジョーンズの評判を高めた。信者も白人よりも黒人のほうが多かった。信者たちの寄付で大型バスをまとめて購入し、カリフォルニア州ユキアに引っ越しし、「人民寺院」(Peoples Temple)を設立した。ジョーンズは「神の啓示」を受けたと表明し、信仰治癒の能力が備わっていると喧伝した。ジョーンズの罰当たりな物言いと派手な行動は恐怖とある種の親近感をもって受け入れられ、信者は増えていった。

70年代に入るとメシア特有の妄想症状が現れ始めた。ジョーンズの変化に気づき、動揺する信者たちの心を取り戻すためには教祖自ら「奇跡」を起こす必要があった。

ある晴れた日の午後、信者たちが戸外でランチを食べていたときに近くの木立で銃声が響き、ジョーンズはテーブルに倒れこんだ。しかし、数秒後に立ち上がり、「こんなことで私は死なない。弾丸は私の体内で効力を失った」と言い放った。ジョーンズが側近に命じて仕組んだ自作自演の「奇跡」だった。

1972年になると、教団内部のことが外部に漏れるケースも出てきた。だが、教団は順調に勢力を拡大していった。ジョーンズはセックスで教団を支配し始めた。ジョーンズは信者にセックスを禁じる通達を出した。ただし、尊父(ジョーンズ)との場合は例外とした。

1974年、教祖のセックス狂いはいっそう凄惨な様相を呈してきた。ジョーンズは信者の妻、その娘、さらには男性信者とさえ関係した。信者の大多数が黒人だったにもかかわらず、ジョーンズは白人としかセックスしなかった。

教祖の横暴に耐えかねて信者だったマートル夫妻は脱会したが、以来、教団関係者からさまざまな脅しを受けた。やがてその娘も脱会し、マートル夫妻はジョーンズ排斥運動に携わることを決意。ジョーンズに不信を抱いているジャーナリストに電話で教団であったことを打ち明けた。

1977年7月、ジョーンズと教団の実態が記事になった。記事は大きな反響を呼び、社会的影響力の大きいニューズウィーク誌もジョーンズ批判の記事を発表。

窮地に立たされたジョーンズは南米ガイアナに1000人を超える集団で移動。ジョーンズタウンと名付けられたその地は南米における布教活動の拠点となった。

ジョーンズはマスコミによる迫害を謀略だと主張し、アメリカ政府が教団に干渉したら集団自殺すると公言した。

1978年11月14日、下院議員のレオ・ライアンと4人のジャーナリストがジョージタウンに向かった。ジョーンズは一行を歓迎する態度をとり、テレビカメラを前に記者会見が行われ、マスコミの報道はデタラメだと主張した。だが、ジョーンズの見ていないところで助けを求める脱会希望者も相次いで現れた。

11月18日、ライアン議員は脱会希望者16人を連れてトラックで飛行場に向かった。飛行場に到着し、飛行機に乗り込む準備にかかったとき、突然、脱会希望者の1人が発砲するとともに、密林からトレーラーで現れた信者たちが武器を手に飛び降りてライアンとジャーナリストたち5人を殺害した。

ジョーンズはジョーズタウンに戻り、全員に青酸カリでの自殺を命じた。まず、赤ん坊に投与、続いて子どもたちに、最後に大人が服毒するように強要された。武装した見張りが銃を構えている。「もっとよい場所で再会しよう」ジョーンズは拡声器で訴えた。こうして914人の信者が自殺した。そのうち267人が子どもたちだった。ジョーンズ自身はしばらく逡巡していたが、結局、ピストルで自らの命を絶った。なお、この集団自殺の生存者はジョーンズタウンから脱走した167人のみであった。この事件による犠牲者は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロまでアメリカ市民の事件による死亡者数では最大であった。


『人民寺院 ジム・ジョーンズとガイアナの大虐殺』(ジャプラン出版/ティム・レイターマン&ジョン・ジェーコブス/1991)

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『自殺信仰 「人民寺院」の内幕とガイアナの大虐殺』(講談社/ロン・ジェイヴァーズ/1979)


『ガイアナ人民寺院の悲劇』(DVD/監督・ルネ・カルドナ・Jr/出演・スチュアート・ホイットマンほか/2003)
ゾディアック事件

ゾディアック事件 -------------------------------------------------------
1968年〜1969年まで米国サンフランシスコで「ゾデイアック」(Zodiac/「黄道十二宮」「星座」という意味)によって男女5人(警察が確認できた人数)が殺害された事件で、現在も犯人不明のまま未解決。

1968年12月20日、サンフランシスコ郊外で高校生のカップルが乗っていた車ごと全身に散弾銃を撃ち込まれた死体で発見された。

1969年7月5日、車に乗っていた19歳の男と22歳の女が体内に10発近い弾丸を撃ち込まれた姿で発見された。22歳の女は死亡したが、19歳の男はアゴと手足を打ち砕かれながらも奇跡的に助かった。この件について「ゾディアック」から直接、警察に電話があり、「通報」してきた。さらに「去年も連中を殺した」と言った。

奇跡的に助かった男は犯人の特徴を「短い茶髪、メガネをかけ、身長は170センチより高く、しっかりした体格で太っていた。年齢は30代後半のようだった」と言った。

8月1日、「タイムズ・ヘラルド社」とサンフランシスコの新聞社2社に手紙が送りつけられた。「ゾディアック」のマークである「丸の上に十字」がある。この手紙には犯人でなければ知るはずのない殺害の細部が記述されていた。数行のコードか暗号のようなものも書かれていて、3通の手紙の暗号を組み合わせると手紙の差出人が誰か分かるはずだとあった。さらに、手紙を公開しないと10人以上は殺すと脅迫していた。男の手紙は各紙で公開された。解読された暗号は「人を殺すのが愉快でたまらない/あの世の奴隷を集めている/死んだ奴らはあの世で私の奴隷になるのだ」といった内容だった。

9月27日、警察に「ゾデアック」から「通報」があった。ベリエッサ湖の岸辺でアベックが血まみれで倒れていた。今度の凶器はナイフだった。2人ともまだ生きていた。救急病院に運ばれたが、22歳の女は死亡、21歳の男は一命を取り止めた。

一命を取り止めた男は「ゾディアック」の容姿について黒覆面で服の胸には「丸の上に十字」の自分のマークが描かれていたという。顔は不明だが、身長と体格は7月の事件の犯人に酷似していた。

10月11日、サンフランシスコのノッブ・ヒルの頂上でタクシー運転手が後頭部を撃たれて死亡した。このときの銃弾は7月に殺害したときの銃から発射された銃弾であることが判明した。

翌日、サンフランシスコの「クロニクル」紙に「ゾディアック」から手紙が届く。血がべっとりとついたシャツの切れ端が同封されていた。

その後、「ゾディアック」からは頻繁に手紙が送られてきた。「あの世で仕える奴隷はどんどん増える/奴隷の生皮をはぐのだ/・・・」手紙のたびに「ゾディアック」が記す犠牲者数は増えていった。警察が把握している数よりも多く、他の未解決事件も「ゾディアック」の仕業なのかどうか分からず、困惑した。

相次ぐ手紙を新聞社はただ載せていただけではなく、質問に答えてほしいと要望を出していたが、これに対し、「ゾディアック」は「メルビン弁護士(ケネディ大統領暗殺犯とされたオズワルトを射殺したジャック・ルビーの弁護人として有名)とならテレビのトークショーで話す」と連絡があった。

