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北海道男児行方不明事件

1998年(平成10年)11月15日、日高支庁静内(しずない)町山手町に住む無職で女性のK(当時43歳)が殺人の疑いで逮捕された。

その事件は14年前に発生し、約2ヶ月後の1999年(平成11年)1月10日で公訴時効を迎える事件であった。

現在は、死刑になる殺人などの公訴時効は2005年(平成17年)1月1日施行の改正刑事訴訟法により「15年」から「25年」に改正。さらに、2010年(平成22年)4月27日施行の改正刑事訴訟法により公訴時効が廃止されたため、公訴時効が完成することがなくなった。

Kは日高地方の海辺の町で生まれ、中学卒業後、集団就職で上京。間もなく北海道に戻り、登別温泉のホテルで働いていた。再び上京し水商売をし、26歳で結婚、1年ほどで離婚した。

1984年(昭和59年)、Kは長女(当時1歳)と札幌市豊平区内のアパートに住み、すすきのの高級クラブのホステスをしていた。1月10日、Kの自宅から約100メートル離れた福住1条1丁目の会社社長の城丸隆(当時54歳)の次男で小学4年生の秀徳君(当時9歳)が行方不明になった。

警察の捜査で、この日の午前9時35分ころに秀徳君が出掛けるとき、女の人から電話があったことや家を出た直後、秀徳君がKのアパートの階段を上がっていくのを近くの小学生が目撃していたことが分かった。それが最後の目撃情報だった。さらに、その夜、近所の人がKがアパートから大きなダンボール箱をソリで運び出し、車に載せるところを目撃している。

Kは警察から事情を訊かれ、秀徳君の訪問は認めたが、秀徳君とは付き合いはなく、秀徳君が近くの家と間違えたらしく、すぐに帰ったと答えた。それから間もなくして、Kはどこかに引っ越していった。

1986年(昭和61年)5月、Kは新十津川町の農業自営の和歌寿美雄(当時36歳)と結婚した。翌1987年(昭和62年)12月30日午前3時ころ、突然の火災で自宅が全焼し、Kと長女は逃げて無事だったが、夫の和歌が焼死した。和歌には1億9000万円の生命保険がかけられていたが、保険会社は出火原因に不審な点があるとして保険金の支払いを停止したままにした。翌1988年(昭和63年)6月、和歌の弟は焼け残った納屋の整理をしていて、妙なものを見つけた。ポリ袋に入れられた骨片だった。弟は不審に思って警察に届けた。検査の結果、火葬された子どもの人骨ということが分かった。その情報を受けた札幌豊平署はその骨が秀徳君のものである確率が高いと見て、同年8月に静内町に引っ越していたKから、数度に渡り事情を訊いた。だが、Kはそんな骨の存在は知らないと突っぱねた。

人骨の身元を特定できないのが捜査の最大の壁になっていたが、1998年(平成10年)に入り、今までより精度の高い「短鎖DNA鑑定」と呼ばれる最新技術を使って、秀徳君の両親の血液と人骨との鑑定を行い、人骨が秀徳君のものである可能性が極めて高いと判断した。警察は未成年者略取、死体損壊容疑なども検討したが、すでに時効になっており、殺人容疑のみで、同年11月15日、Kを逮捕したのである。

「血液の指紋」と言われるDNA鑑定は、1985年(昭和60年)に英国で開発された。血液や体液、髪の毛などから遺伝子の本体であるDNAを抽出して個人の身元を識別する方法である。しかし、DNAは時間の経過とともに破壊、細分化される。当時の鑑定法では完全に近いかたちでDNAが残っていることが必要で、比較的新しい血液などでなければ抽出できないという技術的限界があった。この北海道男児行方不明事件でも時間の経過がネックになった。道警は東大医学部に当時のDNA鑑定法で鑑定を委託、警察庁の科学警察研究所には歯型を送り顔写真と重ねて復元するスーパーインポーズ法による鑑定を委託するなどした。だが、「当時として考えられる身元識別の手は尽くしたが、鑑定の確度は公判に耐えうるようなものではなかった」という。それを解消した「短鎖DNA鑑定」は、従来の鑑定法に比べて抽出するDNAの構造が短く、より微量でも判定が可能で、遺骨など資料が相当古く、さらに焼かれるなどして、DNAの構造が著しく壊されている場合でも、かなり高い確度で身元を識別できるようになったという。従来型では約260人に1人だった個人の識別精度は「短鎖DNA鑑定」を使えば、約6万6000人に1人に向上、一部は「天文学的人数に1人」になるとしている。警察庁は1996年(平成8年)度から全国の科学捜査研究所に導入を始め、北海道警では1998年(平成10年)2月に取り入れたばかりだった。

