[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

日野OL不倫放火殺人事件

1966年(昭和41年)8月7日、Kは東京の下町で生まれた。父親は自宅を仕事場に印刷業を営んでいた。Kは小学校時代から成績は抜群で近所からは「Kちゃんはかわいくって、頭のいい子だね」とうらやましがられていた。また、踊りや習字、ピアノ、お茶とひと通りの習い事を身につけた。中学、高校は山脇学園に進んだ。成績は優秀で、ストレートで東京都立大学理学部数学科に合格した。

大学の同級生らによると、Kは頭脳明晰で多くの男子学生から注目され、性格は明るく、几帳面で、何事にもまじめに取り組むタイプだったという。数学科に在籍する女子学生はわずかで、それだけにKに交際を迫る男子学生はいたが、Kにその意志がなく、彼氏と呼べる男はいなかったらしい。

1989年(平成元年)、Kは日本電気(NEC)に入社した。技術系総合職としての採用だった。数ヶ月の研修を終え、8月下旬から東京都府中市にある工場にソフトウエア事業部ネットワーク開発部員として配属され、SE(システム・エンジニア)として働いた。そこで、同じ職場で働く杉田修(仮名)からコンピュータ技術のイロハを学んだ。7歳年上の杉田は身長が180センチに近く、「ハンサム」なスポーツマンで社内の女性の注目の的だった。

杉田は鹿児島県の農家で6人兄弟の末っ子として生まれた。地元の商業高校を卒業後、上京して日本電気ソフトウエアに就職、SEとして働いていた。

2人は最初は上司と部下の付き合いだったが、やがて「師匠」「キャッシー」と呼び合うようになり、次第に親密になっていき、デートを重ねる関係になった。

1990年(平成2年)秋、Kは自宅から会社のある日野市まで約2時間かかる遠距離通勤をしていたが、同じ日野市のマンションに引っ越した。引っ越した理由を両親には時間に余裕をもって仕事したいからと言っていたが、毎日でも杉田とデートしたかったというのが本当の理由だった。杉田は日野市の公団住宅に妻子とともに暮らしていた。妻の雅子(仮名)とは職場で知り合い、1987年(昭和62年)に結婚していた。

1991年(平成3年)4月、杉田の妻の雅子が流産した。杉田はショックを受け、Kがこれに同情する形で、2人の関係はますます親密になっていく。だが、Kは上司と部下の関係は決して崩すまいと思っていた。

8月6日、この日はKの25歳になる誕生日の前日で、多摩川で花火大会があった。その夜、2人で花火大会を見たあと、杉田はKに誕生日のプレゼントとしてラジカセとCDを贈り、Kのアパートで初めて関係した。

翌7日、2人は会社を休み、府中の郷土の森のプラネタリウムに行った。その後、多いときには1週間に数回はKのアパートに泊まることもあった。この頃から杉田は社内メールをひんぱんに使い、Kにメールを送り続けていた。全部で116通あり、Kはこれをプリントアウトしていた。画面上のメールの文字がはかなく消えてしまうのが淋しいような、もったいないような気になり、プリントアウトしていたとのちに供述している。

10月頃、杉田はKに対し、職場で一緒になった雅子のことを次のように言った。

「元々、今の女房みたいなタイプの女と結婚するつもりじゃなかった。たまたま入院していたときに毎日、見舞いに来てくれて、本当は東京の人と結婚したかったんだ」「妻と別れて男独りになったら子どもは育てることができないからね」「女房が死なないかなとか、交通事故に遭わないかなとか、すごく、思うんだ」

Kはこのとき、杉田との結婚を意識した。

12月24日(クリスマス・イヴ)、杉田は会社を終えると、シャンパンをもってKのアパートを訪ねた。このとき、杉田はこともなげに「8月が妻の出産の予定日なんですよ」と言った。それに対し、Kは「そう、、、おめでとうございます」と言うのが精一杯だった。

1992年(平成4年)4月、Kは妊娠した。だが、杉田に「時期が悪い、今回は堕ろしてくれ」と言われ、5月、Kは中絶した。その頃、杉田の妻の雅子が臨月に近かったのである。

Kは避妊についてのちに次のように供述している。

「奥さんには子どもができるように、私にはできないようにされるのが哀しくて、哀しくて、思い余って2回ほど拒否したことがありました。その後、ときどき、杉田は避妊をしなくなりました」

その後、杉田とKの2人は水子供養と称し、高尾山へ行ったり、鎌倉へ日帰り旅行、美ヶ原高原美術館へ一泊旅行、サマーランドで水泳などをして楽しんだ。杉田はKに、「離婚のことも考えている」「単なる浮気じゃない」などと話をしていた。

5月23日、Kの実家に近いグラウンドで会社のソフトボール大会があり、杉田はKを誘った。Kは車で実家に帰る予定があったので、グラウンドに寄った。そこで、杉田は長女を連れて大きな腹を抱えた妻の雅子をKに引き合わせた。Kは「初めまして、Kと申します」と挨拶はしたものの、そのあとは気持ちが動揺して、言葉にならなかった。

ほんの2週間前に中絶した私のことをこの男はどう考えているんだろうか。わざと大きな腹の奥さんを見せびらかして、無神経すぎる!