10月末、「ゾディアック」から指定のあった日曜朝の2時間のトーク番組中に30回以上も「ゾディアック」から電話がかかってきた。逆探知を避けるため、ひと言しゃべるとすぐに切れた。名前を聞かれた「ゾディアック」は「サム」と答えた他は「殺してやる」「皆殺しだ」と語り、内容のあるものではなかった。しかも、このときの声が生存者によると「ゾディアック」の抑揚のない声と違うと判断された。

1970年10月、警察が過去の未解決事件の遺留品から「ゾディアック」に類似する「殺人告白メモ」を発見した。1966年、18歳の女学生が殺害された事件で筆跡鑑定の結果、「ゾディアック」と同一とされた。

最終的に警察が明確に判断を下した「ゾディアック」の殺人の犠牲者は6人とした。

だが、「ゾディアック」はその犠牲者の数を37人としている。手紙は1974年まで続いた。

1978年、長い沈黙を破って再び手紙が届いたが、以後、連絡はなく、逮捕に至っていない。


『ゾディアック』(ヴィレッジブックス/文庫/ロバート・グレイ・スミス/2007)

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『殺人鬼ゾディアック 犯罪史上最悪の猟奇事件、その隠された真実』(亜紀書房/ゲーリー・L・スチュアートほか/2015)


『ゾディアック 特別版』(DVD/監督・デビッド・フィンチャー/出演・ジェイク・ギレンホールほか/2009)

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『ゾディアック』(DVD/監督・アレクサンダー・バークレー/出演・ジャスティン・チャンバースほか/2007)

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『ゾディアックキラー』(DVD/監督・ウーリー・ロメル/出演・ウラジミール・マクシッチほか/2007)

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『ダーティハリー』(DVD/監督・ドン・シーゲル/出演・クリント・イーストウッドほか/2000)
チェイス・マンハッタン銀行襲撃事件

チェイス・マンハッタン銀行襲撃事件 --------------------------------------
1972年8月22日、米国ニューヨークのブルックリン区のチェイス・マンハッタン銀行で強盗事件が起きた。

犯人のジョン・ウォト・ヴィッツ(当時31歳)は元銀行の出納係でベトナム帰還兵でもあった。チャイス・マンハッタン銀行に勤める女性と結婚して2人の子どもをつくったが、1969年に離婚。その後、オカマのアロンと知り合い、1971年にお互いの親が列席する形式上の結婚式を挙げている。共犯のサル(18歳)は十代のとき、窃盗などで更生施設で過ごしてきた孤独な青年。囚人仲間から連夜強姦されたという。2人が銀行強盗を思いついたのは犯行日の午前中に『ゴットファーザー』を観たからという単純な理由だった。

下見もせず、いきなり銀行を襲撃。金庫から21万3000ドルを奪取。だが、その後、逃亡できず籠城事件に発展していった。ジョンとサルは警察と交渉し、チャーター機での国外脱出を企てる。人質とともにリムジンバスに乗り込み、空港へ向かった。そのとき、バスの運転手が2人に言った。「何か食料は持っていかなくていいんかい?」

緊張が緩んだその瞬間に38口径の弾丸がサルの胸を貫いた。運転手は扮装したFBI捜査官だった。サルは即死。ジョンは懲役20年の刑が確定した。


『狼たちの午後』(DVD/監督・シドニー・ルメット/アル・パチーノ&ジョン・カザールほか/2000)

原題はDOG DAY AFTERNOONで DOG DAYは「盛夏」という意味。「狼」はDOGからの連想で考え付いた?!

ルメット監督が犯人役にアル・パチーノを起用したのは実際の犯人のジョンに容姿が似ているからという理由。

また、ルメット監督は映画製作において徹底したリハーサルをした上で本番を撮影するスタイルをとっているが、この作品ではほとんどのシーンが出演者のアドリブによって撮影されたと言われている。

シドニー・ルメット監督の代表作として他には『十二人の怒れる男』『セルピコ』『オリエント急行殺人事件』などがある。
チェスター・ジレット

チェスター・ジレット -----------------------------------------------------
1906年7月、米国ニューヨーク州の観光地ビッグ・ムース湖から若い女性の死体が発見された。顔は打撲傷でかなり変形していたが、シャツ工場に勤める秘書のビリー・ブラウン(18歳)と判明した。彼女は妊娠していた。

ビリーは湖の近くのホテルに宿泊していた。一緒にチェック・インした男がいて名簿ではカール・グレアムとなっていた。ビリーが勤めていた工場が調べられ、カール・グレアムという男はいなかったが、目撃者の証言で人相が一致するチェスター・ジレット(当時22歳)という男がいた。ビリーの友人の間では2人は結婚を噂されていた。

尋問されたジレットは一緒に湖に行ったことを認めたが、彼女は自殺したと主張した。しばらくしてボートから落ちたのは事故だったと語り始めた。ジレットは逮捕されたが、最後まで自分が殺したとは認めなかった。ジレットの「自白」によると次のようになる。

--- ビリーの部屋にはよく遊びに行った。深い関係だったが、結婚は考えていなかった。ビリーから妊娠したことを告げられ、結婚を迫られた。ビリーは興奮し、ジレットの叔父でもある工場の社長に妊娠したことを明かすと脅された。ゆっくり話し合うため、休日に2人で湖に行った。別れ話を持ち出すとビリーは悲観し、ボートから湖に飛び込んだ。助けようとしたが、ボートが転覆し、ビリーは頭を強く打って溺死した。---

ジレットもビリーも貧しい家に育った。聞き込みでジレットが上流社会に憧れていたことが明らかになった。出世を夢見て働き、同期の中でも昇進していた。

裁判で「事故だとしても強いて助けなかったのは殺人と同じ」という理由で死刑判決となり、確定した。その約1年半後に電気椅子で処刑された。
『アメリカの悲劇〈上・下〉 』(新潮文庫/シオドア・ドライザー/1978)

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『セオドア・ドライザー論 アメリカと悲劇』(南雲堂/村山淳彦/1987)


『陽のあたる場所 スペシャル・コレクターズ・エディション』(DVD/監督・ジョージ・スティーブンス/出演・モンゴメリー・クリフト&エリザベス・テイラーほか/2010)

原作はセオドア・ドライザーの『アメリカの悲劇』。ドライザーはジレット事件の裁判を傍聴してこの小説を書いている。
チャールズ・スタークウェザー

チャールズ・スタークウェザー --------------------------------------------
米国ネブラスカ州に住むチャールズ・スタークウェザー(当時18歳)は160センチの小男で近眼、ガニ股、吃音。学校ではイジメの対象だったが、身体能力に優れていたため、暴力を働き、結果、高校を退学処分になった。その後、バイト先の近くの学校に通うキャリル・フュゲート(当時13歳)に出会うが、キャリルの両親が交際に反対した。さらにチャールズは父親の車でキャリルに運転を教えている最中に事故を起こしてしまい、実家を追い出された。給料のいいバイトに変えたが、相変わらず貧乏だった。

1957年11月30日、チャールズはガソリンスタンドでキャリルの誕生日プレゼントを買おうとしたが、金が足りず、店員に邪険に追い払われた。怒りが収まらず、後日、店員を射殺。

1958年1月21日、チャールズはキャリルの家を訪ね、母親と義理の父親をライフルで撃ち殺し、2歳の義妹を殴り殺した。遺体はニワトリ小屋に隠したまま、2人で6日間、キャリルの家に滞在。その間、訪ねてきた親戚には適当な理由を言って追い返した。だが、不審に思った祖母が警察に通報。やがて警察が駆けつけるが、2人の姿はなかった。