Kは逮捕されたものの、秀徳君との接点、殺害の動機や方法など、自供を待つ以外に知る方法は皆無だった。Kは友人知人たちからかなり気が強い女と見られていた。焼死した和歌からは結婚を条件に200万円を借り出し、結婚後も口実を設けては札幌に出掛け、何日も家に帰らない生活だったという。ホステス時代、借金のトラブルで取立屋に脅されたとき、自分の小指に包丁の刃を当て、金の代わりにこれをもっていけ、と凄んで追い返したという話もあるらしい。そんなKは取調べに対して完全黙秘を通し、調書がまったく取れなかった。だが、検察は1998年(平成10年)12月7日、殺人罪で起訴した。起訴状には動機は書かれておらず、殺害方法も「不詳」となっている。

2001年(平成13年)5月30日、札幌地裁はKに対し、無罪(求刑・無期懲役)を言い渡した。

無罪判決となったものの無実を認めたわけではなかった。

裁判長は「被告は重大な犯罪により秀徳君を死亡させた疑いが強い」としながらも「明確な動機がなく、殺意をもって死亡させたと認めることに合理的な疑いが残る」と、殺人罪を適用できないとした。

殺人罪を適用できないとすると、傷害致死罪ということになるが、Kの場合、傷害致死罪の公訴時効(7年)はすでに逮捕の7年10ヶ月前に成立していた。つまり、被害者の秀徳君が行方不明になってから7年以内の逮捕であったなら、状況証拠を積み重ねた結果、「傷害致死」で有罪になっていた可能性もあったということを意味していた。

6月13日、検察側は地裁判決を不服として控訴した。

2002年(平成14年)3月19日、札幌高裁でも1審同様、「殺意をもって死亡させたと認めることに合理的な疑いが残る」として控訴を棄却した。

3月28日、札幌高検は上告を断念した。これで事実上、Kの無罪が確定した。札幌高検の川野武昭次席検事は「判決に憲法違反や、重大な判例違反がなく上告理由がなかった」と述べた。

「検察統計年報」によると、2002年(平成14年)の統計で、この1年間で裁判によって確定した人数は92万4374人で、そのうち「無罪」が確定した人数は73人。ということは、73÷92万4374×100=0.0078792・・・%が「無罪率」となり、非常に低い。この数字からも分かる通り、一度、裁判にかけられたらほぼ「有罪」になると思って間違いない。逆に言えば、有罪判決になりそうもない事件は起訴しないとも言える。そういう意味でこの「北海道男児行方不明事件」は非常に珍しい事件と言える。

4月、秀徳君の遺族はKに対する損害賠償を求める民事訴訟を検討していたが、断念すると発表した。

5月1日までに、Kは1160万円の刑事補償を札幌地裁に請求した。刑事補償は身柄を拘束され、刑事裁判で無罪となった場合に支給される補償金である。代理人によると、Kは1998年(平成10年)11月に逮捕され、2001年(平成13年)5月に1審・札幌地裁で無罪判決を受けて釈放されたが、この間の928日について、刑事補償法4条に基づく上限の1日当たり1万2500円を請求した。このほかに裁判費用も申請した。

代理人・・・民事裁判では弁護人のことを「代理人」と呼ぶ。

刑事補償法4条・・・抑留又は拘禁による補償においては、前条及び次条第2項に規定する場合を除いては、その日数に応じて、一日千円以上一万二千五百円以下の割合による額の補償金を交付する。懲役、禁錮若しくは拘留の執行又は拘置による補償においても、同様である。

11月18日、札幌地裁は刑事補償を決定した。だが、金額は「無罪の元被告人に対する配慮」で公表されなかった。

12月30日、15年前の12月30日に発生したKの自宅火災で夫の和歌寿美雄が焼死体で発見された事件では殺人と現住建造物等放火の疑いがもたれていたが、公訴時効となった。

ちなみに、刑法108条(現住建造物等放火罪)には、「放火により、現に人が住居に使用しまたは人がいる建造物、汽車、電車、船舶、鉱坑を焼損させた者は死刑または無期、あるいは5年以上の懲役に処する」と規定されており、刑法199条(殺人罪)での「人を殺した者は、死刑または無期、あるいは3年以上の懲役に処する」と比較して重い刑になっていたが、2005年(平成17年)1月1日施行の改正刑法により刑法199条は「3年以上」から「5年以上」に改正され、刑法108条の「現住建造物等放火罪」と法定刑が同じになった。

参考文献・・・
『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)

『平成24年版 犯罪白書』(日経印刷/法務省法務総合研究所/2012)
『毎日新聞』(1998年11月15日付/1998年12月7日付/2001年5月30日付/2001年6月13日付/2002年3月28日付/2002年12月30日付/2010年4月27日付)
『産経新聞』(1998年11月23日付)
『読売新聞』(2002年3月19日付/2002年5月1日付/2002年11月19日付)

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