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人違いバラバラ殺人事件

1954年(昭和29年)9月5日夜、古屋栄雄(ふるやひでお/当時29歳)は、偶然見かけた「自分をふった女」を絞殺したあと、ジャックナイフとボンナイフ(軽便カミソリ)で死体をバラバラにして肥溜めに投げ棄てた。

ところが、事件から1日経ってから古屋は自分が殺した女が「自分をふった女」ではなく、木村江利子(仮名/19歳)という別人であることを新聞記事によって知るのである。

古屋は事件から74日目に逮捕された。警察の取り調べに対し、「あれは人違いだった」と供述するが、最初は誰も信じなかった。その後の調べで人違いであることが判明するが、古屋は殺人、死体損壊、死体遺棄で起訴された。

古屋栄雄は山梨県東山梨郡塩山(えんざん)町(現・塩山市)の中流の農家に生まれた。父親はトラック1台を持っていて運送業も兼ねていた。古屋は5歳のとき、脳炎に罹っている。7月の暑い日で、遊んでいて急に発熱した。熱は40度にも上り、入院させてからも1週間、意識の混濁が続き、高熱が10日間おさまらなかった。結局、50日間も入院した。

塩山小学校に入学。成績は「丙」が並び、卒業するときは285人中285番目だった。卒業後は畑仕事を手伝わず、模型飛行機を作ったり、鶏小屋や羊小屋を造るような手仕事、大工仕事を好んでいた。学校の紹介で近くの電気会社に勤めたこともあるが、父親が神経痛に罹ったため6ヶ月で辞めた。その後、畑仕事を手伝うようにはなったが、この頃、夜遊びも覚えた。

塩山町から甲府行きのバスに乗ってスリを働いたのもこの頃で、3、4回目に現行犯で逮捕された。1942年(昭和17年)9月、裁判で懲役8ヶ月・執行猶予2年の判決が下った。地元ではこの件があってからは「前科者」「ワル」として白い目で見られるようになった。だが、しばらくは町内の建具職の見習いとして住み込みで真面目に働いた。しかし、その職場から桐材を盗んでは実家に運んでいたことがバレて、執行猶予は取り消しとなり、懲役1年の実刑が言い渡されて、1944年(昭和19年)4月、北海道函館の少年院に収容された。

1945年(昭和20年)8月9日、少年院を退院。実家に戻ってからは畑仕事を手伝いながら、家具を造ったり、電気器具の卸しを始め、4、5年は温和しく暮らした。

1950年(昭和25年)春、家具製造や電気器具商売に対し税金が厳しくなり、古屋は廃業した。この頃から粗暴な性格になり、当時流行していたダンスホールが、塩山町にもできて、当時25歳の古屋はそこへ通い始めた。

ここで、近藤典子(仮名/当時18歳)という女性と知り合う。典子は女子工員で、細面の整った顔立ちで美人、同じ塩山町内に住む農家の娘であった。

古屋の容貌は誰の目からも女にモテるという感じではなく、逮捕の手がかりになったほど特徴的なヒョットコ顔をしていた。それまで、恋人と呼べる女どころか、親しくしてくれる女すらいなかった古屋にとって優しい態度で接してくれた典子との出会いは古屋を有頂天にさせるものだった。

古屋は無惨なバラバラ殺人事件を起こす人間でありながら、供述書の中のセックスに関する部分には、その動機は嫉妬からくる憎しみとは異なり、女体に対する興味が希薄なのではないかと思える記述が見られた。その供述書によると、古屋のヰタ・セクスアリスはだいたい次のようになる。

<少年院から帰って家具づくりもやめて遊んでいるときで19歳の頃だが、友人に誘われて遊郭に行き、怖くてブルブル震えた。女遊びは相手にもよる。相手が悪いときは映画にでも観に行ったほうがいいと思う。親切な女がいい。遊郭で遊んだのはごく短い期間で、泊まろうとしたこともあるが、女のアソコを見て気持ち悪くなり、途中で帰ってしまった。明るいところでするより暗いところがいいね。女と寝るときも女の身体を見て自然に興奮することはなく、愛想よくしてくれないと帰りたくなってしまう。パンスケみたいにされるとイヤになる。やはり、温和しいのがいいよ。典子もパンスケでないからつきあっていた。親切で優しいので好きになった。自分は女に好かれるほうだと思う。しかし、積極的にしかけてくる女は嫌いだ。典子とキスしたときも、愛想よくして適当に刺激してくれて興奮するときもあり、(セックスを)やってしまおうかと思ったこともあったが、正式に結婚してからと考えて我慢した。典子と知り合ってから4年間は一度も遊郭に遊びに行ったことはない。自分で(オナニーを)やったことも一度もない。女だって男だって(オナニーを)やることは聞いているが、どういうふうにしてやるのか分からぬから、やったことがない。・・・・・・女とつきあうとき、性欲は最も大きな要素だとは思いません。親切であればいい。>