車で逃走するも立ち往生したため、近所の家で70歳の男を射殺。拳銃と馬などを奪い、車を調達するため16歳のカップルを撃ち、女性をレイプ。さらに、町で一番の金持ちの家に押し入り、夫婦とメイドを殺害。町を抜け出し、さらに車を変えようとして男を射殺。その後、キャリルがパトカーに向かって投降した。

計11人を殺害したことになる。

陪審員による裁判でチャールズは死刑が確定。留置場で「キャリルは2人殺した」というチャールズの落書きやチャールズが改めて16歳カップルの女性と金持ちの家のメイドはキャリルが殺したと証言したことにより、キャリルは終身刑が確定した。

1958年6月25日、チャールズは電気椅子によって処刑された。20歳だった。

1976年、キャリルは32歳で仮釈放された。


『ナチュラル・ボーン・キラーズ 特別版』(DVD/監督・オリバー・ストーン/出演・ウディ・ハレルソン&ジュリエット・ルイスほか/2011)

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『地獄の逃避行』(DVD/監督・テレンス・マリック/出演・マーテイン・シーン&シシー・スペイセクほか/2004)
チャールズ・マンソン

チャールズ・マンソン ---------------------------------------------------
本名・チャールズ・ミルズ・マンソン。1960年代末から1970年代の初めにかけて、米国カリフォルニア州にて「ファミリー(マンソン・ファミリー)」の名で知られる疑似生活共同体を率いて集団生活をしていた。まず、家出した少女を集めて「ファミリー」として集団生活を始め、LSDを用いて少女達を洗脳し男性を誘惑させ信者にさせた。『聖書』を独自に解釈し、女性は罪人であると信じ込んでいた。マンソンを象徴する有名な事件として、1969年8月9日、ポーランド人の映画監督のロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8ヶ月だった女優のシャロン・テート殺害事件やその翌日のスーパーマーケットチェーンを経営する資産家のラビアンカ夫妻殺害事件がある。マンソンは自ら殺害を実行せず、信者を教唆して殺害させた。1971年、カリフォルニア州の最高裁判所でマンソンは共謀罪で死刑が確定したが、1972年、死刑制度が一時的に廃止されたことで、マンソンは自動的に終身刑に減刑された。カリフォルニア州では最高刑として死刑が復興したが、刑務所に服役中のマンソンには何ら影響を及ぼすことはなかった。マンソン自身は音楽家であり、成功することはなかったが、いくつもの歌を作っている。事件後に『LIE The Love And Terror Cult』(↓)というアルバムが出る。



『LIE The Love And Terror Cult』(CD/1995)

マンソンは殺人事件が明るみに出る以前、ザ・ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンを始めとする著名な音楽家と友人関係にあった。マンソンによれば、ビートルズの楽曲『ヘルター・スケルター』は、マンソンの画策した同名の黙示、人種間の戦争(Race war)、殺人を引き起こすことを想定した曲であるという(Helter Skelter、原義は「螺旋状の滑り台」)。マンソンに関連するロックと大衆文化による悪名を得た当初からマンソンは狂気、暴力、そして恐怖の象徴となった。ガンズ・アンド・ローゼズ、マリリン・マンソンを含む歌手たちが数十年にわたってマンソンの歌をカバーしている。マリリン・マンソンのリードボーカリストのブライアン・ヒュー・ワーナーは、「マンソン」の名を「悪の象徴」として使用している。


『マンソン・ファミリー 悪魔に捧げたわたしの22カ月』(ハーパーコリンズ・ジャパン/文庫/ダイアンレイク他/2019)

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『ファミリー上 シャロン・テート殺人事件』(草思社文庫/エド・サンダース/2017)

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『ファミリー下 シャロン・テート殺人事件』(草思社文庫/エド・サンダース/2017)

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『コンプリート・チャールズ・マンソン チャールズ・マンソンとシャロン・テート殺人事件』(コアマガジン/柳下毅一郎&アイカワタケシ/1999)


『チャールズ・マンソン』(DVD/監督・ジム・バンベッバー/出演・マルセロ・ゲームズほか/2004)
テキサスタワー銃乱射事件

テキサスタワー銃乱射事件 ---------------------------------------------
チャールズ・ホイットマン(本名・チャールズ・ジョゼフ・ホイットマン/事件当時25歳)は優秀なエリート海兵隊員だった。1961年、入隊して2年目、チャールズは将来の幹部候補として米国テキサス大学に特待生として入学を許可され、1962年、21歳のとき、大学で出会ったキャシーと結婚した。だが、1963年になると学業不振で隊に呼び戻され、年末には兵長から兵士に格下げされてしまう。1964年、隊をやめて大学に復帰。性格は快活で誰にでも愛想のいい好青年と周りからの評判もいいが、海兵隊もやめ、学校の先生になった妻よりも稼げず、大学の成績もよくなかった。さらに両親が別居した。原因は父親の母や子どもへの暴力にあった。チャールズが海兵隊に入隊したのは父親の暴力から逃れるためだった。この頃から発作的な暴力や激しい頭痛に悩まされるようになり、妻に勧められてカウンセリングを受けたが、改善されることはなかった。

1966年7月31日夜、チャールズは手紙を書いた。殺人犯の妻や母親になるのは可哀想だからという理由で殺すこと。父親への憎しみ。そして精神的な病気があるのか検死解剖してほしいことを理路整然と書いた。この後、母親のアパートに出向いて後頭部を撃ち、寝ている妻の胸にナイフを突き立てて殺害した。

翌8月1日、何軒かの銃砲店でライフルや拳銃、約700発の銃弾を買い揃えた後、飲食物、双眼鏡、ラジオ、トイレットペーパーなどを車に積み込み、テキサス大に向かった。大学に着くと荷物を台車に乗せ、地上90メートルの時計台の展望台に午前11時45分に到着すると、受付の女性と居合わせた観光客を撃ち殺した。ライフルの銃口を外へと向け、17歳の新聞配達員、3人の学生が倒れ、妊娠8ヶ月の女学生の腹部に着弾。幸い、彼女は助かったが、胎児は死亡。彼女に駆け寄った男が死亡。数学講師や平和部隊訓練生が死亡。柱の陰で様子をうかがっていた警官も死亡。さらに、電気修理工、プールの監視員とそのガールフレンド、近所の公立校の先生に生徒が死亡。これで13人が殺害された。

午後1時24分、時計台に潜入した狙撃者によって挟み撃ちの格好でチャールズを射殺し惨劇は終わる。


『フォーリング・ダウン』(DVD/監督・ジョエル・シューマカー/主演・マイケル・ダグラス/2000)
テッド・バンディ

テッド・バンディ --------------------------------------------------------
テッド・バンディは通称で、本名・セオドア・ロバート・コーウェル。1946年11月24日、ルイーズ・コーウェルの長男として生まれた。ルイーズの実家は米国ペンシルベニア州南東部にあるフィラデルフィアだが、テッドは私生児として米国ヴァーモント州にある未婚の母のための施設で生まれた。テッドの父親は誰だか分かっていない。施設から帰ったテッドはルイーズの祖父母の養子としてコーウェル家に迎えられる。以後、母ルイーズとは「姉」として暮らすことになる。祖父(養父)はひどく短気な男で祖母を虐待し、家庭内の暴力沙汰もあった。また、極端な人種差別主義者でもあった。虐待された祖母はうつ病にかかり、病院に通っていたが、のちに外出恐怖症=広場恐怖症になり、家から外にまったく出られなくなってしまう。

