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「ひかりごけ」事件

太平洋戦争まっただ中の1943年(昭和18年)12月3日午後1時ころ、日本軍暁(あかつき)6193部隊所属の徴用船「第五清進丸」(約30トン)が、暁部隊の廻航命令により北海道根室港を発ったが、翌4日、知床(しれとこ)岬沖合で大シケに遭い、消息を絶った。この船はオホーツク海を北上し、宗谷岬を迂回して日本海を南下して小樽へ向かう予定であった。船には7人の乗組員がいた。

2ヵ月後の1944年(昭和19年)2月3日午後4時ころ、知床岬から16キロメートルほど離れた羅臼(らうす)郡羅臼村字ルシャ(現・羅臼町岬町)で、漁業を営む老人宅に、外套(がいとう)の上にムシロを巻きつけた異様な格好の男が倒れ込むように入ってきて、助けを求めた。

男は徴用船「第五清進丸」の船長の山田亀吉(仮名/当時29歳)であると名乗り、「船が暗礁に乗り上げて難破し、乗組員6人は全員死亡したが、自分だけが無人の番屋で生き延び、歩き詰めに歩いてここまでたどり着いた」と言った。

真冬の知床岬の厳しさを知っている老夫婦は驚愕した。漁師が漁に出られるのはせいぜい5月中旬から8月中旬までの3ヶ月間ほどで、この短い夏場に岬の浜辺に建てられた番屋に泊り込み、ウニやコンブを獲る。この時期以外は、知床の海は荒れ模様になり、冬場は突風と猛吹雪が半島を吹きさらすのである。

遭難した船からたとえ脱出、上陸できても、雪と氷の極寒の大地を生き抜くことはとうてい不可能と思われた。

徴用船の船長が生還した報せは老人から知円別(ちえんべつ)部落会長に伝えられた。さらに、翌4日、部落会長は船長が書いた書面を持って、さらに16キロメートル離れた羅臼村の標津(しべつ)警察署羅臼巡査部長派出所の巡査部長の元へ届けた。

「不死身の神兵」の帰還に村内は沸き返った。地元の村長以下が急いで救援隊を組織して救助に向かい、船で船長を羅臼村まで運んだ。船長は北海道日高浦河(うらかわ)町から迎えにきた暁部隊第3船舶団司令部傘下の6183部隊に引き渡され、小樽市の暁部隊第5船舶輸送司令部で遭難報告をしたのち、故郷の北海道岩内町に帰還した。

それから3ヶ月余り経った5月14日夕方、1年ぶりに知床半島の突端に近い「ペキンの鼻」へ出かけた漁師は、自分の番屋内に何者かが入り込んだ痕跡があるのを見て、ここで「奇蹟の神兵」がひと冬過ごしたに違いないと直感した。

近くの岩場を調べたところ、ロープで縛られたリンゴ箱が見つかり、その中に人骨と見られる骨やはぎとられた人間の表皮がぎっしり詰まっていた。頭部は割られ、中の脳漿は空っぽになっていた。それぞれの骨はナイフできれいに切り取られた跡がはっきり残っていた。肉を焼いて食べた跡も残っていた。

漁師は船長が何者かを殺して人肉を食べたという疑いを抱いた。

漁師からこの通報を受けた標津警察署は、生還した船長の仕業に違いないと確信し、釧路地裁検事局と緊急協議した結果、釧路地裁予審判事、検事局次席検事、北海道庁警察部刑事課警部補、標津警察署署長らが現場へ急いだ。

検証の結果、船長が番屋内で何者かを殺し、その屍を解体して食したのは明らかとして、船長が岩内町の自宅で殺人、死体損壊、死体遺棄の疑いで逮捕された。

奇蹟の神兵は、一転して、人肉を食って生き延びた恐るべき軍属と批判を浴びた。軍属とは、軍人ではなく軍に属するものを指す。

逮捕された船長は取り調べに対して、栄養失調で死亡した西川繁一(18歳)の肉を食したことはあっさり認めたものの、殺人はあくまで否定した。

難破した船から上陸できたのは船長と西川の2人だけだった。他の5人の乗組員は上陸する際に、高波にのまれたりしたため上陸できなかったようだが、猛吹雪であったため、船長はそれを確認することはできなかった。その後、2人は、雪に埋もれていた無人の番屋を発見した。番屋の中には当時、配給でしか手に入らなかったマッチ、それにストーブがあったため、暖をとることができた。翌日、2人はそこから4、50メートル離れた隣りの番屋へ移動し、そこで寝泊りしながら、浜に出てコンブやワカメを拾って味噌汁にして食べていた。だが、それだけでは体は衰弱していく一方であった。船長の記憶を頼りに推測すると、西川が餓死したのは、上陸してから45日目の1944年(昭和19年)1月18日ころと思われた。その2、3日後に船長は西川の肉をそいで煮たり焼いたりして食べ始めたという。食人行為は10日余り続いたが、毎日のように荒れていた天気が急に和らいできた1月31日か2月1日に番屋を脱出。その2、3日後の2月3日に現場から16キロメートル離れた老人宅へ助けを求めたのだった。その後、行方不明になった5人の乗組員のうち、3人の乗組員が上陸地点に近い陸地で遺体となって発見されたが、他の2人は発見されなかった。

