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名古屋自転車通り魔殺傷事件

【 事件発生 】

2003年(平成15年)3月30日午後7時50分ころ、名古屋市北区東水切町4丁目で、看護師の菅谷悦子(22歳)と友人の佐藤昭子(仮名)が自転車で談笑しながら通りかかると、後ろから赤い自転車に乗り、眼鏡をかけ赤い服を着た中年の女が「すみません・・・西大曽根はどちらですか?」と訊いてきた。
耳慣れない地名に菅谷とその友人の2人は顔を見合わせた。すると、中年女は突然自転車から降り、前カゴのバッグから包丁を取り出して、いきなり菅谷の腹部を突き刺した。菅谷は激痛を感じながらも必死に走って逃げた。友人の佐藤は菅谷が刺されたのを目の当たりにして動転した。悲鳴を上げることもできず立ちすくんでしまった。中年女は今度は佐藤に刃を向けてきた。刺されると思った佐藤はとっさに自分の自転車を中年女に向けて倒し、逃げた。
振り返ると、中年女の足元に前カゴに入っていた佐藤の手提げカバンが投げ出されていた。中には7000円が入った財布や携帯電話が入っていた。佐藤は立ち止まって中年女を見ていた。中年女は佐藤を見据えたまま、包丁を振りかざし「来るな!」と言い放ち、佐藤の手提げカバンを拾うと、自転車にまたがり、走り去っていった。
そのころ、菅谷は現場から150メートルほど離れた実家に逃げて帰り、玄関先で倒れ込んだ。お腹を真っ赤に染め、うなり声を上げて、顔面は蒼白。傷口からは腸がはみ出ていた。すぐに救急車で国立名古屋病院に運ばれたが、刺し傷は深さ15センチに達しており、2日後の4月1日午後0時15分、多臓器不全で死亡した。
4月1日、菅谷が亡くなるのとほとんど同時刻の午後0時15分ころ、殺害現場から約3.5キロ離れた名古屋市千種区日進通1丁目の路上で、近くに住む遠藤美里(当時22歳)が、包丁を持った中年女に突然、襲われた。
遠藤は自分のシャネルのバッグを奪われそうになったので、路上で中年女ともみ合いになった。バッグには現金約4万円や携帯電話などが入っていた。そのとき、遠藤は左腕や左手を包丁で何度も切られ、バッグを奪われた。中年女はそばにあった赤い自転車にまたがり、走り去っていった。遠藤はすぐに救急車で病院に搬送されたが、全治1ヶ月の重傷を負った。
8月28日午前2時15分ころ、名古屋市守山区の住宅街の一画で、窃盗事件が発生したが、まもなく隣家からの110番通報により駆けつけた警官によって現行犯逮捕された。犯人は厚化粧でネグリジェ風のヒラヒラの白いワンピースにハイヒール姿の中年女だった。
そのころ、窃盗現場から30メートルほど離れた住宅でも騒動が起きていた。その家の庭には血痕のようなものが付着し、切り刻まれたリカちゃん人形が6、7体、腹から綿がはみ出たぬいぐるみが数体、赤いハイヒールやサンダル、クッション、シーツ、脱いだばかりの汚れた下着、使用済みの生理用品、内服薬、マニキュア、食べかけのパンなど大型のゴミ袋9個分のゴミが散乱していた。
その前日にも隣の空き地で首や胴体、頭髪などがバラバラになったバービー人形が30体ほど放置されていた。 窃盗現場から100メートルしか離れていない窃盗犯の中年女の家宅捜査を実施したところ、遠藤美里のシャネルのバッグや財布、血痕の付いた包丁、また大小の数多い人形が発見されたことで、近隣にバラバラの人形やゴミを棄てていたのもこの中年女の犯行と見ていた。
9月17日、遠藤美里に対する強盗殺人未遂容疑で中年女が再逮捕された。中年女は名古屋市守山区鳥羽見に住む無職で独身のK(当時38歳)だった。
Kは取り調べに対し、金目当ての犯行であったことを認めた。また、3月30日の事件で佐藤が所持していたキーホルダーなどもKの自宅から押収されたため、Kはこの件でも自供した。
10月17日、菅谷悦子に対する強盗殺人容疑でKが再逮捕された。Kの自宅は細い路地を入った長屋の一画で、Kの住居部分だけは白いペンキでおしゃれな門構えに改装されているが、建物自体は古く、風呂もない。Kは近所ではトラブルメーカーだったという。
Kは自分でも猫を飼っていたが、近所でも猫を飼っていた家に行って、「お宅の猫がウチの庭でオシッコしている。臭い!」と怒鳴り込んだり、隣家の子どもの声がうるさいと文句を言ったり、、、。また、Kは普段から派手な服装で目立っていたという。長い茶髪に白やピンクの裾の長いメルヘンチックな服。いつも午後2、3時にヒラヒラした服を着て赤い自転車に乗って出かけていた。後に「ひらひらさん」というニックネームで呼ばれるようになる。

