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弘前武富士放火殺人事件

2001年(平成13年)5月8日午前10時40分すぎ、青森県浪岡町(現・青森市)のタクシー運転手の小林光弘(当時43歳)は、青森県弘前市田町にある雑居ビル駐車場に軽ワゴン「スバル・サンバー・ディアス・クラシック」を止めると、帽子と白マスク、軍手を着用し、右手にガソリンが入ったオイル缶、左手に古新聞の束を持って、そのビルに入り、階段を上がっていった。2階の踊り場に着くと、新聞の束を置いてガソリンを少し染み込ませ、3階にある消費者金融の武富士(現・日本保証/以下同)弘前支店へと向かった。

午前10時49分、小林は店内に入ると何も言わず、オイル缶を持ち上げてカウンター越しに中身のガソリン4リットルをぶちまけた。店内に臭いが充満し、女性店員が悲鳴を上げた。支店長を除いて8人の従業員は奥の管理室に逃げた。

「金を出せ! 出さねば、火をつけるぞ」

小林は水色のつなぎのポケットからライターと紙片を取り出しながら津軽弁で金を要求した。だが、支店長は慌てず、自分のデスクの通報ボタンを押し、「金は出せない」と言うと、立ち上がって110番通報した。小林は冷静な支店長の態度に激しく動揺し、耐え切れずに紙片に火をつけると金を出すように連呼した。これには支店長も驚き、「いま火をつけました。早くパトカーを寄越してください」と言った。さらに、他の従業員に消火器を準備するように叫んだ。

小林は金をあきらめ、火のついた紙片をカウンター内に投げ込み、階段を駆け下りた。さらに、2階の踊り場に置いた新聞の束にもライターで火をつけて逃げた。この間、わずか3分。従業員の1人が119番通報した。

出火直後、黒煙が広がり、店内は真っ暗になった。9人のうち4人は窓のかすかな明かりを頼りに脱出に成功したが、残りの5人(20〜46歳)は焼死した。

弘前署から武富士弘前支店まではわずか300メートルで、走っても3分かからない距離だったが、支店側は混乱していたのか、実際の住所が「田町5丁目」なのに「堅田5丁目」と告げたために、パトカーは一度、堅田に向かった後、田町に引き返している。さらに、この日は交番や駐在所の警察官が各署に集まる「招集日」であったため、緊急配備に時間がかかったことや小林がタクシー運転手の前にトラック運転手をしていたことから弘前市内の裏道などにも熟知していたことで、緊急配備をすり抜け、約18キロ離れた自宅へ帰ることができた。

小林はのちのテレビニュースで死傷者が多数出たことを知った。

<殺すつもりはなかったのに、、、>

同日午後2時15分ころ、小林は青森テレビに電話を入れ、次のようなことを言った。

「5人の犠牲者を出したのはオレだ。目的は金だったが、店側は冷静だった。オレがまいたのはガソリンで、火をつければどうなるか分かっていたはずだ。オレは自首しない」

5月11日、事件から3日後、従業員の証言を元にCGで作成した被疑者の似顔絵を公開したが、小林にそっくりであった。

小林は妻に次のようなことを言って納得させていた。

「オレは犯人と同じ車を持っているから怪しまれる。オレは犯人じゃないが、警察はしつこいから嫌だ。だから事件があった日はお前がパート先に乗って行ったことにしてくれ」

寄せられた情報から得られた被疑者の顔に似ているという280人の男と現場で目撃された深緑色の軽ワンボックスカーを対象に捜査が進められた。その結果、半月後には小林にたどりついた。小林は事件現場で目撃された車と同じような車を持っていることを尋ねられると、「一日中、家にいて車は妻がパート先に乗って行った」と言った。妻も小林に話を合わせてウソをつく。

事件から1ヶ月経過したが、捜査は進展しなかった。

6月9日、小林は捜査を撹乱させるために、次のようなウソだらけの内容の手紙を書いて青森テレビの建物前に封筒を置いた。

<犯行に車は使っていない><ガソリンは購入していない><私は40代ではない>

似顔絵に似ている280人の男のうち、問題の軽ワゴンを所持している人間は何人もいない。その中に小林がいる。小林にはアリバイがあったが、身内だけのアリバイで信憑性は薄かった。

2002年(平成14年)3月3日、捜査本部は早朝から小林に任意同行を求め、事情聴取した。小林に関する情報は揃っていた。別の消費者金融から借金があったこと。事件前日と当日が休みであったこと。事件前日に弘前市内のガソリンスタンドで草刈り機用のガソリンを購入していたこと、、、。