1950年、テッドが4歳のとき、ルイーズはテッドを連れてワシントン州に移った。翌年、ルイーズは病院付きのコックのジョン・バンディと結婚。ここでテッドはバンディという姓になった。ルイーズは4人の子どもをもうけた。

テッドは中学・高校では目立たない生徒だったが、近所の女性の車に細工して困り果てているのを覗き込んで快感を感じていたという。さらに、万引きや自動車泥棒をするようになり、2〜3度補導されている。

ピュージット・サウンド大学、スタンフォード大学、ワシントン大学、ユタ大学で法学、心理学などを学び、ワシントン州共和党の活動家になったこともあった。知識も豊富でウィットに富んだ話術で女性たちをうっとりさせた。当然、女性関係も盛んだった。

1974年1月4日、ワシントン州シアトル郊外。ワシントン大学近くの学生下宿で女性が襲われた。頭蓋骨を粉砕されるほど強く殴られた上、鉄パイプを性器に突き立てられた無残な姿で発見された。命を取り止めることはできたが、脳をやられて、襲った男を思い出すこともきちんとしゃべることもできなくなっていた。テッドは黒く長い髪を真ん中から分けた女性が好みでこのときの女性の髪型もそうだった。以後、テッドはこのタイプの女性ばかりを狙うことになる。

1月31日、ワシントン大学の女子学生が下宿から消えた。ベッドのシーツには血痕があった。

3月12日、ワシントン州オリンピアのエバーグリーン州立カレッジの女子学生がコンサートに行く途中で消えた。

4月17日、エレンバーグのセントラル・ワシントン州立カレッジの女子学生が映画を観に行く途中で消えた。

5月6日、オレゴン州立大学の女子学生が夜遅く散歩に出かけて消えた。

6月1日、シアトル空港近くの午前2時頃、1人の男と一緒に出てそのまま消えた。

6月11日、ワシントン大学の女子学生がボーイフレンドと別れて寄宿舎に帰る途中で消えた。

7月14日、ワシントン州のサマミッシュ湖のほとりで腕を吊り包帯で固定していた男が現れ、車の上にボードをあげるのを手伝ってほしいと女性に近づき、車がある駐車場まで行くと、ボードは丘の上の家にあると言った。女性は再び生きて姿を現すことはなかった。その数時間後、湖畔のトイレに行ったまま消えた女性もいた。

9月7日、サマミッシュ湖から数マイルの丘の斜面の草の中で雷鳥ハンターにより2人の人間の骨が発見された。

1974年後半、テッドはソルトレイク・シティに移り、寮の管理人の職を得た。と同時にソルトレイク・シティ周辺や隣のコロラド州で謎の失踪・誘拐事件が多発し始める。その数11件。まもなくすると、山中で女性の遺体が次々と発見されていった。

1975年8月16日早朝、警官の不審尋問にかかり、車の中から手錠やアイスピック、パンティ・ストッキングで作ったマスクなどが見つかり、逮捕された。

やがて裁判が始まるが、テッドは冤罪を装い、弁護士をさておき、自己の弁護を展開した。

1977年6月7日、テッドはコロラド州の刑務所に収監されていたが、刑務所の図書館の窓から飛び降り脱走。だが、その8日後に捕まる。

その後の裁判では物的証拠や証人が発見され、少しずつ不利になっていった。

12月30日、2回目の脱獄。

1978年1月15日夜、フロリダ州立大学女子寮で太い棍棒で次々と女子大生を暴行していった。

やがて、再度、逮捕され、裁判で上訴がすべて棄却されるとテッドは数十件の殺人について自供を始めた。

1989年1月24日、フロリダにある電気椅子で死刑が執行された。42歳だった。


『テッド・バンディ 「アメリカの模範青年」の血塗られた闇(上)』(原書房/アン・ルール/1999)

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『テッド・バンディ 「アメリカの模範青年」の血塗られた闇(下)』(原書房/アン・ルール/1999)


『テッド・バンディ』(DVD/監督・マッシュー・ブライト/2003)
八仙飯店一家殺人事件

八仙飯店一家殺人事件 -------------------------------------------------
ウォン・チーハン(事件当時50歳)は10代の頃から悪いことばかりしてきた男だったが、1973年、香港に住む資産家の家に押し入り、老夫婦を風呂桶で溺死させて金を奪った。その後、ウォンは指を火で焼いて指紋を消し、当時まだポルトガル領だったマカオへ逃走。数年間、日雇いの仕事を転々とした後、中華料理店で働き始めた。この店の数メートル先に「八仙飯店」があった。ウォンと八仙飯店の店主は賭けマージャンをする仲だったが、八仙飯店の店主は負けても金を払わず、関係が悪化。路上でつかみ合いの喧嘩をするまでになった。

1984年8月のある日、ウォンが衝動的に八仙飯店へ押し入り、中華包丁で店主の首をはねて殺害。さらに、そこに居合わせた妻や子ども5人など計10人の首を切断。遺体は厨房で細かく切り刻み、胴体から取った人肉はスープと肉まんの中に。余った手足はビニール袋へ入れて海に投げ棄てた。

翌日、ウォンは地元の役所に出向いて八仙飯店の不動産を騙し取り、自分で店を経営し始めた。

1985年8月8日、マカオ北部の海岸で老人の手首や男女の足やカカトの一部が発見された。警察はサメの被害に遭ったものとして処理した。それから8ヶ月後に香港市警に一通の手紙が届いた。親戚の一家が行方不明になり、商売敵だった男が店を乗っ取っている、という内容で、手紙の差出人は八仙飯店の殺された店主の弟だった。サメの被害に遭ったとされた肉片を鑑識で調べたところ、行方不明の一家のものと断定し、ウォンを逮捕した。

警察の取り調べに対し、ウォンは一家が引っ越して行ったので店を譲り受けたと主張していたが、留置されている間、言動がおかしくなり始め、悲鳴をあげたり、糞尿をもらしたりするなどの奇行が見られるようになった。やがて病院のベッドの上で独り言で犯行を自供した。起訴されると缶ジュースのプルトップで手首を切って自殺した。


『八仙飯店之人肉饅頭』(DVD/監督・ハーマン・ヤウ/出演・アンソニー・ウォンほか/2004)

この作品には女性が生きたまま火に炙られるシーンや子どもの首を平気で切り落とす過激な描写があり、日本での劇場公開が差し止めになっている。
パメラ・スマート

パメラ・スマート --------------------------------------------------------
1967年、パメラ・スマートは米国フロリダの中流家庭に生まれた。その後、ニューハンプシャーに引っ越す。高校では目立ちがり屋の尻軽女として有名だった。18歳でグレッグと知り合い、大学卒業後の1989年に結婚した。夫は保険外交員になったが、パメラは結婚してもニュースキャスターになる夢をあきらめきれず、ローカルテレビ局でお天気キャスターになり、地元の教育委員会が主催するメディアスクールで講師になった。

結婚して半年後、グレッグが浮気したことを知り、プライドの高いパメラは自らも浮気した。相手はメディア・スクールの生徒のビリー(当時15歳)だった。自宅に夫がいないとき、あるいは学校や車の中でビリーを呼んでセックスした。パメラはコトが終わるとビリーにささやいた。「夫さえいなければ、いつまでもこうして一緒にいられる。夫を殺して」

1990年5月1日午後10時、メディア・スクールから帰宅したパメラがグレッグの遺体を発見する。家の中が荒らされていたため、最初は強盗犯と思われたが、ビリーが仲間とともに警察に出頭。グレッグ殺害を自白した。パメラは逮捕され、裁判で仮釈放なしの終身刑が確定。実行役のビリーは懲役40年の判決が確定したが、2015年に仮釈放される見込み。