【 犯行に至るまでの過程 】

1964年(昭和39年)11月5日、名古屋市中区でKは生まれた。父親は水道修理業を営み、母親と4歳年上の姉の4人家族。名古屋市東区の長屋の一画に住み、裕福とは言えなかった。母親は派手で見栄っ張り。家もよく空けていたという。父親はそんな母親に嫌気がさしたのか、娘のKが小さいころに家を出ていった。
小中学校ではKは不登校児だった。たまに登校したかと思ったら、フリフリのスカートにつば広の帽子という奇抜な格好で現われ、同級生を驚かせたりしたが、クラスの大半とは口も利かなかった。気性が激しく、目が合っただけで「何よ!」「見んなよ!」と怒鳴ったりした。勉強には無関心で、教師に叱られても反抗的な態度を示した。その反面、おしゃれには異常な関心を示して、服装だけでなく、当時から薄化粧をしていた。顔立ちは美人なので微笑むとキレイだった。
中学に入ると、Kは怒鳴るようなことはせず、逆にもの静かで清楚な感じだった。ファッションや化粧には一層磨きがかかり、「ピカピカに磨いた爪を授業中にじっと眺めていた」というクラスメイトの証言がある。中学生なのにハイヒールをはいて出かけることもあった。
中学卒業後、Kは進学も就職もせず、17歳のときからスナックやクラブでホステスのアルバイトを始めた。若いということもあって客には人気があった。明るい性格ではなかったが、調子が乗るとよくしゃべり、気に入った客には愛想が良かった。だが、世の中のニュースなど和世の知らない話題になると黙り込んだり、突然、怒り出すこともあった。
23歳ころからKはソープランドで働くようになったが、25歳くらいで辞めてからは無職だった。辞めた理由は店で働いていたときに知り合った自営業の妻子ある男性が毎月17万円の援助をするようになったからだった。この援助はKが逮捕されるまでの10年以上もの間、続くことになる。男性はKよりも20歳以上年上だった。それと実父からの毎月10万円の仕送りもあった。実父は妻子と別居後、仕事を辞め、岐阜県各務原市(かがみがはらし)で霊能師をしている。姓名判断がよく当ると評判で繁盛しているという。
1993年(平成5年)ころ、Kは自分が飼っていた愛犬の死にショックを受け、精神的に不安定になり、精神科を訪れ投薬治療を受けたが、効果がなく、抑うつ状態になった。
1999年(平成11年)、仕送りをしていた実父が入院した。Kは病院に見舞いに訪れていたが、退院後は毎月1回程度は、岐阜の実父を訪ね、寂しさをまぎらわせていた。ところが実父には愛人がおり、身の周りの世話などをしていた。Kは実父に充分に甘えられないのを愛人のせいにした。
2002年(平成14年)8月ころ、Kは実父の家に乗り込んで、愛人の衣装を焼き払ってしまった。実父は顔色を変えて怒った。そして、仕送り額を30万円に増やす代わりに、今後の一切の出入りを禁じられた。
さらに、Kの姉が夫とケンカして家を出て、一時、K宅でKと一緒に住んでいたことがあった。Kは姉のため借家を手配したり、姉の夫に連絡して仲直りするよう説得したこともあった。結局、姉は1ヶ月ほどで夫の元へ戻った。その後、Kは姉夫婦宅に相手の都合も気にせず一日に何度も電話するようになった。これには姉夫婦もうんざりした。