あまりの衝撃にKは足が震えた。実家に帰る途中、車を停め、何度か胃の中のものを吐いてしまった。

翌24日朝、杉田はKに、「妻を紹介したのはわざとやったことじゃないんだ」「すまない、許してくれ」と言って、平謝りした。それに対し、Kは「じゃあ、師匠、奥さんと別れてよ」と言った。杉田はしばらく考えて、「今、即答できない。少し考えさせてくれ」と言った。

7月、杉田の妻の雅子が2人目の子どもを産むために東北地方にある実家に帰った。

杉田は妻が里帰りしている1ヶ月半もの間、Kのアパートで夫婦同然の生活をした。

9月上旬、雅子が長男を出産、上京した。

11月、杉田はKに、「来年になったらキャッシーと一緒になるために“事”を起こすから、今は我慢して」「ずっと、今の会社に勤める気持ちはない。将来は何か他の仕事を始めたい。ゆくゆくはキャッシーのお父さんとお母さんみたいに、自分で仕事を始めて、キャッシーと一緒にやっていきたい」と言った。

この杉田の言葉を真に受け、Kは通関士の勉強をするなど将来に向けて準備した。

年が明け、1993年(平成5年)になった。だが、杉田の言う“事”は起きなかった。

2月末、杉田とKが伊豆高原に旅行に出かける。

3月、杉田はkに、「長女が幼稚園が休みに入る3月19日までには離婚の話を妻にするつもりだから」とか「4月5日には“決着”をつけるつもり」などと言っていた。

だが、やはりその日が過ぎても何も変わらなかった。

この頃、Kが2回目の妊娠をした。だが、Kは妊娠を理由に離婚話を積極的に進めさせることはしなかった。

4月9日、今度は自分の意志で中絶した。その頃にはようやく杉田との関係を終わりにさせる気持ちが強まっていたのである。

5月18日朝、杉田が出勤したあと、妻の雅子が友人のところに電話をしようと自宅電話のリダイヤルボタンを押した。するとなぜか、Kの電話につながり、「はい、Kです」という声が返ってきた。このとき、雅子は主人が浮気をしていると直感した。女の声にも覚えがあった。すぐに主人に電話し、「私に隠れて電話するような女の人がいるのか?」と詰め寄った。すると、杉田は素直に浮気を認めた。

杉田は会社から帰宅すると、Kと約2年間、不倫関係にあったこと、その間にKが2回、中絶していることまで白状した。雅子はその場で杉田に土下座させ、平手打ちを浴びせた。杉田は「気が済むまで殴ってくれ」と言うのがやっとだった。その後、杉田は雅子の前で、Kに電話をかけ、「キャッシーに嘘をついていた。実はまだ何も女房に話をしていないんだ」と言った。Kは電話をかけ直し、雅子と直接、話をした。雅子はヒステリックな調子でまくしたてた。

「今まで主人が話したことは全部嘘ですから、私は何も聞いていませんし、絶対に別れません。あなただって、家庭があるのを分かって付き合っているんでしょ。うちの主人が無理やりレイプしたとでも言うんですか・・・・・・」

Kには妻子ある男と不倫したのだから自分が悪いという気持ちがあった。だから、ひたすら、すみませんを繰り返すだけだった。その素直な応対に雅子は拍子抜けしてしまい、電話を勝手に切った。

だが、それだけでは終わらなかった。毎夜のように雅子はKに電話をかけ、罵詈雑言を浴びせた。Kは執拗な電話攻勢と自責の念で不眠症にかかり、食欲も失せて60キロあった体重が1週間から10日で40キロ台になった。

7月26日夜、雅子はKに電話をかけ、あざ笑うように言った。

「生きた子どもを平気でお腹から掻き出すような人なのよ、あなたは」

この傷痕をえぐるようなひと言がKの疲れきった神経に突き刺さり、怒りに火をつけた。不倫した自分を責めるのなら、黙って謝るしかないが、この言葉は中絶して死なせた子どもまでも侮辱している。せっかく身ごもった愛の結晶を2回も堕ろさなければならなかった女の悲しみや辛さを分かっているのか。杉田の2人の子どもを殺す決心をしたのはこのときであった。