『誘う女』(DVD/監督・ガス・ヴァン・サント/主演・ニコール・キッドマン/2003)

ゴールデングローブ賞主演女優賞をニコール・キッドマンが受賞。
華城(ファソン)連続殺人事件

華城(ファソン)連続殺人事件 --------------------------------------------
1986年〜1991年までに韓国のソウル市郊外の京畿道華城郡(現・華城市)周辺で10人の女性(14歳〜71歳)が殺害された事件。1991年4月3日に最後の事件が起きたが、それから15年後の2006年4月3日に公訴時効成立。

1986年9月、71歳の女性がレイプ後に絞殺された遺体で発見される。

10月、25歳の女性が刺殺死体で発見される。遺体は田んぼ脇の農水路の中で体を折り曲げた状態だった。膣内には精液があった。

12月、24歳の主婦と21歳の女性会社員の遺体が発見される。いずれも被害者の靴下などの着衣を口に押し込まれ、ストッキングやマフラーなどで絞殺されていた。

1987年1月、畑に積み上げていた稲束の中から18歳の女子高生の遺体が発見される。

その後、29歳の主婦。19歳の女性。54歳の女性。14歳の女子中学生。そして、1991年4月、69歳の主婦が最後の犠牲者だった。

事件はすべて半径7キロの狭い範囲で起きていた。

最初、たった5人の刑事が事件の担当だったが、最終的には130人体制の捜査本部が置かれた。だが、科学的捜査など考えられない時代で、採取された精子のDNAを鑑定するのに日本の科学警察研究所の協力が必要だった。

容疑者で38歳の統合失調症の男は暴力で自供に追い込まれ、電車に飛び込み自殺した。他にも16歳の学生が尋問中に死亡している。一方、犯人を捕まえられず、何ヶ月も家に帰れない捜査員の中には過労で倒れ、半身不随になった者もいた。


『華城(ファソン)事件は終わっていない 担当刑事が綴る「殺人の追憶」』(辰巳出版/ハ・スンギュン/2004)


『殺人の追憶』(DVD/監督・ポン・ジュノ/出演・ソン・ガンホ&キム・サンギョンほか/2003)
ブラック・ダリア事件

ブラック・ダリア事件 ----------------------------------------------------
1947年1月15日、米国ロサンゼルスで黒い服を好んだことから「ブラック・ダリア」の通称で知られていた女優志願の女性エリザベス・ショートが遺体で発見された。胴の部分で2つに切断された遺体は洗い清められていた。また、事件から1週間後に新聞社にブラック・ダリアの所持品が送りつけられてきたが、指紋は検出されなかった。

事件は注目を集め、ロス市警は100人の捜査員を動員し、犯人逮捕に躍起になった。捜査対象者は500人にものぼったが、警察は全員シロと判断した。その理由は誰一人として「エリザベスの秘密」を答えられなかったからだ。実はエリザベスは生まれつき性器の生育が不完全で性交ができない体だった。警察はこの事実をひた隠し、秘密の暴露が得られた相手が真犯人だとにらんでいた。エリザベスの美しさに惹かれて言い寄ったものの拒否されたので殺害したものと推理し、エリザベスと親しかった男性による怨恨の線を追っていた。

その中でも特に怪しいとされた人物は3人。事件の6日前、エリザベスと一緒にいるところを目撃されたセールスマンのロバート・マンリー。エリザベスが働いていたクラブのオーナーで新聞社に届いた郵便物の中に自身のアドレス帳が入っていたマーク・ヘンセン。そして、最も怪しい人物にジャック・アンダーソン・ウィルソンという男がいた。ジャックはエリザベスの同僚だったホステスが2年前に殺された事件でも疑われた人物で、エリザベス殺害に関しても、新聞社の取材に対し、自分の知り合いがエリザベスを殺したとして事件の詳細を記者に話していた。あくまでも伝聞だったが、ジャック本人の犯行に違いないと思った新聞社は警察に連絡。事情を聞くため、ジャックが宿泊していたホテルに捜査員が向かった矢先、建物から出火し、その中からジャックの焼死体が発見された。偶然の事故か殺されたのか。ブラック・ダリア事件は今も謎のままである。

関連サイト・・・
You are about to enter The Black Dahlia Web site.(英文)


『切断 ブラック・ダリア殺人事件の真実』(翔泳社/ジョン・ギルモア/1995)

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『ブラック・ダリア』(文春文庫/ジェイムズ・エルロイ/1994)

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『ブラック・ダリアの真実(上)』(早川文庫/スティーヴ・ボデル/2006)

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『ブラック・ダリアの真実(下)』(早川文庫/スティーヴ・ボデル/2006)


『ブラック・ダリア コレクターズ・エディション 2枚組』(DVD/監督・ブライアン・デ・パルマ/出演・ジョシュ・ハートネットほか/2007)
ブランドン・ティーナ惨殺事件

ブランドン・ティーナ惨殺事件 ---------------------------------------------
1972年12月、米国中西部のネブラスカ州リンカーン町でブランドン・ティーナは母1人姉1人の家庭に生まれた。本名はティーナ・ブランドンで女性だが、男性と思われるように後に姓と名を入れ替えて自称した。父親は交通事故で他界していた。女っぽい姉に比べてブランドンは男っぽいところがあり、服装も男らしい格好で女の子とデートをし、陸軍に男として入隊しようとしたこともあった。心配した母親がカウンセリングを受けさせると幼児期に男性の親戚に強姦されたことが発覚する。診断の結果は「性同一性障害」。その場で性転換手術を勧められた。

1993年、21歳になったブランドンは家を出て隣町のフォールズシティに移り住んだ。誰も知らない町で男として生きるためだった。最初にシングルマザーのリサ・ランバート(当時24歳)と知り合い、リサの仲間たちのジョン・ロッター(当時22歳)とトム・ニッセン(当時22歳)の男2人、マドンナ的存在のラナ(19歳)とも親しくなった。だが、ブランドンが十代の頃にやっていた小切手の偽造による逮捕で女であることがバレ、周りの態度が変わった。保釈金を払いに行ったラナが留置所の女性区にいるブランドンを見てショックを受けるが、「自分は性転換手術を待っている両性具有者だ」というブランドンの説明を受け入れる。だが、ジョンとトムは男友達として親しく付き合っていたのに裏切られた思いを強くした。

クリスマスの夜、ジョンとトムはブランドンを町はずれの精肉工場へ連れ込んで暴行を加えた挙句、肛門までレイプし、「黙っていれば友情は続く。だが、誰かに言えば永遠に話せなくしてやる」と脅した。

ブランドンは逃げるように帰り、ラナとともに病院に行き、警察に被害を訴えたが、対応した保安官はジョンとトムを逮捕せず、ブランドンを変態扱いした。屈辱的な質問を繰り返し、ジョンとトムに電話して警察にいることを話してしまう。ジョンとトムは怒りをエスカレートさせ、殺害を決意する。

12月31日、ジョンとトムは酒とクスリでハイになり、リサの家にいたブランドンを銃殺。さらに、リサとラナの姉のボーイフレンドまで殺してしまう。

翌日には逮捕され、すぐ裁判が始まった。

トムは司法取引で死刑にならないことを条件に3人を撃ったのはジョンだと証言した。これが決め手となり、ジョンは死刑。トムは終身刑となった。

ジョンの刑は執行されず、自分は車で待機していて現場に行っていないと主張している。

2007年9月、トムはそれまでの証言を撤回し、ジョンはブランドンを1回撃っただけと証言した。これを受けてジョンは再審を請求したが、却下された。

ブランドンの母親は娘が強姦の被害を訴えたとき、警察がジョンとトムを逮捕していれば殺人事件は起きなかったとして、郡と保安官を提訴。最終的に裁判所はブランドンの母親に100万ドルの慰謝料を支払う決定を下した。


