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女性検事第1号子息の弟殺し事件

1964年(昭和39年)7月15日朝、東京都三鷹市下連雀の東京経済大学教授(専攻は哲学・論理学)の上島実(仮名/当時53歳)の自宅の部屋で、慶應志木高校1年生の上島和樹(仮名/16歳)が血まみれで殺されているのを母親の恭子(仮名/当時49歳)が発見した。

和樹は頭部を厚刃の刃物で20数ヶ所メッタ打ちにされていた。警察は上島宅の井戸から凶器のナタを発見したが、そのナタは同じ慶應志木高校3年生で和樹の兄の弘樹(仮名/当時18歳)の登山用のものだった。

兄の弘樹は隣の部屋で寝ていたが、気付かなかったと言っていた。だが、事件当日、捜査本部から自宅に戻ると、そのまま姿を消した。2日後の夜、パトロール中の警官に発見され、やがて犯行を自供した。

父親が大学教授で兄弟が慶應志木高校生、さらに母親が女性検事第一号ということで、事件は世間の注目を浴びた。当時、母親の恭子は東京地裁に勤務し、主に少年事件を扱っていた。

犯行の原因は2人の所属していた少年野球チームの分裂にあった。当時、兄弟はそろって野球に熱中、地元で「慶應フライヤーズ」というチームをつくり、兄の弘樹が監督を務めていたが、自分勝手な監督のやり方に弟の和樹が反発し、仲間とともにチームを脱退し、新しいチームをつくってしまった。これをきっかけとして元々、仲が悪かったが、他の仲間たちの前でも取っ組み合いのケンカをするようになった。

母親の恭子は愛媛県松山市出身で、九州大学法文学部を卒業後、憲法改正による女性採用試験を受けて、司法修習生を経て、1949年(昭和24年)、日本初の女性検事になった。東京地検、千葉地検を経て、東京地裁の公判検事として活躍していたが、事件直後に検事を辞職した。その後、当時、婦人運動の先輩だった市川房枝が恭子のもとを訪れ、市川の勧めでその後、弁護士になった。父親も大学へ辞意を表明したが、結局、辞めずに現職にとどまった。

公判検事・・・検事は一般には捜査検事と公判検事に分かれているが、公判検事は先のスケジュールが立てやすいので比率としては女性の方が多いらしいという話を聞いたことがある。

恭子の自著に『愛は法をこえて−婦人検事の手帖』(東西文明社/1952)があり、「スイート・ホーム」と題した章の中で、仲のよい息子兄弟や家族のエピソードを紹介しながら、進歩的でありながら愛情に満ちた理想的な家族であるといったことが書かれているという。

だが、事件後、両親と子どもたちにほとんど交流がなく、食事もめったに一緒に食べたことがないことが分かった。父親は自宅にいても書斎に引きこもり、母親は仕事を抱えたまま夜遅く帰宅する毎日で、両親は事件が発覚するまで兄弟の仲が悪いことに気付かなかった。

また、進路に関しても兄の弘樹と両親との間でもめたことがあり、弘樹は獣医学校へ進学したがっていたが、父親は慶應大学経済学部への進学を望んでおり、それが原因で弘樹は勉学に身が入らず1年留年してしまった。

事件後、兄の弘樹は東京地検八王子支部に殺人容疑で身柄を送検された。弁護人には母親の恭子の司法修習生時代の教官や同僚の弁護士が引き受けた。精神鑑定で「犯行時は心神耗弱状態にあった」とされたが、責任能力はあったと見なされ、1審では懲役4年以上6年以下の不定期刑という判決が下されたが、被告側が控訴。2審では「懲役3年・執行猶予5年」と減刑された。

裁判が行われている最中、兄の弘樹はある大学の農獣医学部に入学した。大学側は事件のことは知らされていなかったが、周囲からは「親は自分本位で他の学生への影響を考えていない」という厳しい批評も出た。

参考文献・・・
『新潮45』(2006年8月号)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)

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