のちに、雅子はこの発言についてはそんな言葉を言ったことがなく、Kの誤解であると供述している。

8月、Kは電話での応酬だけでなく、両親にも相談した上で、弁護士の元を訪れて訴訟の準備に入った。

雅子はKの父親に対し、「訴訟まで起こすことはないんじゃないか。全部もとにあった状態になるのが一番いいじゃないか。私も不実をした夫を許すように努力します」と言って説得した。

11月、Kは雅子の説得を無視し、家事調停に踏み切った。そして、調停中の12月、Kは最悪の暴挙に出てしまう。

12月14日朝、雅子(当時36歳)は日野市の高幡台団地36号棟401号室の自宅を出ると、いつものように出勤する夫の杉田(当時34歳)を近くの駅まで車で送っていった。物陰から夫婦の車を見送ったK(当時27歳)は、自分が運転してきた車を団地36号棟の近くに寄せて停めた。

車を降りると、ガソリンを入れたペットボトル5本が入っているビニール袋とガソリン入りのポリタンクを入れた紙袋をそれぞれ両手に抱えて、以前に渡されていた合鍵で開錠し、ハンカチで指紋がつかないようにドアノブを回してドアを開けた。Kは6畳の居間のこたつの周りにガソリンを撒いた上で、ライターでテーブルに残されていた杉田のタバコの吸い殻に火をつけて、こたつ付近に投げ込んだ。だが、火がつかなかった。仕方なく今度はテーブルの上にあったダイレクトメールに火をつけようとするが、火がつかなかった。で、ふと気付いたら右手に持ったハンカチに火がついていた。Kは慌ててライターとハンカチを取り落とした。そのとき、その前に火のついたタバコの吸い殻による引火によって爆燃現象が起こり、その爆風によってKが吹き飛ばされ、玄関を通り越して、402号室のドアに身体を打ちつけた。一瞬気を失ったものの、すぐに気を取り戻し、階段を駆け降りた。

家屋は全焼し、奥の4畳半の寝室で寝ていた長女の麻美ちゃん(6歳)が居間で両腕を焼失し頭蓋骨は熱で割れ、大脳を露出した姿で発見され、長男の祐太朗ちゃん(1歳)が寝室で両腕とひざから下を焼失した姿で発見された。

1994年(平成6年)2月6日午後、Kは父親(当時65歳)とともに警視庁日野署に出頭した。

1995年(平成7年)11月、杉田夫妻はKに対して、1億1300万円を求める民事訴訟を起こした。

雅子は「彼女に支払い能力があるとかないとか、金銭の問題じゃない。世間が彼女のことを可哀相な女と言っても、私だけは許さない」と言いきった。

1996年(平成8年)1月19日、東京地裁八王子支部はKに対し、無期懲役を言い渡した。

弁護士は判決に納得しなかった。原因は杉田の誘惑にあり、2度も堕胎させられ、妻の執拗な攻撃に疲労困憊したのだから、心神耗弱の状態の犯行で無期懲役は厳しすぎるとKに対して控訴を勧めた。

1月25日、弁護士の説得でKが控訴した。

6月、Kの両親は被災住民9世帯に200万円を支払って示談を成立させ、同様に団地を管理する住宅・都市整備公団とも示談にこぎつけた。

『現代』(講談社/9、10月号)に、「獄中手記 私が落ちた愛欲の地獄」というタイトルで、事件のことが掲載されたが、最後には、<タイトルは現代編集部がつけたもので、本文はKが書いたものではなく編集部がまとめたものです>という断り書きがある。

1997年(平成9年)7月、杉田夫妻との和解が成立した。すでに支払い済みの1500万円に加え、さらに3155万円の支払いの義務に応じることに同意した。

10月2日、東京高裁は1審の判決を支持し、控訴を棄却した。

2001年(平成13年)7月17日、最高裁は上告を棄却し、Kの無期懲役が確定した。

杉田は事件後、依願退職させられたが、妻と離婚することもなく、一男一女をもうけている。

この事件を元に製作された映画作品に、『性犯罪事件簿 ダブルフェイス』(監督&脚本・小松越雄/出演・丸純子&大浦龍宇一・・・/2001)がある。

参考文献・・・
『隣りの殺人者たち』(宝島社/1997)
『報道できない超異常殺人の真実』(竹書房文庫/犯罪心理追跡編/1997)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)

『その時、殺しの手が動く 引き寄せた炎、必然の9事件』(新潮文庫/「新潮45」編集部/2003)

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]