古屋はダンスホールで仲良くなった典子と結婚したいと自分の両親を口説いて同じ塩山町にある近藤家を訪ねた。このとき、古屋の両親は畑仕事も手伝わず遊んでばかりいる息子の結婚に賛成する気になれなかったが、無理やり連れて行かされた。申し出を受けた近藤家では拒否はしなかったが、古屋が無職であることを理由に乗り気にはなれなかった。

1952年(昭和27年)の夏ころ、古屋は上京して芝田村町にある家具店に職人として住み込みで働いたが、仕事ぶりが怠惰なため1ヶ月たらずで解雇された。その後、墨田区吾妻(あづま)橋際の木賃宿や浅草山谷のドヤ街を泊まり歩いてゴム紐の行商をしたり、仲間の似顔絵を描いて金を稼いでいた。絵の評判はけしてうまい絵とは言えず、まあ、なんとなく変な味が感じられる絵といったところなのだという。9月に窃盗現行犯として逮捕されたが、起訴猶予となった。しかし、この件があってから近藤家では古屋を敬遠し、典子も結婚は嫌がっていた。

1953年(昭和28年)7月、古屋は再び、自分の両親を説得して近藤家を訪ねたが、典子の両親は今度ははっきりとした態度で断った。

「真面目な生活設計がないかぎり典子との結婚は無理だ」

だが、古屋は諦めなかった。幾度も近藤家を訪ねては結婚の約束をしたじゃないかと典子や両親を責めた。

典子は耐えられず埼玉県に住む姉のもとに逃げた。その後、東京都内の食堂に勤めたり、埼玉のホテルや旅館で仲居として働いたりして転々とした。だが、古屋のほうもすぐに姉の家を訪ねており、典子の義兄から「正業につけば典子の居場所を教える」と言われ、朝霞の映画館の職を逆に紹介された。ここでは看板描きやビラ貼りなど、古屋にとっても好きな仕事だったらしくなんとか住み込みで1年近く働くことができた。その間、義兄は古屋には妹の住所だけは教えなかった。

もしかしたら、典子は結婚した?! 他人と結婚したために義兄は住所を明かさなかったのではないのか・・・

1954年(昭和29年)9月1日、古屋は朝霞の映画館を辞め、典子探索の旅に出た。典子が住んでいるのは姉の家と同じ埼玉県内に違いないと思い、県内を歩き回った。

4日間、古屋は「流し」の絵描きをしながら典子を探し回った。子どもを描くときは30円、大人は50円で、1日にだいたい500円稼いだ。

9月5日午後1時半ころ、東上線新河岸駅のプラットホームにふらりと降りた。イモ畑やオカボの畑が広がる埼玉県入間郡高階村のあちこちを歩き回り、やがて日が暮れ、歩き疲れて駅前の食堂で飯を食い、そこを出て、駅周辺を徘徊した。

午後9時40分、古屋は暗がりの中で自分の目の前を通り過ぎる1人の女性を見た。顔が見えたわけではないが、白いブラウス、黒のスカート、白いズック靴、髪にパーマをかけた若い女性だった。髪型も歩き方も体つきも近藤典子にそっくりであった。

典子のやつ、こんなところに嫁にきていたのか。だから典子の姉たちも居所を教えられないはずだ。ちきしょう。こんな女、殺してしまえ!

古屋は150メートルほど離れてその女の後ろを尾けて行く。次第に真っ暗なオカボ畑の中の路に入り、女の後ろ2、3メートルまで近づき、さらに女に追いすがると、「呪ってやる。俺はお前を呪ってるんだ」とわめいて、両手で細い首を絞めつけた。女は抵抗もしなかった。古屋はその女をオカボ畑に引きずり込み、持っていた手拭いを首に巻きつけて完全に息の根を止めた。女を仰向けにして顔を見たが、古屋はその女が典子と別人だとは分からなかったという。女は一面識もない木村江利子(仮名/19歳)であった。

この後、古屋は女の死体をバラバラに解体するが、のちの精神鑑定で次のように供述している。

―― 両足をどうして切ったのか。

「死んでも動けないように・・・・・・典子のやつが・・・・・・約束を破ったやつが動けないように」

―― ひざから切るつもりはなかったのか。

「どこからでもいいと思った」

―― どのくらい時間がかかった。

「分かんないな」

実際には両方の下肢、左右の乳房、陰部などを切断したり削り取るのに夜を徹して作業している。

―― 血はつかなかったか。

「分かんないな」

―― どこから先に切ったか。

「分かんないな。そういうこと」

―― 腰から切り出したのだろう。どうしてか。

「分かんないな。何だか分かんない」

―― 関節をはずすまで時間がかかったか。

「そんなこと、分かんないな」

―― もう一度訊くが、どこから切り始めた。

「乳から」

―― 足はつけ根にそって切ったのか。

「ええ。そうです」

―― お尻の肉はどうやって切った。

「どちらも、うつ伏せにして切った」

―― 両腕はどうしてとらなかったのか。

「両足をとってから、いやになった」

―― 陰部に布を詰め込んだのを覚えているか。

「カマスに入れるとき詰めた。男と関係できないようにと思って」

―― 足の肉はなぜ削ったのか。

「カマスに入らないから。逃げないように」

―― 時間がかかったろう。

(ニヤニヤして答えない)