『ボーイズ・ドント・クライ』(DVD/監督・キンバリー・ピアーズ/主演・ヒラリー・スワンク/2008)
ペーター・キュルテン

ペーター・キュルテン ----------------------------------------------------
「デュッセルドルフの吸血鬼」とも呼ばれた神出鬼没の連続殺人者。1883年、ドイツのケルンで13人兄弟の3男として生まれた。父親はアルコール中毒者の鋳型工で、泥酔しては妻に暴力をふるった。キュルテンはこれに耐えられず、8歳のときに家出、放浪し、窃盗によって逮捕され、家に戻されている。

1894年、一家はデュッセルドルフに移った。転校した小学校でも父の暴力の噂が立ち、友だちもできず、孤独で内気な少年だった。しかし、性的には早熟で少女への性的いたずらが目立ち、犬を殺したり、動物へのナイフによる虐待が始まっていた。小学校卒業後、工員になったが長続きせず、兵役も窃盗や脱走で軍事裁判になり懲役刑となった。この間、キュルテンは年上のマゾ未亡人と同棲し、サディズムの悦楽に目覚めた。

1897年、父親が自分の娘に対する強姦未遂事件などで逮捕され、服役。

1913年5月、忍び込んだ家で寝ていた9歳の少女の首を絞め、所持していたナイフで少女の首を4度刺して殺し、死姦を行い、逃亡した。この事件の逮捕を免れたキュルテンは窃盗罪で逮捕され、1921年に出所。

1923年、勤勉で温和な女性と結婚し、機械工として勤務し、妻は夜、料亭で働き、キュルテンは送り迎えし、このわずかな時間を利用して事件を起こしていた。

1929年2月から翌1930年3月までに起こり、被害者の多数は女性、特に少女でハサミや短刀でノドを切り裂かれ、死体は犯され、ずたずたに切断された。キュルテンは警察や新聞社に隠した死体を示す地図を入れた手紙を幾度か送っている。大衆は好奇心を煽られ、「犯人」に関する情報が警察に300以上も寄せられた。結局、キュルテンは仏心を起こし、殺さずに自宅から帰した女性の友人の密告により犯人と特定され、1930年5月13日、逮捕された。9件の殺人によって死刑、7件の殺人未遂罪で懲役15年の判決となった。このほか、強姦、放火、暴行などの余罪もあった。1931年7月、死刑執行。 


『フリッツ・ラング・コレクション M』(DVD/監督・フィリッツ・ラング・コレクション/主演・ピーター・ローレ/2007)

「M」の原題は「私たちの中に潜む殺人者」。結局、ナチスの圧力で公開禁止処分となる。
ベルナルド事件

ベルナルド事件 -------------------------------------------------------
ポール・ベルナルドは1964年にカナダのトロント市で生まれた。両親は装飾ビジネスで成功した金持ちで不自由することはなかった。だが、ポールが15歳になった頃、仕事のストレスで父親のケネスが母親に暴力をふるったり、ポールの妹に性的いたずらをするようになった。ポールは父親の姿を見て自分にも同じような衝動があることに気付く。

1987年5月、深夜にすれ違った女性の後をつけ、被害者の両親が住む家の前で押し倒しただけだったが、続く3年間でさらに17人の女性をレイプ。新聞は「スカボローのレイプ魔」としてセンセーショナルに書き立てた。

10月、高級ホテルのレストランで働くカーラ・ホモルカ(当時17歳)に初めて会ったその日のうちにプロポーズした。ちなみにポールは公認会計士の仕事に就いていた。

1989年ころ、カーラはポールが「スカボローのレイプ魔」だと知る。「さっき、レイプしてきた」と言うポールの話と翌朝のニュースが同じ事件内容を報じていた。だが、カーラの気持ちは揺るがなかった。

1990年12月、ポールはレイプの対象にカーラの実妹のタミー(15歳)を選んだ。カーラは最初、協力を拒んだが、ポールに嫌われたくない一心で妹の部屋への侵入を手伝った。睡眠剤で昏睡状態になったタミーをレイプした直後、タミーは自らの吐瀉物でノドを詰まらせて窒息死した。その後、病院に運ばれたが、事故として処理された。

その半年後、仕事帰りにポールは14歳の少女をアパートに連れ込んで2週間に渡って凌辱。その様子をカーラにビデオを撮影させた後で首を絞めて殺害。

1992年4月、町に出たポールとカーラは帰宅途中の中学生(15歳)をアパートに連れ込んだ。この場面を目撃した通行人がトロント市警に通報。すぐに警官が部屋へ入るが、少女は殺害された後だった。

裁判が始まるとカーラは夫に脅されたと主張したが、押収したビデオからは楽しみながらポールの犯行を手伝っていた事実が明らかになっり、懲役25年が確定。ポールはカナダでは最高刑にあたる終身刑が確定した。

2005年4月、カーラが刑期を終えて出所。ニュースでカーラを見てファンになったという男と再婚した。


『モンスター 少女監禁殺人』(DVD/監督・ジョエル・ベンダー/出演・ローラ・プリポンほか/2009)
ヘンリー・リー・ルーカス

ヘンリー・リー・ルーカス -------------------------------------------------
米国の連続殺人犯。ヘンリーは1936年8月23日、ヴァージニア州ブラッグスバーグで生まれた。ヘンリーの犯行は売春婦だった母親殺しから始まった。気の向くままヘンリーを殴る蹴るの暴行を繰り返し、客との行為を見せつけるなど虐待の限りをつくした母親を20歳のとき、刺殺。裁判で懲役40年の判決だったが、模範囚だったこともあって、10年後の1975年に財政難を理由に半ば強制的にヘンリーを出所させてしまう。

出所後、ヘンリーの供述によれば、アメリカ全土を人を殺しながら放浪。1978年からは境遇の似たオーティス・トゥールと組んで女性ヒッチハイカーや娼婦を主に、ゲイだったオーティスは男をターゲットに殺害を繰り返した。オーティスはヘンリーより先に逮捕された。

ヘンリーは全米30州で300人以上を殺害したと言われているが、微罪で逮捕されるとやがて自供を始めた。今までで175人殺した。自白が進むにつれ、360人、500人と膨れ上がっていった。ハッタリだと思われ、精神鑑定にかけられたが、「正常」と判断された。警察の調査が進むにつれ、未解決事件の200件以上がヘンリーの証言によって「解決」した。多くの人を殺害したため、自分以外の他人の殺害現場を見てもその殺害方法が即座に解ったという。事実、ヘンリーの再調査のお蔭で冤罪が晴れた男、自殺として処理されていた男が実は他殺だったと再判定された例もあった。

そんなヘンリーが実際に殺したと立証できたのは母親とテキサスの老婆、そして同棲していたオーティスの娘のベッキーの3人だけだった。

1996年、オーティスが肝硬変で死亡。

2001年3月、ヘンリーが心臓発作で死亡。

トマス・ハリスの作品『羊たちの沈黙』(1991年)に登場する連続殺人者のハンニバル・レクターのモデルの1人(もう1人はエド・ゲイン)になっている。『レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙』(1986年)は『羊たちの沈黙』の前作といえる作品で、レクター博士を逮捕したFBI捜査官が主人公。副題の「レクター博士の沈黙」は『羊たちの沈黙』がヒットしたので改めて付けられたもの。以前は『刑事グラハム/凍りついた欲望』というタイトルで発売された。