小林は容疑を否認し続けたが、捜査員は小林の自宅を家宅捜査し犯行時に着ていた水色のつなぎを押収して、これを着て武富士に行ったんだな、と詰め寄ると、翌4日、小林は犯行を認めた。動機は借金苦によるものだった(<>内)。

<8年ほど前から競輪にのめり込む。6年前に自宅を新築して約2000万円の住宅ローンを組む。3、4年前に計100万円を消費者金融から借りて、競輪に使い込む。2年前に東京でタクシー会社に就職するが、4ヶ月後、実父の病気のために帰郷。1年前から運送会社で働くが、運送会社と業務委託契約を結ぶ勤務形態だったため、約380万円のローンを組んでトラックを購入。その3ヶ月後、知人が自殺し、その借金250万円を名義の小林が肩代わり。これを実母や親戚に金を借りて返済。その後、消費者金融から計280万円を借りて競輪に使い込む。だが、その4ヶ月後に実父が死亡し、約800万円の保険金が入る。葬儀費用を払い、軽ワゴン車を購入して約300万円残るが、競輪に使い込む。消費者金融の限度額を超えていたので、軽ワゴン車を担保に自動車金融から60万円を借りる。その後、青森市のタクシー会社に就職。60万円の返済期日である5月1日になり、自動車金融の担当者から連休明けに店に来るように言われる。その7日後の5月8日に事件を起こす。>

2003年(平成15年)2月12日、青森地裁は小林光弘に「犯行の結果はあまりに重大で、被告の生命をもって償わせるのが相当」として、死刑を言い渡した。小林は公判で事実関係はほぼ認めたが、「人を殺すつもりはなかった」と殺意を否定していた。この日の判決で山内裁判長は、小林がガソリンスタンドで働いた経験があることなどから、「狭い店舗内に混合油をまいて点火すれば、瞬時のうちに爆発的な燃焼を起こし、人間が死亡する可能性が高いことを被告が認識していなかったとは到底考えられない」と指摘。その上で小林が、110番通報をされ、現金の要求も拒まれたことで「どうにでもなれ」という気持ちになって火を放ったとし、「確定的ではないが、未必的な殺意はあった」として、殺意を認定した。また、「犯行は思慮浅薄で、短絡的、勝手極まりなく、酌量の余地はみじんもない」と断じた。被告側は即日、控訴した。

2004年(平成16年)2月19日、仙台高裁が控訴を棄却。被告側が即日上告。

2007年(平成19年)3月27日、最高裁で上告棄却で死刑確定。

2008年(平成20年)11月20日、小林が「殺意はなかった」と主張して強盗致死傷罪の適用を求めて再審請求。

2011年(平成23年)6月20日、青森地裁が再審請求を棄却。小林は決定を不服として仙台高裁に即時抗告。

2012年(平成24年)9月10日、仙台高裁で再審請求を棄却した青森地裁の決定を支持し、小林の即時抗告を棄却。

12月26日、最高裁で請求を退けた仙台高裁決定に対する小林側の特別抗告を棄却。これで再審を認めない判断が確定した。

2013年(平成25年)2月、小林が2度目の再審請求。9月、再審請求を棄却。

9月10日、小林が3度目の再審請求。

2014年(平成26年)5月26日、青森地裁が小林の3度目の再審請求を棄却。

翌27日、小林が決定を不服として仙台高裁に即時抗告。

7月10日、仙台高裁で即時抗告を棄却。

7月12日、即時抗告を棄却した仙台高裁の決定を不服として最高裁に特別抗告。

8月6日、最高裁で特別抗告を棄却。

8月29日、仙台拘置所で小林光弘の死刑が執行された。56歳だった。

形式的な再審請求を繰り返す「執行逃れ」と言わざるを得ない今回のようなケースがあるという法務省幹部の指摘があり、執行順を巡る不公平感の軽減も課題になっている。

参考文献・・・
『こうして奴らはパクられた』(鉄人社/2003)
『毎日新聞』(2003年2月12日付/2004年2月19日付/2007年3月27日付/2011年5月10日付/2011年6月23日付/2012年9月12日付/2012年9月13日付/2012年9月28日付/2014年5月27日付/2014年8月29日付)
『デーリー東北新聞社』(2014年4月10日付)
『東奥日報社』(2014年7月15日付)

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