―― 陰部を持っていったのはどうしてか。

「うん。・・・・・・手にもっていた」

―― どうして持っていったのか。

「なんだか知らないけど、乳房も持っていった」

―― 足と乳房と、どちらを先にとったか。

「ミルクタンクのほうが早いですよ」

―― 足を切ったのはどうしてか。

「歩いちゃ困るからですよ」

―― 犯行後はどうした。

「神社の庭に肉をまいて、それからお宮の中に寝ましたよ。朝起きたらなんだかガヤガヤ騒いでましたよ。そして巡査か誰か入ってきたが、気がつかなかった。犬も来たんですよ。でも、吠えないんですよ。あれは、馬鹿ですよ」

精神鑑定の結果は道徳意識が低く、性格異常、軽い精神障害であることが認められたが、犯行時には重い意識の障害はなかったと判断された。

古屋は逮捕された後、自分が実行したバラバラ殺人の経過を「バラバラ殺人事件の図」と題して、7コマ漫画のような絵に仕立てて警察署に提出している。表紙には<H・H>のサイン。ドクロと骨、ジャックナイフ、ボンナイフ、切り取られた足などの絵を描き、そこに月光仮面に似たような格好のいい犯人(自分)を登場させて、片隅に大きいクエスチョン・マークを付け加え、周囲には花で縁取られている。「夜る私が江利子を追って行った図」「夜る私が江利子さんの首を絞める図」「夜る私が江利子さんを陸稲(おかぼ)畠からかつぎ上げた図」というように克明な絵が続く。

さらに、驚くことに刑が確定してからも暇があれば「バラバラの図」を描いて、それを残酷にも被害者である木村江利子の家に送りつけていた。1枚の画用紙いっぱいに乳房や足や陰部などをバラバラにしたものを細かく描いている。

古屋は事件当時29歳だったが、この「29」という数字を「ニク」と読ませた次のようなシャレた手紙を自宅に送った。(原文のまま/最後の文の「身体」の次に「を大切」という言葉が抜けるなどのミスが見られる)

<ワンダフル二九ストリー。皮二九な年。二九年に二九才の男が九月に一九娘の二九を切り二九まれた。二九才の男を同日頃に皮二九にも一九才の時知り合った女が尋ねた。皮二九にも会えない、不思議にも二九年十一月十九日逮捕、皮二九な事であろうという訳である。では皆様も身体にして下さい>

1955年(昭和30年)2月21日、浦和地裁(現・さいたま地裁)は古屋に対し、無期懲役を言い渡した。古屋は刑が重過ぎるとして控訴した。

8月20日、東京高裁での控訴審の最終尋問で、近藤典子が証人として出廷し、証言台に立って次のように言った。

「古屋は勝手に私のことを恋人だと思っているだけで、私にはまったく関係のないことです」

1メートルほど離れた被告席で聞いていた古屋は腹の中が煮えくり返るほどの怒りを覚えたのだろう、突然、証言台から退こうとしていた典子に駆け寄り、隠し持っていた竹べらで典子の胸を突き刺した。一瞬の出来事に法廷は大混乱になった。典子は右胸に深さ1センチ、全治2週間の傷で済んだが、この法廷傷害事件は司法部内に大きな衝撃を与え、裁判官の心証を悪くした。

凶器に使われた竹べらは拘置されていた房内にあった竹製のハエたたきの柄を折って作ったものだった。

8月30日、東京高裁は1審の無期懲役の判決を棄却し、死刑を言い渡した。

1957年(昭和32年)7月19日、最高裁は上告を棄却し、死刑が確定した。

1959年(昭和34年)5月27日、仙台拘置支所で死刑が執行された。34歳だった。

当時の東京拘置所には死刑を執行する設備がまだなく、関東矯正管区の拘置所の死刑囚は仙台にある宮城刑務所仙台拘置支所に送られ、死刑執行された。東京拘置所で死刑の執行が行なわれるのは1966年(昭和41年)からである。

古屋が獄中で描いた絵はそのときどきの心境を表した地獄絵図から山水花鳥にいたるまで百数十点に及んだ。

参考文献・・・
『殺人全書』(光文社/岩川隆/1988)

『バラバラ殺人の系譜』(青弓社/龍田恵子/1995)
『戦後死刑囚列伝』(宝島社/村野薫/2002)

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