『死の腕(ハンド・オブ・デス) ヘンリー・リー・ルーカス物語』(中央アート出版社/マックス・コール/1991)


『ヘンリー/ある連続殺人鬼の記録』(DVD/監督・ジョン・マクノートン/出演・マイケル・ルーカーほか/2009)

第23回シッチェス国際映画祭(スペイン・バルセロナ/1990)グランプリ、批評家賞、監督賞受賞。

オポルト国際映画祭(ポルトガル/1991)グランプリ、最優秀脚本賞、主演男優賞(マイケル・ルーカー)、主演女優賞(トレーシー・アーノルド)受賞。

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『羊たちの沈黙』(DVD/監督・ジョナサン・デミ/出演・ジョディ・フォスター&アンソニー・ポプキンスほか/2004)

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『レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙』(DVD/監督・マイケル・マン/出演・ウィリアム・ピーターセンほか/2008)
ボニー&クライド

ボニー&クライド -------------------------------------------------------
ボニー・パーカーは1910年、米国テキサス州ロエナに生まれた。父親はレンガ職人だったが、ボニーが4歳のとき亡くなり、一家はダラス郊外に引っ越し、貧困生活を送るようになった。小柄でやせていたが、負けん気が異常に強く、目立ちがり屋だった。18歳のとき、ハイスクールの上級生と結婚するが、夫の飲酒と暴力が原因で離婚。その後、ダラスのカフェで働くようになり、たちまち看板娘になる。この頃、女優や歌手になることを夢見ていた。

クライド・バロウは1909年、ダラス郊外に生まれた。バロウ家は貧しい農家で父親は無学な小作人だった。クライドは学業を途中でやめた。映画が好きで特に伝説的なジェシー・ジェームスに憧れたという。10代後半の頃から自動車のタイヤなどを盗んで逮捕されたりした。20歳のとき、兄とともに金庫破りを行い、逮捕された。

クライドとボニーが出会うのはこの翌年の1930年だった。2人はひと目で恋におちた。決定的な出会いだった。だが、このとき、クライドは指名手配の身ですぐに逮捕された。いったんは脱獄に成功するが、すぐに逮捕され、14年の禁錮刑になった。ボニーは刑務所に通い続けた。やがて、バロウ家の努力でクライドは刑期2年で仮出所する。両親はクライドに地道に働くように懇願するが、クライドを雇ってくれる会社などなかった。クライドとボニーは窃盗を繰り返した。ボニーだけが逮捕され、3ヶ月ほど刑務所に入ったこともあった。

1932年、ボニーが出所すると2人でテキサスで自動車強盗、ガソリンスタンド荒らしなどで稼いだ。あるとき、警官の追跡にあって銃撃戦の上、保安官代理1人を射殺した。その後、テキサス州を本拠にオクラホマ州、ニューメキシコ州、ルイジアナ州で押し入って20〜50ドル奪うなどの悪行を重ねた。いくつかの州で指名手配され、新聞などに取り上げられて誇張して表現されるうちに大犯罪者に祭り上げられていった。

1934年5月、ボニーとクライドにとって運命の日がやってきた。映画『俺たちに明日はない』(監督・アーサー・ペン)の有名なラストシーンである。フォードV8と2人の身体を実に167発の弾丸が貫通し、ボニー23歳、クライド25歳は絶命した。


『俺たちに明日はない』(DVD/監督・アーサー・ペン/出演・ウォーレン・ベイティ&フェイ・ダナウェイほか/2010)

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『暗黒街の弾痕』(DVD/監督・フリッツ・ラング/出演・ヘンリーフォンダ&シルヴィア・シドニーほか/2008)
ボビー・ケント殺人事件

ボビー・ケント殺人事件  ------------------------------------------------
1993年、米国フロリダでいじめっ子が友人ら7人から殺害され、ワニの餌にされた事件が起きた。

貧しいながらも家族仲良く暮らすマーティ家の近所に裕福で頭のいいケント家が引っ越してきた。ともに小学校3年生の子どもがおり、2人はすぐに友達になったが、対等な関係ではなく、ケント家の息子ボビー(事件当時20歳)がマーティ(事件当時20歳)を暴力で押さえつけていた。厳格な父親に逆らえないボビーはそのストレスをマーティに対し暴力をふるうことで発散していた。成長するにつれ、ボビーのいじめは度を超していく。ボビーは器用に学校の勉強をこなしながら要領の悪いマーティを夜遊びに引きずり回し、高校中退に追い込んでしまう。さらに、プロのサーファーとして約束されていたマーティに体重が増えればやっていけなくなることを知って強引にプロテインを勧め、その結果、サーフィンをやめてしまう。その後、2人はバイト先でアリ(事件当時17歳)とリサ(事件当時18歳)に出会い、マーティとリサは恋仲になるが、リサはマーティとボビーの異常な関係に気付く。ついには、アリやリサもレイプしてしまう。その後、マーティはリサにボビーから虐待を受けていることを打ち明けると、リサはボビー殺害を口にした。最初は冗談のつもりだったが、リサからアリ、アリからボーイフレンドのドニー(事件当時18歳)、アリの友人のヘザー(事件当時18歳)、リサの従兄弟のデレク(事件当時19歳)、ギャングのカーフマン(事件当時20歳)へと話が伝わり、計7人がボビー殺害計画に参加、実行に移された。

1993年7月15日、アリとのセックスをエサにボビーをドライブに誘うと、クスリでラリったドニーがボビーの背中にナイフを刺し、マーティが腹や喉を切り付け、カーフマンがバッドで殴打。死体はワニの餌にしようと川に投げ棄てた。

控訴審でマーティに終身刑(第1審では死刑判決だった)、カーフマンにギャング団のリーダーとして盗品の売買に関わっていた事件の刑罰も加算されて終身刑、ドニーにコカイン所持などの刑罰も加算されて終身刑、リサに懲役22年(第1審では終身刑だった)、アリに懲役15年(第1審では懲役40年だった)、デレクに懲役11年、ヘザーに懲役7年の刑が下されて確定。


『BULLY / ブリー』(DVD/監督・ラリー・クラーク/出演・ブラッド・レンフロほか/2003)

BULLYは「いじめっ子」「いじめる」という意味。
マーカス兄弟

マーカス兄弟 ----------------------------------------------------------
1975年7月、米国ニューヨーク州マンハッタンの高級アパートの一室でふたつの半腐乱死体が発見された。それは兄弟で双子、ともに45歳。マーカス兄弟、スチュワート(兄)とシリル(弟)で、ともにニューヨークで高名な産婦人科の医師だった。死因は兄が薬物中毒死、弟は衰弱死。弟は死んだ兄と数日暮らし、それから死亡したとみられている。

調べた結果、幾つもの証言が得られ、2人の奇怪な人生が明らかになっていった。

2人は30歳まで一緒に暮らした。自分たちを2人で「1体」と考え、何をするにも一緒にした。医師になった初期は同じ診察・触診を2人が順番に行っていたという証言もあり、産婦人科という職業柄、性器を2人に交互に診察された患者の一部からクレームも出ていた。別の角度から診察するわけではなく、まったく同じことを繰り返していた。