検事のなぜ食べたのか、という訊問に対して船長は、「横になっているシゲの屍を見ているうちにどうしても我慢できなくなり、股のあたりを包丁でそいで味噌で煮て食べた」と述べ、そのときの味を訊かれて、「未だ経験したことのないほどおいしかった」と答えている。さらに、「脳みそを食べたときがもっとも精力がついたような気がした」と言った。

一方、この頃の南方戦線では極端な食糧危機に陥り、飢餓にさらされた日本兵が敵兵の屍や同僚の屍を食べて生きながらえた、というのは今や常識になっているが、あまりにも頻繁に起きたため、司令官はやむを得ず、次のような「緊急処断令」を出した。

「刑法には規定されていないが、なにびとといえども人肉をそれと知りながら食したる者は、最も人道に反した者として死刑に処す。但し、敵の人肉はその限りにあらず」

「食人行為」を「最も人道に反した行為」としながらも、「殺人行為」と同様に考え、その相手が敵兵である場合に限って許可したのである。

検事局は船長の供述以外に証拠を得ることができないままに、船長を死体損壊罪で起訴した。

裁判はいずれも非公開のまま審理を行なった。食人事件ということで人目をはばかったというのが真相のようだ。

同年7月中旬ごろ、釧路地裁で第1回公判が開かれたが、その記録が残っていないため、その内容は不明。不思議なことに、現場検証や精神鑑定を行った様子がない。

続いて、8月28日、第2回公判が開かれた。

検事は次のように述べた。

「被告人は帝国の軍属として軍務についていたが、いかに飢餓に迫られていたとはいえ、人肉を食してまで死の危難を逃れようとした行為は、人道上から見ても、社会的見地からしても、とうてい容認できるものではない。よって刑法190条の罰条を適用し、懲役2年を求刑する」

刑法190条・・・死体、遺骨、遺髪又は棺に収めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得したる者は3年以下の懲役に処する。

「食人」そのものを罰する法律が存在しないので、「死体を損壊した」行為に罰条を当てはめるにとどめたのだ。

これに対し、弁護人は「無罪」を主張した。

「被告人は孤立した番屋で救助のあてもないままに、飢餓に陥った挙句、その危難を避けようとしてやむなく食人に及んだものであり、刑法37条の『緊急避難』に当たり『自己の生命に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為』と認められる。つまり、避けようとした害(餓死)の程度を超えなかった場合に該当する。よって被告人は無罪である」

刑法37条・・・自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

同日、判決が下った。

「氷雪に閉ざされた僻地で食糧も食べ尽くし、飢餓に迫られ、生命の危難を避けようとして犯したことは明らかであるが、被告人の飢餓の状態が同胞の人肉を食わねばならないほど逼迫していたとは認めず、また、飢餓に迫られていたとはいえ人肉を食して難を免れたのは社会生活の文化秩序維持の精神に悖(もと)る」として、弁護側の『緊急避難』を退け、その一方で、「犯行時の被告人は心神耗弱状態にあった」として、刑法39条の2項、68条の3項の法令を適用し、懲役1年(未決勾留期間40日通算)の実刑判決を言い渡した。

刑法39条2項・・・心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

刑法68条3項・・・有期の懲役又は禁錮を減軽するときは、その長期及び短期の2分の1を減ずる。

「氷雪に閉ざされた僻地」と認めながら、「同胞の人肉を食わねばならないほど逼迫していたとは認めず」とした点や「社会生活の文化秩序維持の精神」を当てはめた点、精神鑑定などを行なっていないにもかかわらず、「心神耗弱」とした点などの疑問点があった。「心神喪失」とした場合、刑法39条により、無罪になるが、船長の置かれた状況を考えると、死と直面しながらも、食人した精神状態は明らかに錯乱状態に陥っていると思われるのだが。

刑法39条・・・心神喪失者の行為は、罰しない。

船長は網走刑務所で服役した。判決により、1945年(昭和20年)7月18日が出所予定日であったが、模範囚であったため、それよりも20日短い6月28日に仮出所した。

この事件を元に作家の武田泰淳(たいじゅん)が雑誌『新潮』(1954年3月号)に「ひかりごけ」というタイトルの小説を発表した。以来、この事件を「ひかりごけ」事件と呼ぶようになったが、羅臼のマッカウス洞窟に密生している「ひかりごけ」をそのままタイトルにしている。『ひかりごけ』 は紀行文と戯曲形式の2つの組合せから成っていて、紀行文は、作者が案内に立った地元の中学校長から戦時中、ペキン岬で起こった食人事件の話を聞く。後半は戯曲になっていて、第一幕「マッカウス洞窟」、第二幕「法廷の場」という構成になっており、人間の原罪を問い、人間が人間を裁く愚かしさを告発している。この小説は同じタイトルで映画化された・・・『ひかりごけ』(DVD/監督・熊井啓/主演・三國連太郎/2001)

参考文献など・・・
『裂けた岬 「ひかりごけ」事件の真相』(恒友出版/合田一道/1994)

『知床にいまも吹く風 「裂けた岬」と「ひかりごけ」の狭間』(恒友出版/合田一道/1994)

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