Kは何気なく入った本屋で、死体や解剖についての本を見つけ、これらを読んだことをきっかけに殺人や死体について興味を抱くようになった。死体などの画像が収録されたビデオを買い集め、繰り返し観て、次第に「殺人がしてみたい」「人を刺してみたい」という思いになっていった。妄想は自分が収集していた人形へと向けられていく、、、。
2003年(平成15年)3月ころ、Kは人を刺せば、自分のイライラした気持ちがスッキリするのではないかと思うようになった。だが、思いとどまり、代わりに万引きすることでウサを晴らしていた。
3月30日(犯行当日)午後1時ころ起床。用事を済ませ、再びベッドで仮眠するが、悶々とした思いに取りつかれる。「誰も自分の相手をしてくれない。どうして私だけがこんな目にあわなくてはならないのか、、、」
午後7時ころ、Kは刃渡り20・5センチの包丁をタオルに包み、変装用の眼鏡と一緒にトートバッグに入れ、赤いレインコートを着て、バッグを赤い自転車の前カゴに入れ、その自転車に乗って、名古屋市東区の大曽根方面に向かった。狙うのは幸せそうなお嬢さん風の若い女性、、、(その後の経過は【 事件発生 】参照)。
3月31日、Kはテレビニュースで菅谷が重体だということを知った。だが、包丁で刺したときの手応えをあまり感じず物足りなさを感じた。その手応えを味わいたいと思ったKは再び決行する。
4月1日(犯行当日)午前9時ころ起床。2日前に使った包丁を再び取り出して、タオルに包んでトートバッグに入れた。今度は眼鏡を使わず、代わりに化粧をして白のカーディガンを着て白のカチューシャをつけた。
午前10時ころ、Kはトートバッグを赤い自転車の前カゴに入れ、その自転車に乗って千種区方面に向かった。狙うのは現金をたくさん持っていそうな通行人、、、(その後の経過は【 事件発生 】参照)。
このときKは包丁が骨に当る確かな手応えを感じた。これにより、和世はイラ立ちがきれいに消えてしまったという。数日後、Kは通院先の病院に出かけ、医師に「イライラした気持ちがなくなった」と話した。
このままKが再び犯罪を行わなければ、一連の通り魔事件は迷宮入りになっていたかもしれない。だが、盗みや万引きの癖はおさまることはなかった。
8月27日昼ころ、Kは近所の家のそばを通りかかり、その家の物置きにある紙箱のようなものがあるのを見て、もしかしたら金目のものではないかと思った。Kは夜、そのことが気になって眠れず、起き上がり、赤い自転車に乗って、物置きに忍び込んだ、、、。
【 その後 】
2006年(平成18年)2月24日、名古屋地裁(伊藤新一郎裁判長)はKに対し、「人を刺すことでうっぷんを晴らそうという短絡的で身勝手な犯行。酌量の余地は全くない」として、求刑通り無期懲役を言い渡した。公判ではKの責任能力が争われたが、伊藤裁判長は「是非善悪を弁識する能力や行動を制御する能力があったと認めた精神鑑定は信用できる」とKの責任能力を認めた。その後、弁護側は控訴せず、刑が確定した。
参考文献・・・
『新潮45』(2004年5月号/2005年2月号/2005年3月号)

『毎日新聞』(2006年2月24日付)

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