マーカス兄弟はホモで薬物中毒者だった。兄は婚約したが、破棄。弟は結婚したが、離婚し、兄弟で医院を始めることになる。また、2人の死後、部屋からは催眠薬や覚せい剤などのビンが大量に発見されている。

「同一の遺伝子の構造をもつ双子は離れて暮らさないと精神的な健全は得られない」という医師の論文に従い、1年は別々に暮らしたが、それ以上は続かなかった。


『戦慄の絆』(早川文庫/バリ・ウッド/1989)


『戦慄の絆』(DVD/監督・デヴィッド・クローネンバーグ/ジェレミー・アイアンズ&ジュヌヴィエーヴ・ヴジョルドほか/2003)

1989年アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭グランプリほか、NY映画批評家賞など受賞。
柳永哲(ユ・ヨンチョル)

柳永哲(ユ・ヨンチョル) -------------------------------------------------
2004年7月18日、韓国史上最悪の殺人鬼が逮捕された。柳永哲(ユ・ヨンチョル/当時34歳)。2003年9月〜翌2004年7月までの10ヶ月の間に老人や風俗嬢を含む21人を殺害し、11体を密葬した容疑だった。マスコミからは「殺人機械」と呼ばれた。取り調べに対し、ヨンチョルは「100人は殺す予定だった。捕まるのが早すぎた」と言い、遺体の一部を食べていたことまで告白した。

ヨンチョルの生い立ちは悲惨だった。ソウルから車で4時間の貧しい田舎町に生まれた。幼児期に母親に見捨てられ、粗暴な父親に殴る蹴るの暴行を受けて育った。内気な性格から友人もできず、暴力におびえながら暮らす日々だった。10代の後半から盗みや詐欺をするようになり、以後、刑務所を出たり入ったりを繰り返した。

1991年、ヨンチョルは飲食店で知り合った女性と恋仲になり、子どもができた。ヨンチョルはヒマさえあれば子どもとじゃれ合ういい父親だった。

だが、平穏な生活は9年で終わる。

2000年夏、ヨンチョルは通りすがりの風俗嬢から自分の容姿をバカにされたと誤解し、反射的にその女性の顔面を変形するまで殴り倒し、刑務所に送られた。

妻は夫の意外な気性に怯え、子どもを連れて逃げた。

3年後、刑期を終えたヨンチョルは出所から2週間で最初の殺人を犯す。深夜にソウルに住む資産家夫婦の家に侵入し、ハンマーで被害者の全身を粉々に砕く残忍な手口だった。自分が不幸なのは金持ちがいるからだと思い込んだからだという。

続けて、その後の3ヶ月でさらに8人の老人を殺害。そこで殺害の標的を風俗嬢へ切り替える。

適当に決めた場所へデリヘル嬢を呼び出した後、自宅へ連れ込んで監禁。ハンマーで殺害した後、粉砕機でバラバラに解体して山へ埋めた。被害者の名前が別れた妻と同じだったときは尻や顔の肉を少しずつはぎ取って地獄の苦しみを与えながら殺害した。また、血液型が自分と同じO型の風俗嬢だったときは生きたまま腹を切り裂き、「健康のため」と称して肝臓や腎臓を貪り食った。

従業員から連絡がないのを不審に思ったデリヘル業者が顧客名簿から怪しい男の電話番号を特定したのがきっかけとなり、その夜のうちに警察に身柄を拘束された。

警察の尋問にヨンチョルはあっさり自白。「早く死刑にしろ」と主張し、裁判への出席を拒み続けた。

法廷では殺された娘の親に対し、「あんな仕事をしていたんだから殺されて当然だ」と言い放ち、最後に殺したデリヘル嬢の姉には「妹のせいで捕まった。本当なら次はお前を殺してやる予定だった」とその女性に対し指さして言った。傍聴席から非難の声があがると被告人席を破壊して飛びかかった。

第1審で20人を殺害した容疑だけが有罪に認められたが、検察は「里門洞(イムンドン)事件もユ被告による犯行」とし上訴した。「里門洞事件」は、2004年2月、ソウル東大門区(トンデムング)里門洞の路地で24歳の女性が殺害された事件でヨンチョルは警察で自身の犯行だと供述したが、裁判の過程でそれを翻意していた。

2006年6月9日、最高裁で死刑判決となり、確定した。第1審で死刑が確定したヨンチョルに対する検察の上訴を棄却した。


『チェイサー ディレクターズ・エディション』(DVD/監督・ナ・ホンジン/出演・キム・ユンソク&ハ・ジョンウほか/2009)

「チェイサー」CHASER
は「追撃者」「追う者」という意味。
韓国アカデミー賞6部門受賞。
リトビネンコ暗殺事件

リトビネンコ暗殺事件 ---------------------------------------------------
2006年11月23日、ロンドンでアレクサンドル・サーシャ・リトビネンコが放射性物質ポロニウム210を飲まされ、暗殺された事件。リトビネンコはイギリスに亡命中の元FSB(ロシア連邦保安庁)中佐で、チェチェン戦争の裏側にあるFSBとプーチン政権の腐敗を告発していた。 生前のリトビネンコへのインタビュー、 何者かによって銃殺されたジャーナリスト アンナ・ポリトコフスカヤ、プーチン大統領と決裂し、リトビネンコを支援した政商ベレゾフスキーをはじめとする 関係者の証言、膨大なニュース映像、そして、死後、遺されたリトビネンコの家族の姿・・・リトビネンコと親交のあったアンドレイ・ネクラーソフ監督によるこのドキュメンタリーはカンヌ国際映画祭において急遽上映され、論争を巻き起こした。 『リトビネンコ暗殺』(早川書房/アレックス・ゴールドファーブ&マリーナ・リトビネンコ/2002)

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『ロシア 闇の戦争 プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く』(光文社/アレクサンドル・リトヴィネンコ&ユーリー・フェリシチンスキー/2007)

本書の帯には「ロシアで発禁 リトヴィネンコはこの本を書いたために毒殺された!」と書かれてある。


『暗殺・リトビネンコ事件』(DVD/監督・アンドレイ・ネクラーソフ/ドキュメンタリー映画/2009)
『20世紀の冷酷犯罪史』

『20世紀の冷酷犯罪史』 ------------------------------------------------
20世紀で最も冷酷な犯罪者は誰か。カテゴリー別に検証する犯罪史に名を馳せる数々の残虐な事件に迫ったドキュメンタリー。ヒトラーをはじめアル・カポネ、 チャールズ・マンソンまで誰もが知ってるあの事件を追う!

『サイコ』

アドルフ・ヒットラー / ジョン・ウェイン・ゲイシー(殺人ピエロ) / リチャードスペック / リアルテキサスチェーンソー

『暗殺/未解決事件』

ラスプーチン / レーガン大統領とジョンレノン暗殺 / ジョン・F・ケネディ暗殺 / キング牧師 / リンドバーグの赤ちゃん誘拐 / ブラックダリア / サムシェパード事件

『犯罪組織/泥棒』

アル・カポネ / アルカトラズからの脱出 / シンジゲート / ラッキー・ルチアーノ / ジョン・ゴッティー / バグジー・シーゲル / ボニー&クライド / ジョンディリンジャー / ブッチ・キャサディーとサンダンスキッド

『冷血殺人/狂気の裏側』

O・J・シンプソン事件 / チャールズ・マンソン / ヒルサイド・ストラングラー / コピーキャット / チャーリー・スタークウェザー / サムの息子 / ボストンストラングラー / レオポルドとローブ / テッドバンディ / オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件


『20世紀の冷酷犯罪史』(DVD/ディスク4枚組/2007)

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